平等か競争か

2007.5.10

 2007年4月末、フランスでは大統領選挙の真最中であった。候補者が二人に絞られ、初の女性大統領が誕生かと注目されたが、その候補者二人の訴えていることを要約したものが、平等か競争か、であるということであった。左派の女性候補は、それまでの福祉政策の継続を主張し、右派の候補者は、それを改めアメリカ流の競争原理を導入しようとしているという。
 EUは順調に発展しているのだろうと、私は漠然と思っていたのだったが、フランスの経済状態はあまりよくなく、失業率が9%近くになっているとか。そういえば、移民問題で暴動が起きたっけなと私は思い出したりした。
 フランスやヨーロッパについて私が知ることは乏しく、ここで、私が述べたいのは、フランスの国内事情でも、大統領選挙の結果を受けてフランスがどう変わるかでもない。平等か競争かという議論の根本にあるもののことについてである。それは何もフランスだけのことではないから、そのことを少しだけ述べてみたいと思う。
 平等か競争かといっても、大統領選挙でどちらの候補者が勝とうと、ものごとは、そう極端には振れない。国民全て平等などということにはならないし、全てを競争に委ねるなどということも起こらない。ただ、政策の方向や比重が幾らか動くだろうというだけである。女性候補が勝てば、公約通り福祉政策を堅持すると言ったのだろうが、それでうまく行きそうもないとなれば、名前だけは変えるにしても競争原理のようなものが導入されることになるだろう。政治は結局ものごとを調整すること。それで極めて当然の話。その意味では、どちらが勝とうが大して変わりはない。
 選挙の最中で、二人が対決しているというので、問題が平等か競争かと単純化されている。私のいう真理化が、グールドのいう悪しき二分法が行われている。しかし、その根っこにあるものは同じものであることを、ここで述べよう。枝の上を這う、かたつむりにとって、進むか戻るかは全く反対の方向だが、同じ枝の上であることに変わりがないように、平等と競争ということを、もっと大きな視野の中において、どういう枝の上にいるのかを少しだけ述べよう。

 しばしば、会社や個人の誰それが巨額脱税を行っていたと報道されている。私は、税の仕組みというものを十分知ってはいないけれども、所得税の最高税率は50%近いのだろう。そんなに高率では、脱税したくなるのも無理はないとは思う。
 オレが汗水流して働いて得た金だ。その金を税務署が濡れ手に粟で持って行くのを黙って見ていろというのか? 全部オレのものにして何が悪い。金は天下の回りものだあ? オレが得た金はオレだけのものだ。――そういう言い分(あるいは感じ)が分らないでもない。
 金持ちからより多くの税金を取る累進課税というものは、基本的に、より多く税金を集めるための仕組みである。しかし、それだけの理由ではないと私は思う。
 TV時代はありがたいもので、時々、所謂セレブの大豪邸を放送していたりして、私のような「貧民」にも、それがどんなものかを垣間見せてくれる。それを見て、私は、それを羨んだらよいのだろうかと複雑な気持になる。確かにそういうところに住めば悪い気はしないだろう。しかし、といって、それ以上のことがあるのだろうか。だだっ広い庭と大きな家に住んで、それで何になるのか。金持ちというのは実に仕方がない連中だと思う。一体、人間というものは、大金を持っても、ろくな使い方をしないものだということがよく分る。それも当然だとは思う。人がある程度快適に生きるにはある程度の金で十分なので、それ以上のことは装飾になる。キラキラ光る宝石で身を飾りたいのか。しかし、贋物と本物とでキラキラ光ることにそう変わりもしない。数百万円もする腕時計を身に付けておきたいというのか。時間を知ることにおいて、数百円の時計とほとんど変わりもしない。あるいは、金持ちという人は高級な料理というものを毎日食べているのだろうか。TVでは、よく地方の特産品の野菜などをレポートしていて、みずみずしいですねえ、甘いですねえ、などとレポーターが感嘆の声を上げている。確かにうまいのだろう。けれども、みずみずしくて甘いのがいいというのなら、水に漬けといて、砂糖でもかけたらどうか。実際はそれ以上のものなのかもしれないが、あんまり大きな違いもないことだろう。高級食材を使った高級な料理を食べて寿命がのびたという話も聞かない(特殊過ぎて研究テーマにならないのかもしれないが)。しかし、値段だけはずっと大きく違うのである。金持ちが高級かつ高価な料理を食べることもかなり無駄に近いのに違いない。それは、安くてうまいというものが沢山あることからしても明らかなことである(こうした考えが、貧乏人のひがみであり、負け惜しみなのだろうかとも考えて、それで複雑な感じになる)。
 だから、私は金持ちからより多く税金を取るのは当然のように思う。大抵の金持ちは碌な金の使い方をしないからである。集団として見た場合、金持ちにつまらないことで金を浪費させるよりも、その金で「貧しい人」に何らかの利便を与える方がずっとよい。それは極めて明白な話である。
 これが、つまりは集団メンバーの平等が主張される一つの根拠になっている。

 現在でもアメリカと敵対する中南米などの社会主義(的)国があるとはいえ、ベルリンの壁崩壊、ソ連をはじめ東欧の社会主義国の崩壊以来、社会主義(or 共産主義)が失敗であり、自由主義・資本主義が正しい道であることは定まったようなものだろう。
 何故、自由競争なのだろう? それ以外のものはないのだろうか。ここでは、経済活動の自由競争を離れて、競争一般のことに踏み込んでみよう。
 2002年、小柴昌俊〔東京大学名誉教授〕がノーベル物理学賞を受賞した。日本人として喜ばしいことだったが、その理由が、ニュートリノ天文学の創始というのを聞いて、私は、あれあれという思いがした。宇宙の彼方の超新星爆発のニュートリノを捉えたというのが、彼が中心になって建設された岐阜県神岡にあるスーパーカミオカンデで、そのことは知っていた。けれども、スーパーカミオカンデって、もともとは陽子崩壊を検出するのが目的じゃなかったっけ、と思った。
 何でも、ある理論によると素粒子の陽子にはある寿命がある筈で、大量の水を貯めたタンクの中でそいつを検出しようというのがスーパーカミオカンデの筈だった。私の知識はたまに一般の雑誌や新聞を読んで得ただけのものだから間違っていることもあるかもしれないが、そう断った上で続けることにする。超新星爆発のニュートリノを検出すること、それも大したことなのに違いない。けれども、それは、スーパーカミオカンデの本来の目的ではなかった。宇宙のニュートリノの検出はたまたまの結果なのである。私は、何もここで小柴昌俊やそのノーベル賞受賞にケチをつけている訳ではない。ただ、科学の研究というものがおよそそういうものであることの例として取り上げたのである。そういうことは、科学史についての本を僅かでも読めば明らかなことである。ノーベル物理学賞の第一回目は、X線の発見によってレントゲンに与えられたが、レントゲンがX線を発見したのは偶然であった。そうした例は数限りないのである。
 偶然生じたことを見逃さずそれを追求したなど、さまざま述べるべきことはあるが、ここではその必要はない。科学上の高い業績とみなされるものが、偶然によって生まれるということだけが焦点である。そうした偶然をうまく捉えて優れた研究を発表すれば、それは彼にノーベル賞などの賞と名声、そして多額の研究費と高い地位などをもたらすだろう。けれども、それが偶然の結果なのだとすれば、そうしたさまざまなものを得た彼が再び優れた研究を発表するという保証とはならない。逆に、ほかの優れた研究者を、(どういう形であれ)妨害することになるかもしれない。
 同じことは、経済上の自由競争についても言えることである。経済上の自由競争の勝者は、多くの金を儲けた者である。しかし、その「勝利」の大部分は偶然の結果であろう(「勝者」はなかなかそれを認めないだろうが)。それなのに、金という強い力を持つものを一方的に誰かに集中することになる。これが自由競争の末路というものである。
 科学の研究であれ、経済活動であれ、一旦「勝者」となった者が、次にもよい結果をもたらすとは限らない。そんな例は幾らでも上げることができる(その反証もあるにしても)。好成績を納めていた為替ディーラーが巨大な会社の金を扱うことになって、彼が会社に儲けさせた以上の巨大な損失を会社に与えたなどというのはよく聞く話である。
 だから、競争というものがそんなに大切なことだろうか、ということになる。
 競争というと先ずスポーツが浮かぶが、世の中には、たかが野球、たかがサッカーなどと言うと、それに対していきり立つ人もいるらしい。情熱を持てないなんて可哀相な人だなどと言い返したりするらしい。本当にそうか。そんなに自分が応援するチームが勝つことが大切だというのなら、試合を観に行って歓声を上げるだけでなく、チームが勝つにはどうすればよいのかと真剣に考えたらどうか。ほとんど誰もそんなことはしていないだろう。スポーツを観ることは基本的にヒマつぶし、それに決まったものである(私がスポーツを観ることを楽しんでいないというのではない)。

 私たちは、科学の研究にしろ、経済活動にしろ、(また、スポーツの分野にしても)誰を優遇すべきかについての方策を失くしている。それだから、私たちは、競争ということを言い、その勝者を称えるのである。実際に優れた研究を発表した科学者を優れた科学者とみなし、実際に金を儲けた者を優れた経済人とみなして、彼を厚遇するのである。その「勝利」の大部分が偶然の結果である以上、かなり頼りないものではあるが、集団メンバーからランダムに選んだり、集団メンバーを平等に扱ったりするよりも、まだ、その方がましだからである。
 私は、私たちは誰を優遇すべきかについての方策を失くしている、と書いた。それというのも、かつてはそれがあったからである。遺伝子主義がそれである。詳細は省くことにするが、私は、ある個人(または集団の一部)が優れた遺伝子を持っているという考えが(無意識のうちに)階級制社会を作って来た(原因の一つ)と考えている。遺伝子主義は現在でも多少は残っている。病気をもたらすような「悪い」遺伝子がある以上、「よい」遺伝子というものがあってもおかしくないなどとも考えられるが、ほとんど頼りにならないと私は思う。よく、アフリカ人あるいは黒人に対して、「身体能力の高さ」などということが言われるが、あやしいものだと私は思っている。陸上のトラック競技やバスケットなどの優秀選手には確かに黒人が多く、身体能力の高さ(体のバネといったことだろうか)を証明しているように見えるのだが、そんなに身体能力が高いというのなら、水泳・スキー・体操などといった競技でどうして黒人選手は活躍していないのだろうか。とにかく、優れた遺伝子という考えはあてにはならない。優れた人物の子や孫や、また子孫が同様に優れているという保証はほとんど無きに等しい。
 そうして、今や私たちには特にこれといった方策はない。場合、場合に応じた手探りの基準を設けて競わせ、勝利者を優れた者とみなすしかないのである。

 私たちに第一に必要なのは、優れた科学の知識であり、優れた経済的価値を生産する手段の方であり、誰かということではない。けれども、社会が集団メンバー個々人から成り立ち、その社会がうまく機能するためには、集団メンバーの差別化を行わなければならず、そこで、(公正という考えもあって)競争ということになる。しかし、その競争もあてにはならないのだから、少なくとも、「敗者」が再び何らかの競争に再び参加できるほどの「平等」をどうしても必要とするだろう。競争のための平等、差別化のための平等、この不思議なことが現実である。
 結局のところ、平等か競争かという議論は、私たちが、集団メンバーの誰を優遇すべきかについての方策を失くしていることから結果したものなのである。おそらく、どの程度平等で、どの程度競争に委ねるべきかは、ある程度まで定めることはできるに違いない。勿論、そこには、「勝者」がどの程度の「特権」(or 報酬)を持つことにしたら、私たちがやる気になって競争に参加するかとか、さまざまなことが関係してくる。その細かい調整が政治の課題というものである。
 フランスの大統領選挙では、「競争」派、右派の候補が勝利した。彼が、社会のあり方を、わずかに「右」の方向に向けるだけなら問題はない。けれども、「極右」、つまり、競争によって発生した「勝利者」を固定しようとし、「敗者」を排除しようとするなら、そこに問題が発生するだろう。

 私も、リベラリストとして、平等を、また自由競争をと主張するのだろうが、他方で寒々とした思いも抱いている。数千年にわたって人が試行錯誤した果てに得たものが、たったそれだけなのか、と。数千年間で人が崇高と認めた精神が自己犠牲だけなのかという思いとともに、それだけなのか、たったそれだけなのか、と私は訴えたい気がする。しかし、それだけでも大したことだとは言えるのだろう。
 公正な自由競争をという以上のことは、物事があまりに込み入っていて、うまく焦点を結べないというのが現状であるらしい。新しい知識の獲得や新しい技術の開発には、時間と労力という、極めて当然のおなじみの方策以上のことは、色々なことが考えられ行われているにしても、まず試行錯誤の段階にあるといってよいのだろう。どのような競争が望ましいかもまた試行錯誤の中にある。競争の渦中にある個々人にとっては、その競争(どのような形であれ)に勝利することは切実な問題である。しかし、そうでない人間、あるいは集団全体にとっては、誰が勝利しようと大した問題ではない。私たちの社会には、こうした、ある種奇妙な、矛盾した状況がある。しかし、私たちに必要なのは、優れた科学の知識であり、優れた経済的価値を生産する手段などの方であることを肝に銘じておくならば(それは、数千年来の歴史が教えるものである)、何らかの方向性が見えてくるかもしれない。そうして、そのうち、うまくミートポイントを突いた気の利いた行為の規則が出現して、私たちを導いてくれるかもしれない。


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