辻潤関係写真集

 気仙沼観音寺と歌碑(2007.4)。

  海岸山観音寺の朝ぼらけ空々くろろんと啼くは誰が子ぞ 陀仙

 碑の裏には、辻潤の略歴がびっしり彫られている。

 私は、この歌は、最初の五音あるべきところが字余り、次が字足らずで、それらを纏めて一息に「かいがんさんかんのんじの」と読むのかと思っていた。けれども、菅野青顔の「先生の歌」〔1939.10.1〕によると、「観音寺の」は「かんのんでらの」と読むのだという。菅野青顔がそういうのだから、そういう読みなのだろうということになる。菅野青顔「私の世迷い言」にも、同様にルビを振っている。そこには、「 気仙沼来遊の砌(みぎり)、 "海岸山観音寺(かんのんでら)の朝ぼらけ(傍点)空々くろろん(傍点終)と啼くは誰が子ぞ" とともにノートに書き残していった一首、「みちのべの名もなき草となり果てて人に踏まるる楽しからずや」」とあり、ノートに書き残してあった歌のようでもあり、辻潤からそう聞いたとは確認されない。
 気仙沼にある観音寺の読みは「かんのんじ」である(号は、海岸山普門院)〈「観音寺」『宮城県百科事典』〉。『本の手帖』第5巻第4号 No.44には、「みちのくの観音寺の朝ぼらけ空々くろろんと鳴くは誰が子ぞ」というらしい辻潤の歌のカットがある(私にはきちんと判読できない)。この場合は、音数を合わせて「かんのんでらの」と読みたくなるが。

 観音寺には、辻潤の歌碑以外にも同地出身の落合直文の碑とか沢山建てられて居る。辻潤の歌碑だけではあんまりだと気付いたのに違いない。最初に建てられたのが辻潤の歌碑である。

 海光館の碑と海光館(2007.4)

 気仙沼には旅館海光館にも歌碑があり、『歌碑・句碑事典』だったかを見たが、辻潤の歌碑(&句碑)は全国で気仙沼にある二つだけである。
 海光館の前の道路を挟んだ駐車場らしきところに碑はあり、活字体で次の歌が読める。

  尾ノ崎の海光館のあねこらは呼べど返事をせぬアネコかな 陀仙

 海光館の女たちが、「おしょしがって」〔恥ずかしがって〕返事をしなかったことをからかった歌なのである〈菅野青顔「萬物流転」『三陸新報』1975.5.1〉。しかし、海光館はサービスが悪いとも読める歌だから、何でこんな歌を歌碑にしたのか理解に苦しむ。大方、気仙沼のようなところでは辻潤も大先生として崇められていたのだろう。
 今の海光館は住宅地の中にあるようで、昔の面影はまずないだろう。海水浴はできないが、海のすぐ近くでのんびりしたところである。


 駒込西福寺にある辻潤の墓(1999)。
 私は1998年に西福寺にある辻潤の墓を初めて訪れた。西福寺の墓所はそう広くもない。自由クラブが建てた墓碑が墓のところにあるのだと思っていて、それを目当てに探したが見つからない。西福寺の奥さんと思われる人に声を掛けて、案内してもらった。そこには、辻潤という墨書された字がやっと分るような木の柱が一本立っているきりで、周りが立派な墓だけに余計寂しく見えた。ちょっと茫然としたかもしれない。碑がある筈ですが、と訊いてみた。それは、西福寺の門から見て左に五輪塔などと一緒に並んでいたのだった。誰もみる人がなくて、世話はうちの方でやっていたというように話された。帰りがけに、ダダイストと呼ばれた辻潤だから、ダダ風の墓石がふさわしいだろうかとか、いやいやこれでいいんじゃないかとか色々な考えが浮かんだ。
 それから、写真を撮りたくもあって、1999年にもう一度行ってみた。すると、自由クラブが建てた墓碑が墓の方に移されていた。西福寺の方でこの墓碑を墓の方に移して下さったのだろう。これで墓らしくなった(そこには、辻の両親(& 辻秋生)も眠っていて、それで、この墓碑が最初から墓の方に建てられなかったのかもしれない)。
 表に、陀仙辻潤の墓、とあり、裏に、昭和十九年十一月二十四日 ですぺらの会 自由クラブ 有志、と刻まれている。
 何と言う石かは知らないが、辻潤の好きな老壮の自然に時とともに帰っていくような感じがする。緑の色合いが故人の純粋さを示しているようだ。

 辻潤が入院し、後三島寛(あきら)(武林無想庵の弟)が勤務した慈雲堂病院の現在の姿(1999)。
 現在、慈雲堂内科病院、練馬区関町南四丁目にある。当時と同じ場所にあるのかは知らない。
 すぐ傍を千川上水が流れている。当時の面影はあるのだろうか。あったところで、どうってことはないが……。



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