辻潤年譜(簡略版)

Tada of Alangri-Gloriban Abridged 2009.4.10

凡例

年齢記事
1884
明治17
0
1
 10.4東京市浅草区向柳原町1丁目の祖父、辻四郎三の隠居所で生れる。〔のち台東区浅草橋4丁目辺。〕
 〔1年遅れて入籍し、戸籍上の生年月日は1885年10月4日〕
 〔のち浅草区蔵前片町に移る。〕

 辻潤の父、六次郎は姓は茂木、養子婿。 職業は不明。
 母は美津で、みつ、光津ともいった。〔以下、美津で統一する。〕
 辻美津〔述〕の「実話蔵前夜話」によると、美津の実父は、会津藩の江戸詰め家老の田口重義というが、確証はなく、疑わしい。谷沢永一・浦西和彦、編「辻潤年譜」によると、美津は田口治人の長女。辻美津「実話蔵前夜話」によると、美津の母は幸と言い、四谷信濃町お留守居与力、加藤市左衛門の三女、幸が美津を連れ子として辻四郎三の後添いに入った、とある。辻四郎三は、もと札差であった。

1887
明治20
3
4

 父母に手を引かれて浅草の仲見世や観音様などをよく歩く。

 この頃、よく熱を出し、ヒキツケを起こし、荒野にただ一人でいて、化物が、周囲から押し寄せて来たり、地獄へ落ちたりという幻覚を見る。

 この頃から、母の美津に連れられて毎月欠かさず芝居を見て歩く。

 この頃から、辻家の蔵前の借家に住んでいた幻燈屋の娘で辻潤とおない年の池田ふみと毎日雨が降っても風が吹いても遊ぶ。

 この年の頃、浅草の観音様にお参りに行った時、易者が頼みもしないのに天眼鏡で覗いて、「このお子さんは僧侶になされば必ず出世なさいます」と告げる。

 この年の頃、父の六次郎が辻潤を背負って夕方ねかしつけるために子守唄を唄いながらよく近所を歩く。

 この年の頃、腸チフスに罹病。

1888
明治21
4
5

 浅草区向柳原の柳北女学校付属の柳北幼稚園に入る。

 この頃、江戸時代の草双紙や黄表紙の類が沢山家にあり、それらの双紙を繰り返し見て、空想の世界を楽しむとともに、悪夢に襲われる。『釈迦八相記』・『白縫物語』・『児来也豪傑物語』・『薄俤幻日記』・『時代鏡』・『田舎源氏』、など。

 この年の頃 脇腹に腫物のようなものができる。〔それから、ひきつづいて頭に腫物が出来て、頭は始終カビだらけで悪血が掻く度にとめどなく流れ、そのために貧血症になって少し熱でも出るとすぐひきつける。〕

1889
明治22
5
6

 母方の曾祖母に連れられて浅草の新堀端付近にあった自性院や西福寺に行って、曾祖母から色々な話をきく。自性院のご開帳のおりに、「地獄極楽」の掛軸を見て、その後ずっと地獄極楽、殊に地獄にひどく興味を持つ。

 この頃、緑茶が好きで、いわゆる玉露のたぐいを喜んで飲む。少なからず茶毒にあてられていたためか、顔色が青いばかりでなく沈んだ土気色をさえ呈したらしい。

1890
明治23
6
7

 浅草区猿屋町の育英小学校尋常科に入学。
 人ごみがきらいで、学校へ行くことを嫌う。
 成績は上の部だったが、目立たないおとなしい子供であった。

 7〜8月頃 市村座で「嶋鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」を観る。河竹黙阿弥の「散切(ざんぎり)物」で、最初の芝居の記憶として残る。

 この頃、『西遊記』を愛読し、赤本から、馬琴? の訳したものや、唐本など色々な本を集める。〔『西遊記』は12歳頃までずっと関心を持つ。〕

 この年の頃 養祖父の辻四郎三、死去。

1891
明治24
7
8

 1月 鳥越の中村座で「弓張月名誉為朝」を観る。

 4.18 or 4.19 歌舞伎座で市川団十郎=主演の「勧進帳」を観る。

 6月頃 歌舞伎座で「春日局」・「幡随院長兵衛」を観る。中村座で川上音次郎一座の壮士芝居を観る。

 この年、蔵前にあった伊勢屋の馬鹿蔵と呼ばれた大きな蔵も、また家屋敷も、みんな日下義雄〔前長崎県知事、のち福島県知事〕に譲る。

 辻美津の実父の知り合いだった三重県知事の成川尚義(ひさよし)の世話で、辻六次郎が三重県の官吏となることになり、父母に伴われて三重県の津へ行く。
(三重県津に移ったのは、翌1892年かもしれない。)

 しばらく知事の官舎にいて洋服を着せられてランドセルを背負って小学校に通う。
 言葉が分からず、先生の言うことも分からず、仲間の生徒は辻潤を「異国人扱い」にしてバカにし、辻潤も内心で彼らと彼らの言葉を軽蔑した。学校へ行くのがイヤになって、しばしば仮病をつかったり、弁当をもって一人で公園や田圃などをウロウロして帰り、父の六次郎から叱言をくう。慰めてくれる友達がないので、父母に頼んで東京から三公という男を呼んでもらい、生れかわったように快活になる。三公というのは家に始終出入りして、なにくれとなく用事をたしてくれる下男のような食客のような男。初秋の頃、三公と一緒に長谷山に登る。初めての山らしい山。〔その後、友人と、父と、また遠足で、たびたび登る。〕

〔 やがて塔世川〔安濃(あのう)川〕の岸辺に移り住む。〕

 隣に尺八を吹く人がいて、尺八に興味を持つ。土曜日の晩などに辻一家がよくその家へ呼ばれて、その家の妻が、男の尺八に合わせて簡単な地唄の四ツ五ツ位、三味線を演奏し、美津は長唄が達者なので、その妻と長唄と地唄の交替をやったり、長唄物の合奏を受け持ったりする。六次郎は気が向くと下手な一中節を唸ったりする。

 探偵小説というものの味を父、六次郎から教えられる。夜、夕餉がすむと辻潤と母と女中などを集めて、六次郎は毎晩探偵小説を読んできかせた。六次郎は役所で書記のようなことをやっていたらしい。字がすこしばかりうまかったので辞令などを書かされていた。六次郎は江川近情という書家の門弟となって習字の稽古をしていた。〔六次郎に言いつけられ、辻潤も江川近情の書いた千字文を少しばかり習う。〕

〔津で暮らす間に、釣をしたり、泳ぐことを覚えたり、茸狩りをしたり、毎日好きな鰻をたらふく食うことが出来たりする。 未明に起きて、朝飯前に一泳ぎすることを楽しみとする。〕

〔ある晩、女中が町の場末にある自分の家へ用事があるというので、彼女におぶわれて行ったが、途中で、キリスト教の講義所〔教会〕の中から賛美歌の合唱がきこえ、それに牽きつけられて、講義所の中に入ろうと言い、女中は「坊(ボー)さん、ヤソだすからおよしなさい」といってとめたが、中に入った。それから、日曜のたび毎にその教会の日曜学校に通う。そののち、周囲に戦争に伴う愛国熱が高まるとともに何となく中止。〕

1892
明治25
8
9

 弟の義郎、生まれる。(翌年か。)
〔義郎は後、洋服仕立て職人となる。十代から奉公に出ていたという。〕

1893
明治26
9
10

 滝沢馬琴の『椿説弓張月』などを読む。

1894
明治27
10
11

 戦争の気配から周囲に愛国熱が高まるとともにキリスト教会の日曜学校に通うことを何となく中止する。

 東京に戻る。神田区佐久間町3丁目15番地の叔父〔父の六次郎の弟、かつて質屋〕の借家を借りて住む。
(東京に戻ったのは、翌年1895年かもしれない。)

 浅草区猿屋町の育英小学校高等科1年に入る。
 家は神田の佐久間町だったが、元の学校に執着があったから、浅草猿屋町の育英小学校に通った。

 この頃、『幼年雑誌』・『小国民』という類の雑誌を読む。

1895
明治28
11
12

 4月頃 叔父〔辻六次郎の弟〕が留守をすると、いとこと、昔、叔父が質屋をしていた時の質流れの手風琴や銀笛を蔵から取り出し、そのほか石油の空罐などを叩いて、楽隊の真似をして遊ぶ。手風琴・銀笛が一番初めに手にした楽器。

 この頃、近松や西鶴を読むが、よくわからなかった。

 この頃から、世の中というものはあまり愉快なものじゃない。イヤなところだと感じ始める。

1896
明治29
12
13

 2月 二長町の市村座で「法衣屋(ころもや)お熊」 を観る。〔その一座にいた若月春樹という役者を知っていたので、たびたび裏口から只で入れてもらい、藤井六助・松島清などという役者の部屋で遊んだりする。左団次を時々明治座へ見に行く。芝居見物はその頃がまず最後。〕

 3.26 妹、恒(つね)、生まれる。

 4月 神田区淡路町2丁目4番地の東京府開成尋常中学校に入学。 月謝、1円60銭ほど(1900年では2円。)
 同学年生 or クラスメートに、村岡典嗣(つねつぐ)・小泉親彦〔のち近衛・東条内閣の厚生大臣となり、戦後、割腹自殺〕などがいる。〔斎藤茂吉は9月11日に入学しクラスメートとなる。斎藤茂吉「友を語る」には他の多くの同級生も挙げられているが、そこには辻潤の名は見えない。吹田順助(すいた じゅんすけ)は、翌1897年4月に2年級に編入して同級生となる。〕

 通学のかたわら小さな体のハンデを克服するために、神田お玉ケ池の磯又右衛門創始の天心真揚流の道場に通うが、長つづきしない。

 このころ、頼山陽の『日本外史』を読む。〔『日本外史』を読んでいる間に歴史というものが面白くなり、日本歴史の書物では有賀〔博士〕の『帝国史略』という本を愛読。歴史趣味は、その後、東洋史を読むにいたってますますひどくなったが、17、8歳位で中絶。〕

 この頃、下谷あたりの古道具屋で見つけて2、30銭で尺八を買い、学校から帰ると包みもとかずに尺八を吹く。始めてから半年位ほとんど毎日吹いて唱歌位が曲りなりにも吹けるようになる。

 一時かなり刀剣に凝る。

 この頃まで、時々ひきつけを起す。

1897
明治30
13
14

 6月分の開成中学校の学費を納めない。(この月、授業に出ないか)。

 10月 《尺八に夢中になり、》この月で、学業の怠惰と家庭の経済状態の悪化により開成中学校を退学(11月には開成中学校に行かない)。
 家計の悪化は母美津の乱費にもよるか。

 辻潤は毎日尺八を吹いて暮らす。父、六次郎は時々、小言を言うが、母の美津は黙認。

 この頃、『徒然草』を読む。〔以来、愛読書となり、ときどき取り出して読む。〕

1898
明治31
14
15

 母の美津の奨めもあって、初代の荒木古童の門に入り尺八を習う。稽古日は三の日と八の日。半年位通っている間にいよいよ熱中し専門家になろうという気を起こし、経済上の都合もあり、内弟子に住み込む希望を荒木古童に話したが、荒木古童に反対される。〔2年半ほど習う。〕

 この頃、講談本や江戸時代の稗史(はいし)小説類をかなり沢山、乱読。

 この頃、宮崎虎之助と知り合う。

1899
明治32
15
16

 辻潤より三つばかり年長で神田のある弁護士の書生をしながら国民英語学会(?)の夜学に通っていた沼田という友達がいたが、沼田と文学談を試み、王陽明の『伝習録』を愛読し、日本文学一点張りで、世界中で近松・西鶴に及ぶ文学者はひとりもいないように心得ていた辻は、なんにも知らない外国文学をやたらに攻撃した。沼田は『ハムレット」や『ジュリアス・シーザー』を見せて、これはイギリスの近松といわれる世界的な大文豪で、近松など遠く及ばないほどエライ人間だ。文学をやるなら是非外国文学を知ることが必要で、まず英語は必要だから勉強しろと熱心に勧め、辻潤も英語を勉強する気になる。

 国民英学会の英文科に入る。磯辺弥一郎・豊橋善之助・高橋五郎・岡村愛蔵・ドクトル=ウッドらに学ぶ。同級に小倉清三郎(おぐらせいざぶろう)〔福島県=須賀川出身〕・一条勇吾〔宮城県=白石出身。のち仙台市で写真館を開く〕、星嘉十郎〔宮城県=角田(かくだ)出身〕らがいた。

 国民英学会でユニオンの『第四読本』を習っているうちに、キリスト教の思想に影響され始める。『東京独立雑誌』を読んでいた同級の小倉清三郎と親しくなり、その雑誌をかりて読んでいる間に内村鑑三に魅かれ、内村鑑三の『求安録』を手にしてキリスト教に帰依し始める。〔内村鑑三の著作は殆ど片端から読む。〕

1900
明治33
16
17

 この頃から20歳位の間、ほとんど英語の本だけを読む。〔日本に自然主義が勃興するまで、ほとんど小説は手にしない。〕〔ほぼ国民英学会在学中ということになる。〕

 この頃、内村鑑三や徳富蘆花の影響で、ワーズワースに心酔。

1901
明治34
17
18

 この頃、脚気に罹る。〔のち4回再発したが、治癒。〕

1902
明治35
18
19

 12.13 国民英学会英文学科を卒業。

『万朝報』に掲載された黒岩涙香の続きものを読む。

 この年の頃 宮崎滔天の『狂人譚』と『三十三年の夢』を読む。

1903
明治36
19
20

 この頃、日暮里に住む。

 1.10 9:30頃、辻潤を池田ふみが訪問。11時頃までひきとめて、かえる時は団子坂のとこまで一緒に行く。16:00頃から星嘉十郎のところに出かける筈であったが、星が初週連合祈祷会に出席するので今夜は都合がわるいとハガキをよこしたのでやめ、午後、小倉清三郎から借りたモーパッサンの短篇〔英訳〕を読む。16:30頃、ワーズワースを手にして散歩に田端の見はらしに行く。

 1.26 終日、雨で、透谷全集を読んで過ごす。

 1.27 一日、雨。近所の農民の葬式に寺へ行く。午後、読書。

 2.3 朝から雪。坂の上まで雪見をしようとして出て下駄を切らしてはだしで帰る。火鉢にあたって雑書をくくっていると池田ふみが来る。16:00頃共に家を出、無縁坂で別れ、本郷の叔母のところに行く。

 4月頃 日本橋区呉服町にあった私塾、会文学校で英語を教える。14:00頃から17:00頃まで働き、月給3円。〔後、夜学でも教えるようになり、14:00頃から21:30頃まで働き、月給9円。〕

この頃 《神田の青年会館で青柳有美の講演を聴く。青柳有美は多分押川方義のことかなにかを話す。その講演でショーペンハウエルを知り、その名を強く印象させられる。》上野の図書館でショーペンハウエルを読み始める。

 この頃、巌本善治・青柳有美らは、神田一ツ橋の教育会館の講堂を教室に当てて「自由英学」を始める。辻潤は、国民英学会の英文科を出て、英語は習う必要がなかったが、巌本善治・青柳有美がやっていた『女学雑誌』の愛読者だった関係から、「自由英学」に早速馳せ参じる。夕方5時からの授業。青柳有美はゲーテの「若きヴェルテルの悩み」とシェークスピアの「ロミオとジュリエット」を教える。青柳有美は張り扇子で机をポンポン叩きながらズーズー弁で講義し、それを「ムショウに嬉しがって聴」く。
〔「講師としては桜井鴎村とか河合などという人がいた――その他、課外の講師として新渡戸稲造とかドクトル小此木などという毛色の変った人物がいた。」 新渡戸稲造からカーライルの「衣裳哲学」の話を改めてきく。
「自由英学」は、巌本善治・青柳有美が巣鴨の明治女学校とかけもちでやっていたので、毎日時間が一定していなかった。辻潤も呉服町の私塾に雇われていたので毎日は出席できなかった。明治女学校の特別に熱心な連中が「自由英学」にもやって来て、その中に、相馬黒光や野上弥生子がいた。黒光はいつも一番前の方の席にいて腕まくりなどして、奇抜な質問を先生に向かって発する。辻潤は後の方からジットおとなしく小さくなって、興味を持って彼女を眺める。
「自由英学」の運命はまことに短いものであった。〕

 5月頃 本郷の叔母のところに厄介になる。会文学校に歩いて通っていたが、遠いので閉口して本郷の叔母のところに寄寓。

 5.27 池田ふみに手紙を書く。15:00頃学校に出かける。夜は上野図書館でショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』の英訳を読む。〔ショーペンハウエルを尊敬しかつ同感する。〕

 この頃、島崎藤村の『若菜集』を愛唱。

 この年の夏、宮城県白石の山奥の一軒家である友人の一条勇吾をたずねる。うまれてはじめての一人旅。
 白石在から2里半あまり山奥の「烏峠」という山の半腹にある一条勇吾の家は郵便局でもあり、4、5家族が共棲する古びた大きな家であった。この家に一週間程くらし、一人で阿武隈川の岸辺に出て、地図なしの見当で角田まで歩き、星嘉十郎の家を訪ねる。一条勇吾をそこで待ち合わせ、一条勇吾と共に徒歩で塩釜に出、船で松島に行く。このひとり旅は、藤村操の死から受けた衝撃もその理由の一つで、家人や友達に自殺の危惧を懐かせたが、そんな意志はなかった。
 仙台や松島を見物。

 10月頃 《しばらく泉鏡花の作品と遠ざかっていたが、》「風流線」が『国民新聞』に掲載された頃からまたしきりと読み始める。

 11.15 幸徳秋水・堺利彦、週刊『平民新聞』を創刊。読者となる。〔辻潤は全号を所蔵する。〕

 この頃、キリスト教から社会主義の思想に影響され始める。

1904
明治37
20
21

 この頃、神田=佐久間町の狭い横町のとある家の2階、6畳1間に間借り。「廃残のオヤジは失業して気が変になり、おふくろは死ぬばかりの大病にかかり、妹は年頃をイジケかえって青いツラばかりして火鉢の傍に噛じりついていた。」 この頃、父の六次郎は心臓を患う。

 4月(月は不確実、また前1903年であるかもしれない) 浅草橋の傍の千代田尋常高等小学校の代用教員〔助教員〕となる。高等小学校児童(or生徒)に英語を教える。月給15円。詰襟服を着て坊主頭。暗い感じだったという。

 この頃、カーライルの『衣裳哲学』を読む。

 この頃 家庭教師として木村荘八〔木村荘太の弟〕に英語を教える。

 6.30 《検定試験を受け、》6月30日付で東京府管内における小学校専科正教員(英語)の免許状が出る。

 10月 千代田尋常高等小学校の専科正教員となり、五級上俸給与を受ける。 高等小学校児童(or生徒)に英語を教える。

 この年頃、日曜日に佐久間町の2階に池田ふみが一人でまたは愛人とともに訪ねて来る。

 この頃(前年か)4、5年やめていた尺八をふたたび吹くようになり、竹翁門下の可童に習う。音楽会に呼ばれて行ったり、方々のおさらいなどによく出かける。

1905
明治38
21
22

 小学校で教鞭のかたわら、洋書を読む。 日本の本も読む。

1906
明治39
22
23

 6月頃 九段中坂下のユニヴァーサリスト教会での『芸苑』の文芸講演会を聴きに行く。辻潤は『芸苑』の愛読者であった。講演者は、上田敏・平田禿木・島崎藤村・馬場孤蝶・生田長江、など。沢田柳吉のピアノ演奏。

 7月 四級下俸を受ける。

 9.5 宮崎滔天が月刊新聞『革命評論』を創刊。
『革命評論』創刊の頃、少年時代から知合ったNという友人に連れられて宮崎滔天の評論社をたずねる。

 10月 佐藤政次郎が編集・発行の『実験教育指針』〔この月から月刊。それまでは半月刊〕に、翻訳や創作を発表し始める。 『実験教育指針』に文章を載せることになった経緯は不明。

 この頃、一時期、入学したのではないが、神田の私立音楽学校に夜間通う。そこで音楽を学ぶ。

 この頃、小川町の古本屋の店頭で、Stanley V. Makowerの "The Mirror of Muslc" を買い、幾度となく読み耽る。

 この頃から自然主義の小説を読み出す。

1907
明治40
23
24

 5月 日本橋区の市立第三実業補夜学校の訓導になる。月給7円20銭。(おそらく、実業補習夜学校が正しい。英語を教えたと思われる。昼間の千代田尋常高等小学校と兼ねたか、あるいは、上野女学校で教えた可能性がある。)

 5月 神田の佐久間町の狭い横町のとある家の二階の4畳半で暮らし、そこで始めて物を書き、「いぬかは」が処女作。〔のち『浮浪漫語』に収める。〕(のち、巣鴨に移るか。)

 8.1〜8.10 東京=九段坂下のユニバーサリスト教会での社会主義夏期講習会を聴講する。19:00〜22:00までの毎晩3時間、聴講者は7、80人くらい。会費80銭。4分の1か3分の1は地方の「同志」。8.6の東京=角筈(つのはず)十二社での園遊会にも参加。

 10月 日暮里の修性院(しょうしょういん)〔花見寺(はなみでら)〕に数町の茅葺きの家を借り、一人暮らしをする。家賃が3円。

 11月頃 この頃から煙草を呑み始める。

 11.8頃 日暮里に家を借りたことを巣鴨に知らせる。

 11.9 妹の恒が訪ねて来る。兄さんの呑気にも呆れたものとさんざん小言し、「信仰」「信仰」と口癖のように言い、意見がましい事を言う。近頃、煙草を呑み始めたことなどを気にかける。

 11.14 夜、純正哲学科に入った角帽姿のSが来て 話をする。

 11.21 探していたエドガー=アラン=ポーの本を古本屋で見つけて買う。

 11.30 休みを取り、南椽の日当りよい処に座ってポーを読む。

 この頃から酒を飲み始める。

 この当時、上田敏を愛読。

 この頃、正宗白鳥の『紅塵』を貪り読む。
 自然派の作家の中では国木田独歩と岩野泡鳴とを最も熟読。かれらが他に比して遥かにロマンチックであったからという。〔「自然主義作家の中では特に岩野泡鳴の思想に影響された。自分はデカダンであることを誇りとした。」〕

1908
明治41
24
25

 4月 浅草区の市立精華高等小学校の教師になる。 英語を教える。月給24、5円。
〔夜学と家庭教師の内職をやる。1909年9月から1911年2月までの精華高等小学校での勤務表が残っているが、1911年2月に、父の一周忌で1日休んだ他は皆勤であった。〕

 小石川区大原町の亀井という華族の屋敷の近所で、植木屋の庭の中の隠居所に建てた4畳半と3畳の2間の家に住む。父母と妹の4人で暮らす。 学校から帰ると角帯をしめて、毎日、尺八を吹く。

 この頃、父の六次郎は4年越しに心臓を患い、完全な廃人でおかしくなっていた。〔六次郎が近所の風呂へ出かけるのも、美津がついて行く。「川崎銀行に預金が一万円預けてあるから引き出しに行くのだといいだすと、いくら人がとめてもなかなかいうことをきかず、仕方がないので母が近所まで一緒について行き、色々となだめすかしてその辺を歩いてつれて帰る」ということがあった。ある日、六次郎は、恒が学校に行き、美津が近所に買物に出ていた間に、家を出る。美津は近所を探したが見つからず、交番の警官に捜索を依頼。20:00 PM頃、辻潤は、家へ帰った。美津と恒が悄然として「おとうさんが今日どこかへ出て未だにかえって来ないが――」と言って二人で泣き出す。十分と経たないうちに警官が来て、お前のオヤジだろうと思うが、いま万世橋の警察から電話がかかってきたがこれからすぐひきとりに行くがいいと言われる。辻潤は万世橋の警察へ行き、保護室にいた六次郎を引き取る。警察の近くで通りすがりの人力車に六次郎を載せ、そのうしろをついて、22:00PM頃に小石川に帰る。〕

 この頃、辻潤はキリスト教の信者だった。

 この頃、「求婚」と題した小説めいたものを書く。 原稿紙100枚の求婚状を書き、失敗。

1909
明治42
25
26

 小石川区大原町に住む。

 5月 巣鴨区上駒込840番地の染井の借家に移る。

 11.27 or 28 有楽座で小山内薫の自由劇場の第1回試演を観て、感激する。演目は、森鴎外訳、イプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」。〔のち、ほとんど欠かさず「自由劇場」を観る。〕

 この頃、新吉原京町の酒店の娘のキン〔のち御簾納 また岩野泡鳴の著作を読む。

《小川町の古本屋の店頭で、Stanley V. Makowerの"The Mirror of Muslc"を買い、幾度となく読み耽る。読むだけでは満足出来なくなり、訳し始める。当時、上田敏のものを愛読していたので、文体はその影響を受ける。訳してゆくにつれて、さらに同好の人々にも読ませて、その喜びを分ちたいという心持ちが強くなり、神田の音楽学校の校長の天谷秀を通じて、『音楽界』の編輯者の小松耕輔〔玉巌〕にそれを送る。原稿は早速、小松の承諾を得、『音楽界』に連載されることになる。》この年、『音楽界』主宰者の小松耕輔〔玉巌〕を知り、『音楽界』の2月号から7月号まで、9月号から12月号で「楽のかがみ」を連載。〔小松耕輔との友誼はそれ以来続き、その後、音楽界の人々に多くの知人や友達を持つようになる。〕

1910
明治43
26
27

 1.11 父親の六次郎、死す。〔染井の西福寺に葬られる。〕 〔井戸にて自殺したとも伝えられている。〕

〔のち上駒込799番地に移る(翌1911年か)。
 東京の西北の郊外で丘の上に家があり、間数は3間で6畳と3畳と4畳半。植木家が家主で、家の造りが瀟洒で、庭が比較的広く、庭木も椿とか南天とか紫陽花とかさまざまな種類が植えられていた。4畳半が茶の間で、玄関のあがり口にあった。親しい訪問客は門を入ると左側の枝折(しおり)戸から、中の6畳に通すことにしていた。奥の3畳は中廊下に隔てられた茶室風な離れで、押入れも床の間も廻り緑もついた部屋で、そこを念願の書斎にした。ここで、母と妹と三人で暮らす。 「書斎」の中で、この家に母と妹と三人で暮らした時代が最も平穏で幸福な時代であったと辻潤は回顧している。〕

 4月 伊藤野枝が上野高等女学校4年に編入。〔上野高等女学校は、以下「上野高女」とする。〕
 《伊藤野枝は福岡今宿村に生まれ。伊藤は自分の望みのためには家族さえ省みなかったというが、勉強がしたくて、この頃、東京の叔父、代準介の家に寄宿していた。何日も徹夜して勉強し、いとこの代千代子と同じ学年に編入。》

 4.27 家督相続を届け出る。

 ロンブロオゾオの『天才論』の英訳〔1905年版の The Man of Genius〕を本郷の古本屋で入手する。

 この頃、日曜はTという友人と二人で風呂に出かけ、半日は無駄話をして暮らす。

1911
明治44
27
28

 3.28 神経衰弱を理由に退職願を出し、精華高等小学校を退職。

 4月 下谷区桜木町の上野高等女学校の英語教師となる。月給、4、50円。
《教頭の佐藤政次郎の世話による。》

 4月初め 上野高女の入学式。伊藤野枝が在校生の代表者として新入生たちに挨拶し、辻潤は、如何にもくだけた気どらない様子で新任の挨拶をする。

 辻潤は、江戸ッ子らしい磊落さと、先生というような堅苦しさのない新鮮な感じで、たちまち女学生達の人気の的になる。新しい英語の教え方に、皆は英語の時間が好きになる。 放課後は、辻潤はよく音楽室〔割烹室を兼ねた〕へ来て、ピアノを弾いたり、英語の讃美歌などを生徒に教えたりする。生徒は時のたつのも忘れて日が暮れそうになってあわてて教員室の窓口へ行き、日下部〔書記〕に下校の証明書を書いて貰い名残惜しげに帰宅するという毎日であった。

 バーナード=リーチ夫人が週に一度、上野高女で 会話を教えていたが挨拶する程度であった。沢田柳吉がショパンを聴かせてくれるという葉書を寄越し、晩に日比谷のK館に出かけ、そこでリーチ夫人に出会い、話をし、その晩、バーナード=リーチを紹介される。その後、上野の音楽会で夫妻に会ったりし、バーナード=リーチが桜木町にいた時分、時々尋ねたり、演奏会に一緒に行ったりする。〔リーチから製作品三つをもらう。日本橋の並倉の模様のついた薄茶の茶碗とコップと小さい壷。茶碗とコップは、のちに人に進呈したが、壷は、長く机の上で筆立てに使う。〕

 教え子のキン〔のち御簾納(みすの)キン〕と交際するが、プラトニックなもので、真剣な恋愛というものではなかった。

 教え子の伊藤野枝と知りあう。伊藤野枝とは朝と帰りを共にする。辻潤の帰りの遅い時は伊藤も残って音楽室で二人で弾いては歌い歌っては弾いたりする。。

 辻潤と西原和治(にしはら かずじ)〔国語教師、哲学館出〕は、伊藤野枝の天才的方面を認めてひそかに感服する。

 伊藤野枝やほかの生徒たちは、しばしば辻潤の家を訪問する。

 7月末頃 《上野高女で、第一学期の試験が済み、夏休みが近づく。》伊藤野枝は、帰省に対して、「厭はしいやうな、憎むやうな、悲しむやうな」感情を示して、今度帰ったら、出て来られないかもしれないと、西原和治に語る。夏休みの2、3日前頃、伊藤野枝・西原和治の二人は用もなく上野の山を歩く。伊藤野枝は、「家庭の事情で、また出て来られないかもしれません。」「米国(べいこく)へ行く事になるかもしれません。」などと言うが、何を悩んでいるのか肝腎のことは話さずに別れる。

 7月下旬 上野高女、夏休みに入る。〔50日間〕
 伊藤野枝は、「幾度か簡単な葉書で堪へ難い悶えや、打ち放つた様な諦めの言葉や、荒(すさ)び行(ゆ)く心を大自然の景物(けいぶつ)によつて紛らさうとする文句を」西原和治に送るが、「事実は少しも述べて無」く、西原は、「殆んど返事にも困る」。

 夏に『天才論』の初めの部分を訳す。

 8.22《伊藤野枝は夏休みに、代千代子・千代子の母の喜智とともに帰郷。伊藤野枝は、アメリカに連れて行くという条件で結婚を承諾。》 伊藤野枝は、末松福太郎と祝言をあげる。〔翌8.23、上京。〕
 9月以降の伊藤野枝の生活費・学費は末松家が出した。

 11.21 伊藤野枝、末松家に入籍。

 12.31 朝、浅草観音の仲見世に行く。生徒の花沢嘉津恵に出会うが、素知らぬまま吉原の方へ行く。

1912
明治45/大正1
28
29

 1.1 朝、浅草観音の仲見世に行く。前日に続いて、生徒の花沢嘉津恵に出会う。辻潤は帽子にちょっと手をあて、「やあ、さっきは失礼」と笑う。(辻はキン〔のち御簾納キン〕のところへ行くつもりらしく)辻の背中をポンとたたいた花沢が「先生、幸福」とひやかすと、「ええ、幸福ですよ」と答える。

 2月頃 Tのところで土岐善麿の『黄昏に』を読む。巻頭の「指をもて」という歌を好きになり、何遍も繰り返す。〔辻潤が染井を離れることになり、Tも東京を離れる。〕

 3.26 上野高等女学校、卒業式。伊藤野枝、卒業〔第5回生〕。

 3.27 伊藤野枝と代千代子は帰国する事になり、7、8人の友達と教師の佐藤政次郎と西原和治が、新橋駅に二人を見送りに行く。代千代子は両親と一緒に駅で伊藤が来るのをを待っていた。伊藤野枝と辻潤は、二人で上野公園竹の台陳列館に故青木繁君遺作展覧会〔『美術新報』主催第3回展覧会の一部として開催〕を見に行く。その帰りに辻はいきなり伊藤を抱擁する。伊藤は新橋駅に向ったが、列車の時刻には間に合わなかった。その夜、23:00PM頃、伊藤野枝は代一家とともに故郷に向う。三人の教師が見送る。〔このあと辻は伊藤に手紙を出す。〕

 4.3頃 伊藤野枝から手紙が来る。「大分孤独をふりまはした」手紙を「可なり痛快な気持ちを抱いて読み終つた」。

 4.8頃 九州に帰った伊藤野枝は、婚家に入ることが厭で、帰郷から9日目に、何の用意もせずに辻の手紙を持って家出する。伊藤野枝は、親戚の家などを訪ねるが、事情を話せず、家出を知られかねなかったので、10里ばかり離れた友達の家に行き、そこに匿ってもらう。《伊藤野枝は、家出の前に、事情を知らせず、西原和治に手紙を出す。》

 4.10 上野高女に末松から伊藤野枝が出奔したので保護してくれという電報が来る。辻潤は、多分東京へやって来るつもりなのでしょうと言う。校長の小林は即座に「東京へ来たら一切かまわないことに手筈をきめようじゃあありませんか」と言う。佐藤政次郎は「知らん顔をしていようじゃありませんか」と言い、西原は「兎に角出たら保護はしてやらねばなりますまい」と言う。辻潤は「僕は自由行動をとります。もし伊藤が僕の家へでもたよって来たとすれば僕は自分一個の判断で措置をするつもりです」と断言する。

 4.11 辻潤に伊藤野枝からの手紙が届く。

 4.12 辻潤は前日の伊藤野枝の手紙を持って学校へ行き、それを見せる。

 4.12 辻潤に末松から、伊藤野枝が多分上京したらうから若し宿所が分つたら早速知らしてくれ、父と警官同道の上で引きとりに行くという葉書が来る。 自分の妻は姦通した形跡があるとか同志と固く約束したらしいとかいうことが書いてあった。

 この頃、19:30PM頃に夕食を終え、しばらく休んで、毎晩の様に三味線を弄ぶか歌沢をうたうか尺八を吹く。それから読書。何にか書くのは22:00PMから。なにか書く時には必ず明方近くまで起きる。

 4.17頃 伊藤野枝のもとに、西原和治からの為替と手紙、辻潤からの手紙が届く。辻潤は、「汝と痛切な相愛の生活を送つてみたい」「上京したら早速俺の処にやってこい。」「上京したらあらいざらひ真実のことを告白しろ、其上で俺は汝に対する態度を一層明白にする積りだ。」などと書き送る。

 伊藤野枝は上京し、辻潤の家を訪ねる。伊藤野枝は、辻潤に身のふり方を相談する。辻潤は、西原和治や教頭の佐藤政次郎に相談して、ひとまず伊藤を佐藤のところへ預けることにきめる。小林〔校長〕初めみんなが伊藤と辻の間に既に関係が成立していたものと信じ、伊藤の出奔はあらかじめ辻との合意の上でやったことのように考えた。小林から、辻があくまで伊藤の味方になって尽す気なら、学校をやめてからやってもらいたいと切り出され、教師が嫌になっていたこともあって、4月末頃、上野高等女学校を辞職する。伊藤は辻の家に住む。

 5月頃、伊藤野枝は、辻潤に勧められて、平塚らいてうに、意に添わない結婚を強いられる苦悩を綴った長い手紙を出す。辻が本郷区曙町の平塚を訪ね、平塚は伊藤が家出し女学校時代の教師であった辻を頼って来たと知る。平塚は伊藤と会うことを約し、伊藤が平塚を訪問する。辻・伊藤は、伊藤の出奔で辻が教師を辞めたことを平塚に話さなかった。

〔その後、9月頃までの間に滝野川に引越す。〕

 辻潤は生活のため翻訳仕事を始め、ロンブローゾ『天才論』は6月から3か月半余りで訳し終わり、秋頃出版予定の筈が、佐藤政次郎に紹介された出版業者(育成会か)の経営悪化で『天才論』の出版ができなくなり、その後、出版社がなかなか見つからない。
〔生活のために陸軍参謀本部の英語関係の書類を翻訳する。「偶々(たまたま)どうかして手にはいつた翻訳の仕事さへ、興味のない内容のものだと、直ぐに苦痛を訴へる」〕

 7月末 伊藤野枝は、辻潤にすすめられ、末松家との問題を解決するため郷里に戻る。

 9月初め頃 伊藤野枝が郷里に戻って一月ほど後、伊藤野枝から平塚らいてうに再度家出し上京するための旅費を送ってほしいという手紙がくる。平塚は、伊藤が世話になっていたという辻潤の意見をきくため、染井に出かける。染井とだけ聞いていたので、染井を尋ね回って家が見つかったが、既に滝野川へ引越していた。引越先を訪ねると辻潤は不在で、家人に用件を告げ、名刺を置いて帰る。その翌日か翌々日に辻潤が平塚の家を訪ねる。「何にせよよほど苦しんでいるらしい様子だし、まだ年も若いことであり、ああいう気象の女のことでもあり間違いでもあると困るからさっそく旅費を送ってやってはもらえまいか、上京後の彼女の一身上のことはむろん自分がすべて責任をもつ考えだからということなので、」平塚は承諾。 平塚は、上京後は責任をもつとの辻潤の言葉に安心して、ポケットマネーから旅費を送る。

 9月〜11月の間に巣鴨区上駒込329番地の平屋建ての借家、三軒並んだ中央の一軒に移る。 近くの上駒込388番地に野上豊一郎・野上八重子〔弥生子〕の家があった。野上弥生子の家には低い茨の垣根で囲まれた前庭があり、その庭に沿って右に曲がった小路の奥が辻の家。〔のちに野上弥生子は、10間ほど北寄りの奥まった二階屋あるいは4、5軒先になった奥に越す。辻潤の家の隣。〕

 この頃 《本箱も蔵書も殆ど売り尽し、辞書1、2冊と翻訳中の『Man of Genius』を座右に置いて暮らす。》翻訳中の『Man of Genius』を本郷の郁文堂に預けて神田の立花亭の昼席に出かけて、馬楽・焉馬〔のち金原亭馬生〕・小せんの三人会に行って落語を聴く。「あくび」・「伊勢屋」・「まわし」(など)。

 11月上旬頃 伊藤野枝、再上京。 辻潤は伊藤野枝と同棲し、母の美津、妹の恒が同居。辻潤の最初の動機は伊藤の持っている才能を伸ばすこともあったが、二人は染井の家で、徹底して昼夜の別なく「情炎」の中に浸る(5月か)。

 11月 伊藤野枝は『青鞜』の雑用を手伝うようになり、『青鞜』に文章も書き出す。〔『青鞜』10月号に伊藤野枝の入社の記事が、11月号に伊藤野枝の詩「東の渚」が載る。〕

〔辻潤は、時々、平塚らいてうを訪ねるようになり、青鞜社員と知り合う。平塚もまた辻の家を何度か訪れる。辻は、玄関横の3畳の部屋の真中に机を置き、神代杉の額縁に填められたスピノザの肖像を背にして翻訳をする。〕

 この頃、辻潤の家は、いつも三味線・尺八の音がして、陽気な笑い声に満ち、楽しそうな様子であった。

 この頃、スティルナーを読む。

 この頃(あるいは翌1913年)、染井で伊藤野枝と同棲中、池田ふみが朝鮮から東京へ休暇で帰り、辻潤を訪問。伊藤は留守で、二人は染井の墓地の方から王子の方へぬける静かな谷を追憶に耽りながら歩く。池田はかなりの金を辻の母に置いて行った様子である。伊藤は突然の異性の訪問客に接して、ヒステリーを起して泣くやらわめくやらした。伊藤と辻とで、池田を上野まで送る。2、3日して、辻と伊藤で朝鮮へかえる池田を新橋駅まで見送りに行く。

1913
大正2
29
30

 2.11 伊藤野枝と末松福太郎との協議離婚が成立。

 2.15 青鞜の第1回公開講演会が神田区美土代(みとしろ)町の基督教青年会館で開かれ、伊藤野枝も壇上に立つ。伊藤野枝の演題は「最近の感想」。「 プログラムは保持研の「本社の精神とその事業及び将来の目的」、伊藤野枝の「最近の感想」、生田長江の「新しい女を論ず」、岩野泡鳴の「男のする要求」、馬場孤蝶の「婦人のために」、岩野清の「思想上の独立と経済上の独立」、沢田柳吉の音楽、らいてうの閉会の辞。」

 この頃、辻潤・伊藤野枝の二人は芝区片門前のある家の二階を借りて住む。 芝区片門前(かたもんぜん):のち港区大門2丁目と芝公園2丁目の一部のあたり。

 4.初旬 辻潤・伊藤野枝の二人は染井に帰る。

 6.8 『青鞜』紙上の伊藤野枝の文章を読み興味を抱いた木村荘太〔本名:しょうた〕が野枝に面会を求める手紙を書く。
 木村荘太は、伊藤野枝が辻潤と同棲し、妊娠していることを知らなかった。伊藤は辻と相談し、同棲のことも木村に知らせたのだが、伊藤野枝の気持ちが木村の方に揺れ、辻は「苦しくてたまらないのだ。」と話すようになる。最終的に伊藤が辻を選び、そのことを木村に告げたのが7月1日。へんな噂になるのを避けるために、木村・伊藤は、この件を小説にして発表することにする。
 伊藤野枝が『青鞜』第3巻8号に「動揺」を、木村荘太が『生活』に「牽引」を発表。

〔木村艸太「魔の宴」などによると、この事件が辻潤が公にその存在を示した最初であった。伊藤野枝の名が有名になるにつれて、辻の方は無能の役立たずというような評判が広がって行った。伊藤野枝「偶感二三」には「 私が私の良人よりも多く名を知られてゐると云ふことの為めに私達の関係について屡々(しばしば)侮辱が加へられる。」「良人には何時も軽い侮辱の影が投げられてある。」とある。「ふもれすく」には、「 野枝さんのような天才が僕のような男と同棲して、その天分を充分に延ばすことの出来ないのははなはだケシカランというような世論がいつの間にか僕らの周囲に出来あがっていた。」とある。〕

 9.20 21:00PM伊藤野枝、上駒込329番地の自宅で男子を産む。辻潤の長男、一(まこと)。〔辻一は、以下「辻まこと」と記す。〕

 この頃、一家は、母の美津・辻潤夫婦とまこと・妹の恒夫婦。

 この頃から、伊藤野枝は、野上弥生子と親しくなり、低い茨の垣根を挟んで、野上はその頃翻訳していたソーニャ=コヴァレフスカヤの自叙伝などのことを話したり、伊藤は青鞜社・女学校などの話をする。

1914
大正3
30
31

 1月頃 有楽座で芸術座第2回公演「海の夫人」を観る。松井須磨子が出演し、川路歌子((遠藤幸(ゆき)子)がヒルダ役。

 3月 《伊藤野枝は無政府主義者のエマ=ゴールドマンの著作に親しみ、ゴールドマンやエレン=ケイの論文を辻潤に手伝ってもらって訳す。平塚らいてうには、貧乏のどん底で赤ん坊の生まれた辻一家の生活をほんの少しでも潤すことが出来ればとの願いもあり》伊藤野枝、東雲堂から『婦人解放の悲劇』を出版 3.25。

 2〜4月頃 福田英子(ひでこ)に会う。

 4月 滝野川の福田英子宅で渡辺政太郎(まさたろう)と出会う。〔渡辺政太郎は、辻潤・伊藤野枝と親しくなる。〕

 4月頃 伊藤野枝、辻潤が福田英子の家で知り合った渡辺政太郎と親しくなる。〔渡辺政太郎・若林八代(やよ)夫妻はよくまことの子守りも引き受けてくれたという。〕

 5月 大杉栄が『近代思想』5月号〔第2巻第8号〕で、伊藤野枝の『婦人解放の悲劇』を取り上げ、賞賛。

 6月中旬頃野上弥生子一家が、辻潤一家のすぐ隣の二階屋の借家に引っ越す。上駒込329番地。前庭の一隅にあった3軒の借家の中央が辻の家。

 6.上中旬頃 《伊藤野枝が、実費程度のものを出して貰い、平塚らいてう・奥村博史の食事を引き受けることを申し出て、「たしか月十円であったか出すことにして、」平塚・奥村が伊藤の家へ昼と夜の食事をしに行くことになる。》平塚らいてう・奥村博史が、辻潤の家の近くの妙義神社前の巣鴨上駒込411番地の家に引き移る。 辻潤の家とは道路ひとつ隔っていた。〔奥村博史は当時、「博」。「博史」に統一する。〕

 《以前は、母と妹夫婦が一緒に暮らしていたが、》この頃は、辻夫婦と息子だけで暮らす。

 辻潤の家には炊事道具などほとんどなく、伊藤野枝は、茶碗などもないので、一枚の大皿に、お菜とご飯を盛りつける。伊藤は、仕事は手早い代りに、汚いことも、まずいことも平気。夕食後など、平塚・奥村は辻と話しこんだりする。巣鴨の原田潤が遊びに来て、話の仲間に加わることがあった。伊藤の共同炊事は、一か月と続かなかったようである。 朝夕、平塚らいてう・奥村博史と顔を合わせるようになり、辻潤・伊藤野枝・平塚らいてう・奥村博史は、夕食後、染井の墓地を散歩し、巣鴨の岩野泡鳴の家に行き、夜遅くまで飲み食べ話したりする。

 7月〜8月頃 (辻恒夫妻・美津の住む)小石川区竹早町82番地の家に移る。

 8月頃 Uから『阿片溺愛者の告白』の翻訳を頼まれる。Uは植竹書店主の植竹喜四郎を指すと思われる。

 9.9 妙義神社のお祭りの日、伊藤野枝と二人で平塚らいてう宅を訪れる。野上豊一郎・野上弥生子・小倉清三郎・生田花世・上野葉子夫妻・林千歳・原田潤、らが同席。夜、遅くまで雑談。

 9月末頃〜10.13頃 伊藤野枝は、まことを連れて、一家が郷里の大分に帰っていた野上弥生子の留守宅を預かって住む。(辻潤がどうしたかは不明。野上弥生子の夫の野上豊一郎が帰京し、伊藤野枝は竹早町に戻ったと思われる。)

 10.12 《平塚らいてう、『青鞜』「三週年紀念号」〔第4巻第9号、10月〕をまとめ、伊藤野枝に後を委ね、》静養のため、奥村博史とともに上総(かずさ)の御宿(おんじゆく)海岸に行く。

 秋 伊藤野枝に興味を抱いた大杉栄が渡辺政太郎に伴われて、小石川区竹早町の辻潤の家を訪問する。

 11.7 御宿の平塚らいてうに『青鞜』11号と伊藤野枝の手紙が届く。そこには「十二月号の編輯をお断りしたい」とあり、「無期限で編輯と経営の事務」を引き受けてもよい、との意志表明もなされていた。〔「十二月号だけは(略)やってのけて下さい」と返事をする。〕

 11.15 《11.13 夜、平塚らいてう、上京。》朝、伊藤野枝を訪ねる。平塚らいてうは、辻潤の協力があるにしても、伊藤に『青鞜』をやり抜けるか危惧していたが、伊藤は決心を固めていた。平塚は再考を促し、17日の再会を約する。 辻潤は平塚に夢の話をする。「辻さんの私に関するあの夢の話――それは私がある湖水に身を投げて死んだ、その湖の崖の上には私が乗り捨てたという馬が前脚を高くあげて躍っている。犬がしきりに吠えるので、見ると、私の死骸が水の中によく見える。辻さんはその死骸を引き上げて、いろいろ手あてをしていると、間もなく蘇生したというのです」

 11.16 夜、平塚らいてう、伊藤野枝にあてて書き送る。「もしその日あなたはその決心をもっておいで下さるのなら、すぐ社の所有物も一緒に受け取るだけの用意をしてきて下さい」。

 11.17 昼近く、伊藤野枝は「自信と勇気と決心の色」を眼に輝かせて現われる。「社の責任と仕事と、所有物のすべて」を伊藤に渡し、その事を「新年号で発表する」約束をする。午後、荷物を伊藤の家に運ぶ。21:00 PM、平塚は、上駒込の家をたたむ。〔11.20 夜、平塚、御宿に帰る。〕 「青鞜社の所有品全部――寄贈の図書、雑誌類、英語や日本語の辞典や書類、名簿「青鞜」の合本、本箱、机、文房具など一切合財、野枝さんの引越し先、小石川竹早町の家へ運」ぶ。〕

 11.22頃 伊藤野枝、発禁となり押収されそうになった『平民新聞』第2号を渡辺政太郎の手をへて官憲から隠匿する。

 『青鞜』第4巻11号〔12月1日〕の伊藤野枝の住所は小石川区竹早町82。

 11月頃 伊藤野枝、辻潤の家を出ようと思い始める。

 12月 《佐藤政次郎・岩野泡鳴・小倉清三郎ら、から紹介された出版社に当たったあと、生田長江に植竹書院を紹介してもらい、》植竹書院からロンブロオゾオの『天才論』が出版され、反響を呼ぶ。
〔『天才論』、十数回、版を重ねる。〕

 この年あたり、岩野泡鳴の妻、清子の世話で岩野泡鳴の「プルターク英雄伝」の英訳の下訳をする。

〔渡辺政太郎に江渡狄嶺〔幸三郎〕を紹介される。のちに、江渡狄嶺とはしばらく音信消息を断絶。〕

1915
大正4
31
32

 1月 《伊藤野枝は『青鞜』の編集・発行人となり、》『青鞜』第5巻第1号に「『青鞜』を引継ぐに就いて」を発表。

 1.24頃《この頃、渡辺政太郎夫妻が大抵毎日、辻潤の家に来て、まことの面倒をみ、洗濯や掃除もした。》ある寒い日に、渡辺政太郎夫妻が訪れ、伊藤野枝に谷中村についての話をする。伊藤は谷中村に残り、今また水没の危機にある人達の話に興味を抱き興奮するが、辻潤は、子供の世話もろくにできない伊藤の興奮ぶりを冷ややかに見る。伊藤野枝が質問し、渡辺政太郎夫妻は、日が暮れてからも長く話して帰る。夜、そのことで辻潤・伊藤野枝はかなり長く論じる。 〔伊藤野枝は、渡辺政太郎から谷中村関係の本など借りて読んだりするが、このことが、伊藤が辻との思想の違いを認め、やがて大杉栄に走る契機となる。〕

 1.26頃 谷中村の話を聞いた翌々日、伊藤野枝は谷中村のことについて意見を述べた大杉栄宛ての手紙を書く。〔後、大杉は月に一回位辻潤の家を訪れ、辻潤とマックス=スティルナーの「唯一者と其の所有」の話などをする。辻は、この本を自分のバイブルだと言って尊崇し愛読していた。〕

 1〜2月頃 伊藤野枝は、まことを連れて、四谷区=南伊賀町の山田嘉吉宅の勉強会に2、3回、参加。

 2.5頃 大杉栄、辻潤の家を訪れる。

 2.中旬 小石川区指ヶ谷町92番地の借家に移る。 渡辺政太郎の家の近く。

 2.中旬 大杉栄、辻潤の家を訪れる。

 3.1 堺金次郎方における平民講演会に奥村博史を伴い現われる。31人が出席し、大杉栄・荒畑寒村・山鹿・宮嶋資夫・渡辺政太郎の演題があったという。18:00PMに始まり、22:00PM頃、散会。会終了後、辻潤は奥村博史の絵の出品されている障子社という展覧会を見るように呼びかける。

 3月 『阿片溺愛者の告白』の翻訳を始める。〔ある日、丸屋の二階で「万人叢書(エヴリイマンスライブラリイ)」の訂正増補を見つけて買い、それを翻訳。6月一杯というような計画で始めたがテキストが難解で三分の一程で中断、別の仕事にかかる。植竹の方の都合で延期ということになる。間もなく翻訳可能なテキストを得て、少なくとも翌1916年半ばには訳了していたと推測される。〕

 4月頃 伊藤野枝、佐藤政次郎・西原和治の退職問題にからんだ上野高等女学校の同窓会に初めて出席。

 5月頃 伊藤野枝、辻潤が伊藤の従妹の坂口キミ〔のち伊東キミ〕と関係を持ったことを知る。《伊藤がいつも外出して多忙で、坂口は伊藤が辻に対して冷淡だという理由から、同情して辻の身のまわりの世話をした。》 〔伊藤野枝は別居を申し入れるがこれは実現しなかった。〕

 7月頃 伊藤野枝の郷里、福岡県=糸島郡=今宿村に行くことになり、かねて一度行かなければならないと思っていたYの処を暇乞いかたがた訪ねる。翻訳のことを訊ねられ、『阿片溺愛者の告白』を中断したことを話す。テキストを訊ねられ、Yは訂正増補はやめた方がよいと言い、代わりにマクミランのポケット=クラシックスを見せて、これでやったらどうかと言うので、拝借する。〔それを翻訳する。〕

 7.20 伊藤野枝との婚姻届が出される。

 7.24 朝、伊藤野枝・辻潤、辻まことを連れて、伊藤野枝の実家のある福岡県=糸島郡=今宿村へ出発。

 辻潤も伊藤野枝とともに今宿に留まる。 伊藤野枝の帰郷および長く留まった理由は不明。

 11.4 伊藤野枝、男子を産む。辻潤の次男、流二。

 12.5頃 伊藤野枝、帰京。

 この頃、伊藤野枝は、辻美津に一時だけ子供をつれて田舎に一人で行かして貰いたい、辻潤に別居したいと話し、双方から承諾を受け、その準備を始める。

 この年頃から「仏教の実在観に降伏」。

1916
大正5
32
33

 1月中頃 『青鞜』で青山菊栄と伊藤野枝が論争をして、伊藤野枝が散々にやられた時、大杉栄はその間を調停すると言って、青山を伊藤野枝のとこへ連れて行く。 1月のある日、伊藤野枝は大杉栄と青山菊栄の訪問を受ける。

 2月 『青鞜』第6巻第2号、2月1日発行。『青鞜』は、この号で廃刊。〔続けて発行する意志があったが、発行できずに終わった。〕

 2月 大杉栄・伊藤野枝、夜遅くまで日比谷公園等をぶらつく。この頃、大杉栄は神近市子とも関係していたが、伊藤野枝と会って火が点き、日比谷公園でキスを交わす。

 2月 伊藤野枝、大杉栄と恋愛関係に入る。〔大杉に訪問された〕数日後、麹町区3番町64番地の第一福四萬館(ふくしまんかん)に大杉を訪ねる。神近市子がいて三人で話す。

 2月 フランス文学の講義が終ってから、神近市子・青山・宮嶋資夫夫婦と皆して神楽坂下まで歩いて行った時、大杉栄は、宮嶋資夫に「指ケ谷町へ行くから一緒に行かないか」と言う。二人で辻潤の家に行く。伊藤野枝が出て来て、家に辻潤がいた。何の事もなく話をして帰りがけに、その夜は平民講演会があるので、大杉は宮嶋の家に来て飯を食って行こうと言って歩きながらの話に、その前後、大杉は伊藤と一緒に、夜遅くまで日比谷公園等をぶらついた、と話す。最後に、「あすこの家庭は、僕の家庭よりも先きに破壊するかもしれない」と語る。

 2月 伊藤野枝、大阪の叔父、代準介を金策のため訪れる。

 3.9 夜、野上弥生子の家で謡会(うたいかい)があった日、流二をおんぶした伊藤野枝が訪れ、辻潤・大杉栄とのことについて相談する。伊藤野枝は、辻潤と伊藤の従妹の間のことなどを話し、辻潤は伊藤との隔たりの埋め難いことを見て、既にすべての自由を許したと話す。野上は、伊藤が辻との生活を築き直そうとして努力したことを知っているつもりだから、辻との生活を終わらせることに異議はないが、大杉には神近市子もいるし、その儘大杉のところへ行くことは考えなければならない、一、二年勉強し、それから判断したらどうか、慎重な態度を取って欲しい、及ばずながらその間の生活費位はどうにでもしようと語る。伊藤もそれが一番よい方法だと思うと答え、抱いている流二の上に涙を落とす。 野上弥生子が伊藤野枝に会った最後。

 3月 大杉栄、福四万館に下宿する。

 4.上旬頃 風邪を引く。

 4.24頃(or 4.17頃) 《伊藤野枝は、この日までの三晩四晩は毎晩12時頃に帰る。》伊藤野枝は、辻潤に大杉栄と暮らす決心を話す。伊藤野枝が大杉栄とキスしたことを知り、辻潤は伊藤をなぐり、別れることを決める。伊藤野枝は、「何うしても二人で一人の人を有つのは嫌だ、私一人のものにする気で行くのだ」と言う。

 4.25頃 午後、伊藤野枝、次男流二を連れ、辻潤の家を去る。 「別れる当日はお互いに静かにして幸福を祈りながら別れた。野枝さんはさすが女で、眼に一杯涙をうかべていた。」 伊藤野枝は神田区三崎町の青鞜社員の荒木郁の旅館、玉名館に滞在。

 4.29 伊藤野枝は千葉県御宿村の上野屋旅館に移る。〔6月中旬、流二を千葉県夷隅郡大原町根方(ねかた)の網屋の若松家に里子にやる。 そのまま「里流れ」となり、流二はおそらく若松家の養子となる。以下、若松流二とする。〕

 辻潤は、上野のある寺の一室、大西克礼がギョイヨーの翻訳をしていたあとの部屋を借りて移ったが、当分誰も来てくれるなと語る。 お寺の一室に立て籠り、出来るだけ世間との交渉を断絶し、新聞雑誌の類さえ一切見ず、友人達からも自分の行方をくらます。辻潤は、この一室で「唯一者とその所有」の翻訳をする。

 5.21 《5.16頃、土岐善麿からの『生活と芸術』の廃刊と最後の寄稿を求める手紙が来て》土岐善麿に手紙を出す。「例の一件コノカタというもの、一通りや二通りや三通りのショゲ方ではなく一日に二度食べる御飯ですら、辛うじてノドヘ通るか、通らないかという有様で、型の如くエンセイヒカン、――その意気地のなさ加減ときたら、実にもってお話のホカです。」と書く。

 (この頃、しばしば、宮嶋資夫の家を訪れているらしい。)

 9月頃 宮嶋資夫・伊藤野枝が辻潤を訪れる。

 9.15頃 上野の寺の一室に住むことを止める。

 10月上旬頃 下谷区北稲荷町34番地の長屋に移る。
 10.15 東京市小石川区指ヶ谷町92番地より東京市下谷区北稲荷町34番地に転籍の届出が出される。

 11月上旬頃 下谷区北稲荷町34番地の長屋に「英語、尺八、ヴァイオリン教授」の看板を掛け、いわゆる浅草時代が始まる。〔ここを根城にして、「パンタライ社」と称する。〕 ヴァイオリンは佐藤謙三の教授。ヴァイオリンは、以前からの弟子のインド人が一人きただけで、尺八も商売にならない。
 「生徒に五十里、田戸、茂木などが英語を習ひに行った位のものだった。」彼らはサンディカリズム研究会の仲間。英語の方は、辻潤を知っている若い連中が道楽半分、遊び半分に集まる。生徒の中に、尾崎士郎・矢部周・荒木久平・木蘇穀・宮崎丈二らがいた。〔彼らは前後して高畠素之の門下となる。〕

〔辻潤は、伊藤野枝が家を出たことについて、宮嶋資夫に「忘却が何より強い復讐だ」と話す。また、宮嶋資夫と一緒に岩野泡鳴を訪れ、岩野泡鳴が訴訟を起こせというのにも、宮嶋の決闘しろというのにも、ただにやにや笑っていた。〕

 伊藤野枝と別れてから、段々、遊蕩を覚えはじめる。〕

 11.9 大杉栄をめぐる、伊藤野枝・内縁の妻の堀保子・神近市子の四角関係から、大杉栄が神近市子に刺される。〔相州「葉山の日蔭の茶屋事件」として各新聞、雑誌紙上をにぎわす。〕(四角関係というが、伊藤野枝・神近市子にとっては、堀保子はほとんど眼中になかったらしい。)

 年末 『阿片溺愛者の告白』の「蛇足」を書く。

1917
大正6
33
34

 下谷の稲荷町にいて、毎晩のように浅草に出かける。 下谷の稲荷町に家があったが、大方友達の下宿などをとまり歩いて酒にうつつを抜かす。

 2月頃 ジョージ=ムーアの「一青年の告白」を訳し始める。

 早春の頃 砂埃の立つ日。木村幹と二人で神田あたりをぶらつき、木村が気まぐれに幽霊坂の佐藤春夫の家に連れて行き、佐藤春夫に初めて会う。佐藤春夫は、東方叢書の「アポクリフハ」などを出して見せる。辻潤が虎の子のように大切にしていたが困った揚句売ったポーの全集をそこで見つける。しばらく色々と書物のことについて話す。しばらくして、佐藤春夫は犬を散歩させるために一緒に出て、三人で牛込見付のところまで歩いて、そこで二人が佐藤春夫と別れる。

 夏の昼下がり、五十里幸太郎が谷中の善光寺坂で望月桂のやっていた一膳飯屋「へちま」に辻潤を連れて行く。2階6畳間で酔い醒めの番茶をすすりながら、娑婆の不合理・不満を話し込む。よれよれになった浴衣を、股の辺までたくし上げ、表通りへ尻を突き出して窓の敷居に腰をかけ、組んだ足で貧乏ゆすりをし、口笛を吹く。〔それから辻潤は、ちょいちょい「へちま」に遊びに行く。〕

 8月上旬頃 大原に行く。

 9.18 伊藤野枝との協議離婚の届出が出される。

 よく、宮嶋資夫の家を訪れる。

 オスカア=ワイルドの「ドリアングレイ」、アマジュウス=ホフマンの「セラピョン兄弟」を訳したが出版にいたらなかった。〔「ドリアングレイ」・「セラピヨン兄弟」の原稿は、関東大震災で原稿消失。〕

 この年の頃、大泉黒石を知る。
〔 辻潤と大泉黒石と二人で早稲田辺を門付をして歩いたりする。辻は尺八で追分などをやり、大泉黒石は辻の後へくっついて歩く。早稲田の学生連に見つかり、カフェーに引っぱり込まれシコタマおごられたりする。〕

 この年の頃、竹森一則〔のち経済雑誌Tの記者〕の家でよく集まって飲む。竹森一則・安成貞雄・宮嶋資夫と辻潤の4人で徹宵して飲み続け、談たまたま泉鏡花に及び、四人とも負けず劣らず、われこそ鏡花通だといわぬばかりに饒舌りたてた揚句、寄せ書きをして泉鏡花にハガキを出す。〔安成貞雄の発起で、近日この連中で番町を襲うことにしようと一決したが、その実行は有耶無耶に終わった。〕

 辻潤の放浪中、まことは叔母に養われる。

 この年の頃(1918年か) アテネ=フランセでフランス語を教えていた山田吉彦〔ペンネーム:きだみのる〕が、文筆業者十人ばかりを無料学修生として迎える。宮島資夫・辻潤・新居格・竹森一則など。長続きしたのは辻潤だけ。〔山田吉彦は、小遣いにいくらか余裕ができると、ときどき辻潤の下谷の家を訪ね、浅草方面に誘い出し、小料理屋の梯子酒をやる。〕

1918
大正7
34
35

 3.19 下谷区北稲荷町6番地に転籍の届出が出される。〔のち台東区〕(下谷の稲荷町の寺の中の一軒家と思われる。)

 4.8 塩原へ行く。

 5月 『阿片溺愛者の告白』を三陽堂書店から刊行。

 7月頃 加藤一夫に『阿片溺愛者の告白』を送る。

 8.25頃 大原より帰京。

 9.13 出発。「大阪より関西旅行の途に上れり」という。

 9月頃 何か仕事の用で佐藤春夫を訪ね、佐藤春夫に二度目に会う。佐藤春夫「田園の憂鬱」の載った『中外』を貰う。佐藤春夫は「もしそんなに不出来なようでなかったら、葉書か何かでそう云ってくれ。君がそう云ってくれるようなら、その時もう一度読み返してみる」と言う。谷崎潤一郎が訪ねて来て、谷崎潤一郎を紹介される。

 10月前後頃 若い女と4か月程、同棲。〔女の里の方で連れ戻し、そのままとなる。〕

 10月 ジョージ=ムウアの「一青年の告白」を翻訳。(翻訳は中断したと思われる。)

 10月頃 《それ以前、武林無想庵は、大学前のカフェで辻潤を紹介される。》武林無想庵が友人とともに稲荷町の辻潤の家を初めて訪問し語らう。薄暗い電燈の陰気くさい2階の6畳に、若い女が一人現れ、茶道具を置くと、すぐ引込む。壁側にはバルザックの英訳全集が並んでいた。辻潤は、武林が『読売新聞』の日曜附録に書いた文章の切抜を見せて、武林を嬉しがらせる。

 11月 『響影――狂楽人日記』を三陽堂書店から刊行。

 この年、早稲田大学裏の片岡厚〔のちの神近市子の夫〕の下宿に、しばらく居候する。毎晩のように片岡厚をつれ出しては、あちこちとカフェやバーを歩き回る。片岡厚から、はじめてシェストフを知る。片岡厚は気前よく『虚無からの創造』の英訳本を辻潤に与えた。

 この頃、辻まことを連れて、石井漠の家を訪れ、母美津が病気で寝込んだため、しばらくまことを預かってもらう。まことは、幾日もしないうちに「おばちゃん、おばちゃん」と石井漠の妻八重子に懐くようになり、十二階や花屋敷へ連れていって遊ばせる。一ヵ月余りして、健康を回復した美津がまことを引き取る。

 この頃、音楽会がありさえすれば、聴きに行く。

 この年の頃、《奥むめおは、木蘇穀を通して辻潤のことをきいて、平塚らいてうに紹介してもらいたく、一度遇いたいというので》木蘇穀に連れられて、千駄木の奥むめおの家に行き、初めて奥むめおに会う。〔二度目に訪問した時に、奥むめおを連れてその頃、田端にいた平塚らいてうに会いに行く。〕

1919
大正8
35
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 春頃、本郷=追分町に下宿する。(栄林館か。)

 佐藤春夫の動坂と神明町時代に、よく佐藤春夫を訪問する。追分の下宿からあまり遠くなかった。

 5.6〜 《佐藤惣之助が監督の常盤楽劇団に加わり》浅草の観音劇場で常盤楽劇団第1回公演、シング原作の象徴劇「谿間の影」に放浪者役で出演。ほかの出演者は、佐藤惣之助・山路千枝子・陶山篤太郎・小生夢坊・木蘇穀・徳永政太郎。

 5.14〜23 浅草の観音劇場で常盤楽劇団第2回公演、 ゴールキーの「夜の宿」に男爵役で出演。ほかの出演者は、佐藤大魚〔佐藤惣之助〕・笹本光広・陶山篤太郎、など。

 常盤楽劇団公演は、辻潤の出た文士劇のほか専門の役者による「トスキナ」や沢田柳吉のピアノ独奏もあった。「文士」たちはクロポトキンやバクーニンやスティルナーを論じ、沢田柳吉は初日はタキシード姿だったが、それは浅草ではないというので、翌日からは着流しで、お辞儀は貴族社会幇間の慣習だというのでやめて、いきなりピアノの前に腰をかけて演奏したりした。「夜の宿」〔「どん底」〕の方は、役者が自分勝手に演技し、当人たちはいい気持ちになっていたが、客の入りは、ほとんどなく、常盤楽劇団は翌6月に解散。 パウリスタで解散式。

「どん底」出演の頃は、辻潤は自暴自棄になっていた。のちに当時を回想して、観音劇場での芝居は「私の生活が極端に自暴自棄に陥っていた時の表現で、あれ程芝居というものを無視していたときはなかったのかも知れない。あの時、あの生活をもう少し続けていたら、私はとうに破滅してしまっていたにちがいない。今思い出しても少なからず滑稽で悲惨な感じがする。」と語っている。

 夏、下宿料滞納で下宿を追い出され、菊坂上の友人の奥栄一の下宿に転がり込む。栄林館。〔そこに奥むめおが木蘇穀と訪ねて来たり、前からいた布施延雄が帰ってくる。〕

 9月 『獄中記』を越山堂より刊行。

 この頃、佐藤春夫は短い翻訳をしようとしていた。その冒頭の一節は大体次のようであった。
「私はその男の私に対する重ね重ねの仕打をぢっとこらえて来た。――何日かは、どうしてもこの仇だけは返す覚悟なのだ。言わずと知れたことだが、私ほそんなそぶりなどは見せはしない。だから以前のとおり奴の顔さえ見ればこっちでも笑ってつき合っていた。だって存分に仇を返すには、下手人が世間へ知れたのじゃ何にもならない。そのくせ相手には今仇を返しているのだぞということを存分に見せつけてやれないでは、これも亦何もならない」
 佐藤春夫はその訳に自信がなかったが、そこへ辻潤が遊びに来た。佐藤はその原文を辻に見て貰い、辻は、その通りだと言った。「そうじゃないか、そのとおりさ。何もわからない事はないよ」辻はそれから佐藤のために逐字訳した。突然、辻が「ね、そうだろう。解るではないか、僕にはよくわかるがね――おれの大杉に対する気持ちはこれだ。そっくり」 その口調がいつもの辻の気魄のない言葉つきではなかった。佐藤は一瞬間、辻を見守った。辻は、苦笑をもって前言を掻き消した。

 9月頃 藤井伯民が訳したフローベルの『聖アントワーヌの誘惑』を金に代えてくれる書肆はないものかと、武林無想庵が藤井伯民を促がしてその相談に本郷追分の栄林館の辻潤のところへ行く。2階2間つづきの6畳で、辻潤は越山堂の翻訳仕事をしている奥栄一・木蘇穀・布施延雄、そのほか和田むめを・佐藤惣之助などを武林無想庵・藤井伯民に紹介する。辻は彼らの英語のアドバイザーを勤めていた。その晩は、議論風発、飲み明かす。暑苦しい夏の夜、一つ蚊帳の中で和田むめををとりこめ、酔った辻潤が先に立って、夜の明けるまでいやがらせをする。翌朝、別れる時、「もし君がスチルナーを訳す気なら、当分ぼくのうちへ来てやってもいいぜ」と武林が辻潤に話す。「そりゃほんとうですか? ほんとうなら近々おしかけていきますよ」と辻が言い、武林は、うなずいて「そのかわり、藤井の原稿はくれぐれもたのみますよ」と念を押す。『聖アントワーヌ』はどうにもなりそうでなかった。その頃、頼みに行った藤井伯民の方に、乏しいながらも定収入があり、追立てられずにすむ家があり、辻の方はその二つながらがなかった。〔それを縁に、のちに辻は武林の居候になる。〕

 10.20頃 武林無想庵が借りて住んでいた麹町9丁目の茶人が建てたという酒落た古い家に居候をする。
 この借家には武林無想庵の雇っていた老女中がいた。片目で耳の遠い70になるお花婆さん。
 武林無想庵は二階、辻潤は階下の一室に暮らす。
 辻潤は、一週間ほど休んでから、酒も飲まずに「唯一者とその所有」の全訳に取りかかる。
 猫と女中の婆さんと武林無想庵と辻潤とが、各自与えられた部屋に引き籠って、飯を食う時だけ顔を合わせるといった静かな生活。武林には、折々、桃色や水色の西洋封筒が来ていた。

 宮嶋資夫が辻潤を訪ねる。武林無想庵は留守だったが、辻は「武林とはね、顔も見なけりゃ口もきかない日が幾日もあるよ」と笑う。。

 ある日、武林無想庵は辻潤を飲みに誘い、夕方から数軒飲み歩く。武林は、単身孤独で、トランク一箇の生活に入りたいのが急務なのだと話し、辻を引っぱってきたというのも、それを決行するための助手に雇ったつもりなのだと語る。明け方近くに帰る。それから度々二人で夜飲み歩く。武林はトランク一つになる準備に取りかかり、辻もそれを手伝う。

 武林無想庵と飲み歩くようになり、辻潤と脇屋義人の二人で「ロシヤは北国果てしらず」などとやけくそな大声でどなったりする。 夜、辻潤と武林無想庵は、ウィスキーを飲みちらして歩き、出鱈目な英独仏をゴチャまぜにした言葉を、お互いに喋々と囀りかわしながら、一軒へはいって、一杯飲むか飲まむうちに、立上って、「アナザア軒!」という。はなはだしい時は一晩に15、6軒、「はしご」をする。落ち行く先は、きまって新宿とか、御宿とか、また吉原なら小格子というところ。

 11.16頃 武林無想庵が「放浪」に出る4、5日前、武林・辻潤の二人で銀座をブラつく。辻は、「僕は銀座へ来ると、自分がエトランゼのような気がする」と言う。

 この頃、宮嶋資夫が辻潤を訪ね、武林無想庵がまた比叡山に籠り、辻も共に行くと聞く。

 11.20 武林無想庵・辻潤が借家を出る。武林は、辻に見送られて、車で東京駅に向う。

 辻潤は、武林無想庵が書いた紹介状を持って、比叡山に上り、宿院の二階の一室に落ちつき、感傷的になっていたので、二人の子供に宛てた遺書を書くが、四、五枚書きかけてやめ、スティルナーの「唯一者とその所有」の訳業を続ける。 宿院は賄いが付いていた。

〔昼夜転倒の生活となる。ときどき宮嶋資夫に便りを送る。比叡山で初めて「般若心経」を覚える。〕

 12.3頃 武林無想庵、比叡山に上る。〔武林は比叡山宿院3号室で「放浪第一信」を書く〔『読売新聞』へ送る〕。その隣の部屋で辻潤は Max Stirner を訳す。〕

 武林無想庵が女から贈られた二本のウイスキーも数箇の罐詰もおしまいになり、二人は番茶を啜って、囲炉裏にさし向い、空理閑談に夜をふかす。2時3時にまでも及ぶ。翌日は大抵12時まで寝込む。辻潤は起きると翻訳にとりかかる。

〔武林無想庵は、善光院に移る。〕

 12月頃、辻潤、比叡山を下り、東京に行く。宮嶋資夫に比叡山の様子を話す。

1920
大正9
36
37

 1.10 宮嶋資夫が、下見に比叡山に来る。宿院の辻潤の隣の武林無想庵がいた部屋に泊まる。茶所で武林無想庵と酒を飲む。辻潤は大阪に行って宿院にいない。(辻潤は翻訳を終えた「スティルナー」の原稿を出版社に送る目的もあって、比叡山を下りていたと思われる。)

 1.25頃 辻潤が比叡山に戻る。

 1.26頃 ある雪の晩、辻潤・武林無想庵・宮嶋資夫の3人で、山上の茶所でひどく酔っ払った揚句、雪のあかりをたよりに山の中を歩き出したが、なんとか講の連中に会い、辻が法華の太鼓を叩き、武林が大般若を出鱈目に読んだりして、しばらくまぜっかえして、また茶所へかえって、飲み直す。宮嶋は無想庵に突っかかり、議論をやり出したが、そのうちフイと立っておれはもう山を降りてしまうといって飛び出す。辻がついて行くと、宮嶋は途中で嘔吐したりしたが、宿院の部屋へ帰った。武林はその晩は一人で茶所で飲み明かしたらしい。
 辻潤・武林無想庵・宮嶋資夫の3人で、飲んでいる時、武林は「どうだ、洋行は君と二人でやろうか?」 と辻に言う。辻は「願ったり叶ったりだ。」と答える。「巴里か紐育の貧民窟でノタレ死する覚悟でだ。」「なアに、僕の尺八さえありゃア、世界中どこへ行ったって、ノタレ死なんかするもんか。」 〔武林無想庵と比叡山で暮らしている頃、武林は、辻潤をパリに連れて行ってくれるようなことを話す。〕

 武林無想庵・宮嶋資夫・辻潤の三人で、山を下り、祇園のあるカフェへ行く。辻は尺八を取り出しカフェの土間に座って吹き続ける。

 辻潤は、どんなに飲み、金を使い、歩いても、最後は必ず若干の予備金を残しているのを常とした。武林無想庵はそれを怒って、夜中、阪本から大津まで歩き通し、自分は折よく来た上り列車で東京に行き、大津の駅に辻を取り残す。辻は、下り列車に乗って京都に行き、京都駅で一夜を明して、朝酒か何かで元気をつけ、比叡山に帰る。

 1.27頃 宮嶋資夫が東京の家を畳んで比叡山に移ることになり、辻潤・武林無想庵・宮嶋資夫の三人が 降り積んだ雪を蹴立て、「ホー/\、ハウ、ウイ、ゴー」と怒鳴り合って山を降る。〔宮嶋は東京に向う。〕

 2.5 宮嶋資夫が家族〔妻:麗子(うらこ)、長男:伸〔6〕、次男:克〔3〕〕を伴い比叡山に上る。僧坊の正覚院に住む。《1月27日頃からこの日までに武林無想庵は山を下りる。》〔雪の日が続く。〕

 一人でよく尺八を吹く。

 雪が晴れると、雪だらけの足をしてぶらぶらと宮嶋資夫のところに遊びに行く。いつも、「よく降るねえ」と言っただけで、二人とも黙って寝転ぶ。

 夜に、辻や宮嶋資夫の家族は、よく根本中堂の下の北谷にある教正院へ風呂を貰いに行く。月のない暗い晩に辻と宮嶋資夫の家族は、風呂に暖まって雪道を帰る。辻は、突然、澄み切った空を仰いで、「おい見るよ、こんな綺麗な空は、下界では見られないぞ」と提灯をぶら下げていた手を差上げて火影ですかすやうに言う。

 2.11 善光院、焼失。辻潤はこの頃までにスティルナーの翻訳を終え、金が送られてくるのを待つ。

 2.15頃 辻潤、比叡山を下りる。(宮嶋資夫によれば、翻訳したスティルナーの校正をするため東京に行ったという。)〔大阪に行く。〕

 上京するまでの辻潤の行動は不明。

 3.上旬頃 上京。〔吉原に行く。〕

 3.6 武林無想庵の妹に似た女がいると武林無想庵を誘い、吉原に行く。

 3.7頃 本郷台町=正修館に宿泊。

 辻潤は、『唯一者とその所有』の校正をしなかったようなので、東京で辻潤が何をしていたのかは不明。

 5月 『唯一者とその所有』「人間篇」を日本評論社出版部より刊行。

 この頃から宮嶋資夫を慕って、絶えず色々な人が比叡山を訪れる。

 6.5 《加藤一夫・堺利彦・武林無想庵・安成貞雄・等の発起で》夕、下谷竹町の「かめや」で『唯一者とその所有』の出版記念会を開催。

 6.7 16:00頃、秋田雨雀が、神近市子を訪問すると、辻潤がいて、3人で20:00頃まで快談。

 宮嶋資夫は、加藤一夫に誘われ、大阪の自由人聯盟の講演会で演説。

 講演会に誘われ、大阪と京都で、宮嶋資夫と共に講演に立つ。大阪では巡査が、跋扈跳梁して、聴衆が擲られ、椅子が飛ぶ。京都の会が終った翌朝、宮嶋と共に京津電車に乗って石山の汽船まで来て、それから比叡山に上る。

 再度、比叡山に上ってから1週間ほどのち、大阪の 岩崎鼎(かなえ)から来いというハガキが来て、大阪に行き岩崎方に寄寓。〔岩崎の紹介で、大阪の奇人岡田播陽、真宗坊主の高田集蔵を知る。〕

 再再度、比叡山に上る。〔人のいない山の中を、辻潤・宮嶋資夫・布施延雄は、大きな声で歌をうたって歩く。〕

 宮嶋資夫の「ところへ京都や神戸から、多数人が集まるようになって山の上も騒がわしくなった。自由人聯盟以来警察の注意もだんだんきびしく、ここにも常尾行がつくようになったので、延暦寺でも警戒しはじめて、宿院との間もだんだんぎこちなくなってきた。」

 夏、比叡山で、同志社大学=英文科=専門部予科の学生である野溝七生子と知り合う。辻潤は一見して恋に落ちた。〔「ラウテンデライン」・「永遠の女性」・「白蛇姫」などと呼んだ。ラウテンデラインはハウプトマン〔Gerhart Hauptmann〕の「沈鐘」に出てくる妖精。辻は、命懸けで惚れたという。〕
 野溝は宿院の二階の表玄関の上に宿る。玄関前の庭で辻潤は、教王院の中島や、大講堂の「くも男」〔宮嶋の小さな頃、「くも男」という名の奇型児の見せ物があり、そこから名づけた〕とキャッチボールをする。中島はよく、二階の野溝の部屋にボールを投げ込み、野溝が笑みを浮べて、広い窓から顔を出すと彼等は笑い、辻は、おい、ここだよ、ここだよ、と野溝にボールを投げさせて喜ぶ。
 吉田一が笑談に野溝に言い寄ったとき、辻は、よせよ、と真顔で怒鳴る。その夜は、野溝の部屋の障子のそとに床をのべて寝た。
 野溝が京都へ下る、と言ったとき、辻潤はしきりと学校が始まっても手紙をくれるよう、住所は必ず知らせてくれ、と頼む。出発のとき、辻・布施延雄・宮嶋資夫で、送って行き、布施と宮嶋が先きに立ち、辻・野溝は語り合いながらあとから来たが、「かなめの宿り」で別れる。野溝は財布から金を出して、少しよ、煙草でものんで下さい、と渡す。辻は、有難う、と素直に受け取る。辻は野溝が下って行く姿を見送る。
〔野溝七生子は「ボーイフレンドの好みだっていってしまえば面食いで、ですから辻潤氏のようなタイプには尊敬こそすれ全く食指を動かさ」なかった。一方、宮嶋資夫「遍歴」には、二、三年して、とうとう思いを達したぞ、と叫びながら辻がやってきたとある。辻自身は、「『永遠の女性』ときたらなんとも手の出しようがない。」と書いている。〕

 8月 宮嶋資夫は日日新聞の小説連載が決まって、東京へ帰ってからの家を定めるため一度帰京。

 8月 武林無想庵・中平文子が乗るマルセイユへ向け出帆間近かの「横浜丸」を見送りに行き、武林と決別の握手をする。

 9月 宮嶋資夫は比叡山を下りる。《8月末に家族は既に下っていた。》

 この頃 比叡山を下りる。

 この頃 妹の恒、津田光造(つだ みつぞうと結婚。津田光造は、東京府下上落合503に居を構える。
〔津田光造の名は時に「光三」とあるが、「光造」で統一する。「津田光造」『日本近代文学大事典』では、「光造」の読みは「こうぞう」〕

 10.7 神近市子・片岡〔鈴木〕厚の結婚披露会に出席。17:00PMから、神楽坂の倉田家で、秋田雨雀のほか宮嶋夫妻・遠藤夫妻・大泉黒石・伊沢・尾崎・辻潤が出席。

 11.23 京橋区〔のち中央区〕南伝馬町の星製薬七階で黒耀会第二回作品展覧会〔11.23から6日間、9:00AMから20:00PM。〕。辻潤が出品。ほかに、もっとも出品数の多い望月桂のほか、長沢青衣・馬場孤蝶・生田春月・堺利彦・山川均・大杉栄・石川三四郎・久板卯之助・木下尚江・山口義三・吉川守邦・百瀬晋・加藤一夫・橋浦時雄・西村陽吉・小生夢坊・大石七分・高尾平兵衛・加藤勘十・水沼辰夫・堺真柄・高田和逸・吉田一ら。「当時印刷された目録では、七七名、一四〇点余が掲載されているが、開会後の持込みもあり、最終的には、これに相当プラスされたと思われる。」
〔11.23 13:00PM 警視庁から橘〔検閲課長〕・本間〔官房主事〕・石井〔特高課長〕が車で乗り付け、検閲の必要ありとして、観覧を禁じた上、約5時間にわたって検閲を実施。「結局、望月の「反逆性」「ひかれ者」ほか四点はじめ、石渡山達「ブラックリスト」、尾崎士郎「孤立分身」、長沢青衣「爆弾」・橋浦時雄「動乱」、安成二郎「貧乏の歌」、岩佐作太郎「定まる御代」など二四点の撤回・望月の「共産者」「女工」をはじめ、長沢「脱獄」、小生夢坊「性欲より文明へ」「馬置場に於ける美人」の五点は・画題変更を命ぜられた(もっとも新聞によっては、撤回と画題変更合計三〇余点というものもある)。
 この処置に対し、会員と警察の間で、一時対立・乱闘もあり、一名が検束されている。望月たちも、二九点をそのま撤回せず、二日目以降も一般の公開に供した。それについては、望月が「当局からは未だ正式撤回命令も何も来ていない。唯後で相談するからと云つて撤回した儘一日経つても返答がない。吾々はあく迄も当局の判然した弁明を聞かぬ中は撤回せぬ決心である」という談話を『やまと新聞』に発表する(一九二〇年一一月。日付不明)。  それに対して、警視庁もほうっておけず、五日目の一一月二七日、京橋警察署から所長以下巡査一〇数名が来場し、望月の四点、橋浦時雄の二点を撤去し、持ち去った。それを知った弁護士の山崎今朝弥は、すぐに望月たちに入れ知恵し、警視庁に電話で盗難届けを出させる。」「 そうしておいて、山崎は、勝手に訴訟をかってでた。望月と橋浦を原告に、二人の「傑作」の返還請求の訴訟を起こすのである。」「訴訟そのものは、絵画が二人に返還されたことから取り下げられる」〕

 11月 加藤一夫らの「自由人連盟」の会員として名を連ねる。

1921
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 5.28 エロシェンコが上落合の辻潤の家に遊びに来る。エロシェンコがレコードをききたいと言ったので、居合わせた高橋勝也が近所の犬養健のところに連れて行き、辻潤も一緒に行く。エロシェンコに対し内務省から危険思想を抱いているということで退去命令が出され、この夜、淀橋署に検束される。

 11月 《佐藤惣之助の紹介で、》路次の突き当りの二軒長屋の奥の方の二階建ての家、川崎町砂子(いさご)187番地に母と息子のまことを引き連れて住む。〔のちに、弟の洋服仕立業の義郎も住む。〕《それまでは母とまことは、新宿区上落合の恒の家で暮らしていたらしい。》
 土台がシッカリしていないためか、電車や汽車の通るたびにグラグラ揺れる。朝と昼と晩のケジメがつかなくなり、「寝床はどうかすると、三日も四日も敷きっぱなしで、原稿書きがイヤになると、その上に仰向けにひっくりかえって欠伸をしたり、バットを吹かしたり、天井の節穴を眺めたり、古本を乱読したりする。」

 12月 『自我経』〔『唯一者とその所有』の全訳〕冬夏社より刊行。

 12.8 夜、横浜=本牧に谷崎潤一郎を訪ね、二階の書斎で話をする。21:00PM頃、地震があり、谷崎潤一郎のあわて振りを見て、笑い転げる。

 12月 どんより曇った日の午後、高橋新吉が川崎の辻潤の家を来訪。
「綿だけのふとんを被て、辻潤は、ねていたが、鼻下に髭を蓄えていて、ドテラを着て、応対した。家の入口から、奥まで見通しの狭い家だった。鮭の切り身をおふくろに買って来させて、めしを一緒にたべさせられた。」
 高橋新吉は、「ねずみ色の外套、首に巻きつけた色のわからないようになったハンケチ、煮しめたような風呂敷包み、バスケット、草履を穿いた汚い足、モジャモジャの頭、鉄縁の奥に光っている鋭い黒い眼つき」。高橋新吉の用事は前から辻潤に会いたいと思っていたことのほか、『自我経』が読みたいが、高くて買えないから、手許にあるなら貸してもらいたいという。『唯一者とその所有』は買って読んだというので、スティルナーをどの程度に理解しているのか試すつもりで、読後の感想を訊くと、一種の論文を出し、よくスティルナーを理解していた。辻潤の手許には一冊も『自我経』がなく、高橋新吉のために本屋へ宛てて名刺を書く。タダで貰うのは気の毒だからといって、高橋新吉は2円なにがしかを出したが、辻潤はそれを断る。高橋は「では、これを置いて行きましょう」と言って、謄写版刷りの横トジの詩集を2冊出し、それから、暇な時読んでくれといって「ダダイストの睡眠」という手記を出す。〔その頃、高橋新吉は栗橋の舟戸にいたが、間もなく東京へ出て、蕎麦屋の出前、しるこ屋の手伝い、それから東京日日新聞社の食堂の飯盛りをする。高橋がタスキ掛けで働いているところへ、辻潤は二、三度、訪問。〕

〔ダダを高橋新吉より知り、ダダイストと名乗り始める。〕

 12月 《9月に生田春月『相寄る魂』第1巻が発行。》生田春月『相寄る魂』第2巻が発行される。〔点景人物の一人のモデルとなった辻潤は、感謝の書簡を送る。〕

 この年、一時、『英語文学』の英文和訳の選者を担当。

 この年の頃、稲垣足穂を知る。稲垣足穂が佐藤春夫と相馬屋紙店の前を神楽坂下に向って歩いていると、辻潤に会い、揃って果物店の田原屋に入る。

 この年の頃、《上京して来た》野溝七生子を伴い、神近市子を訪問。神近市子に来客があり、神近市子を待つ間に、野溝七生子は、用事を言い立てて辻を残して帰る。

 この年の頃、飯森正芳に会う。

1922
大正11
38
39

 1.23 《高橋新吉が川崎の辻潤の家を訪問するが、辻は留守で、高橋は、「黒子(ほくろ)」という200枚ほどの小説を置いていく。辻潤が東京に2、3日泊まっている間に坂本石創が訪ねて来る。》高橋新吉の「黒子」などを読み始める。

 1.24 高橋新吉に手紙を出し、高橋新吉の「黒子」を読み始め、「今月は僕も、もう、自分の仕事に没頭しなければ、ならないから、今月中だけ、ガマンし給へ、来月初旬には必ずどうにかするから。」「失望しないやうにし給へ。」などと書き送る。

 1.31 《1.22 アナーキストの久板卯之助、伊豆山中に写生に出かけて凍死。》この夜、神田の仏教会館における久板卯之助の告別式に出席。出席者は他に、望月桂・岩佐作太郎・堺利彦・伊藤証信・宮嶋資夫・谷口伝次郎、ら。告別式後の追悼懇談会は20:30にいたり、臨監の西神田署が解散命令を出した。 神田の中央仏教会館。

 1921.12〜1922.2月頃 高橋新吉を伴い、横浜=本牧=宮原883の谷崎潤一郎を訪問。〔高橋新吉を伴い、佐藤惣之助の家にも行く。〕

 2月頃 東京日日新聞社の「食堂」で働いている高橋新吉を宮嶋資夫とともに訪ねる。

 この頃、高橋新吉は、辻潤の紹介状を持って、佐藤春夫を訪れる。

 3月頃、金が3か月ばかりいる間に出来たので、少し休養して本でも読むといって、高橋新吉が川崎町へやって来る。その頃、辻潤のところにはIという画家や、Vという男などがゴロゴロしていた。高橋は川崎町の社会館に陣どって、折々辻潤のところへ来て、気が向くと八丁畷の土方の工事の手伝いなどをする。詩が出来ると、必ず辻潤に読んできかせて批評させるが、しまいには少々ウルサクなった。佐藤春夫や大泉黒石や、その他、辻潤の知っている範囲で、高橋が遇ってみたいという人達に辻潤は紹介したり、原稿の売り口を頼んだりしたが、原稿のはけ口はみつからなかった。高橋は自分の健康状態を強く意識して不安を感じていたためか、しきりに焦っていた。

 3月頃 人から『明星』3月号を借りて永井荷風の「雪解」という小説を読み感服、その処へ宮嶋資夫がたまたま訪ねてきて、「なにを考えこんでいるのだ?」と訊き、その感服の趣を話すと、宮嶋はその『明星』を持って行く。〔その次に行った時には、宮嶋は辻潤が読んでない続きを読んでいて、「感服の逆輸入をして」面食らわせる。宮嶋は「辻のお陰で、とうとうブルジョア雑誌を買わせられてしまった」などと文句をいう。〕

 4月 《辻潤が、津田光造に高橋新吉の詩の掲載を依頼し、》『シムーン』〔第2号から「熱風」と改名。8月で廃刊。『近代日本総合年表』によれば、さらに『大衆』と名を変え、1923年1月に終刊らしい〕に高橋新吉の詩「皿」が掲載される。

 4月頃、市橋善之助が冬夏社に行き、辻潤に会う。紺の木綿の羽織を着ていた。貧乏くさいひげを生やした、見るからに貧相で、乱暴そうではないが、人好きのしない、陰気な男に見えたが、友達になる。市橋善之助は当時ドストエフスキー全集の翻訳をやっており、辻は『自我経』を冬夏社から出していて、金を貰いに来た。いくらかずつ冬夏社の鷲尾に金をもらって、二人は冬夏社を出る。永代の橋のたもとの深川区相川町の大清館という市橋善之助の下宿の狭い屋根裏で五合の酒を二人で飲む。辻は、下出書店から出す『浮浪漫語』に入れる原稿や写真を見せる。辻は、僕はコスモポリタンだから序文も英語とドイツ語とフランス語とごっちゃにして書くのだと言う。「ジュ・シュス・アイン・コスモポリタン」というような文章。まことを連れて浅草かいわいを尺八一本持ってうろついた頃の写真を見せる。〔それから、しょっちゅう辻と市橋善之助と小野浩と冬夏社で落ちあい、一緒に酒を飲んだりする。〕

 5月頃 『浮浪漫語』の装幀を工夫する。

 6月 『浮浪漫語』を下出書店より刊行。

 6月 高橋新吉は、浅草向柳原町に住み『商品界』という雑誌を出している辻潤の友人の高州幹一のところに住み込みで手伝う。高橋新吉、浅草区向柳原町1ノ5 高洲かつ方に転居。

 6月頃 この頃は、妹の恒と夫の津田光造が一緒に住んでいる。いつからか、などは不明。

 この頃〔3月頃〜6月の間〕、夜、辻潤・安藤更正が酔って銀座の夜店を歩き、ライオンを出て新橋の方へ行くと、武林無想庵を見つけた辻が「ウオッ」と声を出して馳け出し、洋服を来た武林に抱きつき、安藤に「オイ、アンチャン、無想庵だよ、無想庵だよ」と嬉しさうに叫ぶ。三人で8丁目のプランタンヘ行く。数時間の後、夜中の12時過ぎ、品川の宿場の入口の三徳という飲み屋で飲み、湯豆腐で腹ごしらえをする。片山という店に登楼し、辻と安藤が衝立を距てた割り床で、武林は洋服だけその部屋へ置いて別の部屋へ引込んだ。金は辻が無想庵歓迎の意味を含めて払ったらしい。翌朝、用事があるという武林は、二人の眠りを覚まさせないように、こっそり帰る。11:00AM頃、辻潤・安藤が片山を出る。当てもなく西の方を向いて歩く。辻潤が「オイ、おらあ詩集を出そうと思ってるんだ。並の奴じゃあ面白くねえから、新聞紙位いの紙に大きな活字で刷ってやろうと思ってるのだがどうだ」と言う。深川まで来て、めし屋で深川めしを食べる。二人で30銭。京浜電車に乗り、川崎で降りて貝殻の道を踏んで辻の家へ行き、また酒になる。

 6.12 『浮浪漫語』・『自我経』を持って、武林無想庵のところへ行く。終日、取りとめのない話をして帰る。しきりに南京に行きたがる。

 7.1労働同盟会が主催した思想講習会が、月島の労働会館みたいなところであった。《広告のビラに、「ダダイズムに就いて、講師辻潤」とあった。》そこは、裏長屋の二階をぶち抜いたようなところで、辻潤はよれよれの単衣に腰に日本手拭をさげ、時々その手拭で汗をふきながら、ダダとは赤坊がまずダダと発声するそれから始まったのだとか、学究らしくない調子で学究みたいな話をする。そこで小島清と辻潤は知り合い、その晩、二人で月島の「渡し」を舟で渡り、築地のそばやで「板わさ」で酒を飲む。
〔小島清は、戸籍名キヨ、稀に清子。のち辻潤と結婚し、さらにのち玉生(たまにゅう)謙太郎と結婚し、「玉生」姓となったが、以下、小島清で統一する。〕

 7.8頃 広島の十日市町の洋服屋の娘、小島清(きよ)を同伴して、房州半島の突端、白浜の先の根本という漁村に、一家をあげて移住していた宮嶋資夫をたずね、宮嶋家に滞在する。文学青年・画家の卵などと夜ごとのみ、かつ談論風発。〔小島清とは、のち同棲。〕 5、6人程、村の人達の座敷を借りて生活。〔駒込あたりの宿屋で、辻潤・小島清・高橋新吉で泊まる。〕

 7.末頃 高橋新吉は、川崎の辻の家から歩いて神奈川県=都筑(つづき)郡=山内村=荏田に、代用教員をしている尾上という同窓生のところへ行く。数日いて、辻潤が、高州幹一が脳溢血で倒れ危篤で、すぐ帰らなければならないと自動車で迎えに来る。

 8月 南天堂署名帳に署名を残す。「ただ ダダ あーんぐり ぐろりばん 千九百二十二年八月 潤」

 8月頃 《1月頃から黒瀬春吉が「享楽座」の準備をする。》浅草区馬道の路地横にあった黒瀬春吉経営の「パンタライ社」〔肩書は「女優派出」で、新聞に三行広告を出して「お座敷ダンス」を派出〕が、「ジプシイ喜歌劇団・享楽座」をつくり、辻潤はその一員となる。並行して企てられた「表現座」と組んで、1922年9月、有楽座で旗上げしようという。享楽座の方は、黒瀬春吉作の「元始」と歌舞劇「享楽主義者の死」。作曲:沢田柳吉、監督:辻潤。出演:辻潤・添田さつき・香川静枝・若草民子・花園歌子・西脇真珠・窪田文子等々ということだった。座員が集まって打合わせをしたりしたが、旗を上げずじまいになる。 享楽座事務所の住所は、浅草=馬道7ノ4。

 夏から小島清と同棲。

 9月頃 箱根千石原で武林無想庵が『女性改造』創刊号のために「アナルキスタの夢」を書いているところへ、辻潤・山内恒身が押しかける。

 10月頃 中西悟堂と知り合う。

 11.15頃 表現座の同人として確定される。同人は、ほかに、獏与太平・沢田柳吉・中西伊之助・小生夢坊・前沢未弥・都村建・秋田雨雀・佐々木孝丸・松本淳三・金子洋文。〔表現座は、12.22、23の両夜に鉄道倶楽部で開演の予定。中西伊之助「赭土に芽ぐもの」〔一幕〕、秋田雨雀「旧藩主と火事」〔一幕〕、ほかに沢田柳吉のピアノ演奏。〕

 11.末 古賀光二から手紙が来る。〔三度に一度位は返事を出して、手紙の交換をする。〕

 11月頃 武林無想庵が辻潤の家を訪問するが、辻潤はいない。この頃は、妹の恒と夫の津田光造のほか、弟の辻義郎が一緒に住んでいる。いつからか、などは不明。〔一階で、洋服屋の辻義郎が、八木という加藤一夫の弟子を相手に洋服を縫う。その仕立場が夜になるとバクチ場に変わり、川崎の土建業者等々という「与太者」が寄って来る。辻潤が浅草に住んでいた頃隣りに住んでいたという職人の「玄ちゃん」が日曜の朝に一升ビンを下げて辻家へやって来て、辻美津や、辻の妹の恒を相手に酒を飲み、月曜の朝に帰って行くが、それが毎日曜のこと。「辰ちゃん」or 「辰公」と呼ばれた内藤辰雄が行くところがなくなって辻のところに寄りつく。内藤辰雄は、関東大震災時までいる。近所に住んでいる陶山篤太郎・佐藤惣之助が時々やって来る。〕

 12.5頃 高橋新吉、川崎の辻潤の家に行く。小島清が飯の給仕。晩に、辻潤・高橋新吉・陶山篤太郎が渡辺渡のところへ行く。渡辺の妻がいなくて、渡辺と共に飲みに行く。辻潤は、高橋に二宮の武林無想庵の家を教える。高橋新吉は川崎の辻潤の家に二泊。〔高橋新吉、二宮の武林無想庵の家に行く。〕

 12.13 高橋新吉が「発狂」。《12.11 高橋は有島武郎宅を突然訪れて、詩を読み、ダダ講演会のための金銭と毛布をもらう。12.12 高橋、大阪の姉にあてた危篤直ぐ来いという電報を野田に打たせる。高橋、加藤朝鳥・大泉黒石を訪問。大泉の家で墨で障子紙に「南無ダダ、ダガバジ舐瓜」と書いた旗を作り、電車の終点の活動写真館の前で、「南無ダアダ、ダガバジマクワアウリ」と叫ぶ。内藤の家に泊まる。》タクシーに乗り、背後から運転手の、洋服の首のカラーを掴んで、「銀座へ行くんだ。オイやらないか、言う事を聞け」と喚く。運転手は交番の前へ車を止めて、逃げる。巡査が来て、高橋は、自動車の窓ガラスを平手で叩き割る。巡査になぐられ、逮捕され、留置所に収容される。

 12.14 黒瀬春吉の電報で辻潤は高橋新吉の居所を知る。

 12.15 《大阪から出てきた》高橋新吉の姉と野田という大学生と小島清と四人で、錦町警察署へ高橋新吉を迎えに出かける。高橋新吉は留置所の中で毛布を頭からかぶって寝ていた。高橋新吉は懐中からヴィヨンの詩集を取り出してお経のように高らかに読む。高橋新吉の姉と辻潤が彼をなだめすかし、夕方、人力車に乗せて警察の門を出る。野田の貸間に連れて行く。

 12.16 高田馬場駅で高橋新吉、姉と野田と電車に乗り、八幡浜に向う。辻潤・小島清が見送る。

 12.22頃 武林無想庵が夕飯をすませてから、辻潤が小島清を伴い武林無想庵の家に来る。高橋新吉の発狂の新聞記事が出て、高橋新吉の詩集が出版されることになり、武林の家に置いてある高橋新吉の頭陀袋一杯の原稿を取りに来た。辻潤は「大船で買ったサンドウィッチなんぞ開きながら、/ ――君、ウィスキイはないかね? あったら、一つ……などと、早速ダダイズムに取懸る。」

 12.31 小島清、銀座、浅草、上野、神田とブラつく。〔1.1 4:00 AM頃、小島清、帰宅。6:00 AM頃、辻潤が酔っぱらって矢部周と安藤と一緒に二階へ帰ってくる。〕

 12月 中西悟堂の詩集『東京市』、抒情詩社より刊行。〔辻潤、『東京市』を読み、中西悟堂に私信を出す。〕

 この頃、萩原朔太郎の『新しき欲情』を読んで、初めて萩原朔太郎を知る。〔なんべんも繰り返して読む。〕

 この頃、「養父の好意」で、小学校一年生の若松流二は、父の辻潤と兄の辻まことに会う。〔以来、辻潤とまことは、夏になると、若松流二のいる大原に行く。〕

 この頃は、たまには『改造』などから原稿の注文がきたりして、そう驚くほどの貧乏でもなかった。
 この年頃から1924年頃までは、月収2、300円。居候を2、3人置く。

 この年の頃 辻潤が、いくらかでも生活の足にしようと直木三十五の家に原稿料を貰いに行く。行くと顔みしりの文土やら、米屋、薪屋、酒屋等々の掛取りたちが、ワンサといて玄関からはみでている。昼近き頃で、直木は二階の寝室で寝ているという。見込がないと帰ろうとすると、二階から「女中」が降りて来て、辻だけを二階に上げる。寝床の上に端然と坐った直木は長髪をかきあげながら悠然とダンヒルのパイプをくわえ、ニコリともしない。袂に手をつっ込み百円札を取り出し「辻さん! あなただけです、お持ちかえりください!」と言う。バットでも買って、こまかくし電車賃をつくって帰ろうと、タバコ屋に入ったが、百円では釣銭に困るというので、歩いて銀座のカフェーのライオンに辿りつき、一杯やり、居合せた友たちに飲ませたりして、百円を細かくした。

1923
大正12
39
40

 1.5 いつもの通り正午頃に起きる。湯に入って飯をくって机の前にすわる。夜は「白蛇姫」の像へ冷水一杯に水仙をたてまつり、恭々しく「荘子」を読誦。

 1月 水茶屋で古本屋をしていた古賀光二の主宰で『駄々』という雑誌が福岡の店頭に出る。〔2月号には、高橋新吉の「ダダ仏問答」、辻潤の「ふあんたじあ」その他、松本淳三などが書いていた。同人募集広告に「芸術家、非芸術家を問わず。但しダダ主義者に限る」とある。裏表紙に「ダダ講演会の予告があり、弁士は辻潤、高橋新吉、大泉黒石となっている。〕〔1月に古賀光二が『駄々』という雑誌を出し、辻潤のところへ300ほど送って東京で売ってくれと言って来る。 この雑誌は2号でつぶれる。〕

 1月半ば頃 高橋新吉に「君の詩集を、ダダイスト新吉の詩と云う題で出す事になったが構わないか、で僕は本屋から六十円前借をしたが、月末に君に送金するから」などと書いた長い手紙を出す。〔八幡浜の警察の留置場で高橋新吉は手紙を受け取るが、返事は出さない。〕

 1.27 高橋新吉は二宮の武林無想庵のところへ行き、それから川崎の辻潤の家を訪れる。佐藤惣之助など大勢いた。まことと美津は「東京の病人のいる」家に行っていた。辻潤は高橋に一緒に東京へ行こうと言う。飯を食って日の暮れになり、万世橋で降りて向柳原まで歩く。まことと美津に少し会う。電車に乗り牛込の原町で降りる。「 遠藤無水が、会津の小鉄の話と、田所と十八の娘のある話をした。」 辻潤の友人の沼田の家へ一緒に行く。

 1.28 辻潤・高橋新吉、新宿から京王電車に乗って、11:00AM頃、布施延雄の家に行く。井ノ頭公園の近くの畑の中の新しい平家。座敷に布団を被って、布施延雄・市橋善之助が二人で寝ていた。雪解けの中、四人で歌を唄ったり小便したりして井ノ頭公園へ行く。帰りに罐詰とビールなどを買う。布施の家で盛んに酒を飲む。辻潤は尻振ヨイヤサやオボコ節をやる。市橋善之助は勅語を暗誦したり、卒業式の唱歌を唄ったり講釈を始めたりして騒ぐ。「電燈が灯く頃までに、ウニや海苔の罐詰も食べ尽し、牛肉やマテ貝や鰹の罐詰も食べ尽し、」香のもので酒を飲む。近所の高橋勝也が御馳走を持ってやつて来る。何処かへ出かけようと言う事になり、吉祥寺の停車場まで歩き、それから電車に乗る。新宿で乗り換え、本郷元町で降りて、布施が行きつけの質屋で羽織か何かを置いて金をこしらえて浅草へ行く。辻潤の行きつけのバーで酒をのむ。馬道の黒瀬春吉のところへ行く途中で、高橋新吉は風呂敷包みをなくす。交番に行ったりして探すが見つからない。市橋善之助がどこかへいなくなる。黒瀬春吉にちょっと会って、辻・高橋・布施で廊へ行くことにする。辻潤は厄落しだと言う。カフェーで、雀焼とドナ焼で酒を飲む。

 1.29 1:00AM過ぎ、ある楼へ上がる。三人でくじを引いて相手を決める。翌朝、市橋善之助は「源ちゃん」とこへ泊つたんだろうと辻潤が推察して行ってみると、いた。そこで味噌汁と納豆の食事に預かる。昼過ぎ本郷の井家の下宿へ高橋・辻潤の二人で行く。一緒に中央美術社へ行く。一氏義良はおらず、神田の料理屋へ行っているので、一緒に行こうと言われる。肉を焼いて食べる。山崎斌蔵や武藤直治がいた。軍服姿の矢部友衛が来る。辻潤はぐたぐたになって寝転ぶ。高橋新吉は、その晩、牛込の浅野の下宿を訪ねて泊まる。

 1.29頃 《2、3日東京に泊まって》遅く帰ってみると古賀光二が来ていた。〔古賀光二は1カ月余りブラブラなすこともなく、金が入ると酒を飲んで女を買いに行く。〕

 1.30 高橋新吉、辻潤の所へ帰る。辻潤は一緒に二宮へ行こうと言う。横浜で途中下車して、ナマコで酒をのむ。(中平の)片岡旅館で酒をのむ。辻潤が行ってみて、武林無想庵は熱海へ行って留守で、春子も田舎の村へ行ったと聞いて来る。風呂に入ってめしを食って辻潤は帰る。
〔高橋はしばらく片岡旅館に滞在。それから、辻潤の家へ行く。昼めしをたべてから退屈した高橋は三味線を引く。湯に入る。高橋新吉は階下で、鏡の前に座って、小島清と二人で化粧をして遊ぶ。15:00PM過ぎに加藤一夫の使いという青年が来て岡山と神戸での講演を辻潤に頼む。辻潤が行かれないというので、高橋新吉が行くことになる。晩飯を食べてから、辻潤と京浜〔線?〕で東京駅に行く。福田正夫・新居格が来て、辻潤は新吉をよろしく頼むというようなことを言って帰る。18:00PMの急行。〔翌朝 9:00AM 神戸に着。18:00PM (キリスト教)青年会館で講演が始まる。講演者は高橋新吉のほかに加藤一夫・新居格・福田正夫・富田砕花など。高橋は「シャクソン氏の癲癇とアインシュタインの細君」という話をする。〕

 2月 辻潤の編集で『ダダイスト新吉の詩』中央美術社より刊行。2.15。

 この頃 吉行エイスケがオリーブ色の鉢巻きをして『ダダイズム』をふりまわして乗り込んで来る。

 3.初 古賀光二が帰る。

 3.20頃 旅行に出かける。野溝七生子の母親に会うこと、小島清の実家を訪ねて勘当されていた清の帰参を懇願に及ぶこと、愛媛にいる病気中の高橋新吉を見舞う目的であった。古賀光二が来いと言っているし、大泉黒石も九州に行く用事があるというので、辻が先に行って大泉を待ち、講演をすることになった。ゆっくり乗りたいので東京駅から列車に乗る。

 大阪で辻潤は降り、小島清はそのまま広島へ。難波から南海に乗り粉浜で下車し「井崎」を訪ねる。広島に行き小島清の実家に泊まる。2日滞在にして小島と袂を分かつ。 ひとりで己斐(きひ)駅から博多に旅立つ。

 箱崎神社の傍らの馬出(まいげん)松原添というところの古賀光二の下宿に滞在。改まって仕事をせず、学生と無駄話をして遊ぶあい間に尺八を吹く。箱崎神社の傍の朝湯にたいてい毎日のように出かけ、帰りには手拭を頭へのせて、露店の椎の実を一袋買って、それをボリボリ噛みながら波打ちぎわまで歩き、松原の中をノソノソ歩きながら帰って11時頃に朝飯を食うことを喜びとする。

 パウリスタアの別館で辻潤の歓迎会が開かれ、集まる者7、8人。招待した新聞社の人達も来ず、来たのは特志の青年4、5人。しんみりとしてお互いに卓を囲んで気楽に話をする。
 翌日から、歓迎会に出た湯浅浩という日向の青年とNという広島の青年が下宿へ遊びに来るようになる。二人は福岡の大学病院に入院していて、友達になった。二人は病院前の日の出館という旅館にとまっていて、辻潤らもその旅館に遊びに出かけるようになる。

 日の出館にお雪さんという女中がいて、辻潤はたびたび遊びに行き友達になる。色が白く、女相撲のように巨きな人。口許と眼瞼の辺が野溝七生子に似ていた。お雪さんはまだ若いが、なんとなく「おばさん」のような感じで、辻潤のために綻びを縫い、洗濯をしたりする。

 4.4頃 大泉黒石から9日に東京を発つという電報が来たので、13日に講演を行うことにし、辻潤も入れて4人で切符を売り歩く。

 4.7 広島の実家の小島清にあてて、「こんどかえったら、僕はもう、酒をほんとうに、少なく呑んで、自分の力一杯に仕事をしてみたい。」「君が来てくれてから、かなりな落ち着きの出来たことを今ハッキリ感じることができた。」等と書き送る。

 4.13 結局、大泉黒石は講演には来なかった。定刻までには100人以上が集まり、辻潤一人で、中休みを10分程して、2時間30分程しゃべる。みんなおとなしく聴く。 入場料30銭。公会堂で、黒ソフト、黒マントの辻潤が壇に上り、ビールを飲みながら2時間ばかりしゃべる。

 4.14頃 長崎に行き、大泉黒石の泊まっている本博多町の坂本旅館に押しかける。長崎から天草に渡る。

 4月 別府に行く。
 別府温泉で宿の尺八を借りて、2ケ所の遊郭を夜毎に流して歩いたという。

 大分で「ダダ」について単独で講演する。

 4月中旬頃 宮崎で新聞社の人に誘われ、武者小路実篤に会い、紅茶を飲んで話をする。「新しき村」へは行かなかった。

 丸善の博多支店でシェストフの英訳本『All things are possible』を買う。〔後に「無根拠礼讃」と題して訳す。〕

 小島清と古賀光二を伴い高橋新吉を訪ねる。

 帰途、呉に立ち寄り、ダダ展覧会に「面接」。大きな姿見に「諸君の自画像」と題したものや、平行四辺形にキュビズムの宣言と貼り紙したものなどがあった。〔その同人の一人と称するジロウガサパヤなる詩人は、のち彼の自画像を酒盃に変じて送る。〕

 帰途、松江普門院の住職をしていた中西悟堂を訪ねて、姫路から播但線で松江に行く。
 普門院に1か月余り滞在。滞在中に普門院の名で市中の飲み屋を渡り歩く。〔あとから届いた勘定書をすべて中西悟堂が支払う。〕

 見送りの中西悟堂と米子で降り、悟堂の友人の山村光敏が住職をしていた清水寺(せいすいじ)に一泊、米子の駅で中西と別れる。雨が降っていて、時間も遅く、京都へ着くまで殆ど沿道の風景を見ることが出来ない。〔半月後に中西悟堂が上京し、川崎の辻潤の宅を訪ねると、紛失した中西悟堂の水玉模様の単衣が壁に掛かっていた。おやおやと言うと辻はクスクス笑った。当時の仲間うちの悪フザケ。 辻潤が普門院に泊ったのが縁で、辻は阿蘭陀書房〔アルスの前身〕に中西悟堂の詩集を託すが、関東大震災があり出版されない。〕

 6月頃、旅から帰ると早々に紀行文を書いてみようという気持ちが起こり、夏、「陀々羅行脚」の原稿を半分以上書く。〔原稿は関東大震災で失う。〕

 6.25 夜、ピースサロンで「三人の会」。会衆二百数十人。 種蒔き社の主催で「三人の会」というのが催された。中村吉蔵・小川未明・秋田雨雀の文学的業績をたたえようという主旨であったが、実際の目的は、この集会を利用して、当時政府が準備していた「過激社会運動取締法案」に対する反対の決議と請願署名を提案しようというもの。アナ系の文学青年だった工藤信と飯田徳太郎がその意図を察知して、岡本潤らにつたえた。岡本潤らも「過激社会運動取締法案」には反対だったが、種蒔き社がイニシャティヴをとって反対の請願署名をするというのが気にくわず、会をぶちこわそうと、当夜の会場になっていた神田駿河台下の中央仏教会館階上レストランヘ押しかける。反ブルジョア的文化関係者が200人ほど集まっていた。前田河広一郎の司会で、まず三人の文学者の業績がたたえられ、ついで新劇俳優による三人の作品の朗読があり、第二部に移るというところで、平林初之輔〔マルクス主義文芸評論家〕が立って、「過激社会運動取締法案」反対の署名を提案した。すると、安成貞雄〔安成二郎の兄〕が立って、「おい、平林、いや、お前らにきくがね、いったい、署名してどうしようてんだ。政府に、どうぞひっこめて下さいとお願いしようてのか。よせやい、そんなことで、あいつらが言うことをきくとでも思ってるのか!」とまくしたてた。それに対して、種蒔き社の側から、「メンシェヴィキ!」・「反革命!」・「分裂主義者!」などの応酬の叫びが起った。岡本潤らは、いっせいにビールびんなどを持って立ちあがった。怒号や罵声のいりまじるなかで、辻潤が、クヮックヮックヮッというような奇声を発して、テーブルの上にとびあがり、テーブルの上をとび渡りながら、手を振り足を振り、奇妙な恰好で踊った。「三人の会」はメチヤメチャになり、みんないなくなる。

 7.8 無産運動諸団体が連合して、13:30から青山葬儀場で高尾平兵衛の日本初の社会葬。会衆2,000余。辻潤が行く。

 8月 新橋の停車場で佐藤春夫に会い、2、3日前大森の望翠楼ホテルに引き移ったから来いと言われる。

『女性』のための原稿を書く。〔原稿料を貰う日が関東大震災の日で原稿料が貰えない。〕

 9.1 関東大震災。11:58.44AM 地震が発生。
《「一青年の告白」の翻訳原稿が印刷所にまわされる。》
 辻潤は風呂屋にいて、裸のまま飛び出し、慌てて衣物を取り出して、家に帰る。

 関東大震災で家が潰れて住む家を失い、10日あまり野天生活。母の美津と子供のまことを蒲田の妹に預けて、身重の小島清を実家の広島に送るための旅に出る。

〔 関東大震災後、よけいに自分の心の落ち着きを失ったせいか、いよいよ放浪癖が激しくなったように感じる。〕

 9.11頃 小島清と一緒に芝浦から罹災者を無料輸送していた船に乗り、清水港へ。

 辻潤は名古屋で小島清を広島へ行くための汽車に乗せ、それから2、3日して大阪で下車し、そこで金策にとりかかって一週間程くらし、9月25日頃、新聞により甘粕事件で、(大杉栄・橘宗一と)伊藤野枝が殺されたことを知る。

 9.16 伊藤野枝・大杉栄・橘宗一〔大杉栄の甥〕、甘粕正彦〔憲兵大尉〕らによって殺される〔他の説もある〕。

 辻潤はその後、広島十日市町の小島清の実家に立ち寄る。2日あまり小島の実家に滞在の後、伊予八幡浜の辻潤のファン酒井家に滞在。

 一人で高橋新吉を訪ねる。

 11.1 広島で小島清、男子を産む。辻潤の三男、秋生(あきお)。〔電報で八幡浜にいる辻潤に知らせる。辻は喜び、秋生と名づける。はじめは、新一にしようと思ったらしいが、安芸の国で秋に生まれたことから秋生になったとあった 名づけの時、辻潤は、「新一」とも考えたようだが、安芸の国で生まれたというシャレもつけて、秋に生まれたので秋生と名づける。〕

 12.5頃 別府から小島清に葉書を出す。

 12.17 辻潤、飄然と広島に来る。東京へ金策に出かけて又暫くは宮崎に落ちて行くつもり、3月末頃上海へ行く予定と小島清に話す。

 12.18 辻潤・小島清、貝原旅館に行き、辻潤の従弟の茂木〔東京歌劇団の黒川澄子の夫〕に会う。生きる事の苦しさを辻潤と話す。夜、辻潤・小島清、日進会で活動写真をみる。帰りにカフェーで酒を飲む。宮崎の湯浅浩から小島清に手紙が来て、辛島キミ〔君子〕の父が脳溢血でなくなったことを知らせる。

 12.20 15:20の急行で辻潤は東京へ向う。小島清・茂木が見送る。《また正月初め頃来ると小島清に話す。》

 小島清には知らせずに年内に戻り、四国に行く。

1924
大正13
40
41

 1月 四国で正月を迎える。

 1月頃 鹿児島の城山の下にある龍潜館というホテルに滞在。

 2月、日向の宮崎に滞在。九州を一巡して宮崎に帰る。高橋新吉が来ていて、4、5日一緒に暮らす。
 日向で七十何歳かのおすみ婆さんとしばらく一緒に暮らす。
 湯浅浩によって知った宮崎県の都城(延岡か)の菊村雪子姉妹と仲よくなる。

 日向の宮崎から別府の「紅葉館」へ。別府の「紅葉館」の辛島キミ〔君子〕は、野溝七生子を通して知り合った。ペルシャの哲学に凝り固まって気がおかしくなった。別府に来ると必ずクンシを訪れて、酒と寝床にありつくとある。

 (年月は不明確)この頃、平野威馬雄が恋人と暮らしていた定光寺の川の畔の掘立小屋に押しかけ、15日あまり居候。平野が恋人の体に触れず、女が処女であることを知り、大発見をしたと言い、「おどろいた。こいつは驚いた」と涙を流して喜ぶが、「が、下らねえぞ、そんなことでお前を尊敬なんかしねえぞ」と平野に何度も念を押し。翌日、出て行く。

 5月頃 東京市外蒲田新宿315番地、松竹撮影所の近所の長屋の橋の津田光造〔妹の恒の夫〕の長屋に落ち着く。二階一間、一階二間の二階を占領。ここには既に母とまことが住んでいた。
 〔以後、昼夜顛倒の生活。〕

 5月 小島清、秋生と共に上京。

〔 蒲田の家には、林芙美子が友谷静江と訪問、菊村雪子・野溝七生子・池田ふみ・吉行エイスケらが訪問、高漢容が無銭旅行の途路立ち寄る。蒲田撮影所の見物を兼ねて多くのファンが訪れ、津田光造はたまりかねて出家し池上の寺に住み込む。小島清がいるので押しかけて来るわけにもゆかず菊村雪子は、恒と共に佐藤惣之助が二号に出させていた川崎のカフェー、オリオンの女給になった。辻がノイローゼ気味で原稿が書けず、小島清も麻布のシルバーベルと云うカフェーの女給になる。
 卜部哲次郎・荒川畔村〔関根喜太郎〕・木庭孝(?)・室伏高信・百瀬二郎〔エリゼ二郎〕・宮嶋資夫・大津澗〔日→月〕山・長谷川修二・市橋善之助・飯森正芳〔非職の海軍中佐〕・村松正俊・鴇田英太郎・宮川曼魚・尾崎士郎・平林たい子らが出入りする。
 この家は戸締まりもせず来客の深夜訪問も許したので、「カマタホテル」と呼ばれた。〕

 この頃、稲垣足穂が、蒲田撮影所の近くの辻潤の家を訪れる。稲垣足穂はビール1ダースを買い、呑み乾してから、辻はヨレヨレの背広を纏って、当時稲垣足穂がいた滝野川の奥のダンスホールまでついて行き、酔払ってそこに泊る。

 駒込東片町(ひがしかたまち)〔通称:まき町通り〕のアナやダダ系の詩人や文士の溜り場になっていた松岡虎王麿(とらおうまろ)が経営する南天堂書房二階のレストランに、しばしば顔を出す。〔萩原恭次郎・壷井繁治・岡本潤・高橋新吉・小野十三郎・神戸雄一・辻潤・野村吉哉などが常連。ここで林芙美子に会う。 辻潤は「スカラー・ジプシー」と称し、つかず離れ、尺八を演奏したり、女給相手に歌ったりする。〕

 6月 ある日、林芙美子が南天堂に行くと、酔いどれがいっぱいで、辻潤は浅草のオペラ館で木村時子につけて貰った紅だと禿頭(額か)の口紅を自慢する。集まるもの、宮嶋資夫・五十里幸太郎・片岡鉄兵・渡辺渡・壷井繁治・岡本潤。五十里は、俺の家には金の茶釜がいくつもあると怒鳴る。「なにかはしらねど、心わあびて……」と渡辺渡が眼を細くして唄う。林芙美子はお釈迦様の詩を朗読する。黒いルパシカを着た壷井繁治と、角帯を締めた片岡鉄兵がにやにや笑う。

 7月 『ですぺら』を新作社より刊行。

 7月 林芙美子・友谷静江、リーフレット型の8ページの詩誌『二人』を創刊。南天堂で皆に贈る。辻潤は、鉢巻をゆるめながら「とてもいいものを出しましたね。お続けなさいよ。」と声をかける。林芙美子は『二人』に「オシャカ様」・「スリッパ」などを発表。辻潤は「オシャカ様」を激賞する。〔のち、しばしば、林芙美子のところを訪れる。〕

 夏、信州のあちこちを歩き回る。清沢清志を訪ねる。吉行エイスケ・津田光造と共に、信州穂高町の清沢清志家に数日、寄寓。松本市の百瀬二郎の家で懇ろな待遇を受ける。「一青年の告白」の翻訳をする。昨年末までには終わっていたが、原稿100枚あまりがなくなっていたので、その翻訳に二月あまりかかる。

 9月頃 津田光造、出家。〔池上大坊本行寺に入る。〕

 11月 『一青年の告白』を新作社より刊行。

 11.28頃 小島清、最初の別居に踏み切る。〔小島清は本郷区富士前町の磯辺館に下宿する。富士前町の詩人の岡本潤のおでん屋「ゴロニヤ」の手伝いが名目であったが、小島清はさかんに飲み歩く。〕

 11月頃 新居格、訳の『パピーニ自叙伝』を読み、 二三日、他に何も出来ない程、没頭する。

 この頃、本郷の菊富士ホテルに山内恒身を尋ねて、久方ぶりで宇野浩二に会う。宇野は、「実は昨日あなたの『浮浪漫語』を買って読んでいるところなんです」と言う。『一青年の告白』について、「あの本は読んだがあまり感心しませんでした。」と話す。

 この頃、吉行エイスケに『一青年の告白』を送る。〔吉行エイスケから返事の葉書を受けとる。「「一青年の告白」ありがとうございます。僕の若さにとってムウアはスチルネル。キエルケゴオル以上に能動をともなう唯一書です、感謝します。」〕

 この秋、上野の戸田正春経営の貸席「三宜亭」に辻潤を中心に、宮嶋資夫・ト部哲次郎・五十里幸太郎らダダ系、アナ系の文人たちが集まる。「三宜亭」は彼らの溜り場となる。

 12.8頃 銀座の「ライオン」で飲み、「なんだ、足穂の奴、俺がこれくらい持ち上げているのに顔を出さんっていう話があるか!」そう言って、辻潤がテーブルを叩き、ビール壜がすっ飛んだという。

 12.10 小島清が「ごろにや」に行くと、山内がいて、一緒に飲み始める。ほろ酔いになった頃、辻潤が来る。明日、築地小劇場へ行く事にし、カフェーロシアで待ち合わせる事を約し、辻潤は「ごろにや」を出る。酔った小島清は、辻の乗った電車を追いかけ泣きながら電車の戸をたたいたりする。

 12.11 19:00から20:30、築地小劇場で辻潤・小島清、「朝から夜中まで」を観る。そのあと銀座、さらに蒲田に行き、百番のおでん部で飲み、カフェー松竹で飲んで、二人で蒲田の家へ。
 12.13 夜、小島清が「ごろにや」に飯を食べに行くと、「ごろにや」は勝盛が一人だけで困っているので、手伝いをする。宮嶋資夫・加藤一夫が来る。辻潤が来る。みんなかなり飲んでシキリに議論し歌う。一緒にみんなで南天堂へ行き、例の如く辻潤と宮嶋資夫がケンカをする。川口慶介が辻潤を殺すと言う。岡本潤が裸になる。小島清が辻潤をひっぱって外へ出る。カフェーとすし屋へよって1:00すぎに一緒に小島清の下宿の磯辺館へ。

 12.14 朝、小島清・辻潤、「ごろにや」へ行く。宮嶋資夫が泊っていた。酒がはじまる。南天堂へ行く。伊藤や「みっちゃん」がくる。その他いつもの連中大勢。かなり酔っぱらう。夕方、小島清・辻潤、一緒に川崎へ着物を質にいれに行く。「かめさん」の処へよるが留守で前の酒屋で一杯飲み、酒肴持参で市場のおばさんの家へ行く。酔っぱらって辻潤が小島清を殴る蹴る。蒲田へ帰る電車で恒に会う。カフェー松竹へ寄る。

 12.15 小島清・辻潤、一緒に蒲田の家を出、池上の古谷栄一を訪ねるが留守。それから九段の北欧新興美術展を観、呉服橋へ出て、北辰クラブに山口という人を訪ねる。夕方一緒に「なだや」で一杯飲む。銀座をぶらついていると、中村貫一夫妻・宮城に会い一緒にカフェーライオンに入る。室伏高信・鳥山などに会う。辻潤はそこに残り、小島清は帰る。

 12.19 辻潤、京都にいて、小島清に葉書を出す。

 12.22 小島清は辻潤を追い、大阪へ行くという宮嶋資夫・伊藤・山内・「しげちゃん」・川口慶介に同行し、9:45発の神戸行急行に乗る。

 12.25 辻潤、岡山から小島清に明日来いと電報。

 12.28 汽車に乗り、朝鮮へ向かう。

 朝鮮の高漢容という青年に招かれて渡鮮、京城に遊ぶ。ある夜、誘われて共産党の秘密会合に乗り込んだら、拳銃の乱射騒ぎに遭い、警察隊の出動となり、一週間、穴倉に匿われる。高漢容はアナーキストの一派であった。

1925
大正14
41
42

 1.1 朝鮮で新年を迎える。

 1.4 小島清は広島をたつ。〔途中で京都をぶらついて、1.6 朝、東京に帰る。〕

 1.半ば頃 朝鮮から「本土」に戻る。(それから、別府に滞在か)

 1.末頃 《関西を経て、》帰京。〔帰京後、健康があまり、すぐれない。〕

 2.3 小島清、下宿の払いができないので、「ごろにや」に厄介になる事にし、「ごろにや」に行って辻潤に会う。南天堂、「ブラザー」と飲み回り、「ごろにや」のベッドで小島清・辻潤が寝る。

 3.21 辻潤が「ごろにや」に来る。かなり酔っぱらって、小島清が辻潤を「横暴だ」と書いた事について、怒る。辻潤は、1時間余りいて帰る。

 5月頃 ドン=ザッキー〔都崎友雄〕が詩集『白痴の夢』を贈って来る。「君は新しいボートレース」だと早速、返事を返す。

 6.23 小島清のいた中野の吉行エイスケの家に酔っ払った辻潤が来る。

 6.24 昼過ぎに小島清・辻潤、小山の処へ行くが留守、それから萩原の処で酒を御馳走になり、みんなで村山知義・川路柳虹のところ行くが留守。「あざみ」でのんで蒲田へ行き、「百番」にちょっと寄る。

 7月 《卜部哲次郎が雑誌の計画を発意し、出版業をしていたが関東大震災で根こそぎ失って失業同様となっていた荒川畔村が賛成し、ト部の計画に従って、蒲田の辻潤の家で酒をのみながら編集を行う。》『虚無思想研究』を創刊、編集・発行人は日本橋区下槙町12番地、関野(?)喜太郎〔荒川畔村〕。発行、虚無思想研究社〔東京市=日本橋区=下槇町12=新声社内〕。発売、新声社。創刊号は32p.、定価30銭。
〔通巻第9号、1926年4月発行で終わる。第9号は、表紙も数えて8ページ。 荒川畔村と、徹夜してよく酒を呑み明かす。当時、東京には、各所に徹夜して酒をのませる場所があった。〕

 7.11 18:00PMから東京=芝の協調会館で文芸講演会が催され、辻潤は少しむくんだような顔に苦笑を浮かべて登壇し「僕は宿酔いで……」というような前置きをして話す。講演者は、ほかに新居格(など)。松本淳三・萩原恭次郎・林芙美子・野村吉哉、等による詩の朗読。

 夏、武林無想庵に『虚無思想研究』の創刊号と一緒に手紙を出す。〔11月頃、付箋がついたまま戻ってくる。〕

 夏、まことを連れて、若松流二のいる千葉県大原に行く。〔震災前はたいてい毎年行っていたという。〕

 夏の一夜、上野=池之端=観月亭で、宮嶋資夫・百瀬晋・小野賢太郎・川口慶介・卜部哲次郎・岡本潤と雑魚寝。

 8月頃 卜部哲次郎が銀座街頭で20銭で辻潤のために買った『東坡禅喜集』を愛読。

 8月頃 遠地輝武(おんちてるたけ)が『夢と白骨との接吻』という詩集を送る。

 8月頃 喘息におそわれる。8月末頃が一番ひどかった。

 9.13 加藤一夫の帰京歓迎会が銀座のキタニホン楼上で開かれ、出席。
18:00から、会費3円と新聞紙上の案内があり、招待状はなかったが、マンドリンを弾き自作の唄を唄って歩いていた「大空詩人」の永井叔(よし)が贈本のため出席を伝えた。辻潤とは顔見知りで、辻潤のすすめもあって出席した。加藤一夫・辻潤のほかの参加者は、津田光造・小川未明・山崎今朝弥・卜部哲次郎・荒川畔村・安岡黒村・芳賀融・新居格・下中弥三郎・権無為・徐昌道・工藤信・村上哲夫・本間巷一郎・室伏高信・鳥山鉱造・村松正俊・山内房吉・福田正夫・白鳥省吾・坪田譲治・川崎長太郎・中野正人・八木喜之助・細田東洋男・遠池輝武・山川亮・福中巧・川口敬助・江口渙。
 永井叔が自著『緑光土』の贈呈をし、一人一人に住所と名前を書いて貰ったが、辻潤だけが「住所不定」と書いていた。

(この頃、萩原朔太郎を知る。)

 9.17 室生犀星・萩原恭次郎、らの発起で、萩原朔太郎の『純情小曲集』出版記念会が銀座「風月堂」で催される。出席者は、福士幸次郎・百田宗治・川路柳虹・白鳥省吾・辻潤・福田正夫・千家元麿・萩原恭次郎・佐藤惣之助・室生犀星、ら。

 10月 《辻潤が喘息に襲われ、秋生も病気に罹り、辻潤に金がなく、》辻潤の窮乏を救うための「辻潤後援会」が生まれる。 『虚無思想研究』第4号で「辻潤後援会」を提唱。
 新居格・大泉黒石・加藤一夫・内藤辰雄・室伏高信・村松正俊・宮嶋資夫・市橋善之助・卜部哲次郎・荒川畔村の賛成・発起人10人によって、「辻潤後援会」ができ、一口、1カ月1円。期間は10月より翌年の3月までの半年で、日本橋下槇町12新声社内辻潤後援会宛に送って貰えないかという趣意書を回す。〔佐藤惣之助〔1口〕・吉行エイスケ〔5口〕・徳田秋声〔1口〕・小川未明〔1口〕・古谷栄一〔5口〕・萩原朔太郎〔1口〕・白井喬二〔1口〕・細田源吉〔1口〕・生田春月〔10口〕・加藤一夫〔1口〕・谷崎潤一郎〔10口〕・豊島与志雄〔1口〕・斎藤与里〔1口〕らがこれに賛成、後援する。〕
〔大体の収入は297円〕

 10月頃 『東京日日新聞』をとり、毎日「大菩薩峠」を読む。

 10月頃 今井俊三(としぞう)から『壁』という詩集を送られる。初めての名前。

 10月頃 小島清が家に戻る。辻秋生は、身体中にオデキが出来て夜泣きをし、辻美津が看護をする。〔辻まことは、運動会に行く帽子と靴が買えないといってベソをかく。〕

 10.18 23:30PM、Mが来て、一緒に飲みに出かける。

 10.19 2:30AM 家に帰り、Mは辻潤のところに泊まる。10:00AM 荒川畔村がやって来て、起こされる。荒川畔村は、今日の午前、警視庁へ呼び出しを受けたと語る。『虚無思想研究』巻頭の古井の「ダダと解放運動」という文章は、荒川畔村が手加減をして伏字をしておいたが、いけないと注意された。

 10月頃 銀座のカフェ、ライオンで久しぶりで広津和郎に会い、「君はどうも少し変だぜ」と言われる。

〔関東大震災から2、3年過ぎた頃、小野庵保蔵(オノイオリ ヤスゾウ)、辻潤に初めて会う。〕小野庵保蔵、蒲田の辻潤の家を訪れ、小野庵の住んでいる藤枝の温泉を勧める。一週間ばかりして、荒川畔村を伴い、藤枝の志太温泉に行く。釣鐘マント、日和下駄穿き。荒川畔村は一泊して帰る。辻潤は、半月ばかり滞在。 11月頃 静岡県藤枝の志太温泉にて静養。禁酒・禁煙・禁女で過ごす。。

 卜部哲次郎が藤枝の志太温泉に来る。翌日、卜部は藤枝の町に辻潤を連れて来て、おごるからと言い、小野庵保蔵・内田庄作の4人で、その晩、騒ぐ。勘定になると卜部は金を持っていなかった。

 12.18 小島清、秋生を伴い広島に帰る。

 12月頃 帰京。 どこに行っていたのかは不明(藤枝の志太温泉だろう)。

 この頃 入獄中の朴烈・金子文子を祝福して、永井叔にウェディングマーチを演奏させようとする。〔新聞のゴシップ欄に載る〕。

 12.31頃 旅に出る。

 この年頃から、殆ど読みも書きもせず、自分という者ばかりを見つめて暮らす。自他の生活を殆ど無視して、なにかしら考える。

 この年の頃 斎藤茂吉に会いに行くが、話すような話題もなく帰る。

1926
大正15/昭和1
42
43

 1月 広島の寿座で、エリアイ=パブロバ一行中のヴァイオリンの演奏を聴く。

 2.27 小島清、蒲田の家に戻る。〔小島清、3月4日から転々。〕

 3.15 飯森正芳が上京し蒲田に辻潤を訪れる。二人で加藤一夫のところへ行く。

 3.17 午後、辻潤・飯森正芳・友谷静江・小島清の4人で原村の梅林に出かける。以前と違い荒涼としていた。御岳神社ヘ行く。友谷静江とは蒲田で別れ、三人で蒲田駅のカフェーで酒を飲む。飯森正芳を送って、おでん屋で飲む。

 3月頃 《秋山清と高漢容は2年前から交友。高漢容は東大病院の食堂で働いていたが辞める。》夜の早いうち、秋山清と高漢容は東京市=芝の虚無思想社を訪ねる。そこで加藤一夫・吉行エイスケ・辻潤と会う。辻は虚無思想社でいくらか飲んでいたが、もう一杯やって別れようという。辻は紺の木綿の洗いざらした被布みたいなものを着て、腰に尺八をさし、 高は新しい濃緑のビロードのルパシカ、秋山は紺サージの詰襟。白い霧がふかくたちこめていた。一杯やって、芝の西久保巴町から虎の門の方へ出て来る電車通りを三人はもつれるように肩をぶっつけて歩きながら、虎の門の市電の交叉点まで来る。高が「もう一杯やろうよ」とすぐ近くの、狭いガラス戸を開けて入る。白いエプロンをかけた女給が二人いて、辻潤が中国人、秋山清が朝鮮人、高漢容が日本人、という振りをして、辻が中国の歌を歌うと言い、卓の隅っこを手で軽くたたき、聞いたこともない早口のうたを歌い、高漢容が日本の流行歌を歌う。辻は、それから支那人の唄と称して、言葉も意味も分からぬ、おそらく節まわしも出鱈目なのをいくつも歌う。高は、その以前から知り合っていた菊村雪子を宮崎県の延岡に訪ねるため、明日出発するという。辻は秋山に『自我経』を与える。その扉には「高漢容に贈る」とぬらぬらとくねったペン字で書いてあり、辻は「高は旅にゆくんだからな」と言う。店を出て、辻は、分からぬ歌を歌たいながら、ふらふら歩き、ちびったひくい下駄で、新橋の方へ、手もふらず、後も見ずに去る。高は、秋山に「君に何も贈るものがない。ぼくの名を、あれをつかってくれないか、高山慶太郎。」と言う。高山慶太郎は高のペンネーム。〔太平洋戦争中、秋山は高山慶太郎の名で樹木や木材のはなしをかき、詩を発表したりする。〕

 この年、まことは静岡県立静岡工業学校に入学。
 静岡の飯森方にあずけられ、工業学校に行っていたという。飯森は沼津でまことをあずかる。

 4月頃 『改造』で幸田露伴の「活死人」を読んで、ひどく感服し、自分もどうかしてその王重陽という「活死人」のような人物になりたいものだと真面目に幾日かその事ばかり考えて暮らす。

 5.1 《1925年暮頃から、大家が至急に立ち退いてもらいたいといい出す。》1年余り家賃を滞納して大家から立ち退きを求められる。〔知人の紹介により東京府下荏原郡大岡山127に移り住む。〕〔渡欧までの1年半位の間に4度引越しをし、言語に絶した窮迫ぶり。〕

 6.13〜14 宮嶋資夫『金』を読む。〔6.15 読後の感想を手紙に書き、宮嶋資夫に送る。辻潤の住所:大岡山127。〕

 10.24頃 高畠素之の資本論翻訳完成祝賀会に出席。出席者は他に、石川三四郎・小川未明・江口渙・宮嶋資夫・木蘇穀・中根駒十郎。

 11.19 旅に出る〔年内、関西で送る予定〕。

 12月頃 三重県方面を旅行。

1927
昭和2
43
44

 1.3 伊予松山の赤十字病院で正子〔永井叔の妻〕、男子を産む。永井叔の第1子、穹(みそら)。《辻潤、永井叔に一筆を与える。「君は、いつも流転………流れているが、愛妻正子さんのおなかに胎生した子は流れやしないかね。せいぜい気をつけ給え。」》

 2.26 夜、神田大常盤で橋爪健の『陣痛期の文藝』並びに『文藝公論』発刊祝賀を兼ねた集りが開催。牛鍋。辻潤・江口渙・小川未明・豊島与志雄・佐藤惣之助・横光利一、その他の著者に対する苦言やら忠告やら賞賛の声など盛んに、最後に橋爪健が立って前途の奮闘を期すと謝す。余興に辻潤の端唄など。集まるもの前記の外に古賀龍視・村山知義・鍵山博・鈴木厚・鈴木彦次郎・高田保・菅忠雄・芳賀融・今東光・石濱金作・戸川貞雄・岩崎純孝・尾崎士郎・伊福部隆輝・富田常雄・大木篤雄・森本巌雄、浅原六朗・宮川久雄・大木雄三・北村喜八・西川勉・片岡鉄兵・塚原健二郎・堤寒三・白井喬二・上森健一郎・中野正人・武川重太郎、等。

 4月 丸善の店頭でBenjamin De Casseresの著書 "Forty Immortals" を見つける。金8円40銭という価は高価だったので、その書の保留を店員に依頼し、すぐに地方にいる年少の友Iに書いて、その書の購入を促す。〔Iは辻潤のためにそれを購い求める。その書によって、初めてCasseresの著書の数種を知り、即刻、丸善に注文したが、入手は出来ない。〕

 この年頃(1925年か) 《1924年、プラトン社の映画筋書募集に渡辺温(わたなべ おん)〔渡邊温〕が「影」を応募。選者の一人であった谷崎潤一郎が強く推し、一等当選。渡辺温は『新青年』記者となる。》渡辺温を伴い、岡本に谷崎潤一郎を訪問。渡辺温が原稿の用件を帯びて来たのだが、用談は殆んど辻が代りにしゃべり、渡辺は始終黙って谷崎の顔を見る。

 7.6 夜、乱酔して、銀座のカフェ、タイガーで永井荷風を見かけ、はじめは、共産主義の嫌いな自分は、共産主義の本を多く出している改造社の円本『現代日本文学全集』には作品を貸さないなどと声明していた永井荷風だが、『現代日本文学全集』から『永井荷風集』が出ることになったのが辻潤は気に食わず、「てめえ、何時社会主義者になったんだ」、「何で改造の円本などに著作を貸したか」などとなじり、「オメエは名古屋モンだからナァ」などと言う。永井荷風は倉皇として帰る。

 7.14 夜、タイガーの2階に2、3人といる。それを見て永井荷風は帰る。

 この年の頃、銀座で毎晩のように飲む。銀座の尾張町の東側の角にあったカフェ「ライオン」が中心。飲み友達の団体のようなものが出来て、毎晩のように集まってビールのコップを並べながら「怪気炎」をあげる。室伏高信・村松正俊・百瀬二郎・安藤更生・長岡義夫・宮川曼魚・川口慶介・長谷川修二・その他、100人程の団体。

 9.11 中原中也に訪問され、高橋新吉に手紙を書くよう勧める。)

 10月頃 谷崎潤一郎に手紙を出し、翻訳を勧め、自身の西洋行きの意向を示したらしい。〔10.15に谷崎潤一郎は返事を出し、最近、二三、翻訳をやって、もう懲り懲り、やはり創作がいいと答え、「君の西洋行はいつ実現するや」と書き、ユイスマンスの『さかしま』の英訳(Against the Grain)を譲ってくれなどとある。〕

 11月頃 登張信一郎の『如是経』〔1921年の出版〕を読み感心する。

 12月頃 『世界大思想全集』の印税により渡欧を決める。辻潤の洋行のことが決まると、辻まことは、「何でもいいからフランスヘ連れてってくれ、もう日本に帰って来なくってもいいから」と辻潤にネダり、多少の画才があるので、向うへ行って画描きになる可能性がありそうで、当人の為めには連れて行く方がいいという気持になり、連れて行くことにする。

 12.14 パスポート発行。

「ものろぎや・そりてえる」〔『癡人の独語』〕には、なぜフランスへ行くのか一向ハッキリした理由は発見できない、とある。宮嶋資夫には、「今更外国へ行ったって仕方がないのだが、日本にいたって矢張り仕方がないからな」と話している。
〔ヨーロッパに出かけ、少し了見を改めて自分のダダ的精神に研ぎをかけて見たいが、今まで日本のあちこちを歩きまわった延長として、「至極アッサリした気持で出かけたいのだ。」〕

 貧乏で有名な辻が、パリヘというので、いろんなファンが日に夜をついで来る。

1928
昭和3
44
45

 1.1 《吉田金重〔初期プロレタリヤ作家〕は、大晦日の夜に大井町篠谷の塩長五郎のところに来て、翌、元日の午後に帰るのが慣わしのようになっていた。》吉田金重が帰る時に、辻潤宅に行こうと誘う。午後、塩長五郎が、作家の吉田金重と訪ねていくと、座敷では津田光造・恒夫妻も居て、酒宴たけなわであった。辻潤は丹前の上に羽織を着て、長火鉢の前に泰然として座っていた。泥酔した小島清が、嬌声をあげ何やら訴えているようであった。 《森戸辰男が大原社会問題研究所雑誌に「スチルナーの無政府主義とマルクスの国家観」という論文を発表し、森戸辰男はスティルナーをマルクスより低く評価しているようであった。塩長五郎は、その不満を辻潤に訴え、辻潤の意見を知りたかった。》辻潤は、謹厳な顔をして、「あれは立派なものだよ」と言下にほめた。森戸辰男はスティルナーの著書の一言一句をもゆるがせにせぬ厳正な研究者であるとほめた。

 1.2 井伏鱒二、矢来の三浦義一のところで酒を飲み、大岡山に出かけ辻潤のところで飲み、洗足の田中貢太郎のところで飲み、酩酊。終電車で帰る。

 1.10 銀座尾張町の東側角の「ライオン」にて渡欧歓送会。萩原朔太郎が出席。石川三四郎が出席。萩原恭次郎が出席。 辻潤は、フランスに生まれていたら、ヴェルレーヌ位の詩人になった、と話す。「ダダ」を盗られたといって、高橋新吉が辻潤を刺そうと会にやって来る。辻潤は、高橋新吉がその提唱者であるとその場でスピーチする。

 東京駅で姫路行きの三等列車に辻潤らが乗る。沢山の人達が見送りに来る。高畠素之が見送る。出発する時に、『悪い仲間』のHがなんでもいいから書けといい、「浮遊不知所求/猖狂不知所往」と書いて汽車の窓から紙切れをHに手渡す。「夢ちゃん」が息せき切ってプラットホームを駈けて来て、袋を餞別として与える。そこには三儀と筮竹(ぜいちく)が入っていた。「おうる ぼあ おうる ぼあ!」〔au revoir〕と、辻潤は帽子をふりながら汽車の窓から顔を出して、人々を見送る。

 出航の4日ほど前、三重県の津を経て奈良のH館に一人で泊まる。津に行ったのは野溝七生子に会う目的もあった。Y市の姉の家に往復の電報を打ったが、旅行中との返事が来る。夜中に眼を覚し、その翌日、正午近くに起き、H館の隣のRが訪ねてくる。Rの案内で「三月堂」を見物。それから大阪に行く。

 大阪駅前の角の角屋に泊まる。国鉄の「鉄道アナ」というファン、M、Sなどが、運賃がタダなので集まるなど、20人以上が泊まる。宿屋の勘定は、長谷川修二にたのむといって船に乗る。

 出発前に、阪急線沿線の、兵庫県=武庫本山村=岡本好文園第2号住まいの谷崎潤一郎から招きを受け、谷崎潤一郎家で送別の宴をひらいてもらう。辻美津・まこと・秋生・小島清・長谷川修二とともに谷崎家に一泊。

 1.20頃 読売新聞第1回パリ特置員として息子まことを伴い、神戸港から「榛名丸」に乗り、フランスに向かう。
〔「特派員」ではなく「特置員」。第2回は松尾邦之助、「パリ読売文芸特置員」。〕

 船へ乗ると、旬日の疲労が一時に出て一週間はいくらでも眠れる。三度の食事以外には寝て暮らす。酒〔日本酒〕を殆ど飲まず、朝食を「何十年振りかで」食べる。特三の飯は洋食だが、2日目から朝と昼だけ三等の和食を食べる。

 上海・香港・シンガポール〔新嘉披〕・彼南(ぺなん)、みんな上陸して見物。
 上海で『白香山詩集』などを買う。 上海でAという書家に会う。
 香港でケーブルカーに乗る。
 シンガポールでは、未知のMという人が待って居て、歓待を受ける。

 ナポリに上陸し、貧民窟のような裏町を歩く。

 2.末頃 40日あまりの航海でマルセーユに到着。 8:00AM頃、「榛名丸」、マルセーユに着く。 マルセーユの町をぶらつき、Oから紹介されていたTを領事館に訪ねる。Tはおらず、待っているとやがてかえって来て、武林無想庵の消息をきいたが、Tは知らなかった。 19:50PM発のパリ行の急行に乗る。

 2.末頃 パリに着く。 パリ14区モンスリ公園街4番のホテル「オテル・デュ・ミイディ」に投宿。 パリヘ着いた当日、日本なら銀座に当たるグラン=ブールヴァールを林倭衛(しずえ)と歩いていると、ニースから出てきたばかりの青山義雄に会い、青山によって武林無想庵の住所を知る。ホテルに落ちついてから、安着の報告を家に出し、二、三日過ぎて、武林無想庵に手紙を書き、三回目にアメリカのニューヨークのジョセフ=ローレン気付でニューヨーク在住のベンジャミン=デ=カッサアス宛の手紙を書く。〔まもなく武林から返事が来る。約1か月後にカッサアスから返事が来て文通、著作の『きゃめれおん』などを贈られる。〕

 3.3 フランス語が読めずフランスの新聞が読めないので、『デイリイ・メール』などの英語の週刊新聞を買い、初めてリュクサンブルグ公園をぶらつき、『デイリイ・メール』を拾い読む。

 パリ到着後、ほとんど外出せず部屋の中で読書に過ごす。
 最初の一ヶ月位は手紙を書くほかは『大菩薩峠』を読むことに費やす。まことが『大菩薩峠』を夜明けまで寝ずに読み耽っているのでいい加減にやめろと二、三度注意したが、辻潤も読み出し、一カ月あまりを親子二人で「棒にふる」。 来てから一カ月というものは旅疲れやら不知案内やら手紙書きに忙殺。

 3月末 アントワープから「榛名丸」のSがパリ見物に来て、初めて2、3日一緒に出歩く。雨天続きで、ルーブルとリュクサンブルクのミューゼとエッフェル塔と、ヴェルサイユとを駆け足で見て歩く。

 エルネスト=クレッソン街18番のアトリエに画家の林倭衛を尋ねたが留守で、どこに行くアテもなく、オルレヤンの通りの方へ歩いて行くと、日本人2人がやって来て、声をかけられ、大阪の吉田だと言われる。吉田保から松尾邦之助を紹介される。二人は忙しそうに反対の方へ歩み去る。
 松尾邦之助に「ヴェルサイユは、何と下らぬ悪趣味の宮殿だ。あんな金ピカの、けばけばしくも、空虚な御殿の中に住む奴らの気が知れないよ」と言う。〔「パリで辻潤に遭ったとき、彼はわたしに「わざわざ尺八を持ってきたんで、君にも聴かせたいんだが、ヨーロッパでは、空気がひどく乾燥していて、土台、音が出ないんだよ」といっていた。」ぶどう酒は、「ヴァン・ローゼ」とか、「ボージョレー」などを飲んでいたようだったが、これらを特にうまいとは思えなかったらしい。フランス料理にはあまり親しめなかったらしい。〕〔井沢弘は、辻潤がパリに来た時、松尾邦之助あての紹介状を書き送った。〕

〔着物を常に着る。下駄を持っていたが、すべって歩けないので履かない。(のちには洋服を着たらしい。)〕

〔吉田保と、名も知れぬ陋巷をさまよい歩いてしばしば夜を明かす。〕

《日本を出発する際、『フリオフレニトとその弟子達』の訳者である河村雅から、訳本と手紙とをパリにいる原著者のイリヤ=エレンブルグに届けることをことづかったが、エレンブルグの入りびたっているというカフェの名を忘れてしまったのと、来てから一カ月というものは旅疲れやら不知案内やら手紙書きに忙殺されて、忘れていた。》パリに来て一カ月程たってやや落ちつきも出来て、「ロトンダ」というカフェの名も思い出し、それがモンパルナスにあることは『フリオフレニト』の開巻第一章に書かれていることに気づき、林倭衛のところへ来る青年画家Oがよくモンパルナスのカフェに出かけるというので、Oにエレンブルグの捜索方を依頼し、やっと二カ月がかりで、Oの友人のKがエレンブルグを知っているとのことで、期日を約してモンパルナスのカフェでエレンブルグに会見し、河村の約を果たす。そのカフェは「ロトンダ」ではなく、「ロトンダ」と小説中で呼ばれている「ロトンド」の筋向いの角にある Dome という家。

 松尾邦之助が「ホテル・デュ・ミディ」に辻潤を訪ね、「誰か面白い人物に逢いましたか。また、面白い本でも見つけましたか」と訊ねると、「面倒だから誰にも逢いたくないよ。先日、Y君の紹介で、『ドーム』というカフェで、イリヤ・エレンブールに逢っただけです。フィリップ・スーポーにも逢うはずになっていますが、どうなるか。とにかく、ダダは、シュールレアリストと改名しましたが、こちらでは、雑誌も出しているし、なかなか盛んなようですな」と、松尾邦之助が編集していたフランス文の文学雑誌『ルヴュ・フランコ・ニッポンヌ』に出すため、「ストック社」から出版されていた松尾邦之助のフランス語訳『枕の草紙』に関した日本文の書評の原稿を手渡しながら言う。二人で「ホテル・デュ・ミディ」を出て、松尾邦之助の印刷工場の近くの「トーマ」というレストランでヴァン=ローゼの安葡萄酒を飲む。

 4.末頃 トンプイソアール街138番地の横丁の角にある安ホテル「ブュファロオ」〔Hotel Buffalo〕の4階29号室、場末の安下宿の屋根裏の一室に転宿。月300フラン。二つの街の三角形の頂点にあり、ボオニエ街1番地であり、トンプイソアール街138番地でもある。東向きで、前の水道貯水池の青々とした芝生を通じて遥かにパリ市街の一角を見渡せる。部屋で自炊が出来、一日に一度は米の飯をアルコールランプで炊いて食べる。 毎日の買い物や炊事は大方まことがする。まことが色々な事を知っていて、世話を焼いたが、少なからず迷惑でもあった。

 人が来て誘い出してくれない限り、タバコを買いに出るほか毎日殆ど外出せず、部屋に閉じ籠り、たいていベットの上で暮らす。夕飯をすまして燈火がつくと、起きて机に向かう。昼夜転倒の生活。 禁酒しながらさまざまの妄想に耽ったり、異人の本や中国人の本をヒマにまかせて読み散らかし、そうして時々ムダ書きばかりして暮らす。色々と書き散らかし、思うようにまとまりがつかず、みんな反古にする。。 『玄耳軒眼目(げんじけんがんもく)』or『玄旨軒眼目』に没頭。
 5月頃 武林無想庵に宛てて、一、二カ月というもの毎日殆ど外出せず、部屋にばかり閉じ籠っている、 昼中たいてい横臥していて、夕飯をすまして燈火がつくと、起きて机に向かう、珍しくもない神経衰弱〔ノイラステニヤ〕に罹っていると書き送る。

 "Panarchie" という片々たる月刊雑誌を二、三度買う。それには毎号アン=リネエル〔Hans Ryner〕が執筆していた。たまたま古本屋でリネエルの著書を二冊ばかり見つけ、当時ニースにいた武林無想庵に送って読むことを奨める。

 辻まことは、フランス語会話を習いにベルリッツに通う。

 5.半ば頃 そろそろパリにアキアキして来る。

 5.半ば頃 酒を飲み始める。

 5.半ば 武林無想庵、《ニースから汽車に乗り、》辻潤に会いがてら、パリに来る。内海が辻潤に武林無想庵がパリに来たことを知らせる。 その翌日、武林無想庵、辻潤をホテルに訪ねる。辻まことは、いなかった。辻潤は「おれはもうサッサと引きあげようと思う」と武林に話す。 辻潤は、武林に手紙を送り、相手は返事をつけて返すといった具合の問答体のエッセーを提案し、それが適当にたまったら、新聞雑誌社へ売りこむことを提案し、武林がそれを受ける〔のちの「巴里コンニャク問答」。ほぼ5月半ばから6月中の手紙〕。

 5.26 夜、熱を出す。

 5.27 武林無想庵、辻潤を訪ねる。辻まことがコーヒーをいれて、アテモノをしに出て行き、やがて紫色の花瓶を持って帰る。「榛名丸」で一緒に来た近江が来て、辻潤が武林に紹介する。鈴木武史が来る。まことがアルコールランプで飯を炊く。22:00PM過ぎに武林は帰る。〔近江は、色々と辻の世話をしていた。

 5.29頃 辻潤、「リュ・モンマルトル二十四」の「オテル・ド・サヴォア」に武林無想庵を訪ねる。天気がよく、武林を散歩に誘う。「ぺール・ラシューズ」の墓地が近いと聞いて、武林が案内して、オスカー=ワイルドの墓などを見る。ワイルドの墓の傍の草原の日あたりのいいところに横になって、一時間程、寝ころがる。 辻潤は武林無想庵に「君、日本へ帰る気はないかい?」と訊き、「帰るなら旅費くらい僕がどうにかするぜ。」と話す。

 6月に入って麗らかな天気が続く。この頃、パリの町の方角も大体わかり、地下鉄の乗り換えもまごつかずに出来るようになる。

 武林無想庵は、一旦家族のもとに戻り、6月、家族を伴いパリに来て、ホテル「ミュラア」ヘ落ちつく。

 6月 スティルナーの「唯一者とその所有」と「芸術と宗教」、プレカアノワの「無政府主義と社会主義」〔これは辻潤訳となっているが、百瀬二郎の訳〕の三訳が『世界大思想全集』29として、春秋社から出版される。全集は当時の円本ブームにのって版を重ねる。

 6月頃 アンドレ=ブルトン〔Andre' Burten〕の『ナジァ』を読む。〔そのほか、ポール=エリュアール〔Paul Eluard〕の詩やバンジャマン=ペレの作品など。〕

 6月頃 読売新聞社へ通信文を送るのを止める。〔この頃以降のパリ生活を具体的に記した辻潤の文章がなくなる。〕

 7.14 革命記念日〔パリ祭〕。ソルボンヌ大学に接した広場、オーギュスト=コントの銅像の前で、パリの群集の前でに日本人仲間と大声を張りあげて、「月は無情と言うけれど」と流行歌の「月は無情」を歌い、外国人たちが目を丸くして驚いているのを尻目に、「奴らにァこの歌の意味がてんで分からんじゃないか。ざまあみろ」といって啖呵をきる。
〔松尾邦之助によると、「わたしの接し、親しんだ限りの辻潤は、決して憂うつな人間ではなく、陰性であるどころか、むしろ、ぶっきらぼうで、明朗で、パリを浅草の街(まち)裏と混同していたほど呑気(のんき)で、快活であった。」「彼は、酔っても、決して醜態を演ずることはなく、警察にも厄介をかけず、ときどき金をねだりにくる「まこと」君に、うこん色の細長い胴巻きに深く手をつっこんで、カフェーにいる大勢の外人客の手前も憚(はばか)らず、何がしかの小銭をつかみ出して渡していた。わたしの眼に映じたこの頃の辻潤は、とにかく、全き好々爺(こうこうや)であった。辻潤は、この頃、まだ四十五歳の若さであったが、酔っていないときの彼は、何となく「くたびれた中老爺」といった感じがした。」〔『ニヒリスト 辻潤の思想と生涯』pp.182-183にも同様の文〕〕

 7.14 小島清〔小島キヨ〕との婚姻届が出される。

 この間に小島清は辻潤の家を出る。

 パリで、村松正俊と会う。
 秋頃から、辻潤・武林無想庵・村松正俊で毎晩飲む。 〔村松正俊によればパリの辻潤は「実に真面目だった」〕

 辻まこと、竹中郁を知る。

 木彫家の戸田海笛に会い、一緒に飲み、アトリエを訪れる。

 時々、オデオン座の少し向こうのシェークスピヤ=カンパニイという古本屋を訪れる。貸本もやっていて、談判して"Broom" という雑誌を2、3冊かりる。その雑誌で初めてロートレアモンの散文詩を読む。

モンパルナスのカフェ、ドーム・クーボール・ロトンド・セレクト等へよく出掛ける。セレクトでいろいろの詩人に会う。ルイ=アラゴンという英語をよく話す青年詩人や、トリスタン=ツァラなどという詩人に会う。アラゴンが英語を話すので、いろいろのことが解った。

 カフェでトリスタン=ツァラに会い、のちに戸田海笛のところで再び会う。

 辻まことは毎日街へ出て、自転車で所々方々を乗り廻す。

 21:30に、辻まことは、モンパルナスのカフェに行き、辻潤は首にぶらさがっているヒモを引っぱっては黄色い財布を出し、まことに小遣いを与える。

 萩原朔太郎の『新しき欲情』を、しばしば繙読。〔数年来の愛読書〕。

 予定の金がなくなり、これ以上ムリをして半年や一年ヨーロッパにいたところで、たいしたこともないと考え帰国を決める。
 辻まことは、はじめのうちは帰国するのがイヤだと言い、辻潤は最初の約束通りパリヘ残して来るつもりだったが、辻まことが一緒に帰りたがり始め、一緒に帰ることになる。

 12.16 《辻潤は、武林無想庵に『奥の細道』・『碧巌録』・『正法眼蔵』・『李太白詩集』・『白香山長霊集』などを置いていく。》武林無想庵や戸田海笛などが駅まで送りに来て、「月は無情」を歌う。 22:00PM 辻潤・辻まことは村松正俊と共にパリの北駅を去る。

 シベリヤ鉄道の3等に乗って日本に向う。

 12.26頃 長春と奉天の間で『大阪毎日新聞』の「雑録」で小山内薫の死去を知る。

 辻潤がフランスにいる間、桑原国治が辻の家の「食客」。〔辻潤帰国後にも子供をつれて二年ばかり「食客」。〕

1929
昭和4
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46

 1.1 村松正俊と共に《シベリヤ鉄道の三等に十数日ゆられ、》京城〔のちソウル〕の汽車の中で正月を迎える。

 沼津の少し手前で反対側のベンチに棄ててあった"The Japan Chronicle"紙をとりあげて見て、高畠素之の死を知る。

 1.3 午前9時何分かに品川駅に着く。 品川駅で迎えた井沢弘〔読売新聞論説委員〕が、パリはどうだったかと訊ねると、疲れたよ、と言い、間をおいて、君……とにかく天皇陛下万歳だよ、とだけ言う。

 東京市外=荏原郡=碑衾町=大岡山39番地に落ち着く。大津澗山をはじめ、相変わらず人の出入りが多く、酒盛りの日々がつづく。

 帰国後、ほとんど仕事をしない。旅疲れや、諸々の不快な出来事のために身心ともに激しい疲労を覚え、人間の如何に残酷で、恐るべきかを感じ、毎日、寝ながら、タバコばかり吹かす。色々と書き散らかし、思うようにまとまりがつかず、みんな反古にする。 洋行してかえってから、ひどく疲れが出て、この年の前半は殆ど毎日ねてくらす。

 1月 宮嶋資夫が辻潤に絶交を申し渡す。

 2月ころ 大岡山のたった一軒の若い古本屋「無有奇庵」〔児玉明人〕と知り合い、親しくなりしばしば出入りする。近所住まいの木庭孝(?)・木蘇穀・鴇田英太郎・鈴木義広らと無有奇庵の二階を溜り場にして酒盛りをひらいたり、泊り込んだりする。上司小剣・相田隆太郎・宮前一彦らと知り合う。

 4月 『どうすればいいのか?』を「烏有叢書」第1篇として昭光堂文芸部より刊行〔ほかには「烏有叢書」は出ない〕。

 5.24 《5.1 ベルリンを発する。13日間、シベリア鉄道。》20:45PM 三等特急で、武林無想庵、東京に着。東京駅で、山本実彦〔改造社社長〕が社員を率い、辻潤・中平健次〔:1901-、中平文子の義理の弟〕夫妻・文子の母と共に武林無想庵を迎える。帝国ホテルに向う。〔辻潤が武林に東京を案内する。辻潤は運転手に「大根河岸」と言う。〕

 5月 山本実彦の発意で、武林無想庵の歓迎会を開く。会場は銀座の「松喜」。徳田秋声・島崎藤村・長谷川如是閑・小川未明・川路柳虹・千葉亀雄・佐藤春夫・萩原朔太郎・辻潤ほか十数人が集まる。散会後、武林無想庵・萩原朔太郎・辻潤で飲み歩く。

 5月頃 上京中の今井兄弟のポケットマネーで、辻潤が、深川の「宮川」で武林無想庵の歓迎会を開く。席上、武林は、尾山篤二郎などに、はじめて会う。

〔武林無想庵が大岡山の辻潤の家を訪れる。武林無想庵は、大岡山の下宿に住む。武林無想庵の滞在中、大いに大岡山のレストラン「シノア」に凝り、辻潤はたびたびお伴をする。〕

 6月 《辻潤の帰国と共に辻潤の家に戻っていた》小島清は、富士前町の磯辺館に移る。
〔小島清は辻潤の家に出たり入ったりを繰り返すが、松尾季子が辻潤と同棲することで決定的に別れる。一方でこの頃から、画家〔志望〕の玉生(たまにう)謙太郎と交際し始めたらしい。〕

 6月頃 武林無想庵・秋田忠義と銀座に行く。「ヤポン」〔"Japon"と書かれていた〕という店に入る。二階。一杯機嫌の辻潤は、秋田忠義の声音を使い、矢部周を電話で呼び寄せ、秋田忠義は春秋社に帰る。ヤポンを出、矢部周は加六に案内する。加六を出、3人は尾張町の交差点を過ぎる。辻潤は2人の青年に出会い、「ヤア」「ヤア」と声を交わして一緒になる。矢部周は去る。4人はタイガーに入る。タイガーを出ると、電燈が輝き始める。辻潤が引率してアザミに入る。辻潤はビールを注文し、三味線を抱えた門付芸者のような年増をつかまえて歌沢を唸る。朝鮮の少女が来て、辻潤の向っていた食卓の上へ、「文化イカ」をつきつけ「十銭だから、買って下さい」と言う。辻潤はすぐ買った。少女はバアのすぐ下の一番奥のテーブルに陣取っていた客のところへ行き、文化イカを突きつけた。そのお客はイカを買わず、朝鮮語で何かを言った。どうも優しい言葉ではなかった。辻潤は、唄をやめて、その少女を招き、「君、朝鮮の唄を一つうたってきかせないか? そのイカをみんな買ってやるから」と言う。「朝鮮の唄うたいましょうか? イカはそんなに買ってくれなくてもいいのです。」「そうか、じゃ、とにかく唄いたまえ。イカはそれじゃァあのお客に買ってもらってあげるから」と、辻潤は奥の客を指しながら言った。少女は朝鮮の唄をうたった。4人は彼女を褒めた。奥のテーブルの客が「お前の朝鮮語は本当の朝鮮語じゃない。お前のは南の音だから駄目だ」と叫ぶ。辻潤はたちまち大声で、「南だろうが、北だろうが、大きにお世話だ。そんなシミッたれた語学通をヒケらかすひまで、このイカを買ってやっちゃァどうだ?……さア、買ってやれ……やらねえか?……どうだ?……」と怒鳴る。室内は険悪になったが、奥のテーブルの客は不承々々文化イカを買った。

 7.7 林芙美子の『蒼馬を見たり』の出版記念会が浅草駒形橋際の「前川」で催される。 武林無想庵が大岡山の辻潤の家を訪れ、昼間、辻まことを伴い家を出る。その時、辻潤は、「今晩、自分の弟子すじにあたる林芙美子という若い女が、長谷川時雨の肝入りで、発表された処女作の詩集出版披露が、駒形の「前川」であるから、もし浅草へいったら十時ごろ迎いにきてほしい。」と言う。武林無想庵・辻まことは滝野川の水島爾保布を訪問するが、水島爾保布の父、慎次郎が重体と聞いて水島爾保布を引っ張り出す訳にもいかず、水島爾保布の子の太郎と3人で浅草に出かけ、映画を見たり、飲んだり食べたりして、22:00、「前川」に行く。ふた間打ちぬいた二階座敷のおくの間で、出版記念会。出席者は、辻潤・辻まこと・武林無想庵・水島太郎・林芙美子のほか、長谷川時雨・堺真柄・平林たい子・望月百合子、その他「新女苑」の「才媛」たち、石川三四郎。うずまきのように書きこんだ出席者たちの署名色紙に名前を書く。うなぎの折りを持たされて、辻潤・辻まこと・武林無想庵・水島太郎は「前川」を出る。「よか楼」へはいり、10年前のように、大理石のテーブルヘウイスキーをこぼして火をつけ、その青白い炎をなつかしんだりする。

 どうしても敦賀まで送っていく、といってきかない辻潤が、途中で藤枝の小野庵保蔵と、津の今井兄弟方を、おそってやるのだと言い、武林無想庵も、地震後、鎌倉から静岡へ引越した蒲原や、大阪の大森痴雪、御影の川田順、京都の原源太郎を歴訪して、敦賀へまわるということにスケジュールが決まる。 藤枝町のある料亭の二階へインテリたち5、6人が集まり、ひと晩中、辻潤一人舞台の高歌放吟。武林無想庵は、明るいうちに、静岡へまわって、蒲原をおとずれるつもりだったが、それは諦め、夜中、急行の停る静岡駅まで、オープンのハイヤーで一同が辻潤・武林を送る。静岡で列車に乗る。ホームで、列車が動き出すと、小野庵が大声で、「武林無想庵万歳!」と怒鳴る。三重県=津に着。今井の家に行く。夕食後、みんなで涼みがてら、場末町をぬけて、海水浴場の砂浜へ行く。津に2泊。奈良鉄で大阪へ向う。電報を打っておいたので、湊町の停車場には、パナマをかぶった大森痴雪が迎いに出る。その晩は、二階の蚊帳の中で、三人枕をならべて寝る。翌朝、御影の川田順に、大森痴雪はまだ一度も会ったことがないというので、紹介しがてら、三人でおしかけることにする。川田順が、大阪の知人たちへ電話をかけ、その晩、大阪クラブで一席の宴を張る。谷崎潤一郎が来て、武林無想庵・辻潤に自宅に泊るように言ったが、辻潤が谷崎潤一郎のところに泊まり、武林無想庵が川田順の家に泊まる。のち、辻・武林無想庵が谷崎潤一郎の家に泊まる。翌朝、京都駅に、原源太郎が見送る。7月半ば、敦賀の町々をブラリブラリ、大きな松林がかぶさった神社の入口に近い料亭へ上がり、柳川など注文して、ゆっくり昼寝をする。夕方、金ケ崎神社へ涼みにいき、崖下で水浴をする。日が暮れると、遊廓やカフェ街をひやかし歩く。うなぎ屋で、夜明しで酒を酌み交わす。翌日、武林はウラジオストックに向う船に乗り、辻が見送る。〔7.末 武林無想庵、パリに帰る。〕

 8月頃 2度、萩原朔太郎を馬込平張の家に訪ねるが会えず、手紙を書く。

 9.29 《菅野青顔が、初めて手紙を送り、大泉黒石とともに気仙沼に来るようにという希望を述べる。》その返事に、近いうち虚無思想叢書というものをドシドシ出す計画、ユックリやるつもりと書く。また、叢書を出すために、菅野に『浮浪慢話(?)』をしばらく拝借したいと頼み、大泉黒石の住所を訊ねる。〔『浮浪漫語』が届いたらしく、11.7に菅野青顔に礼状を出す。〕

 10月頃 萩原朔太郎に手紙を書き、「デカダンに没落し、ジダラクの浮浪漢として徹底することからのみ、唯一の救いが望められる」と書く。〔10.25〔推定〕の室生犀星宛の手紙に、萩原朔太郎は、「賢明な忠告で、これから大に徹底して、真のデカダン生活に堕落しようと考えている。」と書く。〕

 11.上旬頃 大家から立ち退きを求められる。辻潤・母の美津・まことは荏原中延1089の辻義郎の下に身を寄せる。

 11.12頃 《萩原朔太郎から『虚妄の正義』を贈られ、それを読み》好意的批評を葉書に書き、萩原朔太郎に出す。〔11.13 萩原朔太郎、返事の葉書を出す。〕

 11.17頃 萩原朔太郎とともに北原白秋宅を訪問。ごちそうになり、萩原朔太郎と室生犀星の友情の話をする。。

 11.22頃 萩原朔太郎に手紙を出し、《この年、ルイヂ=ピルランデロ作、寺島長門(てらしまながと)訳の小説『生(いけ)るパスカル』を読み、》『生るパスカル』を萩原朔太郎に薦め、叢書を出したいが、クズでもよいから原稿をもらえないかと打診する。(宮嶋資夫から絶交を申し渡されたこと・武林無想庵がパリに戻ったことも書いたらしい。)

 11.23 萩原朔太郎が返事の手紙を出す。叢書は乗気だが、原稿がない、クズは出せない、しかし、雑誌なら気楽な漫文を出せる、損のない程度には売れる、二人の個人雑誌はどうか、雑誌の題は相談しよう、という内容。

 辻潤は、この頃から翌年3月まで、日曜の休みもなく一日16時間働く。〔『螺旋道』の刊行と、萩原朔太郎の返事を受けての雑誌(『ニヒル』)の創刊と発行のためであったと思われる。のちに、武林無想庵に断りなく武林無想庵の文章を纏め『飢渇信』を出している。『螺旋道』・『飢渇信』の出版は雑誌の創刊費用を捻出するためであったかもしれない。〕

 11.25 小島清へ手紙を出す。「 君がまだ母や秋生のために助手にきてくれることはありがたいことだ」「しかし、二度と絶対にかえらんなどと豪語した君の「おろかさ」を取り消してもらいたいと思う。」とある。

 11月 《ねてばかりいて一向仕事もしなかったが、》11月になって、やっと100枚程度のものを書く。 のちの「ものろぎや・そりてえる」・「ふらぐまん・でざすとれ」などと思われる。「ふらぐまん・でざすとれ」は、もともとは「ものろぎや・そりてえる」の一部として書かれている。

 この年項の秋、かつて辻潤の住んでいた染井の家に住む若松謙次郎〔都新聞の記者〕を訪ね、めざしを貰う。西福寺に行き、住職の花園宥運は外出していたが、上げてもらう。花園宥運が帰る。辻潤とは初対面。辻潤は、唐桟の着物を着て、尺八を置いて紫檀の火鉢でめざしを焼いて食べていた。酒を出してもらい、小さい盃でちびりちびりと楽しそうに呑む。何か書いて行こうと言ったが、花園宥運が後でと言って断わると、尺八を取りあげて朗々と吹き出す。刑事(デカ)の尾行がうるさくて困ると言う。〔のち、時々、西福寺に行く。近くに東大の心理学の阿部重孝がいて、そこが留守だったのでと二度ばかり言った。〕〔阿部重孝は教育学者。〕

 12月 訳文集『螺旋道』を新時代社より刊行。〔ヒュネカア「螺旋道」を除いた訳文は、すべて『浮浪漫語』にも収録〕

 12月頃 赤坂区=檜町の高級アパート乃木坂倶楽部に萩原朔太郎を二、三度たずねる。辻潤は、暖房もない生活(部屋)の荒蕪を見て唖然とし、大いに笑う。二人で酒を汲んで長嘆。

 年末頃 久しぶりで西谷勢之助に会って四方山の話をし、福岡の古賀光二の死を知る。

 1929 マックス=スチルネルの草間平作訳が『岩波文庫』上下二巻〔上8月刊、下12月刊〕として出版される。訳者序に「翻訳に当っては、常にバイイングトンの英訳を参照し、二、三この訳本に従った個所もある。また邦訳には辻潤氏のバイイングトンからの訳書があるが、これは、訳者も間々参照して訳語等の上でなお助けられたにも拘らず、決して良訳として推奨しがたいのが遺憾である。本訳書としても、決して自負するに足るものではないが、同氏訳に比べれば、原語訳というだけでも幾分解りよいであろう。もし著者に対して何らかの興味をいだきながら、同訳本によって愈々スチルネル難解の嘆を深からめられた読者があるならば、あらためて本訳書を手にとって頂きたいと思う。訳者などよりも遥かに多く、原著書を愛し、本書の広く読まれることを希望せられるであろう辻氏は、かく申したからとて、恐らく不快のみは感じられないことと信ずる……」とある。
〔(1940.10頃か)辻潤は「訳者序」に「「バカにしていやがらあ……」と、少しくお冠りが曲がったようであった。」「この翻訳は随分オレのに似ている。……検閲の関係で削除したところがあるが、この処はどうなってるかね」と、辻が言い、西山勇太郎が調べてみると、草間の訳本には辻の本で削除した個所は完全に入っていた。〕

 この年、帰国後、辻まことは大岡山の友人の家で睡眠薬自殺をしようとして未遂に終わる。

1930
昭和5
46
47

 1.2 坊主の格好の卜部哲次郎を伴い、洋行後はじめて洋服を着て東京を出発して旅行に出る。〔関西を歩きまわる。〕

 1.23頃 旅行から帰る。

 2月 雑誌『ニヒル』、ニヒル社より創刊。2.5。
 本郷区湯島1丁目14番地、入門社書店内ニヒル社。 創刊号に萩原朔太郎・生田春月・武林無想庵・林芙美子、らが執筆。
 20銭。
 〔〜3号。創刊号の発行人は、竹下弦之介。2、3号は辻潤。 発行人、竹下弦之介、5月、第3号で廃刊。〕

 2.末 萩原朔太郎・生田春月、二人で辻潤を訪ねる。

  2月 「辻潤短冊色紙頒布会」が開かれる。「爐邊の酒を暖む客なきを嘆ずる勿れ 窓外に竹あり数竿 松あり数株」――というものもあった。

 3月 《武林無想庵が最近書いたものを、辻潤が武林にだまって、まとめ、「飢渇信」と題し、林倭衛が装幀し》武林無想庵『飢渇信』、新時代社より刊行。

 3月頃 武林無想庵、シベリア経由、東京に向かう。〔武林無想庵、川田順方に招かれ、3か月、滞在。その後、友人だった山本露葉〔当時、故人〕の家を訪れ、山本露葉の子、中学生の山本夏彦を伴い、二宮に行く。〕

 この頃 春日一幸が林芙美子の紹介で辻潤を訪ねる。「十畳もあろうか広座敷に五やま、七やま本を無造作に積み重ねて、座机を前に蓬髪(ほうはつ)の先生は座つていた」「床の間のシカの角に白さやの大小が懸けられて」いた。〔春日一幸は、辻の家に月に一、二度はたずねることにしたという。〕

 5.1 《宮嶋資夫、天竜寺僧堂に入って雲水になることにする。》朝、品川駅に、宮嶋資夫の友人の鈴木(本郷の鈴木書店主か)夫妻・宮嶋の妻の麗子・末の娘の明(はる)が、宮嶋資夫を見送る。

 5月頃 武林無想庵を訪問し、1冊の本を持って来る。武林が最近書いたものを、まとめて、「飢渇信」と題し、林倭衛が装幀した本。「じつは君にだまってこの本を出したんだが、印税の半分ばかりぼくが拝借したよ。」と言い、100円を置いて行く。

 5月頃 静岡方面の旅行の帰途、沼津に飯森正芳を訪ねて、宮嶋資夫の天龍寺入りを知る。《その4、5日前、宮嶋資夫が天龍寺におもむく途中で飯森正芳を訪ね、辻潤が来たらこれを見せてくれと頼む。》二、三枚の一枚には、寒山詩中の一詩があり、もう一枚には、「辻潤文青/ウラ哲野孤禅/無想庵サイノロ/これに文句があるならやって来い、いつでも相手になってやるから」というようなことが書いてあった。文青=文学青年。

 相州二宮(にのみや)の武林無想庵と山本夏彦が滞在していた中平(なかひら)家の隠居所に、武林無想庵を訪れる。明日、藤枝で小野庵主宰の講演会があるから呼び出しに来た、林芙美子も出席する筈だ、という。3人で朝出かけることになる。 武林が小野庵に会ってみると講演会は話だけであった。料理屋で宴会、辻潤の俗謡が立て続け。一同新しくできたカフェに行く。それから遊郭にくりこむというので、武林無想庵・山本夏彦は、最終の軽便で藤枝駅へ引き返し、夜行で二宮に帰る。 早暁、武林らは、二宮に着く。茶の間に法衣を着た卜部哲次郎・大津澗山が寝ていて武林は驚く。翌日、大津澗山は使いこみの金を武林から借りて、静岡の寺に帰る。卜部哲次郎は、「乞食記」を書き始め、一週間ほどして、20枚ばかりの原稿が出来ると、武林は汽車賃と中央公論への紹介状を持たせて東京に出発させる。

 5.25 牛込多聞院で生田春月の告別式。

 この頃、たいてい毎日寝ころがって暮らす。小遣いがなくなるとなけなしの本を売る。頭を酷使して身体や精神を痛めることにあきあきし、どう考えても分からない問題などをひねくりまわすこともつくづく厭になる。母の美津やまことは、毎日二度位食べる。

 6.末頃 浅草六区を辻潤を尊敬する民衆芸術家連の2、3人と連れ立ってのし回る。電気ブランを店の閉店まで飲み、立ち上がれず、観音堂裏手の「ロハ台」に運んでもらい、夜を明かす。

 7月頃 酒を呑むことにアキアキする。

 夏 暑い日、13:00PM頃、飯田安の友人Aが辻潤を伴い、飯田安が宿にしていた横浜=堀の内の山頂にある宝生寺に、飯田安を訪問。辻は汚れた黒のソフトを阿弥陀にかぶり、細かい元禄の一重を着、無造作に帯をしめ、日和下駄を履いていた。歯は前歯が一本抜けており、歯は煙草のやにで汚れていた。袖をたくしあげる癖をみせた。あぐらをかいて酒盛りが始まり、裏のナス畑からナスをもいできてバターでいためて肴にし、ソースの空きびんを燗徳利に用いる。辻は今『絶望の書』を校正していると言い、飯田の仕事のことを訊ねる。浪曼主義の話からセナンクールの話が出、「オーベルマン」をぜひ訳したいと言う。話が上手で、洒落が水のように流れ、それからそれへと話題が飛び、酒呑みは糞を普通の人よりも度々するから、新聞紙をいつも懐ろに用意している、「焼酎に焼鳥を喰いつづけるときっと胃癌になるから、止すんだね」といい、「この敷地には韮(にら)を植えるといい、それで二日酔の時には、韮粥にして喰べれば体に大変いいよ」と教える。夕方、飯田とAは、桜木町駅まで1里の道を歩いて辻潤を送る。麦とろの看板を見て「浅草にうまい麦とろの料理屋があるんでね」と言う。駅に近い大江橋の上で「これからまたのむの?」と訊く。Aは少し当惑して「ジュ・ネ・パ・ダルジャン」〔お金がない〕とフランス語で答える。帰り道、Aは「辻さんはニーチェが嫌いなんだね。ニーチェのことを童貞哲学者と云った」と話す。

 8月頃 尾形亀之助から詩集『障子のある家』を贈られる。最初に読んだ時は久しぶりで腹の底から哄笑したほどに愉快に感じ、日に一回か二回位手にとって繙読する。《一度訪ねるというようなハガキを今年になってから二度程出したが、訪ねることが出来ずにいた。》〔近所に彼の居所を知っているKという友人がおり、Kを促しちょうど来あわせている二、三の人達と一緒に午後、世田谷上馬579番地の尾形亀之助の家を訪ねたが、既に引越していない。〕

 9.23 ニヒル同人主催の「武林無想庵送別生田春月追悼講演会」が読売新聞社講堂で開催され「風に流るる」を講演。 前列には制服警官が並ぶ。

 10月頃 武林無想庵、山本夏彦を伴いパリに向かう。

 10月頃 辻潤のところへ時々やって来る詩人の植木屋が失業したというので相談に来る。卜部哲次郎の置いて行った雲水の衣裳があったので、仮名付の観音経を与え、雲水をやったらどうかと勧める。〔仕事がなくなると衣裳をつけて托鉢に出かけ、次の正月にそれでなにがしか稼いだという。〕

 お酉様の晩〔11.7 or 11.19〕《前日に、金がなくてもいいからと小野好業に誘われ、》オリエントの楼上での石角(石角春之助か)の出版記念会に出席。石角とは初対面。テーブルスピーチをする。その帰りに小野好業と観音様に御詣りし、二十何銭かで観音経〔『大字観音経般若経平かな付』〕を買う。

 11月 『絶望の書』を万里閣書房より刊行。

『絶望の書』が出てすぐ、『絶望の書』に署名して中野頃保のところに持って行く。

 12月20日過ぎに東京を離れる。汽車の中で、アンドレ=ジイド、武者小路実光(むしゃのこうじ さねみつ)・小西茂ほか訳の『ドフトエフスキー』を読む。

 12月暮れ 《少し前から松尾季子と文通。辻潤の手紙が学校の寄宿舎宛にあり、冬休みだったが、松尾季子は待っていた。》京都で松尾季子に会う。〔「とし」・「とし子」・「禾+千」「禾+千子」・「季子」など。以下「季子」で統一する。〕 初対面が終わると辻潤は、内藤湖南〔中国研究家〕の娘が嫁に行っている黒田という友人の所へ松尾季子を連れていったが、留守。辻は、「それじゃ、谷崎の家へ行こう」とうながしたが、松尾は当時、悪魔主義の作家の異名を持つ谷崎潤一郎のところへ行ったとわかれば、学校の譴責をまぬかれないと思い、断わって寄宿舎へ帰った。辻潤は谷崎のいる神戸へ向かう。翌日、松尾は思い直して、谷崎邸を訪問。

 松尾季子は佐賀県の武雄出身。当時、京都女子高等専門学校〔のち京都女子大学〕国文科に在学。

 この年 下村宏〔海南〕の娘と知り合う。

 この年の頃 ぶらりと岡本の谷崎潤一郎を訪ね、「君、これは千住の鮒の雀焼だぜ、此方にゐるとめつたに食べやしないだらう」と言い千住名物の雀焼 〔「鮒の身を開いて、甘辛い下地(したぢ)をつけて焼いて串に刺した、佃煮のやうに真つ黒な色をしたもの」〕の小さな折を手土産として谷崎の前に出す。谷崎は、なつかしがって喜ぶ。

1931
昭和6
47
48

 1月 帰京。机の上に数百通の年賀状が堆積していた。

 2月頃 卜部哲次郎の「そーる巷談」が載っている『旅と傳説』2月号を読む。その雑誌の書評記事または広告から佐々木喜善『聴耳草紙』を知る。〔『聴耳草紙』を読む。〕

 4.上旬 松尾季子が上京し、はじめて東京中延の辻潤の家を訪れる。表札には辻義郎とあり、辻義郎は、時々帰って来た。辻の母とまことと食客の卜部哲次郎と辻潤の四人暮し。チルという名の茶色と白の毛をした大きな雄猫を飼っていた。〔行くとすぐに幡谷正雄〔雑誌『英文学』の発行者〕の家に預けられて、そこで女中まがいの手伝いをしながら、時折、辻の家を訪れていた。そのうち風邪を引いて心許なくなり、辻の家へ行ってそのまま居ついた。〕

 酒びたりの生活。辻潤の家にはさまざまの人が来る。「皆あたり前の顔をして来て食べたり泊ったり喋ったりして、あたり前の顔して去って行」く。本職は掏摸(すり)の歌人の青年、舞踊家の石井漠の世話になっているらしい者の妻、など。

 この頃、「飯はたいてい二度は食べているが、時に一度も喰わないこともある。」「朝から飲んでいることもたまにはある。三日位続けて飲んでいる時もあれば、まるで飲まない時もある。」

 4月頃 心の落ち着きを得る。

 松尾季子は6月4日までに帰る。 父から電報がきて松尾季子、九州に帰る。
 〔やがて松尾季子は同棲〔年月不明〕。〕

 6.1 妹夫婦も同居。卜部哲次郎もいる。

 6月頃 James Branch Cabellの"The Cream of the jest"を訳し、『古東多万』に連載しようかと考える。 題名をなんという日本語にあてはめたらいいかと約一週間程、頭をひねる。

 8月初め頃 《4、5日、外に居る。その間に原稿料が届く。》夜、焼酎を飲む。読売新聞記者が訪問し、焼酎をすすめて、美津に三味線を弾かせて、都都逸を唄う。〔この頃、無精髯を伸ばす。〕

 10月頃 辻秋生、広島から帰る。

 11月頃 Aldous Huxley と Windham Le'wisに興味を抱く。

 年の暮れ、中野頃保は仕事の都合で東京を離れる事になり、辻潤は別れの記念だといって中野頃保 の許へ自筆の色紙を持って行く。

 12.20頃 《辻潤が別れの記念といって中野頃保の許へ自筆の色紙を持って来た、その礼に》中野頃保は、『ロンドン・マアキユリ』のJ・C・スクワイア編さんの『マアキユリーブツク』を辻潤に贈る。

 12.21 《なかなか風邪が治らなかったが、》この日、外出。

 この頃の一家の収入は図案会社に勤めていた辻まことの給料位〔月15円程〕であった。

 この年、学校を出たが職がなく、宮前一彦が古本屋をやることにすると、辻潤は多少とも商品をあつめてやるからと神楽坂の沢田卓爾の家まで連れていって本を買わせる。自分でも酒手が欲しかったせいもある。ジョイスの『ユリシーズ』や、雑誌『トランジション』などを同学の好みにといって宮前に譲る。

 この年の頃 北豊島郡=巣鴨町=大字=上駒込=字=染井836番で植木屋を営む鈴木方の二階に部屋を借りていた井上靖は、文学青年の鈴木の長男を介して辻潤に会う。辻潤は、鈴木の家によく遊びに来た。

1932
昭和7
48
49

 1月 正月を洗足の自宅で過ごす。

 1月 淀橋の画家、高橋白日方での「素面」句会に出席、「夜は更けてとうとうたらり鱈ちりや」などの句をひねる。「とうとうたらりたらりら」は地歌の「翁」の歌い出し。互選の連座に加わり、あとの飲み会に出る。

 2.2頃2、3日家を空けた辻潤が酩酊して帰ってきて、トイレに入り、手を洗うために廊下の硝子戸を開けたとたん、ウオッというような声をあげて一目散に戸外へと走り去る。10分も経った頃、玄関から裸足のまま戻り、瞳を輝やかした異様な形相で二階の書斎へ上がった。寝床の中で、いつもより乱暴に小島清の唇を求め、小島清の首を絞めようとする。小島清は階下へ逃げた。翌朝、辻潤は二階の窓からひさしにおり「俺は天狗になったぞ」とどなりながら、飛びおりた。かすり傷だけであった。しきりに酒を欲しがる。町中をおらび歩いたりもしたらしい。青山脳病院へ連れて行かれ、辻は斎藤茂吉〔博士〕の診察を受ける。しばらく静養ということになる。

 2.18 《芝公園で行き倒れて死んだ》藤沢清造(ふじさわせいぞう)の葬式が、文壇人の手により芝公園内の寺院で行われる。文壇のお歴々の参会者5、60人。大きな珠数を首から下げた辻潤が観音経かなにかを誦みあげる。式が終ってから「俺に阿母や子供がなければとうに藤沢のように死んでいたよ」と語る。

 2月 《中野頃保の出京を知り》ある日曜日に幡谷正雄と一緒に中野頃保の家を訪ねる。珍しく洋服にボヘミアンネクタイをしていた。三人でビールを飲みながら色んな話をするが、辻潤は「僕に酒を飲まして呉れる人間はいるが、僕にものを書く余裕を与えて呉れる人間はいない」とこぼす。その晩、中野には他に約束があり、暫くして再会を約して帰る。

 3月頃 物を書いても自分ひとりさえ食えそうもなく、職業としての文筆をしばらく断念することを考える。

 3.20頃 《目黒方面で倒れたり、再度、屋上より飛び降りたりする。3日3晩、瞳孔が開いたままで、怒鳴ったり暴れて、休みなくしゃべり続けて、「オレは天狗様になったんだぞ」と信じ切って、「そゥら見ろ、こんなに羽が生えて来だした、これなら飛べる飛べる」と二階から飛びあがろうとする。》午前中、友人その他の斡旋で青山脳病院で診察を受ける。斎藤茂吉は留守で代診を受け、病院側はそれ程重態になっていないと語り、自宅で静養。

 3.25頃 青山脳病院で斎藤茂吉の診察を受けさせる。〔東京府下代々幡の井村病院に入院。〕

 病院では暇潰しに少しばかり習字の稽古。患者や看護人に頼まれ、毎日のように画仙に字を書く。

 4.23 谷崎潤一郎・佐藤春夫・田中貢太郎・北原白秋・加藤一夫・宮川曼魚・新居格・武者小路実篤・西谷勢之介・中山忠道〔中山啓〕・安藤更生・古谷栄一・宮嶋資夫・室伏高信・井沢弘・津田光造が発起人となり、「辻潤後援会」ができる。
〔銀座の伊東屋6階で文壇画壇らの名家揮毫小品即売展がひらかれ、その売り上げ金を静養費の一部として贈る。〕

 6.初 井村病院を退院。

 6.16頃 大島に出かける。〔三原山の中腹にある湯場で20日ほど静養。〕

 8.5 松尾季子、上京。

 8.10 小島清、薬物で自殺未遂。

 夏を三重県の津でくらし、名古屋、8月末に能登を放浪する。 また虚無僧姿となって尺八の門付けをする。

 夏 三重県の津の好川貫一の家を訪れる。酒盃を交わす。酔いがばなかばに達したころ、辻は、好川に紙を買ってこないかと言い、好川が買ってきた画仙紙10枚ばかりに、愉しげに書を書く。殆どが大伴家持の酒の歌、1枚が寒山詩の「忘却来時道」。

 9月頃 帰京。〔中延の津田光造の家に引込み、酒を余り飲まず、時々身体の調子を壊して寝たり起きたりする。〕

 10.2 小島清、洗足へ行き、辻潤・小松で大久保に出かけ、痛飲。

 11月頃 中延の津田光造のところにいる。

 「かえってから義弟の家にいそってやっぱり毎日ゴロゴロ寝てばかりいた。それから義弟にていよくにげられた」 義弟=津田光造。

 12.24 東京市目黒区碑文谷原町1312にいる。

1933
昭和8
49
50

 能登から帰京してから体の調子が悪く寝てばかりいたが、3月頃より外出して歩き回るようになる。

 3.3頃 《こないだから無宿だったが》目黒区=洗足町1285の辻義郎方に落ち着く。(目黒区=原町2ノ1285か)〔ここで、家族とともに住む。〕

 この頃、萩原朔太郎が、個人雑誌『生理』刊行の準備を始める。〔辻潤に原稿を依頼し、自分の雑誌だと思って好き勝手なことを書けという。〕〔「のつどる・ぬうどる」を書き、萩原朔太郎に送る。近頃最も油の乗った快適な執筆。〔『生理』第2号に掲載〕〕

 5.11頃 辻潤、小島清に中野たばこやのばあさんの喫茶店経営の話で至急来いと連絡。〔5.12 小島清、アルスでの仕事を終え出かける。話は片付かず、日曜日にまた会うことにして帰る。〕

 この頃、若松流二がたまに辻潤の家に来て、毎日何をするでもなくブラブラして滞在。

 6.4 《この頃、酒びたり。6.2頃 出たけたきり帰らない。》昼、辻潤、帰る。夜、辻潤・小島清、若松流二の就職のことで荒川のところを訪ねる。

 7.4頃 《関西に行く。その帰り名古屋に行く。頭髪は長く、髯はぼうぼう、衣服はぼろで、尺八を持ち、門付けをする。》名古屋で警察に保護され東山寮〔療養所〔病院〕〕に収容される。今で言う衛生検査技師兼看護士の池畑薫次〔33〕が空腹の辻潤の世話をし、身の回りを清潔にし、医師の診察を受けさせるが、名前が水島流吉、住所が東京としか答えない。〔翌日、『大阪毎日新聞』と『大阪朝日新聞』の記者が来て面会する。池畑薫次は、辻潤に写経を教えられ、辻潤の人柄に魅せられる。〕

 7.25頃 《辻まことが引き取りに出向く。病院の庭で雀たちと遊んでいる辻潤を見て、辻まことは「ホンモノの狂人だ」と思ったという。》辻潤は、池畑薫次に写経を教え、陀仙の雅号を与える。朝、辻まことに伴われ東山寮を出る。汽車に乗り、藤枝で降りる。辻まことは、小野庵保蔵に、なるべく酒は飲まさないようにと頼み、汽車で帰る。料理屋の二階で褌一つになり、鰻をたべ、日本酒を飲む。まもなく、内田庄作が来て、深更まで喋る。〔翌日の夕方、辻潤は帰る。藤枝に住みたいと小野庵保蔵に言い、小野庵は、茗荷畑を持つ10円ほどの借家を探すが見つからない。〕

 〔辻の家には道具らしいものは、ただテーブルがあるきり。〕松尾季子が帰郷する直前、辻潤は松尾季子に「水を持ってきてくれ」と言い、松尾は水を一杯コップに持ってきてテーブルに置くと、「ここに座りなさい」と言う。向かい側に膝を折って座ると辻は、コップの水を半分飲んで、残りの半分を差し出し、飲めと言う。松尾は言われた通り、飲み残しの半分を呷(あお)る。辻は朗々と大声を張りあげて、吉井勇の歌をうたい出す。「君に誓う阿蘇の煙は絶ゆるとも……」

 《松尾季子は、三鷹の方で小学教員になる。》夏休みとなり、松尾季子は九州に帰郷。

 この頃、尺八の門付をする。

 この年の頃 0:00AM頃、中西悟堂が、西荻窪の自宅に帰るため、品川から省電に乗る。五反田で、青衣を着て、腰に尺八、深編笠で顔を隠した虚無僧が乗り込む。乗客は2人で、渋谷でも乗客なし。虚無僧が中西悟堂の隣に腰掛け。「久し振りだなあ」と言う。辻潤であった。中西悟堂がアドレスを訊くと、教えたって始まらない、しょっちゅう居所は変わっていると言う。これから新宿の遊郭だ、と言うので、泊まるのかと訊くと、流すのだと言い、辻潤は新宿で降りる。

 8月頃 目黒区の辻義郎方で静養していたが、そこから出て喚き歩き、8月8日頃、朝、目黒署が公安を害するものとして検束留置。目黒区原町の大通りを猿又一つで、「日本の農村を建設しろ!」とわめいて歩いているところを目黒署に保護される。 去年より暴状がひどく、斎藤茂吉にでも頼んで病院に入れることにする。辻まことは、家にいるが、辻秋生は、大原に行っている。

 市外豊島郡石神井〔のち練馬区関町南4丁目〕の慈雲堂病院に入院。委託入院〔今日でいえば、生活保護法か衛生法による措置入院〕。。

 病院では、男女合せて数百人が一堂に会して、毎朝夕一時間、法華経の自我偈を読誦したり、南無妙法蓮華経の太鼓を叩いたりする。初めて「法華経」を覗く。《「普門品」〔観音経〕だけはかなり昔から読んでいた。》 入院中は従業員や患者たちにせがまれてよく書をかく。

 この頃 内田庄作が見舞いに行く。飯森正芳が見舞いに行く。飯森正芳は目黒駅で内田庄作に会い、二人で藤枝へ。

 夏 高橋新吉が見舞いに行く。

 10月頃 《松尾季子は高い熱が出て、ご飯もよう食ぺられなくなり、一週間、床につく。後で医者に調べてもらうと、辻潤の性病が移ったせいであった。辻美津との間がきまずくなり、美津は松尾に「家へ帰りなね」と言う。松尾の着物全てが勝手に質に入れられたり、共産主義の友人が頼って来たりする。》辻潤の家にいられないと思った松尾は、精神錯乱を疑った辻まことに勧められ慈雲堂病院に4、5日いて、迎えに来た父と共に九州に帰る。〔松尾季子は静養後、教師となる。1935年に再上京。〕

 11月 小島清、辻潤に玉生謙太郎と同棲することを告げる。〔離婚届は、1934〔昭和9〕年9月20日。〕

 この頃、生田花世が、辻まこと・若松流二を大杉家の妹達に引き合わす。

1934
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 3.上旬頃 5月上旬に気仙沼を訪ねることを菅野青顔に伝える。

 3月 田中右文治が慈雲堂病院に辻潤に会いに行く。田中は、病院の一室で、辻と対坐する。辻は、すっかり痩せて丸坊主の頭。向い合って何もいわず、桜が咲くねと一言だけ言う。それで別れる。

 4.3 慈雲堂病院を退院。

 退院してすぐ、若い友人だった鴇田英太郎〔この時、故人〕の親友の宮城県=石巻の松巌寺住職の松山巌王に招かれて、上野から常磐線に乗り、夕方、小牛田(こごた)で松山巌王が迎える。松山巌王と鳴子の姥の湯に一週間いて、その後、石巻の松巌寺に行く。《松山巌王とは時々文通をしていた。辻潤の書く物の愛読者。》

 4月半ばより松巌寺で静養。松山巌王の書斎を占領し、毎日、本を読んだり、手紙を書いたり、タバコをふかしたり、ゴロゴロねたりする。飯は三度三度、腹一杯食べる。 殆どはじめて画を描いてみようという了見を起す。〔時々お経を唱える。〕

 4.24 小島清、辻潤の母の美津・秋生を小田原の津田光造の家に連れて行く。

 4.末 『読売新聞』に原稿を送る。〔掲載されない。〕

 6.22 《5、6年以前から菅野青顔と書信の往復。》石巻から気仙沼のファン菅野青顔を頼って、宮城県=気仙沼町へ行く。菅野青顔はじめ元気のいい若い連中が迎える。菅野青顔は長女の節子の手を引いていた。辻潤は、着物を着ていた。停車場の近くでちょっと休憩して、自動車へ乗って5分とかからぬうちに海岸山観音寺の前に下ろされ、寺の座敷に落ちつく。〔観音寺に一週間滞在。大気新聞社の連中その他の人達から歓待を受ける。
 菅野青顔が気仙沼駅に辻潤を迎えた時、菅野に、おみやげとして石巻=松岩寺でつくった海苔おむすび2個を与える。
 菅野青顔は仲間を動員して歓待につとめ、母のみなに郷土の笹の葉に載せた「いがまんじゅう」など作らせる。 地酒に満足し、初めてのホヤを喜んでつつく。菅野仙吉〔菅野青顔の長男〕に「たっしやで元気で/ニコニコと/青空めがけて生き給へ」の書を書く。〕〔気仙沼で100枚近く揮毫する。〕
 鮎貝〔住職〕に代り、大手の真澄と称された相撲取りみたいな大男の中僧と仙童という陽気な居候坊主がいて、辻潤をもてなす。
 菅野青顔・石森正家・小野寺稔が観音寺に泊まり込んで辻潤の世話をする。

 観音寺逗留中の辻潤が、菅野青顔の仲間一人一人に酔狂に「法名」をつける。
小野寺稔:野僧山ミンコフスキー
菅野次郎:観音呵々子居士
石森正家:石森象鼻童子
三浦百郎:木患タンカ信士〔本患は彼の号〕
広野重雄:萬年技多羅信士〔広野重雄が、ギターを手づくりしているのを見て、驚嘆してのもの〕
菅野青顔:青顔気仙入道〔「井戸蛙の青顔よ、汝は気仙沼だけの人間だ。気仙沼を一歩でも離れては生きてゆけない人間だ。だから気仙沼を愛せよ。という意味」〕

〔1934 気仙沼で辻潤、紙を選ばず30数枚の書を書く。のち半数が残る。〕

 一景閣の斎藤武雄が、辻潤を南町の扇屋に連れて行き、ウナギをご馳走する。〔辻潤は、斎藤に「観音は自在におわすうなぎ哉」を書き与える。のちに、扇屋が所蔵。〕

 6.28 気仙沼からいったん石巻に帰る。

 7.4頃 石巻から北上川をのぼり志津川へ着く。松山巌王は志津川まで同行。それから自動車に乗り、松岩村〔気仙沼町の隣村〕で下り、尾崎の海光館へ投じる。〔宿泊17日〕

 毎日、酒びたりの生活。 朝から晩まで地酒。 入れかわり立ちかわり現れる「信者」たちの御馳走酒で泰平楽をきめ込む。

 辻潤は、千葉正治を「千葉大尽」・「マーヤ先生」とも愛称した。

 辻潤は、石森正家ひとりを連れて、松岩尾崎の海の近くにある「こぶがはら」に詣る。住職だか神主だかを相手に約一時間もお茶飲み話。辞去するとき、なにがしのゼニをおひねりとして差出す。海光館の一室にもどったとき「先生、さっきのお賽銭、なんぼ、あげたのですか」と石森が訊くと「ああ、あれか、有金全部の金二銭サ」とニコニコした。石森正家は、開いた口がふさがらなかったという。〕

 島崎藤村の詩による「椰子の実」を歌う。

 歌を詠む。
「尾ノ崎の海光館のあねこらは呼べど返事をせぬアネコかな」
「尾の崎のオハグロおばんつアん西洋三味を見るは初めて」

〔菅野青顔が辻潤に「先生が最初に読んだ老荘関係の最初の本は何でしょうか」と訊ね、大野雲潭『老荘講義』と答える。〔菅野が、この本を見つけるのに10年近くかかる。1910.5 大阪の文明堂の刊行。〕〕

 7.21 海光館を去る。東京に向かう。夜行列車に乗る。

〔海光館の請求書は、計38円85銭。菅野青顔らは払えず、辻潤を好きな広野貞助〔太兵衛〕に窮状を訴え、広野は海光館に手紙を書き、海光館主人は「万事、承知いたしました」となる。38円85銭は、麻屋の広野太兵衛〔貞助〕に払って貰う。〕

 7.22 帰京。豊島区池袋町5丁目252番地の向井〔山崎〕玄宙子方に寄寓。

 7.30頃 《本の出版を決め、それから九州に行くつもりでいたが、気仙沼で厚遇を受けて、愉快であり、大いに意を強くし、》気仙沼の家に住み、しばらく落ち着いて残生の仕事をすること、商用で北海道に行く辻まこと、九州から上京して来る松尾季子などと一緒に気仙沼に行くことなどを考え、菅野青顔に依頼する。この頃、毎日4、5里を歩く。

 8.11頃 気仙沼の家に住むことができなくなったと菅野青顔が伝える。

 8.21 小島清、女子を産む。玉生謙太郎の長女、摩耶子。

 8月 向井方を追い出され、読者の小野庵〔保蔵〕、傘哲〔内田庄作〕、我乱洞〔山内直孝〕らを頼って静岡県=藤枝、神奈川県=湯河原、小田原辺りを流寓。
 山内直孝の住所:小田原市緑新道ガランドウ〔or ガランドー〕工藝社。

 8.23 小田原の津田光造宅に泊まり、小田原で文芸座談会。

 8.24 小田原から、山崎玄宙子方に戻る。
 8.25 留守中、山崎の家の親戚に不幸があってゴタゴタし、ほかの人も来て、2、3日のうちに、山崎方を出ることにする。しばらく、世田谷の太子堂町324番地の槙義衛方に寄寓することにし、それから小田原に行くことを考える。

 9.12 中野区文園町48、文園アパート。

 9.17 太子堂。

 9.20 谷崎潤一郎・佐藤春夫・萩原朔太郎・新居格・武林無想庵らを発起人として、夜、新宿の中華料理店「セノウ」にて「辻潤全快祝賀会」が催される。発起人の他に上山草人・高橋新吉ら20余人が出席。

 9.22 太子堂。

 10.6 小田原中島41番地の津田光造の家で、母の美津、丹毒により死亡。辻潤・まこと・流二・秋生・恒・小島清で通夜。
〔辻潤は、美津の骨を持って西福寺に行き埋葬。それから辻潤が西福寺に行くことはなかった。〕

 11.6、小田原を出て、しばしば馬込の玉生夫妻の家に居候をする。高橋新吉や佐藤朝山などが訪れ、貧しいながらも一つの桃源郷であったという。馬込の玉生夫妻の家の玄関の2畳にねとまりする。谷中通りから臼田坂の上に出る道で、坂の途中にあるたった二間の日向りのわるい家。前は林の崖で家がないから静かだが、夜遅くまで自動車が通ったり、朝も早くからトラックが通りやかましく、乗物の通るたびに家が激しく揺れる。玉生謙太郎は失職し、翻訳仕事を時々やる。辻潤は毎日タバコ代やオカズ代をひまに任せてあちらこちらから掻き集める。そのうち、思いがけず酒の幸運にめぐり合い、師走一杯殆ど朝から晩まで酒の気のきれたことがないというような生活。

1935
昭和10
51
52

 1.3 《松尾季子、20円の旅費・身支度料を送り、九州に来るよう促す。》夜、九州=佐賀の松尾季子の下へ旅立つ。
 どこからか尾行が付いて来て、松尾の家に入るや早速干渉がはじまり、早々に引き上げる。〔キチガイ病院に入ったものは一年とか監視される、と書簡にあるが、監視だけではなかったらしい。〕

 1.14 小田原に戻る。

 1.19 玉生夫妻の家に居候。

 2.2 小田原に戻る。

 4月まで、小田原在中島41番地の津田光造方に暮らす。

 小田原で辻潤は病気で臥せる。松尾季子がやって来る。

 4.末頃 菅野青顔が友人の広野重雄と東京に行き、住所不明で断念していた辻潤に会う。夜、渋谷=道玄坂下で辻潤の弟子が開いている「智登利」という酒場で仲間と一緒に幾本かの銚子を空にする。辻潤に誘われ菅野青顔ひとりが大森の辻潤のところに行く。渋谷駅から省線に乗り大森で降り、街頭(?)の薄暗い露地をいくまがりも歩いた二階屋(おそらく、玉生謙太郎の借家)。夜も更けて、辻潤が「オーイ、寝たのかネ」と静かに呼ぶと、二階の窓が開いて坊主頭の百瀬二郎が顔を出す。10燭光の電燈が灯る二階の三畳の部屋に上ると、長髪の玉生謙太郎がいた。打ち揃って十銭バーに出かけ、真夜中の2:00AM頃に帰る。辻潤・菅野青顔・百瀬二郎が一部屋で、唐紙を隔てた八畳間で小島清・玉生謙太郎の夫婦が寝る。〔辻潤の紹介状を持って林倭衛を訪ね、広野重雄の絵の批評を求める。林は二科展入選に太鼓判を押す。〕

 5.2頃 《小田原の家は「解散」。妹の恒が辻潤・松尾季子のための家を探す。大森区=馬込東2の1071番地の霜田アパートを辻まこと名義で借りる。》平屋で同一棟がずらりとならんでいる建物。松尾季子・辻まことと同居するが、辻まことは迷惑がる。〔辻まことは行き先も告げず荷物をまとめて出て行く。〕

 5.上旬頃 書物展望社の斎藤昌三を訪れ、天狗になった前後から最近までの文稿を一括したから、何処かで出版して呉れるように奔走してくれと頼む。

 このころ大森警察署に保護され、大森区新井宿の竹久不二彦がもらい受けに行く。

 5月 玉生夫妻が長女と共に居候〔〜8月〕。〔それからの生活は朝から酒びたり。〕

 6月上旬頃 《この頃、抜隊禅師の『和泥合水』という本を読んで感心する。前日、Aという書家が訪ねて来る。辻潤は忘れていたが、フランスヘ行く時、上海で会った。色々と中国の話を聞く。》10日ぶり位で銭湯に行く。隣で頭を洗っていた若い人が突然、「ピカもとうとう先月末に死んだよ」と言う。「どなたでしたかねえ」と訊くと「バクだよ」という。ブラック連盟の人。近所のアパートにいるからよってゆかないかという。途中チップトップ書房の隣に新しく出来た「ユリカ」でコーヒーを御馳走になる。バクのアパートで一時間半ばかり『反対』という雑誌を瞥見。近頃なにか読みたいと思うものはないかとバクにきかれたが、その返事が出来ない。帰宅すると、読売新聞社のKの名刺がチャブ台の上に載っており、日記文3枚至急お願いしますとある。しばらくしてKと写真部の人と二人でやって来て、裏の丘の上で写真をとられる。

 6月頃 西山勇太郎に、初めて会う。〔西山勇太郎の雑誌『無風帯』に無料で原稿を書くが、西山勇太郎はバットを与えたり、一升瓶を送ったりする。ほかにそのようにする者はなかった。〕

 6月頃 松尾季子、妊娠。

 7月 《斎藤昌三が辻潤から出版社を探すように頼まれたが、》引き請けるものもあるまいし持ち回るのも面倒なので、斎藤昌三の書物展望社で少部数を出すことになる。 7月末に家を「解散」するつもりだったが、本が出ることになってどうやら持ちこたえる。

 7〜8月頃 『癡人の独語』の校正に毎日通う。

 8月 『癡人の独語』を700部限定で書物展望社より刊行。〔辻潤は特製1部と並製5部をもらう。書物展望社は、なるべく印税は本で払いたいらしいが、まるまるもらったところで二カ月の生活費がやっと。〕

 8.17、18 神奈川県茅ヶ崎の斎藤昌三の少雨荘で「素面の会」の一泊句会に出席。

 夏、辻潤と松尾季子、馬込郊外の佐藤朝山を訪問。

 9.15 夜、萩原朔太郎と飲む。

 9.21 浅草の観音劇場の脇の「三州屋」という繩ノレンで『癡人の独語』の出版記念会が開かれ、佐藤惣之助・木村幹・荒木郁子・大津賀八郎・古谷栄一・倉持忠助・曽根彩花・酒井真人・斎藤昌三・石井漠・井伏鱒二・村松正俊・添田知道・ト部哲次郎・矢橋丈吉・尾形亀之助・片柳忠男・山本正一・宮前一彦・山内直孝〔我乱洞〕・草野心平ら六十数人が出席。《武林無想庵は電車賃もないからと出席を断る。》
 芳名簿を持った受付係が遅刻をし、辻潤が真先に乗り込み、勝手に酒を飲み始める。テーブルスピーチをはじめると片ッぱしから辻潤が半畳を入れる。トコトンまで飲む会となる。

 新宿の「白十字」で萩原朔太郎・武林無想庵や読者たちが中心になって二回目の出版記念会が開かれ、読者だと称して会費を払わない者たちまで押しかけてくる。 「癡人の独語」出版記念会が新宿の白十字楼上で催され、萩原朔太郎が話をする。会が終りに近づいた頃、辻潤が席を起って階下におりて行き、まもなく数人の浮浪者風の若者を連れて席に戻り、残りの飲物や食物をふるまう。

 この頃、大森・目黒・渋谷・新宿・池袋辺りを尺八の門付けをして歩く。また新宿の成子坂上の木村鉄工所従業員寮の西山勇太郎の個室に、しばしば寄寓する。

 この頃、時々、近所に住んでいた添田唖蝉坊が来て玄関の二畳で静かに話をしたり、またその息子の知道も何か用事で来ることがあった。

 10月 飲酒の日々を送るうちに、大森の家は電気・ガス・水道を止められる。 明かり用に提灯をつけるが、電気代より高くつく。 水道・電気が停止され借家を追立てられる。 2、3日、矢橋丈吉の家に逗留。

 11.初め 松尾季子と共にファンを頼って塩原へ行く途中、松尾は上野駅で辻潤を見失い、一泊して先に塩原へ行く。ソルボンヌ大卒というファンの手紙は偽りであり、松尾は旅館「霞上館」に宿泊。事情は不明だが、辻潤は挙動不審で王子の滝之川警察署に数日ほど留置される。〔辻まことが辻潤を松尾のいる塩原に連れて行く。〕

 11.9頃 辻まことと辻潤は、東北本線、23:40PM上野発の夜汽車〔小牛田行、109号〕に乗る。宇都宮かどこかで「白雪」の四合瓶1本とノシイカを買ってチビリチビリやり出す。辻まことは苦々しい顔つきをして、しきりに止めるが、聞きながして、窓外の月夜を楽しむ。3:38AM頃に西那須野駅に到着。乗合バスがないので、5、6里の道を歩く。

 松尾季子が塩原に来て数日後、辻まことと辻潤に会う。

 袖ガ沢温泉の万人風呂に三人で入り、鯉のアライかなんかで一杯やる。(辻まことは、間もなく帰る。)霞上館の万人風呂のイの一号という部屋に宿泊。塩原に半月あまり滞在。

 雪が降った翌日、松尾季子をつれて妙雲寺へ出かける。そこにはかねて辻潤の本を愛読していると称する坊主がいるということをきいていた。庫裡の方の客間に通されて初対面の挨拶をする。

 辻潤は夜中に旅館をさ迷い出て凍死寸前となる。自殺というわけでもなかったらしいが、何のためにさ迷い出たのか不明。松尾季子が抱いて暖めて回復。心中されては困るので立ち退きを求めた旅館主から戻り銭を請求して帰京。「薄紅梅」という銘の尺八をかたに置いて行く。

 帰京し、数日、矢橋丈吉などの友人の元を転々とした後、友人の世話で馬込東3丁目585の東(あずま)館という下宿屋の二階の4畳半の部屋に落ち着く。年少の友人の借りている部屋。辻潤は古い木箱〔多分挟箱〕の物入れを数個と柳行李を持ち、その中に芥みたいな本や様々の人の手紙や写真や札差時代の辻家の古文書や沢山の位牌等を保存。

 12.3 東館で「歳末所感」を書く。

 12月 辻潤は毎日大抵出かけて夜遅く酔って帰る。12.末頃、松尾季子は東館にいて専修大学(or 上智大学)で英文学を教えていた明石譲寿に頼んで両親に詫び状を出し、父と兄が上京し、松尾季子は高輪病院に入院〔2週間ほど昏睡状態となる〕。この12月末が松尾が辻潤を見た最後であった。

1936
昭和11
52
53

 1月 堕胎同意書を求められたのに辻潤は「胎児却下願い」を書き、1月中旬、松尾季子、妊娠六ケ月で人工中絶〔2回目〕。

 1.30 Gの経営する鉄工所の二階にいる。 昨年から風邪をひいていた辻潤は急性肺炎で倒れる。
〔危篤状態となる。半月ばかり、生まれてはじめてのような苦痛を味わう。2月の末まで急性肺炎。〕

 2.初〜4.末 《息子の若松流二は、辻まことから肺炎で寝ている父の面倒を頼まれ、勤めたばかりの図案会社を辞め、》2月初より4月末まで、若松流二は辻潤と二人で東館に暮らす。

 2.10 松尾季子、九州へ帰る。
 〔松尾季子とは死にいたるまで文通を続け、松尾は最後まで辻の理解者であった。〕

 2.17 うまいと感じるのは牛乳と林檎とパンだけ。酒もまずくタバコも呑む気がしない。

 2.26 咳が出るが、熱がなくなってやっと食欲が出て来て起きられるようになる。体が痛く、左の半身が少し痺れる。

 たびたび添田知道のところへ行き、電車賃や煙草代をせがむ。その代わりに何か自分の書いたものを置いたり、誰かの画を置いて行ったりする。自分の書を売って四国遍路をしていた添田知道の父、唖蝉坊に送るよう言ったこともあった。

 3.10 夜、荒川畔村〔関根喜太郎〕と会い、虚無思想双書というものを出す話をする。

 3.26頃、咳や痰が毎日かなり出るが、苦痛は感じなくなる。夜はよく眠れる。毎日たいてい2銭の「名代鯛焼」を2ツ食べる。飯は毎日二度。自炊をしたり外ヘ食いに行ったりする。米がまずいから麦をまぜて食べる。省線のガードをくぐって海岸通りへ行く途中の三岩食堂で夕飯を食べる。ロース鍋と称する馬肉鍋が10銭、「半がわりの飯」が3銭、新香が3銭、酢の物が5銭、お銚子が1本12銭。金になりそうな本はたいてい売り飛ばした。近所の古本屋で和田垣〔博士〕の『兎糞録』という本を、5銭で買ってきて愛誦。

 3.26 近所のめし屋で夕飯をたべて金策に出かけたが、だめ。鼻水をすすりながら火の気のない部屋に戻る。バットを一ツ買い3銭残る。

 4.29 「毎日本を売って辛うじて生活しているような状態」。

 5月 『孑孑以前』(ぼうふらいぜん)を昭森社より刊行。

 6.1頃 《三重県=津市に長年、辻潤のパトロン兼友人である今井俊三・真吉の兄弟がいて、1月の末から2月の末まで急性肺炎でひどく衰弱しているという報告をすると、しばらく養生かたがた来てはどうかということで、津に出かけることにする。 下宿料は払えず、委任状を書いて昭森社からとってもらうことにする。昭森社から、旅費だけ出させる。》東館を下宿料滞納で追い出され、4、5人の若い人らにかこまれて出る。大森駅東側の通称「呑んべい横町」の居酒屋で一杯10銭のコップ酒を二、三杯傾けて送別の宴を張り、東京駅から鳥羽行の汽車に乗って東京を出発。

 6.2 三重県=津市=極楽町の今井俊三方に寄寓。
 一月あまり寝てばかりで過ごす。その後、海水浴をしたり、禁酒したりして、健康を回復。

 8.21頃 今井俊三方でヒマ潰しに将棋を指す。

 9月 髪の毛を刈らず、ヒゲを剃らないで過ごす。〔少なくとも〜1937.2〕

 9.25 津を出て、旧友のFを大阪の高師の浜に訪ね、3日ばかり滞在。

 9.27 比叡山に上り、法然堂に堂宿中の武林無想庵をたずねるが、武林は京都に下山していた。〔やがて武林が戻る。比叡山に1か月あまり滞在。〕

 11月 《京都松ケ崎の京都高等工芸学校前に脇(わき)清吉が古本屋の脇屋書房を営んでいた。医者・新聞記者などが加わった「知恵を盗む会」という会で、月一度位、「智恵が盗れそうな、著名人というよりも、つむじのまがったひとたちをひっぱりだしては集ってたのしんで」いた。芸能関係のある人が、武林無想庵が比叡山にきているから話を聞こうじゃないかと言い、世話掛の脇清吉が延暦寺の宿坊に武林無想庵を訪ね、初めて武林に会う。》10.21頃 武林無想庵・脇清吉と下山。

 三条通りのキリスト教青年会の一室で「知恵を盗む会」。

 11.3 《比叡山を下り、双方、江戸ッ子で、しゃれの名人の京大ドイツ文学の成瀬無極と一堂に会わして、おたがいに得意のしゃれを斗わしてみたらと、ドイツ会館を訪れる。成瀬は、来る11月3日の明治節に、ドイツ会館で催すゲーテ祭に出席して尺八を吹いてもらいたい、という。》「エンビ服の会長成瀬先生の紹介で、菊をかざり、金屏風をめぐらした舞台中央へ、どこで工面してきたのか、いかにもひとかどの芸能人ぜんたる被風姿で納まった辻潤が、得意の曲目にひきつゞき、ローレライを吹きすまして満場の拍手かっさいを浴び」る。

 武林無想庵は、京都松ケ崎、工芸学校前の脇(わき)清吉の古本屋、脇屋書房に居候。〔〜イヴォンヌを迎えにパリに行くまで。〕 辻潤も脇屋書房に居候。

 京都では上京区千本通り一条北入ル、バー「織縁樽」を溜り場として、中西倪太郎〔機屋の息子、画家〕・村田某・伊藤某・本屋の脇清吉・伊谷賢蔵〔機屋の息子、洋画家〕・京都大学の田辺某らと交流。遊びの軍資金はもっぱら伊藤が算段した。

 12月 1日から一週間、大徳寺で「臘八接心」に参禅。

 12.17 上京区猪の熊通り一条下ルの画家の中西倪太郎家で静かな生活。酒を時々呑む。気が向くと朝30分ないし1時間、座禅をする。

 12.22 京都市左京区松ヶ崎の脇屋書房の二階の一室に納まって、日々三度の飯にありつき尺八などを吹き鳴らし、至極太平楽をきめこむ。(おそらく、武林無想庵と一緒。)

 12月 中西方から左京区浄土寺石橋町91番地の伊藤健造方に移り、そこで年を越す。

 京都で成瀬無極に二度ばかり御馳走になる。

1937
昭和12
53
54

 1月 京都で正月、少し呑み過ぎる。

 (1936年かもしれない)京都滞在中、岡本潤に雑誌『コスモス』を借りる。その中の、渡辺の訳したマルセル=シュオッブの「犬儒哲人クラテースの伝」を読み、師のディオゲネスを遥かに凌駕しているクラテースの徹底した生活の信条と、その生活に奮起させられる。

 2.6頃 10:00 AM 過ぎの汽車で二条駅を出て鳥取で降り、I家に一泊。京都から約7時間、雪だらけの山を見物。「鳥取にはかねてNを通じて知己になったやはり洋画家のI君の兄さんがいるので、是非立ち寄るようにということで私は下車したのである。」翌日、砂丘見物の後、夕刻、上井駅に到着、極楽寺に行く。極楽寺は、前1936年12月12日の『読売新聞』に辻の消息が出ていたのをみた、未見の詩人のYが久しぶりに葉書を寄越し、この寺に行くことをすすめたもの。極楽寺は、駅から小一里、丘の上にある曹洞宗の御寺で、和尚と小僧が二人いるきり。辻潤は離れにひとり納まる。
 2月7日ころから4月8日まで、鳥取県=東伯郡=西郷村の前田洞禅〔朝陽〕住職の日照山極楽寺に滞在。

 3.6頃 鳥取市に連れていかれる。酒を飲む。
 3.8 くたくたになって、極楽寺に戻る。

 3月 菅野青顔に、愛読書の一冊として、和田垣謙三『兎糞録』を贈る。

 4.9 極楽寺を出る。〔岡山、広島に行く。〕 極楽寺を立ち神戸、須磨、岡山、呉、広島、岩国辺りを転々流寓。

 4.末 大阪市=住吉区=殿辻町12の布施延雄方に寄寓。  4月の末から大阪の布施延雄方や岩崎鼎方に寄寓。

 この頃、当分の間、大阪と京都を往復して暮らすことにする。

 5.14 武林無想庵の送別会のため京都に来る。

 6.4 《辻潤は、「京都上京区猪熊一條ル(ママ)」画家の中西倪太郎のもとに身を寄せていた。》12:00頃 京都市=上京区=千本今出川を菅笠〔「迷故三界域悟家十方空本無東西何処有南北」と墨字してあった〕、垢だらけの洋服、女日和下駄姿で歩いていたが、九條節子(さだこ)〔皇太后、のち貞明(ていめい)皇后、嘉仁〔大正天皇〕の妻〕が京都に来るというので、精神病者の一斉取締をやっていた西陣署の警官が保護検束し、西陣警察署に留置する。22:30PM 中西倪太郎が引取人となって釈放される。

 6.7 21:00PM頃、雨の中、菅笠、鼠色のサックコート、暗緑色のバガヴォンドネクタイを垢じみたワイシャツの上から無造作にぶらさげ、ちびた古下駄を履いて左京区下鴨松ヶ崎付近を歩いていた辻潤を警戒中の下鴨署員が検束。〔九條節子のための「御警衛」により、下鴨署から岩倉精神病院に護送、岩倉精神病院の諒解を得て、6.8 15:00PM、六病舎に収容。〕

 6.19 小南又一郎〔京都大学=法医学教授、博士〕が、岩倉病院を訪れ、辻潤を検診し、一問一答。〔『サンデー毎日』の記事になる。〕

 岩倉病院で、 和田軌一郎『ロシヤ放浪記』〔1928.2 牛込南宋書院から発行〕を三日ばかりで通読し、久しぶりで読書の熱情に浮かされる。

「下鴨神社の浦の蓼倉町に住んでいたころ、父はよく酒宴を開いた。常連は、中井正一、富岡益五郎といった下鴨在住の文人、画家の錦儀一郎などであったが、ときどき辻潤、中西倪太郎といったヴァガボンドが加わると騒ぎは一段とすさまじいものになった◆辻さんは、岩倉の病院を抜け出して、ようかん色の被布に雪駄という姿で、尺八をたもとに入れてやってきた。酒宴は二階の八畳で開かれており、隣の間で期末試験の勉強をしていた私は、あきらめる以外にはなかった◆それよりも、辻さんの談論風発尽きることのない語り口、朗々と吟ずる「烏なりけり山桜」という端唄、心にくいとまで思った尺八の音が私を引きつけた◆父は、「勉強してこい」と言い、辻さんは、「純ちゃん勉強だけはするんじゃないよ」と言った。禿げ上がった広い額、頬のまわりの茶色の髪、目は青く沈んだ光を放っていた◆彼はしたたか飲んで、美を愛(め)で、生を賛美し、世を呪い、家庭を破壊の縁に追い込んで、端唄を吟じながら夜道を去っていった」

 7.5頃 《九條節子が関西を離れ、》辻潤は岩倉病院を出される。

 7.終り 帰京。落ちつき先の確認のための警察署員付きで戻り、西山勇太郎の部屋に滞在。

 辻潤が西山勇太郎に「今迄、自分を詩人と称してゐるが、自分にはまだ詩集が無い。一冊の詩集も無い詩人はおかしい。」と言い、『辻潤詩集』を出版する計画を進める。辻が著書のあちこちから書き抜いたり、西山勇太郎が蒐集した「辻潤文献」をひっくり返して、詩を写したりし、それでまだ足りなければ、新たに書くという。西山勇太郎の友人の印刷屋に見積りして貰い、100円。『辻潤詩集』は出版できずに終わる。

 この頃より、牛込横寺町の路地奥の稲垣足穂をちょくちょく訪れる。

 9月頃 辻まことに会い、一週間ほどのち、淀橋区柏木1丁目142番地の「アダチ・ハウス」内の辻まこと方に同居。

〔このころ酒びたりの父親にあきれ果て、辻まこと はそんな父親から逃げ出すことばかり考えたという。〕

 9月頃 毎日のように西山勇太郎のところへ異様なる姿で現われる。「自分のような者でなければやらないであろう仕事がそのままになっている。それを完成しなければ、死にきれない」と西山に話す。仕事とは、セナンクールの「オーベルマン」の翻訳。 〔西山と雑誌「万物流転(パンタライ)」の創刊を計画するも、発行にいたらなかった。〕

 10.14 夜、乞食のようななりで、銀座の不二の地下室に行き、ボーイを脅かしてコーヒーを飲み、いやがらせに尺八を吹いて去る。永井荷風がいたが、容貌が一変していて辻潤と気付かない。辻潤は時折、物乞いに来るという。

 12月 暮れから、翌年1月にかけて、小田原で20日ぐらい寝こむ。〔以来、ヒゲをほったらかす。〕

1938
昭和13
54
55
 1月 小田原で半月ねこむ。

 1.28 蒲田区=南六郷1の28の玉生一家のところ〔6畳1間〕に居候。

 3.29 玉生方から、鶴見へ行ってもらう。 妹、恒のところか。

 4.1 東京市=蒲田区=南六郷1の28の玉生方に寄寓か。

 4.5〜4.18 蒲田の玉生方に居候。
 4.19 横浜市=鶴見区=生麦町1707番地の津田光造方に寄寓。

 7.5 鶴見の恒のところにいる。

 突然、武林無想庵に辻潤からの電報が届き、荻窪の飯森正芳方で待てとあった。アドレスが明記されており、すぐ荻窪へ出かけて、訪ねあてると、飯森正芳は辻潤から何の音沙汰もないという。

 ここ5、6年、朝鮮の踊り子の崔承喜と文通する。サイン入りの写真も贈られる。

1939
昭和14
55
56

 2月 小田原を経て、静岡県地方を流寓。静岡県=庵原郡=松野村=南松野の東光寺に、坊主になったト部鉄心〔哲次郎〕をたずねる。

 8月頃から大森区新井宿2丁目1647番地の辻まこと方に同居。地下室の日の目を見ない、じめじめした部屋。まことはその頃、毎日昼頃までねては午後から銀座の仕事場へ通っていた。 大森の竹久夢二の家の下の離れで辻まこと夫婦と暮らす。武林無想庵は、荻窪の飯森正芳に辻まことの居所を訊ねて、二人で訪問。イヴォンヌの料理で夕食を食べたあと、皆でピカデリーに行く。〔まことの世話でピカデリーに新たに内装を施す。時々、辻潤はピカデリーに姿を見せるようになる。のち、辻まこと夫婦は自由ケ丘のアパートに住む。〕

 大森区馬込の矢橋丈吉の家に行き滞在。はじめは歓待され、酒びたり。しばしば添田知道方に顔を出し、電車賃をねだり、無断で本を持ち出すなどする。

 夏頃から折々会うたび西山勇太郎が辻潤の書いた零細な文章を集めて本にしたいという話をし、辻潤 は気乗りがせず、その度にいい加減な返事をする。

 秋から淀橋の西山勇太郎方に寄寓。

 12.21 深夜、西山勇太郎、京都に行くという辻潤と新宿の四つ角で別れる。 12.21 東京から京都へ向う。

 12.25 東京から京都へ。

 京都の伊谷賢蔵方や文房具店の脇屋方に寄寓。大阪の岩崎鼎方に寄寓。

1940
昭和15
56
57

 京都で新年を迎える。京都市外大原村の小松均方に寄寓。

 京都と大原の間を往復。

 この頃 唱歌をつくる。
「春が来た春が来た
 衣笠山に春が来た
 仁和寺前のうどん屋で
 朝の散歩のにごり酒
 スグキ肴にきこしめす
 京の閑居のつれづれや
 物狂ほしき奇仙洞

 千本通り夜はふけて
「織縁樽の酒ほがひ
 マダムステキな酔払ひ
 酔つてクダ巻くうるささよ
 御機嫌二千八百年」

 3.末 帰京。淀橋の西山勇太郎方に泊まる。。

 4.2 夜、新宿の小料理屋「千代」で萩原朔太郎・西山勇太郎ら、と小宴。

 杉並の上荻窪のサラマンダー荘に寄寓。「 主としてサラマンダー荘をあたかもわが棲家の如く心得て、」毎日朝から飯森正芳と酒を飲んで、ムダ口を叩いては面白がる。

 7.初 《気仙沼に行き、うなぎを食うことを楽しみにしていたが、》気仙沼に病人があるとのことで、気仙沼行きが中止となる。

 7月頃 毎日、東京をうろつき尺八を吹いて托鉢、「儲かるどころか、毎日足を出して諸方の知己友人、エトセトラを悩ま」す。

 この頃、近所の知りあいのところに行って尺八を吹く。編笠をかぶり、腰に瓢箪をさげて尺八をさし、登山杖をついたり、頬かむりをして尻端折りで腰に尺八をさして来ることもあった。葬式用の金銀の紙細工をショールのやうに肩にかけ、亡者のやうに三角の白紙を鉢巻きで額に立てて来ることもあった。井伏鱒二の家にもたびたび行く。「おい雑巾を出せ」と言うが、井伏が知らぬ顔をしていると、無断であがって台所へ行って汚れた足を拭いて来て、机か障子に凭れて尺八を吹く。後をつけて来た近所の子供たちが生垣の隙間から見物する。ある時、井伏が原稿を書いていると、辻が台所で足をふいて来て、障子に凭れて尺八を吹く。「いま原稿を書いてるんです」と言うと、「どうせ、ろくな原稿ではないだらう」と言う。井伏は仕方なく知らぬ顔をする。尺八を吹き終ると、辻は「いまのは鈴慕の曲だ。おい俗物、もう一曲きかせてやろう」と言う。「もう結構だ」と言うと、歯の抜けた大口をあけ、げらげら笑って帰る。そのあと、隣りの上泉秀信(かみいずみひでのぶ)の家に寄り、無断であがった辻潤が、廊下にしゃがんで新聞を読んでいる上泉秀信の次女に「邪魔っけだ」と言って蹴とばす。脾腹を蹴られて、次女は息がつまり大騒ぎをする。

 7.31頃 「書物展望社」に行く。小野寺稔に会い、それから神楽坂を宿にする。

 この年の頃(年は不確か1937〜1941)の夏、K宅で3人で飲んでいたが、ビールが足りなくなり、16:00PM頃、上落合の火葬場の比較的近くの新宿ハウスに住んでいた神近市子のところに行く。階下で何か遊んでいた神近市子の長女が大声で「母さん! 変な人が入って来たよ! はやく来て!」と叫ぶ。玄関につながる階段を上がる音がして、白のパンツと肌襦袢をブラブラさせた辻潤が部屋の縁側に笑って現われる。近くの友達のところで飲んでいたが、ビールが足りないので貸りに来たと言う。神近は、半ダース程度のビールと、どこからか届いていた干物や罐詰のようなものも添えて、女中をつけて送り返す。そんなことはその後も二、三度あった。

 8.8 《小田原の山内直孝〔我乱洞〕方に寄寓後、》三重県の津の岩田川畔の夾竹桃荘に滞在。〔京都に行く。〕

 8月はじめ、京都を流寓、大徳寺聚光院に2、3日寄寓。

 9.1頃 津の今井俊三方に寄寓。〔津にいる時、ヘルマン=ヘッセの『荒野の狼』を三分の二ばかり読む。〕

 9.7頃 津を出る。

 9月 寄寓先の山内直孝〔我乱洞 or 画乱洞〕の手引きで、小田原のうなぎ屋「川治」で三好達治・坂口安吾らと会食する。〔山内の経営の「バラック工芸社」を辻潤は戯れに小田原の本陣、とよんでいた。〕

 9.14頃 《山内直孝が、金をこしらえていくから、一ぱいやろうと辻潤に約束していた。》東京の神楽坂あたりで、山内を待ちきれず辻潤は稲垣足穂と飲み始め、山内は金の算段がつかなくて行かなかった。ブタ箱行きとなったという。

 9.19頃 豊島区駒込3丁目362番地の五月堂の食客。

 10月 小田原の山内直孝〔我乱洞〕方に寄寓。二階の一部屋を占拠、直孝夫人に上げ膳、下げ膳をさせた上に、酒がついていないと文句をつけ、反対に「ろくでもなしの居候は居候らしくしとれ!」と、こっびどく叱りつけられる。

 10月から12月にかけて、淀橋の木村鉄工所内の西山勇太郎方にしばしば顔を見せる。 西山勇太郎に西山勇太郎・辻潤共訳で「オーベルマン」を出そうと言うが、話だけで実現しない。鉄工所の若い工員に英語を教えたりする。

 11月 横浜市鶴見の津田光造方に寄寓。

1941
昭和16
57
58

 4月 淀橋の木村鉄工所内の西山勇太郎方にしばらく寄寓。4月20、21日ころは杉並区辺りを転々する。

 晩春か初夏の頃、萩原朔太郎に会う。

 6月 東京のあちこちを転々とする。大田区馬込の添田知道・尾崎士郎・室生犀星ら方にもしばしばあらわれる。また木挽町5丁目の片柳忠男・戸田達雄・矢橋丈吉らのオリオン社や、その出版部をたずね、尺八を吹いて聴かせる代わりに昼飯をおごらせる。

 7月 大阪を転々する。

 8月7日から津市極楽町の今井俊三方に寄寓。

 11月 小田原の山内直孝〔我乱洞〕方に寄寓。

 12.5 《小田原の山内直孝〔我乱洞〕方を出る。》風の吹く寒い日。昼過ぎ、気仙沼=太田の菅野青顔方に、ヒゲぼうぼう、垢で汚れた手足にヒビをきらし、汚れきった十徳姿、十徳の下には古ぼけた袷に垢で黒くなった晒布の肌襦袢一枚きりという姿で訪れる。菅野ヤヘ子〔菅野青顔の妻〕が、向かいの洋品店から勤務先の図書館にいる菅野青顔に電話で知らせ、菅野青顔が急いで帰ると、辻潤は菅野青顔の父母を相手に焼芋を食べながら話をしていた。菅野青顔が「どこからお出になりました?」と訊くと、微笑して、「小田原の画乱洞を出て、ちょっと仙台まで来たのだが、そのついでに寄ったよ、一週間も厄介になったら北海道へ行こうと思う。」と答える。菅野は、此処でよかったら寒(かん)が明けるまで泊ってらっしゃい、と先生を落着かせることにする。
 菅野青顔の家は、菅野青顔の家族が祖父母・子供が6人・菅野青顔の姉妹の10人で、一階は6畳の茶の間に8畳の店〔板敷。菅野の妻がミシンを踏んだ〕、二階は8畳間。借家であった。夜は菅野ら妻子と雑魚寝同然の明け暮れを送る。二階の8畳間に、菅野青顔夫妻・子供3人と一緒に寝る。
 辻潤が来たことが、その日のうちに町内の菅野青顔の仲間に知れ、酒をさげてくる者、タバコを持ってくる者、酒の肴を運んでくる者等々、次々に菅野青顔の家に来て、一別以来の挨拶、賑かになる。千葉正治が辻の寒そうな恰好を見て、すぐ立って行ってメリヤスのシャツとズボンを求めて来て与える。「僕は洋服の時以外にはこんなものは着ないんだがネ」と辻は言うが、「ここは東京や小田原と違って寒いから」とすすめられて着る。
 菅野青顔の家には、ラジオがなかった。

〔酒の入手が困難で、気仙沼に2ヶ月滞在中は部屋に籠って読書に耽る。
 菅野青顔は、酒代・タバコ代に窮し、信用組合に松田庄助を訪ねる。松田は、酒肴とゴールデン=バット10個を出す。〕

 辻潤は、誰かが来て飲みに連れ出されるほかは、昼間は二階の部屋で朝から晩まで本を読む。昔、読んだ物だとて丘浅次郎〔博士〕の『進化と人生』なども読んで、いま読んでも中々面白い本だと語る。『選抄モンテーニュ随想録』〔『モンテーニュ 随想録』or『モンテーニュ随想録』とも。関根秀雄、訳。1940.3 白水社第四版〕を広野〔画伯〕宅にまで持って行って、繰返し読む。〕
 毎日のように、関根秀雄、訳『モンテーニュ随想録』全3巻・暁烏敏『歎異鈔講話』〔T.12.5 無我山房〕を読む。〔『モンテーニュ随想録』全3巻・『歎異鈔講話』だけを読む、とも〕
 本の表紙裏に筆で記す。
『モンテーニュ随想録』全三巻の表紙裏に
「古代より人間に関して持ってゐた総ての思想中で予が進んで採り且つ最も愛着を感ず…… 人間を最も軽蔑し賤しめ無視する思想であると予は概して感じている  陀仙」
「自分はなに物にも属せざる自己流の振舞に忠実に生きた Dassen」
「自分が無学であるといふ智識を細々と論(?)いた人間
      陀仙」
『歎異抄講話』の表紙裏に
「遊煩悩林現神通なむあみだぶつ  陀仙」


 菅野青顔の仲間が、代わる代わるに、米や酒を持って来る。菅野ヤヘ子〔菅野青顔の妻〕が辻潤の着物の繕いをし、誰かが辻潤に二重廻しを与える。辻潤は酒を飲んでも静かであった。(吉川順吉〔医師〕が着用し菅野青顔が吉川家から貰って着ていたインバネスを与えた、とも。)
 菅野仙夛〔:1935.11.2-。菅野青顔の次男〕は、近所の子供達に「ホイトじいさん」がいると、からかわれ、いじめられる。(ホイト or ホイド=乞食)
「空華帖」と(菅野青顔が)名付けた落書帳に、つれづれに落書きを残す。  幾晩か、家族の者が寝静まってから六畳の行火炬燵(あんかこたつ)に入り、地酒をチビリチビリなめながら辻潤に語らせ、菅野が筆録。酒のあるうちはポツリポツリと話が続くが、酒がなくなると、どんなに水をかけても何も出て来なくなる。

 約100点の半切色紙に書きなぐる 町立気仙沼図書館の看板を揮毫する。〕

 12.8 太平洋戦争、勃発。菅野青顔に「困ったことになったネ、青顔、真珠湾の奇襲ぐらいでこの戦争が勝てるなら、こんな都合のいいことはないんだが、これが大変なことなんだ、僕の観る目では日本は必ず負けるよ」と語る。自宅に戻った菅野青顔に話したか、菅野の勤務先の図書館に行って話したか、両方かの可能性がある。

〔辻潤は戦争反対を公言したかもしれないが、取るに足らない人物として警察などの追求を免れたらしい。〕

 12.30 《仙台の女学校に通っていた菅野節子〔菅野青顔の長女〕が、冬休みで家に戻って来るので》気仙沼の河原田の画家、広野重雄(ひろのしげお)方に移る。

1942
昭和17
58
59

 1月15日まで広野重雄方、16日から菅野青顔方、30日から2月3日までふたたび広野方に寄寓。

 2.4 《辻潤、18:33発で東京に帰ることになる。》気仙沼は晴、風があって寒い。15:00 菅野青顔は図書館を閉め、河原田の広野重雄の家に急ぐ。辻潤は炬燵にあたって居た。熊谷直之提供の杉板に最後の一筆、「枕書幽玄」。夕飯を食べ、駅に急ぐ。見送りは、菅野青顔・広野重雄・熊谷直之・千葉正治・小山正良・石森正家・菊池俊一・伊勢正已・村上新太郎の9人〔岩手、風邪で不参。三浦、出張中〕。千葉が、上野までの切符を求め、ほかに10円と冷酒2合を、菊池がタバコ3ケ、村上が1ケを与える。佐藤文雄からの5円、半切の売上げ5円、岩手の餞別若干、広野の妻の餞別若干と辻潤の懐中には20余円ある模様。身なり装いは、千葉正治が与えたメリヤスのシャツズボン下。菅野青顔の着物に腰あげをした綿入れ、東京から着て来た十徳。その上に、トンビ(インバネス)。など。
(気仙沼から一関へ。一関から夜行列車で東京へ。)

《辻潤は、菅野青顔に、新聞・雑誌の記事を貼ったスクラップ帳を置いて行く。》

 2.5 一まず横浜市御見北寺尾1509番地の津田光造方に寄寓。

 東京の新婚早々の風間光作方に泊り込んだりする。

 2.17 志賀直哉が、「シンガポール陥落」をラジオで放送。ラジオの前で、「あア志賀直哉まで、あんなことをいうようになったのか。何と怖ろしいことだ」と溜息を洩らす

 春 成城の山内善三郎邸を訪れ、覇気の一切を失った姿で芝生の上で虱(しらみ)をつぶす。

 4月 淀橋の西山勇太郎方に寄寓。また蒲田区南六郷1丁目28番地の玉生清方に寄寓。
 4.20前後〔推定〕 蒲田区南六郷1丁目28番地4の玉生方に寄寓。ふかし芋を買って上がりこんだ辻潤の前で、玉生耕太郎〔玉生謙太郎の長男〕が姉の摩耶子といっしょにふかし芋を手にとろうとすると、辻潤はかっという怒声と同時に、果物ナイフを投げつける。ナイフは大きくそれて、襖に突き刺さって大事にはいたらなかった。

 大田区新井宿2丁目1647番地の竹久不二彦〔竹久夢二次男〕方に孫の野生(ノブ)〔辻まこととイヴォンヌの間に生まれた娘、子のいない竹久不二彦夫婦が養女として育てていた〕に会いにきて泊り込む。〔この家には若松流二や、大杉栄・伊藤野枝の子の伊藤魔子・幸子・エマ姉妹が出入りした。〕ノブは「プープーのおじちゃん」といって親しんだ。

 7月、旅に出る。京都、大阪を経て、《斎藤昌三から紹介され》10月の初めから奈良県=添上郡=柳生村の橋本定芳〔住職〕の芳徳寺に滞在。 (芳徳寺から時々京都を訪れたかもしれない。)

1943
昭和18
59
60

 早春 京都に行く。

 5月 京都に行き、猟書家の折本剛一〔織本糸遊 or 絲遊〕を訪ねる。折本は、寺町のSという仏籍専門の本屋で待つように言う。折本は、Kという本屋でアブラハム=キャノビッチの『美への意志』という英書を買い、Sという本屋に行くと、辻がバナナ・葡萄で接待され、画帖に「書痴々々あっぱっぱ」と一筆、書いてあった。辻が「ナンゾ猟物があったかネ」と訊き、折本は『美への意志』を見せる。五六杯茶を招かれてのち、連れ立って、20:00PM過ぎに、金閣寺へ戻る。同室のTは既に寝ていて、折本もじきに眠ったが、その夜、辻は、その本を読みふけったらしい。翌朝。折本が目をさますと、「君、実にこれはスバラシイ本だよ。早速訳にかかるよ。実にスチルネル以来だよ。コンナに翻訳意欲にそそられたのは」と言い、朝飯もそこそこに当時滞在中の芳徳寺に帰る。

 6.25頃 A=キャノブィッチ『美への意志』の翻訳を完成。原稿紙400枚ほど、さらに辻潤の序文が35枚程。 『美への意志』の原稿は、400字詰原稿用紙で約330〜340枚。

 この頃 《橋本定芳〔芳徳寺住職〕は仏画を描いていたが、錬成が忙しくてやめていた。墨・硯・筆を借りて、絵を描くと、案外、面白くなり、》潮来案内の表紙を写した水郷の絵(など)を描く。(こうして、のちに、仙台で書画の展覧会を開くことを計画したらしい。)

 6.下旬頃、京都に行き、折本剛一を訪ねる。早速、東京へ『美への意志』の出版の交渉に行くと語る。慰労の為、その晩、城崎温泉へ行く。折本の馴染の宿から折本がK書店に電話して金を送って貰い、朝から地蔵湯、一の湯、まんだら湯と、段々に賞味し、柳屋と云う喫茶店へ日に2、3回入ったりする。久振りでノウノウとした気分を味わう。10日ばかり城崎温泉に滞在。福知山駅で折本と別れる。

 7.9 奈良県=柳生村=芳徳寺に戻る。

 7.10 東京に向う。

 7.15頃〜 7月15日頃から横浜市=鶴見区=北寺尾1509の津田光造方に寄寓。〔東京にいる間にパピニの「神の手記」の後半を訳すことにする。〕

〔《芳徳寺から戻り、》中野区沼袋221常磐寮に高橋新吉を訪ねる。〕

 8月 淀橋の西山勇太郎方に寄寓。また新宿旭町のドヤ街の冨田屋別館をしばらく宿にする。
 8月中に『美への意志』の出版の話を纏め、月末に芳徳寺に戻るつもりであったが、出版が決まらず、「神の手記」の訳を続ける。〔辻潤は、西山勇太郎の仕事場、木村鉄工場事務所から『美への意志』を出すべく、青年書房へ電話をかける。〕
 8.25 新宿旭町の「木賃(もくちん)ホテル」富田屋別館内。
 8.27 吉田音次郎〔吉祥寺の書店主〕を伴い、中西悟堂の家を訪れる。浴衣がけに海水帽、腰に尺八をはさむ。尺八を聞かせてもらおうかと言うと、ニヤニヤしながら洋室の長椅子に仰向けにひっくり返って、八ツ橋煎餅のかけらをかじる。戸隠山の木の根とかいうものを中西に示して、それを食えとすすめながら、ポリドールに身売りした佐藤惣之助のことを憤慨し、息子の秋生が吉祥寺の横河電気の寮にいると言って、帰る。

 9月 この頃しばしば松尾季子の縁つづきの目黒区自由ケ丘の石井漠方に出入りする。漠夫人にユダヤ人とジプシーに関する原稿や、伊藤野枝の形見の品などが入っているという、小さな柳行李をあずける。大森の矢橋丈吉方にも寄寓。

 吉祥寺や自由が丘で金子光晴と交際。毎週のように会う。辻まこととイヴォンヌが中国へたったあとの東京市=世田谷区=奥沢町2丁目の奥沢アパートに住む。 金子光晴は辻潤に小遣を黙って渡す。

 この頃、秋生が三鷹の工場に徴用になっていて辻潤と近くにいたがっているので、当分東京にいるつもりだが、東京に空襲がひどくなったら暁烏敏が住職をしている真宗寺院に行くという手紙を松尾季子に送る。〔暁烏敏の寺へは行かない。〕

 9.8 (おそらく大森に)夜、よれよれの浴衣の腰に尺八をはさんだ辻潤が現れる。

 9.29 昭森社に行き、芋焼酎を飲む。高見順が来て、高見もすすめられて飲む。

 10.初め 〔この頃、井の頭公園の弁天堂に寝泊まりする。朝、尺八を流して2円位。夜、二業地で流して3円位。およそ一日5円の収入。入っただけのんでしまう。〕金子光晴の家に行って玄関払いを食らい、恩地孝四郎〔画家〕の家に行って居留守を食らう。昼食時に中西悟堂の家を訪れる。ボロボロの紺のズボン・汚れたシャツ・手拭いでしばって肩で振り分けにした風呂敷包、それに尺八。中西悟堂が昼食をごちそうする。以前、辻が翻訳を載せた『極光』があるなら、辻の翻訳を筆写して小田原の山内直孝〔画乱堂〕のところに送ってくれと頼む。昼食・コーヒーのあと、庭の藤棚の下で「瀧落し」の一曲を吹く。中西悟堂が風呂敷の中を見せろといい、辻が見せると、伊藤野枝が辻に宛てた手紙とハガキの束・崔承喜〔朝鮮の踊り子〕からの書簡が数十通・崔承喜姉妹の写真・岩野泡鳴の書簡があった(おそらく売るために持ち歩いていた)。「これから金沢の暁烏敏のところにゆくつもりさ。あすこへ行ってゆっくりと腰を据えてね。翻訳生活を又始める。心配するな。東京と仙台で、俺の書と画の個展をやる。それで得た金で金沢へ行くんだが、どう思うね」と中西悟堂に語る。中西悟堂が庭と書斎で一枚ずつ辻の写真を、セルフタイマーで一緒の写真を撮る。辻は風呂敷の中からペナンあたりで撮したらしい5枚のネガを取り出し。その焼き付けも頼むと言う。『極光』の翻訳の写しと一緒に小田原の山内直孝〔画乱堂〕のところに送ると約束して別れる。

 10月 小田原の山内直孝〔我乱洞〕方に寄寓。 この頃から仙台で書画の個展・展覧会をし、金を得ることを計画する。

 10月18日頃から年末まで断続的に(10月のあと間を置いて12月に)、1:00、2:00AM頃に来て、稲垣足穂の3畳に泊る。毎晩古本の英書を2、3冊仕入れてきて畳の上につみ上げる。この部屋には夜具がなかった。明方、小鳥が鳴き出すと、辻潤は尺八を腰に差して出かけて万世橋辺りまで流して、得たところの金銭のうちから、2円なり3円なりを稲垣の飲代にやる。

 10.18 深更に新宿から辻潤が、稲垣足穂の家に泊まる。4:00AM頃、辻が表へ出て、「いい天気だよ。月のそばに火星があって、右にオリオンが出ている」と稲垣に言う。
〔それから千葉に行ったらしい。おそらく、若松流二の養家に行き、そこで若松流二の消息が不明で、若松流二の乗った「興津丸」が、遅くとも11月20日までに呉に入港ということを聞き、様子を見に行くことを決めたと思われる。10月26日に大森から山内直孝に葉書を出しているが、おそらく竹久家に泊まった。〕

 10.29 2:00AM頃、辻潤が稲垣足穂の家の硝子戸を開ける。毛布を被っていた稲垣は起こされて、「そうさ、他の手合はみんなコウルリッジにかぶれたのさ」とか「ミルキーウェイとは然し俗な言葉だね」とか話しこむ。

 11月 西山勇太郎方に寄寓。中旬ごろから奈良県の柳生の里の芳徳寺、広島を流寓。

 11.17 若松流二の安否を気遣い、京都から広島へ。〔若松流二の乗った「興津丸」が、遅くとも20日までに呉に入港のはずが、消息不明で、広島から呉の郵便局に問い合わせたが要領を得ない。〕

 11.18 松尾季子に呑み代を無心する。

 11.20 岡山より京都へ、住所は中京区=室町、成瀬無極のところ。

 12月 京都の大徳寺に流寓。

 12.13頃 千葉県大原町根方の若松流二方に姿をあらわす。よれよれの着物、縄の帯に尺八一管、下駄履き姿。

 12.15 東京向島〔のち墨田区〕請地(うけち)30に住んでいた風間光作の留守宅に辻潤が置手紙する。新宿の予定を浅草に変えたい、自分は集金して来る、西山勇太郎に電話して観音堂で待合わせることにしたい、などというもの。 〔浅草で宴会したいということだろうか。〕

 この頃、稲垣足穂に頼んで、佐藤春夫の関口台町の家を訪れる。佐藤春夫は留守で、関口台町の家の勝手口には、幽霊標札10箇以上が懸かっていた。留守居はかねて知っていた人だったので、少時、上がって話をして帰る。〔あとで佐藤春夫は、「何故辻やイナガキのような者を上げたか」と云って叱ったという。〕〔いつか、辻潤は「佐藤春夫は悪人ではあるまいか」と洩らす。〕「いつたいあの人物(佐藤春夫)は悪の原理にあつたのではないかね。それが材料を失つてしまつたのではないかね」と稲垣足穂に言う。

1944
昭和19
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 1.2 稲垣足穂を訪れるが、稲垣は戸を開けない。

 1月 宿に泊まる金はあるが、泊めてくれる宿を見つけるのに苦労し、しばしば野宿。1.18頃より浅草山谷の木賃宿に泊まる。宿泊人は「メクラとかビッコとか」「不具者」が多い。

 1.25 東京府下=北多摩郡=武蔵野町=吉祥寺=井ノ頭公園内=横河電気=寄宿舎=井ノ頭寮に泊まる。夜具がなく毛布1枚にくるまって寝る。ずっと鼻風邪。
 1.26 横河電気=寄宿舎=井ノ頭寮。もう何人の「文学」をも尊敬せず、自分だけの物を命の続く限り書くつもりでいる。生きている間に書物になるかはわからない。そのために長生きをしなければならないと思っている、と松尾季子に書き送る。

 1.30頃〜 淀橋区上落合1丁目308番地の静怡(せいたい)寮に住む。〔このアパートの管理を友人の小田原の桑原国治がやっていた。〕
 1.31 食わない日が多く、松尾季子に「「モチ」でもニクでもなんでも御送り下さい」と書き送る。
「独断と偏見」という文学論を書く。蒲団がなく、毎晩、毛布一枚被ってゴロ寝、夜中に四度位小便に起きる。
 2.4頃 鼻風邪が治るが、セキが出る。松尾季子に「なにしろ目下食いたいモノはシルコとニクだ。」と書き送る。

 この年のはじめ萩原朔太郎の手紙を西山勇太郎に3円で売りつける。「顔面に、むくみがあり、あの清純な聡明を思わす眼ににごりが現われていた。」

 この年のはじめ(1943年12月頃か)吉行淳之介が高等学校を休学して東京の市ケ谷の家にいた頃、寒い日の夕方、玄関で「あぐりさーんっ」という怒鳴り声がし、辻潤がスルスルッとコタツの中に入ってくる。吉行淳之介に「おめえ、家庭教師のことを英語で何というか知っとるか」と訊く。吉行は「チューターでしょう」と答え、「うん、おめえはなかなかよく知っておる」と言う。「この家(うち)で話がわかるのはおまえだけだ。一緒に散歩しよう」ということになる。辻の服装は、羽織には穴があいていて、帯に差した尺八がその穴から飛び出している。「おまえね、あそこを歩いているねえちゃんから十銭貰ってみせようか」と言う。それから、しばしば吉行の家へ現われてはメシを食って行ったり、吉行に小銭をよこせと要求する。
 そのうち、掛軸に表装できる大きさの細長い和紙に、毛筆で自作の詩を書いて来て、吉行淳之介に「これを買え」と言う。吉行は玄関で50銭を渡し、辻潤は帰ったが、しばらくして、「おーい」という叫び声がする。玄関へ行くと、「おまえね、いくら何でも吾輩の字が五十銭では安すぎるぞ」と言う。恐らく30銭ぐらいを追加して渡し、辻は帰る。。「和紙に枯れた見事な字で詩が書いてあった」「一つの行の最後の音と次の行の最初の音とが尻取りになっていて、末尾の音も冒頭の音につながってぐるぐる回るわけだ、と辻潤は自慢した。」。
 この詩は「かばねやみ」中にあるナンセンス詩〔しりとりうた〕の冒頭4行にほんの少し手を加えたもの。昔作ったものを思い出して書いたのだろう。

 みなとは暮れてルンペンの
 のぼせ上がったたくらみは
 藁でしばった乾しがれい
 犬に食わせて酒を呑み

 2月頃 佐藤春夫の悪口を書いて谷崎潤一郎に「文学論」をフッかける。〔返事は来ない。〕

 2月頃 高村光太郎にちょっと会う。

 2.10 14:00PM頃、松尾季子からの小包が届く。早速ひらいて今ニヌキ(?)を二つ食べ、管理人に海苔を半分やる。砂糖。毎晩、食い物の夢ばかり見る。毎日、本を売ったりして、友達の所ヘ出かけて少しずつ小遣い銭にありつく。この10日ばかりはやっと満足な食事。この頃、毎日ニンニクを5つ6つ食い、少し体が元気になる。

 2.12 物置小屋に使っている4畳半の部屋にいたが、根太が抜け、畳がボロボロで、修繕のため、アパートの持主が翌日大工をつれてかえってくるとかで、一週間程どこかに行ってくれと言われ、千葉県大原に行くことにする。旅費だけはこしらえたが、大原では米が足りず外食をしなくてはならず、帰る時、少しばかり食糧品を買いたいというので、松尾季子に、大原に着いたら、10円か20円送るよう依頼する。《松尾季子から砂糖を送られ、》夜、貰った紅茶をうんと甘くして続けざまに5、6杯飲む。

 2.15頃 千葉県大原町根方の若松方に寄寓。

 2.18頃 米がなくて若松方にいられず、下宿に住む。4畳の部屋、3食付で一日4円。松尾季子に20円を送るように頼む。 〔松尾季子は早速送ったが、宛名を水島流吉と書いたため、若松流二の家で受取人不明で返送となる。その後、千葉で風邪を引いてなかなか癒えず、まだ咳がとまらない、金は返送されたらしいが受け取ったかという便りを松尾季子に出す。 千葉で10円為替を受け取る。〕

 2.24 雨の中、東京に戻る。静怡寮に住む。松尾季子から葉書と小包が届いていて、管理人夫婦と3人で小包の餅を食べる。そのほかネーブル。

 この頃、斎藤昌三のところへ行き、東北の松巌寺へ行くから小遣いを喜捨してくれと言い、揮毫した半切や表装したものを仙台で展覧の予定だから一時貸してくれと頼む。斎藤昌三は、多少の汽車賃だけを渡す。

 2.28 松尾季子からの20日付の小包が届く。

 2.28頃 3月2日か3日頃に仙台で書と絵の個人展を開こうとしたが、時節柄と食糧事情のために実現しない。〔当分、静怡寮に落ち着くことにする。〕

 3.4 10:00AM頃お粥を食べ、たいてい15:00PM頃、外で何かを食う二食生活、いつでも空腹。 カビていてもいいから、餅を送るよう松尾季子に頼む。

 3.初旬頃 菅野青顔、食料不足のため、気仙沼に来たがる辻潤を「ボイコット」する。

 3.5 汁粉が食いたい、餅や干柿を送ってほしいと松尾季子に書き送る。

 3.14 《若松流二の乗った船がやられて沈む。》大森の竹久家で若松流二に会う。

 3.16 夕方、松尾季子から送られた小包が届く。〔自分で汁粉を作って食べ、21日までに食べ尽くす。〕

 3.18 《徴用に行っていた》辻秋生、赤羽の工兵部隊に入営。

 3.30頃 ボロボロの十徳を松尾季子に(修繕のため)送るよう、弟の義郎と若松流二に依頼する。

 早春の候、矢橋丈吉が経営を担当していた神田多町の大和書店へ『美への意志』の原書と訳稿を持って行って、一切まかすから出版出来たら出してくれといって置いて行く。

 3.31 仙台地方は吹雪で、その中を電車に乗り、14:00PM頃、宮城県=石巻=港新町の松巌寺に来る。 姉やさんの小山きよが、乞食のような姿の辻潤を出迎える。上ると、すぐ、腹が空いているから雑炊を作ってくれと言う。〔翌朝、寝床を片付けると虱が沢山こぼれていた。辻潤は日中どこへも出かけず部屋に籠もって書き物をする。〕

 〔6月まで松山巌王〔住職〕の松巌寺に滞在。ジェムス=ハネカアを訳したり、気仙沼の菅野青顔から借用したバイイングトンの英訳本によって『自我経』の誤訳訂正などをする。〕

 寺の物置小屋にくっついている3畳の部屋に起臥。煙草が高いので、もっぱらキザミをふかす。

 4.2 石巻=松巌寺。カカトのアカギレが深く治らない。御粥と雑炊を食べる。

 この頃、松巌寺にいて、ウムナーの『生の悲劇的感情』を読む。

 4.22 松巌寺にいて、4月10日付の松尾季子から送られた小包が届く。お菓子とトウモロコシのような粉(など)。

 4.27 松巌寺から菅野青顔に、来月の初めには多分桃生郡大川村の千照寺という寺に行く筈だ、と書き送る。

 4.28 松山巌王が永平寺出張の留守中、ある檀家から孫娘の法要を頼まれ、本来なら留守をあずかる中僧子の松山瑞巌が行うところを、「俺は居候だが格式は上だ、お前は木魚でも叩けと、住持のケサコロモを着用、法事万端を済まし、たんまり出された布施を毎日の般若湯にして楽しんだ。」卒塔婆表面に「修證義(死生不二)為篤潤禅童女(小祥忌)」、裏面に「発心覚了無一物」と書いた。

 この頃、満開の牡丹の上へドテラをかぶせて干し、小山きよと二度ばかり喧嘩をする。

 5.28 松巌寺から、松尾季子に今日、松巌寺を出る、落ちついたら知らせるという葉書を出し、それが松尾季子への最後の便りとなる。

 7月 帰京。静怡寮に住みつく。

 (あるいは2〜5月か)斎藤昌三のところへ「水島流吉の覚書」を連続寄稿するから『書物展望』の誌面に予定を作ってくれと、二、三回分を持参する。

 11.25 静怡寮で虱にまみれて死んでいるのが桑原夫人により発見される。1階6畳一間、窓際に小机、かたわらに20冊ばかりの本。高田馬場署の警察医は狭心症と診断したが餓死とも言われる。 戸籍抄本によれば、11.24 23:00PMに死亡。12.18に同居者の桑原国治が届け出ている。

 辻義郎・若松流二・桑原夫人で告別し、落合火葬場で火葬。
 染井の西福寺〔豊島区駒込6丁目11番4号〕に葬られる。法名「醇好栄潤信士」。

    


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