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50年間、世間を欺き続けたウソを暴く!
まえがき
埼玉県さいたま市JR大宮駅西口から佐知川行きのバスに乗って十分足らず、青葉園で下車すれば、そこに公園墓地青葉園がある。
青葉園の園内には、石の種類や色はさまざまだが、形と大きさが統一された横長の四角い墓石が整然と並び、墓地とはいえ、園内は明るく清潔であって、公園墓地という名に恥じない。そして、この墓園を見ると、日本の墓地をおどろおどろしく陰鬱なものにさせているのは、見通しを悪くする背が高い墓石と、私などには何のためにあるのか見当も付かない、薄汚れた卒塔婆の乱立であることを教えてくれる。
この青葉園の一角に一基の地蔵が建っている。園内にはほかにも観音像も建っているし、地蔵とはそういうものなのかもしれないが、灰色の像でそう目立つものではないが、左の掌にかぼちゃのようなものを置いているのが、普通の地蔵とは違っている。少し近寄って見れば、そのかぼちゃには赤い十字のマークがついているのが分る。それは、赤十字看護婦の制帽なのだという。この地蔵が青葉慈蔵尊である。
青葉慈蔵尊の隣には、山下奉文(ともゆき)〔元陸軍大将〕の墓がある。潅木に囲まれてそう目立ちはしないが、その墓石は他のものとは異なり、五輪塔を横に膨らましたような形の大きなものである。小道を挟んでその向いには吉田家の墓があり、そこに青葉園の創設者の吉田亀治が眠っている。青葉慈蔵尊は、青葉園にとっての枢要な場所に建っているという訳である。
何故、青葉慈蔵尊が建てられたのか。慈蔵尊の傍らの碑の「青葉慈蔵尊由来」を引用してみる。
「昭和二十一年春 ソ連占領下の旧満州国新京の第八病院に従軍看護婦三十四名が抑留され勤務していたが ソ連軍により次々に理不尽なる徴発を受け その九名の消息も不明のまま更に四回目三名の派遣を命ぜられた 拒否することは不可能であることを覚悟したその夜 最初に派遣された大島看護婦が満身創痍瀕死の身を以つて逃げ帰り 全員堪え難い凌辱を受けている惨状を報告して息絶えた 慟哭してこれを葬つた二十二名の乙女たちは 六月二十一日黎明近く 制服制帽整然として枕を並べて自決した」
そして、これら看護婦の遺骨が台下に納められ、祀られているのだとある。
この事件は、戦後の満州あるいは引揚げについて書かれた本でも取り上げられることはほとんどない。しかし、『毎日新聞』が記事にし、近年では『産経新聞』が比較的大きく取り上げている(写真参照:2003年7月27日号)。こうして、大新聞が報道しているのだから、この満州での集団自殺事件は、事実として社会的に認知されているようなものなのである。
しかし、真実はそうではない。この件に関して「事実」の名に値するものは何もない。
この事件は、堀喜身子という女性が、『サンデー毎日』1952年8月31日号に手記を発表したことで知られるようになったのだが、真実は、その話は堀喜身子のつくり話であり、青葉慈蔵尊はウソによって生まれたということなのである。
手記が発表されてから、50数年が経った。青葉慈蔵尊が建立されたのが、1956年6月21日で、それからでも50年が経ってしまった。一人の女性のウソが50年の間信じられ放置されてきたのである。ある意味、おそるべき話ではなかろうか。
私は、満州にも埼玉県の大宮にも、また後に述べるが静岡県の清水や山口県の徳山にも縁もゆかりもない人間である。私はただ『自決と玉砕』という本で堀喜身子の手記を読んだというだけである。それは『サンデー毎日』1952年8月31日号から転載されたものであった。
以下、青葉慈蔵尊の由来とされる集団自殺を何故私がおかしいと思うようになったのかを記しておこうと思うが、この集団自殺の話を初めて聞くという人は、その前に『サンデー毎日』の堀喜身子の手記を読んでいただいた方が好都合かもしれない。
私は、当時、戦後の満州のことなどまるで知らないといってよかったが、その手記を読んで、一夜に22人の看護婦が自殺したというのだから、ひどく驚いた。そして、このような大事件ならばほかの本にも載っているだろうと、『近代日本総合年表』を開いてみた。しかし、そこには載っていなかった。何故載っていないのか?
実はこの時、私は、『近代日本総合年表』に愚かな思い込みをしていた。幕末から現代までの出来事を、一ページに三段組で詰め込んだこの年表は、近現代のあらゆる重要な歴史事実を含むものだと思っていたのである。戦後の出来事の主なソースは新聞記事だとあり、1946年の満州での事件が載っている筈はなかったのだが。ほかの年表もみたが載っていない(1945年から1946年にかけての冬に日本人十数万人が死んだという満州は、日本史からほとんど除外されていたのである)。ほかにこの集団自殺について書かれた本が見つからなくて私はとまどった。
『自決と玉砕』の本文は雑誌の記事などを転載したものだから、その内容について編者にどれだけ責任があるのかを言うのは難しいが、『自決と玉砕』には、明らかに間違いだと分かる箇所が含まれていて、何の解説も注釈もなしにそれを読者に提示するというのは、出版人として極めて不誠実であるように思われた(本というものは多くのマチガイを含むものだとは知ったが、この考えは基本的には今も変わらない)。それで、『自決と玉砕』の全てを信じないというのではないが、そういうあやしいところもある本だから、堀喜身子の手記もあやしいのではないかと思った。といって、確かめるための本はない。むしろ、その時には何を読めばいいのかも分らなかった。ほかにあの事件のことにわずかでも触れている本でもあれば、納得できるかもしれないのだが、どこにそんな本があるのか見当もつかない。
こうした私の態度は我ながらやれやれと思わないでもないが、それというのも、当時私は、ほとんど全ての歴史上の出来事というものが私たちが実際に体験したものではないのに、どうしてそれが本当にあったと言えるのだろうかということを考えていた(というより、考えざるを得なかった。それは、歴史の最も根本的な問の一つである)。それに答えて、教育(学校及びマスコミの影響など)の結果だと言えば、それで大体は正しい。それなら、教える側ではどうか。彼らがあることを歴史上の事実だと言うのは、さらに彼らに加えられた教育の結果だと言えば、それもまた大体は正しい。しかし、それだけではない。もし、それだけのことであるのなら、歴史の根拠というものははなはだ頼りないというものである。歴史上の事実というものは、他の事実との間に整合性がなければならない。それがなくては、確実な事実とは言えない。そして、実際、それだけが歴史の根拠なのである。ほかに根拠なるものはない。私はそのように考えた。私は、あの時、アジア太平洋戦争とは何だったのか、それを自分にできるところまで厳密に考えたいと思い、それで、そのようにまず考えたのだった。それから、続いて歴史上の出来事を集める必要があり、それで『自決と玉砕』も読み始めたという訳だった。だから、私には、堀喜身子の手記があるというだけで、そこに描かれたことを本当にあったと認める訳にはいかないのだ。それは、何の根拠もなく歴史事実を認めることになるからだ。
別の本が見つからないので、とにかく、私は自分にできるだけのことは確認してみようと思った。私の持っているパソコンにはカレンダーソフトが入っていて、ある程度の昔から未来までのカレンダーを表示してくれる。堀喜身子の手記には、大島はなえがソ連の病院から逃げて来た日について、「この日が六月十九日であったことも、土曜日であったことも、私は七年を経過した今日でも、はっきり憶えています」とある。どれどれというので、1946年6月のカレンダーを出してみた。すると、その日、1946年6月19日は水曜日で土曜日ではなかったのである!
あっけに取られた。私はただ自分にできるだけのことをして、それで納得しようと思っていただけなのである。このパソコンソフトが正しいことは、当時の新聞や日記を見つけて、それで確かめることができた(新聞写真を参照のこと)。とたんに堀喜身子の手記は疑わしいものになった。あんなにはっきり憶えていると書いているのに、何故間違っているのか?
日本人がソ連をよく思わないことには十分な理由があるが、堀喜身子が手記を発表した当時はさらにそうだっただろう。堀喜身子の手記はそういうソ連に対する悪感情につけこんだつくり話なのではないのだろうか、そういう疑いが浮かんできた。そこで、改めて手記を見直してみた。
婦長というと何となく中年の貫禄ある看護婦が思い浮かぶのだが、事件の時の堀喜身子は何歳なのだろうと考えた(『自決と玉砕』には手記しか収められていない)。それで、手記の前の方にはっきりした間違いがあるのを見つけた。女学校を卒業して、昭和14年に満州に渡り、看護婦養成所で三ヵ年の課程を終了して樺太に帰った筈が、昭和15年春に召集となっている。しかし、これはどうみても誤植か誤記である。それで、堀喜身子の年齢も曖昧になるが、しかし、看護婦の中で一番年長という26歳の井上鶴美とそんなに歳は離れていないらしいことは分った。手記から受ける感じでは、他の若い看護婦から抜きんでたベテラン看護婦といったところなのだが、年齢からすればそれ程のこともなさそうで、そこに作為があるように感じられた。それは、決定的なことではなかったが、さらに手記を疑わしくさせるものではあった。
ほかにはどうすることもできなかった。その時、私の下した結論はこうである――この事件の証言者が堀喜身子ただ一人であるというのなら、この事件を事実と認める訳にはいかない。
いつか、堀喜身子が地蔵を建てたという群馬県大泉村に行って、その地蔵を見てみたいものだと思いながら、その機会もなく(実際それでよかったのだが)、それっきりのことになって、時は過ぎた。
この間、『原典中国現代史別巻』の年表の中に、1946年5月3日にソ連軍は満州からの撤退を完了したとあるのを見つけただけである。すると、6月には新京にもソ連軍はいなかったのに違いない。それは、堀喜身子の手記を一層あやしくさせるものである。ただ、撤退完了といっても状況が今一つ分らない。それに、堀喜身子のいう6月19日という日付は思い違いをしていたもので、実は4月のことだったなどと言い返されたら、私には何とも返しようがないのだから、手記は虚偽だと断定もできず、ただもやもやした気持のままでいるしかなかった。
こうして2004年になった。『戦争という地獄』という本を覗いていたら、その中に堀喜身子が手記で述べた事件のことが書かれていることに気付いた。それは最後に大宮に青葉慈蔵尊が建立されたことに触れて、「(青葉地(ママ)蔵尊由来記より)」と結ばれてあった。
私は、この時、初めて青葉慈蔵尊の名前を知った。そして、私は、『自決と玉砕』以外にあの事件に触れた本に、やっと、あるいは到頭、出会った訳である。私があの事件を疑わしいと思っていたのは、『自決と玉砕』とそれが引用していた『サンデー毎日』以外にあの事件に触れた本がないことも理由だったから、すると、あの事件は一般にはほとんど忘れられてはいるが、やはり本当のことだったのだろうかと思った。
インターネットで検索してみた。すると、「青葉慈蔵尊由来記」というまさにその通りのタイトルの文章が見つかった。「新しい歴史教科書をつくる会」山形支部がそのホームページに載せていたのである。それを見ると、『戦争という地獄』の著者が典拠にしたものは、インターネットのこのページか、あるいは別に紙に書かれたものか、まずは同じようなものだと考えてよいようであった。
「青葉慈蔵尊由来記」は興味深いものだった。群馬県の大泉村に地蔵は建立されずに、大宮に青葉慈蔵尊が建立された経緯など、「手記」発表から起ったことについて私は初めて知った。ただ、あの集団自殺事件に関しては、その証言者がやっぱり堀喜身子ただ一人だけのようで、あの事件が本当にあったという証拠はその他には何も示されていないのだった。
結構、あの事件が事実であると信じている人が多いようなので、困ったことになったと私は思った。堀喜身子の話だけで、あの事件が事実であると認めるべきではないと私がいくら主張したところで、それを信じている人にとっては、それを言いがかりとしか思わないだろう。青葉慈蔵尊という謂わば既成事実もできてしまっている。毎年6月21日には、慰霊祭が行われているという。私は、ただ歴史事実に誠実であろうとしてそれを主張するだけなのだ。しかし、私は、無名の一般人に過ぎない。あの時代の体験者でもなく、歴史の専門家でもなく、権威のようなものはこれっぽっちも持ち合せてはいない。誰も私の言うことには耳を貸さないのに違いない。
私は、堀喜身子の手記には疑わしい点があり、証言者が彼女一人であるというのなら、あの事件を事実とみなすべきではないと「新しい歴史教科書をつくる会」山形支部のインターネット管理者にメールを送ったが、予想されたことではあったが、その返事は返ってこなかった。
しかし、私はそれであきらめる訳にはいかない。それで、詳しく調べることにしたのである。
私たちが、ある出来事についてそれが事実ではないと言うには、普通は、それが起こらなかった、または、別のことが起こっていたという証言が必要である。私は、ほかに証言者となり得る者を探そうとはしたが、結局見つからなかった。私は、その代わり、その出来事についてのただ一人の証言者である堀喜身子のその手記について、それが虚偽であることを示すことで、その出来事が事実ではないと主張できるのである。
私は終に確信できるところまで来た。堀喜身子の手記についての全ての疑問点を説明するにはただ一つの解釈しかあり得ない。それは、堀喜身子の手記はデッチアゲだということである。
そして、これから堀喜身子の手記が如何にウソであるのか、そのほか自殺した看護婦の遺族を見つけたなどということの虚偽、そして堀喜身子とその夫である松岡寛について知り得たことなどを説明する。
堀喜身子の名前には問題がある(参考(4)を参照のこと)。また、松岡寛と結婚し、松岡姓となったが、ここでは、「堀喜身子」で統一する。
できる限り典拠を示すことにした。形式としては〈 〉内に書名とページのみ示し、著者や出版社などは、参考文献に一括して示すことにした。このようにするのは、私としても、また読む方としても煩わしいだろうが、私が何の根拠もなく勝手なことを述べているのではないことを示すためである。
また、敬称等は全て省略した。
インターネットのような媒体でこのような長い文章を示すことは申し訳なく思うが、できれば、『サンデー毎日』の堀喜身子の手記と「青葉慈蔵尊由来記」を読んでいただき、それから、以下の文章と、少しずつでよいから読み進めていっていただきたく思う。
目次
『サンデー毎日』の堀喜身子の手記
『サンデー毎日』に文章として掲載されているのは、『サンデー毎日』側でつけたまえがきに当るものと、堀喜身子の手記と、堀喜身子の略歴があるだけである。ここに、まえがきと略歴を示しておく。
昭和二十年九月二日米艦ミズーリ号上に降伏調印式をあげてから七周年がめぐりきた。日本降伏によって外地に働く人々の悲惨な話は、その都度報道されたが、これは終戦直後の満州で、ソ連兵に拉致された満赤看護婦が次々にはずかしめを受け、それを知った同胞二十二名の若き看護婦が"集団自殺"した悲しい記録である。本編集部は、その時のたった一人の生き残りの看護婦長堀喜身子さん(三三)を静岡県清水市の勤務先にたずね、ここにその手記を得た。涙とともに本誌が読者に贈る日本女性抵抗の歌である。
◇堀喜身子さん略歴◇
昭和十四年、樺太豊原高女卒後、直ちに渡満、満州赤十字看護婦養成所を卒えて一たん歸〔郷〕、樺太知取病院勤務、この時堀正次氏(三一)と結婚、同十五年召集、満赤班編成、同十七年渡満、牡丹江第十一部隊に所属、液(ママ)河に勤務、十九年六月東安省虎林救護所、その間、夫に死別、二十年十月長春に引揚げ、二十一年六月二十一日「集団自殺」に遭遇、二十二年八月二十一日に引揚ぐ。現在静岡県清水市桜ヶ丘保健所勤務、三十三歳。
〔郷〕は読み取れない字を私が補ったもの。
略歴の内容は、手記の内容と一致しないところがある。
『サンデー毎日』1952年8月31号の堀喜身子の手記は、『自決と玉砕』にもその全文が転載されている。見出しや句点などが若干違うが、ほぼ『サンデー毎日』のものと同じである。ここでは、『サンデー毎日』に掲載されたものを提供する(明らかな欠字は『自決と玉砕』によって補った。以下これを「手記」と呼ぶ)。
堀喜身子の手記「婦長さん、私らに紫の珠数を」
「青葉慈蔵尊由来記」
インターネットには「青葉慈蔵尊由来記」というものが公開されている。
これを公開している「新しい歴史教科書をつくる会」山形支部のページや福岡県の大野城市議会議員という人のページなどによると、さいたま市に住む渡井昇という人が纏めたもので、ワープロで書いた「青葉慈蔵尊由来記」を冊子にして、あちこちに送ったらしい。渡井昇は「日本の正しい歴史を学ぶ会」の会長で、「民族の叫び」という月刊ワープロ紙(B4両面)を発行し、「全国同憂の士に無償で発送を続け」ていたという。
「青葉慈蔵尊由来記」は、まず22人の集団自殺事件について述べているが、ディテールは省略されているものの、内容は堀喜身子の手記とほとんど同じである。
手記と違っているのは、堀喜身子の名が堀喜美子になっていること、新京〔長春〕の第八病院が通化路第八紅軍病院になっていること、看護婦の一部の名前が違っていること、堀喜身子に男女二人の子供がいたと述べられていることなどである。
堀喜身子の帰国後のことも述べられており、これによって、堀喜身子が『サンデー毎日』に手記を発表してから何が起こったか(何が起こったと信じられているか)のおおよそを知ることができる。ある機関紙からの引用があるが、どこからどこまでが引用なのかはよく分らないところがある。
以下のところで読むことができる。
(1)「青葉慈蔵尊由来記」「新しい歴史教科書をつくる会」山形支部
(2) 桜魂 2004年9月12日のところに掲載。
堀喜身子の手記のどこがウソなのか
ここで堀喜身子の手記のおかしい点を、まとめて述べることにする。どこがおかしいと言って、最初から最後までおかしいことばかりなのだから、まったくあきれてしまう。私は、手記の一語一語、特に固有名詞の全てを洗う必要があると思い、調べたりしたのだが、調べきれないものもあるので、まだあるに違いない。おそらく、これを読まれた方はどうしてこのような手記が真実としてまかり通っていたのかと不思議に思われるに違いない。
この集団自殺事件を主題にした単行本が二冊出版されている。原田みち子の『還らぬ天使たち』と奈良原春作の『白衣の天使 従軍看護婦』である。原田みち子の本では登場人物の名が仮名になっているが、「あくまで事実に即して取材し書いた」とあるし、奈良原春作は堀喜身子にも会い資料の提供も受けている(何故か堀喜身子が「堀貴身子」になっている)。だから、これらの著者は堀喜身子にも十分な取材をして書いたと思うのが当然なのだが、これらの本と堀喜身子の手記では、時日、場所、登場人物とその経歴や数などが三者三様に異なっていて、結局、一致することと言えば、新京でソ連軍から三回、計9人の応援要請を受け、1人が逃げ帰って死に、22人が自殺したというようなあらすじしかないというようなことになる。これは大変不思議なことである。
堀喜身子が到底知る筈のないようなことも書かれていて、それらはフィクションを加えたと見るしかないが、どこまでが取材に基づき、どこからがフィクションなのかは不分明である。「由来記」などで渡井昇がこれらの本を無視しているのは十分な理由があると言わなければならない。
しかし、調べてみると、実は彼らは、堀喜身子の手記の事実に合わないところ、不自然なところを何とか辻褄を合わそうとして話の内容を変えているのだということが分かって来る。だが、それでも最後まで破綻がつくろわれることはない。
この二冊と共に渡井昇が書いた『青葉慈蔵尊』という冊子が重要である。この冊子は、1998年6月21日の供養祭で参加者に配布したものらしい。A4の用紙片面にワープロで印字された18枚で、表紙には「青葉慈蔵尊」とのみあり、中身は17ページの小冊子だが、そこには、堀喜身子のもう一つの手記も収められている。
この手記は、『サンデー毎日』の手記から漏れた事柄を思い出して新たに書いたというのでもない。手記を発表してからのことを付け加えたというのでもない。末尾に「〔この記事は、〈サンデー毎日〉昭和二十七年八月三十一日号に寄せたものに少し加除訂正したものです。堀喜身子〕」とあるように、あくまで、先の手記のスタイルを踏襲した加除訂正である。それを行なった理由は記されていないが、堀喜身子の手記の決定版ということにはなるだろう。以下、これを第二の手記と呼ぶことにする(堀喜身子の名で発表された手記にもうひとつ『婦人公論』に載った「還らぬ天使たち」があるが、これは実際には原田みち子が書いたことは、『還らぬ天使たち』のあとがきで明らかにされている)。
これらのさまざまな文章の細かいところまで述べると、分量が膨大になってしまう。そこで、『サンデー毎日』の手記を中心にし、必要に応じて以上のもの、あるいはその他の本にも言及することにする(煩雑になるので『還らぬ天使たち』・『白衣の天使 従軍看護婦』についての引用注の多くを省略する)。
以下、おおよそ手記の順序に従っておかしい点を指摘してみる。
(1) 紫の珠数
堀喜身子が毎月21日になると、きまって見る夢があり、それはいつも同じ夢で、自殺した看護婦たちが「「婦長さんのもっていらっしゃるその珠数を下さい」といって、さめざめと泣く夢」なのだという。手記には、珠数がどうしたというようなことは何も語られていない。何でそんなに珠数を欲しがるのだか。
珠数というのは仏教では何か特別な意味があるものなのかと思って、インターネットなどで調べてみたが、何もない。仏教で使われる用具というだけのことであった。(些細なことだが、『広辞苑』では項目として「数珠」が挙げられ、「珠数」とも、とある。『仏具辞典』には「珠数」だけがある。)
紫の珠数というのは、「由来記」によれば緒が紫なのらしいが、それが綺麗なもので、若い看護婦たちが欲しがったということはありそうなことではある。戦争中は、身につける装身具の一切が禁止されて、そんなに身を飾るものはなかっただろうから。それでも、「綺麗だわね」とか「ちょっといいわね」という言葉が出る位のものではないのだろうか。ネックレスを欲しがる方がまだ自然だろうし、自然というなら、「早くソ連人を殺して下さい」とでも言う方がまだ自然かもしれない。
彼女らの珠数への執着はただごとではなく、何か因縁話がありそうである。それがどういう因縁話なのかは分らないから、不思議なことがあるものだと思うしかない。
どうやら、珠数がほしいというのは、まだ彼女らが成仏できないでいて、成仏させて下さいと言っていることの暗喩らしいし、暗喩に過ぎないものである。そして、その珠数が婦長の持っているものということで、堀喜身子と彼女らの特別な関係を暗示させてもいるのである。
紫の珠数にまつわる因縁話、これについては、『青葉慈蔵尊』に書かれている。それによると、
終戦の年の、そろそろ寒くなりはじめた頃、長春の第八病院に、蒙古系の産婦が担ぎ込まれた。難産だったが、堀婦長などの看護のかいあって、母子共に命が救われた。その看護を見守っていた産婦の身内に、蒙古で高僧と言われた老僧がおり、生涯肌身離さずに持つつもりであった紫水晶の数珠をそのお礼として堀婦長に差し出した。その数珠は、「二連にして三十数センチの長さで、その一個一個の珠には内部をのぞけるように細工がしてあり更に、透かして見ると仏像を見ることが出来た」。その数珠は、看護婦たちの憧れの的になって、堀婦長が、「いっそのこと、珠数の紐をきって皆んなに分けて上げましょうか。」と言ったので、大騒ぎになったこともあった。
因縁話といって、これだけのことであった。その珠数が細工の巧みな綺麗なものだったとしても、死んだ看護婦たちが夢にまで出てねだるようなものなのだろうか? 堀喜身子にはそういうことなのだろうが、まるで、それを持てなかったために死んだかのようではないか。
この珠数は1956年6月21日の青葉慈蔵尊の開眼法要の際に、慈蔵尊の右の手首に掛けられたというが(『還らぬ天使たち』に写真がある)、「然しどうしたことでしょう。その後この紫の数珠は杳として消えてしまったのだそうです。今墓前供養の時に、やや小振りの数珠が堀婦長の手によって掛けられておりますが、これは近年、この話を聞いた県内の若い有志が、堀婦長のご心中を思い遣って新たに作って差し上げたものだそうです。」とある。
(2) 堀喜身子の経歴:渡満と召集の年、満州国赤十字社、など
「手記」には、堀喜身子は、1939〔昭和14〕年に満州に渡り、満州赤十字看護婦養成所に入所、甲種看護婦三ヵ年の課程を終了し、その後郷里の樺太に帰って、庁立病院の看護婦となり、1940〔昭和15〕年春に召集されたとある。
ここには明らかな間違いがある。普通ならば、誤植か誤記というところだが、不思議なことには、『サンデー毎日』の堀喜身子の略歴でも、この矛盾がそのままになっている。即ち、そこには1939年に樺太豊原高女卒後、直ちに渡満し、1940年に召集となっている。
まず、堀喜身子の生年を確認しておこう。『サンデー毎日』には彼女が33歳とある。これは満年齢だろう。1952年8月に33歳だから、1919年あるいは1918生まれとなるが、『青葉地蔵尊』によれば1918年生まれという。
甲種看護婦の養成課程は確かに3年である〈『女たちの遥かなる戦場』p.168、など〉(1940年、看護婦の不足を補うため、乙種看護婦ができて、それまでの看護婦が甲種となった〈『日本赤十字社社史稿』第5巻 p.123〉。甲種の養成期間は、その後2年半、2年と短縮されている)。そこで、満州に渡ったという1939年と召集されたという1940年が問題となるのだが、普通は二か所とも間違うことはないとしたものだろうから、どちらかが間違っていることになる。
即ち、
(1) 1936年、女学校卒業、渡満、看護婦養成所に入所。1939年、卒業、樺太に帰り、庁立病院の看護婦となり、暮れに結婚。1940年春、召集。
なのか、それを三年遅くした、
(2) 1939年、女学校卒業、渡満、看護婦養成所に入所。1942年、卒業、樺太に帰り、庁立病院の看護婦となり、暮れに結婚。1943年春、召集。
のどちらかである。
どちらであっても、問題がある。(2)の場合、21歳位で女学校を卒業したことになり、女学校卒業の年齢としてはやや遅い。
実は、「手記」のここの個所は、「第二の手記」で訂正され、(1)のようになっている。それを一応受け入れるしかないが、(2)に比べてかえって疑問点を増やしているようなところもあるのである。1936年、満州国赤十字社の看護婦養成所に入所となるが、満州国赤十字社の創立が1938年10月1日であること、1940年召集されて香港に向ったというが、日本軍が香港を占領したのは太平洋戦争勃発後の1941年12月25日であること、などなどである。以下、もう少し詳細に説明するが、やや煩雑になった。奈良原春作の『白衣の天使 従軍看護婦』では、堀喜身子のまた別の経歴があるので、続けて、そのことを説明する。看護婦のキャリヤの点でも問題があるが、これは後述する。結論を言えば、堀喜身子の経歴は疑問だらけということである。煩雑を厭わない方は、続けて読んでいただきたい。
まず、煩雑ついでに、女学校卒業時の年齢のことを述べておく。当時は義務教育が小学校の6年間で、それから女子なら高等女学校に進むのが、一般的な上級コースであった。ただし、小学校にはさらに2年間の高等科を設置している場合もあった。高等女学校は四年制または五年制で、1929年4月、三重県四日市市立高等女学校では、四年制のいろはの3組と上級学校受験の五年制の1組があった〈『従軍看護婦の記録』pp.73,133〉という。また、高等一、二年の人も沢山女学校の入学試験を受けたとある〈『従軍看護婦の記録』p.133〉。小学校の高等科から女学校に進んだ人も多い訳で、小学校卒業後、しばらく仕事に就いてから、女学校に入るケースもあっただろうし、女学校生徒の年齢は、今日とは違って、かなりバラバラであったことになる。ごく一般的には、女学校には小学校卒業の12歳で入学し、卒業が16歳または17歳ということなのだろう。
「第二の手記」によると、堀喜身子は、1940年春召集され「任地香港の第一救護所にむけて出発」というのだが、それはおかしい。日本軍が香港を占領したのは、太平洋戦争勃発後の1941年12月25日である。それより前のイギリスが支配していた香港に従軍看護婦の任地がある訳がない。
ここで指摘しておくが、堀喜身子の手記によると、短い香港での勤務ののち上海に移り、それから満州に向ったということなのだが、このように「寄り道」をして、あるいは、このように短期に大巾に勤務先が変わったという例を示している従軍看護婦は一人もいない〈従軍看護婦の各手記など〉。このようなことがほとんどなかったことは、従軍看護婦は軍属として部隊長の指揮下に入るのだが(後述)、部隊長には部隊(員)を中支から満州へというように移動させる権限がないことからも明らかである。このような移動がもしあったというなら、支那派遣軍から関東軍に所属を変えるというような命令が下ったか、視察・演習の目的で香港それから上海に移ったということになる筈だが、どちらにしても確認できるものはない。
おそらく、手記に一時的な香港での勤務を入れなければならなかったのは、堀喜身子の持っていた写真に関係がある。その二枚の写真は『すべての戦歿者に捧げる』の中に「自決した乙女たちの在り日」として示されているが、そのうちの一枚には、白い制服を着た11人の看護婦が写っていて、その背後には棕櫚のような植物が見え、どうみても暖かい地方で撮った写真だからである。
1940年春召集には、まだ問題がある。実は満州国赤十字社の創立は1938年10月1日なのである〈『日本赤十字社社史稿』第5巻 p.93〉。1936年に渡満して、満赤の看護婦養成所に入ることはできない。しかし、満州での日本赤十字社の既存事業と施設は満赤に引き継がれることになり、1938年、「日本赤十字社の満州赤十字社援助要領」に基づき看護婦などの身分を移した〈写真説明『ほづつのあとに』p.93〉というから、堀喜身子は日赤の看護婦養成所に入学したのだが、卒業時には満赤の看護婦になっていたということかもしれない。
赤十字看護婦の召集についてここで触れておくと、日本赤十字社令は、第一条で「(日赤は)救護員を養成し……陸海軍の戦時衛生勤務を幇助す」と定め、第八条で「救護員は陸海軍の紀律を守り命令に服するの義務を負う」とあり、戦時は男子と同じように召集令状一本で戦地に向かうことが義務づけられており、義務年限は12年で〈『日本人捕虜』下 p.361〉、2年間で交替であった〈『女たちの遥かなる戦場』p.59〉。ただし、一つの派遣の終了後、すぐに別の派遣要員となることも多かったようである。
だから、1940年春召集のもう一つの疑問は、救護看護婦の仕事は、2年間で交替なのだから、堀喜身子の派遣は1942年には終わったのではないかということである。ただし、満赤の場合も2年間で交替だったと確かに言える訳ではない。(船渡めついは、日本赤十字社旭川病院の看護婦養成所で3年間学んで、1932年、21歳で卒業したが、卒業した後は、1年間とどまって勤めることが義務づけられていた〈『女たちの遥かな戦場』p.43〉という。これが一般的なことなら、この点でも若干の疑問が生じることになる。)
堀喜身子が満赤看護婦で、満赤班という班があったというのも問題があると思われる。
日赤の救護看護婦の派遣は、まず陸海軍大臣が日本赤十字社に救護班の派遣を要請、日赤は支部などを通じて看護婦などを召集して、班に編成し、班毎に各地の陸軍病院などに送ったということのようである。満赤看護婦の堀喜身子が召集されて日本の陸軍病院に勤務したというのなら、その時どのような手続きが取られたのだろうか。陸軍大臣が外交ルートを通じて満州国に看護婦派遣を要請し、満州国が満赤に要請し、満赤が看護婦を選ぶということだろうか(「満洲国政策決定回路」『キメラ』p.261などが参考になるだろう)。もしそうなら、何らかの公文書が残っていそうなものである。それとも、満州国を実質支配していた関東軍が満州国あるいは満赤に要請したのだろうか。そのようにすることは可能だったろうか? 看護婦派遣のような、いわばつまらないことで、独立国家の権限を犯すようなことを関東軍がするだろうか? 満赤について書いてある本は極めて少ないのだが、私は、そもそも満赤看護婦が日本の陸軍病院に勤務したという例をほかに見つけることはできないのである。例えば、『「満洲国」社会事業史』にもそんなことは書かれていない。満赤と日赤が不可分であることが謳われ、戦争協力の色彩が濃いので、満赤が戦時救護班を日本軍あるいは満州国軍の病院に派遣するのも自然のように思われるのだが、そういうことがあったと書かれたものが見つからないので、なかったとみなすほかはない(しかし、『「満洲国」社会事業史』の参考文献をみても、満赤についての纏まった記録というものはないらしいから、幾分釈然としない。幻の国満州国の赤十字社はさらに幻のようである)。
満州国赤十字社のことを書いておく。
1937年12月6日、孫其昌〔満州国民生部大臣〕の一行が日本赤十字社を訪れ、同国赤十字社の創立に対して援助方を要請。翌1938年7月22日に協定書の調印式が行われ、満州国赤十字社が誕生することになった。満州国は日本の傀儡国家だから、協定書の中には、戦時または事変に際しては、満州国赤十字社は別に定める協定によりその諸施設を日本赤十字社の使用に供する、などという項目もあるが、第一条には「満州国における日本赤十字社の既存事業は満州国赤十字社においてこれを承継すべし」とあり、第二条で「日本赤十字社満州委員部の既存施設は在関東州のものを除き協定実施当時の状態において満州国赤十字社の無償使用に供すべし」と定められた〈『日本赤十字社社史稿』第5巻 p.91〉。同年10月に、普済会〔恩賜財団〕と日本赤十字社満州委員部の事業を継承して、満州国赤十字社が創立された。創立日は10月1日とされた〈『日本赤十字社社史稿』第5巻 p.93〉。
「 一九三八年、日本赤十字社と満洲国赤十字社設立委員会の双方が調印した「日本赤十字社ノ満洲国赤十字社援助要領」第一条で、その「方針」を「日本赤十字社ハ日満不可分ノ関係及日満共同防衛ノ趣旨ニ鑑ミ日本赤十字社ノ満洲国ニ於ケル既存ノ施設ヲ今次創設セラルヽ満洲国赤十字社ニ合体シ以テ日満両国ニ於ケル赤十字事業ノ綜合的拡大強化ヲ図ル」(同前、一六頁)と決めた。つまり、日本赤十字社と満洲国赤十字社の併合の具体的な目的は、「日満両国ニ於ケル赤十字社事業ノ綜合的拡大強化」にある一方、根本的な目的は、やはり「日満不可分ノ関係及日満共同防衛ノ趣旨」にあった。
さらに、日本赤十字社と満洲国赤十字社設立委員会の双方が同時に調印した「協定書」中の次の数項目は注目に値する。第三条には、「日本赤十字社満洲委員部職員中在関東州ノモノヲ除キ満洲国赤十字社ニ就職希望ノ者ハ満洲国赤十字社ニ於テ之ヲ継承スヘシ」、第四条には、「日本赤十字社及満洲赤十字社ノ緊密ナル連係ヲ図ル為満洲国赤十字社ハ其ノ機関内ニ日本赤十字社ノ推薦スル適任者ヲ招聘スル様考慮スヘシ」、そして第五条には、「日本赤十字社及満洲国赤十字社ノ戦時救護ニ関シテハ日満共同防衛ノ趣旨ニ合スル如ク相互密接ナル聯係ヲ保持シ各救護力ヲ充実シテ其ノ綜合的救護力ヲ増大スルニ努ムヘシ」など(同前)と定められた。これらの条項によって、併合後の満洲国赤十字社は、その母胎であった満洲国恩賜財団普済会の延長ではなく、ほとんど日本赤十字満洲国委員部そのものの後身になったことがわかる。」〈『「満洲国」社会事業史』pp.175-176〉(同前=『日本赤十字社満洲委員部史』田代仙蔵 1938年 日本赤十字社関東州委員部発行)
『ほづつのあとに』によると「日本赤十字社の満州赤十字社援助要領」に基づき看護婦などの身分を移した〈写真説明『ほづつのあとに』p.93〉とあるのだが、『「満洲国」社会事業史』によると希望者だけが移ったのである。
ところで、1938年に締結した協定書の趣旨にもとづき、その実現をはかるため、日赤と満赤の間にとりきめが交わされたというが、それが1945年6月4日であった〈『日本赤十字社社史稿』第5巻p.93〉。内容は、満赤に無償で提供している日赤の在満施設などを無償譲渡すること、戦時救護に関して、増強、充実をはかり、密接なる連携を保持して計画を策定することなどである。すると、それまでは、日赤・満赤の間に連携はなかったか少なかったということだろうか。日満一体が図られたが、具体的なことが実現しないうちに終戦になったような印象である。
満赤の赤十字病院は、私の知る限り、ハルピン〈『ほづつのあとに』pp.87,95,182、『戦場に捧げた青春』p.7〉、新京〈『満洲開拓史』p.706〉、奉天〈『ほづつのあとに』p.93、『戦場に捧げた青春』p.7、『満州人名辞典』〉、阜新〈『満州人名辞典』p.1237〉、錦州〈『満州人名辞典』p.1359〉にあった(関東州の大連病院は日赤)。このほかにも各地に支部そして支部病院があったと思われる。満赤ができる前のものだが、『「満洲国」社会事業史』p.171の図を示しておく。このうち、ハルピンの赤十字病院には看護婦養成所があった〈『ほづつのあとに』p.87〉が、奉天と大連の病院も大きいので、おそらく看護婦養成所が付属していたと思われる。『満蒙終戦史』によると「一九三八年(康徳五年)五月満洲赤十字社が創設され、その医療施設が新京、奉天、ハルビン、錦州等一一カ所に設けられた。」〈『満蒙終戦史』p.1194〉という。
奈良原春作は『白衣の天使 従軍看護婦』の中で、堀喜身子の集団自殺事件に続けて、満赤看護婦でハルピン赤十字病院の婦長だった太田善子の記録によるという、太田善子とハルピン赤十字病院に起こったことを書いているのだが、「 中村(現太田)善子は、昭和十四年六月、日赤秋田支部に応募、その翌月にはハルビン赤十字病院に赴任した。」と、のっけからよく分からないことを書いている。一体、中村善子は何に応募したのだろうか?
日赤が募集したということですぐに思い浮かぶのは、臨時救護看護婦である。臨時救護看護婦のことを述べておくと、「臨時看護婦とは、普通看護婦免許状をもっている者で、赤十字社養成所で、更に団体規律、諸法規、国際法、災害救急法等の救護看護婦として必要な事柄を補足講義して、救護班要員として充足させるため短期教育養成された人達で、実務経験の豊かな人が多かった。」〈「従軍・東安第一陸軍病院」平山美喜栄『遥かなる東安・敗走三千里』p.19〉とある。日赤は1943年から臨時救護看護婦を募集している〈『日本赤十字社社史稿』第5巻 p.124〉、あるいは、1940年から臨時救護看護婦生徒の養成となっている〈『日本赤十字社社史稿』第5巻 p.132〉。
中村善子が応募した年と、臨時救護看護婦を応募した年と異なるし、のちにハルピン赤十字病院に勤務しているのだから、彼女が応募したのは満赤看護婦ということであるらしい。日赤看護婦の教育では最初に言葉遣いが教育される(後述)のだが、中村善子が自分の方言のことで苦労したと少し後に出てくるので、中村善子は日赤看護婦ではなかったらしい。日赤は皇室とも強い繋がりがあり(日本赤十字社の定款は「第二条 本社ハ/ 天皇陛下/ 皇后陛下ノ至貴至高ナル保護ヲ受ク」「第三条 本社ハ皇室ヲ推戴シテ総裁トス」〈『日本赤十字社社史稿』第5巻 p.326〉)、権威のあるものであったから、満赤の設立にあたっては、日赤の看護婦などの中には満赤に身分が移されることに抵抗した者もいるのではないかと思われ、その不足を補うためにも満赤看護婦を募集したのではないかと思われる。
奈良原春作は、ハルピン赤十字病院の看護婦は日赤の者が多いと書き、まるで日赤の病院そのもの、あるいは日赤と満赤が混在しているかのようで、日赤から満赤へと単に名前だけが変わったかのような書き方をしているのだが、いくら満州国が日本の傀儡国家だといっても、組織上は、満赤は日赤から切り離されたのである。奈良原春作によれば、1940年12月頃に、「管轄は関東軍から満州国、民生部に引き継がれ」た〈『白衣の天使 従軍看護婦』p.89〉という。
作本シス井はハルピン赤十字病院に勤務していて召集を受けたというが、その召集が異色である。次のようにある――「 召集の内命を受けたのは私が満州赤十字社ハルピン病院在職中でしたので、休職届を出して内地に帰りました。昭和十六年六月十七日、日本赤十字社石川支部より召集令状を頂き、暁部隊、龍興丸福田部隊に配属を命ぜられました。」〈「すぎし日の想い出」作本シス井『戦場に捧げた青春 第二巻』p.348〉
救護看護婦の日赤からの召集は兵隊の召集に似て、電報とかあるいは赤十字病院に勤務していれば病院から手渡しで令状が届けられたりする。そして、それは男子と同じように、そこに記載された日時に記載された場所にどんなことがあっても行かねばならないという類のものである(だが、日赤看護婦の船渡めついは、三回目の召集を断ったとある〈『女たちの遥かなる戦場』p.60〉。その名目や理由は記されていないが、兵隊の召集よりは義務がいくらか軽かったのだろう。従軍する際日赤からは命の保証はしないと言われたというし〈『女たちの遥かなる戦場』p.64〉(しかもその補償はない)、日赤もそう強くは言えなかったのだろうか)。赤十字病院に勤務していればおそらく休職の手続きを取り、他の病院などの勤務の場合には、そこを退職という人もいる。普通は召集はいきなりのものなのだが、作本シス井は召集の内命を受けている。こういう者はほかには見当たらない。考えられる一つの理由は、満州から日本に行くのに時間がかかるからだが、満赤での手続きが必要だったからかもしれない(作本シス井は、8月に延吉病院へ転属になり、1942年8月、関東軍防疫給水部〔第731部隊〕に転属、「何かわからないけれど毎日注射を続けていた時もありました。」と書いている。1943年8月にハイラルの満州第321部隊へ転属。〈「すぎし日の想い出」作本シス井『戦場に捧げた青春 第二巻』p.349〉)。
奈良原春作によると、1944年頃には、ハルピン赤十字病院では「戦時下のため、結婚を急ぐ人も多くなって看護婦志望者は減退した。加えて卒業生は、国境に新設された赤十字病院に次々と配属されてしまうので、在勤看護婦の数は非常に少なくなってしまった。」〈『白衣の天使 従軍看護婦』p.92〉という。
満赤は、満州の日赤を引き継いだものだし、その目的の第一は、戦時および天災事変における救護〈『日本赤十字社社史稿』第5巻 p.93〉とあるが、特に戦時救護であろう。1937年から1938年10月満赤が創立されるまでの間、日赤満州委員本部が編成した救護班は、二班だけである(いずれも1940年に解散)〈「昭和一二年〜二〇年派遣救護班調べ」『日本赤十字社社史稿』第5巻 p.151〉。満赤が救護班を派遣することがあったとしても、それほどのものではないだろう。おそらく、満赤看護婦の多くは赤十字病院あるいは満州国の国立病院などに勤務したのではないかと思う。
奈良原春作の『白衣の天使 従軍看護婦』では、堀喜身子は、また別の経歴になっている。続けて、そのことを述べる。
1936年3月、樺太庁立豊原高等女学校を卒業、4月姉をたよって渡満し、関東軍第9832部隊(赤心会)に、看護婦候補生として入隊、以来三年間学ぶ。1939年4月、関東庁施行看護婦試験に合格、翌5月、関東軍第9833部隊に配属。1940年、樺太に帰り、庁立豊原病院の看護婦となる。同病院に勤務していた軍医少尉堀政次(ママ)と結ばれ、長男と長女が誕生。1943年堀少尉、召集、喜身子も間もなく応召して渡満。
である。
奈良原春作は、堀喜身子から履歴の提供も受けている。それによるものなのだろうか(そうとしか考えようがない)。詳細で具体的なところがいかにも事実らしく見える。何故手記と異なっているのだろうか?
これによると堀喜身子は満赤看護婦ではない。志願看護婦、陸軍看護婦だったということになる。「由来記」によると、堀喜身子は最後まで自分を満赤看護婦だったといっていたようでもある。「元満州国赤十字社従軍看護婦の会」という会がある〈『ほづつのあとに』p.95。この場合の「従軍」は、ソ連参戦後のことをいっているか、日赤病院は軍病院のようなものだから、そう呼んでいるかだろう〉というが、誰か、堀喜身子がこの会に所属していたことを確認した者がいるのだろうか。奈良原春作は、満赤看護婦長だった太田善子からも資料の提供を受けているのだが、このような確認は行なっていない。堀喜身子は満赤看護婦ではないと決めつけていたからだろうか。
志願看護婦、陸軍看護婦とは次のような看護婦という。
「 日中戦争や太平洋戦争で活躍した看護婦のなかには、赤紙の召集令状で戦場に征った人と、志願で征った人とあります。召集令状で戦地に征ったのは、日本赤十字社(略称・日赤)の救護看護婦であり、志願で征ったのは、日赤以外の看護婦でした。(略)
初期には戦地で活動したのは救護看護婦のみでしたが、戦争が拡大化され、手不足となって、一般に看護婦の資格をもつものに呼びかけが行なわれました。そして陸軍省に属する陸軍病院など国の機関がその志願者を戦地、内地の陸軍病院へ配属させたのです。」〈「あとがき」『白衣を紅に染めて』pp.249-250〉
部隊および赤心会についての詳細は何も分らない。
第9832部隊などは、通称として使われていた秘匿番号による部隊名であろう。こうした部隊名については、「支那事変(日中戦争)が始まると、動員に次ぐ動員で兵団、部隊がふえつづけ、また敵に対して兵力を秘匿する目的で部隊につけた称号。通称名、通称符、秘匿名などともいう。」〈「通称号」の項『日本陸海軍事典 コンパクト版』上 p.153〉とある。例としては細菌戦研究の満州第731部隊が有名だろう。この番号は陸軍病院(部隊)にも振られていたから、堀喜身子の部隊はどこかの陸軍病院と考えるのが自然で、それ以外には考えられないだろう。だが、それなら何故病院名の方を使わないのか。看護婦の勤務先としては何々病院とする方がよっぽど自然で、従軍看護婦の手記でもそうなっており、それに付加的に部隊名まで記していると言ってよい。
そして、陸軍看護婦は、志願看護婦とも呼ばれるように、既に看護婦である者が志願するのであり、1936年頃では陸軍病院が付属の看護婦養成所で看護婦を養成したなどという例はないようである。「 戦線の拡大により、従軍看護婦は、もう日赤看護婦だけでは足りなかった。政府は、昭和十三年四月軍事保護院の前身、傷兵保護院という機構を設置して、十六年から傷痍軍人療養所と付属看護婦養成所をつくり、その運営にあたらせ、昭和十七年十一月までに三十六カ所の療養所と看護婦養成所を開かせ、大量の看護婦を送り出した。」〈「撃沈」江川きく『白の墓碑銘』p.221〉というが、どれだけの人数が送り出されたのか、政府に従軍看護婦を作る意図がどれだけあったのか、そういうことは私には分からない。とにかく、江川きくは、1941年3月、傷痍軍人結核療養所付属の看護婦養成所の試験をうけ、三年間学び、1944年3月、卒業して、従軍看護婦を希望し、「軍事保護院派遣軍属看護婦」として南方勤務を命ぜられた、という〈「撃沈」江川きく『白の墓碑銘』p.221〉。『従軍看護婦 痛哭のドキュメント』によると、1944年5月、関東軍総司令部が開始した、関東軍で初めての「陸軍看護婦養成所」〈『従軍看護婦 痛哭のドキュメント』p.133〉とあり、高等女学校生徒などを看護婦に仕立てようとしているのだが、別のところに、ハルピン第一陸軍病院〔満州第7部隊〕で婦長をつとめていた前原ミサヲの話として、「哈爾浜(ハルビン)第一陸軍病院は教育機関も持って、衛生兵教育から看護婦教育までしていました」〈『従軍看護婦 痛哭のドキュメント』pp.154-155〉とあるので、ハルピン第一陸軍病院では看護婦養成を行なっていたのかもしれない(婦長教育などのことなのかもしれないが)。しかし、ハルピン陸軍病院について、「二階建ての立派な建物は北満における唯一の一等病院としての威容を整えている〈「満州縦断従軍記」大塚乙茂『従軍回想の記』p.24〉とあるので、そうだとしても、まず例外というものだろう。
満州の部隊がどのような秘匿番号を使っていたのか。それを纏めた本でもあるといいのだが、私には心当たりがなかった。そこで、平和祈念事業特別基金の手記集『平和の礎』全45冊などから、部隊名を拾っていたのだが、ありがたいことに、この基金の出した『戦後強制抑留史 第七巻 資料編』の中にそれを纏めたものがあった。
その「関東軍各部隊通称号一覧」(1945年7月30日の戦闘序列を基準にし終戦頃までのものを加えたもの)の説明によると、
「 部隊通称号は、固有部隊名を秘匿することを主な目的としたもので、兵団文字符と通称(一連)番号からなる。兵団文字符は漢字一字または二字で表わし、通常独立旅団級以上の戦闘部隊は固有の文字符を持ち、隷属先が変っても変らない。非戦闘部隊等及び聯隊級以下の戦闘部隊(師団等の編制内の旅団を含む)は固有の文字符を持たず、隷属する上級部隊の文字符を使用する。(略)通称番号は四〜五桁の数字で表わし、文字符と関係なく、戦闘・非戦闘部隊等にかかわらず、各部隊等(通常独立大・中隊以上)に固有のもので、隷属先が変化しても不変である。ただし、一旦復員して再び編成された場合や編成替えなどにより新・旧複数の番号を有する部隊等がある。
更に、陸軍共通の通称番号が定められる前から、関東軍では中央の認可のもとに独自の通称番号をつけていた。文字符「満」(または「満洲」)と概ね三桁以下の数字である。(略)この関東軍の定めた通称号は、当時の全般的な記録が残っていないので断片的にしかわからないが、本一覧作成のための調査間に資料を得た範囲で付記した。」〈「関東軍各部隊通称号一覧」説明『戦後強制抑留史 第七巻 資料編』p.87〉
関東軍独自の通称番号は概ね三桁以下とあるが、四〜五桁の番号が用いられている例もしばしば見られる。戦友会の中にも「満州第1215部隊戦友会」などがある〈『戦後強制抑留史 第五巻』p.324〉という。
結局、この「関東軍各部隊通称号一覧」および私が拾ったものの中には、文字符が「満洲」であれ、そのほかのものであれ、9832・9833の番号を持つ部隊はない。九千番台の番号を持つ部隊自体が数少ない(五千〜八千も少ない)。
関東軍には、太平洋戦争開戦時に43、終戦時に69の陸軍病院があった〈「陸軍病院」の項『日本陸海軍事典 コンパクト版』上 p.37〉。「関東軍各部隊通称号一覧」には、69の陸軍病院が載っている(穆稜陸軍病院だけ番号が空白。そのほか兵站病院・野戦病院もある)。勿論、その中には、9832・9833部隊はない。(なお、本院のほかに分院もあり〈「つれ/゛\の記」河野登美江『従軍回想の記』p.48、「興城陸軍看護婦生徒の記録」国吉昌子『紅染めし』p.186、「従軍記」岩本静子『戦場に捧げた青春』p.111、など〉、本院とは別の部隊名をつけられていたかもしれない。奉天陸軍病院は満州第145部隊〈『日本赤十字社社史稿』第5巻 p.158、「遺芳録」『従軍看護婦 痛哭のドキュメント』p.240、など〉(満州第79部隊、13011部隊などの部隊名もみえる)だが、奉天陸軍病院五竜背分院〈『紅染めし』p.186・『従軍看護婦 痛哭のドキュメント』p.150〉は満州第45部隊〈『軍隊末期の初年兵と戦争』pp.67,69,97〉という)。
第9832部隊・第9833部隊が実在したものか、かなりあやしいと言わなくてはならない。
堀喜身子が志願看護婦ならば、応召とあるのは変だが、比喩的にそう言ってもよいかもしれない。奈良原春作によれば、堀喜身子は庁立病院に勤務していたのに、そこに軍隊などから従軍を志願するよう要請があり、それを受けて従軍したということにでもなるのかもしれない。だが、日赤看護婦のような義務もないのに、赤ん坊を置いてまでしてそれを受けるものだろうか。
『白衣の天使 従軍看護婦』が明らかに間違っているのは、二人の子供が共に1943年以前生まれではないことである。二人の子供が生まれたのは、実際はそれぞれ1943年及び1944年である。子供を産んだ年が違えば以後の堀喜身子の行動は全く違ったものになる訳で、『白衣の天使 従軍看護婦』の内容が信用できないことは明白だろう。
(3) 樺太庁立知取病院
手記には、堀喜身子は満州の看護婦養成所を卒業したのち、「その後郷里の樺太知取(シリトリ)へ帰って、そこで庁立病院の看護婦」となったとある。略歴には樺太知取病院に勤務とあるから、この病院は樺太庁立知取病院ということになる。
ところがそのような病院はない。知取町には確かに知取病院という病院があった〈『樺太市街地図・商工人名総覧』p.141 知取町の市街地図〉。しかし、それは庁立病院ではない。私立病院だろうか。樺太の庁立病院(正式には庁立医院)は、真岡・豊原・大泊の三ヵ所にあっただけである〈『昭和14年版 「樺太年鑑」』p.82 および『樺太基本年表』〉。
『白衣の天使 従軍看護婦』では、「庁立豊原病院」になっている。
(4) 野戦病院、救護所、戦地
堀喜身子は「虎林の野戦病院の廊下で」夫の堀正次と行き会ったと書いている。当時の満州は、ソ連と交戦状態にあったのではなく、看護婦が野戦病院に勤務するようなことがある訳がない。陸軍病院の筈で、虎林陸軍病院〈『陸軍オール部隊名鑑』p.135〉ということになる。
従軍看護婦の勤務した病院について、『白衣を紅に染めて』のあとがき中の解説を引用してみる。
「 任地――つまり戦場の病院の状態は、手記にもあるように、中国大陸などの場合をみると、大学など大きな建物を占領し、そこが陸軍病院となり、それぞれ作戦によって野戦病院が戦場にできます。野戦病院と、後方の陸軍病院との間に、野戦予備病院・兵站(へいたん)病院があります。
野戦病院は戦場のすぐ後方にあって、戦場が移動することによって、前線へ前線へと移動します。ここは、衛生兵が配属されて、看護婦はつきません。野戦病院のすぐ後方が野戦予備病院で、看護婦が活動する最前線となります。ここも、野戦病院との距離があきすぎますと移動します。したがって、野戦病院、野戦予備病院は、テント、バラック建ての小屋あるいは、占領した民家などでした。
これらの病院と陸軍病院の間に兵站病院がありました。ここは全く移動せず、主として、野戦予備病院で、手当ができずにおくられてくる重症の傷病兵を、その状況に応じて、内地へ送り返す人、後方の陸軍病院で手当する人、また兵站病院で治療する人などにわけて送りこんでいたようですが、戦いが熾烈となり、傷病兵が多くなって、どの病院も収容しきれ〔な〕くなってきてからは、医薬品も不足となり、応急の処置で手いっぱいであったようです。
こうした任地の人員や病院の状況などには、若干、方面や時代、また状況や作戦などによって、ちがいがあったようです。」〈『白衣を紅に染めて』pp.250-251〉(〔な〕は欠字を補った)
1937年9月、山崎近衛(ちかえ)は、上海在留邦人の特別救護のためという特別救護班に加わったが、上海上陸からすぐに上海特別陸戦隊の野戦病院勤務ということに変更されたという。「女性で野戦病院勤務というのは、およそ私達がはじめてのことであったと思う。」とある。「病院は敵前二百メートルの所にあったため、夜は敵兵の騒ぐ声まで聞こえることもあった。銃声も、すぐそこで炸裂していた。」というが、病院自体は、「フランス租界の工部局病院跡であり、赤いレンガの外国風の立派な建物で」「きれいな芝生、真っ赤なカンナの花や、サルビアの花が燃えるように咲いて」いるところだった〈『火筒のひびき』pp.43-45〉。
看護婦に戦闘訓練を施している例があり(後述)、女でも戦力になるなら使おうという意図がみえるが、軍隊には男の衛生兵(もとは看護兵といった〈『日本人捕虜』下 p.360〉)がいるのだし、女が前線にいてはかえって足手まどいになりかねないことは常識で考えても明らかなことである。陸軍看護婦の手記集『従軍回想の記』には、野戦病院で働いた二人の回想が載っている。しかし、二人は応援として野戦病院で働くことになったようで、最初からそこに配属されたのではない〈『従軍回想の記』pp.37,39〉。日赤愛知支部編成の第255救護班〔書記1、婦長2、看護婦20、使丁1〕は、1941年1月、武昌の武漢大学を接収した武昌兵站病院〔のち武昌陸軍病院〕に着任したが、1941年4月、「日赤救護班としては異例の野戦病院応援勤務の命令」が出た。そののちも1942年4月、1943年1月に野戦病院への応援に行っている(1943年6月に内地帰還の命令を受け愛媛班と交代。愛知班は野戦病院で何の被害もなかったが、その後野戦病院が敵襲にあったときいた、とある)〈「武昌勤務の二年六カ月の思い出」木村なを・橋本志づ子『あいち従軍看護婦の記録』pp.141,144-145,149-150,160-161〉。日赤兵庫県支部の第376救護班は、1943年6月に編成された第30軍傘下の第4野戦病院に配属された〈『従軍看護婦 痛哭のドキュメント』p.17〉という(どこかに間違いがある。兵庫県支部の第376救護班は、1943年3月5日編成、編成人員24、南方の威第10613部隊に配属〈「昭和一二年〜二〇年派遣救護班調べ」『日本赤十字社社史稿』第5巻〉。第30軍は、終戦近くの満州の「根こそぎ動員」に伴って編成。1945年7月30日付大陸命第1369号により第30軍戦闘序列、これら兵団の隷属区分、これら兵団中2コ師団・1コ独立混成旅団の編成などが定められた。概して7.中下旬ごろに編成を終わったが、少なからざる部隊は8月以降に及んだ。〈『關東軍<2>』pp.272-273〉)。こうして、全くないというのでもないが、看護婦が、野戦病院に勤務することは稀であったと言える。
以上の説明から、戦闘地域ではない満州で、従軍看護婦が野戦病院に勤務することはあり得ないことは明らかだろう。
強いて陸軍病院を広義の野戦病院であるとすることはできる。しかし、その病院に勤務した者が、野戦病院と陸軍病院をいっしょくたにしているのは、納得できない。従軍看護婦の体験記などで、このように大雑把に野戦病院に勤務したと述べているのは、私が知る限り、『みやぎの女性史』の中で日赤看護婦の細川ふみこが述べているものだけである。次のようにある――「二度目の応召は太平洋戦争の昭和一八年。私は三六歳でした。新卒看護婦二〇名を率いて、中支の野戦病院が任地。」〈「赤十字精神のもとに」細川ふみこ『みやぎの女性史』p.650〉。「1943年」・「宮城」・「中支」をもとに探すと、この班は第439班、編成1943年4月15日、編成人員24人、華中の登第1630部隊配属である〈『日本赤十字社社史稿』第5巻 p.162〉。この病院は、野戦予備病院か兵站病院だったのかもしれないが、そこは続いて次のように書かれる状態だったから、野戦病院と呼んでもおかしくはない所だった。「上海から金華まで、汽車と小舟を乗り継ぎ、荷を背負って丘を歩きたどり着いた所は、水もないゴザを敷いただけの宿舎。銃砲の爆音におびえ、月明かりの下でみんな泣き出してしまいました。叱りましたら、次の日にはシャンとなって働きました。」 しかも、この文章は、女性史という枠組みでのそんなに長くない聞き書きだから、野戦病院という表現になっていると思われるのである(本当に野戦病院だったのかもしれないが)。
(以上が2006.3の時点の文章なのだが、その後分かったことを書き添えておく(2007.5.9)。
以上の細川ふみこの班のことは『道 日本赤十字社宮城県支部 従軍救護看護婦の記録』p.176以下にもう少し詳しいことが書いてあり、彼女も手記を残していた。この時の彼女の班は、第439班で間違いなく、1943.4.25に金華呂第6129部隊に配属、彼女の手記「金華野戦予備病院に勤務して」の題でも分かるように、この部隊は、野戦予備病院(野戦予備病院第32班)であった。班員内訳は、書記2人・看護婦長3人・看護婦24人・使丁2人と記載があり、計33人となるが、交代要員も含まれている。第439班は、そののち1943.8.9(細川ふみこの手記では10月中旬)に南京第1陸軍病院(細川ふみこの手記では南京台城部隊南京病院)に転属。別の看護婦の手記によれば、そののち、南京兵站病院に転属で、どちらかが『社史稿』リストの登第1630部隊だろう。第439班は、そこで終戦を迎えている。
細川ふみこは、その前に、1937.9.12編成の第46救護班に加わっている。この時も婦長とあるが、婦長が5人と多いので、勤務中に婦長になったということもあるかもしれない(そのほかの班員の内訳は、医員6人・薬剤師2人・書記1人・看護婦24人・使丁1人)。この班は病院船勤務であった。)
そのほかには、手記などで勤務先を野戦病院で済ましている例を私は全く知らない〈『女たちの遥かなる戦場』、『従軍回想の記』、『紅染めし』、『白の墓碑銘』、『白衣を紅に染めて』、『戦場に捧げた青春』、など〉。そして、勤務した病院の名を示していないのもまずないと言ってよいのである。
赤十字の災害救護活動などでは「救護所」という言葉がよく出てくる。「救護所」は、『広辞苑』にも出ていない。救護のための場所・施設程度の意味ということになるだろうか。この広義の意味でいうなら救護所に勤務でもおかしくはないのだが、実際の使われ方を見てみると、従軍看護婦の勤務先として「救護所」が使われているのは、私の知る限り堀喜身子の手記とそれに関係した文章だけである。つまり、従軍看護婦の中で救護所に勤務したと述べているのは堀喜身子ただ一人なのである〈『従軍回想の記』・『紅染めし』・『白の墓碑銘』・『白衣を紅に染めて』・『戦場に捧げた青春』などの各従軍看護婦の手記、その他『女たちの遥かなる戦場』なども参照〉。『白衣を紅に染めて』の解説にあるように、赤十字の救護看護婦などの従軍看護婦が勤務したのは、病院船と各種病院であり、救護所ではない。
錦県陸軍病院に勤務していた日赤第179救護班は、1943年錦州鉄路局道場を借り、救護所を開いている〈『ほづつのあとに』pp.120-121〉。救護看護婦は確かに救護所で働いたが、そこに勤務したのではない。ほかの「救護所」の具体的な使われ方をみると、ある軍医中尉の写真に「渡河演習時の第一線救護所で」という説明があり〈『日本植民地史 2 満州』p.79〉、長崎に原爆が投下されたあとに救護所が設けられている〈「小さき十字架を負いて」安部和枝『戦火の中で』p.257、「地獄絵のような長崎原爆」『続 ほづつのあとに 殉職従軍赤十字看護婦追悼記』p.18〉。これらの例から、おそらく、野戦病院も救護所も応急処置的治療を施す所ということでは同じようなものだが、戦闘地域でない場所で臨時に治療を施す所が救護所で、仮の施設というようなものだと思われるのである(広義の意味で「救護所」が使われている例もあるようである。「 経専救護所には、福岡陸軍病院より、佐々木義孝軍医中佐を隊長に「仮編成第二一六兵站病院」が開設されていました。」〈「長崎原爆の思い出」高原二三『続 ほづつのあとに 殉職従軍赤十字看護婦追悼記』p.22〉)。救護所がいくつも作られるなら、それに番号を付したり、地名や建物の名前を冠して呼ぶのも当然だが、仮設のものだから、単に救護所と呼ぶことが多いようである。
堀喜身子が救護所に勤務したと書くのは、おそらく救護看護婦と救護所を安易に結びつけたもので、現実の救護看護婦ならあり得ないような使い方だと言えるようである。また、このことでは多くの人が誤解している。原田みち子は日本人看護婦婦長宛に「城子構」にある「ソ連陸軍病院第二赤軍救護所」発令の命令書が来たと書いているが、救護所発令の命令書などある訳がないだろう(また、婦長の役割も過大視している。軍隊では下士官待遇である婦長宛に命令書が出る訳がない。もっともソ連ではどうだったかは知らないが)。
堀喜身子は、ソ連参戦前の満州を戦地と呼んでいる。それでもいいだろうが、ただ、戦闘地域という意味の戦地であってはいけない。少し前にも「戦線から送られて日増しにふえる傷病兵や、飛行機の爆音にかき消されて」働いたと書いている。しかし、当時の満州は戦時体制にはあったが戦闘地域と呼ぶべきところではなかった。それは、満州からの引揚げ者の体験記などを読めば分ることだ。戦争が進むにつれて、日本本土は連日の空襲に脅かされていったが、それに比べれば、満州はまだ平和だった。一体、「戦線」とは、どこのことを言っているのだろうか。ソ連が参戦して、「それからは俄然戦いが活発化しはじめ」たなどということはない。一つの比喩表現としてはあり得るだろうが、正確さに欠けている。
1943年8月、戦時召集令状を受け、虎林陸軍病院に配属された日赤看護婦の上野初子はソ連参戦までの日々を次のように述べている。
「私達の虎林陸軍病院での任務は、凍傷で帰ってきた兵隊や、内科疾患患者の看護で、それなりに苦労もありましたけれど、その後、遭遇したことと比べると、比較にならない平穏な日々でした。」〈「三十四年目の遺書より」上野初子『戦場に捧げた青春』 pp.1-2〉
また、1939年12月末、短期軍医として東安第一陸軍病院に配属された下久正満は、1943年8月に日赤第453救護班がやって来てからの日々を次のように述べているのである。
「 それから昭和二十年八月九日の病院撤退までは、戦時下の緊張した国境の病院勤務とはいえ割合に落着いた安穏なものだった。」〈「追憶を序にかえて」下久正満『遥かなる東安・敗走三千里』p.6〉
(5) 虎林から新京への脱出
「八月八日、ソ連が宣戦を布告」「丈夫な者だけが二日後長春へ出発することになりました」とあり、虎林を出発して「牡丹江を過ぎ、ハルピンを通過、一週間目の十五日、ようやく長春に」到着したということなのだが、堀喜身子たちは、どのようにして、新京〔長春〕まで辿り着いたのだろうか? 私は列車を使ったのだと思った。ところが列車で移動したというなら、虎林を出発したのがいつだったのかが大きな問題になるのである。
堀喜身子たちが虎林を出発したのが、8月8日のソ連宣戦から2日後というが、ソ連の攻撃開始は9日午前0時だから、それが10日なのか11日なのかはやや曖昧である。いずれにしても、それからでは列車で8月15日に新京に着くことはあり得ないようである。
それなら、トラックで移動したのだということになるが、それも考えにくい。
以下、やや煩雑だが、それらを説明する。
虎林からの避難ということでは、ある一団は、8月9日午前11時虎林駅から汽車で南下し、13日に新京に着いている〈『満州開拓史』p.526〉。
8月9日、15時に虎林駅から最終避難列車が出たあと、駅は火を着けて燃やしてしまうことになっていた〈大谷佑子、談。『NHK戦争を知っていますかA』p.195〉というが、その15時に虎林駅から汽車で南下した一団は、
「九日二十二時東安着。東安−林口間は火の海との情報があり、列車はこれより先きは運行しないとのことで、七両連結の他の列車に乗りかえて待機した。乗換えなかった若干名は一時間後にその列車が運行し、八月十三日牡丹江に到着収容された。
乗換待機中の七両連結車は翌十日午前七時頃構内に積載してあった火薬に引火し、大爆発により前部三両を残し転覆したため七割以上の死傷者を出した。」〈『満州開拓史』pp.526-527〉
これが、東安駅事件で、10日早朝、ソ連軍の進撃を防ぐために、駅の倉庫に火が放たれ、駅舎も燃えあがった。最終避難列車出発後、ホームの爆弾などを爆発させることになっていたはずが、憲兵が列車を無視して火を放ち、大量の爆薬が至近距離で爆発、列車は前部の三両をのぞいて四両が爆破、転覆。一瞬のうちに数百人が死傷したのである〈『満州棄民』p.153〉。
転覆を免かれた前部三両は正午頃東海駅に到着したが、ソ軍の爆撃のため進行不能となり、避難民は歩かざるを得なくなった。その後、ソ連戦車の攻撃などを受けている〈『満州開拓史』p.527〉。
東安駅が使えなくなって、ある者はトラックで東安から牡丹江に向かった。「やっとトラックに便乗し、牡丹江で最後の軍用列車に乗りましたが、その列車もソ連の戦車に砲撃されて、全員、山中に逃げ込みました。自決した兵隊もたくさん見ました」〈鹿野登美『内なるシベリア抑留体験』p.74〉
牡丹江からの列車の状況はというと、ある体験記によると、8月9日、牡丹江駅から、「あたりが真っ暗になってようやく貨車は動きだしたが、夜が明けると又止まってしまい途中で何度となく機銃掃射を受けながら一人又一人と犠牲者もふえ、その度に遺体を名も知らぬ山の中に置き去りにしながら、満人の運転手にお金を渡し、又渡してはようやく走ってもらうと言うような状態で」、8月15日の午後、ハルピンに着いたのだという。「平時であれば牡丹江からハルビン迄は十二時間位のはずだが、なんと七日余りもかかった」〈「私の満洲脱出記」片山静子『佳木斯 追想』pp.184-185〉という。
『騎兵第三旅団の栄光と終末』によると、8月9日、ソ軍侵攻後、虎林線の林口方面への列車の運行状況は、虎林駅から9日午後2時出発した一列車と、東安駅始発の二列車だけで、翌10日には、東安駅始発の早朝と午前10時、さらに夜半の三列車だけという。東安駅事件については、「被害を受けた列車は、八月九日午前九時に牡丹江駅を出発し、同日夕刻東安駅に到着した列車で、翌十日反転して牡丹江方面に向かうべく待機中に、同日午前七時三十分、駅構内に集積していた爆弾が爆発したのである。そのあおりを受け、後部車輌(無蓋貨車)六輌が転覆し、不幸にも乗車していた在留邦人の避難民、及び一部兵員の約二百名が死傷したものである。転覆をまぬがれた前部車輌(二十輌連結)は、前述のとおり同日午前十時に東安駅を出発している。」「十一日になると、敵機の襲撃も本格化し、鉄道は麻痺状態となり、翌十二日になると八面通、梨樹鎮を突破した敵戦車部隊が麻山駅に進出したことにより、虎林線は完全に途絶状態となった。」〈『騎兵第三旅団の栄光と終末』pp.141-142〉とある。
やや食い違いも見られるが、以上のことから、8月10日以降に虎林駅を出た列車で、8月15日に新京に着くことは不可能であるのは明らかである(図們まで南下し、図京線の列車の状況がどうだったのかはよく分からないが。「手記」にあるように牡丹江、ハルピンを経由というなら、あり得ない)。
それなら、トラックで移動したのだということになるが、考えにくい話である。兵士よりも武器の方を大切にした日本軍が、傷病兵などのためにトラックを使わせ、新京までの長距離を避難させたというのだろうか。
関東軍はそんなに自動車を持っていなかった筈だし、その性能も劣り、しかもガソリンも払底していた(「 この米国製のトラックの高性能さ力強さについては(入ソ後いやという程見せつけられたが)、私達が戦斗中使用した「日産」のトラックと比較してみて、この差だけでも敗けた原因が一目瞭然といえた。」〈『時痕』p.36〉とあるし、ハルビン馬家溝の自動車整備技術教育隊〔満州第366部隊〕での教育では、「ガソリンが入らなくなったこの教育隊では、エンジンの始動時には必ず後車輪を浮かせて、決して車を走む(ママ)すことは四ヶ月の教育中一度もなかった。」〈『シベリア俘虜生活日記』p.30〉という)。
詳しくは知らないが、満州での軍隊の移動は列車か徒歩によるのが普通のようで、9日夜に、「東安駅周辺の部隊はことごとく百キロ以上後方の林口(リンコウ)に、まだ順調な運行を行なっていた鉄道を利用して後退」〈『満州棄民』p.152〉というし、8月10日に東安から林口に移動した135師団司令部でさえ、翌11日無蓋貨車十数輌を軍用列車を仕立て牡丹江に向っている〈「中国残留日本人孤児を想う」菅原太郎『私の昭和史X』pp.89-90〉。
傷病兵のためには、幾つかの手記(「北満戦線」宮下美代子『紅染めし』pp.207-209、ハイラル陸軍病院。「三十四年目の遺書より」上野初子『戦場に捧げた青春』p.5、牡丹江の野戦病院〔この野戦病院はソ連参戦後のもの〕。「生きて帰ることができた私」永安春子『戦場に捧げた青春』p.12、牡丹江第一陸軍病院。「"迎春花(インチユンホア)"の花咲けど」中西かほる『白衣を紅に染めて』p.36、琿春陸軍病院)にあるように、駅まではトラックで運ぶが、そのあとは列車で移送するのが普通というものだろう。
軍隊でもトラックでの移動は一般的ではなく、もし堀喜身子たちがトラックで長距離移動したというのなら、そのことを明記するのが当然のように思われる。しかも、満州の道路事情も分らないのではっきりしないが、10日に出発したのでは、とても無事に新京に着ける状況ではなかったように思われる。
日付の明記はないが、おそらく8月12日頃(8月12日に林口の入口にソ連の戦車が来たと書いている手記がある〈「敗走記録」高橋リサ『遥かなる東安・敗走三千里』p.48〉)、「ソ連軍第三六五師団が鶏西(チーシー)から林口(リンコウ)まで関東軍を追撃する途中、道端のトラックに、四〇〇人以上の日本人女性と老人、子供の死体を発見した」「大半の死者の体は銃弾で貫通され、銃剣で殺された者もいた。」〈『一九四五年 満州進軍』p.181〉という。これは、おそらく麻山(まざん or まさん)事件の描写であるが、トラックが加わっての避難でも、ソ連軍に追われて、集団自殺が発生する状況であったのである。(なお、『満洲国軍』付属の地図には道路の記載がある。極大雑把に言えば、鉄道線路にほぼ平行して走るものと、その中間を補うように走るもので、道路網が形成されていた。おそらく車の走れるような道路はそれだけだったと思うがよく分からない。)
虎林付近の諸隊は、8月9日、歩兵第368連隊長の指揮により、徒歩行軍をもって東安北方経由林口に「前進」という〈『關東軍<2>』p.433〉。当然、虎林陸軍病院にも連絡が行った筈だが、何をぐずぐずしていたのだろうか? 重患をどうするかで激論があったというのだが、日本の軍隊とは不要な者は容赦なく捨てる軍隊であった筈である。琿春陸軍病院の例だが、一人で少しでも歩ける患者だけは集め、「どうにもならない患者は捕虜にするのはかわいそうだから全部安楽死させるようにという命令」があったとあり、そのようにして看護婦も殺されているのである〈「"迎春花(インチユンホア)"の花咲けど」中西かほる『白衣を紅に染めて』pp.35-37〉。
「還らぬ天使たち」では堀喜身子が虎林陸軍病院に勤務し、夫の軍医が林口の病院勤務となっている。8月9日午後、堀喜身子を含め虎林陸軍病院の看護婦16人は、松田軍医に率いられて、林口に向けて列車で避難を開始し、8月10日朝、林口に着き、空襲で夫が死亡、鉄道が不通になったため、二台のトラックに乗って、線路沿いに新京に向い、17日に到着、となっている。色々手記と異なっており、鉄道が使えないことも考慮されているが、トラックでの移動がやや問題であることは既に述べた通り。
ソ連参戦まで堀喜身子が虎林にいたというのは第二の手記でもそうなっているが、実は虎林にはいなかったことは、『白衣の天使 従軍看護婦』が明らかにしている。
奈良原春作は、虎林陸軍病院に婦長として勤務していた佐藤節子の手記(『従軍回想の記』にあり、この手記集は『白衣の天使 従軍看護婦』にも転載されている)を読んだ。そして、堀喜身子との関連、疑問点などがあったので、佐藤節子に問合せの便りを出した。その返事には「虎林陸院の堀貴身子婦長は心当たりはありません。名簿も隅からじっくり調べて見ましたが、名前はありませんでした。どこか別の病院の婦長さんではありませんか。」とあり、奈良原春作は「堀貴身子との接点を見つけ出すことはできなかった。」その後、奈良原春作が青葉園の青葉神社社務所で堀喜身子と会談した結果が、堀喜身子は実は林口陸軍病院に勤務していたということなのである〈『白衣の天使 従軍看護婦』pp.4,26-29,153〉。堀喜身子に疑問点を解明して戴いた、堀喜身子の証言があったというのだが、この会談の具体的な説明はない。
林口陸軍病院での堀喜身子については次のように書かれている。
堀喜身子は、林口陸軍病院に配属、やがて婦長になった。1945年春まだ浅き頃、夫が配属され、赴任して来た。8月9日、ソ連参戦で、婦長の堀喜身子以下32人の看護婦が牡丹江陸軍病院に転属となった。落ちつく間もなく軍命令で、傷病兵を無蓋車に乗せ、ハルピンヘ輸送することになった。「以下は先に記した、虎林陸軍病院の佐藤婦長以下二十二名と、三福婦長以下二十一名の看護婦たちがたどった道程とほぼ同じであるが。/ 虎林班はハルピンで一応任務は終ったが、林口班三十二名は、別の斑四十名と、更にこれより南方の奉天(瀋陽)まで、患者輸送の任にあたることになった。/ ところが、いかなる理由によるものか、堀婦長以下三十二名は、新京で任務を解除された。」〈『白衣の天使 従軍看護婦』pp.30-33〉
「先に記した」とあるのは、佐藤節子の手紙に述べられていることで、林口班というのが堀喜身子の班で、別の斑40名というのは、ハルピン被服廠の女子軍属40人のことである。堀喜身子らが新京にたどりついたのは、8月18日とある〈『白衣の天使 従軍看護婦』p.35〉。
実際の林口陸軍病院の看護婦の状況はどうであったろうか。
『戦場に捧げた青春』の中に林口陸軍病院に勤務していた日赤救護看護婦の手記がある(「中国大陸での歳月」桜井トシヨ『戦場に捧げた青春』pp.76-84)。その手記を書いた桜井トシヨは、1943年8月に召集令状を受け取り(約一か月前に召集解除されたばかりだったという)、大阪日赤で救護班の編成式を終え、渡満、林口陸軍病院、呼称第588部隊に勤務したとある。
以下、桜井トシヨの手記を中心にして、実際に林口陸軍病院にいた看護婦たちのソ連参戦以後の状況を示してみる。
夜明けにサイレンが響いた。日ソ開戦を知り、早速患者の転送が始まる。患者の搬送を終え、病院長は「病院を枕にして」と訓示し、死を覚悟するが、日記・写真・手紙等一切をボイラーで焼き、官舎の私物も焼いて身辺の整理を終え、駅へとトラックに乗る。駅は荷物の山で、衛生材料・機械・被服・食糧等看護婦の衣のうもそこにあった。駅に着いた頃ソ連機の空襲があり、機銃掃射を繰返して北へ去った。「防空壕に避難し夜を待って雨の中を行軍する。闇を裂いて照明弾が投下された。小休止になると雨被を着ている人はそのまま草むらに倒れるようにになる。前後を肩で支えあっている私達に「眠るな! 風邪をひいたら肺炎になるから」と注意される。」
「 夜明け方線路を歩いていると、雨のため護送車が故障したとの連絡が来る。診療主任が兵隊さんと共に救援に引き返され、そのまま別動隊となる。航空隊の人が乗った汽車が止まり、貨車に引き上げてもらう。機銃掃射の弾痕も生々しく、数名の負傷者もいたが、そのまま図們に向うと言う。部隊は、牡丹江近くで下車し、炎天の草原で夜を待つ。夜空を焦して燃え続けるのは貨物廠らしい。担送患者で一杯の列車に便乗し、ハルピン駅近くで無蓋車に移る。駅は列車と人の混雑でひしめきあっている。会議に出席の部隊長と逢い、名月溝に病院開設のため行軍し、小学校跡に入る。兵隊さんは早速戦車壕構築を昼夜続ける。」
この辺の記述は、数日間のことがひとかたまりに書かれているので、実態が分かりにくい。綏浜線でハルピンかその近くまで行って、そこから拉浜線・図京線で名月溝に行ったということだろうか。東安第一陸軍病院の隊長(に率いられた一部)は、綏浜線の一面坡近くから図京線の蚊河に徒歩で移動(10月8日、蚊河近くで敗戦を知る)〈「撤退経路図」『遥かなる東安・敗走三千里』p.1〉というから、同じようにして綏浜線のどこかから名月溝まで徒歩で移動したのかもしれないが、日付が大分違う。
東安第一陸軍病院に勤務した第453救護班の高橋リサは、8月13日、貨車に乗ったが、そこで林口陸軍病院の救護班に会ったと記している〈「敗走記録」高橋リサ『遥かなる東安・敗走三千里』p.49〉。第453救護班は、七星で全員下車したが、午後3時頃、兵器を積んだ武装列車に乗り込んだ。鉄橋にさしかかったところで、地雷が爆発して列車は停り、夜、樺林での戦闘となっている。七星は林口と牡丹江の中間。8月13日には、林口班はまだ林口からそんなには離れていなかったことになる。
桜井トシヨの手記の「一日遅れの終戦放送に慟哭ただ慟哭」というのは、8月16日ということだろうか。「夜、部落民の暴動に兵隊さん応戦。私は机の下に体を小さくして潜んでいると、しばらくして静まった頃、別動隊の人達が帰り、悲痛な声で「陸軍看護婦長が戦車の攻撃で亡くなられました」と言う。」これ以降、陸軍看護婦についての記述はない。それから数日して武装解除され、延吉に行き、そこで「終戦一年を迎える頃、ソ連は撤退し、八路軍が入って来る。国民党との交戦中で看護婦を要求し「条件として家族収容所に食糧や燃料を供給する」と言う。所長や主計は承諾された様である。」とあり、中共軍に留用されたのである。桜井トシヨが帰国したのは、1953年4月であった。結局、桜井トシヨらは新京には行っていない。
『白衣の天使 従軍看護婦』では、堀喜身子は満赤看護婦ではなく、陸軍看護婦である。林口陸軍病院の陸軍看護婦は、途中まで日赤看護婦と行動を共にしたが、陸軍看護婦長が死んでからそのあとも日赤看護婦と一緒だったかどうかは分からない。陸軍看護婦の人数や看護婦長が何人いたのかも分からない。奈良原春作が書いたように虎林班と同じような道程をたどったようには思えないが、ハルピンで陸軍看護婦は別行動を取ったのかもしれず、はっきりしない。残念だが、桜井トシヨの手記からは、奈良原春作が述べたことが正しいとも正しくないともはっきり言いかねる。普通に考えて、虎林陸軍病院のように、林口陸軍病院でも陸軍看護婦と日赤看護婦が行動を共にするのが自然だろうと言えるだけである。戦争が終ったといっても、共に部隊長の指揮下にあったと考えるのが自然なのである。
『すべての戦歿者に捧げる』でも、堀喜身子らは林口陸軍病院に勤務となっている。私は編者(著者でもあるようである)の名越二荒之助(なごしふたらのすけ)〔元高千穂商科大学教授〕に、手記には虎林とあるのにどうして林口なのかと質問してみた。その回答は、「堀婦長は満軍の看護婦でした」とあり、満軍の看護婦だから、ということのようであった。堀喜身子らは満州赤十字の満赤班だから、満軍の看護婦というのが当然なのだろうか。手記には、満軍の看護婦だったとは書かれていない。文献のコピーを送りたいが忙しくてできないとあったから、堀喜身子から聞いたのではなく、何らかの典拠があるものらしい。私はそれを知らない。だが、それなら、奈良原春作もそうだが、名越二荒之助も、何故堀喜身子の手記には「虎林の野戦病院」としか書かれていないのかを説明しなければならないだろう。
(6) 堀喜身子の二人の子供
「由来記」によると、堀喜身子には男女二人の子供がいた。女の子は1944年生まれのようである。二人の子供がいたことは隠しようがないことだから事実だろう(長男の方が1943年生まれであることは、その方から教えてもらった)。
しかし、手記には子供のことは一切出て来ない。堀喜身子に子供がおり、しかも一人はまだやっと一歳位の赤ん坊だったというなら、手記のどこかに、「幼子二人を抱えて、どんなにか私は不安だったことでしょう」などという言葉があって当然ではなかろうか。それがない。不思議である。故意に子供のことは隠したとしか考えようがないだろう。
1940年に堀喜身子は召集されて満州に渡ったとして、そこで二人の子供を産んだということになる。救護看護婦の義務年限は12年で、召集が来れば夫や幼児を残し、乳呑子を実家に預けて出征した例も稀ではなかった〈『日本人捕虜』下 p.361〉というが、それは出征時のことである。堀喜身子の場合、召集されてから子供を産んだということになるのだろうが、考えにくい話である。
堀喜身子は、夫に「ばったり虎林の野戦病院の廊下で行き会った」と書いているが、召集してから夫に会ったという救護看護婦の手記が『戦場に捧げた青春 第二巻』にある。それによると、1945年5月頃、漢口第一陸軍病院に勤務していた別府サチ子は、面会人と知らされ、地下の面会室に行くと、そこに夫がいたという。「夫は職業軍人で、その頃内地の部隊に勤務していました。そして、前線に兵隊さんを輸送する命令を受け、護送しながら漢口へ来たのだそうです。」結婚して一日も家庭生活を営んだ事のない夫婦だったという。「 戦争中ですから、夫婦の面会等の女々しい事は許されるものでない事は、夫も軍人ですから充分承知していたと思います。私は上司のはからいと、夫の計画に従い外出し」憲兵隊の倉庫に入り、「薄暗い部屋には大きなテーブルがあり、私は夫の話を聞き、出されたお茶(中国茶)を」飲んだが、時間の制限もありそのまま別れた(その後、1946年4月にも病衣で後送されてきた夫に会っている)〈「巡り会い」別府サチ子『戦場に捧げた青春 第二巻』pp.294-296〉。
私は、1945年召集され青森の31連隊の本部付だった〈『我が生涯史 阿呆の書綴り』pp.45-47,51〉という人から話を聞かされたが、兵隊の妻が面会に来た場合、便所の中で二人にセックスさせたのだという。便所の中は少々いただけないが、別府サチ子の場合も同じようなことがあったのかもしれない。しかし、なかなか手記にはそのようなことは書けないだろう。軍隊にいて、夫婦が巡りあっても、できることはせいぜいそんなものである。
堀喜身子の場合、夫と同じ部隊にいたことになるのだが、夫婦の宿舎を与えてくれと願うことができるとは思われない。部隊長が寛大ならあるいはそういうことを許すかもしれないが、少なくとも堀喜身子は従軍看護婦を辞めねばならないのではなかろうか。そうでなくては、集団生活をしている看護婦の統率上問題があるように思われる。
子供が生まれて、堀喜身子は看護婦の仕事を辞めなかったのだろうか? 従軍は義務とは言え、堀喜身子が妊娠・出産ということになれば、堀喜身子の上にいた人間は、その義務を免除できるのである。
1939年7月17日、板垣征四郎〔陸軍大臣、中将のち大将〕の名で出された『陸普第四四三八号・戦時衛生勤務ニ服スル日本赤十字社救護員ノ取扱(トリアツカイ)ニ関スル通達』は次のように、軍隊における救護看護婦の身分についてきめているという。救護看護婦は、部隊長の指揮下の軍属になるのだが、もう少し細かいことを定めている。
「第一条 (略)
第二条 救護員ノ始(ハジ)メテ陸軍部隊ノ指揮下ニ入リタルトキ当該(トウガイ)部隊長ハ之(コレ)ヲシテ宣誓セシムモノトス。但シ特別ノ事情アルトキハ陸軍大臣ノ指定スル者ヲシテ宣誓ノ式ヲ行(オコナ)ハシムルコトヲ得
第三条 前条ノ規定ニ依リ宣誓シタル救護員ハ其(ソ)ノ時ヨリ陸軍ノ指揮下ヲ離ルル時(傷痍(シヨウイ)疾病(シツペイ)ノ為(タメ)尚(ナオ)引続(ヒキツヅ)キ陸軍病院入院ノ者ハ退院ノ時)迄(マデ)之(コレ)ヲ軍属トス
第四条 配属部隊長ハ必要ト認ムル場合救護員ノ日本赤十字社ニ於ケル身分ノ取扱ニ関スル意見ヲ日本赤十字社社長ニ通報スルコトヲ得
第五条 救護員補充及(オヨビ)交代ヲ必要トスルトキハ特ニ規定セサル限リ配属部隊所管長ヨリ陸軍大臣ニ上申スルモノトス
第六条 救護員ノ給与ヲ官給スル場合ニ於ケル支給ノ標準(俸給ヲ除ク)左ノ如シ
救護看護婦長 下士官ニ準ス
救護養護婦 兵ニ準ス」〈『従軍看護婦 痛哭のドキュメント』pp.172-173〉
1942年、船が座礁しドック入りとなり、部隊が待機状態、さらに休暇に入ったという特殊な事情のせいもあるのかもしれないのだが、守屋ミサの部隊(病院船)では、部隊長は看護婦に見合いを奨励し、成功したら召集解除にすると言い(当時の女の適齢期は20前後だった〈『従軍看護婦の見た病院船・ヒロシマ』p.39〉)、さらに「部隊看護婦八〇名のうち、既婚者は新婚のKさん一人で、部隊長はかわいそうだといって、適当な病名をつけて数日間入院させ、召集解除にして帰郷させ」た〈『従軍看護婦の見た病院船・ヒロシマ』pp.107-108〉という。雪永政枝は、1937年に思いがけず電話召集を受けたが、「 事情は、三原から応召した日赤同期の松岡マサノさんが、生後三カ月の乳児を残しての応召と判って、即日帰郷となり、切羽詰った支部がその穴埋めに私を選んだのであった。」〈『きのこ雲 ―日赤従軍看護婦の手記―』p.16〉とある(雪永政枝は、第140救護班として大阪陸軍病院に配属となっている)。乳呑児を残しての従軍も稀ではなかったとはいえ、こうして結婚や子供を理由にして召集解除になる例もしばしばあったものと思われる。部隊長の温情というだけではなく、それは「産めよ、増やせよ」という国策にも合致するからである(こういうことを押し進めれば従軍看護婦は成り立たなくなるので、婦長などは部隊長の「温情」に困惑を見せる)。しかし、部隊長がいちいち個々の看護婦の事情を知ることはないだろうし、「内地」を離れてしまえば、簡単には召集解除はできないということだろう。
とにかく、部隊長は人事について大きな権限を発揮できた訳で、妊娠・出産となれば、なおさら召集解除ということになる。
一般に従軍看護婦の規律は厳しいもので、日赤救護班は「軍人と同じきびしい軍律のもとに活躍した」。「看護婦の風紀はとくにきびしく、外部の買い物はいっさい男性係員に頼み、外出は集団行動で、しかも兵隊さんの外出日とは別の日にしか許可しなかった。」〈北京病院に随行した小野寺庄七郎〔元〔(maybe)日赤支部〕参事〕談『新編 郷土兵団物語』pp.297-298〉という。
ところで、『従軍看護婦悲録』という本には、派遣されてそこで妊娠したという日赤看護婦の話がある。陸軍軍医学校というから、おそらく国内だが、「 彼女が軍医学校にきて六ヵ月目に総婦長は自室に呼んで問いただした処、やはり妊娠していることがわかった。しかも、五カ月、相手は事務の衛生曹長であった。/ 彼女は翌日召集解除になった。その後曹長の召集解除を待って二人は幸福な家庭を作ったということを人伝てに聞いた。」〈『従軍看護婦悲録』p.113〉
堀喜身子が妊娠したのなら、救護看護婦なら即召集解除、陸軍看護婦ならクビ以外には考えられないだろう。辞めても夫の軍医がいたというのだから、経済的に困るということもなかった筈である。
つまり、1945年には堀喜身子は看護婦として働いていなかっただろう。それからも二人の子供がいるので看護婦の仕事をするには困難があっただろう(日赤の場合だが、看護婦の勤務体制は戦前から三交代制であった〈『戦いの白衣は遠く』p.25〉)。また、出産育児に時間を取られるので、看護婦としてのキャリヤもせいぜい二、三年のことになって、婦長として十分なものではなかったと思われる。少なくとも、第八病院の他の看護婦に抜きん出ることはなく、劣っていたとみなすのが当然なのである。
次いでに書くと、虎林で夫の堀正次と別れてから、夫のことは何一つ出て来ないのも不自然であるだろう(堀正次の経歴も極めて不明確である。手記によるなら、少なくともソ連参戦までは生きていたことになるが、堀喜身子の略歴では、それまでに死亡したかのようになっている。『青葉慈蔵尊』では、ソ連に抑留され、そこで死亡となっている。堀正次の一切について、確認できるものは何もない)。
第二の手記では、堀喜身子に男女二人の子供がいたことが明記されている。「昭和二十年の八月八日、ソ連軍が日ソ不可侵条約を破ってソ満国境を越えてなだれ込んで来た時まで、」男女二人の子供に恵まれ、「それが戦時中の満州での生活ではあっても掛け替えのない一家だんらんの幸せな日々であり、生活でした。」とある。
しかし、二回の妊娠・出産・子育てで、看護婦の仕事をどうしたのかというようなことには全く触れられていないし、せいぜい二、三歳の子供二人を抱えての第八病院での勤務の苦労なども全く語られていない。
原田みち子の『還らぬ天使たち』には、堀喜身子は未亡人で子供がいるという言葉が一ヵ所出てくるだけで、そのほか子供のことには全く触れていない。
奈良原春作の『白衣の天使 従軍看護婦』では、子供の生年が事実と異なるので疑問だが、二人の子供は樺太に残して来たことになっているようである。
(7) 婦長
堀喜身子の手記、その他を通じて、「婦長」「婦長」と、堀喜身子が婦長であることがやけに強調されている。そして、看護婦たちの中で堀喜身子婦長は特別な一人になっている。1946年に堀喜身子はおよそ28歳、年長とはいっても、他の二十代の看護婦たちとそんなに年が離れている訳でもない。はたして婦長というものはそんなにエライ、特別なものなのか? 私はそういう疑問を持った。
調べてみると、当時の救護看護婦の間では、婦長とは確かにそういうものでもあった。看護婦といっても、その規律は軍隊式で、婦長を呼ぶ時も「婦長殿」と呼んでいたのである〈『満州国に生まれて』p.43、『女たちの遥かなる戦場』p.28、『日本人捕虜』下 p.361、など〉(なお、海軍では上官に「殿」をつけなかったが、そこで働く看護婦は婦長には「婦長殿」と呼んでいた〈『戦いの白衣は遠く』p.167〉)。1938年4月1日、日赤新潟支部救護看護婦養成所に入学した守屋ミサによると、「入学後は、まず言葉遣いの指導です。上司には、「婦長殿」「院長殿」と「殿」をつけ、同級生や下級生を第三者に言う時は「さん」をつけないで呼び捨て。「です」や「すみません」は禁句で、「ございます」「申しわけございません」など独特の日赤言葉。」〈『従軍看護婦の見た病院船・ヒロシマ』p.30〉という。
赤十字の救護看護婦というと、私などはナイチンゲールを思い浮かべたりして、戦場でも敵味方の別なく負傷兵の看護をする人などと思ったのだが、当時の日本の救護看護婦はそういうものではなかった。むしろ、彼女らは軍隊の一部なのである(日赤の救護班は陸海軍大臣の要請を受けて軍属として軍の指揮下に入るのだから、そこに敵味方の別なく傷病兵の看護をするなどという「人道」が行われる筈がないのである(日赤が「人道」的な組織だというのなら、そもそも、そのような救護班を出すべきではない)。従軍看護婦の手記などを読んだ範囲では、実際にも「人道」に値する行動を見つけることはできない。この点では私は間違っていたのだが、歴史学者の中にも同じように間違っている人がいる)。
従軍看護婦には「私達だっていざと言う時は戦闘員なのだ。」という自覚がうえつけられた〈「北満戦線」宮下美代子『紅染めし』p.203〉のだし、第22軍杭州陸軍病院嘉興分院〔のち杭州第171兵站病院嘉興分院〕では、「勤務といっても、患者の看護のひまひまには、槍の訓練、手りゅうだんの投げ方、銃剣術のけいこ、防空壕の掘り方と毎日忙しく、そして不安と不気味な空気の中で働いていた。」〈「救護看護婦としての引揚記録」大根あい『満州さ・よ・な・ら』p.776〉のだし、1940年4月頃、中支の新郷の兵站病院では第39救護班の看護婦に射撃訓練を施していたし、1941年武漢揚子江岸で看護婦は三八式歩兵銃の実弾射撃訓練を行なっていた(野戦予備病院第29班)〈写真説明『ほづつのあとに』p.100〉。
男ならば兵士としてお国のために尽くす、女も赤十字の救護看護婦としてお国のために働いてほしい、そういうことを親に言われ、また自らそう思って、赤十字の看護婦になった例は多い〈『女たちの遥かなる戦場』の各看護婦の例、「大陸の土を踏む」鈴木妙子『白の墓碑銘』p.190、『日本人捕虜』下 p.360、など〉。日赤の看護婦教育では「博愛ニシテ懇篤親切ナルヘキコト」などの「救護員十訓」のほかに、「「博愛慈善」「報国恤兵(ほうこくじゆつぺい)」が強調されました。「報国恤兵」とは、「兵を恤(いたわ)り、国に報ゆる」ということで、これは、日赤が他国の赤十字と異なるところであると、誇りをもって教えこまれました。/ 「報国恤兵」は、戦場にあっても絶対中立を守るべき国際赤十字の理念に反するものであることに、当時私たちは疑問をもちませんでした。」〈『従軍看護婦の見た病院船・ヒロシマ』pp.31-32〉とある(ある意味、日本国民全てが戦闘員だったとも言えるのだが)。
そして、軍隊の中では、婦長は下士官、看護婦は兵の待遇であった〈『日本赤十字社社史稿』第5巻 p.362〉。
しかし、当時の婦長とはそういうエライものであったとしても、どのような従軍看護婦の手記を見ても、婦長が堀喜身子の手記におけるような特別な存在として描かれることはない。婦長は看護婦のリーダーというだけだとも言えるのである。『従軍看護婦長の手記』という婦長の手記には「看護婦達」がどうしたという表現がやや目立ち、婦長と看護婦を区別する意識がやや感じられるのだが、この本は順位意識の強い戦前の本だからで、そこには「題字 日本赤十字社長 公爵 徳川圀順閣下/序文 日本赤十字社副社長 中川望閣下」などと麗々しく掲げられている。戦後に書かれた手記では、堀喜身子が第二の手記で看護婦を自分の部下と呼ぶような表現は一切見られないのである(1940年12月に婦長になった雪永政江の手記では看護婦達を「輩下」と呼んでいる〈「一〇六救護班の引き継ぎ」雪永政江『きのこ雲』p.27〉。「部下」と「輩下」、微妙な違いといえば確かにそうだが、婦長になって雪永政江が感じたのは、看護婦達を統率・庇護・指導する者としての責任感であり、そこには看護婦を下に見るような意識はない)。
堀喜身子の手記には、彼女が新京に来る以前から婦長だったとはっきり述べられている訳ではないが、彼女が特別な存在のエライ婦長として描かれるために、そうみるのが自然であるようである。大抵の本はそのようにみなしている。満赤班というものの婦長だったという訳である。
堀喜身子が婦長だったというのなら、彼女の年齢はいくらか問題があるようである。
看護婦あるいは従軍看護婦がどのようにして婦長になるのかというと、主に二つのコースがあったと言えるようである。一つは、看護婦になってから特別に選ばれて、婦長候補生として一年間の婦長教育を受けて婦長になる場合である〈『日本赤十字社社史稿』第5巻 p.334〉。このようにして二十をいくらか越えたばかりのような若い婦長もいない訳ではなかった。その例が、「河合みね伝」にある。もう一つは、婦長教育を受けずに十分な経験を積んだ看護婦が婦長になる場合である。大正時代とやや時代が古いが、その例が『社史稿』にも載っている〈田渕まさ代・秋山みよの場合、『日本赤十字社社史稿』第5巻 pp.99-100〉。
南方の陸軍病院のケースは特殊だろう。1982年8月12日の『中日新聞』に、陸海軍看護婦の手記集『従軍回想の記』を紹介する記事が載っていたが、その中に出ていたある人(陸軍看護婦)は、マニラの南方第十二陸軍病院の婦長だったとあり、1982年の年齢から逆算すると、1945年にはおよそ25歳である。婦長にしては少し若いと思ったのだが、その南方派遣軍第十二陸軍病院に1944年入院したという人の手記によると、その陸軍病院の状況はこうであった――「 陸軍病院には軍医、衛生兵のほか内地から派遣された従軍看護婦が勤務していたが、その数が少なくほとんどが婦長として働いていた。看護婦がたりなかったので、その補助として日本軍進攻の際戦災にあって全く身よりのない、いわゆる戦災孤児で十四、五歳から二十歳ぐらいの女性を軍で現地雇用し、特別志願準看護婦として働いてもらっていた。」〈「特別志願看護婦マリア」林政雄『私の昭和史W』p.48〉(漢口の病院でも中国女性の看護婦を養成し、速成学校で日本語を習ってはいって来て、日本の看護婦は中華さんと呼んだという〈『新編 郷土兵団物語』p.295〉)。
日赤看護婦が何歳で婦長になったかを拾ってみる。
1890年2月生まれの国部ヤスヱは、1923年3月に婦長になった〈『和歌山赤十字病院八十年史』p.825〉(満33歳)。1901年5月生まれの戸沢セイは、1934年3月に婦長〈『和歌山赤十字病院八十年史』p.826〉(満32歳)。1921年3月生まれの中尾敏子は、1943年11月に婦長〈『和歌山赤十字病院八十年史』p.845〉(満22歳)。1913年11月生まれの山崎近衛(ちかえ)は、1942年10月に婦長〈『火筒のひびき』pp.25,79〉(満28歳)。1910年10月生まれの三浦ミヨシ〔のち賢子〕は、1944年に婦長〈『弔魂記 青森の日赤看護婦の手記』pp.12,16、奥付〉(満33歳)。雪永政枝は、1928年、日赤看護婦となり、学校看護婦を経て、1937年に応召、1940年に第106救護班婦長になっている〈『きのこ雲 ―日赤従軍看護婦の手記―』奥付〉(おそらく、およそ満31歳)。
中尾敏子が婦長になった年齢がやけに若い。明記はないが、婦長教育を受けたものと思われる。婦長教育を受けるのでなければ、おおよそ30前後で婦長になると言えるようで、それは常識にも合うのではなかろうか。
1932年、21歳で日本赤十字社旭川病院の看護婦養成所を卒業した船渡めついは、そこで2年間、勤務し、
そのあと1935年11月、日赤から、「野付牛(北見)に日本赤十字の療院ができるので行ってほしい」といわれて赴任。そして翌1936年の春、北空知にある雨竜郡深川町外十ヵ村組合病院の婦長として転任した〈『女たちの遥かなる戦場』pp.43-44〉というから、25歳で婦長になっているのだが、地方の病院などでは日本赤十字社の病院とは事情がやや異なるのではなかろうか。その後、1937年9月12日編成の第2救護班〈『女たちの遥かなる戦場』pp.45-45〉などに加わっているが、婦長だったとは出ていないし、別に婦長も出てくるので救護班では婦長ではなかったようである。
こうして、救護班には二十代前半の若い婦長もいない訳ではなかったのだが、若い婦長が年上の看護婦を監督するのは何かとやりにくいだろうから、救護班などはできるだけ婦長が最も年上になるように編成されたのだろうと思われる。
『社史稿』によると、アジア太平洋戦争で日赤が派遣した看護婦は29,562人、看護婦長は1,888人である〈『日本赤十字社社史稿』第5巻p.179〉。日赤の救護看護婦について、19歳から31歳までの勤務として(実際は戦争中はもっと巾があったが)、ほぼ婦長・看護婦17人に1人の割合で婦長がいたという比率から判断すれば、婦長の年齢はおよそ30過ぎということになるだろう。先に挙げた細川ふみこは36歳で新卒看護婦20人を率いて任地に赴いたとあるから、婦長の筈である。ある手記には婦長で29歳だったとあり〈「従軍記」中山ハツエ『戦場に捧げた青春』p.94〉、日赤看護婦ではないが婦長に対し「三十過ぎ」〈「撃沈」江川きく『白の墓碑銘』p.232〉という言葉もあった。
婦長以外の看護婦の年齢はというと、『弔魂記 青森の日赤看護婦の手記』には、日赤青森支部で編成され、1944年6月、中支蘇州の蘇州陸軍病院に勤務した第549救護班の班員の名簿があり、そこには当時の年齢も記されている〈『弔魂記 青森の日赤看護婦の手記』pp.9,32,169〉。その名簿によると、帰還した者および補充員も含め、婦長の三浦ミヨシ〔のち賢子〕が34歳、三浦ミヨシより年上なのが37歳の看護婦1人(2か月後の1944年8月に帰還)、34歳の看護婦が1人、25〜26歳が3人、22〜23歳が3人、19〜21歳が13人、18歳が1人であった。
『日本人捕虜』下巻には、「日赤和歌山第490班の消息」という表があり、そこには班員の生年も記されている〈「表18-1」『日本人捕虜』下 p.377〉。1945年の時点での婦長・看護婦について言うと、婦長が先にも挙げた中尾敏子で24歳、看護婦で中尾敏子より年上なのが4人で25歳、24歳が1人、23歳が2人、22歳が3人、21歳が3人、20歳が3人、19歳が3人、不明が1人である(ほかに戦前、結核で帰国した者1人)。この班は婦長1人のほかに、副婦長が1人いたようである。中尾敏子は、1945年5月20日にビルマ軍の襲撃で死んだが、看護婦に捕虜になってはいけないと言い、兵隊ですら天皇陛下万歳と叫んで死んだ人はめったにいないのに、天皇陛下万歳と言ってこと切れたという〈『日本人捕虜』下 pp.368-369,378・『女たちの遥かな戦場』p.28〉。当時の従軍看護婦の手本となるような女性だったようである。
この班は、書記(班長)と使丁の男性2人を含めて戦死13人、自殺2人、生還8人であった〈『日本人捕虜』下 p.375〉。「第二次大戦における日赤看護婦の殉職者は一千名に近いが、玉砕の島々は別として、戦闘の銃火に倒れたり、捕虜になった例は新和歌山班だけである。」〈『日本人捕虜』下 p.379〉
ところで、この班の自殺したという2人だが、2人は1945年6月ラングーン病院勤務を命じられ、治安が悪いのでラングーン監獄に住んでいたらしいという。そこで、イギリス兵に性的関係を迫られて自殺したという話がその監獄に留置されていた者から伝えられている。それもまた伝聞というから、どこまで正しいのかは分らないのだが、その一つはこうである。
「血にうえ肉にかつえた英兵達は、五、六人も寄り集まり、身体検査と称して、神の使いの乙女達の下着まで剥ぎ取って、卑しい貪婪の瞳で見据えるのです。これが二日も続いたその夜、乙女達は隠し持った青酸加里で、神の御国へと旅立って行きました。
遺書には、切々と英人の暴逆を訴え、このままでは、何時どんな目に会うやらわからない。野戦病院で母の名を呼びながら死んでいった年若い兵隊さんの後を追って、私は天国でも白衣を着、お勤めをするつもりです。
一生涯――短い二〇年の生涯でしたが、清く美しく生ききられたことをせめてもの慰めにします。
ただもう一度お父さんお母さんに会えなかったのが心残りですと結んであったという事です」〈『俘囚記』田中博厚 私家版 1974〉〈『日本人捕虜』下 pp.376,380〉
ここで、これを引用したのは、堀喜身子の話とよく似ていると思うからである。この話が実際の検証のない伝聞であるということは、こうした話は当時の日本人には極めて容易に想像される類のステレオタイプであったことを示しているように思われる(現実にも起こりえる話であったことも否定しないが)。
『遥かなる東安・敗走三千里』という日赤第453救護班の記録がある。この班は1943年8月24日に東安第一陸軍病院〔満州第148部隊〕に着いている。この班の婦長の年齢は分からないが、看護婦・婦長の集合写真(『戦場に捧げた青春』p.132にもある)を見ると、婦長は若い看護婦たちとは明らかに顔が違う。その班ではのちにある看護婦がもう一人の婦長になっているが、その看護婦というのは、召集義務の12年を過ぎての召集〈「従軍・東安第一陸軍病院」平山美喜栄『遥かなる東安・敗走三千里』p.18〉(子供二人を残しての従軍)というから、31歳以上である。婦長はもっと年上で35か、それ以上に見える。虎林陸軍病院に派遣された第470救護班にも33歳の看護婦がいた〈「世界の平和を願って」岡松八千代『戦場に捧げた青春』p.166〉(4歳の長女と1歳の長男を残しての従軍。4歳の長女と2歳の長男〈『ほづつのあとに』p.108〉とも)。『ほづつのあとに』p.108に高知支部で虎林陸軍病院に出発時に撮ったという集合写真があり、その中に第470救護班の8人が写っている(この班の編成は高知・香川・愛媛からの22人〈「昭和一二年〜二〇年派遣救護班調べ」『日本赤十字社社史稿』第5巻 p.164〉)。写真から女性の年齢を正しく判断できる自信はあまりないが、いずれも30を超えているように見える。この班の婦長、三福君子は30半ば以上だろう。
この第470班は、戦後の1945年9月始めにハルピンから海林に移ったが、そこで軍人〔部隊長、軍医とも〕に「俺達は軍人の魂である軍刀を捨てた。あんた達には貞操を捨ててもらう。ソ連兵の元に行け」と言われたという〈「三十四年目の遺書より」上野初子『戦場に捧げた青春』p.8、「生きて帰ることができた私」永安春子『戦場に捧げた青春』p.14〉。同様の話は、同じ虎林陸軍病院に勤務した陸軍看護婦長の佐藤節子も書き残している。「 ソ連兵が来ると「若い子を出せ」と庶務主任にいわれ、床下にかくして徹底反抗し、点呼後「婦長だけ残れ、俺達軍人は命より大事な軍刀を手離した、女の貞操位何だ」と往復ビンタを喰い口惜しかった事。」〈「終戦の頃」佐藤節子『従軍回想の記』p.52〉とある。ここから、虎林陸軍病院の看護婦は、日赤の救護看護婦と陸軍看護婦がしばらく一緒だったことが分かるし、婦長が若い看護婦とはっきり区別できる位年上だった様子が窺えるのである。
日赤でない陸軍看護婦の場合、どのようにして婦長になるのかというと、『従軍回想の記』に満州で婦長になった人の手記が載っている。河野登美江は、1940年12月に、関東軍の従軍看護婦として、旅順陸軍病院に採用され、1943年新京第一陸軍病院で婦長教育を受け、1944年に陸軍看護婦長に任命され、1945年5月、興城第一陸軍病院に、陸看生の教育助教として派遣され、大連高女生徒200人の指導に当たっている〈「つれ/゛\の記」河野登美江『従軍回想の記』pp.47-48〉。また、大塚乙茂は、1937年8月から陸軍看護婦として勤務し始めたようで、1943年3月、部隊長から婦長候補の命令を受け、新京陸軍病院第二教育隊へ、おそらく、ここで婦長教育を受け、1943年9月30日、婦長として白城子陸軍病院に着任している〈「満州縦断従軍記」大塚乙茂『従軍回想の記』pp.23-25〉。大塚乙茂は婦長となるまでに約6年のキャリアを積んでいる訳である。1905年2月生まれの向井サイは、1922年5月から1926年4月まで、九州帝大医学部看護婦養成科で学び、病院などに勤務し、1年半ほどの病気療養ののち、1938年2月、関東軍軍医の招きで従軍、海城陸軍病院に勤務、新京第二陸軍病院での婦長候補者集合教育を経て、同年婦長になっている〈「わたしのあゆみ」『曠野に祈る 中共治下虜囚八年の手記』p.267〉。およそ、婦長になった時、33歳である。
まず、陸軍看護婦の場合も婦長となるのは日赤看護婦の場合と変わりないと言えるようである。
さて、それなら、堀喜身子はどのようにして婦長になったのだろうか? 堀喜身子は、日赤ではなく、満赤に所属していたことになっているが、満赤の場合でも婦長となるには日赤の場合と同様だったろう。堀喜身子が一年間の婦長教育を受けたとは書かれていない。それなら、二度の出産をした堀喜身子には婦長としての十分なキャリアがあったであろうか。本当に堀喜身子は満赤班の婦長であったのだろうか?
婦長として堀喜身子ただ一人しか出てこないのも問題があるようである。
日赤が日中戦争初期から終戦までに派遣した婦長は1,888人、看護婦29,562人、合計31,450人。960個班というから、平均して一班当りおよそ33人となるが、病院船と他の場合では編成内容が違い、病院船編成の方が規模が大きい〈『日本赤十字社社史稿』第5巻 p.123〉ので、陸軍病院などへの派遣ではもっと少なくなる。また、以上の数字から、婦長・看護婦について、ほぼ17人に1人の割合で婦長がおり、一班に平均しておよそ2人の婦長がいたことになる(ここの数字は延べ人数であろうから、現実をどこまで反映しているかは問題があるが)。
数字の出ている『女たちの遥かなる戦場』の班の例を見ると、病院船に送られた班で、看護婦長4人、看護婦26人〈『女たちの遥かなる戦場』p.65〉で、他の例では一班当り看護婦が20人ほど、さらに看護婦長が1人から3人になっている〈『女たちの遥かなる戦場』pp.11,21,74〉。『従軍看護婦 痛哭のドキュメント』には、「日赤救護班は原則として婦長一名、看護婦二十名と男の書記一名、同じく男の使丁一名で編成されていた」〈『従軍看護婦 痛哭のドキュメント』p.68〉とあるが、ある本には、従軍看護婦の一個班の構成が婦長2人・看護婦20人の女性と、書記・使丁の男性が1人ずつの合計24人〈「朝鮮人・台湾人の従軍看護婦」の項『証言・日本の侵略』〉とあり、どちらかと言えばこちらの方が実態に近いかもしれない。和歌山支部の第468救護班は、婦長(班長)が29歳の中山ハルエで、1943年、年若い看護婦20人と16歳の少年使丁1人を率いて、熊岳城陸軍病院〔満州第8部隊〕に勤務した〈「従軍記」中山ハツエ『戦場に捧げた青春』pp.94-95〉。第453救護班の場合は、婦長1人、看護婦20人、男性(少年)の使丁1人という構成であったが、のちに婦長が2人になっている。班の構成は、『社史稿』の「昭和一二年〜二〇年派遣救護班調べ」を見ても分かるが、病院船と陸上の病院の違いを除けば、それ程送られた場所による違いはなく、おおよそ以上のようなものだったといえる(ところで、救護班の書記は一体何をしていたのだろうか。『日本人捕虜』には「書記(班長)」とある〈『日本人捕虜』下 p.359〉。書記がいれば、班長となったのだろう。おそらく、書記は軍隊と日赤の間の連絡が主な仕事だったのではなかろうか。第453救護班・第468救護班には書記がいなかったが、書記は救護班の通常業務とはほとんど関係がなかったからだろう)。
陸軍看護婦の場合を言うと、データが少ないので不正確だが、スマトラ島パレンバンの南方第九陸軍病院の例で、内地より22人の日赤看護婦が着任して、それまでの陸軍看護婦の婦長3人が罷免とあり、陸軍看護婦は42人らしい〈『従軍慰安婦』 〔山田〕pp.248-253〉から、看護婦と婦長の比率は、陸軍看護婦の場合も赤十字の場合とそんなには違わないようである。
つまり、看護婦十数人につき婦長が一人というのは、それ位が婦長が看護婦を監督するのに適当だから、そうなっているらしいのである(この大きさは、軍隊の班(分隊をさらに分けたもの)の大きさにほぼ等しいようである)。
「手記」によると、虎林の病院には同僚が48人いて、そこから移って来た34人の看護婦が長春第八病院に勤務したというのだが、第八病院にいた婦長が堀喜身子ただ一人であったというのは、やや不思議なことであろう。
(8) 長春第八病院
堀喜身子のいう第八病院は新京のどこにあったのだろうか? 堀喜身子の手記にはその手掛かりとなるものが全くない。手記からは、その病院は少なくとも三階建てで看護婦32人(以上)が働けるような病院と言えるだけである。参考として新京の地図を示しておく(『新京の地図』の地図に地名を追加・削除したもの)。
主だった新京の建物は4階建て、せいぜい5階建てで(天災地変による被害が考慮され、建築物は記念造営物を除き、総て高さ20 mを限度とされていた〈『昔日の満州』p.111、『1982 長春・吉林』p.40〉)、当時の街の写真を見ても、三階の建物が珍しいという程ではないが、市内の建物のほとんどが二階建であり、従って、その病院は新京の建物としては大きな部類に入ると言えるだろう。そして看護婦が少なくとも32人いたのだから、おおよその病院の規模が想像できる。まずは病院としても大きな部類だったに違いなく、新京の病院を代表する満鉄病院や市立病院には及ばないが、それに次ぐ位の大きな病院だったといってよさそうである(参考(4) 新京の病院を参照のこと)。人目につく建物であった筈で、当然、郊外ではなく市内にあったと思われる。
「手記」からは病院がどこにあったのかは分からないが、他書などから場所の候補をいくつか拾うことができる。結論をいえば、それらいずれも疑問であり、新京に第八病院なるものがあったという確たる証拠は全くないということである。以下、説明を加える。
『還らぬ天使たち』では、病院は、「紅軍病院第八救護所」になっている。ソ連軍をいう赤軍ではなく中共軍をいう紅軍で〈『広辞苑』。赤軍と紅軍は間違え易く、本によっては誤用例が見られるようである〉、中共軍に接収されたとある。だが、1946年4月より前に中国共産党が新京を支配したのはせいぜい一月程度の間に過ぎない(後述)。1946年に入ると中国共産党は新京にはいなくなり、仮に紅軍の「救護所」が存在したとしても一時的なものでしかない筈である。
場所については、「そこは興安大路にあり、以前は満州国軍の軍官学校でした。通りを距てて、当時の満州国の要人が政務を執っていた宮帝府(きうていふ)が」あったとある。これも間違っている。まず、ここでいう宮帝府は、宮帝府予定地のことで、宮帝府建設は中止され終戦までに完成していない〈『満州国の首都計画』p.167〉。さらに、満州国の軍官学校があったのは、興安大路ではなく、新京郊外の拉々屯台地なのである。
『満洲国軍』によると、1939年3月10日、満州国政府は陸軍軍官学校令を裁可公布。「これより先、治安部は関東軍の指示に基づき軍官学校設立の準備に着手した。すなわち新京郊外二道河子より東方約八粁、吉林街道に沿う拉々屯台地に校舎建設を予定すると共に、軍官学校創立委員を発令し、諸般の準備を推進した。」1941年6月20日、開校式が行なわれた。皇帝は式典で、陸軍軍官学校の所在する南崗台地を「同徳台」と命名した〈『満洲国軍』pp.616-617〉とある。『満洲国軍』に載っている図を示しておく。『満州脱出』に、新京から2、30 km〈『満州脱出』p.10〉とあるのは遠すぎるだろう。あるいは、原田みち子は興安大路にあったほかの軍関係の学校と間違えたのだろうか? そのような学校は確認できていない。
『白衣の天使 従軍看護婦』でも、堀喜身子らが新京で働いていた病院は、第八病院ではない。堀喜身子らは、看護婦という前歴がわかり、中国の深医師が開設した「救護所」に看護婦として勤務したとある。元満州国の軍官学校で、一応病院として使用するには差し支えないほどの設備を整えていたとあり、深病院ともある。別に紅軍病院第八救護所という名前が出てくるが、深病院のことなのかどうかは不明。病院の場所については「前の宮帝府(きゅうていふ)」とあり、元満州国の軍官学校であったことと共に『還らぬ天使たち』を引継いでいる。
病院の場所については、以上の興安大路の元満州国軍官学校説のほか、『大東亜戦争と被占領時代』p.134では新京陸軍病院となっているし、『世紀の自決』改訂版p.479では新京第八陸軍病院となっている。元は関東軍の陸軍病院だったというのであろう。さらに、青葉慈蔵尊の傍の顕彰碑には、通化路第八紅軍病院とあり、通化路にあったことになっている。以上が、私の知る限り場所の候補の全てである。
まず関東軍の陸軍病院説だが、新京には、第一と第二の二つの陸軍病院があったが、新京第八陸軍病院なるものは存在しない〈『陸軍オール部隊名鑑』〉。『満洲開拓史』には、戦後の新京における(日本人患者が収容された)病院の概況の一覧があり、15の病院とその概況が載っている〈『満洲開拓史』pp.708-709〉。その中に「新京一陸病」という病院がある。これは、新京第一陸軍病院のことであろう。その所在地が孟家屯で、ソ連の監視下に置かれたとある。別の陸軍病院(興安大路にあったが、線路の外側で宮帝府予定地の近くではない)の方もソ連軍に接収されたことは、引揚者の手記から分かる。菊水町の寮からすぐ近くの陸軍病院がソ連軍の接収管理下にあるとある〈「私と満州」中込敏郎『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦XIII』 p.88〉。ただし、ソ連軍の新京からの撤退までそうであったかは分からない。こちらは、幾らか可能性があるかもしれない。(私には、新京の第一と第二の陸軍病院の位置を確定できない。『チャーズ』の地図に「第一病院」があるが、それは興安大路の方になっていて、『満洲開拓史』と食い違っている。軍施設については、その位置がよく分からないことが多い。)
青葉慈蔵尊の顕彰碑に、何故いきなり通化路が出て来たのか分からない。通化路には、満州林産公社の社宅があり〈「終戦前後の本社事情」星出英二『満州 満林の追憶』p.130〉、『新京市街地図』を見ると、ほかのさまざまな社宅の文字が見え、明らかに住宅街である。『新京市街地図』から抜き出した通化路の地図を示しておく。中央を東西に走っているのが通化路である。「コ」を左右逆にした形の名前のない建物が、「通化路第八紅軍病院」の一つの候補になるだろうか。
敗戦後の新京には、多くの避難民がやって来て、通化路にも住んでいる。引き揚げまでここで暮らした人の手記が『平和の礎』の中にあった。それには、次のようにある。
「私は妻と共に通化路というところにある社宅の一室を借りて生活をはじめた。/ この社宅約二百戸くらいあるところの警備を中学の先輩の鹿児島高商出身の故中島光次を隊長とし、実戦の経験のある私が副隊長で、社宅周囲を鉄条網で張り巡らし、出口は一個所でそこに警備室を設け出入りを監視し、ソ連軍や蒋介石の軍隊が入ってくるのを四六時間中監視した。」〈「北朝鮮鎮南浦疎開者三十人救出」神代忠正『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦VI』p.70〉
戦後の満州では自殺や死はありふれたものであった訳だが、比較的平穏な、引き揚げも近い1946年に22人もの看護婦が病院内で一夜に自殺したという事件がもし本当にあったというなら、その近くに住んでいた日本人に強い印象を与えた筈である。通化路に住んでいたという人の手記、あるいは通化路から比較的近いところに住んでいた福渡千代〈『満洲、チャーズの悲劇』〉、あるいはもう少し遠いが興安大路に住んでいた人の手記(『チャーズ』など遠藤誉、『満州十二年』の何人か)でも何も語られてはおらず、第八病院の存在すら確認できないのである。
第八病院があったというのなら、第一〜第七病院もありそうなものである。新京には、陸軍病院の第一と第二は確かにあったが、ほかのものはない。満州全体での八番目の病院ということだろうか。中共軍には東安第九後方病院という病院があったが、それが開設されたのは、ソ連軍が満州から撤退し、国共内戦が本格化しようという1946年6月末である〈「北満戦線」宮下美代子『紅染めし』pp.222-223〉。通化省臨江の第二後方病院〈「中国大陸での歳月」桜井トシヨ『戦場に捧げた青春』pp.81-82〉も、日本人看護婦などを徴用して1946年に開設したものと思われる。中共軍が長春を支配したのは一時的なものだから、この後方病院の第八が長春にあったことは、まず考えられない。
はたして、堀喜身子のいう「第八病院」なるものはどこに存在していたというのだろうか?
(9) 城子溝
これを読んでくださっている人は城子溝という満州の地名をご存知だろうか? 私は知らなかった。堀喜身子の手記からは、新京からそんなに遠くない都市か地方の名前だろう位に思った。
『満州開拓史』には付録として満州の地図(開拓民入植図。それほど詳細という訳ではない)が付いていた。その地図で、城子溝を探してみた。新京からそんなに遠くない筈だと当りを付けて探してみたが、見つからない。満州全域に範囲を広げてみると、あった。しかし、そこは牡丹江省(満州の省には変遷があり、終戦近くでは東満総省になっているが、ここでは牡丹江省を用いることにする)で、新京から直線距離で400 kmも離れているのである(地図を参照のこと)。こんな遠いところから大島はなえは逃げて来たというのだろうか?
インターネットで「城子溝」を検索をすると、かつて軍人だった人の話の中にその地名が出てくる(『琉球新報』読者の声および衆議院の会議録)。そのほか戦史叢書などの戦記、あるいは『平和の礎』などの手記でもこの地名を見つけることができ、いずれも牡丹江省の地名である。城子溝という地名が現在も残っているのかは分らないが、城子溝は第12師団の司令部が置かれたことがある場所で、当時、満州で城子溝といえば、牡丹江省の城子溝のことであったのは間違いないところである。
堀喜身子の手記に出てくる満州の地名は、城子溝を除けば、虎林、牡丹江、ハルピンなど、よく知られたものである。それなら、城子溝という地名もそれらと同クラスの地名であるべきで、日本でいえば字(あざ)のような地名であってはおかしいだろう。もし、城子溝がそのような地名だというのなら、もう少し説明があってしかるべきである。日本でも、川崎という地名はあちこちにあるが、何の説明もなしに川崎といえば、それは神奈川県の川崎市のことであるように、満州で何の説明もなしに城子溝といえば、それは牡丹江省の城子溝のことである筈である。
日本の川崎という地名と同じように、ほかにも、城子溝という地名がない訳ではない。『滿洲國地名大辭典』という本には、城子溝はただ一か所、浜江省にある地名として載っている。「阿城縣下。同縣城の北方六五支里、松花江南岸の平地に在り。哈爾濱の東々北四〇支里。當地は我が天理教移民村の所在地として知らる。」〈『滿洲國地名大辭典』p.428〉とある。中国の1里は、500 mである(民国以来)〈『漢和中辞典』編、貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍 角川書店。『精選 中国地名事典』p.941 による〉。即ち、牡丹江省ではなく、ハルピンの東々北 20 kmのところの地名である。『満州開拓史』の開拓民入植図に天理村とあるところだろうか(やや位置が違っているようだが)。
また、城子溝は731部隊にも関係した地名で、ある中国人の証言の中に出ていた〈『七三一 追撃・そのとき幹部達は…』p.224〉(ただし、この証言では城子溝が固有名詞なのかもはっきりしない)。また、インターネットの中国のサイトにも出ていたのだが、私はそれを詳しくは調べず、その城子溝も牡丹江省の城子溝のことだろうと思っていた。しかし、そうではなかった。ハルピン郊外平房の731部隊本部から西南へ 4 kmの平房区平新鎮平楽村に「城子溝野外実験場」があり、1942年以後、そこで馬・牛・猿・鼠などを使った炭疽菌と毒ガスの秘密実験をしていた〈『「満州」再訪・再考』p.132〉のだという。つまり、この城子溝はハルピン郊外平房の地名であった。
これらいずれの城子溝も新京から遠すぎる。大島はなえ達は、城子溝のソ連陸軍病院の第二赤軍救護所に応援に行くということで派遣されている。城子溝に行くと言われて、別の場所に連れて行かれたとは書かれていないから、行くべきところには行っている筈である。そして、堀喜身子は、そんな遠いところから、大島はなえが逃げて来たことにも、また、看護婦たちが新京のデパートの地下に現われたことにも驚きもせず、不思議にも思わないのである。
堀喜身子のいう城子溝は新京近くの地名なのだろうか? 新京付近の詳しい地図が『満州国の首都計画』p.92 にあった。その部分を拡大したものを示しておく。その地図にも「城子溝」はないが、新京駅から東に10kmほどのところの地名が、地図の右端で切れて「□子溝」になっている。これが「城子溝」だろうか。可能性がないとは言えない。しかし、仮にそこが「城子溝」であったとしても、当時新京に住んでいた日本人で、その地名を知っていた人など全然いないと言っても言い過ぎではないだろう。『新京の地図』によると、軍と満鉄の居住地域で一般市民には用のない地域だからでもあったが、緑園でさえ、新京に住んだ日本人でも終戦までは知らない者がほとんどであったという。戦後知られるようになったのは、避難民が収容されたからである〈『新京の地図』pp.114-115〉。また、伊通川を越えた二道河子も南嶺と同様、中国人にも遠いと感じるらしいとある〈『新京の地図』pp.167,169〉。
『白衣の天使 従軍看護婦』では、城子溝は「長春から一里ほど離れた」地名ということになっている。『産経新聞』2003年7月27日の記事にも、数キロ離れたソ連陸軍病院とあり、そのように考えたい理由は分かるのだが、一体どこだというのだろうか? ソ連軍は新京にあった日本軍の二つの陸軍病院を接収し、そのほかに南嶺療養所をその管理下に置いていた〈『満洲開拓史』p.706および「私と満州」中込敏郎『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦XIII』 p.88〉。そのほかにも病院が必要なのだろうか。必要があっても、どこかを接収すればよいだけではないか。戦闘がある訳でもなく、やがて満州から撤退することになっていたソ連軍がわざわざ新京郊外に「救護所」や病院を設ける必要があるだろうか。
満州には、「城」・「子」・「溝」を含む地名が多い。あるいは、堀喜身子は地名を間違えたのだろうか? それなら、白城子、営城子、城子河などが候補になるだろうか。私は、「城」・「子」・「溝」のうちの二文字を含む地名を抜き出してみたのだが、その数は多く、結局全てを抜き出すことはあきらめた。新京の近傍にある訳でもなく、そこから一つを特定することはできない(満州地図を参照のこと)。
私は、寛城子がふさわしいかもしれないと思う。「城」と「子」を含んでいるし、新京駅の北方数キロのところにあり、大島はなえが逃げるには程よい距離でもあるだろう。虎林・牡丹江などと同クラスの地名ではないかもしれないが、かつては寛城子事件もあったし、新京の隣の駅もあるから、新京にいた人にはよく知られていた地名である。しかし、やや近過ぎるようでもある。それ位のところであれば、堀喜身子あるいは病院の誰かが、派遣した看護婦たちを心配して様子を見に行ってもよいのではないか。
堀喜身子のいう「城子溝」がどこであっても問題が生じるだろう。そこは、十一発の銃弾を受けた大島はなえが自分の足だけで帰って来られる程近い所にあって、しかも堀喜身子らが簡単には訪ねては行けない程遠い所になければならないだろう。
第二の手記でも第一の手記と同様である。従って、「城子溝」という地名は確かなのであろう。
『還らぬ天使たち』では、「城子溝」は「城子構」に置き換わっている。「城子構」がどこかという記載はない。地図、『滿洲國地名大辭典』などの地名辞典およびインターネットの検索などで探してみたが、「城子構」という地名は見つからない。ある手記に、1945年に召集令状が来て、「五月十七日満州第五七四部隊(東寧)に入隊とのことでした。その内容は五月十五日城子構に集合し、十七日老黒山に入隊となっておりました。」〈「二度とこの悲劇を」長利芳吉『曠野に吹く風』下 pp.368-369〉とある。ここの「城子構」は、明らかに「城子溝」の誤植か誤記である。原田みち子も単に間違えたのかもしれないのだが、「城子溝」である筈がないとして、故意に変えたのかもしれない。
この『還らぬ天使たち』では、看護婦たちは、「城子構」には行かず、病院の近くに連れて行かれたのだとして、問題を解決している。5月4日の午後、日本人看護婦婦長宛に「城子構」にあるソ連陸軍病院第二赤軍救護所発令の命令書が来て、「看護婦三名、応援に派遣せよ。月給三百円を支給。期限一ヵ月」という条件だったが、それは偽の命令書で、看護婦たちは、ジープで十分ほど走り、「前庭から後庭を三重に鉄条網でぐるっと囲った三階建ての建物」に連れて行かれた。そこは将校クラブで、ソ連軍将校が30人いたということになっている。場所については、「ここはきっと南広場通りよ。だってほら、あそこに見える三階建ての建物ね、あれ、たしかにアララット・ホテルですもの。ソ連の将校宿舎になっているって話を聞いたわ」とあり、新京市内の南広場通りで、「第八救護所までは走って二十分でしょう」とある。
『新京案内』によると、首都警察庁の調査によれば新京の旅館総数は245軒、うち「満人宿」が181軒、日本人宿が63軒、ロシア人宿が1軒であった〈『新京案内』p.170〉。旅館組合加盟という旅館・ホテルのリストがあり、41の旅館・ホテルが掲げられているが、そこには「アララット・ホテル」はない。また『昔日の満州』にも見えない。また、「南広場通り」という通りも『新京市街地図』にはない。ただし、この地図には細い道路の名前まで記載されていないが。この将校クラブが実在したのか、ややあやしい。
原田みち子の『還らぬ天使たち』のようにすれば手記の幾つかの問題は解決される訳だが(なかなかうまい)、これでも疑問が残る。逃げ帰った大島はなえは、「城子構」には連れて行かれず、市内の将校クラブに連れて行かれたのだとは語ってはおらず、また、堀喜身子は、「城子構」に行った筈の大島はなえが逃げ戻って来たことにも、また、看護婦たちが新京のデパートの地下にいたことにも、驚きもせず、不思議に思ったりもしていないのである。
(10) 新京にいる三百人の日本人
「当時長春は戒厳令が布かれていましたから、占領軍の命令を拒否すれば、長春にいる三百名の日本人は、みな殺しにされるかもしれないという恐怖がありました。」と堀喜身子は書いている。文脈から見て、堀喜身子のいう300人は、堀喜身子の周りにいる一部の日本人のことではなく、新京〔長春〕にいた全ての日本人を指している筈である。当時新京にいた日本人はたったの300人であったのだろうか? とんでもない!
新京は満州国の首都だったから多くの日本人が住んでいた。新京に住んでいた一般邦人は14万5千人、軍人・軍属を合わせると日本人21万人が住んでいた〈『満州棄民』p.62〉。「日ソ開戦当時は、満洲国政府関係職員、満鉄職員、満拓公社、日本政府大使館関係職員、ほかに軍人家族、自営業者など合わせて約十四万余、在留日本軍隊を含めると約二十一万と推定される邦人が在住していた。」〈『満洲開拓史』p.698〉
「 ソ連参戦と同時に満洲国政府の通化疎開に伴ない、市民の一部は南満および北鮮に避難した。終戦後原住地復帰の勧告により、約半数は前住所に帰還したが、北鮮方面に避難した約五万名の大部分は、復帰不能となった。」〈『満洲開拓史』p.698〉
新京からの避難は、8月11日の午前1時40分に第一列車が出発し、正午ごろまでに軍関係者などを乗せた18列車が新京駅を離れた。「避難できたものは新京在住約十四万のうちの約三万八千人。内訳は軍関係家族二万三百十余人、大使館など官の関係家族七百五十人、満鉄関係家族一万六千七百人。ほとんどないにひとしい残余が一般市民である。」〈『ソ連が満洲に侵攻した夏』pp.205-206〉 8月9日に、新京の関東軍はいち早く通化に向ったことは多くの人が書いているが、8月9日23時に、軍人・軍属の家族のための最初の避難列車が朝鮮に向けて出発した〈「三十八度線に立ちて」木下宗一『秘録 大東亞戰史』上 p.199〉ともいう。
12日以降も列車は出ていて、朝鮮に向かっている〈「おじけはしない満州育ち」本間容子『佳木斯 追想』pp.189-190、「その日から」小沼伸二『黄塵』p.128〉。脱出したとはいっても、避難民は僅かな所持品だけしか持たず、それで北朝鮮で冬を越さねばならないことになり、むしろ留まった方がよかったようである〈『ソ連が満洲に侵攻した夏』p.206、「おじけはしない満州育ち」本間容子『佳木斯 追想』、「その日から」小沼伸二『黄塵』、など〉。
そして、新京には多くの避難民がなだれ込んで来た。8月には開拓団避難民3万人が流入し、9月に6万6千人、10月には2万人が流入し、最終的に新京に避難した日本人は16万人を超えた〈『満州棄民』p.62〉、あるいは「日ソ開戦と共に、奥地および周辺地区から避難民として来た邦人は約十二万と算えられた」〈『満洲開拓史』p.698〉。また、現住民91,300人、難民人口207,500人〈表『満洲国史 総論』p.800〉ともある。軍人などの多くは、ソ連軍によってシベリヤなどの各地に送られたし、他の都市でもそうだが、新京でも冬の間に寒さと食糧不足と伝染病によって多くの避難民が死んだ。1946年春までに新京では約3万人が死んだ〈『沈黙のファイル』p.146〉。避難民・既住者ほぼ同数の計24〜25万人のうち死亡者3万1千人〈『關東軍<2>』p.464〉、1945年から1949年の間に27,669人〈「終戦後在満日本人死亡者集計表(自昭和二十年至二十四年)」『満洲国史 各論』p.452〉ともいう。そして、引揚げ前、およそ1946年5、6月頃、新京にいた日本人は約20万人〈『チャーズ』p.71〉あるいは25万人〈「興安嶺の難民の河」長山一『秘録 大東亞戰史』上 p.225〉、また、引揚げ時、長春にはおよそ25万人の日本人居留民がいて、内訳は、終戦時の住民が約11万、その後各地から流入してきた難民が約14万人〈『満州に残留を命ず』p.223〉、また、1946年5月末現在で206,000人〈「昭和二十一年五月末現在、在満日本人人口数表」『満洲国史 各論』p.451〉という。
以上に挙げた数字は必ずしもぴったり整合していないが、およそどの程度であったかを知るには十分だろう。
どうやったら300人と間違えることができるのか!
(11) ソ連軍の新京からの撤退
堀喜身子の手記には実に多くの疑問点があるが、中でも、1946年6月には、新京にソ連軍はいなかったという点は、堀喜身子の手記をウソと断定する点で、大きな意味を持つものと考える。
ソ連軍が満州から撤退を開始したのは、1946年1月15日、撤退が完了したのは5月3日である〈『原典中国現代史別巻』p.236、『近代日本総合年表』p.353〉。この撤退時期については、本によって幾らか異なっているが、撤退完了時期の大体は変わらない(『わが子に伝えたい昭和の体験記録』下 p.224 の中村栄による脚注では、1946年4月末でソ連軍は旧満州から撤退。『昭和史年表』では、ソ連軍の中国東北部〔旧満州〕からの撤退開始が3月26日。『引揚げと援護三十年の歩み』p.91では、4月に撤退となっている)。
それでは、ソ連軍は新京からいつ撤退したのだろうか?
私は、誰が新京を支配していたのかを知りたいこともあって、引揚げ者の体験記をいくつか読んでみたのだが、彼らが述べていることはバラバラなのである。時間の順序に従って例を挙げよう(〔 〕内は体験・証言者)。
(1) 1945年10月末 ソ連軍は新京から引揚げる。〔のち国民政府軍のもとで平穏な日々がつづく。〕〈「激動の日々」『わが子に伝えたい昭和の体験記録』下 p.238〉〔佐藤利男〕
(2) 1945年11月 「日本人会敷島地区難民救済本部へ行って良く事情を話しました。係の説明では、現在、難民の食糧問題で手いっぱいであり、衣服に関する予算が一銭もないので、ソ連当局の係と交渉しますとのことでした。」〈『満州の星くずと散った子供たちの遺書』p.42〉〔増田昭一〕
(3) 1945年12月 ソ連軍、新京から撤退して帰国。〈『アカシアの大地 遥か』p.64〉〔安田義子〕
(4) 1946年4月下旬 《ソ連軍の帰国、内戦があり、》「八路軍(東北人民解放軍)が長春を手に収めたのは四月下旬だったろうか。」〈「長春の一夜」『されど、わが「満洲」』p.218〉〔村岡俊子〕
(5) 1946年4月 新京市内で銃撃戦が始まる。国府軍と共産軍の戦い。5日程経って国府軍が勝利。〈『アカシアの大地 遥か』pp.64-65〉〔安田義子〕
ソ連軍の新京からの撤退時期、国府軍と共産軍の戦いでどちらが勝ったのかなどが一致していない。こうした食い違いは、私を混乱させたものだが、結局、遠藤誉(ほまれ)〔筑波大学教授〕が『チャーズ』などの一連の著書で述べていることが、事実と思われたのである。詳細は、それらの本を見てもらうことにするが、ソ連軍の撤退については、1946年2月に入ると、ソ連兵の姿が目立って少なくなり〈『チャーズ』p.50〉、4月には遠藤誉の家の真向かいのゲー・ぺー・ウーも引き払われて、ソ連兵は完全に新京から姿を消す〈『チャーズ』p.50〉が、ソ連軍が既に引き揚げた4月14日に国民党軍と八路軍の間で市街戦が始まった〈『チャーズの検証』p.8〉ということなので、ソ連軍が新京を去ったのは4月上旬ということになる。
撤退はその頃だとしても、撤退日のバリエーションはまた多い。3月18日〈「敗戦、そして我家の記録」木俣美知子『黄塵』p.96〉、3月中旬〈「新京避難生活の記録」大石幸子『満州十二年』p.194〉、3月31日〈「いつの日歸る夢のふるさと」望月百合子『秘録 大東亞戰史』上 p.108〉と書いている人がいるし、4月14日と書いてある本もある〈『一九四五年 満州進軍』p.228、表2−1『「満洲国」から新中国へ』p.80、『満洲、チャーズの悲劇』p.35〉。ある人の3月9日の記録に次のようにある。「鉄嶺付近で国共激しく交戦中と。市内の警官分駐所も土嚢を積み、バリケードをめぐらす。ものものし。ソ連兵撤退始めてか、目に見えて少なし。」〈「長春在留日記抄」小西清規『満州さ・よ・な・ら』p.523〉 2月に入るとソ連兵の姿が目立って少なくなったとは、『チャーズ』にもあるが、新京から撤退といっても全てが一度に撤退した訳ではないのだろう。また、ある人の日記の4月10日のところには、「ソ連軍大同公園で盛大な送別式を受け全部引揚ぐ」〈「流満日記―楡樹・新京の難民生活―」丸杉作兵衛『あゝ満洲』p.855〉とあり、この日付を信頼するべきなのだが、送別式のあったその日のうちに全ての軍が新京を去ったのかどうかは、いささか曖昧でもあろう。結局、(根拠は分からないが)日本や中国の学者が述べている4月14日を最終的な撤退日とすべきなのかもしれない。『満蒙終戦史』には、この日、「長春ではソ連軍のいっせい撤退と同時に市の西南方から八路軍が市内になだれ込み、迎え撃つ中央軍との間に激しい戦闘が四日間にわたって繰り返された」〈『満蒙終戦史』p.1215〉とある。
なお、ソ連軍が新京から撤退したといっても、ソ連人が全くいなくなった訳ではないだろう。ソ連は、生産設備などを解体して本国に運ぶほかに、必要と思われる民間会社などを買収していた〈「いつの日歸る夢のふるさと」望月百合子『秘録 大東亞戰史』上 pp.109-110〉。軍人はいなくなったが、民間人としてソ連人は残った筈である。しかし、体験記などで、ソ連軍の満州からの撤退後、ソ連人が出てくる記述にはほとんど出会わないから、いたとしても極僅かだったには違いない。
『満州棄民』という本には、新京〔長春〕は1945年「十一月に撤退したソ連軍の後に共産軍が占領したが、再度ソ連軍が戻り、十二月には国民党軍が奪回に成功している。共産党軍が最終的に勝利し、瀋陽などとともに長春が解放されるのは、内戦の終末期である一九四八年九月のことである。」〈『満州棄民』p.67〉とある(1948年9月は10月が正しいだろう)。満州中央銀行の課長だった武田英克が書いたもの(「満州中銀の最期みとる」『日本経済新聞』1983.1.31号および『満州脱出』。『チャーズの検証』が明らかにしているが、『満州脱出』の実際の執筆者はゴーストライターである)によると、ソ連軍が撤退したのは1945年11月15日で、翌16日、満州中央銀行は八路軍に占領されたが、「この時の八路軍は、部隊の人数も少なく、一週間足らずで長春から退散していった。」〈『満州脱出』pp.34-35〉とある。『チャーズ』などでは、あまりはっきり述べられていないが、このように、1945年11月にソ連軍が新京から撤退、あるいは撤退を始め、中共軍が一時的に新京を支配したことも事実として認められる。「中共軍の長春進駐は前後二回あり、最初は一九四五年一一月一九日であったが、米ソ支三国間に政治的駈引きがあり、まもなく中共軍は撤退した。その代わりソ連軍は一一月中旬撤退の予定を延ばして、翌一九四六年三月まで瀋陽に、同四月まで長春、ハルビンの両市に駐兵した。」〈『満洲国史 総論』p.796〉。
ソ連の満州の占領は、国民党政府〔中華民国〕との間で1945年8月14日に結ばれた中ソ友好同盟条約によって期間限定のもので〈『大連・空白の六百日』pp.343-344、『一九四五年 満州進軍』p.36〉、条約には「満洲のソ連軍は、日本の正式降伏後三カ月以内に撤退する」というスターリン誓約が付加されていた〈『大連・空白の六百日』pp.343-344〉。日本の降伏は9月3日とされ、12月3日がその期限であった〈『一九四五年 満州進軍』p.227〉(12月2日〈『大連・空白の六百日』p.344〉とも)。
ソ連軍は、11月15日には、中国共産軍に営口全市を引き渡している〈「あゝ営口」古川而平(ふるかわじへい)『秘録 大東亞戰史』下 p.364〉。この時はソ連は満州の支配権を中国共産党に渡すつもりだったのかもしれないが、11月22日には、国府軍が錦州を奪回〈「通化幾山河」山田一郎『大東亜戦史 満州編』下 p.144〉し、国府側の外交圧力もあって、ソ連は、11月中旬、中国共産党の機関と軍隊を満州各都市から追い出した〈『一九四五年 満州進軍』p.215〉のだという。
一時的に中共軍が進駐し、撤退する際に、日本人看護婦を強制徴用している〈「満洲第八九部隊」吉沢芙路乃『されど、わが「満洲」』p.249、『火筒のひびき』pp.124-125、「戦争を体験して」平川愛子『戦場に捧げた青春』pp.68-69〉。中共軍は、翌1946年にも同じようなパターンを繰返し、多くの日本人が中共軍の下で働くことになり、国共内戦に巻き込まれた。新京〔長春〕でも、1946年4月14日からの、中共軍(八路軍)と国府軍の「戦闘中、日本人は両軍の使役に徴用されて多くの負傷者を出し、各病院には両軍の傷兵が収容されてその救護にも当たらされた。そのうえ八路軍は、日本人会に対し軍に協力して医師及び看護婦三、〇〇〇名を供出勤務させるよう要求してきたが、当時日本人の医師と看護婦は合わせて五〇〇名程度に過ぎなかったので、合議のうえ希望者を募り、ひとまず医師数名と看護婦及び附添婦三〇名を供出した。しかし八路軍の要請はきわめて厳しく、さらに一、〇〇〇名の供出命令が出たので、日本人会では徴用日本人を十分優遇すること、日本送還が開始され次第本人の希望により直ちに帰還させること等の契約の下に、再び希望者を募って医師またはこれに準ずる者八七名、看護婦一六〇名のほか付添婦を併わせて四一一名を、数回に分けて八路軍に供出した。その大部分は後になって日本に帰還できたが、中には長期間現地に留用され、死亡した人もあった。」〈『満蒙終戦史』pp.1215-1216〉。
『一九四五年 満州進軍』によると、「 国共内戦の間、満州の解放区において数万人の日本人技術者や熟練労働者が工場で働いていただけでなく、建国初期の統計によると、そのほかに八千人以上にのぼる日本人が「東北民主連軍」、のちの中国人民解放軍第四野戦軍に入隊していた。」「 満州における解放軍の医院では、実は半数ぐらいの医者と多数の看護婦は日本人であった。数十万に達する解放軍の負傷者や患者が彼らの治療と看護を受けた。」「日本人看護婦は仕事が割り当てられると、「はい」と一声で応じ、いいかげんなところ一つなく、細心丁寧に遂行した。手抜きや怠けの類いの話はほとんど聞かれず、中国人同僚に深い印象を与えた、という。」〈『一九四五年 満州進軍』p.204〉 これら留用者は帰国が大幅に遅れることになったが、看護婦が暴行されるようなことはなかったようである。尚、国府側も強制徴用を行なっている。
1945年に戻るが、長春〔新京〕では、1945年11月15日、共産党長春市委員会が機関報「長春新報」を創刊。これらの現象に国民党側が反抗し、ヤルタ協定と中ソ友好同盟条約を盾に共産党側の長春市長の退陣を要求。ソ連側がそれを全面的に認め、1945年11月末から12月15日にかけて、ソ連の要求を受けた共産側が長春を撤退した〈『チャーズの検証』p.352〉という。
ソ連参戦で満州に逸早く入った中国の勢力はソ連領に入っていた共産党で、このような状況でソ連軍が撤退すれば、満州を中国共産党に明け渡すことになるので、国民党政府は国民党軍の到着・接収までソ連軍が満州に留まるよう申し入れた。ソ連軍は機械設備の運び出しに追われており、国民党政府と駆け引きする必要もあり、撤退延期に同意した。11月30日、ソ連軍の撤退は1946年1月3日まで延期されることになり、さらに2月3日となり、またさらに延長された〈『一九四五年 満州進軍』pp.227-228〉。1946年2月1日、さらに5月末と延長された〈『大連・空白の六百日』p.344〉ともある。
ソ連軍が、中国東北からの撤退が完了したことを宣言したのは、1946年5月3日であった。しかし、この時点においても北部五省〔松江・合江・嫩江・黒竜江・興安〕の一部に依然とどまり、同地域では国民党軍の支配権は確立されなかった〈『ソ連軍の満洲進駐』董彦平 加藤豊隆、訳 1982 原書房 p.23〔原書:『蘇俄拠東北――第二次世界大戦結束時蘇俄侵拠東北折衝紀要』 台北 1965年〕、『「満洲国」から新中国へ』p.102による〉という。
以上のことから、国民党と共産党の勢力が入り組んでおり、ソ連・国民党・共産党の間で新京の支配者もたびたび変わり、それが引揚げ体験者に混乱をもたらしている様子がうかがえるのである。
新京の支配者は、在留日本人なかでも避難民のことなどには関心がなかった。そのことは、引揚げ体験者の記録からも明らかである。ソ連にとっては、長期利用の意図があった大連〈『大連・空白の六百日』pp.206,491、『一九四五年 満州進軍』p.37〉などとは異なり、新京での施策はいわば「おざなり」のものであったろう。ソ連の関心は、戦争犯罪人や軍人などの日本人をシベリヤなどに送り込むこと、使えそうな生産設備・資材をソ連国内に運ぶことであった。一方、中国には国民党と共産党の対立があり、ソ連の撤退後は、内戦のきざしがさらに深まって行くことになる。共産党系の中国人は、満州の日本人を人民裁判によって殺している〈『孤島の土となるとも――BC級戦犯裁判』pp.544-547、『原典中国現代史第8巻』p.28、『世界戦争犯罪事典』pp.262-263、など〉が、それ以外には、有用な一部の人間を例外として、敗戦国の日本人にはほとんど関心はなかったであろう。
日本人にはほとんど情報は入らなかった。『満州脱出』に次のようにある――「敗戦後われわれが一番困ったのは、唯一の情報伝達手段であったラジオをソ連軍に取り上げられ、(中略)一体、中銀をどの政府に引き継いだらいいのか、ソ連なのか、中共なのか、それとも国府なのか、皆目見当がつかないことであった。」〈『満州脱出』p.36〉。
ラジオを隠し持って聴いている人はいた〈「いつの日歸る夢のふるさと」望月百合子『秘録 大東亞戰史』上 p.105〉。しかし、一般の日本人は、たとえラジオを聴いたとしても、ロシア語の放送や日本本土からの放送では役に立たなかっただろう。日本語の新聞も終戦後まもなく発行をやめたものと思われる(大連の満州日日新聞社は接収され、のち中国語の新聞を出している〈『さらば大連』p.231〉)。だから、新京にいた一般の日本人は、誰が新京の支配者であるのかを正しく知ることはできなかった。それで、彼らは、自身が見聞きした限定的部分的な知識を拡大し、それを過去や未来に延長してしまっているのである。1945年11月のソ連の一時的な撤退以降ソ連兵を見かけなかった者は、その辺りの時点でソ連軍が撤退したものと思い込み、逆にソ連兵を見た者は一時的な撤退には気がつかないのである。
1945年10月から12月にかけてソ連軍が撤退したと述べている手記があることは、先に示した通りである。撤退して、その後ソ連軍が戻って来たと書いてある手記は私の知る限り『満州脱出』を除いて一つだけである(「満州の思い出」高橋大『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦XIII』 p.134)。誰が新京を支配し、誰が戦いで勝ったのかなどを引揚げ体験者が間違えているのも以上の理由によると思われる。日本人はソ連軍に近づかないようにしていた〈『満州十二年』p.131〉から、尚更このようなことになる。だから、記憶の混乱というだけではなく、引揚げ体験者の語ることはバラバラになってしまうのである。
そして、それがバラバラだからこそ判断できることがある。それは、彼らが語ることがまさしく体験に基づいたものだということである。体験談といえば、その体験を大事にし、その後得られた知識とは一線を画す筈だが、無意識のうちにも後から知った知識が入りこまないものでもなく、その弁別も難しい。しかし、この場合、その描くことがバラバラであることによって、彼らの体験談は確かに彼ら自身の記憶によって書かれたものだと判断できる(勿論、ある程度というだけだが)。これは、いくらか残念なことだが、日本人は戦後の満州などには関心はなく、まともな本がそんなになかった結果でもあるだろう。
それなら、堀喜身子の場合はどうなのか。彼女の手記がデタラメなのも、それが彼女の記憶に基づくものだからではないのか? そうではない。堀喜身子の手記は、通常の体験談を逸脱して、事実からあまりにもかけ離れており、到底説明のつくものではないのである。
(12) 六月十九日土曜日
1946年6月19日が土曜日ではないことは既に述べた。
堀喜身子は、この日付も曜日もはっきり覚えていると書いているのだが、人間の記憶は不確かなものだから、はっきり覚えていると言いながらも、それが間違っていることがない訳ではない。私は、そのような例を一つ知っている。
1937年12月14日の南京攻略の際のこと、『ふくしま戦争と人間』〔福島民友新聞刊〕には角田栄一〔65連隊中隊長代理〕の証言が載っていて、その中に次のような箇所があるそうである〈『仕組まれた"南京大虐殺"』p.144〉。
「あの日のことは忘れられない。細い月が出ており、その月明りの中にものすごい大軍の黒い影が。私はすぐ、/「戦闘になったら全滅だな」/と、感じた。」
この日は、旧暦〔太陽太陰暦〕で11月12日である〈『暦日大鑑』p.137、『20世紀暦』〉。旧暦の日は大体月齢を示すから、この日の月はむしろ満月に近く、細いことはあり得ない。忘れられないと言いながら間違っているのである。
堀喜身子がはっきり覚えているという言い方はこの例よりもっと強い言い方な訳だが、それでも、堀喜身子が日付けを間違って覚えてしまったということはあることなのかもしれないとは一応考えられる。人間の記憶は不確かだから、実際の時と数ヵ月もずれるようなことは実際よくあることである。だが、特に敗戦後の満州という特殊な状況下での、引揚げまでという限られた期間について、その記憶が一月程度の巾で確かでなければ、その記憶はまず信用できないとしたものだろう。満州からの引揚者の体験記でも日付が曖昧のことが多いのだが、月を明記してある場合には、その程度には確かなのである((11)を参照のこと)。記憶は、その時の気候や木々の様子などの風景や人の服装などとも照らし合わされるからそれは当然のことでもあろう。特に6月ということでは、北海道より寒い満州の春から極めて強い印象を受けた筈である。満州では、ほぼ5月に春が訪れ、続いてすぐ夏がやってくるのである。堀喜身子が「手記」を発表したのが、事件から6年後という比較的日の経っていないことも考慮に入れてよいだろう。
つまり、堀喜身子が6月19日という日付を間違って覚えたのだとしても、大島はなえが逃げ帰り、22人が自殺したのは、およそ6月中の出来事でなければおかしいとしたものである。しかし、その時には、新京にはもうソ連軍はいないのである。ソ連の病院から看護婦派遣の要請があったことも疑わしいし、ゲー・ぺー・ウーが集団自殺を調べに来るようなこともあり得ないし、ソ連軍のいない新京で「ミナカイ」デパートの地下にいた看護婦がソ連人に梅毒をうつしてやるなどと言うのもおかしな話なのである。
6月という月にはもう一つ別の重要な意味がある。それは、満州からの引揚げが、5月から始まるということである。奉天〔のち瀋陽〕で、引揚げが開始されたのは6月11日というし〈『極限の満州に生きる』p.171〉、7月には、新京でも引揚げが始まるのである〈『チャーズ』p.68、「長春の一夜」村岡俊子『されど、わが「満洲」』p.219、など〉(7月8日、大房身地区から日本送還が開始〈『満蒙終戦史』p.1216〉。7月7日、引揚げ開始〈「銃を捨てたとき」河野寛治『流亡の民』p.121〉。何をもって日本送還や引揚げの開始と言うのかでも多少日付が違ってくるだろう)。6月は引揚げについての噂が広がり、翌月にはそれが現実になるという月なのである。
満州にいた日本人には極めて重大事であった引揚げについて、この時期には堀喜身子の周りでも噂になっているのが当然である(新京にいた日本人でも、それぞれの立場・環境によって、引揚げに関する噂・情報をどのように受け取ったかは多少異なっているようである。太田正によると、幾度か、噂が流れては消え、がっかりさせられてきたのだが、7月5日前後に国民政府側から新京の日本人居留民に対して、引揚げに関する最初の通告が出た。そして、日本人会で発行しているタブロイド版の新聞は、小さな紙面をその記事で埋めつくし、町々の辻にある掲示板にも、中国当局の公式の告示が張りだされた、という〈『満州に残留を命ず』p.219〉)。だが、堀喜身子の手記では、「ミナカイ」デパートの地下にいた看護婦が、「仮りに今後どのような幸運にめぐまれて、日本に帰る日が来たとしても」などと、引揚げは遠い将来の話のようになっている。不思議なことである。
もし、この集団自殺事件が、ソ連軍が新京から撤退する4月以前に起こったことにされていたなら、私もこの話をもう少し信じただろう。そこで、仮に、堀喜身子の記憶がいちじるしくどうかしていて、本当はもっと以前の話だったことにしてみよう。
とすると、22人の自殺は、3月4日〜4月8日までのいずれかの月曜日に起こったことにでもなるのだろう。何しろ、ソ連の「救護所」から逃げ帰ったという大島はなえは、「日本の振袖をイヴニング・ドレスに更生した肩もあらわな洋服をまとい、足ははだし」という格好だったのだから。1月や2月にこんな格好で逃げ帰ることはあり得ない。たちまち満州の厳しい寒さにやられるに決まっている。3月や4月でもどうかと思われる。3月の新京〔長春〕の平均気温は、-4.4度、4月では6.7度(1909〜1936)〈『理科年表』〔昭和49年版〕気象の部 p.130〉、また3月の最高気温2.2度、最低気温-10.3度、平均気温-4.0度、4月では、それぞれ13.3度、-0.2度、6.5度(1905〜1932)〈『滿洲建築概説』p.54〉で、北海道の旭川よりまだ寒く、3月は、まだ冬なのである。大島はなえの冷たい体のことは一言も述べられてはいない。4月も上旬では、ぎりぎりセーフとは言いにくい。
『還らぬ天使たち』でも6月19日が土曜日になっているのは同じ。「この日は三回目の派遺から二週間が経ってい」たとあり、最初の応援要請は5月4日だから、派遺間隔は約二週間になっている。
『白衣の天使 従軍看護婦』では、ほかとは異なり、大島はなえが逃げてきた日を三ヵ月早め、3月19日の土曜日だとしている。従って、22人が自殺したのは、3月21日になっている。6月21日という日については「貴身子の記憶違いか」〈『白衣の天使 従軍看護婦』p.83〉と注記されているので、堀喜身子に確認したというのでもない。曜日は間違っており、1946年3月19日は火曜日である。
三ヵ月早めたことについて、奈良原春作は理由を記していないが、ソ連軍の新京からの撤退が考慮されたものと思われる。5月10日の三中井百貨店地下での細井たか子の話に次のようにある――「大島さんのように勇敢になれなかったわたくしたちは、せめてもここで、身体のつづく限り、ソ連兵をお客にとって、この病気を感染させ、憎いソ連兵の肉体を腐らせてやろうとがんばってきたんですが、ソ連兵はみんな引きあげてしまったので、復讐の途はたたれてしまい、身も心もぼろぼろになってしまったのです。」 即ち、5月にはソ連軍がいないことを奈良原春作は承知している。
3月に問題があることは既に述べた。まだ寒い3月にソ連の病院から逃げてきた大島はなえの体が冷え切っていたことなどが書かれている方がよい訳だが(服装のことは述べられていない)、この日付は、ソ連軍の新京からの撤退と矛盾はなく、いくらかマシではある。
従って、『白衣の天使 従軍看護婦』では、ソ連からの応援関係は、三か月ずれることになる訳だが、集団自殺の日に堀喜身子がソ連憲兵に。3週間前に陸軍病院第二救護所から、「看護婦三名、応援に派遣せよ」という命令を受けたと話しているから、ソ連からの最初の応援要請は2月下旬か3月上旬ということになる。そのあと一週間後に二回目の要請の公文書が来て、四回目が来たのが3月19日だから、一週間毎に追加要請が来たということになっている。
最初の応援要請が来たのは、「春の訪れとともに、さまざまな花が一斉に咲いて目をたのしませてくれるようになったある日」だという。ほかにも大島はなえの墓穴に、その辺に咲き乱れているたんぽぽやライラック、野生のシャクヤクなどを刈り取り、穴の中へ敷いたなどとあるが、3月の新京にこのような光景はあり得ない。これらは『還らぬ天使たち』から取っているのだが、それとは三ヵ月ずれたことを奈良原春作は忘れているのである。『還らぬ天使たち』には、5月の声を聞くとようやく長春に春が来るとあるではないか。
堀喜身子が述べている梅毒は「国際梅毒」という特殊なものだが、堀喜身子が応援要請の間隔を一ヵ月にしているのは、おそらく梅毒の発症期間に関係がある。間隔が短いと梅毒の重い症状が出ないのである。そして、原田みち子・奈良原春作は、そのことに思い至っていないのである(どうやっても、うまく事実に適合するストーリーを作ることはできないというものである。梅毒については、「梅毒について」横浜市衛生研究所感染症・疫学情報課などを参照)。
(13) 大島はなえは何故ソ連軍に捕まらなかったのか
大島はなえがいたソ連軍の病院は、鉄条網で囲まれ、彼女が逃げる時には銃で撃たれているのらしい。そうやって、脱走を防いでいたというのであれば、ソ連軍兵士が大島はなえをあくまで追いかけ、掴まえるか射殺するかするのが当然というものだろう。イヴニング・ドレスという脱走には極めて不便な格好をしていた彼女は、どうやって逃げおおせることができたのだろうか? 普通ではない。しかし、大島はなえが逃げて来たところがどういうところかも全く分らないのだから、何らかの幸運があったとみなすほかはない。
(14) 大島はなえは一人で逃げ帰って来た
大島はなえが一人で逃げ帰って来たとは、堀喜身子は述べていないが、他に誰かがいたとも書かれていないから、一人だったとみなすほかはない。
大島はなえがどこにいたのか、第八病院はどこにあったのか、彼女はいつどのようにして逃げて来たのか、そういうことは分らないが、彼女がソ連軍を何とか振り切ったとしても、誰にも見つからずに帰って来ることはありそうもない。
もし、誰かが大島はなえを見つけたとしたら、たとえそれが日本人に反感を持っている中国人であったとしても、重傷を負った彼女を助け、病院まで連れて行こうとするのが当然ではあるまいか。彼女自身が誰かに救助を求めようとするのが当然というものだろう。
この日が6月19日とされていることも考えてほしい。夏至近くである。19日はあやしい訳だが、6月のことだとすれば、随分遅くまで表は明るいのである。
当時そこに暮らした人には何でもないことでも、今私達が知るのが難しいというものは数多い。満州国と日本に時差はあったのかという問題も、私にはそうした問題のひとつであった。
1936年7月7日に満州国の時間割制に日本制を採用すると決定〈「年表」橋川文三『戦火満州に挙がる』p.501〉というが、内容が分からない。満州で終戦の「玉音」が放送されたのも、「本土」と同じく8月15日正午であった〈『大陸のちいさな家族』pp.122-123、『満州脱出』p.12、など〉。8月14日から15日にかけて録音された「玉音」の録音盤が国外に持ち出されたということはなさそうだから、満州のラジオが受信した「玉音」の電波は東京からのものか、せいぜいそれを増幅したものである。こうして、満州の人も「本土」の人と同じ時間に「玉音」放送を聴いたので、結局、満州国時間と日本時間は同じということになる。そして、戦後一年位の間では、これは変わらなかっただろう(満州国建国までは、1時間の時差であったらしい〈『新編 郷土兵団物語』p.95〉)。
夏至の頃の新京の日没時間を、理科年表などによって、緯度がやや近い札幌のそれから推算すると、経度で15度以上違うので時間では1時間以上遅れて、20時17分過ぎとなり、夜9時くらいまで明るいということになる。実際には、夏では夜10時ごろまで明るい〈『満州脱出』p.166〉、テニスを楽しめるほど9時か10時ごろまで明るい〈『満州脱出』p.190〉とあり、また、北満では夏至の頃は、9時半頃まで明るい〈「満州潜行千里(抄)」山内島夫『住田の戦中戦後』p.57〉とある。
大島はなえが第八病院にたどりつき、堀喜身子の胸にたおれかかったのは午後8時過ぎという。その頃には暗くなっているようにも書かれているが、そんな筈はない。それに、大島はなえは、それまで十分明るい中を逃げてきたということになる。誰にも見つからなかった筈はない。
(15) 十一ヵ所の盲貫銃創と貫通銃創
一発の銃弾を受けて死ぬこともあるが、死なないこともある。盲貫銃創や貫通銃創を負ったからといって、死ぬとは限らない。しかし、十一発の銃弾を受けて、死ぬこともなく、しかも数キロも歩いて逃げ帰ることは、ほとんどありそうにない。
大島はなえがどこにいたのかは分らないが、一キロや二キロしか離れていないところにいたようには思われない。そんなに近いのなら、派遣した看護婦を心配して、堀喜身子や病院の他の誰かがそこを訪ねることがあってもよい。
あるいは、大島はなえはソ連の「救護所」を脱出後、ソ連兵に追われながら数十キロも歩いて逃げて来たというのだろうか? 銃撃はその途中で受けたのだが、看護婦だから止血がうまかったとでもいうことなのだろうか? 考えにくい話ではあるまいか。
(16) 何故三人の看護婦は集団自殺から取り残されたのか
22人が自殺して、第八病院に残った看護婦は3人である。これら3人は何故集団自殺に加わらなかったのか、あるいは何故加えてもらえなかったのか?
堀喜身子の場合、婦長だからか? しかし、婦長といっても、堀喜身子は27か28歳、そんなに年は離れていない。敗戦の混乱を一緒にくぐり抜けて来た仲間という意識はなかったのだろうか? 手記には書かれていないが、堀喜身子にはまだ幼い二人の子供がいた。堀喜身子が仲間はずれにされた理由があるとすれば、それだろう(第二の手記で堀喜身子が述べている理由もこれである)。
他の2人は、中風で寝ている服部きよとその付添いの大久保みちだが、彼女らがはずされたのは何故か? 22人がそろって自殺しようというのに、中風で寝ていることが自殺しなくてもいい理由になるのだろうか?
手記にははっきり書かれていないが、堀喜身子を除いて、彼女らは病院に寝泊まりしていたらしい。新京には多くの避難民が入って来て住宅事情が悪かったろうから、それも自然だろう。これもはっきりしないが、三階の看護婦室というところを使っていたらしい。中風という服部きよもそこに寝ていたのではないのだろうか? 中風は伝染病ではないし、部屋を別にする必要はないだろう。それなら、少なくとも、自殺の相談を服部きよと大久保みちの二人は聞いたのではないのだろうか?
(17) 何故22人は自殺したのか
22人の看護婦が自殺した理由は明白であるだろうか? そんなことはない。
遺書には「敵国人に犯されるよりは死をえらびます」とある。このような理由による自殺は、かつての日本の女にはよくあることだった。1945年8月20日、ソ連軍が攻めて来る中で、樺太真岡で電話交換手9人が自殺したのも、この理由によると思われる〈『悲しみの島サハリン』p.9、『「九人の乙女」はなぜ死んだか』p.73〉(ある出来事の生じた原因はいくつも考えられる。『「九人の乙女」はなぜ死んだか』は、この樺太真岡での集団自殺の原因を追求しているのだが、原因として、敵国人に犯されるよりは死を選ぶという道徳に重きを置いているとは言えない。しかし、自殺前の電話に「私も乙女のまま潔く死にます」とあることから見て、これも原因と考えてよい)。ビルマで捕虜になった看護婦が性的関係を迫られて自殺したこともあったらしい〈『戦争という地獄』p.34。『紅染めし』・「シッタンに散った日赤看護婦」秦邦彦『別冊歴史読本 戦記シリーズ22』を参考にしたとある〉。サイパン戦では、婦女子を含めて一般人も多く自殺したが、それはアメリカ軍に捕まったなら、ひどい目に合わされると信じていたからだとある婦人がTVで話していた。ひどい目というのは、女の場合、性的暴行も含まれている筈である。だから、敵国人に犯されるよりは死を選ぶというのは当時としては一般的な道徳で、それ自身は何らおかしいものではないだろう。
しかし、この時の22人にどれだけ敵国人に犯される危険があったのだろうか? 既にソ連軍から三回目の派遣要請が来た時、堀喜身子はもうこれっきりにしようと思っていた。大島はなえがソ連の病院から逃げて来て、実は慰安婦にされていたと話した後では、尚更彼女らがソ連の病院に派遣されることはなくなった筈である。
ソ連軍が、病院の応援と称して看護婦を呼び慰安婦にしたことを、姑息な手段さえ使ったとみなすか、姑息な手段しか使えなかったとみなすかは、解釈が分かれるところだろう。しかし、22人が自殺したあとのソ連側のすばやい好意的とも言える対応から判断すれば、もうこの時期には、ソ連人が女を得るためには、こんな姑息な手段しかなかったという方が正しいとしたものだろう。このような詐術めいた姑息な手段さえ封じれば、もう彼女らの貞操は安全だったのである。
例えば、看護婦たちが伝染病にかかったことにして、応援要請を断わることもできた筈である。伝染病を装って女をかくまうようなことはしばしば行われ、その効果も示しているのである〈『満州脱出』p.45、「通化幾山河」山田一郎『秘録 大東亞戰史 滿洲篇』下 p.52〉。
まして、彼女らには日本に帰る希望が全くないのではなかった筈である。絶望する理由がどこにあろうか。また、22人が貞操の危険から自殺したというのであれば、実際に貞操を汚された9人はとっくに自殺していなければならないのではなかろうか(終戦後の新京での暴行について「八月二十五日のニュースでソ連軍は婦女暴行を司令官名で止めよと発令したと聞いた」「その命令が浸透したのか、毎日一、二名の女性が同じ惨状で送られて来たが、あのように多数の女性が送られて来ることはなくなった。また女医さんに聞いたことだが、「十名に二、三名は舌を噛んで死んでいるんです。また何名かの方は胸を圧縮されて息絶えている人がありました」と語られた」〈「凌辱」平本直行『されど、わが「満洲」』pp.173-174〉とあり、暴行を受けて自殺した者も多かったらしい)。
こうしてみると、貞操の危険から自殺したという理由は幾らか困難であることになるだろう。それに、もしこれが自殺の理由だと言うのなら、はっきりともうソ連の病院には看護婦を送らないと彼女らに言わなかった堀喜身子婦長の責任はまことに重いと言わなければならないだろう。それとも、堀喜身子は、それでも「因果をふくませて」看護婦を送るつもりだったのだろうか?
だから、堀喜身子もそうだが、『サンデー毎日』などでも、この自殺をソ連軍への抗議の自殺だとしている。一般に何らかの圧力を受けての自殺は抗議の自殺だとされることが多いが、この自殺も、そういう一般的なものとして抗議の自殺と呼ぶことができるし、また、結果としてソ連側を動かしたという点でも確かに抗議の自殺だったには違いない。しかし、彼女らには抗議の意志はほとんど見られないのも確かである。もし、私が抗議の自殺をするのだったら、新京の街の中央やソ連軍司令部の前、あるいは看護婦たちが派遣されたソ連の病院の前などで自殺するだろう。そんなことをするのは、大和撫子として、はしたないことだろうか? そうかもしれない。しかし、どうせ死ぬのではないか。そうしなかったのは、ソ連側を挑発することを恐れたからだろうか? だが、堀喜身子も、この自殺の後やってきたソ連軍将校に、危険を恐れず、「最初からのいきさつを全部ぶちまけ」る勇気を示しているではないか。それが、どうやら彼女たちが住み込んで働いていた病院の一室で、一通の遺書だけ残してひっそりと死んでしまうというのでは、とても抗議とは言えないだろう。むしろ、堀喜身子などの病院側に対してあてつけがましいとさえ言えないであろうか。
そこで、私が最も妥当と考える自殺の理由はと言えば、殉死である。大島はなえの死に殉じるのではない。同僚の1人の死に対して22人が殉死することはあり得ない。それは、道徳に対する殉死である。敵国人に犯されるよりは死を選ぶという道徳、あるいは貞操を守るという道徳があって、大島はなえによって、それが犯されたことを知り、22人は殉死したのである(あるいは、大島はなえら9人の貞操に殉じたのだとしてもよいだろうが、それでは22人というのは少し多すぎるだろう)。あり得ない理由だろうか? しかし、終戦後、多くの日本の軍人・軍属が自殺したが、それらも旧道徳に殉じたのだと考えることができるので、あり得ないことではない。しかし、(残念ながら)この理由もありそうにない。当時、女がそのような理由で自殺したという例を私は全く知らないのである(自殺の理由までは分からない。満州では、ソ連軍などによる直接的な軍事的脅威がない状態でも、多くの一般人も自殺した。しかし、それもほぼ8月中のことで、9月以降になると自殺はほとんどなくなったようである。8月中の自殺も満州という「外地」でソ連軍に占領されるという特殊な条件が大いに関わっていると思われる)。
従って、どのような自殺の理由にも困難があることになるだろう。
この自殺の不思議な点はまだある。彼女らには家族はいなかったのだろうか? いなかったのではない。骨を「故郷の両親にとどけて上げたらよい」という言葉が出てくるし、「由来記」によるとのちに19人について遺族が見つかったとある。このようにせっぱつまっておらず、遺書を書く十分な時間がある場合、親しい者、両親などへ、遺書を残す方が普通ではなかろうか。少なくとも誰かはそうしようとは思わなかったのだろうか? それが、ない。22人を代表する一通の遺書しか残されていないのである。
(18) 一人千円の火葬代を張宇孝が支払った
当時の新京では火葬代が一人1000円したという。看護婦の月給が200円という時に、火葬代がそんなにしたのだろうか?
1945年終戦後の新京では、日本人会が冬に3万人くらいの死亡者が出ることを予想して、土が凍結しない前に、市の周辺に日本人死者のための穴を掘るということになった〈「臨月の妻が愛児の遺骨を胸に引揚げ」近庄次『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦VI』p.96〉。そこは、緑園地区の近くで、予想の通り多くの人が死に、いくらも立たないうちに穴は埋まったのである〈『満州 満林の追憶』p.189〉。そこは大房身という場所であり〈「国破れて惨禍あり 無法者に踏みにじられて」大野年子『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦IX』p.163、「わが想い出の地、満州」那須佐紀子『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦X』 p.379〉、4 km四方もあった〈「生き地獄体験記」大野しづ江『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦XI』pp.110,114。競馬場とあるが、競馬場はそんなに広くないので、大房身墓地と混同しているらしい。ほかにも競馬場と書いている人がいる(「黒河からの引揚記録」榎ウメ子『流亡の民』p.238)ので、当時そのように語られていたのらしい。〉という。また、死者は公園や学校の校庭などに埋められた〈「激動の日々」佐藤利男『わが子に伝えたい昭和の体験記録』下 pp.237,240、「女学生の私の恐怖の体験」藤井貞『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦II』p.9〉。火葬もあった〈「臨月の妻が愛児の遺骨を胸に引揚げ」近庄次『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦VI』p.97、「生き地獄体験記」大野しづ江『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦XI』p.114〉が、ほとんどは土葬であった。引き揚げの際に掘り出して火葬にし、お骨を持ち帰ったという例がかなりある〈「三人の子と涙の逃避行」小南艶子『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦II』 p.124、「満州生活体験記」三堀幸一『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦V』 p.170、「花模様の着物と赤い足袋の悲劇」大島一恵『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦X』 p.129、「生き地獄体験記」大野しづ江『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦XI』p.114、「戦争と女の悲劇」阿久津カツ『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦XI』p.165、「白い墓標」渋谷恭子『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦XIII』 p.262〉。「昭和二十一年六月末ごろに引揚げの話があり、新京で亡くなった方々全員を火葬にして、各遺族に渡して着々と準備を進めた。火葬のときの燃料は若い者を督励して、元陸軍の飛行場の格納庫の材料を幾日も貯めておいて、それで火葬したのである。」〈「引揚げて自立自営の開拓」井上隆『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦VII』 pp.53-54〉。
撫順では、日本人の死体は、付近の野原などに埋め、さらに防空壕の中に収めたが、防空壕には限りがあり、死体が野原にうづ高く積まれることになった。春になって、死体を郊外に運んで、処置せよということになり、馬車で渾江(こんこう)に遠くない草原に運んだ。1900幾体という死体を薪と交互に積み、上に芝をかけ、1946年3月11日の正午前に火をかけ、翌日午前中に終った〈「撫順秘話」上妻斉(こうずまひとし)『秘録 大東亞戰史 満州編』下 pp.105-106〉(焼いた死体は1000体〈『満州=修羅の群れ』 pp.241-245〉ともいう)。
「手記」の印象では、火葬は費用がかかってほとんど行われなかったような感じなのだが、事実はそうではない。当然だが、火葬のためには死体の運搬とそれを燃やすための薪などの費用があればよいので、火葬にそれほどの費用がかかったものなのだろうか。暖房の必要のないこの時期には、薪代も安かったのではないのか。薪などの値段がどうであったのかなどよく分らない(満州では終戦から物価は高騰し、ものによっては1、2か月で二倍になっている。時期・地域による差もある。物価の記録は食料が主で薪などについては記載が乏しい〈『満洲国史 各論』pp.456-467、『満洲国史 総論』p.826、など〉。新京では薪は買うというより、空家などを取り壊して得ることが多かったようである)。取り敢えずは疑問にしておくほかないようである。
そして、病院の人事課長の張宇孝が22人の火葬代を出したというのだが、看護婦の収入のほぼ9年分の金を出したことになる。たかが病院の人事課長である張宇孝は、どうしてそんなに金持ちなのだろう? 戦前、新京に住んでいた人の話の中に「満人は貧富の差がひどかった。」〈聞き書きノート「乙女の満州」(インターネットにあったが、今は見えない)〉とあったので、不思議ではないのかも知れないのだが、これも疑問にしておくほかはない。
(19) 何故、ソ連の病院に行った看護婦を戻そうとはしないのか
22人が自殺した後、堀喜身子はソ連側に全てを話し、ソ連側からはすばやい好意的な対応を受けたと言える。それなら、ソ連軍の病院に派遣していた看護婦を返すようにソ連側に要求した筈だと思うのだが、そういうことは書かれていない。集団自殺から49日の日に、堀喜身子が「ミナカイ」デパートの地下に彼女らがいると聞いた時には、「ソ連兵のなぐさみものになっているとは聞いていましたが」と、まるで他人ごとなのである。派遣した看護婦については何もしなかったと考えるほかはない。どうしてなのか?
この疑問については、第二の手記が触れている。大久保みちから、看護婦たちが「ミナカイ」デパート地下でダンサーをしていると告げられたあとに次のように書かれている。
「 二十二名の部下であった看護婦たちの、集団自殺という破天候な出来事に、私は我を忘れ、大島はなえさんが死を賭して〔脱〕出して来たその後には、破廉恥なソ連軍将校の手に落ちて呻吟していた八名のいた筈。大島さんの死によって事態は〔急〕転回したのだから、この人たちを助けるのも、私と、平尾軍医と、軍医部長と、病院長の責任ではなかったのか。一日も早〔く〕助けて上げるのが当然ではなかったのか。」(〔〕は印字の欠けているところを私が補ったもの)
ソ連の病院に派遣した看護婦を戻すべきだったと述べてはいるが、集団自殺から49日の間、誰も何もしなかった訳である。その理由が集団自殺で我を忘れたからだという。何ともあきれた話ではあるまいか。
(20) ミナカイという街、ミナカイ・デパート
「ミナカイ・デパート」は、三中井百貨店のことである〈『チャーズ』カバー裏の新京市街地図、『写真集 旧満洲』p.322、『写真集 望郷満州』p.97、『復刻 満洲絵葉書写真帖』の絵葉書写真、など〉。堀喜身子は、ミナカイという街のミナカイ・デパートと、まるで、デパートの名が街の名前から取られているかのように書いているが、そうではない。三中井百貨店は朝鮮から大陸にかけて18店舗展開していた私企業である〈『幻の三中井百貨店』p.8。「近江商人活躍の舞台 その(4) 大陸の近江商人」末永國紀(すえながくにとし)〔同志社大学経済学部教授〕なども参照〉。「三中井」の名前の由来は諸説あるが、街の名前から取られた訳ではない〈『幻の三中井百貨店』p.36〉。そこがミナカイという街であったことは、ありそうもない。日本でも、三越があるからといって、その街が三越と呼ばれるようなことはない。そんな例は聞いたことがない。また、どんな本にも「ミナカイという街」などと書かれていない。
堀喜身子は、そこは東京でいえば銀座にあたると書いている。新京の三中井百貨店は、大同大街と豊楽路の交差点にあり〈『写真集 旧満洲』p.322、など〉、大同大街の隣のビル康徳会館には満州石油や満州拓殖公社など〈『新京案内 康徳六年版』p.89、「いつの日歸る夢のふるさと」望月百合子『秘録 大東亞戰史』上 p.85〉、また満洲重工業のほか有数の特殊会社の事務所、興農部などの政府機関の一部が入っていた〈『新京の地図』p.85〉。そこから、大同大街を新京駅に向かってしばらく行くと、かつての関東軍司令部などがあった。新京の中心部であり、どちらかといえば官庁街・ビジネス街だろうが、比較的近くには宝山百貨店もあり〈『新京市街地図』〉、東京の銀座にあたると言ってもおかしくはないだろう。しかし、新京には新京銀座と呼ばれていた別の場所があったのである。そこは吉野町(よしのちょう)である〈『復刻 満洲絵葉書写真帖』の絵葉書写真の説明、「蜃氣樓の國に生きて」山田一郎『秘録 大東亞戰史』上 p.186。また、『写真集 望郷満州』p.96、『満洲鉄道まぼろし旅行』p.165、など、新京を紹介する多くの本に載っている〉。
何故、堀喜身子は「三中井」ではなく、「ミナカイ」と表記しているのか? 「三中井」は難しい漢字ではない、カタカナにする必要がどこにあるのか? 戦前の写真を見ると、三中井百貨店の屋上から突き出た塔のようなものには、「三中井」という名前が掲げられてあった〈『復刻 満洲絵葉書写真帖』の絵葉書写真〉。堀喜身子がいたという当時もそうだったのかは分らないが、当時新京に住んでいて、そこに買物に行くような日本人が「三中井」を知らない筈がない。他の手記などで「ミナカイ」と表記している例は一つもない。
おそらく、堀喜身子は、誰かが「ミナカイ」デパートと話したのを聞いただけなのだろう。それが「三中井」だとは知らなかったらしい。そして、それを街の名前だと思ったのだろう。
新京の三中井百貨店は、戦前ならばマンジュウの粉を買うのに適当なところではないように思われる。しかし、戦後には、三中井デパートの前で飴やチョコレートを売った人もいる〈「いつの日歸る夢のふるさと」望月百合子『秘録 大東亞戰史』上 p.104〉から、戦後のこの時期では何とも言えないようである。
敗戦で職を失った日本人は、吉野町、ダイヤ街、興安大路、三中井百貨店前、そういう盛り場へ物売りにいったり、飲食店へ勤めたりした。「吉野町は終戦前には見られないほどの賑かさになっていた。店という店は全部満人の手に渡り、道の両側をぎっしり埋めて露店が立ち並び、それが日本人の店であった」〈「蜃氣樓の國に生きて」山田一郎『秘録 大東亞戰史』上 p.188〉という。
なお、三中井百貨店地下がキャバレーにされていたのは事実なのか調べようとしたが、はっきりしたことは分らなかった。ただ、それはないこともなさそうではある。
『幻の三中井百貨店』によると、三中井の京城〔のちソウル〕本店は、地上六階地下一階であった〈『幻の三中井百貨店』p.86〉し、戦後、三越の京城支店は、「総督府から、沖縄からの米進駐軍の慰安所に食堂を提供するようにたびたび催促され、店の一角がキャバレーに」なった〈松田伊三雄〔三越京城支店長〕の回想録「京城支店始末記」〈三越社内報〉『幻の三中井百貨店』pp.212-213〉そうである。
新京の三中井百貨店については、次のようにある。
「 三中井新京店の店長であった中江章浩は、満州・新京で敗戦を迎えた。関東軍に召集されていたが、ソ連軍に降伏後は、自身や社員及び家族の生命と安全と引き換えに新京店の全商品を差し出すことに全精力を打ち込んだ。五〇〇万円の値打ちがあった(三中井京城店の約一年分の売上に相当する)全商品をソ連軍に引き渡した。監視下に置かれて自由はきかなかったが、「安全保障」が確保され、昭和二十一(一九四六)年、家族は全員無事に日本に引き揚げることができた。章浩はシベリアに抑留されたが、病気がちで体力がなかったため抑留を解かれ、昭和二十二年に帰国した。自ら幸運だった、と語っている。」〈『幻の三中井百貨店』p.236〉
1945年11月末頃には、三中井百貨店自体は、名前が「中山百貨公司」と変わり、元通り営業していた〈「新京・郭山往還記(後)」大橋康一『黄塵』p.108〉という。
新京の三中井百貨店は、新京で一、二を争そうデパート(「いつの日歸る夢のふるさと」望月百合子『秘録 大東亞戰史 』上 p.106には、新京一のデパートとあるが、『新京の地図』の写真説明には宝山百貨店が新京第一のデパートとあり、三中井は宝山ほど大きくないが、地の利があって、人の出入りが多かったとある〈『新京の地図』p.85〉)であり、ソ連軍が一司令部を置いた協和会中央本部〈『満州十二年』p.127、『墓標なき凍野』p.54〉からも近いから、キャバレーにするには好都合だったかもしれない。ただ、新京には日本橋通りなどにいくつもダンスホールなどがあった〈『昔日の満州』p.123、『新京案内 康徳六年版』pp.122-125〉。ソ連軍の進駐以降も少なくともそれらの幾つかが開いていたことは手記などから確認できる〈『ひとすじに星は流れて』p.191、「長春在留日記抄」小西清規『満州さ・よ・な・ら』p.519〉。
『新京の地図』p.70の地図を示しておく。
戦前、三中井百貨店から遠くない豊楽路の興安大路との交差点付近には、ダンスホール・モンテカルロがあり、ダイヤ街の扇芳会館と並んで、新京の二大ダンスホールであったが、これらは1942年に閉鎖している〈『新京の地図』pp.89-90〉。おそらく、戦時統制のためである。1935年頃、豊楽路にダンスホール・モンテカルロができ、二階がホール、階下は同じ名前のカフェーであった〈『新京案内 康徳六年版』 p.122〉。豊楽路には豊楽劇場という映画館があった〈『新京案内 康徳六年版』 p.136〉が、『流氓(りゅうぼう)』によると、戦前、豊楽路の大同大街から興安大路に至る中間、道が折れ曲がったあたり〈「新京市街地圖」『流氓』〉に豊楽劇場があり、その地下に幌馬車というカフェーがあった〈『流氓』p.29〉。戦後、多くの日本兵がソ連軍に連行される描写があるので、およそ1945年9〜10月頃、そこがモンテカルロというキャバレーになっていて、「ソ連兵の酔漢がその入口で日本の女給と戯れているのを見かけた」とある〈『流氓』pp.28-29〉。そこでは、モンテカルロは戦後のキャバレーの名前になっている。モンテカルロの支配人は中国人で〈『流氓』p.37〉、そこは「元の豊楽劇場で今は中国人経営のデパートの地下を占めている。入口はデパートとは別で、建物の横手から細い階段を下るようになっている。」〈『流氓』p.41〉とある。(『流氓』の「あとがき」に「約半世紀も前の在満日本人の、あの顔この顔が、しきりに憶い出されてならない。この人達の為に、風化しかかっている当時の満州棄民の事跡を、ぜひ記述して世に問おう。それが畢生に際しての私の義務だと思ったのである。小説風に作文したが、本筋において虚構は無い。」〈『流氓』p.269〉とあるが、フィクション部分には注意が必要である。しかし、舛山六太はかつて新京の白菊小学校の教師で、かつての白菊小学校の在校生が次のように書いていることから、舛山六太の言葉が正しいことが観取される――「近所の北原君のお宅に尾崎(岩山)六太先生が寄寓されておられ、時々お会いした。父とは日本人会の仕事などで話をされている様であった。私も父の使いで日本人会の鐘紡の中司さんのところによく連絡に行かされた。それで引揚後に先生がサンデー毎日で懸賞小説に当選された『草死なざりき』や、数年前に出版された『流氓』の中の幾つかのテーマは「ああ、あの事だ」と私にもよく判る。」〈「その日から」小沼伸二『黄塵』p.130〉(『黄塵』出版時、舛山六太は故人であった〈『黄塵』p.97〉)。 しかも、『流氓』にはモンテカルロの位置が地図に示されており、その地図は『新京の地図』の地図などと照らし合わせて正確であるから、『流氓』のモンテカルロなどの描写は事実と思われる。)
『黄塵』p.178の1939年改版の大日本帝國測量部の地図によると、豊楽劇場は三中井百貨店の隣というより、隣のブロックにあり、数十mは離れている。こうして、三中井百貨店の比較的近くにもキャバレーがあったのらしい。三中井百貨店地下をキャバレーにする必要があっただろうか。
時期は不確かだが1945年8月、9月頃には、三中井百貨店は避難民の情報連絡所になっており〈「忌わしき戦禍、引揚げの途」荒木直哉『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦VIII』p.23〉(「居留民会とは別に、日ましに増加する奥地からの避難者の収容並びに救済について強力かつ全国的な組織が必要であるとして、八月一九日上村伸一日本公使、武部元総務長官、古海元総務庁次長、高碕元満業総裁らが、上村邸で会合した結果、権力の背景と生活の基盤を失った全満日本人の自治的互助救済機関として東北地方日本人居留民救済総会が結成された。高碕達之助を会長とし、事務所を大同大街、三中井百貨店内(のち本拓ビル、さらに農産公社ビルに移った)に置いて業務を開始した。」〈『満洲国史 総論』p.800〉とあり、東北地方日本人居留民救済総会が関係していると思われる)、多くの人が避難民の行き先や安否の確認のために訪れたと思われる。それから百貨店前には多くの日本人が物売りに集まることになる。日本人は、ソ連軍人を恐れて近寄らないようにしていた〈『満州十二年』p.131〉。それなのに、堀喜身子によるなら、ソ連軍人のためのキャバレーがあった三中井百貨店の前に日本人は集まっていたことになる(日本人には夜間の外出禁止令が出ていて、キャバレーが開くのは夜ということはあるだろう。そして、比較的近くにはソ連兵が出入りするキャバレー、モンテカルロがあった訳だが)。そして、誇り高い筈の看護婦たちは、多くの日本人が集まるところで、「恥をさらして」ソ連軍人と踊っていたということになる。
『佳木斯 追想』という本には、新京の三中井百貨店のことを述べた手記があった。私は編者の渡辺芙美子にお願いして、それを書いた人に訊いてもらったが、当時8歳ということで三中井百貨店に地下フロアがあったかどうかにも確答を得られなかった。地下がキャバレーになっていたという噂は聞いたことがあるということだったが、その噂の源は堀喜身子の手記かもしれず、何とも言えない。
(21) 「折角来た序ですから、寄って顔でも見て」「いい思いつきだから行ってみよう」
大久保みちが、どうやって「ミナカイ」デパートの地下にソ連軍の病院に派遣された看護婦たちがいることを知ったのかも謎だが、それを知った時にどうしてすぐに堀喜身子らに話さなかったのかも謎である。この大久保みちという女性は、どこか精神がおかしいようで、「折角来た序ですから、寄って顔でも見て行きましょう」と堀喜身子に話したのである。彼女にとっては、買物のついでのことなのだった。異常な精神ということでは、堀喜身子も負けてはいない。それに対して、堀喜身子は、「いい思いつきだから行ってみよう」と答えたのだか思ったかしたのである。「いい思いつき」――そんな軽いことなのか?
大久保みちの言葉は、第二の手記も第一の手記とほとんど同じ、「折角ですから寄って会って見ませんか。」である。堀喜身子の「いい思いつきだから」は削除され、「足が釘づけになったようにしばし立ち続けました。私は激しい衝撃を受けていました。」などと改められている。えらい変わりようである。
『還らぬ天使たち』・『白衣の天使 従軍看護婦』では、堀喜身子は一人で出かけ、三中井百貨店の入口で張科長に遭い、地下のホールに看護婦たちがいると告げられたことになっている。
その日は『還らぬ天使たち』では、8月8日の日曜日で四十九日忌の前日、『白衣の天使 従軍看護婦』では、5月10日の日曜日で四十九日忌の日。曜日はいずれも正しくない。『白衣の天使 従軍看護婦』は四十九日の日付も間違っている。
(22) 私たちの引揚げ
引揚げのことは、堀喜身子の手記には、キャバレーにいた「六人のうちの四人は、私たちの引揚げに際しては、ハルピンに身売りまでして、その費用を稼いでくれ」たとあるだけである。引揚げという重大事についてそれしか書かれていないのは奇妙である。
『還らぬ天使たち』・第二の手記・「由来記」には、堀喜身子の引揚げについて奇怪な話が載っている。それは、堀喜身子が南新京駅から引揚げようとした時のことで、三人の看護婦が会いに来たが、その三人は貨車の下で拳銃自殺したというのである。奇怪である。何故、三人は堀喜身子に自殺を見せつけねばならなかったのだろうか? なんで貨車の下という不自然なところで自殺しなければならなかったのだろうか?
もし、南新京駅で三人が自殺したことが事実だというのなら、何故、堀喜身子の最初の手記には、そんな重大な事件のことが書かれていないのだろうか?
堀喜身子らの引揚げ時期について『還らぬ天使たち』・『白衣の天使 従軍看護婦』ではその明記はないものの、明らかに1946年のことになっている。一方、顕彰碑・第二の手記・「由来記」では、1948年である。二年の違いは大きい。また、『サンデー毎日』の略歴によれば、1947年8月21日に引揚げたとなっている。
第二の手記によると、1948年9月のある朝に帰国命令が出て、その日の午後7時頃に南新京駅から引揚げ列車が出たとある。しかし、当時の長春は共産軍に包囲されていたのだから、このような引揚げは絶対にあり得ない。1947年10月から長春は包囲され、惨澹たる餓死者を残して、国府軍が降伏し、「解放」されたのが、翌1948年10月であった〈『チャーズ』など〉。
南新京駅から引揚げ列車に乗り込んだというなら、それは1947年でもあり得ない。1947年には国共内戦によって、鉄道の線路が共産党軍に取り外されたりして鉄道が使えず、長春の引揚げ日本人は、トラックに乗り込んでいるからである〈『チャーズ』p.77、「いつの日歸る夢のふるさと」望月百合子『秘録 大東亞戰史』上 p.121、『満州脱出』pp.54-55、など〉。つまり、南新京駅から引揚げ列車に乗り込むようなことは、1946年しかあり得ないのである。
1946年と1948年という二年の差はどのように説明できるのだろうか?
(23) 渡満直前、二週間の幕舎生活
渡満直前に、群馬県の大泉村で二週間の幕舎生活をして、野外訓練を受けたというのだが、これは、当然、召集されて、満州に渡る前ということになる。このことは、堀喜身子が前に述べたことと食い違っている。つまり、前には、召集令状受領後一週間目に、「任地香港の第一救護所にむけて出発」したとあるのである。
召集された救護看護婦が、幕舎生活をして、野外訓練を受けたようなことはありそうもない。私は、従軍看護婦について派遣前に野外訓練を行なったと述べているものを全く知らない〈『女たちの遥かなる戦場』、『戦場に捧げた青春』 、『従軍回想の記』など〉。1944年、従軍看護婦を希望し、「軍事保護院派遣軍属看護婦」として南方勤務を命ぜられた江川きくは、従軍前の実地訓練というものを受けているが、場所は接収されて第二海軍病院となっていた東京目黒の雅叙園で、病棟勤務であった〈「撃沈」江川きく『白の墓碑銘』p.221〉。
既に述べたように戦闘が行なわれている場所に、従軍看護婦が送られることはまずない。軍隊には男の衛生兵(もとは看護兵といった〈『日本人捕虜』下 p.360〉)もいるからだ。戦争中、戦闘に巻き込まれた従軍看護婦は決して少なくなかった。しかし、それは戦局が悪化してそうなったので、最初からそういうところに送られたのではない。彼女らが送られたのは、病院船や陸軍病院・海軍病院など、せいぜい兵站病院・野戦予備病院で、殊に満州では野外訓練が必要になるところではなかった。従軍看護婦が働いた病院がどんなものだったかについては既に述べた通りである。
(24) 群馬県吾妻郡大泉村という村はない
現在、群馬県には大泉町(おおいずみまち)という町がある。ただし、そこは吾妻(あがつま)郡ではなく、邑楽(おうら)郡である。地図を参照してほしい。およそ、1958年〜、吾妻郡について、A:嬬恋村、B:草津町、C:六合村、D:中之条町、E:高山村、F:長野原町、G:吾妻町、H:東村。邑楽郡について、A:大泉町、B:邑楽村、C:千代田町、D:明和村、E:板倉町。
大泉町は、1957年3月31日に小泉町と大川村が合併してできたもので〈『幕末以降市町村名変遷系統図総覧@』p.362〉、それより前には群馬県には大泉という村も、そういう地名も存在したことはないのである〈『角川地名大辞典 10 群馬県』 p.196、『群馬県の地名』pp.754-755〉(これらの本は歴史に現われた群馬県の全ての地名を網羅している)。
村の名前を堀喜身子が間違って覚えたということは一応考えてみた。この場合、吾妻郡は群馬県の郡名なので、ほかの県を考える必要はないだろう。群馬県吾妻郡には、「大戸」「大塚」など「大」のついた村、また「泉沢」という村があったが、いずれも1889〔明治22〕年になくなって大字になっている〈『角川地名大辞典 10 群馬県』〉。「大泉村」に最も近かそうな名前を強いてあげれば「東村」だと思うが、それを間違えて「大泉」になったとは考えにくい。従って、手記に大泉村という地名が出てくるのは全く不思議なことだと言わねばならない。
おそらく、堀喜身子にとって村の名前は架空のものであれば何でもよかったのである(例えそういう村がないことが『サンデー毎日』の読者に知れたとしても、誤植や記憶違いで逃げることができる)。「大泉村」を選んだのは、山梨県の大泉村を採ったからだろう。のちに、実際に群馬県に大泉町ができたのは、堀喜身子にしてみれば(そして、私たちにとっても)全くの偶然の結果なのである。
(25) 「お地蔵さまの首に」「数珠をかけて回向」
「由来記」などによれば、平尾勉が群馬県「大泉村」に建立することになっていた地蔵の費用を着服し、そこに地蔵は建立されなかったのだという。しかし、堀喜身子の手記によるなら、堀喜身子は「大泉村」で地蔵を見ているばかりではない、それに触れてさえいるのである。何故、堀喜身子はそんなあからさまな嘘をついたのだろうか? そして、そんな嘘をつく人間をどうして信用することができるのだろうか?
第二の手記は青葉慈蔵尊の建立後に書かれたらしく、この下りは削除されている。
(26) 不自然な符合
堀喜身子の手記には、やや不自然な符合が連続している。
「私たち夫婦が、それこそ、ばったり虎林の野戦病院の廊下で行き会った」。「一週間目の十五日、ようやく長春に入り、突如として、ここで日本敗戦の報らせを聞いた」。ソ連の病院への四回目の派遣の人選をして、「それぞれに因果をふくめて月曜日午前中には城子溝へむけて発つようにと申し渡した」その夜に、大島はなえが逃げて来た。22人の四十九日の日に、「ミナカイ」デパートの地下で派遣した看護婦に会った。という具合である。
これらは、この話がウソだという証拠にはならないが、不自然な作り話めいたものにさせていることは確かだろう。
この他にもあるが、やや末梢すぎるので省略する。
「第二の手記」でも、肝心の点、第八病院が新京のどこにあったのかなどは、相変わらず何も記されていない。ただ、他人が「手記」を読んで、おかしいと思われる文や表現を改めたり(「いい思いつきだから行ってみよう」など)、付け加たりし(家族のことなど)、そして、都合の悪い部分を削ったり(「大泉村」の地蔵建立の下り)したものに過ぎない。何故、そのようにしたのかは、容易に想像がつくというものである。
原田みち子の『還らぬ天使たち』と奈良原春作の『白衣の天使 従軍看護婦』は、堀喜身子の話に大巾なフィクションを加えて構成したもので、そこに「真実」はないと言わざるを得ない。
次に堀喜身子の帰国後の話、そのほかについて、そのデタラメを暴くことにする。
デタラメにまみれている:『サンデー毎日』〜「由来記」
19人の遺族は存在しないことなど
堀喜身子の満州新京での従軍看護婦の集団自殺については、誰も彼もがデタラメを書き並べている。それが私の印象である。堀喜身子のデタラメの手記の上にさらにデタラメを重ね、継ぎ足しているのである。
まず、そもそもの発端となった『サンデー毎日』だが、そこには「本編集部は、その時のたった一人の生き残りの看護婦長堀喜身子さん(三三)を静岡県清水市の勤務先にたずね、ここにその手記を得た。」とあるのだが、これはウソである。何故なら、同ページの堀喜身子の略歴にはその勤務先が静岡県清水市の桜ヶ丘保健所だとあるのだが、そんな保健所は存在しないからである。存在しないところにたずねて行くことはできない。プライバシー保護のために勤務先を架空の名前にしたのである筈もない。それなら名前を伏せておけばよいだけのことで、ありもしないデタラメを書いてよいことにはならない。
事実はと言えば、堀喜身子の勤務先は桜ヶ丘病院だったのである。だから、『サンデー毎日』編集部は、堀喜身子から送られてきた手記をそのまま掲載したのであり、その内容の事実確認を全く行なわなかったというのが真実だろうと私は考えている。そのことは、少しでも内容をチェックしたなら分かる筈の矛盾(堀喜身子の最初の渡満と召集の年、など)がそのままになっていることからも分かる。略歴も堀喜身子が書いたそのままのものなのだろう。(続いて述べるように、私は清水に実際にあった清水保健所を桜ヶ丘保健所にしてしまうことはあり得ても、保健所と病院を間違えることはない筈だと考えた訳だが、やや微妙ではある。いずれにせよ、『サンデー毎日』編集部がジャーナリスト失格であるには違いない。)
堀喜身子の勤務先が分かったのは次のような経緯からである。
堀喜身子は清水市の桜ヶ丘保健所に勤務していたというが、すると、清水市には桜ヶ丘保健所、それから何とか保健所というように、幾つも保健所があったのだろうか、と私は思った。
私は静岡市に行く機会があったので、そこで少し調べてみたのである(2004年4月に清水市は静岡市に吸収合併されている)。
清水の地図を見ると、桜ヶ丘には桜ヶ丘総合病院という病院があって、保健所はそこから遠く離れていた。堀喜身子が勤務していたのは、桜ヶ丘総合病院の方ではなかったのだろうか、そんな疑問が浮かんだ。
『清水市史』を読んでみた。なかなか面白かったが、保健所については、結論は簡単で、当然だが、清水市にあったのは清水保健所だけ。だが、当時それがどこにあったのかは分らなかった。
清水に行って中央図書館の郷土資料室で、役立ちそうなものを探したが、1960年に出された『清水市便覧』という小冊子があり、それによると当時の保健所は、桜ヶ丘ではないが桜ヶ丘の近くにあったことが分かった。それなら、ちょっとした手違いで保健所の名前が桜ヶ丘保健所になったのだろうし、堀喜身子が勤務していたのは清水保健所で間違いないことになるんだろうとその時はそう思ったのだった(その小冊子によると、桜ヶ丘総合病院は当時桜ヶ丘病院という名前であった)。
ところが、それから手記の内容を調べていくうちに、堀喜身子のことは何もかも信用できないと思い、保健所のことも確認すべきだと思われてきた。そこで、清水保健所に1952年当時、堀喜身子が職員であったか問い合わせてみた。昨今、プライバシーのことがやかましそうなので、『サンデー毎日』の堀喜身子の略歴の出ているページを同封して、既に公になっていることを示した。すると、職員にそういう者はいなかったという返事だった。そこで、次に桜ヶ丘総合病院に、堀喜身子が勤務していた「桜ヶ丘保健所」は桜ヶ丘総合病院とすべきところを間違ったのではないかと訊ねてみた。その回答はやや意外なものだった。正式には、堀公子として、1952年5月12日から1953年9月30日の間、看護婦として勤務していたとあった。そして、当時の資料から満州から復員したこと、戸籍抄本では堀喜身子と表記されていたこと等を考えると同一人物と思われるということだった。当時の履歴書が残っているが、個人情報なので見せられないとあった。
ここで、ついでにその後の堀喜身子の経歴について書いておく。
堀喜身子が、その後自衛隊中央病院に勤務したことは「由来記」にもあるが、ところで、1957年に出版された原田みち子の『還らぬ天使たち』のあとがきには、堀喜身子は、「昨年暮に永年の勤務先である自衛隊中央病院を退かれた」とあった。永年の勤務先というのは間違いだが、私はこれを読むまで彼女が停年まで自衛隊中央病院に勤めていたものとばかりと思っていたのだが、そう言われてみれば、そうだとはどこにもない。そこで、自衛隊中央病院に確認してみた。その結果、原田みち子が述べたことに間違いはなく、彼女は1955年公募五期生として入隊し看護婦として勤務していたが、月は不明だが翌1956年に二等陸尉、昔の中尉という階級で辞めているということだった。一年位で自衛隊中央病院を辞めたことになる。桜ヶ丘病院にしろ、自衛隊中央病院にしろ、この勤務期間の短さは何を意味するのだろうか。「桜ヶ丘保健所」そして自衛隊中央病院の職員としてマスコミに登場し、しばらくして姿をくらましているような感じである。『青葉慈蔵尊』をみると、停年まで勤めていた病院には長くいたようだが、それがどこなのかは知らない。『白衣の天使 従軍看護婦』などによると、1985年には国分寺に住んでいたとあるが。
ところで、堀喜身子の手記の内容のほかに問題だったのは、「由来記」にもあるように、松岡寛が全国をまわって、自殺した22人中19人の身元が判明して、遺骨を遺族のもとに届けたということである。もし、そういう遺族が本当にいたというのなら、堀喜身子の手記がデタラメだとしても、何らかの事件はあったことになるのかもしれないと思った(それなら、何故、堀喜身子はそれをあのような支離滅裂な話に変えなければならなかったのかが分らない訳だが)。
この問題は、「日本の正しい歴史を学ぶ会」の会長、渡井昇が纏め、1998年6月21日の供養祭で参加者に配布したらしい『青葉慈蔵尊』と題された小冊子を得て、もう少し詳しいことが分った。
興味深い内容を含んでいるが、自殺した看護婦の遺族ということでは、渡井昇らが既に調査をし、そして結局何も分らなかったということが書かれてあった。そのあらましはこうである。
渡井昇らは、集団自殺した看護婦たちは靖国神社に祀られるべきだと考えた。1997年の供養祭の主催者挨拶の後でその事を話し、参列者の同意を得た。その中に冨士信夫がいた。その日から十日程経った頃、冨士信夫から「先日の青葉慈蔵尊の靖国神社合祀のことだけれどね」と電話があった。その内容は、次のようなものだった。靖国神社で行なわれたある会合に官民の著名な方々が集まっていたが、そこで冨士信夫が青葉慈蔵尊のいわれと、その霊を靖国神社に合祀して頂くことはできないかということを現地関係者の希望として話をした。小田村四郎や中曽根康弘が出席していたが、「それは尤もな話である。この席に権宮司の三井さんもいらっしゃるのだから、後日その関係者が神社に三井さんを訪ねて話を薦めてもらってはどうか。」ということだった。それで、早急に資料を持参して靖国神社の三井権宮司を訪ねてお願いしてくれないかという。
渡井昇らは、靖国神社に訪問の日時を申し入れ、松岡喜身子に事情を知らせたが、その時の松岡夫妻の反応は意外にあっさりしていた。渡井昇と森哲也〔「日本の正しい歴史を学ぶ会」事務局長〕は指定の日時に靖国神社に権宮司の三井勝生を訪問した。三井勝生は快く面談に応じ、途中からは当時企画室長だった大東信祐も同席した。靖国神社としての合祀に関する見解は、戦争に関わったことの証明は省略として、「そのご本人の住所、氏名が国籍上確認できる者であること」が前提の条件という。
ところが、青葉慈蔵尊に祀られている看護婦の場合、住所氏名は全く確保されていなかった。松岡寛が浪曲の全国行脚で判明した十九人の身元も、その遺族の家庭の氏名を書いて、徳山市の堀家の菩提寺の住職に、預けている遺骨の中からその一部を送ってほしいと、そのつど連絡をしたもので、その控えも取っていなかった。
「「それはその時の控えぐらいはあった筈」と言って責められても仕方はありません。でも、実際のところは「ああこれで、あの子も実家が解って良かったわね。早く帰ってご先祖のお墓に入れてもらって楽になってね。と安堵するのが精一杯で、後々のために記録を取っておくことなど、私たちには考えつきませんでした。」というのが、堀喜身子の「開き直った告白」である。
こういう次第で、渡井昇らは靖国神社への合祀を諦めた。
堀喜身子は、意外にこの件に付いてはサバサバとした表情で、それは、過去、何度となく、この話を伝え聞いた方々が、政治家を始めとするツテを頼りに、厚生省その他の関係団体へ陳情をしたが、その結果が靖国神社合祀の条件のカベを崩せなかった、と述べた。
「 そして現在、松岡喜身子さんは次のように語るのでした。「今はこうして、毎年大勢の皆様方が青葉園まで来て頂いて、立派に供養祭をして下さいます。事件の概要を伝える石碑も建てて頂きました。私はもうこれ以上は望みません。満州の地で亡くなったあの娘たちの霊も、きっと喜んでくれていると私は信じています。」と言って涙ぐむのでした。」
これ以上、松岡寛が見つけたという19人の身元やその遺族のことを追及する必要はないだろう。それは、誰も知らないのである。
顕彰碑には、「二十二柱の遺骨は(略)青葉慈蔵尊の台下に納められた」とあり、「由来記」でも同様に書かれている。遺族に渡した遺骨を除いて残りは全て青葉慈蔵尊の台下に納められているように思えるのたが、それは違うようである。私は「由来記」を読んで、松岡寛が遺族を見つけたというのがいつからいつのことなのかは分らないが、彼が遺族を見つける度に、青葉慈蔵尊の台下から遺骨を取り出し、それを遺族に届けたのだろうかと思った。そして、現在は遺族が見つかっていなくても将来遺族が見つかるということもあるのだから、遺骨はそれを取り出すことができる形で納められている筈であると考えた。ところが、私が青葉慈蔵尊を訪れてみると、その台座は、岩なのかコンクリートなのか、一体のもので、遺骨が納められるようなものではなかった。それなら、台座の下か、近くの地面にでも納められているのだろうかと思って見たが、よく分らなかった。『青葉慈蔵尊』には、遺骨は、堀喜身子の夫の実家、徳山市の掘家の菩提寺に預け、松岡寛が遺族を見つける度に、寺に連絡して、遺骨の一部を遺族に送ったとあり、その後、残りの遺骨を青葉慈蔵尊の台下に納めたともなんとも出ていない。1956年6月18日の『毎日新聞』夕刊には、青葉慈蔵尊の開眼供養を紹介する記事が載っているが、そこには開眼供養の際に「徳山市の墓に葬ってある二十二名の分骨を持ち帰り、当日地蔵尊の下に埋葬する」とある。開眼供養の時に青葉慈蔵尊の台下に納められたのは、22人の遺骨の一部で、残りは、徳山市の寺に残っているということであるらしい。6月21日の開眼供養の際にでも台下に何か遺骨らしいものを納めたのは事実なのかもしれない。しかし、それが本当に遺骨であったのか、22人の遺骨であったのか、それを知る者は誰もいないだろう。
もともと、堀喜身子は、自殺した看護婦の遺骨をその遺族に届けることにはまるで熱心ではなかったようである。松岡寛が、この件に関わるようになったのは、1952年8月の『サンデー毎日』の堀喜身子の記事を読んだからだとは、『青葉慈蔵尊』に書いてあり、それから22人中19人の遺族を見つけたというのだが、すると、堀喜身子は、手記を発表する時までには一人の遺族も見つけてはいないのである。その代わりに彼女が熱心だったのは、群馬県「大泉村」に地蔵を建てることであった。地蔵を建てるために金を積みたてていたというのだが、そんな金があったのなら、22人の身元を訊ねる新聞広告でも出すべきではなかったろうか。地蔵の建立などというのは、遺骨を遺族に届けてからすべきことで、本末転倒の話である。霊を弔うために地蔵を建てたいというのなら、遺族の協力が得られるかもしれないではないか。勿論、私は、堀喜身子がそういう新聞広告を出さなかったことを確認してはいないのだが、新聞広告を出したなどという話はどこにもないのである。
そして、一人の遺族も見つかっていないという状態で、手記が『サンデー毎日』に掲載されることになった時、それは遺族を見つける大きなチャンスが訪れたことであった。同じ週の『サンデー毎日』でなくともよい、集団自殺した22人の遺骨を持ちかえっていて、それを届ける遺族を探している、自殺した看護婦の氏名はこれこれであり、心当たりのある方は連絡してほしい、そのようなことを、『サンデー毎日』に載せることができた筈なのである。そうすれば、松岡寛が浪曲の巡業をして遺族を探すなどよりも遥かに効力があった筈である。手記には遺族を探しているなどとは書かれていないから、『サンデー毎日』の側からそういうことは言えないだろうが、堀喜身子からはそのように頼むことができる。そういう申し入れがあったとして、『サンデー毎日』の側にそれを拒む理由があるとは思えない。それで、一層、記事が話題になった筈である。何故、堀喜身子はそうしなかったのだろうか?
松岡寛が浪曲の全国行脚で19人の遺族を見つけたというが、22人の名前を浪曲に盛り込みでもしたのだろうか。それとも、浪曲が済んでから、遺族を探していると観客に呼びかけたのだろうか。松岡寛は、1952年の『サンデー毎日』の記事を読んでこの件に関わるようになり、約3年有余の公演を続け19人の身元が判明したとあるので、およそ、1956年6月21日の青葉慈蔵尊の建立の頃までに遺族を見つけているのであろう。ところで、その三日前、6月18日の『毎日新聞』夕刊だが、そこにも遺族を探しているとは出ていないが、堀喜身子がかすかな記憶をたよって思い出したという自殺した看護婦たちの名前が載っている。それによると、姓名の判明している者12人、通称だけの者3人、計15人、その他は不明なのである。名前すらこのような状態で、どうやって松岡寛は19人の遺族を見つけ出すことができたのだろうか?
松岡寛が遺族を見つける度に、遺骨を預けている徳山市の寺に連絡して、遺骨の一部を送らせただけというのだが、何故、一部だけなのか。運送費がかかるからだというのか。遺族の方では、その寺を訪れてまでして、遺骨の全てを引き取りたいと思うのではないのだろうか。徳山市の寺にしろ、青葉慈蔵尊の台下にしろ、遺骨をそこに留めておく理由があるだろうか。また、遺族を発見するためにも、松岡寛たちのやり方は間が抜けている。看護婦たちは家族に手紙を書き送ったりして、その中に同僚のことが書かれていたかもしれない。つまり、一人の遺族から他の遺族を発見する手掛かりが得られるかもしれないではないか。また、ほかの遺族を探すための協力が得られるかもしれないではないか。どうして遺骨の一部を一方的に送るだけで済ましているのか。また、遺族の方でも、遺骨を届けてくれたことにお礼したいと思い、また娘の最期について詳しいことを聞きたいと思うのが当然であって、たとえ、堀喜身子が自分の連絡先を教えなかったとしても、その寺などを通して、堀喜身子と連絡を取ろうとするのではないだろうか。19人の遺族のうち、誰もそのようにしたものがなかったというのだろうか?
松岡寛がいつからいつまでに遺族を見つけたのか、はっきり書かれたものはなく、1956年6月の青葉慈蔵尊の建立の頃までに遺族を見つけたのだろうというのも私の推測に過ぎないが、のちに述べるように、春日井梅鶯によれば、松岡寛は青葉慈蔵尊の建立をきっかけに堀喜身子と結婚し、宝石商を営んだというから、それでほぼ間違いはない。それなら、何故青葉慈蔵尊の開眼供養に、見つけた遺族の誰も出てこなかったのか。遺族の誰も出なかったと書かれたものはないが、そこにいたと書かれたものもない。もし、いたというのなら、そのことに触れている筈だから、いなかったと考えるほかはない。彼らこそ最もその場にふさわしい者である筈なのに、堀喜身子らは、遺族の誰も開眼供養に呼ばなかったのだろうか? 控えを取っていなかったといって、この時点で、堀喜身子・松岡寛・徳山市の寺の全てが、一人の遺族のことさえ覚えていなかったというのだろうか? それとも、呼んだけれども、誰も来なかったというのだろうか?
結局、堀喜身子の手記がデタラメだと知っている私としては、次のように言わなくてはならない。集団自殺したという22人は存在せず、そのうちの19人の遺族を見つけたというのは、堀喜身子と松岡寛のデッチアゲたウソなのである。
看護婦の名前は、資料により異同があり混乱している。今更、その名前を穿鑿する必要はないのかもしれないのだが、参考(6)にそれらを纏めたものを示しておく。
年月の経過とともに堀喜身子は看護婦の名前を忘れるのではなく、むしろ思い出しているようである。顕彰碑に到っては看護婦32人全ての名前が刻まれるに到ったのだが、それは実に不思議なことであるだろう。
私は、「由来記」を読んで、渡井昇は青葉慈蔵尊が建立された当初からこの件に関わっていて、全ての事情を知っている人のように思ったが、『青葉慈蔵尊』という小冊子を読んで、そうではないことを知った。渡井昇が堀喜身子のウソ話を知ったのは、1995年5月のことだった。
渡井昇は『青葉慈蔵尊』の中で、集団自殺に対して「同胞として、心からの哀悼の真を捧げ、永久にこの悲劇の実態を語り継いで行くべきものと肝に銘じるもので(略)私たちは、端無くも第五十回忌(平成七年六月二十一日)墓前供養を主催させて頂いた関係上、引き続いてその後のご命日を供養の日としてお世話を致しておりまして、全く他意はありません。」と記しているが、そのとおりに「学ぶ会」は、彼らなりの考えに従っているだけの無私な団体であるように思えた。勿論、私にしてみれば色々批判すべき点もある筈だし、思い込みの強い無私な団体というものは、しばしば厄介なものでもあるが、何にしても、私たちは無私な活動というものを尊重しなければならないのである。私は、その点では、「学ぶ会」を好ましいもののように思ったのだった。
ところが、『青葉慈蔵尊』を読み返してみて、はたして本当にそうかという気持が起った。その中には、矛盾したことが書いてある。渡井昇は、その矛盾をそれを読む人に気付かせないようにしているのではないかという疑いが起こった(結局、だまされていただけとみなすよりないが)。
冊子はまえがきに当る文章に続いて、堀喜身子の第二の手記が掲載され、続いて冊子の後半が、堀喜身子が引揚げてからの出来事が「青葉慈蔵尊の沿革」として綴られている。そのあらましは、次のようなものである。
1948年、堀喜身子は、長男(五歳)と長女(三歳)を連れて日本の土(九州の諫早)を踏んだ。長男は、後年、成人してからまで、何度も繰り返して、背負った遺骨の紐の肩に食い込んだ痛さ辛さのことを話した。
堀喜身子は、夫の堀正次の故郷である山口県徳山市に落ち着き、そこでソ連に抑留中の夫を待つつもりであった。徳山市の堀家は、その昔、毛利家に仕えた家柄だったという。ところが、堀親子が夫の生家を訪ねると、姑は、引揚者は家には泊められないの一点張りで、敷居の中へ入れてもらえなかった。親子は掘家の菩提寺を訪ねて住職に相談し、遺骨は菩提寺の墓地で預かってもらうことになった。
親子は、喜身子の母親の住む北海道の帯広市に行き、堀喜身子は看護婦として帯広の病院に就職した。勤務の制約などの理由もあって末っ子を抱え切れず、親戚の家に預けた。帯広で生活を始めて間もない頃、徳山市の夫の生家から、堀正次戦死の公報があった旨の便りがあったという。
堀喜身子は元の上官であった軍医と相談の上、地蔵菩薩の建設費を積立てることにし、毎月軍医に送金することにしたという。堀喜身子は月給の良い職場を求めて本州へ渡り、「看護婦の道をまっしぐらに進んで行」った。
有名な浪曲師の春日井梅鶯の弟子に松岡寛がいた、将来を嘱望されて「若梅鶯」という芸名を許されて売出中の気鋭の浪曲師だった。
松岡寛が熱海市で公演した時、旅館の帳場でお茶を頂いていると、旅館の社長が週刊誌を手にして入って来るなりこう言った。「いやー凄いですねー。満州の長春でソ連軍の横暴なやり方に抗議して、二十二人もの看護婦が集団自殺をしたんだそうですよ。終戦の翌年のことだけどね。……」
松岡寛はそれを借りて読んだ。
既に一座を構成して公演を続けていた松岡寛は一座の人を遣って堀婦長の追跡調査をしたところ、静岡県の清水市の病院に勤務していることが判明、直ちに急行して地蔵菩薩の建立に協力をしたい旨申し出たそうだが、最初、堀喜身子はこの申し出をあっさりと断ったという。
松岡寛は熱心で、自分の浪曲の公演で、「この語り継ぐべき日本女性の悲話を大切に伝えて行きたいのです。」と言い、その真摯な態度に、堀喜身子は今度は一も二もなく了解、協力に感謝して事件の全容を知らせた。
こうして、従軍看護婦集団自殺のシナリオを作って、松岡寛一座(この時松岡寛は、師、春日井梅鶯に詫びを入れ、若梅鶯の芸名を返上)は、満州で起きた悲話の語りべとして、公演を行なった。浪曲の中でこの悲劇の女性たちについて「皆様の中に心当たりの方はいらっしゃいませんか?」と問い掛けると、行く先々で応じてくれる人が現われ始めた。
主に東日本がこの看護婦たちの出身県だったが、約三年有余の公演を続け十九人の身元が判明した。その都度徳山市の寺にお願いをして、遺族の元へ遺骨の一部を送ってもらった。
こうした中、地蔵菩薩建立のため元上官の軍医に毎月送金していた積立金が、ある程度の金額になったと判断し、地蔵の建設の話を電話でしたが、「それなら、前にも話したことのある群馬県邑楽郡大泉村に建てましたよ」という返事だった。堀喜身子はびっくりし、また喜んだ。この年、強力な支援者となった松岡寛に話を伝えると大変に喜び、私が見てきましょうと引き受け、早速群馬県へ出かけて行った。大泉村の役場を訪ねて地番を探していって見たが、現地は夏草の茂るにまかせた原っぱであった。役場へ取って返して訊いて見たが、そんな話は聞いていません、というばかりであった。
堀喜身子は、帰ってきた松岡らと相談して、元上官の軍医に問い糺してみると、よんどころない理由により使い込んでしまったのだという。
同じ年、財団法人青葉園は、公園墓地として埼玉県大宮市に誕生した。一九五二年十一月のことだった。「この書を書きつづっている現在は、平成十年五月でありますが、この広大な公園墓地を開設された理事長吉田亀治は、ご高齢(推定九十有余歳)であります。然し市内の病院にご入院はしておりますがなおご健在であります。」
吉田亀治は、元軍人、陸軍大尉、有名な山下奉文〔大将〕の副官をしたこともあった。青葉園開設後、山下〔将軍〕の墓、沖縄戦の司令官、牛島〔中将〕の墓を青葉園に設けた。園内に青葉神社を建立、鶴岡八幡宮白井宮司の司祭に依って鎮座式を行った。木曾檜三重塔の建設などを行なった。
青葉園が関園して間もない頃、地元大宮市で浪曲の公演があった。吉田亀治の目を捉えたのは公演の広告、「満州における白衣天使集団自殺」であったろう。吉田亀治はこの事件が未だに未解決の問題を抱えて、堀喜身子が努力を続けていることを、松岡寛から直に聴き取った。
そこで、吉田亀治が資金などを出して青葉園に青葉慈蔵尊を建てたという訳である。台座の正面にある「青葉慈蔵尊」という毛筆によると思われる揮毫は、当時著名であった安藤正純の夫人、安藤歌子の揮毫であったことが記録されているという。
それから、1995年に渡井昇は堀喜身子の話を知り、22人を靖国神社に合祀しようとしたりしたことが書かれている。
最後の方に、堀喜身子・松岡寛について次のようにある。
「 申し遅れましたが、喜身子さんは大正七年、寛さんは大正八年のお生まれで、喜身子さんは今年八十歳、寛さんは七十九歳のご高齢なのです。ついぞその機会もないままに、喜身子さんの職場である病院を訪問してはおりませんが、看護の道一筋にとは申せ、八十歳の今日まで、雇用の側の病院と勤務する側の喜身子さんのご関係は、もう常識の範囲を通り越した固い絆で結ばれているものと推察されるのです。そしてその病院側の配慮の中には、喜身子さんの好きなように、気の済むようにさせているのではないかと思うのです。尤もこの文章を喜身子さんが読まれたらきっと怒るに違いありません。なぜなら喜身子さんは、まだまだ矍鑠としていて「今の若い人は」と言う、気概を失っていないからなのです。恐らく、生涯現役を全うされるおつもりかも知れません。」
そして、「由来記」にもあるが、1996年12月に、堀喜身子の長女が亡くなったことが述べられ、「未完」と記して、冊子は終っている。
幾つか問題点があるが末梢なことは省略する。
『青葉慈蔵尊』で述べられている青葉慈蔵尊が建てられた経緯は、「由来記」と同じようなものだが、そこには矛盾がある。そして、この冊子だけを読んだ人は、その矛盾には気が付かないことだろう。そこに収められている堀喜身子の手記からは、「群馬県大泉村」に地蔵を建立したという下りが削除されているからである。
1952年8月の『サンデー毎日』に発表された第一の手記では、「群馬県吾妻(あがつま)郡大泉村」に既に地蔵が建立されたことになっている。この『サンデー毎日』によって、集団自殺の話を知り、堀喜身子に会った松岡寛が、地蔵菩薩の建立に協力をしたい旨申し出たり、元軍医の言葉を受けて、「群馬県邑楽(おうら)郡大泉村」に建てたという地蔵を確認しに行くなどというのはおかしな話なのである。渡井昇は第一の手記の内容も知っていた筈である。それなのに、どうして平然とそんな矛盾した話を書くのだろうか?
青葉慈蔵尊の建立に際して、堀喜身子・松岡寛・吉田亀治の間で何があったのかは分らない。渡井昇が『青葉慈蔵尊』を執筆した1998年当時、この三人は存命だった訳だが、吉田亀治は高齢で入院中とあり、渡井昇は吉田亀治から聞いたという話を何一つ記していない。「群馬県大泉村」の話は、堀喜身子・松岡寛から聞いたものと思われるが、そもそもそんな村は存在しないのだから、それに関わる全てが信用できないのである。ここで邑楽郡という地名が出て来たということは、1957年に邑楽郡に大泉町が誕生したことを知っていて、そこがかつての大泉村であるかのようにみせる意図があったことを示しているだろう。渡井昇は、「吾妻郡大泉村」・「邑楽郡大泉村」と、二つの地名が出てきたことを不思議に思い、それを調べようとはしなかったのだろうか。そして、『サンデー毎日』では、清水市で堀喜身子は「桜ヶ丘保健所」に勤務していたことになっているのだが、松岡寛が清水市に訪ねて行った時、堀喜身子は病院に勤務していたとあるのである。こんなことも疑問には思わなかったのだろうか(渡井昇の会は「日本の正しい歴史」を学ぶという謙虚な名前だが、もし、そうであるのなら、渡井昇らは、「日本の正しい歴史」を学ぶ前に、ものごとをきちんと整理することを学ぶべきではなかろうか)。
私は、松岡寛が若梅鴬と名乗っていたということを不思議に思った。私は浪曲のことはまるで知らないのだが、インターネットで調べると、春日井梅鴬(ばいおう)は実在の浪曲師で、今日でもその芸がCDなどで発売されていることが分った。確かに有名な浪曲師だったに違いない。その師匠の名前を受けて若梅鴬と名乗っていたというのだから、松岡寛はその後継者のようなもので、今日まで浪曲師としてその名を残していてもいいのではなかろうか。そうではないところをみると、松岡寛は浪曲をやめたらしい。それはどういう理由からだったのか。
浪曲師の春日井梅鴬は、現在も活躍している。先代の娘で二代目梅鴬である。先代の死後、1975年に二代目梅鴬を襲名し、現在、日本浪曲協会の会長である。私は、二代目梅鴬に松岡寛のことを訊ねてみた。すると、実に達筆な丁寧な返事をいただいた。それによると、
1941年頃、先代梅鴬は樺太に口演に出かけ、本斗で口演の折り、劇場となった小学校に、校長に伴われて松岡寛がやって来た。先代梅鴬によると、校長の熱意により、松岡寛の入門を許したということである。
先代梅鴬は松岡寛を東京の自宅に連れて行った。先代梅鴬の一人娘の現在の梅鴬の守役をしながら、兄弟子から浪曲の基本を学び、一年程つとめた。その後、先代梅鴬の付人として各地を回ったが、芸の方は、梅鴬の記憶では、物覚えが悪く、弟弟子に追い越される程だった。支那事変が拡大し、松岡寛は徴用された。終戦後戻って来て、先代梅鴬から独立して芸を磨く許可を得た。その後音信不通になっていたが、若梅鴬という名が聞こえて来て、調べてみると、松岡寛であった。先代梅鴬は怒り、松岡寛を呼び付けて破門にした。
現在の梅鴬は1951年に浪曲の道に入った。先代梅鴬と親娘会を結成し、先代梅鴬の指導で十三年修業した。その後、他流試合などで芸を磨くため独立し、春日井加寿子として口演を続け、どこでも支援が得られるようになった。その頃、松岡寛が訪ねて来て、浪曲をやめたことを知らされた。先代梅鴬は体調をくずして入院していた。見舞いの折り、梅鴬は二人の間を取り持とうとしたが、先代梅鴬は許さなかった。梅鴬は、松岡寛と交際を始めたが。
青葉慈蔵尊の建立をきっかけに、松岡寛は堀喜身子と結婚し、宝石商を営んだ。その後、音信不通になっている。
『青葉慈蔵尊』によると、松岡寛は1919年生まれである。松岡寛が先代梅鴬に入門したのが1941年だと、二十歳過ぎになるから、入門はもう少し前という気がする。『青葉慈蔵尊』には、「春日井梅鶯に詫びを入れ、若梅鶯の芸名を返上」といきなり出てくるのだが、これでその経緯が分った。先代梅鴬は芸に厳しい人だったようで、芸の未熟な松岡寛が若梅鶯を名乗ったことを遂に許せなかったのだろう。『青葉慈蔵尊』にその辺のことが書かれていないのは、当時存命だった松岡寛に遠慮したのかもしれない。
私は、梅鴬からの返事を読んで、松岡寛と堀喜身子の結婚について、ある悪い想像が浮かんで来た。それは、松岡寛は堀喜身子の話がウソだと知って、そのことで堀喜身子をおどして結婚した、あるいは、堀喜身子の方から、秘密を守ることを条件に結婚を申し入れた、というものである。勝手な想像は控えるべきだろう。男女のことだ、樺太という同郷でもあろうし、何か惹かれ合うものがあったと考えるべきではあろう。しかし、二人の結婚は、一方的に松岡寛に利があるもののように見える。2004年12月の『産経新聞』には三波春夫の歩みが掲載されていた。それによると、浪曲師として出発した三波春夫は、1957年9月10日、ノートに「この日をもって、浪曲生活に終止符を打つ」と書き〈「凛として」一六二『産経新聞』2004年12月8日号〉、歌一本で行くことを決めている。青葉慈蔵尊が建立された翌年である。戦前から非常に人気のあった浪曲だが、その頃には人気が衰微し始めていたようである。長年浪曲の修業をして来て、結局一流にはなれず、師匠から破門され、浪曲自体の人気がなくなって行く時勢にあって、浪曲師の松岡寛にはどんな生活の手段が残っていたのだろうか。宝石商を営んだというが、開業資金はどうしたのだろう。松岡寛にどんな商売の才覚があったのかも分らない。やはり勝手な想像は控えるべきなのだが、私はなかなかその悪い想像を消してしまうことができない。そして、19人の遺族を見つけたというウソが、松岡寛が堀喜身子に支払った結婚の見返りのように思えるのである。
私は自分にできることは全てするつもりでいて、それも終りに近づいたと思えて来たが、もう一つだけ自分にできることがあると思った。堀喜身子が引揚げて来て、夫の堀正次の故郷である山口県徳山市の掘家の菩提寺に22人の遺骨を預けたというが、そこが何という寺なのかという問題である。
その寺が現在も残っているという確かな保証はない。また、『青葉慈蔵尊』によれば、幾つかの寺に絞られそうなものでもあったが、旧徳山市(徳山市は周南市になっている)にあった全ての寺に照会することにした。無駄骨を折らせることになるのは目に見えていたが、そうすることにした(私は堀正次の故郷は実は清水ではないかと思っている)。
結果のみ記すことにする。『全国寺院名鑑』・電話帳などで調べた計53の寺に堀喜身子が22人の遺骨を預けたというその寺であるのか照会した。その全ての寺から回答を得たが、当寺がその寺であるという回答はなく、そんな話を聞いたことがあるというお寺すらなかった。
おそらく、堀喜身子と徳山は何の関係もない。自分の本当の来歴がバレないところなら、どこでもよかったのである。
こうして、堀喜身子が語った従軍看護婦の集団自殺に関わる全てのことについて、それを確認できるものは一切存在しないのである。
戦後の新京には20万人という日本人がいたというのに、事件の舞台となった病院、その事件、その登場人物についてのただの一人の証言者もいないし、それを証拠だてる記録もない。自殺した看護婦の遺族について何一つ知られていることはない。それらに関係したどんな些細なことでも、確認できるものは全くないのである。
私たちは生きて行く中で多くの人と関わりを持つ。それは、家族や親類縁者だったり、近所の人、学校の教師、同級生・先輩・後輩、さまざまな友達、職場の同僚、仕事上の繋がりだったりする。もし22人の集団自殺という事件が本当にあったというのなら、それらさまざまな形の関わりを持つ人からかすかな痕跡でももたらされてもよい筈である。どうして、そういう人が誰もなく、何の痕跡も残されていないのだろうか。
そして、あるのは、堀喜身子のデタラメな手記と堀喜身子・松岡寛夫妻の話だけなのである。
私が全てを調べ上げたと言うのではない。私が調べたものなどたかがしれていることは承知している。だが、私よりもよく知っている筈の名越二荒之助や渡井昇や、そのほかの人たちが書いたものをみても、確かにそうなのである。青葉慈蔵尊という記念物は確かに建てられた。しかし、その素材の小松石ほどに堅固なものは、どこにも存在していないのである。
もし、これでも、22人の集団自殺が事実だと言い張るのなら、ファンタジーと現実、空想と現実の違いもなくなってしまうことになる。そうではないだろうか?
だから、結論は一つであり、それが揺らぐことはないだろうと私には思われる。堀喜身子が話をデッチアゲ、愚かしい『サンデー毎日』がそれを掲載し、それから青葉慈蔵尊の建立をはじめとする、また愚かしい出来事が起こり、それが今に到るまでの歴史に刻まれているということである。
だまされた本・雑誌・新聞・ホームページなど
新聞・雑誌・書籍・インターネットなどで、堀喜身子のデッチアゲ話に触れているものを挙げてみる。
インターネットのページについては、勿論サーチエンジンを使って検索した。そのほかのものについては、私が知っているものだけだから、極めて限られている筈である。
尚、堀喜身子のウソが載っているからといって、その本やページには他にもウソがあるというのではないし(ないとも言わない)、各編著者の意見に反対というのでもない(賛成とは限らない)。他のことでは色々と教えていただいた。念のため。
新聞・雑誌
(1) 『サンデー毎日』1952年8月31日号 毎日新聞社
言わずと知れた全てのデタラメの出発点である。
その p.3、目次を示しておく。
堀喜身子がデッチアゲた手記は、何とこの号の巻頭記事、目玉記事であった。大新聞社系の週刊誌の巻頭記事を疑う者がいなかったとしても不思議ではない。
目次の写真は、来歴は分からないが『白の墓碑銘』にも掲載されているもので、おそらくは堀喜身子とは何の関係もないものである。
(2) 『毎日新聞』夕刊 1956年6月18日号 毎日新聞社
「地方特集」のページに「死で守った純潔」「ソ連軍の辱しめを拒否した/看護婦二十二人の魂を祀る」の見出しで、6月21日青葉園に「青葉地蔵尊」の開眼供養が行なわれることを報じている。続く満州での事件のあらましは、およそ手記の通り。それに続いて、最後に次のようにある。
二十二年八月悲しみの遺骨とともに帰還した堀さんは同僚の慰霊の地蔵尊の建立を思い立ち、苦心して蓄えた五万八千円を在満当時の軍医に託して依頼した。ところがそれを着服され、失意のどん底につき落されてしまった。このことを最近になって知った吉田さんが堀さんあてに手紙を送って激励した。吉田さんは満鮮国境で終戦を迎えた元陸軍大尉で、帰国後「青葉園」をつくり「戦争犠牲者万霊慰霊塔」の建立を念願している。さっそく地蔵尊を自費で「青葉園」に建立することを申出た。地蔵尊は荒川区尾久の五島弥一さんが精魂こめノミを振った。高さ五尺余の小松石でつくられている。堀さんは自分の郷里徳山市の墓に葬ってある二十二名の分骨を持ち帰り、当日地蔵尊の下に埋葬する。地蔵尊の名は「青葉地蔵尊」とした。
なお引揚当時の資料一切を失った堀さんがかすかな記憶をたよって思い出した自殺乙女たちの名は次のようである。
中村三好、山下とき子、渡辺静子、柴田ちよ、川端しづ、相原みさえ、沢口一子、田村馨、稲川よしみ、松永はる、井上つるみ、林重水、通称ナベさん、同ぴん子ちゃん、同もくちゃん、以下不明。(大宮)
五島弥一が地蔵にノミを振っている写真と堀喜身子・吉田亀治の顔写真付き。
(3) 『婦人公論』1956年11月号 中央公論社
「還らぬ天使たち」という表題で堀喜身子名の手記が掲載されている(pp.242-253)が、実際は原田みち子が書いたもの。ソ連参戦で林口に向かい、堀喜身子の軍医の夫が林口の病院勤務とあり、のちに堀喜身子が林口陸軍病院勤務と言い出したのは、この手記によるとみられるフシがある。南新京駅での3人の自殺がはじめてあらわれるのもこの手記。最後に「(筆者・自衛隊中央病院婦長)」とある。
(4) 『婦人生活』1957年新年号 婦人生活社
「悲願こもる青葉地蔵尊秘話、永遠に眠れ、二十五の天使」という表題で大森信義が執筆。『白衣の天使 従軍看護婦』の「はしがき」による。
この雑誌は、国会図書館・大宅壮一文庫にもなく、確認できなかった。
(5) 『毎日新聞 埼玉西版』1985年8月17日号 毎日新聞社
奈良原春作が堀喜身子の話について執筆していることが報じられている。奈良原春作は埼玉県東部の妻沼町在住なので、埼玉県のほかの版にも掲載されているのだろう。
記事の全文を示しておく。
白衣の天使「鎮魂の譜」
妻沼・奈良原さん 執筆に情熱
戦地に散った22人
抗議の集団自殺描く
戦後四十年、あのいまわしい戦争で貴い生命がいろいろな形で犠牲になった。終戦直後の昭和二十一年六月、中国(満州)のソ運軍病院に応援に行った九人の日本人従軍看護婦が暴行を受け、これを知った二十二人の若い看護婦が純潔を守る抗議の集団自決をした事件も痛ましい。この若き看護婦たちの悲劇を実録として後世に残し「永遠なる平和への警鐘にしたい」と、大里郡妻沼町に住む七十歳の老人が自決した白衣の天使たちの「鎮魂の譜」執筆に情熱を燃やしている。
この人は同町上根二二、奈良原春作さん(七〇)。奈良原さんは復員後、昭和二十三年から妻沼町役場職員となり、退職後は郷土文化史の執筆に専念するかたわら埼玉史談編集委員も務め、今年二月には妻沼町が生んだ日本最初の女医・荻野吟子女史の偉業とその足跡をまとめた「栄光と波乱の生涯・荻野吟子抄」を著している文筆家。
従軍看護婦二十二人の集団自決の執筆に燃えたきっかけは、このほど大宮市三橋にある公園墓地、財団法人「青葉園」(吉田亀治理事長)を訪れた際、同園内にある「青葉慈蔵尊」の看護婦帽を持った石造りの地蔵菩薩だった。このわきの建て札には「二十二の霊に捧ぐ ここ満蒙の雲低く涙にうるむ春の月 ああ誰か知る若き生命を純潔を 守りて散りぬ白百合の ああ尊し二十二の死の抗議」などの歌が記されており、吉田理事長らに同慈蔵尊建立の由緒を聞き、その痛ましさに心を打たれた。
奈良原さんによると、終戦直後の満州で日本従軍看護婦三十数人が、故国に帰れるのを唯一の希望としていたが、ソ連軍から断続的に三人ずつ、中国にあるソ連軍病院への強制勤務を命令され、先発隊の九人が将校官舎で乱暴された。一人の看護婦が背中に銃弾を受けながら鉄条網をくぐって逃げ出し残る看護婦たちに「もうだれも行かないで」と告げ死亡。このむごさを知った二十二人(二十一歳から二十六歳)は、「いずれはわが身」との耐えられない気持ちに抗議して二十一年六月二十一日、集団自決したという。
当時の看護婦長だった堀喜身子さん(六七)=東京・国分寺在住=は、幸いにも生き残り、この従軍看護婦たち二十二人の遺骨を抱いて同年九月十一日に帰国、その後、戦争犠牲者の慰霊に心をくだいていた元陸軍大尉、吉田・青葉園理事長の協力で昭和三十一年六月二十一日、慈蔵尊を建立した。同尊六角台の中には帰らぬ乙女たち二十二人のお骨が納められており、命日には堀さんが必ず青葉園を訪れ弔っている。
奈良原さんはすでに概要や、「看護婦帽を持った石地蔵」の章などを書き終えており、年内の刊行を予定している。
(奈良原春作の写真一葉)
(6) 『産経新聞』2003年7月7日号 産経新聞社
「談話室」という読者投稿のページに、千葉県市原市の会社員〔70歳〕の投稿が載っている。「長春で果てた22人の看護婦」の題で、昨年7月の靖国神社の「みたままつり」に「青葉慈蔵尊」名の献灯があったことなどを述べている。青葉慈蔵尊の写真付。
(7) 『産経新聞』2003年7月27日号 産経新聞社
「双方向プラザ」に、青葉慈蔵尊が大きく取り上げられている。特集部の喜多由浩の署名記事。
「看護婦22人眠る「慈蔵尊」参りたい」「"ソ連暴行より死"/悲劇忘れてはならぬ」が見出し。7月7日号の読者投稿記事に対し、初めて知った、「私もぜひ、お参りをして昭和史を学びたい」という東京都板橋区の読者〔67歳〕の手紙を紹介し、堀喜身子のウソなどをもう少し詳しく述べ、「われわれも、次代に語り継ぐ努力を続けたいと思っています。」で終っている。青葉慈蔵尊の写真付。
(8) 『産経新聞』2003年8月10日号 産経新聞社
「紙面批評」欄に「損得勘定むき出しの時代」という題で藤竹暁〔学習院大学名誉教授のち浜松学院大学教授〕が書いている。「現代は損得勘定がむき出しになりすぎている」ことの対比として堀喜身子の集団自殺事件を取り上げているが、ウソと対比しても仕方がない。7月の『産経新聞』の記事を受けたもので、集団自殺のウソを簡単に紹介したりして、ウソの上塗りをしている。
(9) 『正論』2004年3月号 産経新聞社・扶桑社
「編集者へ編集者から」のページで、ある読者〔看護学生、34歳〕から編集部に届いた手紙を紹介している。この読者が、戦時中の看護婦のことで中村粲(あきら)に便りを出したところ、「すると直ぐ様に数々の資料をご送付下さったほか、中村先生直々にお電話を下さり、青葉慈蔵尊のお話や、戦中日本赤十字社救護看護婦であられたご婦人お二人様をご紹介して下さいました。」とあり、青葉慈蔵尊の名前が出てくるだけのものである。
中村粲は獨協大学の英語学科教授だが、昭和史研究所代表で、NHK・朝日新聞の偏向報道批判を行っているという〈「中村粲ウオッチング」 などを参照〉。
この「編集者へ編集者から」は、インターネットで読むことができる。
以下は、青葉慈蔵尊とは関係ないが、気になった点があったので記す。
この看護学生は、前にも編集部に手紙を出しているが、それが二月号に載っている。
「 私は現在三十四歳ですが、看護専門学校二年に在学しています。先日、在宅看護方法論の講義中に教員が、「看護師は戦中看護師と称して慰安婦をさせられたため、戦後社会的地位は低かったのです。私が看護学生だった頃、なぜ看護師は社会的地位が低いのかと疑問になり雑誌で調べて分かりました」と言いました。」それで、「看護師と称して慰安婦をさせられたこと、それによって社会的地位が低かったことは真実なのでしょうか。」と編集部に訊ねている。答えは、「そういう話はウワサとしても耳にしたことがありません。」である。
もし、ウワサとしても耳にしたことがないというのが事実なら、この編集者は不勉強だし、読者の質問に答える資格はないのではなかろうか。
この質問に関係すると思われることが、『従軍看護婦 痛哭のドキュメント』の中にあった。千田夏光は次のように述べている。
「従軍看護婦をめぐり戦後書かれた"性"についてのレポートは私の知るかぎりたったひとつである。それは数年前、或る高名な元新聞記者が、ルソン島での軍報道班員時代に入手した"風聞"をもとに、また若干(じやつかん)の同島従軍将兵の体験を加味して某週刊誌に従軍看護婦の風紀事件について書いたものがある。ルソン飢餓の敗走行進中に「食糧と交換に体をていきょうした」とか「兵隊たちを体で慰めた」などが盛られた部分のあるレポートだった。
この元新聞記者の高名さの故に、一部の者から「ありそうなことだ」とされたようだった。だが、四年余にわたる私の取材結果として言えることは、それがまったくの事実無根であることだった。」(傍点省略)〈『従軍看護婦 痛哭のドキュメント』p.109〉
この高名な元新聞記者は従軍慰安婦と従軍看護婦を取り違え、それに粉飾を加えた記事だった〈『従軍看護婦 痛哭のドキュメント』pp.110,112〉のだという。(従軍慰安婦と従軍看護婦を取り違えるということでは、『軍国の女たち』には、次のようにあった。1966年、『赤い天使』という映画の公開に対し、日本看護協会が、従軍看護婦と慰安婦をおきかえているなどの抗議を行なった〈『軍国の女たち』pp.52-69〉。この映画の原作はある小説だが、そのネタ元となったのは、この元新聞記者の書いた記事かもしれない。ただし、映画の舞台は北支である。)
しかし、従軍看護婦が性的対象にならなかった訳でもない。千田夏光は続いて、従軍看護婦が病院部隊長から何度も性的暴行を受けたという話を述べている。その話は『従軍慰安婦』〔山田〕という本にも載っていた〈『従軍慰安婦』〔山田〕pp.248-253〉。その暴行した部隊長の大佐は処罰されたが、暴行の告発者に対して、ほかの軍人から「貴様、建軍の本義を何と心得とるか。女の四十人や五十人の命がなんだ。くたばってよいのだぞ」という言葉があった〈『昭和史追跡』新名丈男、『従軍慰安婦』〔山田〕p.258による〉という。「建軍の本義」とは一体何なのだろうか(戦争に勝ち、天皇を守れさえすればよい、ということだろう)。どうして、「陛下の赤子」に暴行することが何でもないことなのだろうか。軍人がその権力を利用して、看護婦に暴行するなどという「裏切り」行為は、今日でも厳しく追及されるべきものだろう。
慰安婦の中には「特殊看護婦」という名目で、本人も看護婦をするつもりで知らずにやって来たという人もおり、九州・四国の人がほとんどだった〈『白の墓碑銘』p.236〉という。直接軍が関与したのではないようだが、だまされて慰安婦にされた日本人がいたことは他の手記にもある(「戦争の蔭に」佐々木徳男『私の昭和史X』p.59)。看護婦・慰安婦ともども、その人間としてのあり方を蔑ろにする精神が確かにかつての日本にはあったのである。
『正論』編集者はそういうことには目をつぶっているのかもしれない。
ラジオ
(1) ニッポン放送 1956年7月6日 「地蔵開眼」歌声は消えず第35集
『白衣の天使 従軍看護婦』の「はしがき」による。
映画
(1) 『戦場のなでしこ』
新東宝 カラー 1959年封切り
監督:石井輝男
キャスト(幾つかの役名と演技者)
堀喜代子:小畑絹子(小畠絹子)
荒井秀子:三ツ矢歌子
小田まゆみ:大空真弓
吉成健次:宇津井健
『白衣の天使 従軍看護婦』の「はしがき」に「「婦人公論」(昭和三十一年十一月号)に、「還らぬ天使たち」という表題で堀貴身子さんの手記が掲載されており、これを脚色(川内康範・石井輝男)「戦場の撫子花(なでしこ)」というタイトルで映画化(新東宝)、新人賞受賞の大空真弓(当時十八歳)が主役を演じたことが、「週刊新潮」(昭和三十四年一月十九日号)に「主役の表情」として紹介されていた。」とある。
1958年新人賞受賞後の大空真弓の初主役作〈「主役の表情」『週刊新潮』1959.1.19号〉。
すじ立てや登場人物は、勿論、映画用に潤色されている。
DVDが発売されており、キャスト・スタッフ・あらすじはインターネットで見ることができる。
大空真弓は新人賞を受賞したというが、特に話題となった映画ではないだろう。私はこの映画を観ていない。堀喜身子の手記に基づくとか、事実に基づくといった説明がなければ(また、あっても)、観客は単なる娯楽映画として観たのではないだろうか。このDVDを見た人の感想をインターネットで読んだが、特に内容に感動したともなかった。
書籍
(1) 『還らぬ天使たち』原田みち子 第二書房 1957年12月10日
小説仕立てで、堀喜身子が新京に来てから引揚げるまでを詳細に述べている。
奥付に出版部数が記されている。12月10日の第1刷が3,000部、12月20日の第2刷が2,000部。
「紫の数珠」を右手に懸けた青葉慈蔵尊の写真一葉。
あとがきの一部(『婦人公論』の「還らぬ天使たち」を書いたことを明かした部分)と奥付の原田みち子の略歴を示しておく。
ところが、咋年秋のこと、当時の婦長堀喜身子さんの手記のかたちで、この本のいわばストーリーのようなものを『婦人公論』に書かせられたところ、それが意外に反響があったらしく、好事家もあって私にどうしても当時のことを書いて欲しいというのです。
大正8年,北京に生まる。
昭和11年,奉天第一高女卒。
昭和14年,北京大学卒。
同年,新京満州国通信社記者として入社。
昭和21年,内地に引揚ぐ。
現在,北海道函館市に在住。
(2) 『記録 自決と玉砕 皇国に殉じた人々』編、安田武・福島鑄郎 新人物往来社 1974年9月10日
『ドキュメント 自決と玉砕 戦争下の日本人』編、安田武・福島鑄郎 双柿舎 1984年
『戦時下の日本人 自決と玉砕』増補新版 編、安田武・福島鑄郎 朝文社 1993年8月14日
『自決と玉砕』の三つの版。『サンデー毎日』の堀喜身子の手記の全文が掲載されている。堀喜身子は元満赤看護婦長とある。
(3) 『世紀の自決』改訂版 編、額田坦 芙蓉書房 1975年6月1日
『自決と玉砕』から引用した堀喜身子手記の抄文が掲載され、「留魂」と名付けられた自殺者リストの補遺に「井上鶴美以下22名」が加えられている。
(4) 『紅染めし ―従軍看護婦の手記―』編、永田龍太郎 永田書房 1977年12月10日
この本は従軍看護婦の手記集であり、本文は堀喜身子と何の関係もない。ただ、「編集後記」で永田龍太郎は、堀喜身子の事件に言及している。
従軍看護婦については「いまなお真相の知られていない出来事も多い」とし、その例の一つとして、1946年「春、満州の長春(新京)で終戦後の混乱や、引揚げなどで、失意と不安におびえていた従軍看護婦二十二人が、ソ連軍救護所から、応援の名目で、ソ連兵の慰安婦として要求され、彼女らは、それに対し断固として拒絶し、「穢されるより自決」と、一室で集団自決した痛ましい事件」とある。
(5) 『女と権力』編、もろさわようこ 平凡社 1978年11月24日
『記録 自決と玉砕』から取った堀喜身子の手記が掲載されているが、「群馬県大泉村」に地蔵を建立した下りは削除されている。
(6) 『激動期の妻たち』監修、円地文子 創美社 1981年1月22日
田中阿里子が、「従軍看護婦」の章で「戦争と性」の見出しで、堀喜身子の集団自殺を取り上げている。参考にしたのは、『女と権力』の堀喜身子の手記。
(7) 『白衣の天使 従軍看護婦』奈良原春作 国書刊行会 1985年12月20日
前半が堀喜身子と集団自殺関係の叙述で、実証的調査も含まれているが、勝手に作り上げているところも多い。後半は、従軍看護婦の手記集『従軍回想の記』が転載されており、前半と好対照である。青葉慈蔵尊の前で著者と堀喜身子が写っている写真一葉。
(8) 『大東亜戦争と被占領時代』編、「昭和の戦争記念館」刊行会 世界に開かれた 昭和の戦争記念館 第2巻 展転社 2001年10月5日
『すべての戦歿者に捧げる』編、「昭和の戦争記念館」刊行会 世界に開かれた 昭和の戦争記念館 第5巻 展転社 2002年5月15日
編集長は名越二荒之助。
第5巻で新京の事件をコンパクトにまとめて紹介し、その後、堀喜身子が松岡寛と再婚したこと、青葉慈蔵尊の建立まで触れている。ディテールが省かれているから話の破綻は少なくなっているが、大枠は変わらない。細かいところで堀喜身子手記と異なるところがある。また、青葉慈蔵尊、堀喜身子などの写真を収めている。
集団自殺についての参考文献は『記録 自決と玉砕』だけだと思われ、協力者として松岡喜身子の名がある。
第2巻の「自決による日本への留魂」のなかでもこの集団自殺について僅かに触れており、「ほかにソ連軍の凌辱を拒んで集団自決した新京陸軍病院の看護婦二十二名」とある。
(9) 『写真と実録で綴る 戦争という地獄』越智宏倫 青萌堂 2002年8月20日
集団自殺についての記事は「青葉慈蔵尊由来記」を参照しているとある。渡井昇が送ったものを基にしているのだろう。
(10) 『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦14』編集発行、平和祈念事業特別基金 2004年3月19日
平和祈念事業特別基金の戦争体験手記集の中に、堀喜身子のウソを付け加えた人がいる。「 最後にもう一つ、愛国心を抱きながらソ連軍の非道な占領政策の犠牲になった、うら若き女性の最期の散りざまも忘れてはならないことと思います。」として、ごく簡単に事件を紹介し、青葉慈蔵尊に触れている(p.85)。
(11) 『年表 太平洋戦争全史』編者、日置英剛 国書刊行会 2005年10月31日
太平洋戦争に関する詳細な年表。戦後の戦争関係の記事を含み、そこに22人の集団自殺事件が加えられている。参考にしたのは『世紀の自決』改訂版で、そこに収められた堀喜身子の手記の一部を示している。
堀喜身子の手記の内容は、他の歴史事実とほとんど関係を持たない。従って、これが載っているからといって、ほかの記事も疑わしいということはできない。しかし、編者がどれだけ歴史資料を批判的に扱っているかには若干の疑いを生じさせるだろう。詳細というだけで私には嬉しいことなので、残念なことである。
インターネット
2006.3現在。できるだけ青葉慈蔵尊関係の公開順。
(1) フェミナチを監視する掲示板
2002年7月16日の「開設のご案内」によると、「社会の至るところに蔓延し日本をサヨク全体主義国家へと導く/フェミニズム病。/この板は、アンチフェミニズムの立場から、その暴走を監視し批判していくことを目的としております。」とある。
2002年8月3日に、管理人が22人の集団自殺の話を紹介している。2003年1月17日には、この集団自殺の話を聞いて、管理人は泣いたと記している。
(2) 「新しい歴史教科書をつくる会」山形支部ホームページ(または、こちら)
「青葉慈蔵尊由来記」を掲載。
掲示板〔新・正気煥発掲示板〕の2003年1月16日に、「青葉慈蔵尊由来記」を掲載するに至った経緯が示されている。それによると、高橋正二から貰ったB4一枚の文章があったのだが探すことが出来ず、大宮の渡井昇がまとめ、送って貰ったワープロ印刷の「青葉慈蔵尊由来記」が出て来たので、全文アップするとある。併せて「フェミナチを監視する掲示板」の管理人の書いたものを転載している。
翌1月17日に、ホームページから直接「由来記」を読めるようにしたようである。
(3) JUNE WEBlog
2003年08月10日に、「青葉慈蔵尊由来記」について新聞の紙面批評を調べ、「何とかしてあげたい、何をすればよいのか。涙が出てくる話」とある。『産経新聞』2003年8月10日号の藤竹暁の「紙面批評」を示している。
(なくなったようである)
(4) 愛国顕彰ホームページ
「ソ連の暴虐」と題して、22人の集団自殺の事件を簡略に述べ、青葉慈蔵尊の碑文と写真が掲載されている。2003年8月10日更新とある。
(5) Web版『正論』
雑誌『正論』の「編集者へ編集者から」の内容を掲載しているので、2004年3月号などの「編集者へ編集者から(1)」をインターネットから読むことができる。
青葉慈蔵尊の名前が出てくるだけのもの。
(6) 酒たまねぎやホームページ
「旨い酒、旨い肴、日本人でよかった」というページ。
URAホームページの「ソ連・ロシア関係」に「白衣の天使の悲劇」として、2004年6月27日に青葉慈蔵尊を訪ねたという記事があり、「青葉慈蔵尊由来記」を紹介して、泣けてきますと書いている。写真付で青葉慈蔵尊の顕彰碑の内容などを示している。
(7) 桜魂
福岡県の大野城市議会議員という人のページ。
2004年9月12日に、「以前、私のところにも送られてきた小冊子」という渡井昇の「青葉慈蔵尊由来記」を掲載している。「新しい歴史教科書をつくる会」山形支部のものと同じ内容である。
(8) 日本再生ニュース 2004年9月
「青葉慈蔵尊由来記」へのリンク。
(9) 祖父の朝鮮・満州懐旧談録 朝鮮編(2)
「満州においても、「青葉慈蔵尊」で有名な日赤看護婦の悲劇等、読むのも辛い物語が多いです。」とあるだけ。
(10) 2ちゃんねる
世界史@2ch掲示板、ソ連軍が満州やドイツで行なった強姦、輪姦【5】あるいは、国際情勢@2ch掲示板の2005年7月30日で「青葉慈蔵尊由来記」や碑文を紹介している。
(11) チャンネル桜
2005年07月24日に「青葉慈蔵尊由来記」について、「俺は昨夜、これを読んで泣いた。確か先週、「ほめ殺し」で小山和伸先生がサワリを伝えて下さったものだ。」とある。
(12) 民主党議員事務所の秘書という人のサイト
2005年10月31日の日記に、昨日、有志を募り7人で青葉慈蔵尊を訪れた、とある。
(13) 日本会議神奈川 相模原支部
2005年11月13日に昭和の遺産巡り第4回、「日本人の生き方を心に刻む研修」として、「青葉慈蔵尊」・「山下奉文記念館」・「振武台博物館」・「五百羅漢寺」を訪れた、とある。
(14) 諸葛川
ブログ。2005年11月27日に「ロシアに興味のある方は必見。感動秘話。」として、「青葉慈蔵尊由来記」を示している。
(15) なっとう人生まっしぐら
2005年12月17日、「満州の悲劇」として、青葉慈蔵尊と碑文の遺書などを掲載。
その他、戦争に関連したものとして青葉慈蔵尊の名前を出しているページがあるが省略。
「新しい歴史教科書をつくる会」には批判精神がないかもしれない
右翼とか左翼といったものがどういうものなのかはともかくとして、堀喜身子の集団自殺事件に関心を持つ者は、右の傾向を持った人間に限られているといえる(左の人間は、反ソになるから、取り上げようとはしなかったのだろう)。
「由来記」には、『救国運動』・『新日本』というどうやら雑誌らしいものからの引用がある。どういう雑誌だろうと、国会図書館や古本屋のページから検索してみたが出てこない。インターネットのサイトなどを見ていくと、どうやら『新日本』というのは、右翼団体「日本同志会」の機関紙であるらしい。道理で検索しても見つからない訳である。『救国運動』の方は、おそらく1954年4月に右翼が結集して誕生した「救国国民総連合」〈『ある日本主義者の半生』p.317 〉の機関紙なのではあるまいか。
「由来記」には、中村武彦の名も出てくる。中村武彦は戦前からの右翼〈『ある日本主義者の半生』〉という右翼の大先輩であり、「救国国民総連合」の前身の「救国運動全国協議会」の書記長であった〈『ある日本主義者の半生』p.317 〉。1953年7月27日に結成された「維新運動関東協議会」や1956年12月に結成された「国民総連合」の書記長でもあった〈『右翼辞典』p.231〉。いくつかのサイトで、名前と写真を見ることができる(「大日本赤誠会」、中村粲の昭和史研究所の会報にも書いている)。『青葉慈蔵尊』によると1997年(碑文によると1996年か)に、中村武彦の発意で、「事件の概要を物語る碑文用の名文を書いて頂き、青葉園のご芳志により」碑が建てられたのだという。
既に示したように、近年堀喜身子のウソを「宣伝」しているのは、フジサンケイグループの『産経新聞』と『正論』であるが、これらは明らかに右の傾向を持っている。裏と表という言い方が適切なのかはよく分らないが、右の傾向を代表する表の顔がフジサンケイグループで、そこに裏の右翼団体が(緩く)結びついているというのが、現在の状況なのだろう(グループの中のフジテレビには堀喜身子のウソをガセビアの沼に沈めていただきたいものである)。
こうした右の傾向を持った人間が堀喜身子のウソに手もなくダマされているのは驚くべきことである。
『自決と玉砕』の編者の一人、安田武は、解説の中で堀喜身子のウソについて、このように書いている――「こんな事実が実際にあったということを、私たちの良識は、とうてい信ずることができないが、事実あったからこそ二十二名の若い看護婦たちは、集団自殺したのだった。」 私は、多くの本を出しているようだという以外に安田武がどんな人なのか知らないが、私はこれを読んで、安田武は私の知らないことも沢山知っているからそう言うのだろうと思ったものである。そんなことはなかった。一体、堀喜身子の話のどこが事実なのか。
また、『世紀の自決』の額田坦(ぬかだひろし)は書いている――「この集団自決の真相については(略)堀喜身子さんが涙を以ってつづった記録に明らかである。」 何が明らかだというのか。
こうした文化人と称されるような人、また、名越二荒之助・中村粲・藤竹暁といった学者と称される人が、何ら検討を加えることもなくダマされている。慨歎せざるを得ない。
堀喜身子のウソは何か彼らの弱点を衝いたのに違いない。それはどんな弱点だったのだろうか?
一つには、それがソ連に対する悪感情を刺激したからだろう。
ほかの理由も考えられる。22人が自殺した理由には問題があり、強いて理由を挙げれば、貞操観念に対する殉死ということになるだろうと私は述べた。このような死は極めて「精神的」である。私は特に評価はしないが、「気高い」と言ってもよいだろう。右の傾向を持った人たちは、このような「気高い」もの、現実的ならざる「精神的」・「観念的」なものが好きで(私もきらいという訳ではないが)、そういうものに弱いのだろうと思われる。
左の「自虐史観」の持主がその弱点を突かれて、朝鮮半島で実際に強制連行を行なったという吉田清治のウソにダマされたように〈『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか』pp.178-181〉、彼らもその弱点を突かれたのである。
右の傾向の考えには、伝統主義も顕著である。伝統主義とは単に伝統を大切にすることではない。それは、当然そうすべきものである。伝統主義とは、それを過剰に主張すること、伝統のその根拠を考えないで、単に伝統だからという理由でそれを主張することである。つまり、超保守主義ということである(実際には、伝統主義者は、伝統を大切にしているというより、それを主張しているだけである。洋服の代りに和服を着ている訳ではなく、パンツの代りにクラシックパンツを身に付けている訳でもなく、携帯電話の代りに狼煙を用いている訳でもない。その根拠を考えずに伝統に従えいうのなら、過去にあった全てをそのままに従わねばならない。そんなことは実際不可能で、伝統主義者といえども、伝統をある基準によって取捨選択しているのだが、はたして、その取捨選択の根拠をどれだけ意識的に把握しているだろうか)。根拠を考えようとしないのだから、右の人間はもともとダマされやすい上に、意識的ではないにしても人をダマそうとする傾向があることになる。
私自身は、右とか左とか呼ばれたくはないが、私はものごとの根拠をどこまでも追及しようという立場だから、どちらかと言えば、右の傾向を持った人たちに批判的にならざるを得ない(私はマルクス・エンゲレス・レーニン・毛沢東の書いた本を一冊も読んだことはない。読みたいとは思うが、基本的なところで間違っているものをなかなか読む気にはなれない)。
ここでは、右の傾向を持つ人の代表として、「新しい歴史教科書をつくる会」をつくった藤岡信勝に批判を加えておきたい。私には藤岡信勝の本を読む気が全然起こらない。以下に述べることは、藤岡信勝のただ一冊の本を読んで書くのであることをお断りしておく。
「青葉慈蔵尊由来記」をインターネットで公開していたのが、「新しい歴史教科書をつくる会」山形支部だからといって、私は、特に「新しい歴史教科書をつくる会」への興味は起きなかった。
「新しい歴史教科書をつくる会」はTVのニュースでも取上げられていたから、名前は勿論知っていた。「つくる会」の教科書は、市販もされて書店に並んでいたから、立読みして、ざっと目を通してはみた。その時の感想は何だか普通の教科書だなあ、というもので、太平洋戦争のところもざっと見たが何が問題なのかは分らなかった。他の教科書と読み比べてみないと何が違うのかは分らないだろう。問題がありそうに見えないのはいいけれど、その代わり何が新しいのかも分らない。まあ、色んな教科書があってもいいんじゃないか、というのが私の考えだった。
私個人は、教科書というものを信じてはいないが、未来を担う子供たちに何を教えるべきかは大切な問題であることは分る。しかし、分量の極めて限られた教科書に何を詰め込むかについては、色々な意見が出るのが当然で、私はそんなことよりも、歴史事実を集めるのに忙しくて、そんなことに関心が持てないのだった(今でもそうである)。
ところで、ある日、堀喜身子の手記のことを調べようとして図書館に行ったが、この上何を調べたらよいのか分らなくなって、『「自虐史観」の病理』という本を手にしてみた。目次を見ると「「南京大虐殺」東日記のウソ」という見出しがあった。東史郎の日記は以前読んだことがあった(といっても、東史郎の饒舌にうんざりして、中途で放り投げている)。それで、あの日記のどこがウソだったのだろうと興味を引かれて読んでみた。
その本で初めて、私は、その本の著者の藤岡信勝〔東京大学教授のち拓殖大学教授〕が、「新しい歴史教科書をつくる会」を作ったことを知った。「つくる会」の趣意書が載っていて、それで、やっと「つくる会」とは、こういうものだったのかと合点した次第だった。
藤岡信勝の「「南京大虐殺」東日記のウソ」という文章には、東史郎の日記のある部分(実名が出てしまい、名誉毀損の裁判の対象になった部分)に対して、「批判的読み方」をして、九つの疑問点を示している。しかし、それらはほとんど批判になっていないのである。
誤植か誤記の指摘、道路や沼の位置関係が不明だなどという単なる質問は批判ではない。質問ならば私たちは即座に幾つでも挙げることができるからである。質問が疑問あるいは批判になるのは、他のものとの関連からそこに矛盾が生じる場合だけである。私的な日記の中に明確な説明が欠けているのは当然である。
そのあとに、(中国人を入れた)「「袋はフットボールのようにけられ……」。人間一人をフットボールのようにけることはできない。このへんから、極めてあやしくなってくる。」と述べている。しかし、私はプロレスの試合をTVで観ることがあるが、リングに横たわりあるいは上半身だけを起こしたレスラーの頭や背中を蹴ることを、アナウンサーはサッカーボールキックと呼んでいるのである。人間をサッカーボールのように蹴ることはできない筈ではないか。東史郎は比喩表現をしているのに過ぎないのであり、あやしいものは何もない。藤岡信勝の批判とはこの程度のものなのだった。
もう一つ例を挙げると、日記の「泣き叫ぶ支那人は、郵便袋の中へ入れられ……」に対して、裁判では、厳重に管理されている郵便袋が落ちていた筈がないとされ、藤岡信勝はそれには気付かなかったと感心しているのである。しかし、その袋に軍事郵便というような文字が書かれていた訳でもあるまい。郵便袋のような袋を郵便袋と呼ぶことは比喩表現として許されるのである。つまり、直喩である。直喩を持ち出すと黒いものを白とされる危険性が出てくるのだが、当時も今も人間が入るような大きな袋を見ることはそんなにはないだろう。かつて大きな郵便袋を見たことがあって、それが印象的であったりすれば、大きな袋を郵便袋の名で呼んでもおかしくはない。
結局、書かれていないこと、説明されていないことが多くて、どのような可能性も引出せ、何とも言えないのである。藤岡信勝は、「批判的に読むと、これだけのことがみえてくる」と自ら誇り、このような「批判」から、「私は「東日記」のすべてを、歴史研究のための資料として価値のないものだと断じてはばからない」と結論づける。私にはとても理解できない。これが、学者のする「批判」というものなのかと暗澹とした気持になった。
私は何も「東日記」が正しいと言っているのではない。そんなことを私が言える訳がない(積極的にそうは言わない。特に反証がなければ、取り敢えずは正しいものとみなしておかなければならない)。
藤岡信勝は普通はこのような「批判的読み方」はしないと書いているが、おかしなことを言うものである。普段から「批判的読み方」をすればよいではないか。実際、あのような「批判的読み方」をされたのでは、どんな日記でも真実ではないことになるだろう。疑問点は疑問点としておいて、その可能性を他の資料などから追求するのが「批判的」というものだろう。藤岡信勝は自らの歴史観を自由主義史観と名付けているらしいが、勝手気儘に自由なのは困った話ではあるまいか。彼とその同類は、批判の名のもとに、むしろ恣意的に、歴史事実に対して、一方は捨て、他方は採るという危険な態度を表わしているように思われる。
「新しい歴史教科書をつくる会」の趣意書とは、ざっとこういうものであった――世界のどの国民も、それぞれ固有の歴史を持ち、日本にもみずからの固有の歴史がある。戦後の歴史教育は、日本人が受けつぐべき文化と伝統を忘れ、日本人の誇りを失わせている。特に近現代史において、日本人は謝罪し続けることを運命づけられた罪人の如くにあつかわれている。世界にこのような歴史教育を行っている国はない。「新しい歴史教科書」は、このようなものを正すものである〈『「自虐史観」の病理』pp.304-305〉。
この趣意書は、日本には固有の歴史があるから、その伝統を大切にしろと言い、世界中でこのような歴史教育を行っている国はないから教科書を変えるのだと言う。日本の固有性と世界で行われているということの間には矛盾はないのだろうか? 私は、このような批判を「つくる会」自らが行なっているのか、大いに疑問に思う。
「つくる会」の教科書は、韓国・中国から反撥を受けているが、「つくる会」はよもや、ある政治家などのように、反撥しているのは韓国・中国だけだなどと言いはすまい。「つくる会」の教科書の採用は少数にとどまっているが、そんなことを言うなら、少数派である「つくる会」は教科書を出すことをあきらめるべきだということになるだろう。
先に述べたように、歴史について色々な考えがあるだろうから、色々な教科書があってもいいと私は考えている。「新しい歴史教科書」も全否定はしたくない。彼らは意識していないだろうが、伝統主義にもそれを主張するそれなりの理由、根拠がある。どうせ私たちは行為に迷うのだから、色々やってみたらよい。入学試験などの問題があるだろうから、基本的なことだけは抑えて、後は自由にやったらよい。教師が授業の始めに、この教科書には著者の独自の考えが含まれているかもしれないし、将来間違っていると言われる記述が含まれているかもしれないと生徒に話しておけば、それで済む話ではないだろうか。
参考
参考となるものを掲げておく。
(1) 碑文
(碑文表)
青葉慈蔵尊由来
昭和二十一年春 ソ連占領下の旧満州国新京の第八病院に従軍看護婦三十四名が抑留され勤務していたが ソ連軍により次々に理不尽なる徴発を受け その九名の消息も不明のまま更に四回目三名の派遣を命ぜられた 拒否することは不可能であることを覚悟したその夜 最初に派遣された大島看護婦が満身創痍瀕死の身を以つて逃げ帰り 全員堪え難い凌辱を受けている惨状を報告して息絶えた 慟哭してこれを葬つた二十二名の乙女たちは 六月二十一日黎明近く 制服制帽整然として枕を並べて自決した
先に拉致された同僚たちも 恨みを呑んで自ら悲惨なる運命を選び満州の土と消えた
二十三年の暮 堀看護婦長に抱かれて帰国した二十二柱の遺骨は 幾辛酸の末 漸く青葉園園主の義侠により此処に建立された青葉慈蔵尊の台下に納められた 九名の友の霊も合わせ祀られ 昭和三十一年六月二十一日開眼供養が行はれて今日に至つた
凛冽たる自決の死によつてソ連軍の暴戻に抗議し 日本女性の誇りと純潔を守り抜いた白衣の天使たちの 芳魂 とこしなえに此処に眠る 合掌
(碑文裏)
遺 書
二十二名の私たちが 自分の手で命を断ちますこと 軍医部長はじめ婦長にもさぞかし御迷惑と深くお詫び申し上げます
私たちは敗れたりとはいえ かつての敵国人に犯されるよりは死をえらびます
たとえ生命はなくなりましても 私どもの魂は永久に満洲の地に止まり 日本が 再びこの地に還つて来る時 ご案内致します
昭和二十一年六月二十一日散華
旧満洲新京(現長春)
通化路第八紅軍病院
荒川 さつき 池本 公代 石川 貞子
井出 きみ子 稲川 よしみ 井上 つるみ
大島 花枝 大塚 てる 柿沼 昌子
川端 しづ 五戸 久 坂口 千恵子
相良 みさえ 澤口 一子 沢田 八重
澤本 かなえ 三戸 はるみ 柴田 ちよ
杉 まり子 杉永 はる 田村 馨
垂水 よし子 中村 三好 服部 律子
林 千代 林 律子 古内 喜美子
細川 たか子 森本 千代 山崎 とき子
吉川 芳子 渡辺 静子
昭和三十一年六月二十一日埼玉県大宮市青葉園に青葉慈蔵尊として台座に一同の分骨を納めて建立平成八年六月二十一日五十年忌に當りて此の碑を建つ
(2) 満州地図
すでに示したもの。
(3) 新京地図
すでに示した地名入りのもの(『新京の地図』の地図に地名を追加・削除したもの)と『新京市街地図』から作成した道路と主な建物だけの地名のない地図(saveして他のソフトでみてほしい)を示しておく。。

(4) 新京の病院
新京の病院について知っている範囲のものを示す。新京には新京医師会があった。その名簿でも手に入るといいのだが、そうもならず、さまざまな本から抜き出したもの。保健所など関連施設も入れた。
(1) 戦前(から)の病院で公的機関・会社経営のもの
| | 病院名 | 場所 | 説明・出典 |
| 新京第一陸軍病院 | | 戦後、ソ連軍に接収されたと思われる。 |
| 新京第二陸軍病院 | | 戦後、ソ連軍に接収されたと思われる。 |
| 新京特別市立医院 | 敷島区 | 「新京特別市立医院」〈『満州人名辞典』下p.1469〉。「新京特別市医院」〈『満州人名辞典』中p.878〉。「新京市立医院」〈『満州人名辞典』中p.878〉。「市民病院」〈『新京市街地図』〉。「新京病院」〈『満州十二年』〉。「市立医院」、総合病院で収容人員280人、1938年竣工、看護婦養成所が付属〈『新京案内 康徳六年版』p.69〉。戦後、「長春病院」と呼ばれたと思われ、終戦時200〜250人位の患者を収容していた〈『満洲開拓史』p.706〉。 |
| 千早病院 | 興安大路 | 〜1946.7.18、「千早病院」〈『満洲開拓史』p.706〉。「千早医院」〈『新京市街地図』、『満州人名辞典』上 p.81〉。『新京案内 康徳六年版』p.69に伝染病予防に対して「千早医院」があるとあり、p.107に「市立千早病院」、地図には「伝染病院」とある。 |
| 新京特別市婦人医院 | | 「新京特別市婦人医院」〈『満州人名辞典』上 p.83、下p.1300〉。「特殊婦人病院」〈『新京案内 康徳六年版』p.69〉 |
| 新京特別市衛生所 | | 「新京特別市衛生所」〈『満州人名辞典』上 p.195〉。「衛生所」〈『満州人名辞典』上 p.974〉。 |
| 新京衛生隊及び細菌検査所 | | 〈写真説明『昔日の満州』 p.123〉 |
| 新京特別市保健所 | | 〈『満州人名辞典』上 p.82〉。 |
| 新京特別市中央通保健所 | | 〈『満州人名辞典』中 p.887〉。 |
| 施医院 | | 下層住民のため社会施設を兼ねて施医院を設け施療施薬に当る〈『新京案内 康徳六年版』p.69〉。 |
| 満赤病院 | 安民区 | 満州赤十字社の病院と思われる。
〜1945.9、「終戦前よりの既設病院であり、終戦時相当数の患者を収容していたが、終戦後、職員の解雇等により、その後収容人員は僅少である。」〈『満洲開拓史』p.706〉。〈『チャーズ2』地図〉 |
| 満鉄病院 | 敷島区 |
〜1945.7〈『満洲開拓史』p.706〉。〈『新京市街地図』、など〉
「新京満鉄病院」東三条通り。1907年、創立。新京市で最も設備の整った病院。内科、外科、眼科、小児科、耳鼻咽喉科、歯科口腔科、産婦人科、皮膚科、X光線科の九科に分れ、患者収容数78人、医員3人、薬局員3人、事務員74人。〈『白衣の天使 従軍看護婦』p.34〉 |
| 電々本社病院 | | 「電々本社病院」〈「新京からの引揚げ行」木須マサ子『白衣を紅に染めて』p.11〉。電々=満州電電。 |
| 恩賜軍管区病院 | | 満州国軍の病院。新京恩賜病院とも。 1937.12.1業務開始。〈『満州国軍』p.658〉。『新京市街地図』に「恩賜病院」というバス停がある。
恩賜軍管区病院は『「満洲国」社会事業史』に出てくる恤兵院、あるいはその付属の病院ではないかとも思われる。恤兵院の設立趣旨は、「茲ニ於テ恩賜財団普済会ハ国庫ノ補助ヲ得テ建国ノ犠牲者タル傷病勇士並一般公務員ニ対スル救護機関トシテ恤兵院ヲ設立シ以テ職業ノ再教育並再訓練ヲ実施シテ貧困救済ヲ為シ又終生ノ保養所トシテ重症者介護ニ当ラントスルモノナリ」〈『恩賜財団普済会史』浦城満之助編彙 満洲図書株式会社 1938年 pp.469-470〉。1937.4 恤兵院、設立。所在地は新京特別市の興安大路1702号。敷地面積は28,950.68 m2。定員が150人に決められていたが、常時収容人数は三十数名に満たなかったという。その原因について、経営者の方は「マダ真当ニ恤兵院ヲ理解シテ居ル人ガ少イ」と説明した〈『恩賜財団普済会史』浦城満之助編彙 満洲図書株式会社 1938年 p.27〉。1939年に54人に到達、その中には満人〔漢民族人を含む〕、日本人、モンゴル人がいた。1938年、恩賜財団と日本赤十字社満洲委員部が併合して、満洲国赤十字社として生まれ変わってから、恤兵院は満洲国赤十字社の直接管理のもとに置かれた。〈『「満洲国」社会事業史』pp.282-283〉 |
| 国立衛生技術廠 | 興安大路 「市立千早病院」の前 | 〈『満州人名辞典』上 p.248〉。「市立千早病院」の前、「その性質上最近大陸科學院に併合されることになる模様である。」〈『新京案内 康徳六年版』pp.106-107〉 |
新京には二つの保健所があった〈『新京案内 康徳六年版』p.69〉。新京特別市保健所と新京特別市中央通保健所が同じものか違うものか不明。千早病院の隣には新京医科大学の仮校舎もあったが、明年、大陸科学院前に新校舎〔(memo)の建築を〕着工とある〈『新京案内 康徳六年版』p.107〉。
(2) 戦前(から)の病院で個人経営または不明のもの
| | 病院名 | 場所 | 説明・出典 |
| 西順天医院 | 順天区 |
〜1946.7〈『満洲開拓史』p.706〉
「西順天病院」、伝染病院として指定。病床80。西順天地区で経営していたのを拡充した。〈『満洲国史 各論』p.416〉
|
| 順天医院 | | 1935.8開業。ベット100余、従業員40。〈『満州人名辞典』上 pp.3,21〉 |
| 新都医院 | 慈光街401 | 梅が枝町3丁目の1935年秋建築の三階建ての建物に入っていたが、その後、慈光路に移る。梅が枝町の建物は1938.4満炭独身寮さらに満州林業公社の八島寮となる。〈『満林の追憶』〉饒村(ニコムラ)佑一〔新京医師会理事〕経営。1933.12、梅ヶ枝町に開業。1936.初秋、慈光路興亜街角に国都随一と称せられる完備せる大病院を新築。慈光街401。梅ヶ枝町に分院。〈『満州人名辞典』下 p.1338〉 |
| 新京共立医院 | | 〈『満州人名辞典』上 p.81〉 |
| 早川歯科医院 | | 〈『満州人名辞典』上 p.154〉 |
| 東洋医院 | 新京四馬路3 | 〈『満州人名辞典』上 p.154〉 |
| 新京興安病院 | 興安大路、興安通39。 | 「新京興安病院」、興安通39、1934.12開設〈『満州人名辞典』下 p.1359〉。
のちに中国を訪れての文章に「興亜街と興安大路が交わる南西の角にかつての興安病院の四階建のうすよごれた建物が目についた」〈「半世紀ぶりの故郷」鈴木武夫『黄塵』p.25〉とあり、4階建だったかもしれない。「興安病院」、1946.6頃、中国側に接収〈『ひとすじに星は流れて』、『満州十二年』〉 |
| 深町医院 | 朝日通89 | 〈『満州人名辞典』下 pp.1293-1294〉 |
| 新京歯科医院 | | 〈『満州人名辞典』中 p.810〉 |
| 康生医院 | | 〈『満州人名辞典』中 p.1131〉 |
| | 新京神社横 | 新京神社横で太田友安〔小児科医〕の開業していた病院。太田友安はソ連軍に立ち退きの命じられ、堀山病院に移った。〈『ひとすじに星は流れて』〉 |
| 馬島病院 | 満州中央銀行社宅前 | 満州中央銀行社宅は興安胡同および神泉路にあり、おそらく興安胡同。〈『満州脱出』p.8と同書の新京市街図〉 |
| 新京犬猫病院 | | 「一九三八年一二月初旬、新京犬猫病院にペスト患者が発生」〈「筆供自述」齋藤美夫〔満州国憲兵訓練処処長少将〕『侵略の証言』p.236〉 |
(3) 戦後開設の病院
| | 病院名 | 場所 | 説明・出典 |
| 敷島病院 | 敷島区 | 〜1946.7。終戦時300〜400人位の患者を収容。〈『満洲開拓史』p.706〉
「敷島伝染病院」。病床400。敷島区。もと敷島高等女学校寄宿舎を改造した。〈『満洲国史 各論』p.416〉
|
| 大房身保健院本院 | 緑園区 |
1945.10.29〜1946.7.18〈『満洲開拓史』p.706〉
大房身伝染病棟。病床300。大房身。大房身保健院と七か所の擁護所をあてた。〈『満洲国史 各論』p.416〉
|
| 大房身保健院緑園分院 | 緑園区 |
1945.9.27〜1946.7.15〈『満洲開拓史』p.706〉 |
| 金剛伝染病院 | 西陽区 |
1946.6〜1946.8、「旧満鉄青年隊舎を利用して一般難民収容所として発足したが、二十一年六月以降民会の指示により伝染病院としての形態に移行して伝染病患者を収容した。」〈『満洲開拓史』p.706〉
〈「長春在留日記抄」『満州さ・よ・な・ら』、『ひとすじに星は流れて』〉
「金剛病院」。伝染病院として指定。病床300。西陽区。もと満鉄青年隊舎難民収容中の発疹チブスが発生したので整理して病院とした。〈『満洲国史 各論』p.416〉
|
| 安民保健院 | 安民区 | 1945.11.1〜1946.7.18〈『満洲開拓史』p.706〉。
安民伝染病院か。病床100。安民区。もと開拓青年義勇隊の寮を拡充した。〈『満洲国史 各論』p.416〉
|
| 南嶺療養所 | 南嶺 | 1945.9〜1945.11.11。
「ソ軍の直接の監視下にあって、入ソ作業大隊編成時の患者を一時収容し、入ソ不能者は新京一陸病に移送した。」〈『満洲開拓史』p.706〉 |
| 保健院大鵬寮 | 西順天区 |
1946.10.3〔開設か〕。「一般難民収容所として発足したが、第一次計画遺送時、安民地区の引揚に前後して各方面からの患者が集結し、病院化した。」〈『満洲開拓史』p.707〉 |
| 大房身保健院南大房身分院 | 西陽区 |
1945.9.27〜1946.7.15。旧陸軍隊舎、1945.9.27 鉄驪開拓団を主体とする避難民が流入。「これ等の者は長途の避難行動による疲労と食糧難等のため栄失患者が続出したため病院の形態に移行した。」〈『満洲開拓史』p.707〉 |
| 大房身保健院興隆分院 | 西陽区 |
1945.9〜1946.7.18。旧陸軍隊舎、1945.9 各地よりの避難民多数が流入したため収容所として開設。〈『満洲開拓史』p.707〉 |
| 国際病院 | 大同広場 | おそらく元首都警察庁の建物。佳木斯医大の有力な医学陣からなる病院。1946.6頃、中国側に接収。〈『ひとすじに星は流れて』〉 |
| 自彊医院 | 興安ビル〔興安橋付近〕 | 旧満州国空軍の将校宿舎。津田徳治が佳木斯医科大学の学生の協力を得て作った 〈『満州十二年』〉。 |
| | 緑園 | 1945.10頃から1946年の引揚げまで。熊井竹代(くまいたけよ)〈『満州女塾』p.8〉はソ連軍司令部に出向き、産院の開設を申請。「産院のスタッフとしては、東安省で看護婦をしていたという五〇歳あまりの婦長と呼ばれている女性と、看護婦の経験がある元女塾生がいた。ほかに、捕虜収容所を脱出してきた旧関東軍の兵士達を用心棒代わりにかくまっていた。男達は「産院」と書かれた腕章をしていれば、敗残兵を探すソ連兵士につかまる心配がなかった。/ ただし、実際の産院としての機能は非常に貧弱なものだったようである。」〈『満州女塾』p.228〉 |
(4) 開設時期不明の病院(戦後にあったもの)
| | 病院名 | 場所 | 説明・出典 |
| 東北病院 | 興安大路 | 1946.6頃、中国側の病院。〈『ひとすじに星は流れて』〉 |
| 堀山病院 | | 太田医院とも。個人経営の小病院と思われる。 〈『ひとすじに星は流れて』〉 |
| 西村病院 | ダイヤ街 | 〈「新京・終戦前後の私の思い出」池宮城澄子『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦VII』p.246〉 |
(5) 堀喜身子の名前
堀喜身子の名前は、『すべての戦歿者に捧げる』の本文でも使われているのは「喜身子」だが、顕彰碑に「掘婦長」の名も刻まれているとあり、碑を見ると該当すると思われる名前は「古内喜美子」だけである。名前はあいうえお順だから、「古内」は「ふるうち」と読むと思われる。これは、堀喜身子の旧姓と思われるのだが、『白衣の天使 従軍看護婦』p.11によると、旧姓は「酒谷(さかや)」である。『白衣の天使 従軍看護婦』では、「喜身子」が「貴身子」になっている。「由来記」では「喜美子」だが、『青葉慈蔵尊』では「喜身子」である。桜ヶ丘総合病院によれば、1952年、「公子」と名乗っており、戸籍抄本では「喜身子」だという。
私は、「由来記」の「喜美子」と『すべての戦歿者に捧げる』の「喜身子」とどちらが正しいのかと、堀喜身子の長男の方に訊ねてみた。その回答は、本来は「喜美子」なのだが、松岡寛と結婚する際に「喜身子」に改名したようだとあった。
(6) 看護婦の名前の変遷
「第八病院」にいたという看護婦たちの名前をまとめてみた。
表の『白衣の天使 従軍看護婦』の名前は、堀喜身子の記憶による証言によるものという。それは、大島花枝を含め、遺骨を持ちかえったという23人で、それぞれ戒名がある〈『白衣の天使 従軍看護婦』pp.31,83-85〉。「はしがき」に、「 何よりも、堀さんの履歴、集団自決した二十二名の遺書(複製)と氏名、これにかかわる九名の氏名(内七人は不確定)及び戒名まで知らせて戴いた。」〈『白衣の天使 従軍看護婦』p.6〉とあり、青葉園で会ったほかに、堀喜身子から知らされたらしく、全31人中7人の名前が分からないという意味らしい。顕彰碑の「古内喜美子」は「古内某」と名字のみで、自殺した22人の一人ということになっている。
第二の手記では、五戸某が後藤よし子になり、井上鶴美が井上として出てくる他は、『サンデー毎日』の手記と同じ。
年月の経過とともに堀喜身子は看護婦の名前を忘れるのではなく、むしろ思い出しているようである。
| | |
『サンデー毎日』 1952.8 |
『毎日新聞』 1956.6 |
「還らぬ天使たち」『婦人公論』 1956.11 |
『白衣の天使 従軍看護婦』 1985.9 |
顕彰碑 1996.6 |
| 第1回派遣 | 大島はなえ | | 大島はなえ | 大島花枝 | 大島花枝 |
大塚てる | | 大塚てる | 大塚てる | 大塚てる |
細井たか子 | | 細井たか子 | 細井たか子 | 細川たか子 |
| 第2回派遣 | 荒川静子 | | 荒川静子 | 荒川静子 | 荒川さつき |
| 沢田八重 | | 沢田八重子 | | 沢田八重 |
| 三戸はるみ | | 三戸はるみ | 三戸はるみ | 三戸はるみ |
| 第3回派遣 | 井出きみ子 | | 井出きみ子 | | 井出きみ子 |
| 五戸某 | | 後藤よし子 | 後藤よし子 | 五戸久 |
| 沢本かなえ | | 沢本かなえ | | 澤本かなえ |
| 集団自殺 | | | |
池本某 | 池本公代 |
| | | | 石川某 | 石川貞子 |
| | 稲川よしみ | | 稲川よしみ | 稲川よしみ |
| 井上鶴美 | 井上つるみ | 井上鶴見 | 井上鶴見 | 井上つるみ |
| | | | 柿沼昌子 | 柿沼昌子 |
| | 川端しづ | | 川端しづ | 川端しづ |
| | | | | 坂口千恵子 |
| | 相原みさえ | | 相良みさえ | 相良みさえ |
| | 沢口一子 | | 沢口一子 | 澤口一子 |
| | 柴田ちよ | | 柴田ちよ | 柴田ちよ |
| | | | 杉まり子 | 杉まり子 |
| | 松永はる | | 杉永はる | 杉永はる |
| | 田村馨 | | 田村馨 | 田村馨 |
| | | | 垂水某 | 垂水よし子 |
| | 中村三好 | | 中村三好 | 中村三好 |
| | | | | 服部律子 |
| | | | | 林千代 |
| | | | | 林律子 |
| | | | 森本千代 | 森本千代 |
| | 山下とき子 | | 山崎とき子 | 山崎とき子 |
| | | | 吉川芳子 | 吉川芳子 |
| | 渡辺静子 | | 渡辺静子 | 渡辺静子 |
| | 林重水 | | | |
| | ぴん子ちゃん〔通称〕 | | 某ぴん子 | |
| | | | 林某 | |
| | | | 須藤某 | |
| | | | 古内某 | |
| | ナベさん〔通称〕 | | | |
| | もくちゃん〔通称〕 | モクちゃん〔愛称、名前思い出せず〕 | | |
| その他 | 服部きよ | | 〔看護婦ではなく半身不随の病人〕 | 〔存在せず〕 | |
| 大久保みち | | 〔存在せず〕 | |
| 堀婦長 | 堀喜身子 | 堀喜美子 | 堀喜身子 | 堀貴身子(旧姓:酒谷) | 古内喜美子 |
(7) 歴史資料について
堀喜身子の手記を批判するのに用いた文献は、引用注と参考文献に示した通りだが、従軍看護婦(ほとんど日赤看護婦)の手記も多く用いた。このような手記は数多く出版されており、できるだけ目を通そうとはしたが、満州が関係しないものは省いたものも多い。目を通した中に『遺骨を抱く私』という本があったが、その手記は、堀喜身子の手記と同様に作り話であることがほぼ確実である。
この本を書いたという市橋〔旧姓、藤田〕妙子は、1937年に秋田県の女学校を卒業し、秋田県の赤十字病院で試験を受け、仙台の訓練所(この言葉はほかの手記には見かけないが、別に養成所という言葉も出てくる)で三年間学び、病院勤務を経て、1941年12月8日にシンガポール攻略部隊とともにシンゴラに上陸、野戦病院に勤務したとなっている。
その手記には、市橋妙子が入学試験を受けた時に婦長が次のように訓示したとある。「この日赤の看護婦というのは、あらゆる看護婦の中でも、最高の看護婦でして、男の人が東京帝大を出て高等文官試験に受かり、お役人になって行くのと同じくらいに、威張れるのです」 当時の赤十字看護婦は、確かに格式の高いものであったが、こんなことを本当に話すとは思えない。
そのほか、シンゴラに上陸したという市橋妙子の班には、甲種・乙種・臨時看護婦が混在とあるが、「私たちが、甲種看護婦という高い資格を持っている」「乙種の人たちは、部屋のすみで片付けものをしたりして」「そして、それより身分の下の臨時看護婦の資格しかない人は、表に飛び出して、庭をはいたり、お風呂を沸かしたりしていた。」などとあるが、このような明瞭な順位が実際にも救護看護婦の間に現われていたとは思われない。
ある乙種看護婦に対し、「身分は乙種であったが、年は私たちより、十ぐらい上で、多分二十八、九才になっていた。」とあるのは明らかに間違っている。乙種看護婦は、年齢が14歳以上20歳未満の者に2年間の短期教育を施した者で〈『日本赤十字社社史稿』第5巻 pp.123,334〉、甲種看護婦より若いのが普通で、28、9であることはあり得ない。そして、日赤が乙種看護婦の養成を始めたのが1940年だから、1941年に編成された班に乙種看護婦が入ることはあり得ないと思われる。実際の救護看護婦がこのような間違いをするとは思えないが、強いてよく解釈すれば臨時看護婦と間違ったのだろう。だが、それでも、臨時看護婦は養成所卒業したての看護婦よりずっと看護の経験に長けている者なのだから、臨時看護婦に対して明瞭な身分的な差が現実にあったとは思えない。
市橋妙子の班が野戦病院勤務というのもおかしいのだが、「私たちは、野戦病院に看護婦が勤務し、従軍して、果たして作戦行動が、うまく行くかどうかの実験台であった。」としている。
また、従軍看護婦が患者に誘惑され寝たなどということ書かれてあるのだが、規律の厳格な従軍看護婦にはほとんどあり得ない話である。
そして、日赤救護看護婦の手記では、自分の所属した班を第何救護班と明記していないものはまずないと言ってよいのだが、この手記ではその明記がない。そして、1941年の8月から12月までの間に秋田または宮城の支部員を含み南方に派遣されたという班を、『社史稿』の「昭和一二年〜二〇年派遣救護班調べ」に見つけることはできないのである。
女学生の同性愛が描かれるなど性的描写が目立つ手記でそういうところもあやしいと言える。
以上のような訳で『遺骨を抱く私』をデッチアゲと判断するのだが、権威主義的なところ、肝心なことの明記がない点は、堀喜身子の手記と軌を一にしている。
この本は公立図書館でも置いているところは極めて少ないし、それによって地蔵といった記念物が作られたりということもなさそうだから、これ以上その内容を詮索しようとは思わない(この本の「女の戦記」というシリーズの他の幾つかをみると、性的描写・同性愛の描写が目立つ点で共通しており、名前は変えているが、同一人物の手になるようでもある。ほとんど取り上げる価値さえないひどいシリーズのようである)。
それにしても、堀喜身子の手記を調べていると、それではほかの手記がウソではないとどうして言えるのかということに神経質にならざるを得ない。例えば、『秘録 大東亞戰史 滿洲篇』下には、敦化(トンホワ、とんか)で、婦女子がソ連兵に連れ出されて暴行を受け、1945年8月27日未明に三十余人が青酸カリ自殺を試み、23人が死亡、死にきれずに助かった人は子供をいれて5人ほどという集団自殺事件があったことが述べられている(「救いなき敦化」吉岡幾三)。堀喜身子の集団自殺にも類似するこの事件がはたして実際に起こったことだとどうして言えるのか? 何よりも、そんなに詳細という訳でもないにしても、この事件に触れた手記がほかにもあるのだし(「敗戦の惨」足達芳雄『満州さ・よ・な・ら』p.445、「三粒の小石――敦化への想い」木村郁子『満州さ・よ・な・ら』pp.686-687、「シベリアの悪夢」山崎寿吉『シベリアの悪夢』p.3)、『満洲国史 総論』もこの事件を記しているのである(『満洲国史 総論』では婦女子29人が服毒自殺、うち24人死亡となっている)〈「ソ連進入後における各地日本人の遭難事件」『満洲国史 総論』p.791〉。堀喜身子の集団自殺の舞台となった第八病院が確認できないのに対し、この事件の舞台となったパルプ工場の存在は確認することができ、いつどこでという細部がしっかりしており、この敦化での集団自殺事件があったということについては疑うべきところはないのである。
そもそも、ほとんどの歴史事実というものは、私達が直接体験しなかったものである。それをどうして事実であるとか、事実ではないなどと言えるのだろうか? 直接見聞きしなくてもTVや新聞で見たことがあれば、それも体験のうちに入れてもよいかもしれないが、生まれる前の出来事についてはどうしてそれが「あった」などと言うことができるのだろうか?
こうした歴史事実というものは、教科書とか本とかいったもので伝えられるのだが、現在の私たちの周囲にいる人がウソをつかない程度にはそれに関わった人達、昔から現在までの人達もウソをつかないだろうとまず前提することができる。そして、ある歴史事実についてそれが確かにあったと語る人が多ければ、ただそれだけで、それが確かにそうである一つの根拠になる。他人の経験は自分の経験を補完するものであり、ウソが少ないとはいっても、私たちが(意識的に、また無意識のうちに)ウソをつく程度には入っているだろうウソが多くの人が関わることで取り除かれることが期待できるからである。逆に言えば、この前提が失われれば多くの人が言っているからといって、それを信頼することはできなくなる。
そこで、信憑性が高い本というのは、公的な組織の編纂・執筆によるもの、何々の会といった団体のメンバーである人が書いたもの、ということになる。公的な著作への信頼は時に度を過ぎているようにも私は感じるが、一般的にはこのようなことが言えるだろう。そうでなくても、手記などでは、本文中や略歴などの形で著者の経歴が示され、そうしようと思えばその内容をほかから確認できるようなものであれば信頼性は高い。私の読んで採用した従軍看護婦の手記などのほとんどは全てがこれに合致するものである。それらの資料は、相互補完的である方がよいが、そうでなくても、特に矛盾がないなら一応それを事実と認めておくのである。
引揚げ者の手記などの中はこういったものではないものもあろうが、やはり特に矛盾がないなら一応事実と認めておく。そして、新京からのソ連軍の撤退時期などの矛盾があっても、それに合理的な説明が可能であれば、その全てを否定する必要もないということになる。こうしたものの中には、やはり幾つかの何らかのウソが混入する筈である。しかし、こういったものを多く集めるなら、そこに平均的、最大公約数的な手記というもの、歴史の姿が浮かび上がってくる。そして一旦こういったものが得られたなら、それを基準にして、手記などがどれだけ正しいのかをある程度判断できる。こうして、手記などの内容にウソがないのか、またどれだけ正確なのかを、いちいち検討して確かめなくても、判断基準を得ることができる。この基準からはずれているのが、堀喜身子の手記と『遺骨を抱く私』だということになり、それらについては別に検討すればよいのである。
引揚げ体験者の手記などは記述が曖昧なものも多いし、ウソも混じっているけれども、まずは正直なウソである。ほとんど全てがその意味で誠実であると思う。
私は歴史学者の書くものはまず信頼している。それはそうである。それが彼らの謂わば「社会的使命」なのだから。けれども、どんな歴史学者の書いた本でも、その中の必ずどこかにはマチガイがある。ウソやマチガイと言っても、その程度を言わねばならないが、私が見つけるものだから大したものではない。より確かな歴史事実を求めるためには、学者の書いたものだけを採用した方がよい。けれども、そういう訳にはいかないのである。
あまり大口を叩いてしっぺ返しが恐いけれども、私は半端な知識人というものが大嫌いである。このページに関していえば、原田みち子や奈良原春作のような輩である。なまじ知識があるものだから、本当は知らないことまで断定してしまう。
遠藤誉の『チャーズの検証』という本は、実は山崎豊子の盗作を追及したものである。私は山崎豊子の小説を読んだことがないし、ここでとやかくは書かないが、「社会的使命」に踏み込んだような知識人というのはある一面では実に厄介なものだと私は思う。
参考文献
(1) 書籍
引用したものの全て、参考にしたもの若干を示す。
初出発行年月日〔改訂版などはその版の発行日、復刻版は原書の発行日〕順。
主に奥付とカバーを参照した。
最後の〔 〕は、引用注などで用いている書名を示す。
『滿洲國地名大辭典』山崎□與 1937.12.10.22発行 滿洲國地名大辭典刊行會 ※□はJISにない字=てへん+總のつくり
『新京案内 康徳六年版』 編、永見文太郎 1939.1.1発行 新京案内社 復刻版:1986.8.18 アートランド〔『新京案内』〕
『昭和14年版 「樺太年鑑」』編著、樺太敷香時報社 復刻:1980.2.15発行 国書刊行会
『満州紳士録』第三版 編・発行、中西利八 1940.12.15 満蒙資料協会。復刻:『満州人名辞典』上中下巻 1989.5.25 日本図書センター ISBN4-8205-2041-5 C3500、ISBN4-8205-2042-3 C3500、ISBN4-8205-2043-1 C3500 ISBN4-8205-2040-7 C3500(セット)〔『満州人名辞典』〕
『滿洲建築概説』編、建築学会新京支部 1940 満洲事情案内所
『従軍看護婦長の手記』杉山里つ子 1941.3.2発行 湯川弘文館
『新京大觀寫眞帖』1943.1.15 大正寫眞工藝所 ※『復刻 満洲絵葉書写真帖』に収録。
『復刻 満洲絵葉書写真帖』編、山崎キン一郎 1986.3.1初版発行 池宮商会出版部 ISBN4-87180-001-6 C0072 ※キン=均+金の字がJISにないためカタカナにした。
『秘録 大東亞戰史 滿洲篇』上 編、田村吉雄 1953.5.5発行 富士書苑〔『秘録 大東亞戰史』上〕
『秘録 大東亞戰史 滿洲篇』下 編、田村吉雄 1953.6.10発行 富士書苑〔『秘録 大東亞戰史』下〕
『新らしい神様の國 私は中共から帰って来た』編、望月百合子 1954.7.10発行 富士書苑 〔『新らしい神様の國』〕
『還らぬ天使たち』原田みち子 1957.12.10第1刷 1957.12.20第2刷 第二書房
『清水市便覧 各町内と商工案内』昭和三十五年版 大清水出版社〔『清水市便覧』〕
『満蒙終戦史』編、満蒙同胞援護会 1962.7.20発行 河出書房新社
『戦火満州に挙がる』編者、昭和戦争文学全集編集委員会 昭和戦争文学全集1 1964.11.30発行 集英社
『あゝ満洲』編、満洲回顧録刊行会 1965.3.1発行 農林出版
『満洲開拓史』編集発行、満洲開拓史刊行会 1966.4.17発行 取次所、社団法人開拓自興会 非売品 1980.8.1復刊発行 企画編集、満洲開拓史復刊委員会 監修、社団法人全国開拓自興会 発行、全国拓友協議会
『シンガポール攻略戦 遺骨を抱く私』市橋妙子 編、近代戦史研究会 女の戦記9 1966.6.15発行 浪速書房〔『遺骨を抱く私』〕
『白の墓碑銘』医療文芸集団 1968.6.30第1刷 1969.7.31第9刷 東邦出版社
『大東亜戦史 満州編』下 責任編集、池田佑 1969.3.28初版発行 富士書苑
『日本赤十字社社史稿』第5巻 編、日本赤十字社 1969.4.1発行 日本赤十字社
『戦火の中で』編者、高木俊朗 現代日本記録全集22 1969.10.25初版第1刷発行 筑摩書房
『満洲国史 総論』編輯、満洲国史編纂刊行会 1970.6.30 満蒙同胞援護会
『軍隊末期の初年兵と戦争』著者・発行者、大津嘉一 1968.8.26第1刷 1970.8.26改訂版発行
『満洲国史 各論』編輯、満洲国史編纂刊行会 1971.1.30 満蒙同胞援護会
『樺太基本年表』編、北海道総務部行政資料室 1971.3.31発行 北海道 非売品
『ひとすじに星は流れて―満州引揚げの母の手記』安居儔子 1972.7.15第1刷発行 1988.10.15第10刷発行 太平出版社 ISBN4-8031-2508-2 C0336〔『ひとすじに星は流れて』 〕
『満州=修羅の群れ―満蒙開拓団難民の記録』後藤蔵人 1973.7.16第1刷発行 1988.7.15第10刷発行 太平出版社 ISBN4-8031-2510-4 C0336〔『満州=修羅の群れ』 〕
『全国寺院名鑑 改訂第三版 中国・四国・九州・沖縄・海外篇』 編纂、寺院名鑑刊行会 1969.3.1第1版第1刷 1970.8.1第2版第1刷 1973.9.1第3版第1刷 (財)全日本仏教会〔『全国寺院名鑑』 〕
『理科年表』昭和49年版 編纂、東京天文台 1973.12.10発行 丸善
『關東軍<2>―關特演・終戦時の対ソ戦』防衛庁防衛研修所戦史室 戦史叢書(73) 1974.6.28発行 東雲新聞社〔『關東軍<2>』〕
『新編 郷土兵団物語』編著者、松本政治 1974.8.15初版発行 発行、岩手日報社 発売、杜陵印刷
『記録 自決と玉砕 皇国に殉じた人々』編、安田武・福島鑄郎 1974.9.10第1刷発行 新人物往来社
『従軍看護婦の記録』大久保裁子 編集、橋本義夫 ふだん記新書4 1974.10.30発行 ふだん記全国グループ
『曠野に祈る 中共治下虜囚八年の手記』向井サイ 1974.12.28 謙光社
『世紀の自決』改訂版 編、額田坦 1968.8.1第1刷発行 1970.7.1第3刷発行 1975.6.1改訂版第1刷発行 1982.8.15第4刷発行 芙蓉書房
『従軍看護婦 痛哭のドキュメント 白衣の天使』千田夏光 1975.12.20 双葉社〔『従軍看護婦 痛哭のドキュメント』〕
『外地に骨を埋めて』ドキュメント太平洋戦争5 1975 汐文社
『曠野に吹く風 ―満州開拓団生き残りの記録―』下 編・発行、太平川を語る会 1976.3.31〔『曠野に吹く風』下 〕
『広辞苑』編、新村出 1955.5.25第1版第1刷 1976.12.1第2版補訂版第1刷 1980.9.20第2版補訂版第4刷 岩波書店
『日赤百年』編集、坂本郁夫 1977.5.26第1刷 サンケイ新聞社
『ほづつのあとに 殉職従軍赤十字看護婦追悼記』編集、小林清子・大原康男・吹浦忠正 デュナン教研501 1977.8.15初版発行 1978.8.15再版7刷発行 「アンリー・デュナン」教育研究所
『紅染めし ―従軍看護婦の手記―』編、永田龍太郎 1977.12.10発行 永田書房〔『紅染めし』〕
『引揚げと援護三十年の歩み』編集、厚生省援護局 1978.4.5 ぎょうせい
『遥かなる東安・敗走三千里 ソ満国境東安第一陸軍病院 (日本赤十字社第四五三救護班の記録)』編集、渡辺尚(タカシ)・平山美喜栄 1978.4.10 発行責任者、平山美喜栄〔『遥かなる東安・敗走三千里』〕
『続 ほづつのあとに 殉職従軍赤十字看護婦追悼記』編集、小林清子・田中須磨子・大原康男・吹浦忠正 デュナン教研502 1978.7.20初版発行 1978.8.20再版発行 「アンリー・デュナン」教育研究所
『日本植民地史 2 満州 日露戦争から建国・滅亡まで』別冊一億人の昭和史 1978.8.1発行 毎日新聞社〔『日本植民地史 2 満州』〕
『仏具辞典』編、清水乞(ただし) 1978.9.10初版発行 東京堂出版
『女と権力』編、もろさわようこ ドキュメント女の百年5 1978.11.24初版第1刷発行 平凡社
『写真集 望郷満州』文、北小路健 1978.11.25発行 国書刊行会
『満州十二年―五族協和を求めて―』津田徳治 1979.12.15発行 1983.8.11再版 1989.9.20 白ゆり印刷出版部 非売品〔『満州十二年』〕
『火筒のひびき ある従軍看護婦の記録』山崎近衛(ちかえ) ほるぷ自伝選集/女性の自画像3 1980.5.1 ほるぷ総連合 原発行、高知新聞社〔『火筒のひびき』〕
『仏教葬祭大事典』藤井正雄・花山勝友・中野東禅 1980.8.5発行 雄山閣
『騎兵第三旅団の栄光と終末』騎兵第三旅団史編集委員会 1980.9.6第1刷発行 発行、騎兵第三旅団史刊行会
『あいち従軍看護婦の記録』1980.11.27 日本赤十字社愛知県支部
『激動期の妻たち』監修、円地文子 近代日本の女性史第4巻 1981.1.22第1刷発行 創美社
『流亡の民』編、引揚体験集編集委員会(国書刊行会内) 生きて祖国へ1 満洲篇上 1981.4.30発行 国書刊行会
『満州さ・よ・な・ら』編、引揚体験集編集委員会(国書刊行会内) 生きて祖国へ2 満洲篇下 1981.4.30発行 国書刊行会
『シベリアの悪夢』編、引揚体験集編集委員会(国書刊行会内) 生きて祖国へ3 シベリア篇上 1981.5,30発行 国書刊行会
『樺太市街地図・商工人名総覧』編、国書刊行会 1981.7.31発行 国書刊行会
『白衣を紅に染めて』編、創価学会婦人平和委員会 《シリーズ》平和への願いをこめてA従軍看護婦編 1981.12.8初版第1刷 第三文明社
『ほづつのあとに 従軍看護婦記録写真集』編、「アンリー・デュナン」教育研究所 1981.12.15第1版第1刷 1982.1.20第2刷 メヂカルフレンド社〔『ほづつのあとに』〕
『従軍回想の記』編集責任者、油利花枝 1982.5.20日発行 発行、元陸海軍従軍看護婦の会
『昔日の満州』編著、飯坂太郎 1982.6.30第1刷 1983.8.25第3刷発行 国書刊行会
『1982 長春・吉林』写真、渡部まなぶ 文、北小路健 1982.11.3発行 国書刊行会
『新京の地図 長春回想記』栗原仲道 1982.11.10発行 経済往来社〔『新京の地図』〕
『精選 中国地名事典』編訳、塩英哲 編集、鵜野恰平 1983.3.24初版 凌雲出版 ISBN4-947526-11-4 C3525
『きのこ雲 ―日赤従軍看護婦の手記―』雪永政枝 1984.8.1 1版1刷 オール出版 ISBN4-279-42006-8 C0023
『ドキュメント 自決と玉砕 戦争下の日本人』編、安田武・福島鑄郎、編 1984.8.15第1刷発行 双柿舎 ISBN4-88029-026-2 C0036 ※『ドキュメント 自決と玉砕』の新装版。
『されど、わが「満洲」』編、文藝春秋 1984.3.1第1刷 1987.7.20第6刷 文藝春秋
『弔魂記 青森の日赤看護婦の手記』三浦賢子 1984.4.10初版 1984.5.23 2版発行 伊吉書院
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『満州に残留を命ず』太田正 1984.7.30第1刷発行 草思社 ISBN4-7942-0195-8 C0036
『私の昭和史W』編集、岩手放送株式会社 1984.12.31発行 熊谷印刷出版部
『戦いの白衣は遠く 日本赤十字社救護看護婦の従軍記』 のぐちたい 1985.6.15新装初版発行 発行、戦誌刊行会 発売、星雲社 ISBN4-7952-6418-X C0093〔『戦いの白衣は遠く』 〕
『満州脱出』 武田英克 中公新書769 1985.6.25発行 中央公論社 ISBN4-12-100769-7
『日本赤十字従軍看護婦 戦場に捧げた青春』 1985.8.15発行 発行、元日赤従軍看護婦の会〔『戦場に捧げた青春』 〕
『続チャーズ 失われた時を求めて』遠藤誉 1985.9.13第1刷 読売新聞社 ISBN4-643-74140-6 C0095 〔『続チャーズ』〕 ※チャーズの「チャー」の漢字がJISにないためカタカナにした。
『墓標なき凍野――小学四年生が体験した満洲敗戦秘史――』里見正文 1985.11.20初版発行 六興出版〔『墓標なき凍野』〕
『白衣の天使 従軍看護婦』奈良原春作 1985.12.20発行 国書刊行会
『私の昭和史X』編集、岩手放送株式会社 1985.12.31発行 熊谷印刷出版部
『流氓 満州棄民のうた』舛山六太 1988.12.10発行 アドア出版 ISBN4-900511-51-X〔『流氓』〕
『大連・空白の六百日』富永孝子 1986.7.30初版第1刷発行 1988.12.25初版第10刷発行 新評論 ISBN4-7948-3008-4 C0095
『満州中央銀行始末記』武田英克 1986.8.4第1版第1刷発行 PHP研究所 ISBN4-569-21809-1
『清水市史』第3巻 編集、清水市史編さん委員会 1986.8.22発行 吉川弘文館 ISBN4-642-01529-9
『和歌山赤十字病院八十年史』編、和歌山赤十字病院八十年史編さん委員会 1986.10.1 和歌山赤十字病院
『群馬県の地名』編、平凡社地方資料センター 日本歴史地名体系第10巻 1987.2.24初版第1刷 平凡社 ISBN4-582-49010-7
『昭和史年表』監修・責任編集、林健太郎 執筆、田中理 実録昭和史 激動の軌跡7 1987.9.30初版発行 ぎょうせい ISBN4-324-00675-X
『陸軍オール部隊名鑑』1988.6.15第1刷発行 芙蓉書房出版
『写真集 旧満洲』企画・取材・制作・印刷、合資会社池宮商会 1988.6.30初版発行 合資会社池宮商会 ISBN4-87180-012-1 C0072
『角川地名大辞典 10 群馬県』 編、「角川地名大辞典」編纂委員会 1988.7.8発行 角川書店 ISBN4-04-001100-7 C0520
『満州棄民――孤児たちの"戦後"いまだ終らず』三留理男 日本への遠い道・第二部 1988.8.5第1刷発行 東京書籍 ISBN4-487-75211-6 〔『満州棄民』〕
『日本赤十字従軍看護婦 戦場に捧げた青春 第二巻』 1988.8.15発行 編集・発行、元日赤従軍看護婦の会〔『戦場に捧げた青春 第二巻』〕
『NHK戦争を知っていますかA〜語り継ぐ女性たちの体験』編、NHKおはようジャーナル制作班 1988.8.20第1刷発行 ISBN4-14-008661-0 C0321 〔『NHK戦争を知っていますかA』〕
『満州国の首都計画 東京の現在と未来を問う』越沢明 1988.12.20第1刷 日本経済評論社 ISBN4-8188-0259-X〔『満州国の首都計画』〕
『さらば大連』小松茂朗 1988.10.20初版発行 図書出版社
『わが子に伝えたい昭和の体験記録』下 編集・発行、相賀徹夫 1989.3.20初版第1刷発行 小学館 ISBN4-09-387044-6
『女たちの遥かなる戦場 従軍看護婦たちの長かった昭和史』谷川美津枝 1989.4.20発行 光人社 ISBN4-7698-0433-4 C0095 〔『女たちの遥かなる戦場』〕
『シベリア俘虜生活日記 附・慟哭の抑留短歌八百六十首』七木田麻蓑臣(政男) 1989.7.7初版第1刷発行 熊谷印刷出版部〔『シベリア俘虜生活日記』〕
『「九人の乙女」はなぜ死んだか』川嶋康男 1989.8.20初版第1刷発行 恒友出版
『我が生涯史 阿呆の書綴り』岩渕新治 1990.8.1発行
『右翼辞典』掘幸雄 1991.2 三嶺書房 ISBN4-88294-017-5
『平和の礎 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦』 全15冊 編集発行、平和祈念事業特別基金 1991.3〜2005.3
『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦』 全15冊 編集発行、平和祈念事業特別基金 1991.3〜2005.3
『平和の礎 シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦』全15冊 編集発行、平和祈念事業特別基金 1991.3〜2005.3
『従軍慰安婦 「兵備機密」にされた女たちの秘史』 山田盟子 1993.2.20発行 光人社 ISBN4-7698-0646-9 C0095〔『従軍慰安婦』 〔山田〕〕
『満州 満林の追憶』編集発行責任者、細川榮一 1993.2.25発行 西部満林会・東部満林会、発行
『キメラ―満洲国の肖像』山室信一 中公新書1138 1993.7.25発行 中央公論社 ISBN4-12-101138-4 C1231〔『キメラ』〕
『一九四五年 満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』徐焔 訳、朱建栄 1993.8.5初版発行 三五館 ISBN4-88320-016-7 C0031 〔『一九四五年 満州進軍』〕
『戦時下の日本人 自決と玉砕』編、安田武・福島鑄郎 1993.8.14 増補新版第1刷 朝文社 ISBN4-88695-098-1 C0021 〔『自決と玉砕』〕
『日本史年表』増補版 編、歴史学研究会 1993.11.18第1刷発行 岩波書店 ISBN4-00-001702-0
『暦日大鑑』編著、西澤宥綜 1994.2.20第1版発行 新人物往来社 ISBN4-404-02083-X C0001
『悲しみの島サハリン――戦後責任の背景』角田房子 1994.3.15発行 新潮社 ISBN4-10-325808-X C0095 〔『悲しみの島サハリン』〕
『黄塵 新京白菊小学校第九期卒業五十周年記念文集』編集・出版、新京白菊小学校第九期卒業五十周年記念文集刊行会 1994.3〔『黄塵』〕
『最新中国地名事典』監修、張治国 1994.5.25第1刷発行 日外アソシエーツ ISBN4-8169-1231-2
『内なるシベリア抑留体験』多田茂治 1994.5.30初版第1刷発行 社会思想社 ISBN4-390-60374-4
『満州国に生まれて――美千子(メイチェンズ)一歳の終戦――』植村美千子 1994.7.3第1刷発行 勁草書房 ISBN4-326-85129-5 〔『満州国に生まれて』〕
『原典中国現代史第8巻 日中関係』編、安藤正士・小竹一彰 1994.12.20第1刷発行 岩波書店 ISBN4-00-003808-7〔『原典中国現代史第8巻』〕
『時痕(じこん)』林利雄 1995.3.10第1刷 近代文藝社 ISBN4-7733-3696-X C0095
『孤島の土となるとも――BC級戦犯裁判』岩川隆 1995.6.25第1刷発行 講談社 ISBN4-06-207491-5(学二)
『一九四五年夏 最後の日ソ戦』中山隆志 1995.7.31発行 国書刊行会 ISBN4-336-03752-3
『幕末以降市町村名変遷系統図総覧@』監修、西川治 編著、太田孝 1995.8.10発行 発行、東洋書院 発売、原書房 ISBN4-88721-083-3
『少女達の引揚記 佳木斯 追想』編著、渡辺芙美子 1995.8.15発行 フォーユー出版 〔『佳木斯 追想』〕
『仕組まれた"南京大虐殺" 攻略作戦の全貌とマスコミ報道の恐さ』大井満 1995.12.12第1刷発行 展転社 ISBN4-88656-115-2 C0021 〔『仕組まれた"南京大虐殺"』〕
『ルソン哭泣 従軍看護婦の手記』著者・発行者、加藤静江 1996.3.10発行〔『ルソン哭泣』〕
『満洲、チャーズの悲劇 飢餓地獄を生き延びた家族の記録』浜朝子・福渡千代 1996.3.30第1刷発行 明石書店 ISBN4-7503-0789-0 〔『満洲、チャーズの悲劇』〕
『沈黙のファイル』共同通信社社会部、田中章・魚住昭・保坂渉・光益みゆき 1996.4.9第1刷発行 1996.4.15第2刷発行 共同通信社 ISBN4-7641-0359-1 C0036
『「満洲国」社会事業史』沈潔(シンケツ) MINERVA社会福祉叢書2 1996.5.30第1版第1刷 ミネルヴァ書房 ISBN4-623-02633-7
『満州女塾(じょじゅく)』杉山春 1996.5.30発行 新潮社 ISBN4-10-412101-0 C0095
『図説 満州帝国』太平洋戦争研究会 ふくろうの本 1996.7.25初版発行 2002.7.20 10刷発行 河出書房新社 ISBN4-309-72556-2
『原典中国現代史別巻 中国研究ハンドブック』編、岡部達味・安藤正土 1996.7.29第1刷発行 岩波書店 ISBN4-00-003809-5〔『原典中国現代史別巻』〕
『住田町戦後五十周年記念誌 住田の戦中戦後』編、住田町戦後五十周年記念誌編集委員会 1996.8発刊 岩手県住田町〔『住田の戦中戦後』〕
『チャーズの検証』遠藤誉 1997.1.20第1刷発行 明石書店 ISBN4-7503-0878-l※チャーズの「チャー」の漢字がJISにないためカタカナにした。
『母と子でみる32 アジアの戦争被害たち 証言・日本の侵略』写真・文、伊藤孝司 1997.4.2初版 草の根出版会 ISBN4-87648-117-2 C0372〔『証言・日本の侵略』〕
『「自虐史観」の病理』藤岡信勝 1997.9.1第1刷 文藝春秋 ISBN4-16-353220-X
『昭和・平成家庭史年表』編、下川耿史 1997.12.15発行 河出書房新社 ISBN4-309-22304-4
『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか』新井佐和子 1998.1.5第1刷発行 草思社 ISBN4-7942-0798-0
『日本人捕虜 〜白村江からシベリア抑留まで〜』下 秦郁彦 1998.3.30第1刷発行 原書房 ISBN4-562-03072-0 〔『日本人捕虜』下〕
『従軍看護婦の見た病院船・ヒロシマ ――ある養護教諭の原体験――』 守屋ミサ 人間選書219 1998.7.31第1刷発行 農山漁村文化協会 ISBN4-540-98030-0〔『従軍看護婦の見た病院船・ヒロシマ』 〕
『満州の星くずと散った子供たちの遺書 新京敷島地区難民収容所の孤児たち』増田昭一 1998.8.15初版発行 2000.9.15 2刷発行 夢工房 ISBN4-946513-46-9 C0095 〔『満州の星くずと散った子供たちの遺書』〕
『満洲鉄道まぼろし旅行』川村湊 1998.9.7第1刷 発行、ネスコ(日本映像出版株式会社) 発売、文藝春秋 ISBN4-89036-980-5
『20世紀暦――曜日・干支・九星・旧暦・六曜』編、日外アソシエーツ編集部 1998.11.26第1刷発行 日外アソシエーツ ISBN4-8169-1514-1 C0521〔『20世紀暦』〕
『孫たちへの伝言 シベリアを生きる』若宮由松 1998.12.1初版 1999.1.20第二版 新風書房 ISBN4-88269-411-5 C0023〔『シベリアを生きる』〕
『みやぎの女性史』編著、宮城県・みやぎの女性史研究会 1999.3.31第1刷発行 河北新報社 ISBN4-87341-128-9
『ソ連が満洲に侵攻した夏』半藤一利 1999.7.30第1刷 文藝春秋 ISBN4-16-355510-2
『孫たちへの証言 第12集 今、書き残しておきたいこと』編、福山琢麿 1999.8.1初版 新風書房 ISBN4-88269-424-7〔『孫たちへの証言 第12集』 〕
『侵略の証言』編、新井利男・藤原彰 1999.8.10第1刷発行 岩波書店 ISBN4-00-023339-4
『或る日本主義者の半生』山平重樹 1999.10.10初版発行 発行、ネイション21 発売、廣済堂出版
『アカシアの大地 遥か』安田義子 2000.6.1初版第1刷発行 文芸社 ISBN4-8355-0340-6 C0095
『七三一部隊がやってきた村――平房の社会史』関成和 編訳、松村高夫・江田いづみ・江田憲治 2000.7.7 こうち書房 ISBN4-87647-491-5 C3022〔『七三一部隊がやってきた村』〕
『「満洲国」から新中国へ 鞍山鉄鋼業からみた中国東北の再編過程 1940〜1954』松本俊郎 2000.7.10初版第1刷発行 2001.11.10初版第2刷発行 名古屋大学出版会 ISBN4-8158-0384-6〔『「満洲国」から新中国へ』〕
『極限の満州に生きる――15歳の敗戦避難』原清實 2001.2.15初版第1刷発行 文芸社 ISBN4-8355-1418-1 C0095 〔『極限の満州に生きる』〕
『東史郎日記』東史郎 2001.6.20初版 熊本出版文化会館 ISBN4-915252-56-6 C0020
『自決 こころの法廷』澤地久枝 2001.7.30第1刷発行 日本放送出版協会 ISBN4-14-080619-2 C0095
『大東亜戦争と被占領時代』編、「昭和の戦争記念館」刊行会 世界に開かれた 昭和の戦争記念館 第2巻 2001.10.5第1刷 展転社 ISBN4-88656-202-7 C0020
『近代日本総合年表』第4版 編、岩波書店編集部 1968.11.25第1版第1刷 1984.5.25第2版第1刷 1991.2.25第3版第1刷 2001.11.26第4版第1刷発行 岩波書店 ISBN4-00-022512-X
『七三一 追撃・そのとき幹部達は…』吉永春子 2001.12.15第1刷発行 筑摩書房 ISBN4-480-85767-2 C0021
『すべての戦歿者に捧げる』編、「昭和の戦争記念館」刊行会 世界に開かれた 昭和の戦争記念館 第5巻 2002.5.15第1刷発行 展転社 ISBN4-88656-213-2 C0020
『世界戦争犯罪事典』編、秦郁彦・佐瀬昌盛・常石敬一 2002.8.10第1刷 文藝春秋 ISBN4-16-358560-5
『写真と実録で綴る 戦争という地獄』越智宏倫 2002.8.20第1刷発行 青萌堂 ISBN4-921192-13-8 C0036 〔『戦争という地獄』〕
『「満州」再訪・再考 「平頂山虐殺」と「731部隊」への道』 重田敞弘 母と子でみる A24 2003.3.2初版 草の根出版会 ISBN4-87648-183-0 C0372〔『「満州」再訪・再考』 〕
『謀略・日本赤十字 北朝鮮「帰国事業」の深層』張明秀 2003.4.28第1刷発行 五月書房 ISBN4-7727-0389-6 C0036
『日本陸海軍事典 コンパクト版』上 編、原剛・安岡昭男 2003.9.30第1刷発行 新人物往来社 ISBN4-404-03110-6 C0021
『幻の三中井百貨店 ――朝鮮を席巻した近江商人・百貨店主の興亡』林廣茂 2004.2.25第1版第1刷 晩聲社 ISBN4-89188-314-6 C0036 〔『幻の三中井百貨店』〕
『平成16年版 防衛ハンドブック』朝雲新聞社編集局 2004.3.31発行 朝雲新聞社 ISBN4-7509-2025-8
『軍国の女たち』編、早川紀代 戦争・暴力と女性2 2005.1.1第1刷発行 吉川弘文館 ISBN 4-642-06272-6 C1321
『戦後強制抑留史 第五巻』編、戦後強制抑留史編纂委員会 2005.3発行 平和事業特別基金
『戦後強制抑留史 第七巻 資料編』編、戦後強制抑留史編纂委員会 2005.3発行 平和事業特別基金
『年表 太平洋戦争全史』編者、日置英剛 2005.10.31初版発行 国書刊行会 ISBN4-336-04719-7
『欧米人捕虜と赤十字活動――パラヴィチーニ博士の復権』編訳者、大川四郎 2006.1.10初版第1刷発行 論創社 ISBN4-8460-0671-9〔『欧米人捕虜と赤十字活動』〕
(2) 地図
『新京市街地図』1941.4.1 発行、三重洋行 複製:1972 謙光社
(3) 新聞・雑誌
媒体は、現物・縮刷版などさまざまである。号数などについては、本文や注を参照のこと。
『朝日新聞』
『産経新聞』
『中日新聞』
『日本経済新聞』
『毎日新聞』
『サンデー毎日』
『週刊新潮』
『正論』
『婦人公論』
あとがき
『すべての戦歿者に捧げる』によると、堀喜身子は2001年1月27日に亡くなっている(吉田亀治・松岡寛も、故人である)。私は、堀喜身子が既に亡くなっていることを知らずに調査を始めた。私は、ウソの決定的な証拠を掴んで、堀喜身子に会い、それを突きつけて認めさせ、それから何故そんなウソをついたのか訊いてみよう、そうすれば全てが終わる、そう思っていたのだった。しかしインターネットの掲示板の中に「故婦長の方」という言葉を見つけてショックを受けた。世界の一部を失ったような気がした(それから、ショックだったのは、大泉町はかつての大泉村が昇格したものとばかり思っていたのに、そうではないことを知ったことだった)。
堀喜身子が新京にいなかったことは当然として、私には、彼女が満州にいたことも事実とは思えない。満州について書かれた内容は不正確で、よく知っていることまで不正確に書く必要はない筈だからである。おそらく彼女はノモンハン戦などの記事を読み、そして誰かから満州の話を聞いただけなのではなかろうか。それが、桜ヶ丘総合病院によると、満州からの引揚げ者であることになっているのだから、偽りの手記を発表することを計画して、桜ヶ丘病院に勤務し始めたようにも思える。
誰もが抱く当然の疑問は、何故彼女はあんなウソをついたのかということである。私には考えるところもあるが、当の本人が死んだ今となってはどこまで真相が判明するのかも分からない。ここでは、そのことには触れないでおく。
堀喜身子にはまだ謎が多い訳だが、私には調査の限界があるし、そんなことを知って何になるのかも分からない。分からないことは知りたいとは思うが、もうこれで終わりにしたい気持もある。
ここで、私がこの調査中に抱いた複雑な思いを述べようとは思わない。堀喜身子に非難が集中しているように見えるだろうが、非難している訳ではない。堀喜身子にしろ松岡寛にしろ、(あのウソによろうがよるまいが)その生涯を幸福だったと思って死んだのならそれでよいので、そのように願うだけである。ただ、私は『毎日新聞』や『産経新聞』のような全国紙が事実と報じている以上ほおってはおけないと思った。堀喜身子のウソを葬り去ること、私の願うことはただそれだけである。青葉慈蔵尊は一人の女性のウソによって生まれた哀れな地蔵だが、満州で従軍された看護婦などが過酷な目に遭われたことは事実であるから、そういうことを慰め、また記念するものとして青葉慈蔵尊が残ってもいいのではないかと考える。だが、そんなことは私の関知することではない。ただ、あの顕彰碑だけは困る。それは、撤去して破壊して貰いたい。それは、事実ではないからである。
色々な本を読んだが、ガッカリさせられることも多かった。『世紀の自決』や『日本赤十字社社史稿』は、この調査で初めて読んだ。戦後、軍人・軍属の多くの自殺があったが、それを纏めた本としては『世紀の自決』は唯一といってよい本だろうし、戦時中の日赤救護看護婦の活動を知るための公的資料としては『社史稿』がほとんど唯一のようなものだろう。私たちは、それらを残してくれた額田坦(ぬかだひろし)などに感謝しなくてはならない。しかし、これらの本には大きな問題がある。
『世紀の自決』では自殺者の氏名は、「留魂」と名付けられたリストにまとめられている。その中には、「玉音放送」の後に「私的特攻」に飛び立った宇垣纏(うがきまとめ)〔第5航空艦隊司令長官、海軍中将〕も入っている。九州大分基地から11機の彗星が飛び立ち、4機は途中で故障のため引き返したり不時着したりしたが、7機は沖縄へ進路を取ったという、その後どうなったかは不明である。ところが、「留魂」リストには、宇垣纏のほかこの「私的特攻」に加わった者が一人も掲載されていない(宇垣纏と同じ日付と場所で自殺したという者はいない)。どうしてなのか? このようなことはほかにもある。あるいは、「留魂」リストは事件毎に纏めたリストなのかとも思ったが、必ずしもそうなっていない。結局、リストの採録基準が何も述べられておらず、それが問題なのである。
私が奇怪に思うのは、額田坦は「留魂」リストに問題があることをよく知っていたということである。終戦時の自殺者のことを調べていた彼がそのことを知らなかった筈はない。それに、『世紀の自決』改訂版の「留魂」リストの補遺には、堀喜身子の集団自殺事件が加えられているが、井上鶴美以下22名に対し、ただ1「柱」を加えるという異例の形になっている。何故一人当たり22分の1「柱」なのか? 額田坦は、この22人の自殺に対して、22「柱」を加えたのでは、それまでのスタイルを崩すことになることを知っていて、そうしなかったのに違いないのである。額田坦は「留魂」リストには問題があることをよく知っていながら、そのことを何一つ書き留めなかったのである。
『日本赤十字社社史稿』第5巻の戦時中の死亡者のリストが不正確なことは、その後リストが何度か出されたようだから、知っている人は知っているだろう。そのほかにも多くの問題がある。例を挙げる。日赤が日中戦争初期から終戦までに派遣した人の数は、支部毎の数字が表の形でまとめられ(一ヶ所間違いがある。また支部に残されたデータと一致してもいないようである)、看護婦その他の派遣人員の合計は33,156(or 33,158)人である(当然、延人数)。ところが、全救護班960(or 961)について、班毎に編成日や編成人員を記したリストがあり、この編成人員を合計すると 22,163人で、先の数字と1万人という大きな差がある。そして、これについての説明が全くない(派遣中に死亡または病気・けがで「内地」に帰った者の補充と交代要員の派遣による差かと思われる。しかし、そんなにそれが多いとも思われず、大きな問題があるというべきである。私には、このことを調べる余裕はない。この『社史稿』の数字は、多くの本に転載されているが、それがどれだけ正しいのかについて述べた本は、私の知る限り、ない。別の資料によると、「 1937年7月に日華事変が勃発するや、日赤は医療救護班を派遣して、傷病兵および負傷兵への治療を本社病棟および各県日赤病院にて実施した。太平洋戦争中に日赤が上述のような医療斑を派遣した範囲は、本州・台湾・朝鮮・満州・中国・南方・各方面の陸海軍部隊内の衛生科のみならず、病院船にまでおよんだ。(略)/ 日赤本社および支部から派遣された上述医療班の数は1,132班におよんだ。このうち、37,090名は医師、看護婦、薬剤師、その他、である。」〈『1938年から1947年にかけての日本赤十字社事業報告書』編、日本赤十字社 1948年〔英文、日赤の内部文書で現在所在不明〕〉〈『欧米人捕虜と赤十字活動』p.170〉)。
『社史稿』の派遣救護班のリストには、解散年月日のところが「継続中」となっているものが非常に多い。明らかに戦争と終戦の混乱のためである。日本国内に派遣された班でも継続中となっているものが多いが、「内地」の場合、軍病院に引き続いて国立病院に勤務した〈『日本赤十字社社史稿』第5巻 p.203〉とあり、戦後、陸軍病院は厚生省に移管され、国立病院になった〈「陸軍病院」の項『日本陸海軍事典 コンパクト版』上 p.37〉(なかにはアメリカ軍に接収されたものもある〈『平和の礎 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦15』p.523〉)というから、引き続き同じ病院に勤務したということなのであろう。しかし、国外に派遣された班の「継続中」はまったくおかしい。東安第一陸軍病院の第453救護班も「継続中」になっているのだが、この救護班は、中国で暮らすことにした1人を除いて、1958年までに生存者は全員帰国している〈「帰国一覧表」『遥かなる東安・敗走三千里』p.108〉。このような班はほかにもあるようで、実際生きているほとんどの派遣員がこの頃までに帰国したのに違いない。それなのに、1969年に出た『社史稿』では「継続中」なのである。戦後の混乱だけを理由にする訳にはいかないだろう。救護看護婦の公私の境界は曖昧で、死亡または病気・けがなどは、私的なものとされたという(「恥を自覚させるため、看護婦の病気は公傷でなく私傷としてあつかうようしくまれていたので、罹患したら最後、国から見離されるのだった。」〈「大陸の土を踏む」鈴木妙子『白の墓碑銘』p.206〉)から、彼女らが死のうが生きようが、それは私的な問題で、日赤はそんなことには関心を持たなかったものらしい。
諸戸〔のち加藤〕静江は、1942年1月16日に召集され、日赤第343救護班としてフィリピンに派遣されたが、のちに次のように書いている――「 昭和十七年一月、宇品港より出港して満四年十ヶ月振りに懐しい祖国の土を踏んだ。(略)この間、日赤は召集しただけで、捕虜になっても、一度も連絡してこなかった。万国赤十字加盟は名ばかしだけで、召集した以上、解散もあるはずが、そのままとなった。」〈『ルソン哭泣』pp.105-106〉(日赤看護婦の手記などで日赤に対して批判めいたことを書いている人はごく少数である。こうした批判に対する反論としては、例えば戦前『病院船』を書いた大嶽康子が書いているものがある(「「病院船」のころ」大嶽康子『ほづつのあとに 殉職従軍赤十字看護婦追悼記』)。かつての救護看護婦の平均的な意見は戦争はもうこりごりというところだろう)。
「善」とか「義」という言葉は快いものだが、よい行為であるかどうかは、実際的な意味でどんなことが行われたかで判断されなくてはならない。赤十字の「人道」もこれと同じである。その活動の母体であった看護婦を放って置いて何が「人道」だろうか。『日赤百年』という豪華本をみても分かるが、「人道」は日赤の装飾になっている。島津忠承〔日本赤十字社名誉社長〕の書いたものによると、「昭和三十二年十一月十五日、日本赤十字社創立八十周年記念赤十字大会が盛大に行われ、その式典に先立って殉職救護員の慰霊祭が行なわれたが、その時点で終戦前に発病し療養中後に病没された救護員を加えて千百一名の殉職者を数えたのである。さらに昭和三十八年(一九六三)五月一日、国際赤十字創立百周年にあたり詳細に調査の結果、新たに四十二名の殉職者が確認され、これによって日華事変からの戦死、戦病死された救護員は合せて千百四十三名に達したのである。」〈「追悼の記」島津忠承『ほづつのあとに 殉職従軍赤十字看護婦追悼記』p.5〉というから、日赤にとって死亡者の調査も記念式典のオマケのようなものだったようである。勿論、日赤の全てがそうだと言うのではないが、戦後の日赤の北朝鮮帰国事業も実は民族浄化という遺伝子主義が濃厚なものであったことを指摘している本もある(『謀略・日本赤十字 北朝鮮「帰国事業」の深層』)。こうしたことは戦後の民主主義の見地から言っているのだが、日赤の「人道」なるものを完全に信じてはいけないということである。
日赤看護婦がこんな具合だから、陸軍・海軍の志願看護婦では尚更で、その実態はいまだによく分からないらしい。日赤の救護看護婦を含めて、従軍看護婦の総数は約50,000人と推測される〈『軍国の女たち』p.70〉というから、日赤看護婦の数字が延人数であることからすれば、日赤看護婦とほぼ同数の志願看護婦がいたということになるのではなかろうか。少数の手記を読んだ印象では、日赤のようなブランドのない志願看護婦は、軍と共に行動することがより多く、それだけ被害も大きかったように思われる。
いずれにせよ従軍看護婦というのは戦争のための道具であり、戦争が終われば、彼女らは(ソ連と中国などの外国からは勿論のこと)日赤からも日本政府からも見捨てられたのである(多くの日本国民がある程度そうであったが)。
『世紀の自決』や『社史稿』の問題点に触れている本はほとんどないようである。
澤地久枝は『自決 こころの法廷』で、叔父の属した工兵部隊は、二つにわかれて部隊長以下三十数人が黄色火薬で自殺したが、一人も『世紀の自決』には載せられていないとして、『世紀の自決』には大きな漏れがあることを指摘している〈『自決 こころの法廷』p.218〉。
しかし、大抵の人たちは『世紀の自決』や『社史稿』に書かれたことをそのまま引き写すだけで、自分でほんの僅かな検討さえ加えようとはしていない。落胆せざるを得ない。私は額田坦などの不誠実さが残念なのである。けれども、世の中の本というものが、どれだけ誠実であるのか。私にはよく分からないが、不誠実さに満ちていると言ってもよいようなのである。
些細なことだが、ほかに言う人もないだろうから書いておく。遠藤誉の『チャーズ』を読むと、遠藤誉は「チャーズ」がどういう漢字表記なのかさえ調べるのに苦労していて、(一般書の形で)「チャーズ」を紹介したのは日本で彼女が最初であるという印象を受けるし、実際、『満洲、チャーズの悲劇』にはそのように書かれてもいる。しかし、厳密に言うとそうではない。既に、1954年7月に望月百合子編で出版された『新らしい神様の國』(この童話のようなタイトルは中共を皮肉ったもの)には、チャーズから生き還った人の手記も何編か収められていて、日本人にはなじみのない「上」と「下」を一緒にしたような「チャー」の字もその読み方も示されているのである。しかし、望月百合子(山梨県鰍沢町に記念館がある)の本は私の住んでいる県の公立図書館には一冊もなく、私は隣県の県立図書館で二冊あったうちの一冊として、この本を見つけたので、この本が全然売れなかったことはまず確実である。それに、この本の手記そのほかの手記をみても、10〜20万、あるいは30万人が餓死したといわれる長春包囲戦あるいはチャーズ〔包囲した中共軍との間にあった真空地帯〕について、今一つ表現しきれていなくて、それを表現したのは遠藤誉ただ一人と言ってよいようである。その意味からしても、遠藤誉がチャーズの最初の紹介者といっても間違いではない(エラそうに…)。
文句を並べたが、こんなことを書けば、お前はどうなのだと言われてしまいそうである。私は歴史について素人であるし、自分の知識が限られたものであることもよく分っている。ただ、自分の知らないことは知らないとし、そのことを隠そうとは思わない。私は、根拠となる資料を示したつもりだし、それ以外のことは知らないと思っていただいてもよい(それで、私が根拠を示したものを調べもしない反論には何も答えないことにする)。
歴史のウソということでは、『週刊新潮』2004年8月26日号に日高恒太郎〔ノンフィクション作家〕が「「特攻体験」を騙った男たち」という記事を書いていてタイムリーに思われた。有名人では鶴田浩二や大山倍達などが特攻隊の生き残りだとウソをついたことなどが述べられている。この人の『不時着』という本には、宇垣纏の「私的特攻」に加わった人の話などがある(それで、ほかに「私的特攻」に加わった人の名も分った)。日高恒太郎は誠実な人だと感じたが、私には感じたとしか言えない。歴史のウソについてはまだ言いたいこともあるが、長くなるから止めよう。
私たちの社会にはデタラメや虚偽が溢れている。昨年(2005年)から今年にかけての、耐震擬装事件、ライブドア事件、東横インの問題、永田〔議員〕のメール問題などをみても、そのことは明らかである。それに比べれば、堀喜身子のウソなどどうってこともない話で、右翼団体が青葉慈蔵尊を見学コースに選ぼうが選ぶまいが、どうでもよいことである。ただ、ここから教訓とすべきことは、(災害や事故の記録などをみても分かるが)私たちの「世界」にある全てのことが確実ではなく、といって全てを疑う訳にもいかないので、そこで、全てのことがらに対して 90% までは信じてよいが、10% の疑う余地は常に残しておくべきであるということである。私はそのように考える。そして、私自身は、その10%をできるだけ少なくしたいものだと思っている。
インターネットを見ると「由来記」を読んで泣いたという人が結構多い。彼らはダマされて泣いた訳で、私がそれをからかっているように思ったかもしれない。私は泣かなかった。ただ、私も『「九人の乙女」はなぜ死んだか』を読んだ時は、涙が滲んだ。私は実際涙をよく流す。しかし、涙が出るからといって、それを信じてはいない。感情のようなものは対象の正確な認識について「弱い」ので、それもまた 100% 信じてはいけない、と私は思う。
既に書いたが、多くの謎がそのままになっている。
『新京市街地図』には軍関係の施設の多くが削除されていて、どんなものがどこにあったのかが分からない。施設の名前は手記などにしばしば出てくるが、場所が分からない。第一と第二の陸軍病院はどこにあったのかなどが分からない。また、新京の三中井百貨店には地下フロアがあったのか、知っている人には当り前のそんなことすら分からない。ご存知の方は教えていただきたく思う。
それから、残念だったことの一つが、堀喜身子が本当に樺太の豊原高等女学校を卒業したのか確かめられなかったことで、もし豊原高等女学校の同窓会名簿をお持ちの方がいれば、私にそれを見せてくれるか、堀喜身子(酒谷/古内、喜美子など)が本当に卒業生であるのかを調べて教えていただきたく思う。元満州国赤十字社従軍看護婦の会の会員であったのかも知りたく思う。
おそらく、参考文献を見れば大体私がどの辺に住んでいるかの見当がつくことだろう。私は、堀喜身子のウソを確信してからも、できるだけ地元の人の残した満州や新京に関する手記などを読んできたが、この確信が揺らいだことはなかった。だから、興味のある人は、それぞれの地方の人の残した手記を読んで、それが堀喜身子のウソと如何に違うものかを確かめていただきたいと思う。
満州などについて書かれた本は数多い。私は機会がある毎に随時、新たに読んだ本などによってこのページの内容を改めるつもりである。
謝辞
さまざまな方に協力いただいた。ほとんどの場合、私は堀喜身子の話がウソだと知っていることを隠した。積極的にそのような表現を取らなかったにしても、私が堀喜身子のウソを信じそれを後世に残す意図で調査しているように受け取られるようにはしていた。中には、そのことで私を激励して下さる方もあった。私は、そのことに罪悪感を覚える。そうしたのは、調査目的を説明するのが面倒だからでもあったが、事情を知っているのは、堀喜身子のウソを信じている(あるいはそのフリをしている)人だけなのだから、余計なイザコザを避けたかったからである。そのようにしてよかったと今でも思っているが、結果的にはダマしたので、そのことをここでお詫び申上げる次第である。
次の方々に感謝申し上げる(あいうえお順、敬称略)。ここまで纏めることができたのは、これらの方々のお陰である。
青葉園、春日井梅鶯、桜ヶ丘総合病院、自衛隊中央病院、静岡県、名越二荒之助、渡辺芙美子。
堀喜身子のご子息の方にお詫びとともに感謝申し上げるが、氏名などは記さないことにする。
山口県周南市の次のお寺に、同様にお詫びとともに感謝申し上げる(順不同)。西方寺住職にはお寺のリストなどをいただき、特段に感謝申し上げる。
岩屋寺、栄照寺、海印寺、東印寺、観音寺、吉祥院、教念寺、教法寺、光西寺、光満寺、金剛寺、西照寺、最勝寺、西方寺、三光寺、自得寺、慈福寺、正覚寺、松巌寺、浄光寺、常照院、性梅院、真光寺、神力寺、瑞龍寺、専浄寺、善徳寺、大成寺、大楽寺、徳応寺、徳巌寺、八正寺、福田寺・普春寺、保安寺、宝性寺、保福寺、本正寺、萬福寺、妙栄寺、明教寺、明玄寺、無量寺、龍豊寺、龍文寺、楞厳寺、蓮華寺、蓮生寺、弥勒寺、松兼寺、興元寺、原江寺、大亭寺。
March 20, 2006
Last update : May 10, 2007
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