リベラル=あなたも私もみんな幸せに

2007.4.30

 たまたまヒマな時間があったので、書店で安倍晋三〔総理大臣〕の『美しい国へ』という本を立ち読みした。
 最初のあたりで、リベラルという言葉は、ヨーロッパとアメリカでも意味が違うのだということが書いてある。ヨーロッパでは、専制君主に対抗して民主主義が出てきたので個人主義的傾向が強く、アメリカでは、社会政策的な傾向が強いのだという。私は、もの識らずなので、そうかと教えられた。
 おおよそ、私は自分の立場というものをリベラルという言葉で表したいと思っていたけれど、しばらく前に新聞でリベラルという言葉は決してよい意味で使われていないとかとあって、ちょっと困ったと思った。安倍晋三のいうような歴史があるということなのだろう。
 それから、安倍晋三は、彼の祖父の岸信介が首相の時代の安保反対闘争に触れて、子供ながら、何か違うと感じたということを記している。これも、なる程と思った。あの時代のことは、よくは知らないけれども、デモ隊が日米安保条約反対を叫んで国会を取り巻いた映像はTVなどで目にしたことがある。けれども、一旦安保条約が成立してしまってから、反対活動やらその考えやらはどこへ行ってしまったのか、歴史の中から簡単には見えて来ない。まことに不思議な反対活動というほかはないと思う。
 しかし、安倍晋三自身は安保反対闘争の何がおかしいのかを記していない。それでは、単なる身内びいきと受け取られても仕方ないだろう。総理という人がそんなことでは困る。
 まあまあ、そんなにひどいことは書かれてないのかもしれないと思い、それ以上は読まない。興味がない。安倍晋三に国を導く「哲学」がないのは、明らかな話。

 どうもリベラルという言葉以外に適当な言葉が見つからない。そこで、私は、ここで書いておこうと思う。リベラルとは、あなたも私もみんな幸せに、誰も彼も全ての人が幸福になるように、そういうことだと。それは、民主主義というものが、(暗黙のうちに)私たちに与えた約束なのである、と。
 そして、私の言いたいのは、このリベラルという目的、あるいは行為の規則は、ほかの原理(規則)に還元されることはない、ということである。
 私たちはこの規則に極めてよく似た規則を知っている筈である。例えば、宮沢賢治の「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」や、また、よく知られているベンサムの「最大多数の最大幸福」などである。しかし、これらは、リベラルという行為の規則に近くても必ずしも同じものではない。
 宮沢賢治のいうことはいかにももっともなようだが、彼のいう「世界全体」とは、そもそも何のことなのだろう。そういうものを私たちは明確に示し得るだろうか。どのようにしたら「世界全体の幸福」に近づくことができるというのだろうか。もし、そんなことが明確にし得ないなら、私たちはその行為の規則を採用することはできない。おおよそのイメージは浮かぶので全くの無効と言ってしまう訳にはいかない。しかし、それよりは、集団メンバーの(あるいは人類の)一人ひとりの幸福のためにとした方がまだしも明確である。
 私たちは、全ての人が幸福になるように行為すべきだといっても、利害の対立というものはどうしてもあるものである。それで、私たちは結局は「最大多数の最大幸福」を求め、その陰で少数者の何事かの不幸を招くことになるだろうと思う。けれども、だからといって、私たちは「最大多数の最大幸福」を目的にすべきだ、そういうことを言ってはならない。リベラルの、民主主義の行為の規則によるなら、他の多くの幸福のために犠牲になるのであっても、誰かが不幸になるなどということは許されないことだからである。
 ある人はそれを偽善だと言うかもしれない。確かに、誰もが幸せになるなどということはありえないことなのだから、そう言ってもよいかもしれない。しかし、私はそのように言う必要はないと思う。そのように言うべきでもないと思う。私たちは、誰もが幸せになるように努めれさえすればそれでよいのである。

 ここで、このことに関連して、足尾銅山鉱毒事件、谷中村のことをちょっと書いておく。たまたま辻潤年譜を作成中にこのことが出てきて、今でも割りきれないものを私に残しているからである。
 足尾銅山鉱毒事件、あるいは、その解決に尽力した田中正造のことなどは多くの本があるから、詳細は省く。原敬(たかし)〔内務大臣のち総理大臣〕などの古河側の政府要人あるいは日本政府が、むしろ古河側の利益を考えて、谷中村などの村民をその強権を駆使して窮地に追いやったのはまず確かなことだろう。明治時代の一般的な問題として、国家権力と個人の問題といったものがそこにはあるだろう。私は、田中正造、それから荒畑寒村・石川三四郎・福田英子・渡辺政太郎(まさたろう)など、村民の立場に立って尽力した人、さらに大杉栄・伊藤野枝らの同情を寄せた人たちの行動を尊いものだと思う。けれども、一体どうすることが一番よかったのかという点で、私はまだはっきり答えることができないでいる。特に、その最後の段階において、強権を持って追いたてようとする国家に抗して、あくまで先祖伝来の土地に留まろうとすることが「よい」ことなのだろうか。少なくとも銅の生産というものは人の役に立つものである。それに対して、先祖伝来の土地や農業といったものに固執することが「よい」ことなのだろうか。そんなことが私にはよく分らないままである。勿論、どんなことであれ、個人が望むことは、それなりに尊重しなければならないのだけれども。

 リベラルという原理は、一見それが成り立たないようにさえ見えることだろう。けれども、私たちはその場所に踏みとどまらねばならない。ある場合には、誰かを犠牲にすることも出てくるだろう。しかし、それが普遍的なことでない限りは、再びリベラルという原理に戻って、その痛みに耐えて行かなければならない。

 リベラルという原理は、集団の各々のメンバーに適用されるとともに、個々のメンバーがその基礎であることから分かるように、他集団のメンバーにも適用されるものである。現在、地球には、国という集団の単位がある。そのような単位が必要だというのなら(それは全ての人間の幸福によって決定されなくてはならない)、単位としての国は、特にそのメンバーの幸福をもたらすような施策を行う一方で、他国のメンバーの幸福を忘れるようなことはあってはならないものとなる。それは、リベラルという原理が必然的に要請するものだからである。
(やや、尻切れトンボだが、これで終わる。リベラル=あなたも私もみんな幸せに、だけが言いたいことである。)


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