5つの力のたとえ +未来に残すべきもの(伝統)について

2008-2009.3.19

5つの力のたとえ

 私がものごとというものを考える時、しばしば思い浮かべる一つのたとえ話がある。それは、5つの力のたとえである。

 まず、4つの力のたとえから始めよう。
 4つの力、それは、物理学で言われる基本的な4つの力のこと。即ち、重力、電磁気力、弱い力、強い力のことである。このうち、重力はおなじみのものであり、電磁気力についても、私たちの日常にはさまざまな家電製品があるからおなじみのものになっている。弱い力は核分裂に伴って現われる力で、電磁気力と一緒にして電弱力として統一されるという。なんでも、ビッグバンから始まった宇宙が冷えるに従って、電磁気力と弱い力に分離したということである。強い力は原子核を構成させている力である。
 私は何故4つなのかと疑問に思ったが、ある本に、別に4つでなくとも構わないのだが、と書かれてあったので、それで納得した。つまり、私たちは、必要なら、4つのほかに、おなじみの慣性力(遠心力など)といったものを含めても構わないということであるらしい。しかし、何の力も働かない場合には物体は等速度運動をするといったことは当然のこととして盛り込んで、状態を変化させる根源的な力=原因は何かといえば4つということであるらしい。
 この4つの力について、人間の歴史を振り返ってみると、人間になじみであったものは、何と言っても重力である。手を離せば物が落下する。そのような力があることは、教わるまでもなく覚えることである。物を遠くまで投げられないのも、自分の体を含めて高いところに行くのは非常な労苦を伴うのも、重力があるためである。重力は人のよく知るところであった。
 これに対して、ほかの力はもっとなじみの薄いものであった。雷という自然現象は当然早くから注目されたが、長いこと神秘的な現象であり続けた。そのほかは、擦ったコハクが羽毛のような軽いものを引きつけること、磁石が鉄を引きつけること、そんなことがわずかに奇妙な現象として知られていたのに過ぎなかった。電磁気力が私たちのなじみのものになったのは、電灯やモーターといった電気製品が現われた比較的近年のことである。弱い力・強い力が知られるようになったのは、ほとんど核時代に入ってからである。
 こうして、人間の歴史においては、重力が最もよく知られて来た力なのである。ところが、物理学の世界では、重力というものが、ほかの力に比べて余りにも弱い、そのことが一つの大きな問題になっているというのである。
 私たち人間は、その歴史において、弱い重力には注目して来たが、より強いそのほかの力には長い間注目して来なかったということになる。一見して、このことが不思議なのは、影響力の大きい強いものに、より注目し関心を寄せるのが当然である筈なのに、そうではなかったからである。
 これが、4つの力のたとえである。
 私たちは、強いものに注目し、弱いものには注目しない。常識的に言えば、それが当然である。しかし、そうではなかった。強いからといって、より注目され関心を持たれるとは限らない。むしろ、弱いからこそ関心を持たれ、強いからこそ無視されるということがあるのである。これは、私たちの知識というものの矛盾したあり方を示すものである。このたとえから、私たちは知るべきである。私たちが、(例えば、ある道徳法則のように)大事である、必要であると思っている何物かがあるにしても、それらは、むしろ、実際はそうではないからこそ、大事でなく、必要でないから、そのように思うのかもしれないということを。
 もっとも、このたとえ話には、付け加えておかねばならないことがある。私たちが、重力ではないほかの力に注目して来なかったのは、それがあまりにも強いがためである。あまりに強すぎてその力の及ぶ範囲が極めて限られるからである。そのため、それらの力の作用は、力の作用というよりは、物体の色であるとか、物体が他の物体に貫入しないなどといった性質として、捉えられて来たのである。力としては注目されては来なかったが、別の形でそれらは、私たちの知的システム(精神)の中に入り込んでいた。そして、その強さの違いもある程度までは取り込んでいたというべきなのである。4つの力のたとえは、私たちの精神(知的システム)が、4つの力の強さの違いや程度を反映していないというのではなく、むしろ、私たちの態度、それらを正当に注目し関心を持たないということを示すものなのである。

 4つの力のたとえは、もう一つの力を付け加えることで、より完全になるだろう。もう一つの力――それは、この宇宙を加速膨張させているという未知の力である。
 宇宙には光を通さない未知の物質が偏在していると言われ、ダークマター(暗黒物質)と呼ばれている。おそらく、この類推から、宇宙を加速膨張させているエネルギーはダークエネルギーと呼ばれている。宇宙を加速膨張させているものを力と呼ぶことは見かけないが、力と呼んでもよいものだろう。同じ類推を使えば、ダークフォースと呼んでもよいのかもしれないが、適当な名前ではないかもしれない。
 物理学では、全てのものの根源の理論、俗に Thoery of everything が考えられて、超ひも理論が最有力ということだったが、超ひも理論などから言って、この宇宙の加速膨張力は一体どういうことになるのか、どの本も教えてはくれないので、私には、そういうことは分からない。ダークエネルギーは真空のエネルギーだといわれていると、私が見た限りのどの文章にも書かれているのは、やや奇異である。一体、誰がそういうことを言っているのか。真空のエネルギーというのは、観測されずに、空間に偏在している粒子のエネルギーのことらしいが、一体そういうものが、どういうふうにして宇宙を加速膨張させることになるのか。そういうことは、誰も説明していないから分からない。とにかく、ダークエネルギーは理論物理学でも注目されているということである。
 宇宙を加速膨張させているダークエネルギーが知られるようになったのは比較的最近で、雑誌記事などによると、何でも20世紀末とあった。宇宙の知識が増え観測技術の向上があって、明らかとなったものであるという(しかし、遠い天体ほど早い速度で遠ざかっているとハッブルが唱えたのは、1920年代のことであった。このハッブルの法則からすれば、天体は遠ざかりつつ、遠ざかることによってさらに早く遠ざかる、つまり加速膨張しているということは明らかな筈である。20世紀末というのは観測技術の向上で、より精確になったということなのだろうか)。
 宇宙にある全てのものはこの第5の力の作用を受けている。人間を含めた地球上の物体も、そうである。しかし、その力は、弱いと言われる重力に比べても、さらに弱いものである。そのために、地上にある全てのものは重力に逆らって空中に浮かび上がることもなければ、それぞれが、それぞれから離れてバラバラになってしまうこともない。銀河系のレベルでも、まだ重力が大きいので、宇宙の加速膨張の結果、銀河の形が崩れるようなこともない。しかし、銀河系間となると、その距離があまりにも大きく、その間に働く重力は極めて弱くなって、宇宙の加速膨張力は重力に優って作用し、そうして、銀河系は、ほかの銀河系から、どんどん離れて行く訳である。
 私たちの知識のあり方に関して、この第5の力が教えることとは、あまりにも弱いものは注目されないということである。これは、極めて常識的である(ただ、宇宙の加速膨張力は、弱いけれども、その作用が宇宙全体に及んでいることは言っておかねばならないが。)

 こうして、以上の5つの力が教えることを纏めると、こういうことになる。私たちの精神は、あまりに弱いものに対しては、それに気付かず、単に無視する。無視できる程弱くはないが、決して強いとも言えないものに対しては、その弱さ故に極めて強く注目する。そして、あまりに強いものに対しては、その強さ故に注目することはない。これが、5つの力のたとえである。それは、私たちの精神 or 知識のありようというものを示しているのである。

未来に残すべきもの=伝統について

 5つの力のたとえにかこつけて、伝統のことを述べてみる。
 伝統とは何か。それは未来に残すべきもののことである。伝統をこのように定義するなら、私たちが伝統を大切にし、それを保護しようとするのは当然だということになる。しかし、現実はといえば、未来に残すべきというその根拠すら曖昧のままで、伝統という言葉が使用されるので、混乱が入りこみ、伝統=未来に残すべきもの、であるとは限らなくなっている。
 私は、かつてあったものをそのまま採用しようとする者を超保守主義者、または伝統主義者と呼ぶ。伝統主義者は、伝統を大切にしているというより、それを主張しているだけで、洋服の代りに和服を着ている訳ではなく、パンツの代りにクラシックパンツを身に付けている訳でもなく、携帯電話の代りに狼煙を用いている訳でもないと、私は「偽りの青葉慈蔵尊」の中で書いた。伝統主義者は、それに対して言うことだろう。伝統の問題とは、かつてあったものをそのまま未来に残すということではなく、かつて伝統とされて大事に扱われてきたものを大事にして、それを未来に残すということだと。そこで、私は考えるのである。私たちの精神は、かつてあったものの何を伝統と呼び、将来にも伝えねばならないものと認識するのだろうか?
 かつて、江戸時代では、おそらく武士以外の者の乗馬は禁止されていた。人の陸上の移動手段と言えば、ただ足があるばかりであった。武士にしたところで、人が多く歩く道で馬を駆けさせる訳にもいかないから、まずは誰でも歩くことだけが唯一の陸上の移動手段であった訳で、それが、数百年間も続いたということになる。そういうことが、伝統にならなかったのは何故か? 明治に入って、新橋−横浜間の鉄道敷設には住民の反対も強かったのだが、一旦開業となると、たちまち受け入られて、短時日のうちに日本全国に鉄道が敷かれることになったのである。
 2008年2月に、韓国ソウルで国宝第1号の南大門が放火されて全焼するという事件が起こった。犯人は、誰も負傷した者はいない、また建てればよい、と言った。おそらく、韓国人なら、その言葉に反撥し、何を言うかと思ったことだろう。しかし、私は、いかにももっとものことがあるとも思った。私は、かつて日本で、やはり放火によって全焼した金閣寺のことを思い出したのだが、それは1950年のことであった。いつかは分からないが再建されて、今では、かつてのような姿を見ることができるが、はたして、以前と全く同じに再建されたのかどうか、そんなことを知っているものは、ほとんどいないに違いない。細部にこだわって、出来る限り再現するなんて必要があるだろうか。燃えやすいところは、耐火性のコンクリートにしては何故いけないか。要するに、格好さえ同じようであればよいのである。それが、伝統を守るということか?
 何のために守るのか、その根拠がなければ、混乱が生まれる。5つの力のたとえにかこつけて述べるというのは、伝統というものは、それが大事ではないからこそ、過剰に大事なものとして宣伝されていないかと言いたいのである。
 皇室に男の天皇候補がいなくて、「愛子ちゃん」を天皇にしようとして、皇室典範改正が取り沙汰されたことがある。その時、ある皇族が言っていた。男系というのは、神武以来、父親から息子へとY1遺伝子をに引き継いでいることだ、と。そのあと、やはり、女性天皇に反対した元皇族と週刊誌で対談しているのを、ちょっとながめたが、彼は、伝統として残っているものは、それなりの意味というものがある筈だと私は思っているとかと言っていた。神武以来というY1遺伝子は、どうなったのだろう。残念ながら、ものごとは、重要だから残るとは限らないのである。その逆に、重要でないからこそ残るということがあるのである。
 Y1遺伝子とは何か。何とか教授が使ったというその用語を、私はほかに見ることは出来なかった。それで、それが、どれだけ一般的な用語なのかは分からないが、言いたいことは分かる。人間の細胞には、メスの場合XX、オスにはXYの性染色体がある。精子には、半分の遺伝子しかないので、Xを持つかYを持つかになる。そして、Xを持つ精子が卵子に受精すれば、メスが生まれ、Yならオスになる。こうして、オスのY性染色体は、父親由来なのである。ところで、精子が作られる時、対の遺伝子が混ぜ合わされる。Y染色体もXと一部だけ混ぜ合わされる。精子のYには、こうして、Xつまり母親由来の遺伝子が混じる。混じらない部分について言うなら、それは、純粋に父親由来なのである。この部分をY1と言っているらしい。
 さて、それでは、Y1遺伝子というのは、どんな役割を担っているのだろうか。その主な役目は、胎児の体に男性生殖器つまり睾丸を形成することであるらしい。実は、Y遺伝子の、そのほかのほとんどは空っぽである。無意味なコードが入っているというのである。男性には巨根願望というものがあるそうだが、神武以来というそのご立派な遺伝子がお作り給うた男性生殖器だから、さぞかし立派な、などと思って、皇族男子の股ぐらに注意を向けるようなことは、まず悪い冗談に過ぎないというものだろう。
 私は思うのだが、そんなに神武以来引き継がれたY1遺伝子が大事だというのなら、国家プロジェクトとして、それを解析、そして保存しなければならないのではないか。体の一部の細胞あるいは精液などをご提供いただいて、液体窒素によって凍結保存しなければならないのではないか。大して費用もかからない。液体窒素なんてものはミネラルウォーターよりも安い位なのである。そのようにすれば、日本国は、いつでも「男のお子様」を補充出来るのである。
 どだい馬鹿げた話である。天皇のY1遺伝子など、ほかの男の遺伝子と異なる筈がない。誰を天皇候補にするかという議論は難しい。しかし、それは、決して、天皇という職責が難しくて、大事だからではない。事情は逆である。誰にでも出来、どうでもよい地位だから、誰がなるかで揉めないように、皇室典範で誰がなるかをはっきり決めておくだけのことなのである。

 前にも述べたが、もう一度繰り返しておこう。伝統というものは、重要だから残っているとは限らない。逆に、重要でないからこそ残っているということがあるのである。


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