天皇の「謀略」+靖国神社のことなど2007.12.13 |
先日、私の甥が家に来ることがあって、少しばかり話をした。彼は大学を出て三年という青年である。その中で、彼は(昭和)天皇は軍部に利用されていた、と言ったので、言下に、そんなもんではない、と否定してやった。
私の天皇についての考えは数年前に一つの結論を出して、以来ほとんど変わってはいない。けれども、それを言葉としてどう説明したものかは、常に迷っている。その時も、そのあと、何を言ったのだったか、どうにもメンドくさい気持が強かったものである。裕仁〔昭和天皇〕が軍部に利用されていたこと、それは決して間違いではない。ただ、それだけでは済まされないことなのだ。
天皇についての私の考察は、『アジア・太平洋戦争に よる/おける 行為の哲学』第2巻に予定していて、文章も書き上げてあるのだが、ここでは、それとは別に、私の天皇についての考えを新たに記してみようと思う。以下を読んでいただければ、私が何故天皇について語るのをメンドくさがっているのかを、少しは分かっていただけるだろうと思う。
天皇について何かを語るためには、天皇とはどういう存在なのか、どういう人間なのかを知らねばならない、そう思って、少しずつ調べては来た。調べつくしたなどとは到底言えないが、どういう人間なのかということでは、既に明らかである。特別なものは何もない、普通の人間・普通の日本人である、というのがそれである。調べるまでもないようなことだ。そして、そのことは、天皇機関説事件に関係して、裕仁〔昭和天皇〕自身が認めていたことでもある。頭脳・肉体・芸術的センスなどという能力の点でも、また、容姿といった点でも、劣っているとは言えないが優れているとも言えない。日本人として普通、まず平均よりはやや上といったところだろうと思う。
そういう普通の人間である天皇の、何が特別なのかといえば、さまざまな装飾が伴っているということである。組織〔宮内庁など〕・建物〔宮殿など〕・儀式・特別の漢語〔朕・陛下・巡幸・薨去など〕、独特の宮中用語、そういった、まず、ありとあらゆる種類の装飾に飾りたてられている。そして、普通の人間である天皇がそうしたさまざまな装飾が伴っていることの理由として、伝説や神話といったものが必要になるし、それがまた彼の装飾となるというわけである。こんな抽象的なことはどうでもいいようなことだが、天皇(そして、その周辺)は、さまざまな装飾によって国民の目をくらまし、その「正体」を見えないようにしている(ほかの原因もあるが)。天皇にまつわる、わずらわしい、さまざまな装飾を取り去ってみれば、彼の「正体」がよく分かるだろうと思う。
私は、普段は新聞をくまなく読むようなことはしないのだが、おそらく2000年頃、たまたま『産経新聞』のコラムを眺めて、そこに、裕仁〔昭和天皇〕は立憲君主だったのだから裕仁には戦争責任はない、と書かれているのをみて驚いた。今どき、こんなことを言うジャーナリズムがあったのかと。『産経新聞』とはそういう新聞だった訳だが、当時は、私はそんなことも知らなかった。
戦前、裕仁は立憲君主ではなかった(より正確にはイギリス流の立憲君主というべきだろう)。ただ、立憲君主たろうとはしていた。そのことは『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』〔以下『独白録』〕に書かれている。そもそも、裕仁が立憲君主であったのなら、彼が改めてそう振舞おうと決心する必要はないことである。立憲君主ではなかったからこそ、彼は改めて立憲君主たろうとしたのである。しかし、そうは言っても、彼は、自分が立憲君主として振舞うことを公に(その周囲にも)明かにはしなかった。それは、あくまでも彼個人の私的な道徳律というだけであり、そして、彼がしばしば立憲君主というあり方を踏み外したというのが歴史の事実なのである。
明治維新からのたてまえから言えば、日本の国土も人民も全て天皇のものである。だが、そんなことは誰も認めはしないし現実的ではない。明治憲法では、所有権は消えて、ただ支配権を規定した形になっている。それによると、天皇は日本の政治・軍事上の唯一絶対の支配者である。政治については輔弼(ほひつ)としての大臣が置かれ、法律などを発効させるには、大臣の副署を必要とするとされたから、天皇が自由勝手に振舞うことはできにくいことになっていた。しかし、軍事に関しては、そんなものはない。美濃部達吉〔憲法学者〕などは、軍の編成なども天皇の輔弼たる内閣の同意が必要なのだと主張したのだが、それは解釈と言うに過ぎず、明治憲法の規定上はそうではないし、現実にもそうではなかった。陸海軍の上に立つ者は大元帥(だいげんすい)たる天皇のみであった。政治に関しては、彼の輔弼たる内閣のほかに、条約などの重要事項を天皇に代わって審議する枢密院といった機関もあったのだが、軍事については天皇を補佐する機関というものを天皇は持たなかった。のちに大元帥の傍には侍従武官という人間が控えることになったばかりである。おそらく、明治憲法がつくられた当時は、集団支配の要たる軍事力を、天皇以外の誰の手にも渡ることがないようにしたのである(しかし、そのことは、のちに、軍隊が勝手に自由に振舞う原因にもなった)。こうして、制度上からも天皇の陸海軍支配には困難があったことが分かるのだが、それでも、天皇が大元帥としてその頂点に君臨していたことに変わりはない。
明治憲法では天皇は神聖で侵すべからざる者とされ、その神聖を保つため責任を取るようなことがあってはならず、そのために輔弼者としての大臣を置くのだとされる。輔弼(ほひつ)という言葉を辞書で調べると「輔」も「弼」も「たすける」という意味である。しかし、それを例えば英語の「assist」に訳すようなことは適当ではない。輔弼には、天皇には何の責任もない、という意味も含まれるのだから。輔弼者は天皇の代理として天皇の権力を行使するのだが、それがうまく行った場合には、その「栄光」は天皇が受け、うまく行かなかった場合の責任は輔弼者が負うというのである。しかし、言葉と現実とは、また異なる。全てがそんなことで処理できればよいのだが、天皇が何かを命令したことが広く知られているなら、天皇に全く責任がないとは済ませにくい。そこに明治憲法下の天皇という地位の課題があったのである。
裕仁が立憲君主たらんとしたのは、大元帥という軍人でありながら(彼は大元帥になるまでは陸海軍大佐だった)、軍人らしからぬ平和主義者で生物学者であったなどという彼個人の事情に帰してもよいところもあるが、むしろ、天皇というものが、何の責任も取りたがらないものだから、裕仁も、また、そのようにしたと言った方がよい。
天皇側近にあっても同じである。天皇そして皇族にいかなる責任もふりかかってこないようにするのが、天皇側近たる者の基本的な道徳律なのだった。
明らかに、何の責任も取らないようにするためには、何もしないことが一番よい。だから、おおよそ、裕仁はそうしたのである。軍部に引きずられたというのは確かにその通りだが、その一方では彼自身の意志もたっぷり含まれているのである。
しかし、天皇が何もしたくないからといって、「臣下」のもとから上がって来る書類に機械的にハンコを押すだけのようなことは天皇にはできないのである。機械になってしまっては天皇の権威を損なうからである。そこで、彼は、基本的には「臣下」の者のすることをそのまま認める一方では、時には「臣下」の最高権力者を呼んで、「ご下問」をしたり、些少な指示を与えて、上下関係を確認させるのである。そして、こうしたことの具体的なことは国民には秘密にしておかなければならないのである。天皇が政治・軍事を動かしている様子を国民に知られてはならない。あとで、その責任を追及されないために。あとで、彼が周囲の者から圧力を受けて否応なくそうしていたなどの解釈を可能にするために、である。天皇は、国民には、自分が頂点に君臨しているということを示すために、さまざまな装飾を伴った姿で現われる。言わば、そういう表面的なもので目をくらませておいて、その裏でゴソゴソ動いていたのである。
裕仁が、責任のがれのために、どんなに心を砕いていたかの例として、やや不適当だが、太平洋戦争の開戦の「詔書」のことを述べてみる。アメリカ・イギリスと戦うことになったが、特にイギリスについて、裕仁は、自分はイギリスに親しい感じを持っている、イギリスと戦うことは本意ではないことを「詔書」に盛り込め、と東条英機〔総理大臣〕に命じた。それは、「詔書」のでき上がる最終段階のことだったが、そうして、イギリスと戦うことはどうして自分の本意だろうか、というような文句が挿入された。裕仁は、皇太子の時、ヨーロッパに旅行し、そこで初めて自由を味わったと言っている。イギリス王室は自分によくしてくれたと言っている。裕仁が言うことは本当だろう。しかし、私には、同時に、イギリスと戦うことは本意ではないと表明しておいたことは、戦争に敗れた場合を想定して、その時、自分の責任をのがれるための、涙ぐましい努力だったようにもみえる。もし、裕仁がアメリカ・イギリスとの戦いに自信を持っていたなら、はたして、彼はそのような文句を挿入しようとしただろうか。
戦前、裕仁は、「臣下」の者に向って、ああしろこうしろと強く命令するようなことはない。ただ、ぼんやりと、ああであるように希望するみたいなことを言う。それで、「お上(かみ)、考えを改めて下さい」なんていう説得が行われることもあり、それで最終決定までに時間がかかるのだが、しかし、天皇がその説得をはねのけるのなら、その意志が通らないということはない。そんなことはない。そういう国だったのだから。天皇に全ての権力が集中しているという国だったのだから。終戦は、裕仁の「聖断」によって決定された、そういうことが言われる。「聖断」という特殊な用語を用いてもよかろうとは思うが、それは裕仁の権力の行使にほかならないものである。もったいぶって、あと出しをしたので、何か特殊なものに見えただけのことである。
戦後の1946年9月、宮内省担当の記者と侍従職の連中が野球の試合をし、そのあと食堂で懇親会をしたというが、その席で侍従長の大金益次郎が「これまで陛下を床の間扱いにしてきたのは、われわれ側近が悪かったのだ」と言って記者に頭を下げたという。そういうことでもあるだろう。しかし、戦後になって天皇の周辺が国民にオープンになったのは、天皇が「象徴天皇」となって、ほとんど全ての権力を失ったからである。もう国民に知られても大丈夫になったからなのである。こうして「開かれた」皇室が誕生したのだった(勿論、ほかの原因もあるが)。
満州事変以来、太平洋戦争開戦まで裕仁に戦争をする意志がそんなになかったというのは本当である。政府も裕仁も軍部に引きずられたのである。そして、軍の行動を追認また追認して行った。それは、日清・日露の戦争に乗気ではなかった「明治大帝」睦仁(むつひと)が、戦争に勝って何の文句も言わなかったのと同じことである。裕仁にとっても、勝ちさえすればよかったのだ(おそらく、大抵の人がそうであるように)。たとえ、満州事変のように、それが謀略によって引き起こされたものだったとしても。しかし、日中戦争が長引くと、裕仁も警戒的にならざるを得なかった。そして、太平洋戦争のおそれが出て来て、相手がアメリカということになると、さすがの裕仁も安閑とはしていられなかった訳である。
そうしてアメリカと開戦ということになった。裕仁の戦争指導ということになると、アメリカとの戦いの中でのものが多いようだが、私は戦争中の裕仁の戦争指導をそんなに問題にしようとは思わない。何故なら、一旦戦争がはじまったなら、ある程度のところまで戦わねばならないものだし、そして戦争に勝つのがよいか負けるのがよいかと言えば、大抵の場合、勝つ方がよい筈だからである。それらは、人間の「奇妙な」行動パターンであり、改められるのなら改めた方がよいものだとは思うが、なかなかそうもできないだろうと思うからである。
裕仁の戦争指導のことを書いておこう。
おそらく、戦後は平和主義者としての裕仁が「宣伝」されたので、しばらくは裕仁の戦争指導のことを知る国民は少なかったのだろう。しかし、今では戦争指導者としての裕仁の姿は常識に属するものだろう。
太平洋戦争の中で、特に裕仁の注意を引いたという戦闘があるようである。ガダルカナル・サイパン・沖縄などの戦闘である。これらの戦闘の重要性を見れば、裕仁の戦争を見る目が実に的確だったことが分かるだろう。軍隊には、大本営という最高意志決定機関があったが、陸軍と海軍はバラバラで、そうした中にあって、裕仁には陸海軍の高度で確度の高い情報が集められていたと言われている。
サイパン戦のことを述べてみる。
アメリカ軍がマリアナ諸島のサイパン島に上陸したのは、1944年6月15日であった。そして、アメリカ軍がサイパン全島の占領を発表したのが7月9日。その戦闘で、約25,000人の日本軍人、約10,000人の住民が死んだ。
裕仁は、サイパンを死守するように軍に注意していた。その理由というのが、サイパンを失えば、本州がB29の爆撃圏内に入り、東京空襲もあるだろうということである。中国の成都から飛来したB29が「本土」(九州)を初空襲したのが、その年の6月16日。情報戦でもアメリカに敗れたといわれる日本だが、軍の情報担当は彼らにできるあらゆる手段を尽くしてB29の性能などを明らかにしていたものとみえる。大本営が、サイパン島の放棄を決定したのは、6月24日だが、裕仁は、その決定に不満だった。それは無理もないことである。
政府もサイパン戦の重要性を認識していた。6月30日、閣議で国民学校初等科児童の集団疎開を決定して疎開を加速させ、さらに、7月7日、緊急閣議で九州・台湾へ南西諸島の老幼婦女子10,000人を疎開させることが決定されている。何故疎開しなければならないのか、政府は沖縄住民などに説明しただろうか。当時の新聞などを調べてはいないが、何の説明もなかっただろうと思う。何故なら、裕仁は語っていた。(東京空襲の危険性が出てきたが、)自分は帝都東京を離れることはしないだろう、そんなことをすれば国民に不安を感じさせ、戦争意欲を失わせるだろうから、と。丁度夏休みに入ったということもあるのだろう、7月24日に、裕仁は皇太子の明仁〔のち平成天皇〕を含めた3人の子供を日光に疎開させている。そして彼らは終戦までそこで過ごすのである。サイパンから発進したB29によって東京が爆撃されたのは、その年の11月24日だった。
何かと悪名高い東条英機が総理大臣を辞職したのも、サイパン戦の失敗からである。彼は内閣改造で何とか逃げようとすったもんだを起こしたが、内閣改造だけでは済まされないという声は強く、遠まわしに裕仁の意見も聞いて、終に東条内閣は総辞職した。7月18日のことだった。
さて、6月24日に大本営がサイパン島の放棄を決定したが、裕仁は、その決定を許さなかった。翌6月25日、裕仁は、皇族の元帥2人、さらに2人の元帥、それに海軍軍令部総長〔=嶋田繁太郎〕・陸軍参謀本部総長〔=東条英機〕を呼んで意見を聞き、それで、やっと大本営決定を認めたのである。
ところで、その時呼ばれた皇族元帥の一人である伏見宮博恭〔元帥、王〕が、同じ6月25日に参謀総長や軍令部総長に向かって、「特殊の兵器の使用を考慮しなければならないと述べた」という。東条英機〔首相・陸相・参謀本部総長、大将〕は、「風船爆弾を考案し、本年秋から三万個を使用する予定であり、また対戦車挺身爆雷その他二、三の新兵器を研究中である旨答え」、嶋田繁太郎〔海相・軍令部総長、大将〕は、「新兵器を二、三考究中であることを説明した」という。嶋田の場合、「新兵器」というのが、「回天」・「震洋」という特攻兵器を意味することは明らかだという。そして、7月8日に、嶋田が「参内」して、水中・水上特攻の編成を朧げな形ではあるが、裕仁に「奏上」したのだという。
以上のことから考えてみると、B29という新兵器を生み出したアメリカに対し、日本にも何か新兵器というものがないのかと知りたがったのは実は裕仁なのだろうと思う。聡明な裕仁は、日本から爆弾のついた風船をアメリカ本土まで飛ばすというような頼りないものを重要視はしなかったろう。だが、特攻兵器ならいけるかもしれないと思っただろう。つまりは、特攻兵器の使用にゴーサインを出したのは裕仁なのだろう。そのように私には思える(そして、特攻は、終戦を1年遅らせる役割を果たすのである)。
その辺のことが戦史に描かれていないのは、「非人道的」として何かと非難される特攻兵器と裕仁とのつながりを戦史家がわざと隠したのか、あるいは、ことが伏見宮博恭という「ベール」を介して行われたためなのだろうと思うのである。
私には、「十死零生」の特攻が何故いけなくて、「九死一生」の通常攻撃が何故いけなくないのかが分からない。たとえ、「一死九生」つまり10%の死亡確率であってさえ、私には十分高率に見え、戦闘に参加する者は、あらかじめ死ぬことを覚悟してしかるべきだし、また実際にも覚悟していた筈だと思う。それなら、何故、特攻を特別扱いにしなければならないのか、私には理解できない(しかし、そうあっさり決めつけてよいものではないのだろう。自分が死ぬと分かっている攻撃に出ることは、やはり難しいことである)。特攻を認めたのが裕仁であっても、別に構わないではないか、大元帥として、それが当然であると私は思う。
裕仁の戦争指導には批判されることもあるけれども、私はどうかと思っている。まずは、大元帥として十分なことを彼はしたと思う。そして、私は、彼が戦争指導に関わったのは、陸海軍が頼りにならないボケナスだったからという印象を持っている。
裕仁が立憲君主たろうとしたということに戻る。
彼がそうしようとした理由というのは専制君主はいけないことだからという。しかし、専制や独裁のいけない点は、専制・独裁そのものにあるのではない。ものごとを的確に判断でき、行動力もある者が集団の頂点にいて、専制的独裁的権力を振るうというなら、それは集団を最も効率よく動かすということである。問題なのは、誰も、何をどのようにするのが「よい」ことなのか判断できないということにある。そこで、独裁者という者は、ややもすれば彼ばかりに都合のよいことをしてしまう。そこに問題があるのである。
裕仁は言っている。自分がもし太平洋戦争の開戦の決定にあくまで反対したなら、内乱が起こり、側近は殺され、自分の生命も保証出来ない、それは良いとしても結局は悲惨な戦争が展開されただろうと。終戦の時にも「クーデター」様のものが起ったではないか、と。
終戦時の「クーデター」様のものとは、あくまで徹底抗戦を主張する青年将校が「玉音盤」を奪って「玉音放送」をやめさせようとしたことである。彼らは師団長を殺してニセの師団命令を出すなどの大それたことをやらかしたが、「玉音盤」を奪うことは出来ず、翌8月15日、正午前に首謀者の2人が自殺するなどして終息した。結局は、そうたいしたものでもなかった。
8月15日正午の「玉音放送」を聞いて、永井荷風・谷崎潤一郎などのごく一部の者を例外として、日本国民の全てが涙を流したものである。「一体今まで何の為に……」と言う者もあった。日本国民は、戦争に勝つためならどんな苦労も耐え忍ぼうと思っていた。裕仁に朕とともに死んでくれと言われたなら、そうしようと思っていた。8月14日の反乱将校が何を思い、何を考えていたのか、私は知らない。それまでに数多の将兵が、戦場で悲惨な死に方をしていった。ここで無条件降伏をしてしまっては、それら数多の命はどうなるのか。死んだ「戦友」にどんな申し開きができるのか。そういう思いではなかったかと想像する。そのような思いは私にも分からないでもない。所詮は降伏するしかなかったのだとしても。
8月14日の反乱将校たちは天皇の命令に背いた訳だが、天皇に背きたかった訳ではないだろう。彼らは相変わらず天皇崇拝者だった筈である。戦前の日本においては、日本国民のほとんど全てが、天皇崇拝者・天皇主義者で、天皇に否定的な者は刑務所にいるか沈黙しているのだが、それは極く少数であった筈である。昭和期最大の反乱事件「二・二六事件」を起こした青年将校たちも、やはり熱烈な天皇崇拝者だった(あまりに熱烈だったせいか、刑務所の中で天皇に批判的・「呪う」ようなことを言った者もいたけれども)。
太平洋戦争開戦前の時点においては、開戦の決定にやむを得ない点があったことは私も認める。だが、満州事変の起こった1931年から、それまでの間にでも、もし裕仁が、私は戦争を望まない、戦争を企て、また戦闘行為を行う者は、私に背く者であり、それは日本の名誉と栄光を傷つける者である、などということを公言したとしたらどうであったろう。極めて大きな影響をもたらし、あるいは、全ての軍事行動を停止できたかもしれない。
あるいは、裕仁が言うように、そのことで裕仁は命を失ったかもしれない。それでも、そうすべきではなかっただろうか。アジア太平洋戦争を直接的な原因として死んだ日本人は350万人くらいだろう。裕仁が自らの命を犠牲にしても、そうする価値があり、そうする必要があるものだった。そう私は思うのである。
しかし、天皇というものは、そういうことはしないものなのである。彼にとって最も大切なことは国民の命や生活なのではなく、天皇、そして天皇制が存続するということなのだから(天皇の考えというだけではなく、戦前の日本人一般の考えである)。
裕仁の戦争責任ということは時に議論されるが、私に言わせれば、裕仁の戦争責任は、彼が何をしたかにあるのではなく、彼が何をしなかったかにある。そして、私たちの普通の「習慣」からすれば、しなかったことに対しての責任を問うのは難しいのである。
アジア太平洋戦争では、日本人は天皇のための「聖戦」を戦い、どれだけいたのかは知らないが、「天皇陛下バンザイ」と言って死んでいったのである。こうした天皇と戦争の歴史を眺めて、私が抱く当然の疑問は、日本人にとって、天皇というのは、そんなにも大事な大切なものなのだろうか、ということである。答えは明白である。No。私が生きて生活していることと天皇とは何の関係もないし、今後も何の関係も持ちたくはない。ただ、普通の人間である天皇をめぐって、さまざまな「奇妙な」歴史が展開されたということ、その事実を私は時には楽しみにもするが、また、そのことに慄然ともするのである。
近頃、裕仁がA級戦犯が靖国神社に合祀されたことに不快感を持っていたことが報道された。それによって、裕仁という人は、単なる国の「お飾り」なのではなく、きちんとした見識を備えた人だということが改めて分かる。それに対して、それはウソだという記事も雑誌に載ったようだが、私は読んでいないから、詳細は知らない。ただ、私は事実だろうと思っている。それは、裕仁が靖国神社に行かなくなったという事実に合致するのだから。それなら、裕仁はA級戦犯が靖国神社に合祀されないように何らかのアクションを起こしただろうか。何もしなかっただろう。聡明な裕仁は、そんなことをすれば、新憲法における「象徴天皇」や宗教の自由などに違反しかねないことを、よく知っていた筈である。それに、彼は靖国神社そのものは、相変わらず好ましいものと思っていたので、自分が関わって騒ぎを起こしたくもなかった筈である。だから、彼は、自分が靖国神社に行かなくなったことを靖国神社側が察知して、何らかの処置をすることを期待していただけなのだろうと思う。ここで、付け加えておけば、そういう秘密主義というものは、天皇・皇室一般の基本的な「戦術」であるということである。
ものごとを曖昧のままにし秘密にしておくことの有用性を説明するのに、どんな例を挙げたらよいだろう。あるいは例を挙げるまでもないことだろうか。「記憶にございません」などで、もう、すっかりおなじみのことだ。やや不適当だが、年金問題のことを述べる。
年金のことは、私は、10月20日頃少しだけ調べた。社会保険庁〔社保庁〕・総務省のホームページには、ある程度の資料が公開されている。マスコミが報じる断片的情報を受け取るより、それらを調べた方が手っ取り早いということがあるし、それによって、如何にいいかげんなことが言われてきたかもよく分かる。数時間もあれば読みきれる量だ。それらの資料で十分という訳ではないので、私は、国民年金法・厚生年金法から調べようとしたが、法律を読むのはメンドくさく、ほかのことに取りかかったので中断した。
年金については、さまざまな報告が出ているから、あらためて私が何かをいう必要性はなくなって来た。ただ、ひとつ言っておけば、大体、社保庁などが発表し、マスコミが関心を寄せる対象は、統合できていない記録に向けられているのだが、そのほかに統合できたとされる記録にも注意を向ける必要があるということだ。社保庁の所謂「名寄せ」作業は、極めてあやしいものだからである。おそらく、その作業は、数は少ないにしても決して無視できない数の新たな混乱を産み出すだろう(このことでは、別にあらためて書くかもしれない)。
今年〔2007年〕、5000万件の「消えた年金」が明るみに出て、安倍内閣は、来年〔2008年〕3月までに問題を解決すると約束した。何ともいいかげんなことを言う。5000万件の年金記録にどんな問題があるのかは、コンピュータで調べなければ分からない。分からないことに対して、いつまでにできるなんて言える訳がない。安倍普三〔総理大臣〕が内閣を投げ出した時、国民の間には舛添要一の厚生労働大臣の留任を求める声が多かったが、私もその一人である。しかし、ぼちぼち、その舛添要一もボロが出始めているようである。彼は、2008年3月まで「消えた年金」を解決できるかどうかは分からないのに、できないというのは無責任だ、などと言っていた。総務省の年金記録問題検証委員会の報告が出て、舛添要一〔厚生労働大臣〕らが頭を下げ、減俸を発表した。2008年3月までに解決できないことは、その報告書からも明らかなことだと私は思ったが、12月11日になって、社保庁は、1975万件について照合困難などの数字を発表した。それ以前に、ある自民党議員が、政府は2008年3月までに問題をすっかり解決すると言ったのではない、(一部の)作業をそれまでに終えると言ったのだなどと言うのを私は聞いたが、12月11日には、福田康夫〔総理大臣〕以下、舛添要一なども同じことを言い出した。あきれたものだ。それならそうと明確に言っておかねばならない。政府発表では、2008年3月までに問題を全て解決するような口ぶりだったではないか。舛添要一は、予想外だったと釈明した。彼は学者として頭が良くキレるのがウリだと思うが、結局頭がワルかったということなのか(ほかの「悪口」もあるが、ここではやめておく)。政府・自民党に弁解する余地はあるまい。それなのに、選挙があったからなどと言い逃れを図ろうとする。あとで解釈を変えられるような言い方をしなかったことを彼らは後悔していることだろう。国民の全てに関わる年金についてさえ、この通りであるから、マスコミにも取り上げられないような少数者の問題に彼らがどういう態度を取るかは目にみえている。
ものごとを曖昧にし秘密にしておくこと、それは、のちの言い逃れ、言い繕い、また、さまざまな解釈を可能にさせるのである。それは、誰かの地位を安泰にさせるなどのさまざまな目的に役立つ。新憲法下で権力を失った天皇、いや「伝統的」に天皇家が採用して来た「戦術」が、それなのである。
天皇家の秘密主義は現在も生き続けている。
小泉純一郎内閣は、皇室典範を改正し、女性天皇を可能にしようと企てた。皇室典範には天皇は男子に限るとなっていて、皇族には、女子ばかりが生れている状況だったから。さまざまな議論が起こり、元皇族やら皇族からの反対意見も雑誌などに載った。私は、そのこと自体は好ましく健全なことだと思うが、その内容は結局は伝統だからというに過ぎないバカバカしいものである(詳細は省く)。そうした最中にあって、2006年2月に川嶋紀子〔文仁(ふみひと)〔秋篠宮〕の妻、名字がないのは不便なので旧姓をつける〕の「ご懐妊」が発表された。たちまち、皇室典範改正の動きはしりすぼんでしまった。なんでも安倍普三は小泉純一郎〔総理大臣〕に言ったそうである。「これで皇室典範改正も慎重にしなければならなくなりましたね」「何故だ」「総理は今度生まれてくるお子様が天皇になる可能性を奪うおつもりですか」「そうか」
そうして、2006年9月に川嶋紀子は男の「お子様」を産んだ。赤ん坊が生まれることはめでたいことだ。マスコミをはじめとして、日本国中、めでたい、めでたいで湧き返った(少しオーバー)。
ああと私は嘆かずにはいられない。将来、天皇になるべき男子が生まれた、メデタシ、メデタシ――本当にそんなもんかい、と何事にも疑り深くなっている私は思うのだ。国会で皇室典範改正の論議が本格化しようという時に川嶋紀子の妊娠の発表があったのだ。あまりにタイミングが良過ぎる。それは、つまりは、女性天皇 No という皇室からのメッセージなのだ。そのことは、あまりにも明らかなように私には見える。
大体、娘二人に恵まれ子供はこれで十分と思っていたはずの文仁夫妻が11年の歳月を経て子供をもうけるというのも不自然な話ではないか。結局、徳仁(なるひと)〔皇太子〕の妻の小和田雅子は、もう子供を産みそうもない。このままでは、皇室典範が改正され、女性天皇が誕生してしまう。それなら、まだ子供を産める川嶋紀子に子供を産まそう。そうして、女性天皇誕生を阻止しよう。そういったことが考えられたのだろうよ。そのことは、明仁〔平成天皇〕からも同意を得た筈である。と言っても、思うに、文仁と明仁の次のようなたわいもないような会話があったばかりだろう。
「政府内で皇室典範を改正しようという動きがあるそうですね」
「そう聞いています」
「もし皇室に男子が産まれれば皇室典範の改正も必要なくなるのでしょうね」
「そう思います」
そんな謎掛けのような隠微な会話で明仁の承認を得た文仁は、その妻を妊娠させ新たな天皇候補を生み出すべく努めたのである。そうして誕生したのが、「悠仁(ひさひと)ちゃん」という訳である。
基本的に私には誰が天皇になろうとどうでもよいことである。ただ、皇族に女の子供しかいなくて、皇室典範改正の議論が起こることは、日本人が天皇というものを考えるよい機会だと思っていた。そんなことでもなければ考えようとはしないだろうから。しかし、その機会は失われた。川嶋紀子の妊娠が発表されても、生れてくるのが男か女かは分からない訳だが、私は早々にあきらめてしまったようだ。
実際のところ、以上に述べたことは私の想像に過ぎず、また、精子を選り分けて、故意に男子を産まそうとしたのでないのなら、それは「謀略」とも呼べないものであるだろう。そして、また、将来に渡って、以上のようなことがあったか、また、なかったか、それが実証される可能性というのもまずないだろうと私は思う。
しかし、私には天皇を含めた皇族の行動というものがよく分かっている。私は、以上のようなことが実際にあったろうと信じている。そう思った人は大勢いると思うが、そんな記事がマスコミに出ないのは、何かタブーがあるせいなのかと思う。天皇家が女性天皇がイヤだというなら、そうとはっきり言ったらよかろう。しかし、天皇・皇族というものは、自分の意見というものを示そうとはしないものである(皇族の一人が、女性天皇Noを表明したが、彼は所謂「傍系」である)。皇室は、その一方で、自分の思い通りにならないことを何とかできないかと齷齪するのだ。私は、そのようなことを滑稽にも思い、また同時にうんざりもするのである。
福田康夫〔総理大臣〕が、(2007.11頃)皇室典範について話していたのをTVで見たので、そのことを書き添えておく。彼は皇室典範をどうするのかと質問されて答えていた。皇室典範改正はしなければならない、しかし、難しい問題だ、と。結構。難しい問題には違いあるまい。だが、人は会議で重要事項はあっさりと片付け、重要でないことは長々と議論する。皇室典範改正などはその例に過ぎないのだ。誰が天皇になろうと知ったことか!(そう短気になるもんでもないがね。私は、当然、「愛子ちゃん」が次の次の天皇になるべきだと思う)。
裕仁の侍医をしていた人の書いたものによると、裕仁の普段の生活は質素なもので、裕仁の食事は麦飯だったのだという。おそらく、戦後の食糧難をうけてのことだろう(1946年5月19日、皇居前広場で食糧メーデー、「飯米獲得人民大会」が開かれている)。麦飯を食べていたといっても、戦前はそうではなかったろうし、ほかの皇族もそうではなかったのだろう。質素な生活を心掛けるということでは睦仁〔明治天皇〕もそうであり、国民が貧しいものを食べているのに天皇が贅沢をするわけにはいかないということだったろうか。それは、「王」として好ましい態度である。しかし、確か裕仁が死んだ時、何億円だかの相続税を国税庁に収めた筈だ。当然だが、天皇には毎日三ツ星シェフを呼んで料理を作らせるなんてこともできるのである。それなのに麦飯を食べていたとは、裕仁は余程の変わり者だったとも言える。
戦前の日本人は「馬鹿の一つ覚え」みたいに「国体」「国体」と叫んでいたが、1946年の新憲法制定国会では、当然のこととして、新憲法は日本の「国体」を変えるものなのではないかという質問が出された。それに答えて金森徳次郎〔国務大臣〕は、日本の「国体」とは、国民が天皇をあこがれの的として結合するというところにあり、新憲法でも日本の「国体」は変わらないと答弁した。いちいち驚いてもいられないが、なんとまあいいかげんなことを言うものだろう。
私は麦飯を食べる天皇にはあこがれない。誰があこがれるだろう。現在の皇室に対しても、何もしないでもメシが食えることのほか、私があこがれるものは一つもない。もし、天皇が贅沢な暮らしをしていたなら、今度はお前はそのことに文句をつけるだろうと言われれば、そうかもしれないとは思うが、要は程度の問題である。私はただ皇室というものには、国民があこがれるものがもっとあってもいい筈だと考える。
皇室のだれそれに対してよく「お忙しいご公務」などということが言われるが、到底信用できず、お世辞以上の意味はまずなかろうと思う。「公務」といっても、何かの開会式とかに行って役人の作った挨拶文を朗読する程度のこと、ちょっと花を添えるだけ、行っても行かなくともどうでもよいものである。忙しいというのなら少し減らしてくれと頼めばよい。減ったところでどうってこともない。だから、もし「公務」に忙しいというのなら自ら望んで忙しがっているだけなのだ、ということになる。小和田雅子が病気とやらで現在「公務」から遠ざかっているが、それで誰も困ってはいないだろう。ただ、「公務」に出ないと、国民と疎遠になるという心配があるばかりだが、結構TVに出ているようだから、それで何の問題もない筈だ。
大分、皇室に対して「悪口」を並べたようだが、何もかもに疑り深くなっている私は、何に対しても全賛成もしないが、また、全否定もしないのだ。メンドくささを自らつくりだしている感がないでもないが。
昭和の歴史の中で、私にとって、裕仁は最も印象深い人物の一人である。「人間」としてみた場合、私は彼に悪い印象はない。それは、彼の兄弟の雍仁(やすひと)〔秩父宮〕や宣仁〔高松宮〕についても同様である(おそらく、もう一人の兄弟の崇仁〔三笠宮〕や現在の皇族についても同様だろうと思うが、私はよく知らないのである)。昭和の歴史を眺めて、裕仁が日本の「王」であったことは、日本人にとって幸運であったと思う場面がたびたびあった。例えば、終戦の場面。広島に原爆が落とされ、いち早く終戦へと動いたのは裕仁だったようである。8月14日の最終決定までにすったもんだがあったが、政治・軍事の権力者の中にあって、終戦への意志をはっきりと持ち、その態度を変えなかったのは、裕仁と米内光政〔海軍大臣、大将〕など、ごく少数であった。ただ、日本という国あるいは政府が、そのようなものになったことには、裕仁には大きな関わりがある。だから、そうそう裕仁をほめたたえる訳にもいかないだけである。ここで裕仁をあまり持ち上げると、文意というものがバラバラになりそうだから、これ位にしておいた方がよいだろうと思う。裕仁が終戦工作時、何を考えていたのかを記しておこう。(国が滅びるより)国民のタネを残しておいた方がよい、というのである。裕仁が明仁に書き送った言葉である。裕仁にとって国民は民草(たみくさ)に過ぎなかった(繰り返すが、当時の日本国民一般の考えでもある)。そして、それでも、それは、2000万人を特攻に使えだの、1億玉砕などを主張する軍高官よりは、まだまともだったのである。
戦後、裕仁はストライキに明け暮れる日本人を見て、付和雷同性があると言ったが、自分が付和雷同性の最たる者であることには気がつかなかったようである。日本人の国民性として yes と no をはっきり言わないということも言われるが、その代表選手がまた天皇である。新憲法になって、天皇は、日本国の、また日本国民統合の象徴となったが、日本人の象徴、むしろ、日本人の典型・代表といってよい。
天皇といっても普通の人間である。はたして普通の人間であった裕仁には、当時何が可能で、また私たちは何を望むことができただろうか。天皇、裕仁もまた時代の荒波に流された一人といってよい。ただ、そのように言って済ますのでは、人間の行為の可能性というものをいたずらに矮小化することになるし、歴史の理解というものをはなはだ曖昧なものにしてしまうことになるだろう。
明治憲法下の天皇は50年ほどの時間に耐えた。それは、決して不安定なものだったとは言えない。ただ、既に述べたように、そこには、やや困難な課題があった。その困難な課題は、近代日本の歴史を屈折させ、特徴付けている。例えば、「二・二六事件」で、反乱将校は「君側の奸」として高橋是清〔大蔵大臣〕らを殺したが、彼らに「君側の奸」と見えさせた原因の一つは、皇室の秘密主義である。江戸時代など明治より前の長い天皇の歴史を眺めるなら、現在のような、ほとんど何の権力も持たない天皇のあり方こそ、天皇・天皇制のより安定した姿であることが理解できるだろう。
私は、天皇は民営化してほしいと考える。その上で、アマテラスだの神武だの紀元2700年だの、男長子による血統などといったタワゴトは個人の自由のひとつとしてやってほしいと思う。国が関与するようなもんじゃないと思う。
とは言っても、将来制度としての天皇が日本からなくなることを私は予測してはいない。それは、存続し続けるだろうと予測している。
天皇制・王制というものは、ほとんど役には立たないにしても、まるっきり役に立たないと言うのでもない。それらは、国民という集団メンバーを結束させ、集団を安定させることに役立っている筈だとも考えている。ただ、それを検証するには、それらの制度のない国々と長期の比較をするしかなく、少し難しいことではある。そして、結局のところ、役立っているとはいっても、それほど大したものではないだろうと私は思っている。
時に日本人は宗教心に乏しいと言われるが、天皇「崇拝」は、宗教と同じようなものである。従って日本には、天皇教徒が大勢いる。遠い将来の予測を言えば、天皇は、ほかの宗教の「聖なるもの」と同じ運命をたどるだろう、そのように私は考えている。
この文章のタイトルを私は「天皇の謀略」としたが、適切であるとは言いにくいところもある。ちょっとインパクト性を持たせて、そうしたのである。ここで、特に皇室の秘密主義と呼んできたものを、私は天皇の生存戦略とも呼んだりしている。それが、どれだけ意識的に天皇・皇族の行為を生み出しているのかは分からない。むしろ、天皇の生態とでも言った方がよいものかもしれない。だが、人間の行為が全て意識的に統御されているなどとは到底考えられないことだし、意識的であるかどうかは、そのことを述べたり書いたりされるのでなければ分からないことだし、たとえ、意識的であってもそれを書いたりしないこともある。結局、行為を生み出す内部システム(=精神)は、行動から判断するよりないものである。そうしてみれば、ここで秘密主義と呼んだものが、天皇・皇族の、行為を導く行為の規則になっていることは、全く明らかなことである。
ここで、改めて言っておく。裕仁が、平和主義者だった、軍部に利用されていた、あるいは、立憲君主だったなどと言って済ますことは、「天皇の謀略」に、まんまと引っかかっていることである、と(裕仁が軍国主義の「親玉」だったとすることも同様)。
皇室の秘密主義に関してつけ加えておく。日本には天皇陵と言われている古墳があるが、ややうろ覚えだが、それらは宮内庁が管轄していると私は聞いている。そして、宮内庁はそれらの古墳を学術調査するのを許してはいないという。おかしな話だ。皇室には生物学者の裕仁やオリエント学者の崇仁という学者もいたというのに。それら古墳がつくられたのは千数百年前だが、紀元前数千年のエジプトやオリエントの歴史から見れば恥ずかしいようなもの、それは多分、小松左京の受け売りだが、もっともである。古墳というのが大したものなのか、そうでないのかは、どうでもいい。調べたいという人がいるのだから、調べさせたらよさそうなものだ。
天皇のことを述べたついでに、日本赤十字社〔日赤〕と靖国神社のことも書き添えておこう。
まず、日赤。日赤のことは少しばかり調べたが、決して十分ではない。そうした中で、日赤の社長として、徳川だの近衛だのという名前を見い出して、私は意外な感じがした。まるで、そこには、かつての華族が生きているかのようで。勿論、旧華族だろうと誰だろうと、その職にふさわしい人がその地位についているというなら、私も何も言うことはない訳である。しかし、おそらく、そうではあるまい。日赤には、戦前からの伝統が強く残っているのだ。だから、日赤は、「人道」という装飾でその身を飾りながら、しかし、誰も「本当に」人道を実現するにはどのようにしたらよいか、などということを考えようとはしないのである。そして、日赤は、密かに皇室の「藩屏」になっているのである。
かつて総理大臣だった小泉純一郎が靖国神社に行くことに、中国・韓国は反撥した。小泉純一郎は、何も戦争賛美のために行くのではない、不戦の誓いを新たにするために行くのだなどと反論していた。マスコミは、そういう報道はしたが、靖国神社をめぐる論議は比較的少なく(弱く)、どちらかといえば小泉純一郎に味方していたように私は思う。私は戦後生まれで直接あの戦争のことは知らないわけだが、近年あの戦争に関する本を比較的多く読んできたつもりである。そこで、私は、かつて、日本の若者が、死んで靖国神社で会おう、そんなタワゴトを語り合って死んでいったことを忘れない、そう言いたい。言わば、靖国神社は、あの戦争における「不毛の死」の象徴なのである。不戦の誓いは結構なことだが、小泉純一郎は、かつて靖国神社がそういうものであったことをどのように考えているのか、私はそう訊ねてみたい。
靖国神社についても全否定はしない。将来、日本が再び戦争をするという可能性はゼロではない。たとえ現在「平和憲法」を持っているからといって、将来、ある国から「無法な」攻撃をしかけられたら、黙っていることはあり得ないことだ。そうなれば、長々と憲法改正の議論があったが、あれは一体何だったのだろうとあとで思ってしまう程、たちまちのうちに憲法は改正されることだろう。そして、ドンパチに精を出すことだろう。もし、そうなったなら、「お国」のために戦うという者が現われることは必要なことである。そのための手段として効果があるのなら、理由は何でも構いはしない。たとえ、それが死んで神になるというタワゴトであったとしても。
問題なのは、将来、ある国から「無法な」攻撃をしかけられる可能性がどれだけあるか、である。かなり小さいと言わざるを得ない。それなら、靖国神社の意義はほとんどない。歴史的価値しかないだろうというのが私の考えである。
時にもうメンドウなことは何もかもイヤになって、天皇は民営化し、靖国神社なんてものは壊してしまえと思ったりする。天皇・日赤・靖国神社なんてものに、私はあまり触れたくはない。とかくメンドウだから。そう思う度に、まあ、しょうがないかいな、と思い返してはみるのだけれど。
それらの事柄に関して私がさらに予測するところは、次のようなものだが、結局現状維持という実につまらない結論があるばかりである。
皇室典範改正の本格的議論は忘れられ、それは悠仁が天皇になるまで行われないだろう。つまり、今後50年位は変わらない。
靖国神社に関する議論は進展せず、半ば忘れられ、やがて靖国神社は歴史的建造物と化すだろう。
日赤は変化なし。相変わらず「人道」の装飾を纏い続けるだろう。
私が天皇について語るのなら、天皇と遺伝子主義・階級の原理との関係についても触れなければならない。しかし、ここでは、強い親近性があると言っておくだけにする。