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婦長さん、私らに紫の珠数を 堀 喜身子

 私が毎月二十一日になると、きまって見る夢があります。それはいつも同じ夢で、私と一緒に戦地に行って、哀れな最期を遂げた二十二名の看護婦が、代る代る私の枕もとに現われて、「婦長さんのもっていらっしゃるその珠数を下さい」といって、さめざめと泣く夢なのです。
 私ばかりでなく、若い女性が、二十二名も一時に自殺するという世にも珍しい事件に遭遇したら、だれでも私のような夢を見て、うなされるに違いないと思います。
 私は小さい時から、病人を看護することが好きでした。女学校を卒業したら、必ず看護婦になろうと強く決心していました。幸い満州に姉が嫁いでいましたので、それを手づるに昭和十四年満州に渡り、満州赤十字看護婦養成所に入所、甲種看護婦三ヵ年間の課程を終了したのでした。その後郷里の樺太知取(シリトリ)へ帰って、そこで庁立病院の看護婦となり、乙女時代のあこがれの白衣をまとう身となりました。毎日を病める人たちの友となって、有意義に働いている私のもとへ、突如召集令状が届けられました。それは昭和十五年春のことでしたが、その前年の暮れに、私は結婚していましたので、この召集令を受けました時は、新婚の夢もまどかなころで、私はやるせない思いを抱いて、召集令状受領後一週間目に、これも病院勤務の医者の夫(堀正次氏)を残して、任地香港の第一救護所にむけて出発しました。
 この香港での勤務は、そう長い期間ではなく、間もなく上海に移り、それから虎林(コリン)牡丹江(ボタンコウ)の第十一部隊に四十八名の同僚と共に配属したのでした。

☆再び新妻の喜び☆

 私が出征して六ヵ月目、主人も召集されて北満に赴いたと、母からの便りがありましたが、主人からは私に便りもありません。こうしてだんだん夫との縁がうすれて行くのではないかと案じられてなりませんでした。だが、若い人妻のセンチメンタリズムも、戦線から送られて日増しにふえる傷病兵や、飛行機の爆音にかき消されて、ただひたすら、看護でくたくたになるまで働き続けるのでした。
 ところが、奇遇というものは矢張りあるもので、別離以来お互いの消息も知り合わなかった私たち夫婦が、それこそ、ばったり虎林の野戦病院の廊下で行き会ったのでした。夫と私のために宿舎が与えられ、新婚のまま別れ別れになった夫婦が、はしなくも戦地で、生活を続けることが出来ましたが、その喜びもつかの間、八月八日、ソ連が宣戦を布告したため、それからは俄然戦いが活発化しはじめましたので、爆撃の危険から、傷病兵を守るために、全部を虎林から長春に送ることになりました。
 ところが、そのうち七十数名の伝染病患者があって、これが相当重患なので、この人たちを連れて行くことは極めて困難でした。部長命令は、七十数名の重患は見捨てて、元気なものだけ南満に移るようにということです。しかしこのひん死の人たちを、どうして見捨てて行かれましょう。激論の末、結局軍医中尉の私の夫と他に軍医二人、兵隊五人の八名が残ることになり、丈夫な者だけが二日後長春へ出発することになりました。またしても私たち夫婦はここで別れねばならない運命に行き合ったのです。

☆夫と別れて長春へ☆

 涙こそ出しませんでしたが、万感胸に迫り、夫から贈られた、ただ一つのプレゼントの将校用水筒を肩に、勇ましく出発しました。虎林を出発した私たちは、牡丹江を過ぎ、ハルピンを通過、一週間目の十五日、ようやく長春に入り、突如として、ここで日本敗戦の報らせを聞いたのでした。
 ソ連兵に占領された死の街のような長春、日本の女の人たちは、これまでのように女の服装をしているわけにはいきません。すぐにあちこちで、男装の麗人があらわれ出しました。私たち女性は将校夫人や子供たちと一緒に合宿所に収容され、女ばかり七十六名の生活がはじまりました。身上調査がはじまると、私たちは看護婦であることが判ったものですから、三十四名の看護婦は長春第八病院に勤務せよとの命令を受けました。月給は一人二百円という条件です。私たちはこの収入を全部合わせて、私どもと一緒に収容されている将校家族を養わなければならないのです。
 終戦と同時に物価は上る一方で、生活は苦しくなるばかりです。九月、十月と冬が近づくにつれて、私たちは、苦しい抑留生活に、栄養も不足がち、体もやせて行きました。こうしてその年も暮れ、翌二十一年の春でした。突如、城子溝にあるソ連陸軍病院の第二赤軍救護所から三名の看護婦を応援によこせという命令をうけたのです。

☆不安の黒雲おおうソ連軍の命令書☆

 春とはいえ、満州の早春は、中々に寒く、肌をさす寒風に妙な不安が何となく感じられる季節です。忘れもしません。そうしたある朝、私はこの命令をうけて、ただ何となしに手がこきざみにふるえ、ふっと曇った胸に不安の黒雲が段々ひろがって行くのをどうしても消すことが出来ませんでした。
 私の感じた予感は的中しました。何故なら、この集団自殺の発端が、たった一枚の、この日の公文書からはじまったのですから、私は胸さわぎをしずめて、命令書を読んでみますと、応援は一ヵ月でよいこと、月給は三百円を支給するとあります。月給はともかくとして、この危険の感じられるところへ誰を送るかが問題です。引率者の平尾勉軍医と相談の上、仕事も出来、気も利く優秀な大島はなえさん、細井たか子さん、大塚てるさんの三名を、ようやくのことで選び出したのでした。

☆次々に白羽の矢☆

 不運な白羽の矢を立てられたこの三名は、それでも極めて元気に、一ヵ月のお別れを告げて出掛けて行きました。この三人が行ってから一週間、十日と、日数は経過して行きました。私どもも忙しいままに、彼女たちのことを忘れたわけではないのですが、ただ何となしに念頭からうすれ去って行きました。
 こうして一ヵ月以上も過ぎたある日、同じ城子溝の病院から、またまた三名の看護婦追加の申込みが来ましたので、荒川静子さん、三戸はるみさん、沢田八重さんの三名を第二回目の後続として送りました。もう間もなく第一回目の人たちは帰って来るだろうと、毎日心待ちにしていましたが、中々帰ってまいりません。変だなと誰も考えるのですが、適当な解決策などもなく困っていますうちに、二ヵ月は経ってしまいました。それでも誰一人帰ってまいりません。ところがそうこうするうち三回目の命令がまいりました。これには一同そのあつかましさにあきれて、一ヵ月という約束も守らないソ連側の図々しさに、こんなひどい人権じゅうりんはないなどと憤慨してはみますけれど、当時長春は戒厳令が布かれていましたから、占領軍の命令を拒否すれば、私ども看護婦ばかりでなく、長春にいる三百名の日本人は、みな殺しにされるかもしれないという恐怖がありました。
 そればかりでなく、病院間のとりきめでは、矢張り送らないわけにはいかないので、内々では三回きりにしておこうという申合わせをしながら、しぶしぶまた井出きみ子さん、沢本かなえさん、五戸さん(名失念)の三名を送ったのでした。四回目を申込んで来たら、どんなことがあっても拒否しようといっていますところへ、何という厚顔無恥、またしても第四回目を申込んで来ました。看護婦全員は二十五名はおりましたが、そのうち主任の服部きよさんは中風で寝たきりのため、一番年の若い大久保看護婦を附添いさせていましたし、婦長の私を除いた二十二名が実人員というわけなのでした。
 そういう状態ゆえ、つぎつぎ三名ずつ、もって行かれては、第八病院のほうも困るので、この四回目の申入れには、実に苦々しく思う外、どんな名案も出て来ません。しかし矢張り送らないわけにもいくまいというので、丁度その日は土曜日でしたが、八時ごろまで残って、三名の人選をして、それぞれに因果をふくめて月曜日午前中には城子溝へむけて発つようにと申し渡したのでした。忘れもしません、六月十九日の夜のことでした。この日が六月十九日であったことも、土曜日であったことも、私は七年を経過した今日でも、はっきり憶えています。というのは、一生忘れることのできない大事件が起きた、その当夜なのですから。

☆肩もあらわに哀れな姿で歸る☆

 こうして人選を終えて、憂鬱な心を抱いて、八時過ぎ病院を出ようとした時でした。何気なく入口の回転ドアを手で押して出ようとした時、なにかドサリと私の胸にたおれかかって来ました。余り不意のことと、考えごとをしていたために私はびっくりして危うく声をたてるところでしたが、よく見ると、一人の女なのです。なおよく見ると、その女は、日本の振袖をイヴニング・ドレスに更生した肩もあらわな洋服をまとい、足ははだしで、桃色の繻子の靴を片方だけしっかりと握りしめています。その靴には美しい水色の糸でシシュウがしてあって、エキゾティックな感じがするものなのでした。なおも私が落ちついてよく顔を見たら、何とこれが第一回に派遣した大島はなえ看護婦なのです。
 今も今とて、この人たちのことを考えながらいたことです。その人が突然目の前に倒れて来たのですから、私の胸は早鐘を打ったようにドキドキしてしまいました。私は思わず、その人の上にかがみこんで顔を近づけてみました。傷だらけの顔は蒼白で、体中いたるところに十一ヵ所も盲貫銃創と貫通銃創をうけています。何はともあれ大急ぎで助けを求めて病室にかつぎこんで手当をしましたが、もう脈搏にも結代があり、危険は刻々に迫っています。しかし聞くだけのことは聞かねばなりませんので、大島さんをゆすぶっては、起し起してきいてみますと、あわれなこの看護婦は、私の腕に抱かれながら、ほとんど意識を失いかけている臨終の眼を無理矢理にひきあけて、次のように物語るのでした。

☆看護ならぬ慰安婦☆

「私たちは、ソ連の病院に看護婦にたのまれて行ったはずですのに、あちらで看護婦の仕事をさせられているのではありません。行った日から病院の仕事は全然しないで、ソ連将校のなぐさみものにされているのです。最初行きました三人に、ほとんど毎晩三人も四人もの将校が代る代るやって来て、私たちをいい慰みものにするのです。否といえば、殺されてしまうのです。私も殺される位はかまいませんが、つぎつぎ同僚の人たちが、ここから応援を名目に、やって来るのを見て、何とかして知らせなければ、死んでも死に切れないと考えましたので、厳重な監視の眼を盗んで、脱走して来たのです」
 と、いうのでした。聞いている私をはじめ、居のこっていた病院の人たちも、その話にただ暗澹と息をのみ、はげしい憤りに身内がふるえて来るのを禁ずることが出来ません。脱走した時、うしろから射たれたのでしょう、十一発の銃創の外に、背中に鉄条網の下をくぐって来たかすり傷が十数本、血をふいて、みみずばれにはれています。どんな気持で鉄条網をくぐって脱走して来たか、どんなに危険を冒して来たか、その傷はなによりも雄弁に物語っているではありませんか。身を挺してもつぎの犠牲者を出したくないと、決死の覚悟でのがれて来たこの看護婦の話に、私の涙は噴水のようにあとからあとから噴き出して来ました。
 国が敗れたとしても、個人の尊厳は侵すことは出来ないのではないでしょうか。それをわずか七日間の参戦で勝ったというだけで、神聖な女性をおかすとは何事と、血の出るような叫びを可憐な二十二歳の生命が消えて行こうとする臨終の床に、魂をさく思いで叫んだのでした。
「婦長さん! もうあとから人を送ってはいけません。お願します」という言葉を最後に、その夜十時十五分、がっくりと息をひきとりました。泣いても泣いても涙がとまりませんでした。翌日曜日午後、満州のしきたりにならって、土葬をして、手あつくほうむりました。髪の毛と爪をお骨代りに箱におさめて、彼女にとってはなつかしい三階の看護婦室に安置し、花を供え、水を上げて、その夜は、一同おそくまで、たしか十二時ごろまでも思い出話に花をさかせたのでした。思い出はなつかしくも、たのしい内地の話ばかりでした。

☆あァ、二十二人の同僚が悲しい自殺☆

 あくる月曜日の二十一日は、前日来の疲れで、少々朝寝坊をしたので、少しおくれて病院の門をくぐり、医局に入ったところ、人事課長の張宇孝さんが盛んに怒っております。
「張さん、何を怒っているんですか」ときく私に、まるで言葉をぶっつけるように、「大体婦長のしつけがわるいんだよ。九時過ぎてるというのに、一人も看護婦が出て来ないなんてあるか、一体どうしたっていうんだ。患者はあの通り来てるじゃないか」と、それはそれは大変な剣幕です。
「ヘエー」と私は目を丸くしながら、そんなことは一度もなかったことだし、何か起ったなと直感的に胸さわぎがしたので、多少顔色を変えて、「見て来ます」と一言残して、すぐ三階にかけ上って行きました。息せき切ってドアをノックしてみましたが、不気味なくらい、ひっそりと静まり返って、コトリとの音もしません。気がせくままにハンドルを回して、中にとびこみました。すると、どうでしょう。入口の障子はピシッとしまっていますが、入口には一同の靴がきちんとそろえてあります。障子をあけると、大きな屏風がさかさまに立ててあります。中からプンと線香のにおいがしました。変だなと考えるひまもなく、部屋にかけ上ってみました。胸がドキドキしました。二十二人の看護婦がズラリと二列に並んでねむっています。しかも満赤看護婦の制服制帽姿で、めいめい胸のあたりで両手を合わせて合掌をしているではありませんか。脚は紐できちんとしばってあります。
 直感的な不安を感じ、私はあわてて、一人にさわってみました。もうつめたくなっているのでした。私は腰をぬかさんばかりに驚き、「アレッ! 死んでる、死んでる!」と言葉にはならない叫びをあげると、ガタガタふるえました。落ちつこうと思ってもどうしても落ちつけないのです。ふるえは益々ひどくなるばかり、口は完全にきけなくなってしまったのでした。腰をぬかしてあたりをみまわすと、しーんとした死の部屋で、どの顔も、どの顔も、極めて平和な、しかも美しい顔をして、制服制帽こそ長い間の従軍につぎが当り、色はあせてはいますが、折目も正しく、きちんと着ています。
 二列になった床の中央には、机をもち出し、その上に昨日各自の手でおとむらいをした大島はなえさんの遺髪の箱を飾り、お線香と水とが供えられてあります。私は何とかして早くこれを下に報らせなければと、気はあせるのですけれど、腰がぬけて、とても立ち上れません。そればかりでなく口がどういうものかアーンとあいただけでつぶることが出来ないのです。人間はひどくびっくりすると、顎が外れるのではないかと思いました。
 私は幸い卒倒だけはしなかったので立たぬ腰をそのまま四つんばいになり、部屋の外に出ました。四つんばいのまま階段を下りて、医局にころげこみました。まだ怒っている張さんの前に行って、三階の出来事をいおうとするのですが、声が出ません。口も利けぬまま、ただ天井を指すばかりでした。張さんもさすがに真蒼になった私の変な仕草にびっくりして、私の顔をまじまじとながめていましたが、いきなり私の肩をつかんで「婦長、どうしたのだ、しっかりしろ!」と私が発狂でもしたと考えたのか、にらみつけて大声を出しました。
 それから何分くらい経ったか、私には一時間も経ったように思います。「三階に来て下さい」ということだけは、ようやく言葉になったのでした。
 さすが男子の張さんも三階の部屋に入ると、とたんにガタガタふるえ出して、のどに唾液も出ないのか、しわがれたような声を出して「とにかくゲー・ぺー・ウーに知らせよう」と泡をくって中の情景を十分見もしないで、すぐさま部屋をとび出して電話の受話機をひっつかみました。

☆死におくれた私☆

 ゲー・ぺー・ウーからは、「その場所にさわってはいけない。そのままにしておけ、すぐ行くから」という返事。私たちも、今度は部屋に入らず、また線香も上げられないので外で待っていると、三十分もたたぬうちにジープで二人のソ連将校がやって来ました。現場を見るなり、すぐ係員をよこすからとジープにのって急いで帰ってしまいました。すぐさま今度は通訳一人をつれて二人の将校と二人の医者がやって来て、現場検証をしました。さて通訳をとおして、「婦長さん、あなたの知っていることを全部話して下さい」という申入れです。
 私は不幸にして宿舎が別であったため、この自殺行の列にはおくれましたが、この人たちの死んで行った気持は十分わかりすぎるくらいわかっていますから、たとい詳しい話をしたために投獄されようとも、いとうところではなく、最初からのいきさつを全部ぶちまけました。
「それよりも前に、あの机の上にある紙は遺書ですから、それを読ませて下さい」と私が申しますと、「そうだ、あれは遺書だろう。日本語は我々にわからないから読んで下さい」とのことに、私はふるえる手で開きました。
 遺 書
 二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ、婦長にもさぞかし御迷惑と深くおわび申上げます。私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死をえらびます。たとい生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止り、日本が再にこの地に還って来る時、御案内致します。その意味からも、私どものなきがらは土葬にして、ここの満州の土にして下さい。
 と、全部の名前がそれぞれの手で記されてありました。
 どんなにとめようと努力しても、あふれ落ちる涙をふきもあえず、おえつと共に私の語った話に、さすがこの人たちも驚いたらしく、顔色を変えてお互いにソ連語で話し合いながら、現場の写真をうつして帰って行きました。

☆死の抗議とソ連☆

 二十二名の若い日本の女性が死をもってした抗議は、ひどくソ連の人たちを驚かせたとみえ、その翌日、すぐさま、私ども日本人の宿舎にお布令がまわって来ました。それには「ソ連の命令だといって伝えられるもので、もしや納得のいかないことがあれば、二十四時間以内にゲー・ぺー・ウーに必ず問い合わせること」、それといま一つは「日本の女とソ連兵がジープあるいはその他の車に同乗してはいけない」という、かたいお達しでした。
 これで少しはよいにちがいないが、そのために、私どもは余りにも大きすぎる代償を支払ったわけで、その犠牲となった二十二名の人たちが実に可哀そうでなりません。終戦後外人の腕にぶら下って歩いている女を見るにつけても、純情そのものの、このような女性も、また同じ日本人だと考えると、全日本の女性にその死を物語りたい衝動にかられるのです。
 この人たちの自殺は薬物によるものでした。その死の様相と、態度から考えて、一番年かさで監督をしていた看護婦が、順々に青酸加里を与えて、その死を見とどけた上、最後にそれが息たえたと想像されます。というのは一人々々が、きちんとひざをひもでくくり、何の苦痛もなく、静かに眼をつぶって、合掌していますが、一番端でこと切れているのが、この井上鶴美さん(二六)監督看護婦なのです。井上さんは大変苦しそうな表情で、体全体にも苦もんのあとがありありと見えました。ひざもしばらず、そのままで手は両側に長くのばして、畳でもひっかいたのか、きつく握りしめていかにも苦しい断末魔の有様がしのばれました。
 病院からこの非業の死を遂げた人たちに贈られたものは、小さい花束一つでした。私たちはお金もないことだし、さてお葬いをどうしたものかと平尾軍医とも相談して、結局この人たちの望みどおり土葬にしようということになりました。亡くなった人たちも、どうせ私たちに金の苦労をかけたくないために、強いて土葬になどという気をつかってくれたのでしょう。女らしい心づかいの数々を考えるだけでも涙の種で、それにまた、この人たちが汚れもの一枚残していないのも、日本女性の身だしなみと、死の準備に忙しくした有様をしのんで、またしても私達は泣かされるのでした。
 ボイラー係りの満人が、あとで私たちに話したところによりますと、死の当日、ボイラー室に大きな包みを二つもちこんで来て、これを目の前で燃してくれというので燃して上げたということです。こうまで行き届いて死への旅立ちに心を配ったかと思うと、ただただ頭が下るばかり、しかし事ここまで行けば私も泣いてばかりおられません。今はお葬い万端を片づけなければならないのです。
 金もないまま土葬と決心していた私たちに、張さんが「それでは余りにも二十二人の人たちが可哀そうだから、何が何でも火葬の上、分骨して故郷の両親にとどけて上げたらよい」と親切にいってくれます。というのも、当時一人千円もする火葬代を張さんが「ぼくが払って上げます。せめてこれがしばらくでも朝夕、親しく一緒に働いた人たちへのささやかな供養ですから受取って下さい」と親切にいってくれるのでした。

☆あの人たちは地下室でダンサー稼業☆

 張さんのこのありがたい申出をうれしく受けて、ここに二十二のお骨つぼが並ぶことになりました。それからというもの、七日目毎の法要もささやかではありましたが、出来るだけ手厚く、お経も手向けて、四十九日を迎えました。四十九日にはせめておマンジュウでもお供えしたいと考えて、当日は朝からこまごまとした準備をととのえ、午後になってから、大久保みちさん(二一)をつれて東京でいえば、銀座にあたる長春で一番にぎやかなミナカイという街までおマンジュウの材料にする粉の買い出しに出かけました。
 すると歩く途中で、大久保さんが突然妙なことをいい出したのです。
 「今まで申上げませんでしたけれど、このミナカイ・デパートの地下室のダンスホールで、あの人たちがダンサーをしているということを最近聞きました。折角来た序ですから、寄って顔でも見て行きましょう」
 私はアッと驚きました。「あの人たち」というのは、もちろん三回に分けてソ連の病院へ応援に行った人たちのことです。ソ連兵のなぐさみものになっているとは聞いていましたが、まさか、こんな人通りの町のまん中に現われるとは思いもよりません。けれども「いい思いつきだから行ってみよう」と早速デパートの地下室への階段を下りて行きました。
 ボーイにその人たちの名前をいって入口で待っていますと、何と六人の看護婦たちが急いで出て来ました。何ヵ月ぶりかの再会でしょうか。なつかしいとも何とも、二十二名を死なせていただけに、万感交々胸に迫って、容易にあいさつの言葉もなく、涙にくもる眼で見れば、この人たちは顔立ちこそ昔のままでしたが、私どもと一緒にいた時のような精彩はあとかたもなく、蒼白な顔はまるで病人のような感じなのです。
 服装はと見れば、大島さんが着ていたような日本のきものを更生した肌もあらわなイヴニング・ドレスに、まゆを細くひき、ルージュも濃く、いかにもナイト・クラブのダンサー然としています。私と大久保さんの突然の訪問がこの人たちにもどんなにかうれしかったのでしょう。見る間に涙がほおをつたっています。そして言葉もなく、うつむいて肩をふるわせています。私も夢中で彼女たちの手を握り、これもひとえに亡くなった大島さんなど二十二名の仏さまの手びきとばかりに、「本当に、こんな所でこんなことをしていないで、早く私どものところへ帰って来て」と極力すすめました。すると六人は、深く心に決するものがあるかのように、ただ首を横にふるばかりなのです。

☆"復讐"の道歩まん☆

 全然聞き入れてくれませんので、私の熱意が足りないのかと、なおもしつこく勧めてみましたが、矢張り無駄です。私は遂にたまりかねて「あなたたちはそういうことが好きでやってるのね、そこまで日本人も堕落したのか」とたまりかねて三つばかり続けさまにひっぱたいてしまったのでした。するとみんなはなお一層しょげて涙ながらにいうには、
 「婦長さんが、それ程までに、私たちのことを考えて下さるなら申上げます。最初私たちがソ連の病院に送られた時から、私たちは毎晩七、八人のソ連将校に犯されたので、すぐ国際梅毒をうつされてしまいました。私も看護婦です。今ではそれが大部悪化していることがわかります。こうなっては自分の体は、しかばねに等しいのです。どうしてこの体で日本に帰れましょうか。仮りに今後どのような幸運にめぐまれて、日本に帰る日が来たとしても、この体では日本の土は踏めません。この性病がどんなに恐ろしいものか十二分に知っています。暴行の結果うつされたこの性病を私はソ連人の一人でも多くにうつしてやるつもりです。今は歩行も困難なくらいですが、それでもがんばって一人でも多くお客をとることにしています。これが敗戦国のせめてもの復しゅうです」
 と、決然といいはるのでした。
 私は返す言葉もなく、首を深く垂れて聞いていました。今はこの人たちの思い通りにさせようと、買物をすませて急いで病院へ帰って来た後、病院中にある性病の薬をあつめました。そうしてその翌日、大久保さんにそれを背負わせて昨日のキャバレーにもたせてやることにしました。ところが、午後になって大久保さんが同じ恰好で帰って来ていうには、「婦長さん、すみません。あの人たちは婦長さんの有難いお心がわからないのではなくて、この薬は受けられない。是非このままもって帰ってくれと申しまして、受け取ってくれません。日本の人が作ったこの薬品、こんな貴重な薬品をいただいては申訳ない。ソ連人からうつされた私どもの病気を日本人の造った薬で治すのは勿体ない」というのです。
 そこで私が今度はそれをもって、も一度行きました。「是非この薬を使って早くよくなって」という私の口を酢っぱくしてのたのみにも、どうしても彼女たちは応じません。そしていうことに「婦長さんがそんなに親切におっしゃって下さるのに、私どもが好意を無にするわけをお見せしましょう」と、この人たちの部屋に案内してくれるのでした。そして私の前でパンツをぬいだのを見て、私はその二タ目と見られないひどい症状に驚いてしまったのです。それはとても筆では形容出来ませんが、コンジロームが局部一杯に拡がって、そのさきが全部化ノウし、ウミが流れ出ているのです。長年看護婦をしている私ですが、全身総毛立ち寒気がしてしまいました。ちょうど、それはいちじくの腐敗したのを見るような、感じでした。
 この六人のうちの四人は、私たちの引揚げに際しては、ハルピンに身売りまでして、その費用を稼いでくれました。何という悲壮な別れ方だったことでしょう。

☆派遣の日を命日に☆

 私たちはとにかく、何とかしてこうして生きて帰ることが出来ましたが、二十二名の人たちの冥福を祈るため、毎月二百円ずつ、めいめいが貯金をする計画をたてました。それから六年、毎月たくわえているお金が鳥取の平尾軍医の手許で保管してあるのが相当額に達しましたので、今度独立日本を祝してこの金でお地蔵さんを建立いたしました。
 私どもが渡満直前、仲間が二週間の幕舎生活をして、野外訓練を受けた思い出の地群馬県吾妻郡大泉村六六番地に去る六月二十一日の七周忌の命日にそのお地蔵さんのささやかな除幕をいたしました。これで彼女達も成仏してくれるでしょう。わずか二万円ほどのささやかな地蔵尊ではありますが、私はそのお地蔵さまの首に、夢にまで出てきてせがむ私の紫の数珠をかけて回向、涙にむせんだのでした。

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