辻潤祖父、田口重義とは誰か?

 辻潤の祖父、母美津の父は、会津藩の江戸詰め家老、田口重義ということになっている。ところで、田口重義が生きた幕末期の会津藩といえば、官軍=明治政府軍にとっては、幕府に次ぐ最大の「朝敵」であり、幕府があっさり降伏したので、戊辰戦争では最大の敵であった。しかも、会津藩は、現在でも人気のある新選組を支配下においていたのだから、歴史の本を調べれば、田口重義のことも、もっとよく分かるのではないかと思い、少しづつ調べてはみた。ところが、分からない。田口重義の名前はどこにもなかった。

 あんまり、このことに時間を割けられないし、仕方がないので、分かったことだけここに記しておくことにした。何かを知っている人がいたら、教えて下さ〜い、という訳。

 結局、田口重義という人がいたとはっきり述べているのは、辻美津の「実話蔵前夜話」しかない。それは、美津の記憶を頼りにしたものなので、記憶違いも多いだろうし、実際、明らかな間違いも見つかる(幾つか注を入れたので、興味のある人は、「実話蔵前夜話」を見て下さい)。美津にとっては、父親は偉い人間だという意識があるせいか、そういう方向に誤っているようである。会津藩の江戸中屋敷で自分は生まれたなどと書かれているが、そういうものの場所が記録上のそれと一致しない。結局、「実話蔵前夜話」からは、田口重義が会津の人間であるかどうかすら明らかとはならない。田口重義という名前は他には見られないので、本名という保証も得られない(谷沢永一・浦西和彦、編「辻潤年譜」では、田口治人となっている。以下、田口重義としておく)。しかし、他に頼るべきものもないので、他の史料なども合わせて、田口重義とはどんな人物だったかを述べれば、大体次のようになるようである。

 会津藩の江戸詰め家老としては、横山常徳が、1864〔元治元〕年5月に会津へ帰藩し、同年8月7日に亡くなっているから、田口重義は、その後、江戸詰め家老になったものと思われる。会津の殿様、松平容保(かたもり)は、1862年閏8月1日、新たに設けられた京都守護職に任命され、同年12月24日に、1,000人を率いて京都に入っているから、この頃は、江戸屋敷はさほど重きを置かれなかったのかもしれず、江戸屋敷で家老と勘定役を兼任することもありそうである。

 美津が生まれた年は、はっきりしないが、1866年かそれ以前のように思われる。谷沢永一・浦西和彦、編「辻潤年譜」によると、1864〔元治1〕年7月12日の生まれである。田口重義は辻美津の母とおよそ、その一年以上前から知り合っていることになる。会津藩の江戸詰め家老の横山常徳が1864年5月に会津へ帰藩し、田口重義がそのあと江戸詰め家老になったというなら、1863年には田口重義は江戸屋敷に勤務していたことが考えられるだろう。

 1868〔慶応4〕年1月、松平容保は、徳川慶喜と共に鳥羽伏見の戦いから逃げ帰り、12日、三田の会津藩邸に入っている。2月に松平容保は、会津に帰るが、この時、江戸の屋敷を処分しているようである。田口重義は、何故か江戸に留まっているらしい(会津藩士で江戸に留まっている者がいない訳ではない)。

 官軍が江戸に迫る中、田口重義は、旧幕臣の息子であった落語家、四代目三笑亭可楽と組んで、東京市中に爆薬を仕掛けようとしたが、発覚して一時逃走した。やがて捕縛され、入牢したが、そこで成川尚義(なるかわひさよし)と出会い、兄弟の契を結ぶ。勝海舟の『氷川清話』などによると、勝海舟が入牢者を解放しているので、二人は、勝海舟によって釈放されたようである。

 9月22日、会津藩、降伏。
 1869〔明治2〕9月 太政官から会津藩の家名再興の許しが出る。旧藩士、梶原平馬、山川大蔵らは、容保の実子、慶三郎〔のち容大(かたはる)〕を立てて届ける。11月、松平容保は隠居し、子の容大は南部斗南(となみ)に3万石〔20万石減〕を与えられる。

 1870〔明治3〕年11月、田口重義は、呉服橋の船宿大土屋で死去。

 落語家と組んで、東京市中に爆薬を仕掛けようとして、結局失敗しているなど、いかにも辻潤の祖父で苦笑を禁じ得ない。しかし、そんなことは、大概の歴史の本は述べておらず、歴史の隠されたエピソードとしても面白いのではないだろうか。ところで、『古今東西 落語家事典』には、「このときの経過は仮名垣魯文が『松竹梅操競』という小説に書き記している」とあるのだが、『明治開化期文学』などの仮名垣魯文の年譜を見てもこの小説は出て来ず、ここでも行き詰まってしまった訳である。
 「実話蔵前夜話」には、1872〔明治5〕年に勝海舟が、美津の藏前の家を訪ねたとある。1872年、勝海舟は上京し、5月10日に海軍大輔になっている。幕末、成川尚義が勝海舟の下で奔走したというから、成川尚義の関係から訪問したのかと思ったがそうではないのかもしれない。勝海舟は派閥のようなものは作らないと自ら誇っているし、『海舟座談』に勝海舟の葬儀に成川尚義は来なかったとあるので、維新後は勝海舟と成川尚義は疎遠になったらしい。勝海舟は官軍が江戸に攻め寄せて来る中で官軍が江戸に入ったら、江戸市中を焼くことを考えていた。おそらく、田口重義と可楽は、勝海舟の指示によって東京市中に爆薬を仕掛けようとしたのであろう。勝海舟が田口重義などの入牢者を解放しなければならなかったのは当然のことであったわけである。以上は、想像に過ぎないが。


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