
年金納付記録の証券化を2009.3.2 |
年金のことは前に少し調べたけれども、そのあと十分調べる機会もなかった。ただ、社会保険庁のやり方が十分におかしいことは分かったので、たまに、具体的なそのおかしさが報道されても、怒りはしても、驚きはしない。年金についての報道は一時よりは少なくなったが、国民のほとんど誰もが関心を持たずにはいられないものである。近頃では将来の年金がどうなるかの見通しも報道された。
最初に調べた時から、私には、年金についてこうした方がいいのではないかという考えがあった。今現在に到るまでそれは変わらない。誰もそんなことは言ってはいないようだから、あえて、ここに私の提言を述べておこうと思う。
それは、年金納付記録を有価証券化して、売買できるようにしたらよいということである。例えば、Aという人が100,000円の年金保険料を納めたとする。すると、Aは、それに見合った有価証券を受け取る(勿論、概念としての有価証券。電子化された株券と同じで有価証券という紙は発行されない)。そして、AはBという人にその有価証券を売ることが出来る。すると、どうなるかというと、Aが100,000円の年金保険料を納めたというのは納付記録から消され、Bがその時に100,000円の年金保険料を納めたという記録に変わる。
このようにすれば、今のように、年金保険料を納めっぱなしで、年金受給年齢になって、やっとその納めたことが物をいうというのではなく、納めた年金保険料によって金を得ることが出来るのだから、財産を持っているのとほぼ同じことになる。売りたい人と買いたい人の間で価格が折り合えば、商取引、経済活動が成立する。売買が成立し経済活動が発生するというなら、そのようにして何が悪いのだろうか。
私はこのような制度を作れば、手持ちの金に不自由な人は、この証券を売ろうとするだろうし、お金に余裕のある人は、将来のために証券を買っておこうとするだろうと思う。つまり、売買が成り立ち、その市場は、十分な規模になるだろうと思う。
何の制限もつけずに、年金納付記録を売ることが出来ることになると、必ずや、一発を狙って、年金納付記録を全て売って、事業を行ない、目論見がはずれて、年金受給年齢になって、納付額がゼロなんて人も現われかねない。そこで、或る程度の制限を設ける。現在、年金を受け取るためには、25年間年金を納める必要があるが、これを10年にしようという話があるようである。年金納付記録を売ることが出来るのは、10年とか15年とかを超えて年金を納めた人で、その超過分を売ることが出来ることにするのである。この年数が、つまりは、最低納付年数となる。
また、BがAの年金納付記録を買った際に、BはそれをCの納付記録にすることが出来るという風にもすればよい。そうすれば、余分な金があるという時、親が子供のために、子供が親のために、年金納付記録を買うなどということが出来るようになる。
貨幣の単位で計られる経済的価値というものは、一般的に十分な根拠を持っていない。それでも、商品というものは、その価格が、原材料費+加工費+流通費+利潤に等しいという或る程度の根拠がある。それに対して、株のようなものは、このような根拠に乏しい。そのために、急激に価格が上がりもすれば、また急激に価格が下がることが起こる。それは、投機対象になり、バブルの一つの要因になる。年金納付記録証券もまた金融証券には違いないが、それにはある根拠がある。一つは、納付された金額で、100,000円を納めたという証券は、およそ100,000円で売買されるだろう。もう一つの根拠は、この証券を買うことによって、将来貰う年金総額がどれほど増えるかである。これは将来の予測に関することだから少し難しいが、これもまず100,000円といったところである。つまり、この証券は、国債ほどではないだろうが、その価値はかなり堅牢なもので、投機対象となってバブルの片棒をかつぐようなことにはならないだろうと、まずは予想されるのである。
以上のほかに、この証券には次のような利点があるだろう。
以上は、幾つかの前提を念頭に置いて書いた。それは、現状の制度・現在構想されている将来の制度と違ってもいるだろう。それらは、若い人が年寄りに年金を負担するという仕組みになっているようだが、これはおかしいと思う。あくまで、同世代の人の間に寿命または死亡時のバラツキ、つまり老後の長短のバラツキがあるので、それらを吸収するための保険であるべきだと思う。5年とか10年毎などのグループを考えるべきではないだろうか。また、私は、年金保険会社の年金納付金の運用実績次第で、年金給付金の額が異なるのは当然だと思う。現実に、年金財政の危機が問題になっているので、あまり理想的なことばかりも言っていられないのは分かるのだが。
私には、この年金納付記録証券の細かいところまで詰める余裕はないし、設計するような余裕もさらにない。ただ、十分検討するに値するものと思っているだけである。最も基本的なことは、経済活動が行なわれてよいものには、それを行なわせよ、である。お金とは、どんなものとも交換出来るものとして真理化されたもの。その交換対象を出来るだけ多くすることは、お金の「本性」に適っている。