
偽りの青葉慈蔵尊補足 |
「偽りの青葉慈蔵尊」を公開してからのこと、そのほかの補足、そして、これからは、本文などに加えられるべき修正もここで示すことにしようと思う。
2007.5.19
実際のところ、付け加えるべきものはそう多くない。
ほとんど全ての調査が終わった段階で、名越二荒之助(なごしふたらのすけ)先生に会っておこうと思った。一緒に掘喜身子のご子息の方にもお会いして、いいかげんに一つのケリを付けるつもりだったが、都合が悪いとのことだった。名越二荒之助先生(以下、敬称略)には、幸い、お会いしていただけた。
会って、新京の第一と第二の陸軍病院の位置が分からないので教えていただけないかとお願いした。略歴を見ると名越二荒之助は、新京の経理学校で学んでいて、そこで終戦を迎えたとあったから。彼は、ちょっと困った顔をして、分からないと言った。そうだろうとも私は思った。
自分が生まれてものごころつく前の過去というものは、黒いベールの彼方にある。そのベールの彼方にいて実際に生きて体験したという人でも、過去についての知識は限られたものであることは、おいおい分かって来た。参謀本部や軍令部は、軍の中枢だったが、そこにいたという人でも、戦争について本を書く場合、多くの資料・本を参照している(自分の記憶だけで書くのも面白かったと思うが)。自身の知識は限られたものだし、記憶が頼りにならないからである。ことに軍隊では、軍人は上官の命令に従いさえすればそれでよいので(イラクのアメリカ軍についての報道を見ると、当然だが、これは今でも同じ)、かなり知識が限定されているのらしい。
しばらく話してから肝腎の掘喜身子の手記のことに触れて、口に出しにくい気がしたが、とにかく、掘喜身子の手記はウソですね、と言った。名越二荒之助は、すると、「そうかもしれんな」と言った。驚き、あきれるとともに多少の怒りが浮かんだのは言うまでもない。
「堀喜身子の手記のどこがウソなのか」の文章を渡したが、その時は、メガネを持って来ていないというので目を通してはいただけなかった。
何故、掘喜身子があんなウソをついたのか、そのご子息の方に訊いてくれないだろうかとは伝えた。
それから、家に戻ってから一度電話をいただいた。よくもまあ、あんなに、というのは、あんなにしつこくということだろうか。どれだけのことを調べたのか、私はただ自分にできる限り(に近いところまで)調べてみたというだけである。それから、堀さんはウソを言うような人ではなかったというように話された。それから、確か、山田長政のことを前に調べたが確かなことは分からなかった、キリストについてもよく分かっていない、ということを話されたと思う。堀喜身子はウソを言うような人ではなかった、そんなことは分かっている。うわべの言葉や涙だけで正しいと判断できるなら苦労はない。山田長政やキリストの場合と違うのは、戦後60年ほどしかたっておらず、資料が(比較的)多く残っているということである。言い返そうとして電話は切れた。それからのことは何も知らない。
私は、堀喜身子のウソを指摘した文章を渡して、どうされるか、あとのことはおまかせすると言った。私は、先生ももうお年なのだし、学者として生きてきたのだろうから、自分の残した汚点の後始末は自分でされたらよい、そう思っただけである。彼がどのように考えるか、どうするのか、それは知らないことだし、今でも私は知らないのである。
名越二荒之助には、掘喜身子のウソとは別に人間としての興味があった。
そんなに多くの彼の本は読んでいないが、自身のシベリア抑留の体験に基づいて書かれた文章は、今でも印象に残っている。『満州国と関東軍』という本に書かれた「私の体験したシベリア民主運動 三つのパターンとその恐怖」で、力強い文章であった。
シベリア抑留とそれから抑留中の民主化運動(というより洗脳運動といった方が適切かもしれない)については、私も、しばしば目にしたが、なかなかきちんと調べる機会もなく、全体像もぼやけている。そのまとめの中で、彼は次のように述べていた。
Aそれとともに指摘せずにはおれないのは日本人の単純軽薄なる便乗癖である。戦争中はあれほど愛国心に燃え、自国への忠誠を誓っていた日本人が、一度抑留されたら、掌をかえしたように変貌してスターリンヘの忠誠を誓いだす。帰国をエサにされれば祖国を罵倒し、同胞を密告し、吊しあげという集団リンチさえも編み出した。ソ連の心ある政治部員は、吊しあげの野蛮行為に辟易し、中止を命じたほどである。私は「極反動」として集団カンパを受けながら、「日本人くらい信用できない民族はない」と痛感した。この痛感は今も変わらない。
この便乗癖は追求すべき問題だが、それは置く。
名越二荒之助は、お前の立場は一体何なんだとよく言われたというが、私には、彼は伝統主義の傾向が強い右の人間としか思えない。その彼が日本人くらい信用のできない国民はいないと言うのだから、一体、彼は(日本の)何を信じて生きて来たのだろう。それが私の関心の中心だった。
彼は、一番尊敬している(多分そういう言葉だったと思う)のはスターリンだと言った。これにも驚かされた。シベリア抑留を命令したのはスターリンじゃないですかと返した。すると、スターリンから多くを学んだからという。反面教師というところだろうか。
私は今でも彼に興味を持っているけれども、興味深い人物は多くいることだし、興味を持っているだけで終わっているのである。
右の人たちは、あまりほかの人が書かない歴史事実も書いてくれるので助かることもある。けれども、右の人間は、日本の現状は世界中のどこにもないものだ、改めねばならないなどという。それなら、殺人というものは、ずっと絶えることがなく、どこの国にもあるのだから、それを「よい」ことだと認めなくてはならないのではないか。こんなことを言えば、それは屁理屈だなどと返されるのかもしれない。しかし、私は屁は問題にしていない。ほかでやっているのだから、そうするのだというが、それだけの理由ではあるまい。その隠されている理由を見極めてみよ、そう言いたいのである。
何故、掘喜身子があんなウソをついたのか、というのは残された最大の謎である。関係者も多く亡くなり、その手がかりとして、私に思い当たるのは掘喜身子のご子息の方だけである。その方とは、前に、(青葉慈蔵尊のウソを調べていることは隠して)手紙を出し、しばらくしてメールをいただいた。そこには、私の手紙を両親の仏壇に供えたと書いてあった。それを読んで、青葉慈蔵尊とその元となったウソを守ることが、掘喜身子・松岡寛にとって、そんなにも大事なことだったのだろうか、と思った。そして幾らか心が揺らいだ。一体、こんなことを調べて何になるのか、こんなことを公表して何になるのか、そういう思いは常につきまとっていた。『世紀の自決』を読んで、そこに掘喜身子のウソが入っているのを許しがたいと思ったり、『毎日新聞』や『産経新聞』のような全国紙がぬけぬけと報道しているのを許しがたいと思ったりした。メールを読んで、掘喜身子の手記にはあまりにも間違いが多い、誰かが調べようと思えば簡単に分かることだ、誰もそうしようとはしなかっただけで、いずれバレることだと言い聞かせた。結局、このことでは、かなりの時日を費やし、私としては、どんな形であれ、公表せずにはいられなかったのかもしれない。それが、よいことだったのか、そうではなかったのか、そういう疑問が付きまとうのも仕方がないことである。
少なくとも掘喜身子のご子息の方は、掘喜身子がウソを捏造し、掘喜身子・松岡寛の二人でウソの上塗りをしたことは知っているのだろうと思った。ただ、掘喜身子が手記を発表した当時は、まだ幼く、どこまで真相を知っているかは覚束ないことである。
自分にできる限りのことは調べる方針でいたから、どういう形であれ、ともかく訊ねるつもりではあったが、ぐずぐずしているうちに、半年たち、一年がたってしまえば、今さらという感じになっている。
そんなことを知って何になるのかということも逡巡させた理由で、広く一般に流布しているウソを葬れば、それで私には十分でもある。
渡井昇氏には二度手紙を出した。最初は青葉慈蔵尊のウソを調べていることを隠して、次には明かして。手紙は戻って来なかったから、渡井昇は、それを読んだだろうと思う。しかし、返事はもらえなかったから、それ以上、言うこともない。
こんな風に調査は終わった。この調査中に少々気味悪いこともあったりしたが、それは書いても仕方がないことだから、書かないでおく。
調査もほとんど終わった段階で、公表すれば、青葉園から営業妨害で、掘喜身子のご子息の方から名誉毀損で訴えられることもあるかな、と多少の心配をした。そんなことはしないだろうとすぐに見当は付いた。自分が負けると分かっている訴えは起こす訳がない。「新しい歴史教科書をつくる会」をつくった藤岡信勝が東史郎日記をウソと断じた理由と私が掘喜身子の手記をウソと断じた理由とを比べてみるがいい(あんなエセ学者とは違う)。
どうすることもできないので、彼らはただ黙殺するだけである。私には、時間をとられるのが迷惑だが、白黒つける意味では、訴えられた方がよいということもある。しかし、彼らはそうはしない。青葉慈蔵尊の傍らの顕彰碑は取り除いて破壊してほしいと私が言ったところで、なかなかそうはしないだろう。『毎日新聞』や『産経新聞』が改めて調べて記事を載せる訳もない。
勿論、私はそれをいらだたしく思うけれども、また当然であるとも思っている。私は、ただ、何も変わらない、その時間の長さを測りながら、彼らが、この世の中というものが、如何に、おろかしいものかをカウントしているだけなのである。
2008.9.1
「偽りの青葉慈蔵尊」の「あとがき」の中で、宇垣纏(うがきまとめ)〔第5航空艦隊司令長官、海軍中将〕の「私兵特攻」について、『世紀の自決』に宇垣纏のみあって、そのほかの者の名がないのはおかしいと私は書いた。しかし、城山三郎の「指揮官たちの特攻」を読むと、それでおかしくはなかった。ほかの者たちは、「玉音放送」を聞いておらず、終戦の事実を知らずに、宇垣に命じられたので特攻に飛び立ったのだという。つまり、彼らは宇垣に殺されたのである。それにしても、上官の命令には絶対服従するのが軍隊とはいえ、特攻機に長官が搭乗することをおかしいとは思わなかったのだろうか。
『世紀の自決』には、「留魂」リストに宇垣纏の名があるほかに、「私兵特攻」について書かれた文章もある。しかし、ほかの者が宇垣に殺されたことは書いていない。
『世紀の自決』の「留魂」リストがおかしいという代わりの例を挙げておく。『図説 秘話でよむ太平洋戦争2[ガダルカナルの死闘から玉砕・特攻、沖縄、降伏まで]篇』pp.148-149には次のように書かれている。満州の東寧重砲兵連隊の終戦後の話である。
「連隊主力だけはごく一部しか交戦の機会がなく、連隊長(渡辺馨大佐)以下約二〇〇人は、一発も発射することなく、無傷で終戦を迎えた。
停戦命令をうけた渡辺連隊長は「全砲門と全隊員とが同時に自爆自決」を提案した。日本陸軍の砲兵は「砲側墳墓」、いよいよとなったら「砲と運命を共にす」を信条として訓練に励んでいたのだ。それを実行しようという提言である。
提言とはいえ、連隊長の言葉である。命令に等しかったであろうし、あの状況、すなわち思ってもみなかった敵に降伏しなければならないという状況では、部下たちもさほど違和感なく応じたのであろう。八月一七日、近くの小学校校庭に砲と砲車が円形に並べられ、それぞれに強力な爆薬がしかけられ、隊員は分散して砲軍に乗った。天皇陛下万歳、日本帝国万歳の三唱のあと、点火。砲車と砲は次の瞬間、大爆発した。そんな修羅場から、爆風で吹き飛ばされたのか、四人が生き残り、生還した。」
「留魂」リストには、この渡辺馨が含まれている。そのほかにも含まれているかもしれないが分散している。しかし、とても200人近い人間は含まれていないのである。
ついでに、「偽りの青葉慈蔵尊」について、気になってはいたが未だに調べ切れていないことを書いておく。
それは、掘喜身子が、その手記で樺太にあったかつての知取町に「シリトリ」というルビを振っていることである。樺太にあった地名については、どこかのサイトが詳細でそこには、「しりとり」または「しるとる」とあった。確か「平和の礎」だったが、そこに、かつて知取町に暮した人の手記があり、そこには「しるとる」とルビが振られていた。私が知りたいのは、当時そこに暮していた人が何と呼んでいたのかなのだが、断定には遠い。
私は、ともかく掘喜身子が樺太生まれかもしれないとはして来たが、それを証拠立てるものを私は知らない。何から何まで戦前の掘喜身子の経歴はあやしく、そして、おそらく、その名前さえもあやしいのであろう。つまり、戦争によって戸籍などの書類が焼失したことをいいことに、経歴を作り上げた可能性もあるだろうと思う。