誰も信じてはならない:辻潤年譜を改めるに当たって

 誰も信じてはならない、そう言いたい。といって全てを疑えというのではない。どんなことでも100%信じるな、10%の疑う余地を常に残しておけ、そう言いたいのである。
 先の「辻潤のひびき」では、私は、岩崎呉夫の『炎の女』という本に対して、辻潤に関してはデタラメだと大書しておいた。しかし、あれから、世の中の本というものが信用ならないものだということがよく分かってみると、単に私が世間知らず、もの知らずというだけだったのかとも思われた。それで、今回は、岩崎呉夫の『炎の女』がデタラメという箇所は削除した。
 しかし、私は世の中のデタラメな部分をほじくり出すことは止めないつもりである。大抵の人は、よく分からないこと、よく知ってもいないことまで、いかにも知ったかぶりに書き連ね、言い繕っているからである。『炎の女』についていうと、この著者は辻潤のみならず伊藤野枝のことについてもデタラメを書き連ねている筈だというのが予想されたのだったが、今回調べてみるとまずその通りであることが分かった。それで、このようなデタラメに対して、岩崎呉夫のほか、瀬戸内寂聴などを含めて、いかにして、デタラメが産み出され、いかにしてそれが世の中に広まったかについて一言言いたくなったので、このことは別に書いておくことにした(世の中のデタラメということでは、別に「偽りの青葉慈地蔵尊」というページも公開してあるので、興味のある人はみていただきたく思う)。

 私が、辻潤の年譜を作成しようと思った経緯は、先の年譜に少しだけ記しておいた。辻潤に関する本を読むと、細かいことだが、言っていることの相違が目に付いた。『ダダイスト辻潤』にも年譜があるが、簡単なものである。そこで、『ダダイスト辻潤』の本文に書かれたことを主にして年譜の形で整理してみようかと考えた。その時には、『辻潤全集』別巻の年譜は見ていなかった。最初から見ていたら、年譜を作ろうという気は起こさなかったかもしれない。「全集年譜」を見て、自分の年譜作成はかなり無意味だったかとも思った。しかし、「全集年譜」を取り込む一方で、その内容を調べて行くと、その間違いにも気付き始めた。それで、自分に調べられる限りを調べてみようという気になって、作成したものを公開したという訳だった。

 しかし、先の年譜は、小島清の日記などをそのままぶち込んだりしていて、いかにも不恰好な形のまま放り出したものだった。どうせ、シロウトのきまぐれな試みというようなものだし、面倒だからそうしたのである。それでも、そのことは残念には思っていたし、それからも読んだ本に辻潤の名が出てくればメモに取る位はしていたのだが、実際のところめぼしいものは集まらなかった。そこで、今回、思い切って、また集中的に辻潤年譜に取り組んでみることにした訳である。

 それで最初に読んだのが山本夏彦の『無想庵物語』だった。この本は私の住んでいる町の図書館にも置いてあったから。この本は、先の年譜作成の時にも読んでいたのだが、年譜にはほとんど盛り込まなかった。山本夏彦が依拠しているのは『むさうあん物語』というシリーズ本だが、この本は極めて少部数しか出ておらず、話題があちこちに飛んでいたりして内容をつかみにくい本とある。まず、どこに行ったら『むさうあん物語』を読めるだろうかと思い、またそんなものを読みたくもないと思い、できるだけ「基本的」な典拠から年譜を作りたいと思っていたものだから、『無想庵物語』の内容はパスした訳だった。今回は、できるだけ「基本的」な典拠などということを言っていられそうもないと思い、その内容をできるだけ新たな年譜にも取り込むつもりで、『無想庵物語』を読み返した訳である。
『無想庵物語』を読んで思ったものである。武林無想庵にしろ、辻潤にしろ、近代日本の文芸史上では極めてマイナーな存在である。山本夏彦はたまたま武林無想庵と関わりがある人だったから、『無想庵物語』なんていう本を出したのだ。今後、武林無想庵を主題にした本を出そうなどという変わり者が現われることはまずあるまい。それで、山本夏彦の『無想庵物語』は、遠い将来に渡って、武林無想庵についての決定版の役割を果たすことだろう。しかし、と私は思う。『無想庵物語』には多くの間違いがある。そうした間違いもまたそれを読む人に信じられて行くことになるのだろう、と。

(結局、私は『むさうあん物語』に目を通してみた。なる程、編集はなっていないし、武林無想庵の語りには、昔の回顧などがいきなり割り込み、話の脈絡というものを捉えるのが困難ではある。しかし、『むさうあん物語』の一冊一冊は分量のそれ程ない小冊子であるし、武林無想庵が語らなかったことはともかく、語ったことについて整理できないというものではない。それをしない山本夏彦は怠慢であるし、読者に対して失礼というものだと私は思う。

 私はちょっと疲れている。武林無想庵とか辻潤などといったマイナーな存在について書かれたものに対して、あれが違う、これは確かではないなどということは、シーシュポスの責め苦、無意味なことを反復する刑罰に似ている。間違いを書き記すことはオロカでバカバカしいことだ。それを読んで信じることもオロカでバカバカしいし、その間違いを指摘することもまたオロカでバカバカしいことだ。しかし、その責め苦に耐えて続けることにしよう。)

『辻潤全集』別巻に佐々木靖章という人が「辻潤の著作活動」という論文を書いている(『辻潤全集』の中ではめずらしく論文といってよいものである)。その中で佐々木靖章は各辻潤年譜の間違いも指摘していて、そのことは私にはただありがたく、先の年譜では、佐々木靖章の書いたことを全面的に採用し、ケチつけたものは全くなかったように思う。しかし、今回新たに調べてみると、佐々木靖章の書くことにも間違いがある、というより間違いが多いと言わなければならないのである。
 佐々木靖章は辻潤の出した本について懇切丁寧に解説してくれている。私は、辻潤の本やら、辻潤の書いたものが載った雑誌やらについて調べる気がほとんどないので、そうした書誌情報については、佐々木靖章や「全集年譜」などをそのままありがたく受け入れるだけである。そうしたことには感謝の言葉以外にほとんど何も言うことはない。しかし、それ以外のことでは、佐々木靖章は見当違いのことを多く書いている。
 辻潤の「一滴の水」という作品は『浮浪漫語』に収載されているが、もともとは『実験教育指針』という雑誌に他の二篇とともに掲載されたものである。佐々木靖章は、「「一滴の水」は『浮浪漫語』に収録されているので創作に間違いはなく、他の二篇も創作であろう。「成効者」もイソップ寓話の体裁をまねたものであろう。「せいび訳」と翻訳の形をとったのは、寓話的作品をカモフラージュするためと思われる。」と書いているのだが、「一滴の水」がアンデルセンの童話の翻訳だと知っている目からみると、なんとまあ、もっともらしくもいい加減なことを言うのかと思っても仕方ないのではなかろうか。ここで、佐々木靖章がこのように言うのは、研究者としての誠実と情熱の証しあることは言っておかねばならないし、私もまた長いこと間違っていたことは言っておかねばならないけれども。
 辻潤研究者の佐々木靖章(何を専門に研究していたのかなどは知らない。とにかく大学の先生らしい)がこの有様なのだから、「全集年譜」などにどれだけ間違いがあるかは容易に想像がつくだろう。

 辻潤の年譜というものについて、私は、現在、「全集年譜」が最も確かなものと世の中に受け取られていると考えているので、特に「全集年譜」を「標的」にしようと思う。「全集年譜」には、辻潤がいつどんな雑誌にどんな作品を発表したかという書誌情報も含まれていて、先に述べたように、私はそれらについてほとんど何も調べずただそのままに受け取る(僅かに調べた範囲では書誌情報も相当問題がある)。そうした書誌情報も含めて言えば、「全集年譜」も9割程度は正しいのかもしれない。しかし、書誌情報を除いた辻潤の生活誌についていうと、その25%は間違っているという感じである。勿論、何をどう数えるかにもよる。あくまで感じである。
 辻潤が最初に比叡山に上った年が3年ズレているなどが「全集年譜」の間違いの大きなものだが(何人かがその間違いを指摘しているのに、その後に出た講談社文芸文庫の年譜でも改められていない)、辻美津の「実話蔵前夜話」が載ったのが、『文藝春秋』の1928年7月号だとあるが、実は12月号だったり、泉鏡花の「髯題目」が載ったのが『文章倶楽部』だとあるが、正しくは『文芸倶楽部』だったりと、細かいところまでどうして一々間違っているのだろうか。世の中にこんなにひどい年譜はそうあるものではないと思うが、実際どうかは知らない。まず、「全集年譜」は、世の中の年譜の中でも最低レベルの年譜であることは確かだろう。辻潤年譜の作成には、他の年譜にはない独特の難しさというものがあるだろう。普通の年譜なら、誕生、家族、学校、友人、仕事、結婚、転居、主要作品、病気、そして死亡といった決まりきったことを並べれば年譜が出来上がるというものだろうが、辻潤には「放浪」というものがあるので、それだけでは済まない。しかし、こんなことは言い訳にはならないと思う。私には、本来、年譜を作るべきでない人が辻潤年譜を作って来たとしか思えない。辻潤の年譜作成者といえば、菅野青顔・松尾邦之助・高木護などということになり、存命しているのは高木護だけであろう。こんなことを言われれば、失礼なと怒るかもしれない。失礼はお詫びするが、自分が思うことの訂正はできない。私は何も年譜を作るなと言いたい訳ではない。それは、個人の自由に属する。ただ、よく知らないこと、よく分からないことまでも、よく知っているかのように書くなと言いたいだけである。

 今回の年譜では、先の年譜で使った資料など、出来る範囲で、全て再検討を加えてみた。記事に関して、こうだああだと断定するのは我意にそぐわない。といって、おそらくとか多分などといったふやけた言葉を多用するのも年譜にはなじまないと思えたので、推定内容という項目を作って、どれだけ確実であるのかを示すことにした。
 資料となる全集などは出来るだけ最新のものを使うようにはしたが、必ずしもそうなっていない。岩野泡鳴・中原中也・坂口安吾・永井荷風については、比較的最近、新しい全集が出ているし、ほかにもあるだろう。大泉黒石については全集が出ているが、参照していない。
 全集についていうと、2000年前後に興味深い全集が続々と出版されていたようである。全然気が付かなかった。『稲垣足穂全集』・『辻まこと全集』・『定本 伊藤野枝全集』などである。このうち、辻潤年譜作成に関して言えば、『定本 伊藤野枝全集』が最も印象深く、すぐれた全集だと思った。
 伊藤野枝の旧全集は上下巻で、翻訳は省かれ、瀬戸内晴美の対談のような余計なものが入っていたりして、全集としてはいかにも頼りないものという感じだったが、今度の全集は堂々たるものである。解説もすぐれていると思う。普通に必要と思われることは説明してくれている。辻潤もよく知らなかったマッコアについての説明もある。この全集の編者は、井出文子と堀切利高だが、私は井出文子という人は極めて不注意な人だと思っているので、井出文子は「祭り上げられた」だけで、堀切利高の力が大きいのだろうと想像している(井出文子は全集の刊行途中で亡くなっている)。
『定本 伊藤野枝全集』の河原彩の「伊藤野枝年譜」には教えられるところが多かった。伊藤野枝がどこに住んだかなどについて、私には初めて目にする記事が多くて、最初は首をかしげたが、出来る限り「伊藤野枝年譜」が根拠にしたと思われる資料を探ってみた結果、ほとんど「伊藤野枝年譜」の記事を採用することになった。
 しかし、必ずしも「伊藤野枝年譜」そのままを採用した訳ではなく、私は「伊藤野枝年譜」にも間違いが含まれていると考えている。何といっても辻潤に関係したことはデタラメがはびこっているので、あまり知らないこともあるだろうと思う。
 取り上げた本のほとんど全てにケチをつけた。特に辻潤ファンの中には、一体何様のつもりなのかと思われる人もいるのではないかと思う。しかし、そんなことを言われても、おサルさんでございますという以上の答えはない。自分にできることをやってみたというのに過ぎないのである。今回は途中から気が変わって、できるだけ厳密にやることにしたので、思った以上に引用文献が増えた。しかし、少し大きい図書館に行けば容易に集まる程度に過ぎない。(新聞・雑誌について調べていないものが多いので、「完全な」年譜の50%に達したかあやぶむ。辻潤については、特にデタラメがはびこっていると思われるので、各本の辻潤に関する記述が間違っているのも、ある程度までは当然であろう。しかし、その責任の半分は各著者にあり、辻潤に関係しない部分もそれだけの間違いがあることだろう。)あまりにケチばかりつけたので、何か自分が特に「高い」能力を持っていて、「低い」能力を持っている人をからかっている感じがしないでもなかったのだが、オロカなことである。こんな作業は知的作業には違いないが、大して想像力も要りはしない(かえって人を誤らせるかもしれない)。幾つかの本を読んで、その内容が一致していればよし、違っていれば別の本を探して、どちらが正しいのかを判断する、そんな単純作業を繰り返したのに過ぎない(だから、もし、引用文献の量におそれをなして、辻潤の年譜記事の再検討をやめようと思う人がいるとすれば、それは、私には不本意なことである)。本来、コンピュータがやるべきことで、まだコンピュータが賢くないので、その代わりにやってみたのに過ぎない。
 私が本当にしたいのは、世の中の本や著者の間違いやオロカさを示したいということではなく、一般のシロウトとしての私たちが、今後、本あるいはインターネットを含めてさまざまな情報から今後どれだけダマされるか、その目安を得たいというにある。

 今回もキリがなく、少々疲れたので、これで止めることにした。今回の年譜作成でしばらく頭を冷やすことも必要だと分かったし、といって、もう一度「辻潤年譜」にトライするかどうかは分からない(不足の部分は補いたいと思うが)。
「全集年譜」の書誌情報も間違いが多いらしい。それが一つ二つというならまだしも、三つも四つもおかしいとなれば、全てについて疑う必要が出てくるだろう。そのほかにも『辻潤全集』には問題が多いこともおいおい分かって来た。辻潤の何らかの意図が込められている筈の作品配置順序を変えていること、本文について、旧かなづかいを直す際の、漢字をかなにする際の不適切など(それ以前のこととして校正というものがほとんど出来ていないらしい)。私はため息で一杯である(ソンナコトマデ面倒見キレマヘン)。『著作集』・『選集』・『全集』の編者は、知識の点でも日本語の能力の点でも辻潤に劣る。余計なことはしないで、辻潤の文章そのままを示してほしい。これは悪口のようだが、そうではないと私は思っている。高木護は年譜作成者としてだけでなく編者としても失格だと思うが、おそらく辻潤の文章を出版することに最も熱心だった松尾邦之助や菅野青願が極めて粗雑だったので、それも当然といえば当然なのかもしれない(どれだけ当然なのかは分からない)。辻潤については、全集が出たというだけで上出来ということなのかもしれないが。
 玉川信明の新著が出たことを知ったが間に合わない。もっと確実なものがほしい人は氏の『放浪のダダイスト 辻潤』を合わせて読まれたらよいだろう。ただ、インターネットで見た限りでは、玉川信明の著作集の一冊というだけで、旧著の『評伝 辻潤』に幾らか文章を加えたもので、新味があまりありそうもない。
 今回の年譜もまた、完璧な年譜などというものではなく、相変わらずシロウトのヒマツブシのようなものである(しかし、今回は幾らか「研究者」らしいことをしたような気にもなっている)。グズグズ書きもしたから分量もかなりデカくなった。一体誰が見るのかという気もするが、気にしないことにしよう。
 ただ、これで、辻潤年譜も普通にまともな年譜に一歩位は近づいたことだろうと思っている。この年譜では、「全集年譜」の記事を全て取りこみ、それに注釈をほどこしている。辻潤に関して「全集年譜」を採用してほしくない。私は、辻潤を中心に調べた。その結果、辻潤を含めてその周辺の人間、そして、その研究者、誰もが、意識的に、あるいは無意識のうちにウソをついていることが分かった(記憶が曖昧ということではない)。そういうものであろうとは思うが、だから。誰に対しても、どんなことも、100%信じるべきでなく、10%程度の批判精神を持って臨むべきなのである。そのメッセージの多少でも読む人に伝わればいいと思うのみである。


 先の年譜作成の際、玉川信明・高木護両氏と少しだけ手紙の交換をした。そのことを書いておくのも無意味ではないと思うので。書き添えておく。
 玉川信明氏の住所はある方から教えてもらい、高木護氏の住所は玉川信明から教えてもらったのだった。まず、『ダダイスト辻潤』の中の疑問点について、玉川信明にいくつか質問した。玉川信明は自分の依拠したのは辻潤全集だけです、と書いてこられた。そんな筈はないのだが、一々細かいところまで問い質すことはできなかった。自分が辻潤研究者なら、あるいはそうしたのかもしれないが。その中で、1932年の辻潤の発狂について、『ダダイスト辻潤』には、二階から飛び降りて、翌日に『読売新聞』に記事が出たとあるのだが、『やまと新聞』と『読売新聞』の記事を送って、そういうふうには思えないと書き送ったら、そうですね、ということだった。玉川信明は、そう思ったことを書いたようなのだが、きちんと調べてはいないのである。ただ、そうであった方が面白いというだけなのだった。
 高木護に大体できあがった年譜を送って見ていただこうと思ったのだが、体調不良もあり、年譜のことは辻潤研究会にまかせてあるから、ということだった(辻潤研究会は虚無思想研究会のことかとも思う)。そして、全集年譜の元は菅野青顔氏が直接辻潤から聞いて確かめたもので、著作の方が間違いが多いようだ、それに辻潤のまわりにいた人に確かめてでき上がったものだと書いて来られた。それは、恐れていた返事だった。というのも、著作の方が間違っていて、まわりにいた人に確かめたものとするなら、著作のどこがどのように間違っていて、まわりにいた人がどのように話したのかを一々示してもらわないと、全く確かめようがないからだ。菅野青顔が直接辻潤から聞いたというが、それは辻潤の晩年である。著作に間違いがあるなら、辻潤の話にも間違いがあると思わなくてはならない。そして晩年の記憶と著作当時の記憶とどちらに信憑性があるかと言えば、より若い頃の記憶ということになる筈なのである。
(辻潤について、この程度のものを読まされていたのか、そういう思いが湧く。「悪口」めいたものは書くまい。そうした「全集年譜」がいかに間違いだらけかは、今度の年譜に十分示したつもりである。)


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