辻潤と唄 |
辻潤の音楽好きはよく知られている。辻潤がどんな唄を歌ったか、好きだったかというと、ざっと次のようなものである。
尺八については、琴古流を学んだ訳だが、「尺八は追分趣味なり。かの本曲に「巣鶴鈴慕」「吟龍虚空」というも追分の雅なるものに過ぎず。」〈「はんもん一束」〉と書いている。「古伝の三曲といわれている曲の中で「虚空鈴慕」というのは随分と好きな曲だった。」〈「エイ・シャク・バイ」〉
西洋音楽については、
ところで、寄り道をして色々な本を覗いて居るとたまには面白いものにもぶつかるものだ。
浅草グリルチャメーだかそうでないのだかに、大杉栄、伊藤野枝と辻潤の落書きがこんな風にあったということだが。
お前とならばどこまでも 栄
おうら山吹のいたりにぞんじそろ 潤
市ヶ谷断頭台の上までも 野枝
流行歌の本を見ると、これらの言葉は、添田唖蝉坊作の1915〔大正4〕年の流行歌「お前とならばどこまでも」から取ったものであることが分る。大杉栄のは歌詞そのまま、伊藤野枝、辻潤の言葉もこの歌の歌詞を踏まえて居るのが分って一層面白い。
お前とならばどこまでも
詞、曲 添田唖蝉坊
お前とならばどこまでも 箱根山
白糸滝の中までも どこいとやせぬカマヤセヌ
白糸滝はまだおろか 山おくの
その山奥の奥までも どこいとやせぬカマヤセヌ
奥山ずまいはまだおろか 海のはて
鳥も通わぬ島までも どこいとやせぬカマヤセヌ
島のすまいはまだおろか 日光の
けごんの滝の中までも どこいとやせぬカマヤセヌ
けごんの滝はまだおろか 浅間山
ふき出すけむりの中までも どこいとやせぬカマヤセヌ
ふき出すけむりはまだおろか 太平洋
さか巻くどとうの中までも どこいとやせぬカマヤセヌ
さか巻く怒漬はまだおろか アフリカの
やけつく砂漠の中までも どこいとやせぬカマヤセヌ
やけつく砂漠はまだおろか 心中して
蓮の台(うてな)の上までも どこいとやせぬカマヤセヌ
『辻潤への愛』p.205:
「「おうら山吹」とは、「御浦山吹日陰の紅葉」で、うらやましいを浦山にかけ、日陰の身を日陰の紅葉にかけた(?)シャレたものである。」
以下は唄の紹介。
「その文句の一節をいえば「ビールにブランデベルモット、腹にもふ(?)れない洋食をムヤミに食うのは負け惜しみ、ないしょでコーカでヘド吐いて……」などといった調子」〈「昔見た芝居」〉
1889〔明治22〕年。
オッペケペー節
詞 若宮万次郎
演出 川上音次郎
権利幸福きらいな人に自由湯をば飲ましたい
オッペケベッポーペッポッポー
かたい上下(かみしも)かどとれて マンテルズボンに人力車 いきな束髪ボンネット 貴女に紳士の扮装(いでたち)で うわべの飾りはよけれども 政治の思想が欠乏だ 天地の真理がわからない 心に自由の種をまけ
オッペケペッポーペッポッポー
亭主の職業は知らないが おつむは当世の束髪で 言葉は開化の漢語にて 晦日の断り洋犬(かめ)抱いて 不似合だ およしなさい 何も知らずに知った顔 むやみに西洋を鼻にかけ 日本酒なんぞは飲まれない ビールにブランデーベルモット 腹にも馴れない洋食を やたらに食うのもまけおしみ 内証でそーッと反吐(へど)ついて 真面目な顔してコーヒ飲む おかしいねえ オッペケペー
オッペケペッポーペッポッポー
米価謄貴の今日に 細民困窮省みず 目深にかぶった高帽子 金の指輪に金時計/権門貴顕に膝を曲げ 芸者たいこに金を蒔き 内には米を倉につみ 同胞兄弟見殺しに いくらじひなき欲心も 余り非道な 薄惰な 但し冥土のおみやげか/じごくで閻魔(えんま)に面会し わいろ使うて極楽へ 行けるかえ ゆけないよ オッペケペー
オッペケペッポーペッポッポー
お妾権妻嬢さんに 芝居を見せるは不開化だ 勧善懲悪わからない 色気の所に目をむいて だいじの夫をそでにして/浮気をすること必定だ お為にならないおよしなさい 国会ひらけたあかつきに/役者にのろけちゃいられない 日本大事に守りなさい 眉毛のないのがおすきなら かッたいお色にもちなんせ 目玉をむくのがおすきなら たぬきとそいねをするがよい オッペケペー
オッペケベッポーペッポッポー
洋語なろうて開化ぶり パン食うぱかりが改良じゃない 皇国の権利を拡張し/国威を張るのが急務だよ 知識と知識の競(くら)べ合い キョロキョロいたしちゃ居られない 究理と発明の先がけで 異国に劣らず やっつけろ
神国めいぎだ 日本ポー
1889〔明治22〕年。
やっつけろ節
調・曲 久田鬼石、吉田於兎
見せてやりたや世界の人に 敷島男子の鉄腸(はらわた)を コラサノサ 二千五百有余年 固め鍛えし鉄石心 イッカナ動かぬ大丈夫(ますらお)の 心は千々(ちぢ)に砕くとも 骸(かばね)は野辺に晒すとも 君の御為国の為 捨つるは此身の本分と 一歩も譲らず進み行き 鉄壁たりとも 何のその 日本刀の切れ味で
片端からヤッツケロー
月よ花よと眺むるうちに いつか身にしむ秋の風 コラサノサ 月は武蔵野まん丸く 治まる明治の世は豊か それでもお米は下落(さがら)ない 下がった目尻にでる垂涎(よだれ) 兎の耳より鼻の下 八字のお髭は立派だが 権の位の猫をつれ またたび遊びの湯治場は 箱根七湯伊豆熱海 伊香保や鎌倉大磯と 革提(かばん)の中から惜気なく つかんでパッパとまき散らす 神功皇后や恵比寿さん どうして製造できるのか 細民泣かして絞ったる 血の汗油と知らないで 無暗(むやみ)に遣うはよいけれど 揚句にゃ免の字頂戴し はじめて迷いの夢醒めて 後悔したとて間に合わぬ 落魄(おちぶれ)果つるも自己(おの)が業(わざ) 不義の富貴の天罰で ざまを見ろ 気味がよい こんな鯰は吾々が
自由の鉄拳(げんこ)で ヤッツケロー
此頃はやりの白拍子 粋なつくりの格子戸に ぶらりとさげた御神燈 きり火の音を後にうけ ずっとすましてお座敷へ おし出す姿は立派だが チャン/\/\のお座付で 御祝儀貰えば用はない 芸のおのぞみゃ真ッ平だ でれたお客と見てとれば 得意の手管で丸め込み、ぽっぽのお金を吸い取って ひいきの俳優(やくしゃ)につぎ込んで それでも足らずに高利借り アイスクリームにせめられて 首も回らず青くなる これが芸者の本分か そんなやからは吾々が
自由の鉄拳で ヤッツケロー
「豊島(ほうとう)の戦」。
1894〔明治27〕年11月4日発行『大捷軍歌第一篇』。日清戦争の中で最もよく歌われた軍歌の一つ、とある。"鶏の杯"は、鶏林八道という朝鮮のこと、「吉野」「浪速」「秋津州」はそれぞれ巡洋艦の名。
豊島(ほうとう)の戦
詞:池辺義象
曲:納所弁次郎
一
鶏(とり)の林に風立ちて 往来(ゆきき)の雲の脚はやし
吉野浪花秋津洲(あきつしま) 探る牙山(がざん)の道すがら
七月二十有五日 暁深く立つ霧の
仄(ほのか)に見ゆる敵艦は 名に負う済遠広乙号(さいえんこうおつごう)
二
彼より打ち出す弾丸に 怒るは人と神のみか
浪さえ荒ぶる豊島海(ほうとうかい) 我が軍いかで躊躇(ためら)わん
三
互に戦う程もなく 逃ぐるや何処(いずこ)彼の二艦
追えども追えども散々(ちりぢり)に 行方も知らずなりにけり
四
忽ち見ゆる二艘の船 牙山をさして急ぐなり
勝ちに乗りたる我が艦(ふね)の 進み進みて取巻けば
白旗高くさし立てて 先(まず)こそ降れ操江号(そうこうごう)
打ち出す我が砲一発に 高陞号(こうしょうごう)は沈めたり
五
折しも波風治(おさ)まりて 清き喇叭(らっぱ)の声起り
東の空を仰ぎつつ 世界を動(ゆる)がす凱歌(かちどき)は
天皇陛下万々歳 日本海軍万々歳
この勇ましき勝鬨(カチドキ)ぞ 征清軍(せいしんぐん)の始めなる
「勇敢なる水兵」は、1895〔明治28〕年の歌。
勇敢なる水兵
詞:佐々木信綱
曲:奥 好簑
一
煙も見えず雲もなく 風も起こらず波立たず
鏡のごとき黄海は 曇り初めたり時の間に
二
空に知られぬ雷(いかずち)か 波に煌(きら)めく稲妻か
煙は空を立ちこめて 天津日影も色くらし
三
戦い今やたけなわに 勉(つと)め尽せる丈夫(ますらお)の
尊き血もて甲板は から紅に飾られつ
四
弾丸(たま)の砕片(くだけ)の飛び散りて 数多(あまた)の傷を身に負えど
その玉の緒を勇気もて つなぎ止めたる水兵は
五
問近く立てる副長を 痛む眼(まなこ)に認めけむ
声を絞りて彼は問う まだ沈まずや定遠は
六
副長の眼は潤えり されども声は勇ましく
心安かれ定遠は 戦い難くなし果てき
七
聞き得し彼は嬉しげに 最期の笑(えみ)を洩らしつつ
いかで仇(かたき)を打ちてよと 言う程もなく息絶えぬ
八
まだ沈まずや定遠は この言の葉は短きも
み国を思う国民(くにたみ)の 心に永くしるされん
おけさエーヤおけさ見るとて葦(よし)で目をついたヨー とかくおけさはヤレ目の毒(どく)じゃ
おけさ踊るなら板の間で踊れ
板のひびきで 三味ゃいらぬ
追分については、伊藤野枝と別れてから、酒に酔うと尺八を吹き、追分をうたった、と宮嶋資夫(など)が書き残している。
――親のない子も浜辺の千鳥、日さへくれれば、ちよちよと
というのがその歌詞だというのだが、さて追分といっても色々ある。辻潤の歌ったのはどんな追分なのか。
民謡の追分節には、江差追分、本荘追分、信濃追分などあるが、歌詞がどれにもあてはまらない。江差追分の後唄に、千鳥が出てくるのがあるので、これが一番近い。
例えば、
心細さにほろりと涙ネ
なごり惜しやと 千鳥鳴く
〈「江差追分 前唄・本唄・後唄」 KING RECORD 1993〉
『新版 日本流行歌史』p.50の解説に次のようにある。
「文化文政のころ、すでに「木曽節」「追分節」「名古屋節」「潮来節」などが行われ、徳川末期には、「伊予節」「伊勢音頭」「大津絵」などが歌われた。
一八九五年(明治二十八)前後数年の間に諸国の地方歌が一時に勃興し都会に輸入されたが、中にはそれ以前に移入したものでこの期にあらためて興隆したものもあった。この期に歌われたものは、「宮島節」「宮津節」「金毘羅船々」「琉球節」「博多節」「磯節」「木曾飾」「新潟節」「追分節」「さんさ時雨」「潮来節」「木更津甚句」「米山甚句」「名古屋甚句」などである。
民謡が都会に移入してうたわれるようになると、いわゆる都会化されて別種の趣を生ずる。これが俗謡である。地方色を失って民謡本来の姿より遠いものになる。」
『広辞苑』の「追分」によると、信濃追分が最も古いらしい。
『東京朝日新聞』1933〔昭和8〕年8月3日に「追分節」と題して、歌詞が出ているのを見ると、江差の名が出て来るので、それは江差追分である。当時は、追分節といえば、江差追分のことだったのだろう。だから、辻潤が唄ったのも江差追分で、歌詞は今に伝わらないヴァリエントだったと思う。
と、前には判断したのだったが、そうではないようである。林芙美子が1925年9月に書いたエッセイに「追分」というのがある。1924年の夏の北海道旅行に取材したもので、倶知安の商人宿を根城にして岩内とか掘株(ほりかつぷ)とかの漁村に行って、そこで漁場の男達の口から江差追分というものを始めて聴いた、と書いている。ラジオなどで時々追分なるものを聴くが、それとは違うものという。
だから、1924年頃は、江差追分は北海道だけで唄われていて、東京でいう追分はそれではなかった、ということになる。
倶知安の町の芸者に書いてもらったという歌詞は次のようなもの。
國をはなれて蝦夷地が島へ
いくよ寝ざめの波枕
朝な夕なに聞ゆるものは
友よぶ鴎と波の音
あなた行くなら私も共に
遠く蝦夷地のはてまでも
私やうら浜船頭が娘
般のろも押すかひもかく
辻潤が唄ったのは実は追分節ではなく、「ちどり節」だったかもしれない。添田唖蝉坊の作である。
ちどり節
明治四十五と筆辷らして 又大正と
書くも悲しい今朝の秋 道行く人の
喪章を見る眼に チョイト 湧く涙
遊びに行くなら舞子ケ浜よ 沖見渡せば
わずか向うは淡路島 チチ千鳥啼く
ちら/\見ゆるは チョイト 帆掛舟
軒の風鈴荵(しのぶ)の緑 さと渡る風
泳ぐ金魚を硝子越し さらさらさらと
吹かる年増の チョイト 洗い髪
ちどり節だったろうといっても、「チチ千鳥啼く」という文句が出てくるというだけである。
結局、分からないというほかないのだが、宮嶋資夫がどれだけ日本の唄について知っていたものか、追分であるというのも随分あやしいのではないか。
1920〔大正9〕年末から1922年にかけて大流行した。
詞:岡田三面子
朝鮮と 支那と境のアノ鴨緑江
流す筏(いかだ)はアリャよけれどもヨイショ
雪や氷にヨッコリャとざされてよ
思うマタ 安東県にゃつきかねる チョイ/\
朝鮮で 一番高いのがアノ白頭山
峰の白雪アリャ解けるともヨイショ
解けはせぬぞえヨッコリャ妾(わし)の胸ヨ
夜毎マタ あなたの夢ばかり チョイ/\
長春と チタの間はアノ六百里
何故に満鉄はアリャ通わぬかヨイショ
東清鉄道はヨッコリャよぼ/\と
明日もマタ 満州里へつきかねる チョイ/\
『新版 日本流行歌史』p.50:
「一九二〇年(大正九)末、はるばる出雲から乗り込んで来た本場「安来節」の一行が、浅草常盤座での公演に好評を博してから、「安来節」の興行が盛んになり、専門の常設館もできるようになった。もとより一般にもうたわれ、宴席などには必ずこの唄が現れた。また「八木節」も盛んに行われた。」
安来千軒名の出たところ
社日桜(しゃにちざくら)に十神(とかみ)山
出雲名物にもつにゃならぬ
聞いておかえり安来節
松江大橋流りょとままよ
和田見通いは舟でする
赤い小袖に迷わぬものは
木仏(きぶつ)金仏(かなぶつ)石ぼとけ
わたしゃ雲州浜佐田生まれ
朝もはよからどじょうやどじょう
辻潤がパリ祭で歌ったという新ストトン節というのは、「月は無情というけれど」という歌詞からみて、「月は無情」という歌。1924〔大正13〕年の流行歌。詞:松崎ただし・渋谷白涙、曲:添田さつき。
ストトン節も同年の歌で、添田さつきの調曲・詞である。
古茂田信男・島田芳文・矢沢寛・横沢千秋、編『新版 日本流行歌史』上 社会思想社 1994.9.30初版第1刷発行 ISBN4-390-20194-1
横井金谷・大崎辰五郎・添田口+亞虫+單坊『日本人の自伝23』平凡社 1982.8.10初版第1刷
添田口+亞虫+單坊「口+亞虫+單坊流生記」
『林芙美子全集』第10巻 文泉堂出版 S.52.4.20発行
「追分」
倉橋健一『辻潤への愛 小島キヨの生涯』創樹社 1990.6.25第1刷発行〔『辻潤への愛』〕
『東京朝日新聞』