因果関係、複雑系の科学、合理性について
全てを因果関係で考えること

2007.5.19

 全てを因果関係で考えよ。このことが、どれだけ、普通の、当り前の、あるいはツマラナイことなのか、それとも、そうではないのか、そういうことについては、私は、ほとんど何も言うことはできない。ただ、私たちがものを考える時、全く頼るべきものがないというのでは、いかにも心もとない話だから、まずこんなことでも心掛けておけば、役に立つこともあるだろう、そう思うのである。

 全ての知識は因果関係である。知識とは、そもそも何であるか、そういうことを考えて、私はそう主張するのである。簡単に注釈を加えよう。
 知識とは何か。それは、時空間におけるあるパターン(部分集合)を、別のパターン(部分集合)に関連付けたものである。つまり、こういうことがいえれば、別のああいうことがいえる。こういうことが起これば、ああいうことも起こる。目の前の赤いものを見て、リンゴという名前を思い起こす。あるいは、跳箱を前にして、どのように体を動かせば、うまく跳べるか。そのようなものが知識である。ここで、時空間というのは、私たちがいる「世界」のことだが、普通、四次元と言われたりするが、そうであってもよいし、そうでなくてもよい。物理学のある理論では究極的にはこの世界は十一次元だなどと言われているが、ここでは、そうであってもいいし、そうでなくてもよい。ここで問題なのは、単に時空間ということだけである。その時空間に、必要なら、あらゆる私たちのあり方、その生き方とかその精神のあり方とか、やさしさとか悲しみとか、などなどを取り込ませればよい。こうして考えた時空間、あるいは「世界」は、私たちに関わる全てを満たすだろう。そうした「世界」のある一部と他の一部を関連付けたもの、それが知識というものである。
 もし、関連付けられたものの間に未来という時間の差があれば、それは狭義の意味で因果関係と呼ばれる。しかし、知識というものは行為者によって使われるものである。ある対象に対してある知識を当てはめることができた時、私たちはその知識によって、なにものかを知る。丸くて赤いものがリンゴだという知識を持っている時、目の前の丸くて赤いものを見てそれをリンゴと呼ぶように。こうして、知識を使う場合には、時間の経過というものが必ずあるのだから、広義の意味では(それを使う場面では)、知識というものは全て因果関係である、そう言ってよいことになる。
 実際のところ、こんなことを述べる必要はないのかもしれない。私たちに必要なものは未来だけであり、そして、未来がどのようになるかを教えてくれるものといえば、それは因果関係にほかならないのである。さまざまな知識を思い浮かべてみるとよい。どんな知識でも、もし、それが私たちの未来にいささかの関係もないのだとしたら、それは、ただむなしいだけであろう。
 ものごとを因果関係として捉えること、それは、多少知識を整理するのに役立つばかりでなく、私たちの目的を達成するためにも必要なのである。

 少しだけ複雑系の科学のことを述べてみたくなった。
 複雑系の科学がブームになったのは、よくは知らないが、今から20〜10年前なのだろうか。何を今更だが、ここでそのことを語る理由は以下のことを読んでもらえば分かるだろうと思う。
 ブームだったといっても、私は、一般向けの本を数冊程度読んだというだけである。カオスとかフラクタルとか、とにかく新しい言葉が沢山出て来て、確かにワクワクさせるものがあった。それでも、それが結局何なのかということは一向明らかとはならなかった。それが、私だけではなかったことは、ブームの終盤位に書かれたある文章の次の言葉をみても分かる――「ブームの故か,「複雑系」と題する多くの啓蒙書も刊行されているが,正直なところ,これらの本を読んでもあまりよくわかった感じがしない,というのが大方の感想ではないだろうか.」〈田口善弘「複雑系 ――自然の不思議・社会の不思議の解明――」『インターネット時代の数学』〉
 その文章は、続けて、それでは複雑系の科学とは結局何なのかを解説しているのだが、その結びには、複雑系の科学とは何らかの直接的な成果に結びつくようなものではない、将来に期待せよ、みたいな言葉で終わっていた。私には依然、曖昧模糊としたままであった。私の頭が悪いからだろうとはいえるが、それを認めた上で続けよう。
 ブームの故か、随分、複雑系の科学に取り組んだ科学者は多かったようだが、誰も、それが何なのか、明白に把握していないのではないか、私はそう考えている。複雑系の科学とは、(科学の、あるいは知識の)予測可能性一般に関する研究である、と私は考える。
 カオスは予測が困難あるいは不可能な事象のことだが、もし、予測が全く不可能であるなら、私たちには全くそれに目を向ける必要のないものである。それを考察することは無意味である。しかし、本当に予測が全く不可能であるかどうか、そういうことも簡単には言えない。多少でも予測できる何らかのパターンがあるのではないか、そういう見通しがなければ、カオスについて研究する価値はない。だから、そういうことを研究している訳である。
 未来を予測することは、科学の(ただ一つの)使命である。だから、複雑系の科学は、科学の最も根源的な研究でもある。予測が困難な事象は、実際、予測が(ある程度まで)できる事象よりも、遥かに多いのに違いない。丁度、(数学において)不連続な曲線が、連続した曲線よりも遥かに多いように。だから、複雑系の科学は、その応用できる対象も数多いだろうと期待されるのである。しかし、もともと、予測困難なものについて何が予測できるかを研究するのだから、どれだけ応用できるかも、試行錯誤、ある程度混乱せざるを得ない。それが、複雑系の科学をめぐる混乱の理由なのである。複雑系の科学は、だから、科学の予測可能性という、科学基礎論の研究でもあり、また、その応用にも踏み込んでいるものである。
 現在、複雑系の科学や、それをめぐる状況がどうなっているのか、そんなことは私には分からない。しかし、私には以上のような理解で十分である。そのうち決っと何か明瞭な成果が出てくるのだろう(既に出ているのかもしれないが)。予測が困難な対象について、何が予測できるかを見い出した者は、「勇者」であろう。静かにそれを期待したいと思う。

 未来に何が起こるかを教えてくれる知識=因果関係の根拠は過去にしかない。しかし、その根拠なるものが、どれだけ信頼できるものなのか、そういうことを考えたのがヒューム David Hume であった。私は、Humian である。自らヒュームの後継者であると思っている。けれども、私にはヒュームの著作を読んで何かを学んだというものは一つもない。私がヒュームの考えを知ったのは、バートランド=ラッセルの西洋哲学史の中で、それだけで十分だったから。
 ヒュームは次のように考えたという。私たちが出来事Aに続いて出来事Bが起こるのを観察したとする。それでも、それをもって、出来事Aが出来事Bの原因であるとすることはできない。出来事Aに続いて出来事Bが起こるのを二回見たとしても、また何回見たとしても、出来事Aが出来事Bの原因であるとすることはできない。
 まず、私は原因というもの、原因という概念について、反省させられたものだった。私は、原因というものを明確に把握してはいなかった。結果を引き起こすメカニズムがあって、それに関わるような何か、そんな程度に漠然と考えていただけだった。しかし、ヒュームによれば、原因とは、ただ結果となる事象に先立つものというだけなのだった(このヒュームの主張は、その著作からも分かった)。長々と書くのは止めよう。各自で考えてみたらよい。私は、結局、ヒュームが正しいと認めた。原因と呼ばれるものとは、結果とされる事象の過去に起こったもの、(基本的には)それだけのことなのだった。
 ヒュームは、過去にある因果関係を観察したとしても、それによって未来を予測する根拠とはならないと言っている(ヒュームについては、"An Enquiry Concerning Human Understanding"と、"A Treatise of Human Nature"の途中までを読んだ(つもりだ)が、どこにその主張があるのかは分かっていない)。ヒュームは、懐疑主義者となり、私たちが、あることをあることの原因だと呼ぶのは、ただ習慣に過ぎないのだと言っている(ヒュームは、また思考というものを弱い感覚と呼んだりしていて、「習慣」などと共に、こういうカッコワルイ言葉の使用が、ヒュームがあまりポピュラーにならない理由の一つだと思う)。
 しかし、因果関係は単なる習慣ではないと私は思う。ヒュームが如何に絶望しようと、因果関係だけが私たちに未来を教えてくれるのであり、その根拠は過去だけにあるのである。私たちは、過去にある因果関係が生じたのを見て、同じ因果関係を未来に適用しようとするのである。だが、ヒュームが言うように、そこには絶対的な根拠はない。しかし、そういう因果関係という知識を持たないより、それを持って予測した方が、まだマシなのである。このことも、私たちの過去経験が教えることである。
(ここで、ヒュームを離れるので、ヒュームについて付け加えておく。これもヒュームの著作からではなく、別の本から知ったことだが、ヒュームは、ほかにも、ある「悪い」遺産を残しているらしい。それは「ヒュームの法則」と呼ばれ、のちには「自然主義の公理」などとも呼ばれたものらしい。それは、私たちが何かをすべきという道徳法則は、未来に何が起こるかということとは無関係である、というものである。もし、あなたが、たとえ自分が敗れることが分かっていても戦わなければならないということがある、とか、たとえ自分が失敗することが分かっていても、それをしなければならないということがある、などという言葉に多少でも同感を感じるなら、「ヒュームの法則」にも同感を感じるだろうと思う。そして、自分が敗れ、あるいは失敗することが分かっていても、それをするということに、悲壮感と行為(あるいは意志)の崇高さというものを感じるだろうと思う。しかし、「ヒュームの法則」は間違いであると私は言わなければならない。もし、私たちの行為の規則あるいは目的が、未来と何の関係もないのだとしたら、その行為の正当性というものはどこにもありはしない。自分が敗れ失敗するのが分かっていても、それをしなければならないという時、暗黙のうちにも、自分の敗北や失敗(の可能性)以上に「よい」未来を想定しているのであり、つまりは暗黙の目的を含ませているのであり、その未来なしには、その行為の正当性というものはない。未来に何が生じるかということだけが、私たちの行為(また行為の規則)の根拠なのである。)

 私たちは、過去にある因果関係が数多く生じたのを観察して、それが未来にも起こると判断する。もし、ある因果関係が起こることもあれば起こらないことがあると観察したなら、確かではないが未来にも起こるだろう程度に判断する。結局、ものごとを統計的に見るのである。それが、つまりは理性の立場なのである。理性は、ものごとを統計的にみなすことしかできないのである。
 次のような賭けが提案されたとする――コインを放り上げ、表が出たなら、一億一千万円をあなたにあげる、もし裏が出たなら、一億円をあなたから貰う。この賭けで得る期待値は、裏と表が出る確率が 0.5 だから、110,000,000 * 0.5 - 100,000,000 * 0.5= 5,000,000。即ち五百万円のプラス、だから、この賭けに乗るのが合理的である。この記述は正しいように思うかもしれない。しかし、それは違う。確率 0.5 とは、非常に数多くの試行を試みて、そのうちの半分がそのようになるということであって、ただ一回限りの賭けに適用されるものではないからである。もし、私たちが、何度でも、この賭けに賭けることができるというなら、それに乗るのが当然で、それが「合理的」なのである。しかし、そうでないなら、「合理的」であることを理由に、この賭けに乗るべきだとは言えないのである。
 経済活動というものが、人間を「合理的」に行動するとするモデルでは説明できなくなって、プロスペクト理論をはじめとして、人間の「不合理」な行動に着目する経済行動学というものが脚光を浴びているようである(よくは知らない)。けれども、私は、統計的な考えを「合理的」と称することが、そもそも間違っているように思う。過去にある頻度であることが起こったことを観察したとしても、未来においても同じ頻度でそれが起こるという絶対的な保証すら、この「世界」にはない。そういう観察が個人や社会に起こっているかどうかすら明らかではない場合には、「合理的」なことが起こらなくて当然である。
 理性は、ものごとを統計的に見ることしかできない。丁度、どんな確率分布も、それらを数多く加算すれば、その分布は、正規分布に近づくという、中心極限定理のように、理性は過去の出来事を集めて「正規分布」という地平からものごとを眺め、それを「合理的」と称しようとする。それは、本来あり得ない理念化された基準である。それが理性の限界であるが、それだけが一般性を有することから、それだけが理性の唯一の立場なのである。ほかに、どのような基準・立場があり得るだろうか。しかし、それが正しいとは限らない。未来がその通りになるとは限らないのである。
 だから、私は、二重の意味で、理性にはワナが仕掛けられているように感じる。世の中には訳の分からぬ、正気ではないと思われるものが多いが、そういうものを批判するためにも、理性を信頼し、ものごとを統計的にみて、過去のこのような経験からこのような因果関係が導かれると主張しなければならない。あまりにも、批判・糾弾すべきことが多いので、私たちはまず理性的に、合理的にならねばならない。この「合理的」という言葉は、あるいは、歴史的に汚れた、使わない方がよい言葉で、その代わりに「統計的」という言葉を使用した方がよいのかもしれないと私は感じているが、訳の分からぬことを糾弾するためには、まだ役に立つ言葉であるかもしれない。そこで、まず、合理的であれ。ものごとを因果関係として考えよ、どんな原因によって、どんな結果が生じるといっているのか、それはどれほどの確かさ、あるいは頻度で起こるというのか、そして、それは過去のどのようなことによって保証されているのか、そのように整理してみよ。そのようにすれば、ものごとの正体がよく分かるであろう。これが第一の規準なのである。
 しかし、そのように考えることがどれだけ確かであるかも、過去経験だけが教えるのであり、理性を絶対化し、理性が導いたからといって、ある因果関係を絶対的なものと主張するようなことがあってはならない。これが第二の規準で、それは理性によってものごとを考える際の心掛け、注意事項のようなものだが、この注意事項も閑却するようなことがあってはならないのである。


参考文献

戸川隼人・中嶋正之・杉原厚吉・野寺隆志、編『インターネット時代の数学』bit別冊 共立出版 1997.11.5発行


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