| | 年 | 年齢 | 記事 | 書誌 公表作品など 出版物 | 推定内容・問題点・資料 | 参考 |
1884 明治17 | 0 1 |
10.4 明け方〈菅野青顔「空々くろろん」、『ダダイスト辻潤』p.32〉、東京市浅草区向柳原町1丁目の祖父、辻四郎三の隠居所で生れる〈辻美津「実話蔵前夜話」・「れみにせんちや・あんふわんたん」〉。〔のち台東区浅草橋4丁目辺〈『ダダイスト辻潤』p.32〉。〕
〔1年遅れて入籍し、戸籍上の生年月日は1885年10月4日〈「辻潤戸籍抄本」・『辻潤全集』別巻の診断書の写真・松尾季子「思い出」(三)・菅野青顔「空々くろろん」・「宮崎滔天を憶う」〉〕
〔のち浅草区蔵前片町に移る。〈辻美津「実話蔵前夜話」・「全集年譜」〉〕
辻潤の父、六次郎は姓は茂木、養子婿。〈『ダダイスト辻潤』p.32〉 職業は不明。
母は美津で、みつ、光津ともいった〈「全集年譜」〉。〔以下、美津で統一する。〕
辻美津〔述〕の「実話蔵前夜話」によると、美津の実父は、会津藩の江戸詰め家老の田口重義というが、確証はなく、疑わしい。谷沢永一・浦西和彦、編「辻潤年譜」によると、美津は田口治人の長女。辻美津「実話蔵前夜話」によると、美津の母は幸と言い、四谷信濃町お留守居与力、加藤市左衛門の三女、幸が美津を連れ子として辻四郎三の後添いに入った、とある。辻四郎三は、もと札差であった。
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辻潤の生年月日
辻潤の生年月日は「辻潤戸籍抄本」に1885〔明治18〕年10月4日と記載がある。『辻潤全集』別巻に、辻潤がのちに精華高等小学校を辞職する際に使ったと思われる診断書の写真が掲載されているが、そこにも、同じ年月日が記されている。『新興文学』1923年1月号の「大正十二年最新文士録」でも同じ。
正しい生年が戸籍上の生年の一年前であることについては、
松尾季子「思い出」(三):
「光女の話では「潤は戸籍には一年遅れて入籍しましたので実際は一歳多いのです」とのことでした。」
(光女=美津)
菅野青顔「空々くろろん」:
「 従来の各種辞典やその他の紹介文でわ、先生の生年を明治十八年としてゐるのが普通だが、十八年と言うのわ、戸籍上の間違いで、僕わ明治十七年甲申の生れだよ!」と本人がハッキリ私に語つているから、それに相違ないと信じている。即ち、先生わ明治十七年(一八八四年)甲申十月四日の明け方に、東京市浅草区向柳原町の祖父辻四郎三の隠居宅で、父六次郎、母みち(?)、の長男として生れたのである。間もなく同区蔵前の本宅に移され、荒い風にもあてられず後生大事に育てられた。」
(この頃の菅野青顔の信念としては、かな書きは、ローマ字綴りをかな書きにしたものであるべきだとし、助詞の「は」→「わ」、「へ」→「え」などと変えている。最晩年にこの表記は放棄されている。よくは知らないが、菅野青顔の個人の考えというだけでなく、戦後、一部には、このような考えがあったものらしい。)
辻潤の書いたものに、次のようにある。
「宮崎滔天を憶う」:
「 私は子供の時分『西遊記』を読んで「孫悟空」という猿に夢中になって、どうかして悟空のような猿になれないものかしらと、そればかり考えていた時があった。
「この子は変な子だよ、キット申歳だからそれでお猿が好きなのかも知れない」とおふくろは戯談にそういったそうだが、私は別段猿が好きなわけではなく、「孫悟空」が好きなのだった。」
1884年は申(さる)年である。
正しい誕生年が戸籍などの日付の前年の1884年というのは、事実のようである。辻美津の話などからすると、通常は、その一年後の、戸籍に記載された日付1885年10月4日を誕生日として使っていたらしい。ただし、普段の生活で辻潤の年齢(当時は数え年齢)を言う時には、実際の誕生年を基準にした筈で、公的には入籍日を使い、私的には正しい年を基準に年齢を数えるという使い分けがあったものと思われる。
しかし、生まれたのが戸籍の日付の前年だとしても、丁度1年前なのかという疑問がある。「全集年譜」や各書がどんな判断をしているのか分からないが、おそらく判断する手掛りに乏しく、戸籍年月日の年だけ一年前にしているのではないか。
小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」によると、小南の「御幾つですか」の問いに、辻潤は「明治十四(ママ)年五月十九日生れです。それで五十八年ですかね。」と答えている。「明治十四年」と年が間違っているし、この問答が行なわれたのは、1937年で、辻は数え54歳であった。この月日がどこまで信頼できるのかは、かなりあやしい。生年月日をごまかす必要があったとも思えないが、デタラメを言ったのだろうか。そのあと出て来る年齢には、それほどひどい間違いはない。
「れみにせんちや・あんふわんたん」では、辻潤自身が10月4日生まれと書き、生まれた翌年のおそらく秋に蔵前片町に越したから一年程しか向柳原町にいなかったとあるので、これは正しい生年月日の筈である。
『炎の女』p.69には、辻潤は、1884〔明治17〕年2月、浅草馬道で生まれたとある。可能性が全くないのではないが、これは採らない。
古い文士録のようなものに、そういう記載があったのかと思ったのだが、文士録から採ったとみられる菅野青顔・西山勇太郎などが戦前に書いたものにも、そういう記載は見られない(当時の文士録などでは1885年生まれ)。
『炎の女』には、ほかの辻潤年譜や辻潤などが書いていることと食い違うことが多々あり、その根拠も示されていないので、辻潤に関しては、特に必要のない限り採用しない。他の本で『炎の女』から採ったと思われるものも同様。
医学館
辻四郎三の隠居所は、もと「医学館」といったというが、多くの藩が「医学館」を持っていたようである。藩内にあったほかに、江戸などにも設置されていた。江戸屋敷があったし、進んだ知識を得るためでもあったろう。
謎の祖父、田口重義
辻美津「実話蔵前夜話」によると、田口重義は会津藩の江戸家老でお留守居役兼勘定奉行。美津の母は幸と言い、四谷信濃町お留守居与力、加藤市左衛門の三女で、18歳の時田口家へ後妻として入った。1870〔明治3〕年11月、田口重義が亡くなり、幸の姉の嫁いで居た2,000石の旗下、深尾の縁故で、辻家の四郎三の嫁として美津諸共入った、とある。
「実話蔵前夜話」以外に、美津の父親が会津藩の江戸詰め家老、田口重義であったという証拠はなく、辻美津の話には多くの間違いや不確かな点が見られ、そのまま信じることはできないものである。このことについては、別に書いた(「辻潤祖父、田口重義とは誰か?」・「実話蔵前夜話」注)のでそれを見ていただきたい。
谷沢永一・浦西和彦、編「辻潤年譜」では、美津は田口治人の長女となっている。戸籍謄本を調べたのだろうか。
「全集年譜」には、辻潤が生まれてから、「まもなく浅草区蔵前片町に移る。また向柳原の祖父の隠居所に移り住む。」とあり、『ダダイスト辻潤』p.32では、辻美津は出産のため隠居所にいたので、辻潤が生まれて間もなく蔵前に移ったとなっている。「実話蔵前夜話」には、「私達一家は、一且お藏前から、養父の隠居所になつてをりました、向柳原一丁目の家に居りましたこともございます。」とあり、出産のためばかりでなく、しばらく一家で暮らしたのだが、隣地の柳北女学校の拡張のために立ち退いて、蔵前に移ったようでもある。移転時期は不明。
父、六次郎
谷沢永一・浦西和彦、編「辻潤年譜」によると、六次郎は茂木豊右衛門の四男。1853〔嘉永6〕年8月13日の生まれで、市の下級官吏とある。
戸籍謄本に生年月日があったのだろうか。戸籍にそういう記述があったとして、その月日は西暦による日付なのだろうか。いちいち西暦に換算するのは面倒だろうから旧暦の日付なのだろうか(西暦が採用となり、明治5年12月3日が明治6(1873)年1月1日になっている)。戸籍が、いつから、どのように整備されたのかなどは調べていない。これによれば、辻潤誕生時、六次郎は数32歳。
菅野青顔・辻淳「辻潤略伝」以来、「全集年譜」を含めて、辻潤の年譜・略歴には、辻潤が生まれた時、辻六次郎が東京市の官吏だと書いているものが多い。六次郎はのちに東京市の官吏になっているが、この時もそうだったとは限らない。当時、数32歳だと、何か職業を持っていただろうが、それを明示しているものは何もない。六次郎の職歴で明らかな最初のものとしては、津に行く前に、逓信省に勤めていたというのがある〈小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」〉。津では三重県の官吏になっているが、三重県知事の縁故によるもので、辻潤によれば、そう大した仕事ではなく、特別なキャリアが要るようなものではなかった。
「 自分のおやじは明治初年における一法律書生だった。」〈「あまちゃ放言」〉とある。小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」では、「それまで親爺は札差だつたが字がうまかつたので逓信省へ務め」ていた、とある。明治維新後、札差は成り立たなかった筈で、あるいは、金貸しでもしていたのだろうか。辻潤が生まれた頃の六次郎の職業は不明である。
『ダダイスト辻潤』p.32には、六次郎は姓は茂木、埼玉の豪農に生まれ、維新前は幕臣だったらしい、とある。幕臣のことは、『炎の女』から採ったのだろう。
『炎の女』pp.69-70:
「 辻潤は明治十七年二月、東京下町の浅草馬道でうまれた。父の六次郎はもと幕臣だつたが維新後は一法律書生となり、星亨が東京市長だつた時代に市の教育課につとめていた。」
幕臣などの根拠は不明。「もと幕臣だつたが維新後は一法律書生」になったというが、谷沢永一・浦西和彦、編「辻潤年譜」によれば、年号が明治になった時、六次郎は満15歳で、子供といってよい年でしかない。
『ダダイスト辻潤』は、埼玉の豪農に生まれ、維新前は幕臣らしい、というが、幕臣というなら、まず武士であり、豪農とは結びつきにくい。六次郎の家が幕臣だったことも埼玉の豪農であったことも、何か根拠がなければ受け入れることはできない。辻潤などの書いたものには、父方の親戚が出て来るが、埼玉という地名は出て来ない。
「六次郎」という名前、また辻家の養子婿となっていることから、六次郎は長男ではなかったろう。次男 or 六男だったろうかと思われるが、「六次郎」だから次男というような推測は例外も多いようで、四男もありそうである(六人中二人が夭死かもしれない)。
『ダダイスト辻潤』p.68の註に、「伊藤野枝の従姉妹によると、辻潤の父親は六次郎ではなく、歌舞伎役者の市川団十郎であるとのこと。」とある。これは、市川団十郎の妻が蔵前札差の娘であったことから、美津と混同して生じた臆説であろう。「歌舞伎年表」によると、市川団十郎が蔵前札差の娘と結婚したのは、1869年 or 1870年で、その時、美津はまだ幼児でしかない。
「歌舞伎年表」1895年:
「〇十二月廿四日、団十郎の銀婚式。市川団十郎は、明治二年守田座にて「児雷也」の狂言を興行中、山谷八百善の媒介にて、今の妻君(蔵前札差の娘)と華燭の典を挙げしより、丁度今年が二十五年目に当るので、廿四日を以て銀婚式を行ひ、門弟を会して酒飯を饗し、贔屓先へは赤飯を配りたり。」
母、辻美津
谷沢永一・浦西和彦、編「辻潤年譜」によると、辻美津は、1864〔元治1〕年7月12日の生まれ。戸籍謄本を調べたのだろうかと思うが、根拠は不明。
松尾季子「思い出」(三)に「成人して光女は誰かの妾であったそうでございますが、後に茂木六次郎氏を養子婿に迎えて結婚したことになっております。」とある。
誰かの妾であったことは根拠に乏しい。採らない。
辻美津については、そののち、小島清が辻潤に会った頃、息子の辻潤よりも若い情人を持っていた〈小島きよ『アカタレプシイ』第2号 S.37〉とある。
札差
辻美津の「実話蔵前夜話」に、1891〔明治24〕に藏前にあった伊勢屋の馬鹿蔵を日下に譲った、とあり、辻四郎三は「伊勢屋」を屋号にしていたと思われる。
札差(ふださし)は旗本・御家人の禄米を委託販売するのだから、明治になってからまもなく辻四郎三は札差をやめた訳である。それから何かの商売をしたかもしれない。少なくとも、蔵前の家の近所に家作の長屋があった〈「メカマをちどる」〉から、家賃収入はあった訳である。
養祖父、辻四郎三
辻潤は、辻四郎三が養祖父であることは知っていた。
「幻燈屋のふみちゃん」:
「「おいらあ今夜は異人の御馳走だ」とよく代地にあった万里軒に出かけた祖父インロオの顔が眼の前に浮んで来る」
「インロオ」は「in law」だろう。
「もっと光を!」:
「 自分の極めて短小な年月の間において幾度か燈火の変遷を見た。母は未だに時々私に向かって「松山行燈」なるものを推薦するのである。それは日本橋の横山町の某店において売っているというのであるが私は行ってまだ買う気は起こらないのである。書物をねながら読むには「松山あんどん」に限るというのである。母の義理の父(即ち僕の祖父)はひどく読書を好んだ。母は彼女の幼年時代からしばしば父の「松山あんどん」によって深夜まで読書している姿を見たのである。恐らく現代の電気スタンドに相当するものであろう。」
「自分はどのくらい宗教的か?」:
「祖父(これは自分とは血縁のない人だった)は茶人でもあり、俳人でもあったから、私が子供の癖に茶が好きなのをひどく興味を持って、「この子は茶人だ」とか「風流人」だとかいってほめそやしたらしい。」
「少年時代の読書」にも「義祖父」と書いている。「祖父が死ぬとまもなく家が没落して、私達はその蔵のある家を立ち退かなければならなくなった」とある。辻四郎三が死んだのは、辻美津が蔵や家を日下義雄に譲ったと述べている1891年の少し前、1890年頃と思われる。
辻潤の親戚
辻潤の親戚については、蔵前にいた時、十銭婆あという婆さんがいて、四谷から歩いて来て、来るたび小遣い十銭をくれたという。この人は大岡雲法という画描きの姪で、おふくろのオヤジの兄キ位にあたるその画描きは四ツ谷の天王様の合天井へ六歌仙をベタベタと描いたことで有名だとある。1906年頃までは存命。墓が日暮里の修性院(しょうしょういん)〔花見寺(はなみでら)〕にあるらしい。〈「幻燈屋のふみちゃん」・「●今日の花見案内」「●躑躅」『読売新聞』1895.4.28 3面〉 辻潤の叔母or伯母ということになる。「四ツ谷の天王様のお祭りへ呼ばれて人力で寺町にいるおばあさんのところへとまりがけで出かけるのは、まるで遠足以上の気持ちがしたものだ。」〈「あさくさ・ふらぐまんたる」〉とあり、寺町に住んでいたらしい。
母方の曾祖母に連れられて浅草の新堀端付近にあった自性院や西福寺に行って、曾祖母から色々な話をきく。〈「自分はどのくらい宗教的か?」・「あやかしのことども」〉
祖母については、辻潤の書いたものには、「のんしゃらんす」に、「未だ存命の頃、「世が世なら――」という繰り言をきかせてくれた」とあるし、「流吉の日記から」に「ミヨリということはどんなものだか俺は知らないが、死んだ俺のお祖母さんがよく口癖にいったから、その「存在」だけは間違いあるまい。」とある。
「れみにせんちや・あんふわんたん」では、祖母は辻潤の生前に死亡となっている。松尾季子「思い出(六)」に、美津の話の中に「潤を子供の頃可愛がっておられたお祖母さん(多分光女のお母さんのことらしいのです)」とあるので、辻潤が小さい頃、美津の母、辻潤の祖母は亡くなったようである。辻潤に記憶の混乱があるのだろうか。辻潤の書いたものでは、曾祖母の存在が確かで、その曾祖母が辻潤を可愛がっていたのは事実のようであるから、美津のいう「お祖母さん」は、美津の祖母、辻潤の曾祖母であり、松尾季子が、祖母と曾祖母と取り違えているように思われる。
本郷の叔母・叔父。〈「幻燈屋のふみちゃん」〉
津から東京に戻って神田佐久間町の叔父〔父、六次郎の弟、かつて質屋〕の借家を借りている。この叔父のことは次のようにある。「いやしくも子供が楽器などをいじくることは不倶戴天の一大罪悪であるかの如く心得ていた。そのくせ自分だけは時々あまりうまくもない謡を唄って得意になっていた――つまり彼の理屈によると謡は胸襟をひらいて衛生のためになると号していたが、まったく彼は腹ごなしのためにやっていたに相違ない。しかしどういう了簡だか娘だけには琴を習うことを許していた。」 ほかに従兄弟が出てくる。〈「エイ・シャク・バイ」〉
父方の親戚と思われる者について、「小島清日記」の1923.12.18のところに次のようにある。
「 東京歌劇団の黒川澄子の亭主で潤の従弟にあたる茂木君も貝原旅館に訪(ママ)ふ 五六才頃逢ったきりで茂木君は潤を記臆(ママ)にない。寂し相な顔をした人可成り頭もいいらしい。ずいぶん苦しんできたとの事だ。生きる事の苦しさを潤と話していた。ニヒリスティックな色彩をかなり帯びた思想を持ってゐた」
松尾季子「思い出」(四):
「 吉祥寺の郊外にある辻さんの親類の奥様は、「辻さんの家は先祖祭りをしないからあんなに貧乏したり狂人になったりするんですよ。こちらのお祖父様が亡くなられた通夜の晩に潤さんたら女中にふざけて騒いだりしてね。全く仕様のない人ですわ」と聞いたこともございます。そのお祖父様といわれる方は辻さんの伯父さんになる方で、岩崎家の家令をしておられた方のように思います。」
小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」によると、父方の伯父が岩崎家の家令をしていて、中々面倒を見てもらったが、吝嗇家だとある。
潤平
井手文子の『自由それは私自身』によると、辻潤の本名は「辻潤平」なのだという。p.51によると、辻潤が上野高女を辞職する時、校内掲示板に「依願解職す 辻潤平」と貼り出されたという(矢野文子「最初の転身まで」では、1912.4 上野女学校玄関の告知板に「依願解職辻潤」と貼られたという)。p.52以下に、風間光作「辻潤の生涯」によるとして、辻潤に関しての説明が続くから、風間光作「辻潤の生涯」に拠ったということだろう。
小島清は「助平」と「潤」から「潤平」と呼んだことがあるが〈玉生清「辻潤の思い出」・「小島清日記」1938.7.5『辻潤への愛』p.203・小島清の戦後の日記『辻潤への愛』p.214〉、ほかの本には、「潤平」という名前はない。「辻潤戸籍抄本」・『辻潤全集』別巻の口絵写真の国民英学会の卒業証書の写や辞令でも「潤」であり「潤平」ではない。
城山三郎の「落日燃ゆ」によると、広田弘毅〔1878.2.14-1948.12.23〕は、中学卒業と同時に、名前を「丈太郎」から「弘毅」に改めているが、改名できるのは僧籍に入る場合に限られていたので、一時僧籍に入ってから改名したのだという。金子光晴の場合も、やはり僧籍に入って「光晴」に改名している〈中西悟堂「悪友金子光晴と私」〉。辻潤の場合はといえば、辻潤が僧籍に入ったとはどこにもない。
風間光作「辻潤の生涯」は見ていないが、私には、井手文子が、また、いい加減なことを書いたとしか思えない。採らない。
風間光作「辻潤の生涯」に拠ったという辻潤の説明には、ほかにはない色々不思議なことが書いてある。辻は、中学時代、姉小路純と親しくなり、外交官となった姉小路の世話で上野高女の教師になった、などなどである。
いちいち、それらを検討する価値があるのかどうかすら分からない。以下、特に必要と思われる場合を除いて、井手文子の『自由それは私自身』は無視することにする。
風間光作に『辻潤の生涯』という著作があるかは不明。国会図書館の検索では出てこない。あるいは文章名か。
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1年後に入籍というのは事実だろう。こうしたことは、明治生まれの「文人」の年譜などにしばしば見られ、時には論争のタネになっている。永井荷風「断腸亭日乗」1940.12.1に藤蔭静枝という人について次のようにある――「静枝は本名を内田八重といふ。戸籍簿には仮名にてヤイとなせり。新潟の妓界に生れ育ちたるなり。明治十三年の生と戸籍面に識るされたれど実はその前年の生なりと云ふ。」
こうしたことがどれだけあったか、そういうことを述べた本を読んだことはなく、知る由もないが、2年も3年も遅れて入籍という話も、また聞かない。
おそらく、戸籍に対する意識が低いとか、役所の不備などという理由でそうなった訳ではないと思われる。辻潤は、その生涯を通じて「公的文書」では戸籍上の生年月日を用いており、公的なものに対する意識は高いのである。辻潤が生まれてから、徐々に「公的意識」が高まったということもあるかもしれないが、むしろ、1年後に入籍というのは、当時の慣習に近いものだったと思われる。乳児死亡率が高いために、1年程度待ってから、生きている子供を入籍したのであろう。役所は、おそらく正しい日付で届けるよう奨励した筈である。(ついでに言うと、江戸時代などで、子供が幼い時「幼名」という特別な名前を付けられたのも、(愛称などということのほか)幼児死亡率と関係があるだろう。いつ死ぬか分からない子供にはチャチな名前で済ましたのである(ただし、この理由は意識されてはいなかっただろう)。
戸籍上の生年月日について、「吉行淳之介年譜」に次のようにある。
「吉行淳之介年譜」:
「▼大正十三年[一九二四]
四月十三日(戸籍上は四月一日)、岡山市桶屋町四十三番地にて、吉行栄助(明39・5・10生)、安久利(明40・7・10生)の長男として出生。父・栄助は新興芸術派の作家・吉行エイスケ、母・安久利は美容家の吉行あぐり。他に、妹・和子(昭10・8・9生、新劇俳優)、妹・理恵子(昭14・7・8生、詩人・作家の吉行理恵)がいる。大正十五年、二歳の時、父母と共に東京市に移住。幼時、部屋で一人遊びをする子だった。昭和五年、番町小学校に入学。昭和十一年、同校を卒業、麻布中学校に入学。」
「吉行淳之介年譜」によれば、実際の誕生日よりも早く出生が届けられることもあったことになる。事情がよく分からない。4月1日にしたかったのか。4月1日だと、所謂早生まれになって、小学校に一年早く入れるというから(法律上は誕生日の前日に年を取るからだとTVで言っていた)、そういう訳だったのだろうか(吉行淳之介は満6歳で小学校に入学していて、1年早まっていないが)。どれだけ、こういうことがあったものだろうか。ただ、昔は出生年月日は届出次第でどうにでもなったものらしい(今でもそうなのかもしれないが)。
寺町(てらまち):1872〜1943の町名。1911年までは四谷を冠称。1943年、鮫河橋2丁目と合併し若葉2丁目。〈「寺町」『角川地名大辞典 13 東京』〉
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1885 明治18 | 1 2 |
秋頃 浅草区蔵前片町の家に移る。〈「実話蔵前夜話」・「れみにせんちや・あんふわんたん」〉
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浅草区蔵前片町の家に移る
「れみにせんちや・あんふわんたん」に、この年の多分、秋頃に移った、とある。ほかに具体的に移った時期を記したものを知らないので、これを採用する。
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1887 明治20 | 3 4 |
父母に手を引かれて浅草の仲見世や観音様などをよく歩く。〈「全集年譜」〉
この頃、よく熱を出し、ヒキツケを起こし、荒野にただ一人でいて、化物が、周囲から押し寄せて来たり、地獄へ落ちたりという幻覚を見る。〈「全集年譜」・樋口十六「狂へるダダイストの精神鑑定」〉
この頃から、母の美津に連れられて毎月欠かさず芝居を見て歩く。〈「昔見た芝居」〉
この頃から、辻家の蔵前の借家に住んでいた幻燈屋の娘で辻潤とおない年の池田ふみと毎日雨が降っても風が吹いても遊ぶ。〈「幻燈屋のふみちゃん」〉
この年の頃、浅草の観音様にお参りに行った時、易者が頼みもしないのに天眼鏡で覗いて、「このお子さんは僧侶になされば必ず出世なさいます」と告げる。〈「自分はどのくらい宗教的か?」・「あさくさ・ふらぐまんたる」〉
この年の頃、父の六次郎が辻潤を背負って夕方ねかしつけるために子守唄を唄いながらよく近所を歩く。〈「自分と「音」の世界」1〉
この年の頃、腸チフスに罹病。〈「あやかしのことども」・小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」〉
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熱と幻覚
熱を出し、ヒキツケを起こし、化物が出たり地獄へ落ちる幻覚を見たというが、おそらく、地獄のことは、のちに自性院のご開帳のおりに見たという「地獄極楽」の掛軸などの影響が大きく、のちのことが混じっている可能性がある。しかし、地獄というはっきりしたものでなく地獄へ落ちるような幻覚として、ここに入れておく。
易者
易者に僧侶になれば出世すると言われたことは「自分はどのくらい宗教的か?」に、4、5歳、「あさくさ・ふらぐまんたる」には3、4歳の頃、とある。この年に入れておく。
幼少時の辻潤
「自分と「音」の世界」1:
「 幼年の自分はひどく病身で気むずかし屋だった。「音」と「味」とに対して特別に敏感だった。だから食物の好き嫌いがはげしかった。騒々しい音がきらいだった。サカリ場に行くことがきらいだった。
おやじが私を背負って夕方私をねかしつけるためによく近所を歩いた。夕方おやじの背中で、おやじの唄う子守唄をきいていながら私はいつでもシクシク泣いていた。今でも「子守唄」をきくと時々幼年を回想して物悲しい気持ちになる。「坊やはいい子だ、ねんねしな……」というメロディはなかなか情趣があって、いつ頃からわが国でうたわれているのだか知らないが、いかにもわれわれのサンチマンを強く動かすメロディだと、今でも自分は考えている。しかし自分のようなナーヴァスな子供に、あんなメロディをおかまいなしに聞かせて、子供を一層ナーヴァスにセンチメンタルにした罪はまったくおやじにあると考えている。」
年は不明、ここに入れてみた。
「メカマをちどる」:
「みそをつけたおでんを僕は少年のころ大いに愛好したものである。僕はオヤツの御菓子の代りに、よく味噌のおでん(これはコンニヤクと里芋に限られていた)を買って食べた。そうしておふくろから―甚だ僕のプロレタ趣味をケイベツされたものだ。」
「 僕は自慢じゃないが、ブルジョアの伜のくせに子供の時分からいい着物を着ることがきらいでいい着物をきせられるとおもてへ遊びにゆくのがイヤで――特に近所の僕のカサクの長屋のコドモ達に対して、甚だ面目次第もないような気がして、いつでも強情を張っては家人をてこずらせたものだ。」
「もっと光を!」:
「 自分は幼時蔵の下座敷へ寝ていたが、夜はいつでも行燈がついていた。」
「れざんどらん――序にかえる――」〔『孑孑以前』序〕:
「 春の夕暮れのうすら寒い風はいやなものだ。私は少年の時分からこの春の夕方がきらいだった。」
「無想庵に与う」:
「僕は風がきらいなのですよ。」
「あやかしのことども」:
「 こどもの時分から、私はひどく臆病でうすぼんやりしていた。ひどく内気でかつ強情っぱりであった。かつ病身で泣き虫だった。」
「自分はどのくらい宗教的か?」:
「 私は子供の時から静かなところが好きだった。だからお寺や別してお墓が好きであった。「性『蘭若』を愛す」とでもいえば如何にも坊主臭いが、この性癖はたしかに先天的であった。それから線香のにおいも子供の時分から好きだった。」
「癡人の手帖より」:
「幼年の自分はいつでも好んであさぎ色の半襟を襦袢にかけていた。」
芝居の最初の記憶
「昔見た芝居」:
「 私の芝居の最初の記憶は四歳位から始まる。」
「 私は少年の頃、母につれられて殆ど毎月欠かさずに芝居を見て歩いた。」
「あやかしのことども」:
「芝居見物をすることはきらいではなかった。もッとも婆さんと子役が現われると、私はいつでも廊下へ逃げ出した。」
涙が誘われるからということらしい。
池田ふみ
「幻燈屋のふみちゃん」には、4、5歳位の時から池田ふみと遊んだ、とある。
腸チフス
「あやかしのことども」:
「四歳の時腸チブスをわずらって死にそこなった。」
参考として、
1890 腸チフス患者34,736人、死者8,464人。〈『明治・大正家庭史年表』p.200〉
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1888 明治21 | 4 5 |
この頃、江戸時代の草双紙や黄表紙の類が沢山家にあり、それらの双紙を繰り返し見て、空想の世界を楽しむとともに、悪夢に襲われる。『釈迦八相記』・『白縫物語』・『児来也豪傑物語』・『薄俤幻日記』・『時代鏡』・『田舎源氏』、など。〈「少年時代の読書」・「あやかしのことども」〉
この年の頃 脇腹に腫物のようなものができる。〔それから、ひきつづいて頭に腫物が出来て、頭は始終カビだらけで悪血が掻く度にとめどなく流れ、そのために貧血症になって少し熱でも出るとすぐひきつける。〕〈「あやかしのことども」・小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」〉
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お手伝い
「全集年譜」:
「このころまでは四、五人のお手伝いさんにかしずかれて育ったが、贅沢なくらし向きのために、祖父の蓄財も底をついてきた。」
のちに三重県=津に行った時、辻潤の家には女中がいた。蔵前の家でもそうだったろうと思われる。だが、この頃の家族で確認できるのは、祖父と両親と辻潤の4人であり、それなら人間一人に、およそ一人のお手伝いがいたことになる。蔵もあり比較的大きな家だったろうとは思われるが、お手伝いを4、5人も雇うという必要性は考えにくい。「自分と「音」の世界」1に、幼時、父、六次郎が辻潤を寝かしつけるために背負って、夕方よく近所を歩いたという記憶が記されていて、辻潤のお守りのためにお手伝いがいたとも言いきれない。かつての札差の生活とは、お手伝いが4、5人もいるようなものだったのだろうか。辻美津「実話蔵前夜話」では、なかなか豪奢な暮らしだったことが分かるが、そのような記述はない。保留。
この記述は、『ニヒリスト 辻潤の思想と生涯』の「辻潤年譜」に現われている。
草双紙や黄表紙
草双紙や黄表紙の類を見た時期は不明確。最も早い読書体験。
「あやかしのことども」:
「自分の少年時代の楽しみは草双紙や、絵草紙を見てひとり空想の世界に彷徨することであった。私は現実の世界に対して殆どなんの興味をも感じなかったらしい。私はさまざまな悪夢に襲われた。」
腫物
「あやかしのことども」:
「五歳の時、脇腹に腫物だかができてその時の痕がいまだに残っている。それからひきつづいて頭に腫物が出来て、頭は始終カビだらけで悪血が掻く度にとめどなく流れ出した。そのために貧血症になって少し熱でも出るとすぐひきつけた。」
性癖など
「癡人の手帖――その二」:
「 考えているとめんどくさくなってくる。これは僕の少年時代からの根本的性癖なのだ。」
「あやかしのことども」:
「私はまたお神楽がすきだッた。わけてもひょッとこの踊りがすきだった。」
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1889 明治22 | 5 6 |
浅草区向柳原の柳北女学校付属の柳北幼稚園に入る。〈「全集年譜」・「れみにせんちや・あんふわんたん」〉
母方の曾祖母に連れられて浅草の新堀端付近にあった自性院や西福寺に行って、曾祖母から色々な話をきく。自性院のご開帳のおりに、「地獄極楽」の掛軸を見て、その後ずっと地獄極楽、殊に地獄にひどく興味を持つ。〈「自分はどのくらい宗教的か?」・「あやかしのことども」・「全集年譜」〉
この頃、緑茶が好きで、いわゆる玉露のたぐいを喜んで飲む。少なからず茶毒にあてられていたためか、顔色が青いばかりでなく沈んだ土気色をさえ呈したらしい。〈「自分はどのくらい宗教的か?」〉
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柳北幼稚園
「永井荷風年譜」によると、1884年、永井荷風は、本郷区湯島3丁目の東京女子師範学校附屬幼稚園に通い始めたが、「通園始めの時日は不明、幼稚園の保育年度に合わせると九月ヵ(『東京女子高等師範學校六十年史』によれば、女子師範の学年始めに合わせ九月一一日より翌年九月一〇日までを一保育年と定めていた)。」とあり、柳北女学校の学年始めがいつだったかは分からないが、柳北幼稚園も同様だったかもしれない。
1886.10 高等師範学校、学年を4月1日より翌年3月31日までとする〔4月学年制の初め〕。〈『創立六十年』東京文理科大学・東京高等師範学校〉〈『近代日本総合年表』〉
柳北幼稚園に通園した年は、「全集年譜」では、前1888年。柳北幼稚園に通園したことは、「辻潤年譜」『ニヒリスト 辻潤の思想と生涯』から記されている。1889年とあるが、この年譜は、辻潤の生年を1885年としている。『辻潤著作集』別巻の「年譜」では、生年は1884年と改まり、柳北幼稚園に入った年は、そのまま1889年。「全集年譜」で前年に改められた根拠は不明。「れみにせんちや・あんふわんたん」には、6歳で幼稚園に入ったとある。これは数え年であろう。これによると、この年である。
「無想庵に与う」:
「 蝶々蝶々菜の葉にとまれ、菜の葉が倦いたら桜にとまれ……幼稚園で昔覚えた唱歌です。」
自性院、西福寺、地獄極楽
「全集年譜」1889年:
「浅草の新堀にあった遊び場の一つ、自性院のご開帳のおりに、「地獄極楽」の絵図を見て、あの世の地獄極楽にいたく興味を持った。」
「自分はどのくらい宗教的か?」:
「 まだ公園などというものの発達しない昔の東京の下町では、神社やお寺の境内は、子守や子供や婆さん連の遊び場所だった。私はよく曽祖母につれられて、その頃浅草の新堀端付近にあった西福寺とか自性院とかいう寺の境内へ遊びに行ったことを今でもハッキリ記憶している。地獄極楽のすばらしい掛軸を初めて見たのは、自性院の御開帳かなにかの時で、その後私はずっと「地獄」にひどく興味を持った。」
「あやかしのことども」:
「 私は母方の曽祖母につれられて、西福寺という寺の境内へしばしば遊びに行った。そこで秋の日を浴びて椎の実などを齧りながら、曽祖母から色々な話をきいた記憶が今でもハッキリ残っているが、どんな話をきいたかはもちろん忘れてしまった。」
自性院:台東区=谷中6-2-8。新義真言宗。
西福寺:台東区=蔵前4-16-15。浄土宗。
〈『改訂版 寺院名鑑 北海道・東北・関東』〉
変人
「自分はどのくらい宗教的か?」:
「 私はまた子供の時分ひどく緑茶が好きだった。しかも、いわゆる玉露のたぐいを喜んで飲んだ。多分六、七歳の時は少なからず茶毒にあてられていたためか、顔色が青いばかりでなく沈んだ土気色をさえ呈したらしい。」
「なにしろ「変人」だったことはたしかで、知らないお客の前へ出ることがひどくきらいで、おじぎをすることもきらいだった。」
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1889.7.1 東海道本線、開通。〈「国鉄乗事巻類年表」〉
1889.7 幸田露伴「一刹那」『文庫』。〈『日本近代文学年表』〉
1889.9 幸田露伴『風流仏』新著百種〔=吉岡書籍店〕。〈『日本近代文学年表』〉
1889.10 『しからみ草紙』創刊。文芸誌。森鴎外・森篤次郎ら。〔〜1894.8〕〈『日本近代文学年表』〉
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1890 明治23 | 6 7 |
浅草区猿屋町の育英小学校尋常科に入学。〈「全集年譜」・「幻燈屋のふみちゃん」〉
人ごみがきらいで、学校へ行くことを嫌う。〈「あやかしのことども」〉
成績は上の部だったが、目立たないおとなしい子供であった。〈「全集年譜」〉
7〜8月頃 市村座で「嶋鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」を観る。河竹黙阿弥の「散切(ざんぎり)物」で、最初の芝居の記憶として残る。〈「昔見た芝居」・「れみにせんちや・あんふわんたん」・『歌舞伎年表』・『河竹黙阿弥集』〉
この頃、『西遊記』を愛読し、赤本から、馬琴? の訳したものや、唐本など色々な本を集める。〈「お化けに凝った」・『浮浪漫語』の「序詞」〉〔『西遊記』は12歳頃までずっと関心を持つ。〈「少年時代の読書」〉〕
この年の頃 養祖父の辻四郎三、死去。〈「少年時代の読書」・辻美津「実話蔵前夜話」〉
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育英小学校尋常科に入学
「全集年譜」では、浅草区猿尾町小学校尋常科に入学。辻潤は、のちに三重県津から戻って、前の小学校に入ったとあるので、育英小学校としたが、名前が変わったということもあるかもしれない。
『ダダイスト辻潤』p.41でも、浅草区猿尾町の育英小学校。
小学校入学年は、「全集年譜」による。小学校入学は4月であろうから、辻潤は満5歳半で小学校に入学したことになる。戸籍上の誕生日によれば、満4歳半である。
詳しくは知らないが、この程度のことは当時普通のことだったと思われる。佐藤春夫は、1898年4月に新富尋常小学校〔丹鶴小学校〕に入学したが、「九日遅いだけで一年遅らせるのは可哀想だと父が当局者に頼んで、学齢より早く変則入学を許可された。」〈「佐藤春夫年譜・著作年表」」〉という。「谷崎潤一郎略年譜」に、1892年9月、「坂本小学校に入学、学齢前の変則入学。」とあるのは、学齢〔満6歳〕(谷崎の誕生日は7月24日)ではあったが、本来、翌1893年4月入学だからということらしく、翌1893年4月に1年生をやり直している〈『谷崎潤一郎伝』p.19・「谷崎潤一郎年譜」〉(「谷崎潤一郎年譜」では、1892年9月、2学期から小学校に通学した理由が、「わがままな性質にわざわいされたため」とある)。さまざまな変則入学が行われていたものらしい。
『官報』1896.8.17号に、学齢未満の児童の小学校の入学を禁じる、文部省の訓令が出ている〈『官報』〉。満6歳未満で入学する者は結構多かったらしい。
辻潤の誕生年月日・入学年などに若干の疑問を生じさせるが、まず、およそ満6歳ということで入学したのだろう。
小学校
1886.4.10 師範学校令〔尋常・高等の2等に分ける〕・小学校令〔義務教育制を初めて標榜〕・中学校令〔尋常・高等の2等に分け,府県立尋常中学校は各府県1校,高等中学校は全国に5校〕、各公布〔勅令〕。〔第二次大戦直後までの学校制度の基礎となる。〕〈『近代日本総合年表』〉
1886.4 武林無想庵、番町小学校初等科6級〔のち学制がかわって尋常科1年級〕に入学。〈「武林無想庵年譜」〉
1907.3.21 小学校令、改正。義務教育年限が6年に延長、尋常小学校の修業年限が6年となる。高等小学校は2年 or 3年。〔1908.4.1施行。〕〈『学制百二十年史』など〉
「嶋鵆月白浪」
「昔見た芝居」:
「 私の最初に見た芝居(つまり最初の記憶に残っている)は黙阿弥のいわゆるザンギリ物「島千島云々」という奴で、五代目菊五郎によって演ぜられたものだ。私はその時、明石の島蔵という名前と菊五郎という名前とを混同して覚えてしまった。菊五郎というと必ず明石の島蔵を連想し、島蔵というと菊五郎を必ず思い出した。芝居小屋は浅草猿若町にあった市村座だった。
苦み走った散切りの菊五郎が板子を抱えて浪の中を游ぎまわっている姿が、今でも私の記憶にハッキリ刻みつけられている。私はその時から菊五郎が好きになったらしい。」
この芝居は、河竹黙阿弥の「嶋鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」で、『歌舞伎年表』によると、1887〜1895年の間の上演は、この年の市村座の上演のみ。
「れみにせんちや・あんふわんたん」には、「幼年時代の記憶は比較的ハツキリしている。四歳の時、猿若町の市村座で見た五代目菊五郎の『島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)』を覚えてゐる位である。」とある。記憶には残っても、正確さは期待できないことが分かる(『歌舞伎年表』の正確さは不明)。
「「散切頭」という髪型が演劇の一ジャンルの名称となる」〈神山彰「嶋鵆月白浪」〉。
『歌舞伎年表』1890:
「〇七月十五日、市村座、一番目「嶋鵆月白浪」。中まく「大功記」十段目。上るり「影法師」。明石の島蔵、望月輝、十次郎(菊五郎)野州徳、久吉(小団次)弁天おてる(源之助)弁山、正清(馬十)仲蔵(荒次郎)百姓東右衛門、さほ(寿三郎)磯左衛門、ねちかねお市(松助)みさほ(秀調)松島屋千太、福島屋清兵衛、武智光秀(左団次)。
此狂言、一旦初日を出せしが、大暑にて休み、再び帰り初日を出す。評よかりしが不入。」
『西遊記』
『浮浪漫語』の「序詞」:
「僕の七、八歳頃の愛読書(僕にはいつでも愛読書というものがあった、そして今でもあるが)は、荒唐無稽な『西遊記』」
6つか7つの頃、『西遊記』を愛読し、赤本から、馬琴? の訳したものや、唐本など色々な本を集める。〈「お化けに凝った」〉
「少年時代の読書」:
「 十歳前後に、私は『西遊記』をひどく愛読して色々の『西遊記』を集めたものだ。しまいには和本だけでは満足出来ず、神田の古本屋で『西遊真詮』という唐本まで買いこんだが、なにしろ十二歳位な少年が唐本を買ったので、古本屋のオヤジを驚嘆させたものだが、もちろん私には読めはしなかった。しかし和本と対照させてところどころ少しずつ読んではみたのであった。」
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猿屋町:江戸期〜1934〔昭和9〕年の町名。1934年、浅草鳥越2丁目、浅草橋2〜3丁目。〈『角川地名大辞典 13 東京』〉
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1891 明治24 | 7 8 |
1月 鳥越の中村座で「弓張月名誉為朝」を観る。〈「昔見た芝居」・『歌舞伎年表』〉
4.18 or 4.19 歌舞伎座で市川団十郎=主演の「勧進帳」を観る。〈「昔見た芝居」・『歌舞伎年表』〉
6月頃 歌舞伎座で「春日局」・「幡随院長兵衛」を観る。中村座で川上音次郎一座の壮士芝居を観る。〈「昔見た芝居」・『歌舞伎年表』〉
この年の頃(翌年か)、蔵前にあった伊勢屋の馬鹿蔵と呼ばれた大きな蔵も、また家屋敷も、みんな日下義雄〔前長崎県知事、のち福島県知事〕に譲る。〈辻美津「実話蔵前夜話」・『日下義雄傳』〉
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「弓張月名誉為朝」
「昔見た芝居」:
「 中村座で見た芝居で特に記憶しているのは、女団州といわれた粂八一座で演ぜられた「椿説弓張月」で、まったく実のある芝居だった。為朝の生い立ちから琉球に渡ってからまでの大物で、禍などという獣物が舞台に現われたり、琉球のエキゾチックな場面から絵本で見た竜宮を連想させられたりした。」
『歌舞伎年表』1891年:
「〇一月十七日より廿七日まで、中村座、一番目「八陣守護城」二まく。中まく「弓張月名誉為朝」一まく。「摂州合法辻」一まく。二番目「都鳥廓白浪」三まく。正清(芝翫)ひな衣、玉手御前(秀調)三右衛門、為朝(八百蔵)主計之助、松若、俊徳(新蔵)丑市、木葉峯蔵(勘五郎)春雄、惣太、合法(寿美蔵)後藤又兵衛、喜平次(猿之助)葉末、小紫、浅香姫、惣太女房(女寅)。
猿之助怪我。芝翫病気。秀調病気。其上不人気、入なし。早々千秋楽。」
「勧進帳」・「春日局」・「幡随院長兵衛」
「昔見た芝居」:
「 中村座以外には歌舞伎と新富へ一番よく出かけた。殆ど代り目毎に出かけたのだから、私は七、八歳頃までに一通り歌舞伎芝居を卒業してしまったわけだ。
団十郎のやった地震加藤でも、勧進帳でも、春日局でも、幡随院長兵衛でも、左団次の綱でも、丸橋でも、菊五郎の一心太助でも、直助権兵衛でも、直侍でもなんでも見ている。」
『歌舞伎年表』によると、市川団十郎「勧進帳」は、
4.18 or 4.19。
「地震加藤」は「増補桃山譚(ぞうほももやまものがたり)」だが、1887〜1892年には見当たらない。1896.1頃に歌舞伎座で観たものだろうか。
『歌舞伎年表』1891年:
「〇三月十四日、歌舞伎座、一番目、桜痴居士添刪「出世景清」。二番目「蘆屋道満大内鑑」。信田妻、狐の道行「菜種蝶小袖物狂」。四月十八、十九両日、そゝり狂言、団十郎「勧進帳」つとめ、桜痴居士口上。」
「○六月一日より三十日まで、歌舞伎座、一番目「春日局」。中「金平法問諍」。切「幡随院長兵衛」。稲葉の室おふく、御守役春日局、家康公、長兵衛(団十郎)重忠公、老女高円、秋元但馬守、水野十郎左衛門(権十郎)板倉伊賀守、土井大炊頭、市橋下総守、よしや組三浦小次郎(寿美蔵)稲葉佐渡守、酒井雅楽頭、掘丹後守、唐犬十右衛門(八百蔵)御台所御用人石河刑部、本多上野介、水野用人保昌武者之助(勘五郎)御助役梅の井、松倉豊後守、松平左衛門太夫、阪部三十郎、坂田の金平、俳優坂田四郎右衛門(新蔵)お城女中安積、神祇組袴垂保助(だん八)お城女中三室、中間八内実はお小人目付前田伝助、男達大仏の三ぶ(升蔵)百姓畑右衛門、お小納戸三枝采女(猿蔵)立場茶屋の娘おたこ、水野家来赤坂文平(団七)御伝馬手代十兵衛、飛脚早平実は大坂方(升六)御坊主木村静甫、文珠庵々主教善、渡辺綱右衛門(七右衛門)御坊主山本珍徹、立場茶屋女房おざこ、水野中間市助(翫太郎)角倉与一、お庭のもの実は大坂忍曽根崎五郎、青山伯耆守、男達薩摩源五兵衛(猿之助)御小姓桜井春之丞、中老よしの、和姫君、義綱室拍の前(女寅)秀忠公御台所、老女お梶の局、長兵衛女房おたき(秀調)中老藤波、頼光室胡蝶(鯉之助)お城女中明石、絲屋おそめ(鯉藤子)。
長兵衛も桜痴居士添削あり。慶安時代の歌舞伎を舞台に出す越向なり。
其頃、春日局開山、湯嶋麟鮮院開帳。
此芝居大入。七月一日より三日間、そゝり狂言。」
川上音次郎の壮士芝居
「昔見た芝居」:
「 私は浅草の蔵前に住んでいたから、手近な鳥越の中村座に一番よく行って見た。
川上音次郎が赤い陣羽織に鉢巻をし、日の丸の扇子をもってオッペケペイ節というのを初めて公演したのは、その中村座という芝居小屋でであった。どんなところから思いついたのか知らないが、彼のオッペケペイはたしかに奇抜な独創的なもので、一時はそれが全東京の人気を沸騰させ、都会の隅々までオッペケペイを唱わない人間はないという程になった。そうして、絵草紙屋の店頭には彼の似顔にオッペケ節の文句を書いた絵紙が至るところに張り出された。私もよくそのオッペケペイを唄ったものだ。その文句の一節をいえば「ビールにブランデベルモット、腹にもふ(?)れない洋食をムヤミに食うのは負け惜しみ、ないしょでコーカ(?)でヘド吐いて……」などといった調子で当時の欧化主義を皮肉ったような、つまりはなはだしく諷刺的なもので、合の手のリフレインとしてオッペケペッポペッポポと扇子で拍子をとりながらやるのだが、まったくたいした人気を呼んだものだった。壮士芝居の元祖が川上音次郎であることは諸君も多分御存知だろうが、その狂言は主として維新当時の慷慨悲愴の志士的材料を取り扱ったもので、私は彼の演じた平野次郎の芝居を今までよく記憶している。西郷と月照とが船から飛び込む場面などもあった。
その頃は自由民権の思想が盛んな頃で、自由党の壮士がヤッツケロ節とか、欣舞節とかいったような唄を大道で唄ってよく巡査とケンカをしたものだ。ちょうど今の主義者のようなもので、歌うばかりでなく路傍演説もやったものだ。
壮士芝居には実際、ほんものの壮士が沢山いて、芝居の幕間で女形の姿かなにかで盛んに政府攻撃の演説などをやったもので、肝要(?)の芝居よりはその方に興味をもって出かけた人達も沢山あったようだ。」
『歌舞伎年表』1891年:
「〇六月廿日、中村座、壮士芝居川上音次郎一座。「板垣君遭難実記」。中幕、上「花柳噂存廃(いろまちうはさのぞんぱい)」。下「監獄写真鏡」。二番目「勧善美談児手柏」。
菊五郎連中見物。寿座役者連、歌舞伎座役者連、団十郎はじめ見物。
七月六日中止相成。」
「〇七月卅一日より八月十四日まで、中村座、壮士芝居。「拾遺後口連枝楠」。二番目「経国美談」。」
1891.6.20が、川上音次郎一座が大劇場で壮士芝居を上演した最初なのだろう。
中村座
「昔見た芝居」:
「 中村座を見たのは明治二十三、四年頃のことである。」
蔵前の蔵や家屋敷を日下義雄に譲る
1891〔明治24〕年に、蔵前の蔵や家屋敷を日下義雄に譲ったことは、辻美津「実話蔵前夜話」にある。
譲ったというが、まず、売ったのだろう。「実話蔵前夜話」が発表されたのが1928年で、相当、時間が経っていて、辻美津の記憶が曖昧になっていることは考えられるし、実際、種々の間違いがあり、それほど信頼のおけるものではない。しかし、長い間暮らした蔵前の家屋敷を手放すことは、辻美津には印象的だった筈で、その年が銘記されることは考えてよいと思われる。
「少年時代の読書」に「祖父が死ぬとまもなく家が没落して、私達はその蔵のある家を立ち退かなければならなくなった」とある。辻四郎三が死んで、まもなく、蔵前の蔵や家屋敷を、日下義雄に譲ったことになる。辻四郎三は隠居していた筈で、辻四郎三の死と「没落」が直接関係ある訳ではないだろう。段々経済状態が悪くなっていたのだが、辻四郎三が生きている間は勝手に財産の処分ができなかった、それが、辻四郎三が亡くなったので、蔵などという不要なもののある家を処分したということだろう。
辻潤は、蔵のある家を立ち退いて、すぐ津に行ったと述べている訳ではないので、津に行く前にしばらく東京のどこかで暮らした可能性もあるだろう。
日下義雄:1851.12.25-1923.3.18。〈「日下義雄年譜」〉
『日下義雄傳』には、蔵前の辻家の家屋敷などを譲り受けたなどの記載はない。当然かもしれないが。
日下義雄は会津藩医の子らしい。辻美津と会津藩というつながりがあるのかもしれないが、それ以上の特別なつながりはなさそうで、当然、家屋敷をタダで譲り渡したのではなく、売り払ったのだと思われる。日下義雄は、1888年から1890年11月26日まで長崎県知事、1892年8月20日に福島県知事になっているが、この間は東京にいた〈「日下義雄年譜」〉。日下義雄が東京にいる間に辻六次郎が家を売ったのだとして、つじつまは合う。
『日下義雄傳』には、辻美津「実話蔵前夜話」の傍証になる話があるが、日下義雄について辻美津「実話蔵前夜話」が述べるものは、「日下義雄年譜」などと照らし合わせると、必ずしも正確でないところがある(「日下義雄年譜」などを参照のこと)。
「全集年譜」の疑問点
「全集年譜」の1893年に、父の見真似で尺八を吹き、とあるが、父の六次郎が尺八を吹いたとは、どこにもない。
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1891.1 『幼年雑誌』、創刊。博文館、発行。〔〜1894.12〕〈『日本近代文学年表』〉
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1892 明治25 | 8 9 |
1.6 中村座改鳥越座で、「平野次郎」を観る。〈「昔見た芝居」・『歌舞伎年表』〉
《辻六次郎は逓信省に勤める。〈小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」〉》 辻美津の実父の知り合いだった三重県知事の成川尚義(ひさよし)の世話で、辻六次郎が三重県の官吏となることになり、父母に伴われて三重県の津へ行く。〈「自分はどのくらい宗教的か?」・「最初の自然」・辻美津「実話蔵前夜話」・『三重県の百年』・『明治維新人名辞典』・『幕末維新人名事典』〉
(三重県津に移ったのは、前1891年かもしれない。)
しばらく知事の官舎にいて洋服を着せられてランドセルを背負って小学校に通う〈「最初の自然」・樋口十六「狂へるダダイストの精神鑑定」〉。
言葉が分からず、先生の言うことも分からず、仲間の生徒は辻潤を「異国人扱い」にしてバカにし、辻潤も内心で彼らと彼らの言葉を軽蔑した。学校へ行くのがイヤになって、しばしば仮病をつかったり、弁当をもって一人で公園や田圃などをウロウロして帰り、父の六次郎から叱言をくう。慰めてくれる友達がないので、父母に頼んで東京から三公という男を呼んでもらい、生れかわったように快活になる。三公というのは家に始終出入りして、なにくれとなく用事をたしてくれる下男のような食客のような男。初秋の頃、三公と一緒に長谷山に登る。初めての山らしい山。〔その後、友人と、父と、また遠足で、たびたび登る。〕〈「最初の自然」・「ふりぼらす・りてらりあ」・小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」〉
〔 やがて塔世川〔安濃(あのう)川〕の岸辺に移り住む。〈「最初の自然」・『三重県の地名』〉〕
隣に尺八を吹く人がいて、尺八に興味を持つ。土曜日の晩などに辻一家がよくその家へ呼ばれて、その家の妻が、男の尺八に合わせて簡単な地唄の四ツ五ツ位、三味線を演奏し、美津は長唄が達者なので、その妻と長唄と地唄の交替をやったり、長唄物の合奏を受け持ったりする。六次郎は気が向くと下手な一中節を唸ったりする。〈「エイ・シャク・バイ」〉
筋向うでよくヴァイオリンを弾いていて、ヴァイオリンを初めて聞く。〈小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」〉
探偵小説というものの味を父、六次郎から教えられる。夜、夕餉がすむと辻潤と母と女中などを集めて、六次郎は毎晩探偵小説を読んできかせた。六次郎は役所で書記のようなことをやっていたらしい。字がすこしばかりうまかったので辞令などを書かされていた。六次郎は江川近情という書家の門弟となって習字の稽古をしていた。〔六次郎に言いつけられ、辻潤も江川近情の書いた千字文を少しばかり習う。〕〈「ふりぼらす・りてらりあ」〉
〔津で暮らす間に、釣をしたり、泳ぐことを覚えたり、茸狩りをしたり、毎日好きな鰻をたらふく食うことが出来たりする。〈「ふりぼらす・りてらりあ」〉 未明に起きて、朝飯前に一泳ぎすることを楽しみとする。〈「最初の自然」〉〕
弟の義郎、生まれる。〈「全集年譜」〉(翌年か。)
〔義郎は後、洋服仕立て職人となる。十代から奉公に出ていたという。〈『ダダイスト辻潤』p.33〉〕
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三重県津に移る
辻一家がいつ三重県津に移ったか、いつ東京に戻ったか、辻潤の中学校への入学年などは問題がある。確かに言えることは、「全集年譜」の中学校への入学年が間違っていることで、これとも関連して、三重県津に移った年なども間違っている可能性が出て来る。
「全集年譜」では、三重県津に移ったのは、1892年。
辻美津は「実話蔵前夜話」で、1891〔明治24〕に蔵前の蔵や家屋敷を日下義雄に譲ったと述べている。家屋敷を手放したのは、辻四郎三が亡くなって自由に財産を処分できることになり、さらに三重県=津で生活することが決まったからとも考えられる。
辻潤の述べているものには、8歳から伊勢の津に住む〈「自分はどのくらい宗教的か?」・「幻燈屋のふみちゃん」・小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」〉とあり、このことは辻美津が家屋敷を譲ったと述べている年に合致している。
「エイ・シャク・バイ」:
「尺八の音にひきつけられたのは俺が七、八歳位の頃からだ。その頃、俺のおやじは三重県庁の俗吏を務めていた」
小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」では、尋常3年の時ともある。それなら、この1892年ということになる。
この年譜では、8歳からということより、尋常3年の時というのを確実視してみた。辻のいう年齢は、実際と1年ズレていることが多い。
辻潤は、「平野次郎」という芝居を観ている〈「昔見た芝居」〉。『歌舞伎年表』1892年1月にその芝居の記載があり、1892年に津に行ったのかもしれないことになる。『歌舞伎年表』がどれだけ確かかは分からないが。
『歌舞伎年表』1892年:
「〇一月六日、中村座改鳥越座、「平野次郎」。次郎(川上)月照(藤沢)。」
三重県知事の成川尚義
三重県知事の成川尚義と辻一家との関係については、まだ幼かったせいか辻潤はよく分かっていないようである。三重県知事のN氏とかなり深い縁辺であった〈「最初の自然」〉、親類の知事の縁で三重県の官吏となり、父母に伴われて伊勢の津へ行く〈「自分はどのくらい宗教的か?」〉などと書いている。
辻美津〔述〕の「実話蔵前夜話」には、三重県知事になった人物として成川常義の名があり、成川常義は、美津の父、田口重義が会津藩の重役だったため官から狙われて入牢した時の牢名主で、「入獄中兄弟の契りを結んださうで」とある。
『三重県の百年』付属の年表によると、1889〔明治22〕年12月26日、成川尚義が三重県知事になっており、成川の名は尚義(ひさよし)が正しい。「成川」の読みは『明治維新人名辞典』では「なるかわ」、『幕末維新人名事典』では「なりかわ」。
辻美津の「実話蔵前夜話」以外に、辻一家と成川尚義との関係を記したものがなく、それを一応受け入れるしかないが、「実話蔵前夜話」には種々間違いがあり、会津藩の重役だったという田口重義も確認できず、ただちに信じがたいものがある。ここでは、成川尚義は祖父の「知り合い」と記しておく。
三重県知事は、その後1896〔明治29〕年8月12日、田辺輝実に代わっている。成川は1899〔明治32〕年に逝くなり(「実話蔵前夜話」は1902〔明治35〕年と書いている)、それまでは美津は繁々往復していた、とあるから、成川尚義は三重県知事を辞めてから東京に住んだのだろう。辻一家が東京に戻ったのは、成川尚義が三重県知事を辞めることが関係していたかもしれない。
津での生活
小学校で「異国人扱い」にされ、東京から三公という男を呼んでもらったのは、この年と思われる。ハセ山に登ったとあるが、地図を見るとハセ山は長谷山〔標高320m〕だろう。長谷山に登ったのは、多分初秋の頃とある。〈「最初の自然」〉
三公は、のちに書いた「三ちゃん」に反映されているかもしれない。
尺八に興味を持ったことの年は不明。この年に入れてみた。
辻六次郎と探偵小説
「ふりぼらす・りてらりあ」:
「私は探偵小説というものの味は初めておやじから教えられた。私が八歳位な時分で、当時おやじは三重県庁の俗吏を務めていた。夕飯がすむと私と母と女中などを集めて、おやじは毎晩探偵小説を読んできかせた。大方自分が面白がっていたのだと思う。それは丸亭素人と称する人の翻案小説、朱の表紙に黒い人間の形が表われている、当時としてはなかなか気のきいた装幀で、なんとなくセンセーショナルなかんじがした。その探偵本を幾冊か、私は毎晩面白がってきいた。」
おそらく、辻六次郎は、三重県の下級官吏に過ぎず、本来、女中を雇うような身分ではないのではないか。美津が家事を行うような女ではなく、女中が必要だったのかもしれない。この年については、義郎をみごもっていたという事情もあるだろう。そんなに大きな家に住んだようでもなく、さしたる贅沢をしたようでもないが、それでも、蔵前の家を処分して得た財産を段々消費することになったのだろうか。
丸亭素人(まるていそじん)の(探偵・翻案)小説については、国会図書館検索では、1890.8の金桜堂〔ほか〕刊、黒岩涙香と共著らしい『美人の獄』、1890.9の今古堂刊の『殺害事件』から、1895.10の金桜堂刊の『探偵眼』まで、20冊がある。
辻義郎
谷沢永一・浦西和彦、編「辻潤年譜」によると、
辻義郎は、翌1893年3月8日生まれ。実際の誕生日と入籍日の違いというものがあるので、ここでは、「全集年譜」の方を採っておく。はっきりしない。
のちの辻義郎について、
市橋善之助「夢なきものの悲劇」:
「 四
私は彼が虚無主義になったのは酒ゆえだと書いた。しかし勿論そればかりが原因ではない。東京の下町っ子の放蕩者、ならず者の血も一つの原因であり、彼の弟の、初めにお話した洋服屋の義っちゃんの如きはその血の代表者だった。神近市子さんが世話するといった女を家のものがおひやらかしたのでそれ以来結婚ということに気がなくなったと、彼の家ではいっていたが、そうばかりではない。世俗的なつき合いがきらいなのである。だから結婚もせず、家も持たぬ風来坊だが、私は横山宥策先生の洋服の仕立てを紹介してやったが、どうしたものか、それをバクチにでも使ったのだろう。どこかへやってしまったのには仲へ入って困ってしまったことがあった。
」
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1892.11 『万朝報』、創刊。黒岩周六〔涙香〕、主宰。〔〜1940.10〕〈『日本近代文学年表』〉
黒岩涙香(くろいわ るいこう):1832.9.29-1920.10.6。〈「黒岩涙香」『日本近代文学大事典』〉
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1893 明治26 | 9 10 |
滝沢馬琴の『椿説弓張月』などを読む。〈「全集年譜」〉
この年頃 ある晩、女中が町の場末にある自分の家へ用事があるというので、彼女におぶわれて行ったが、途中で、キリスト教の講義所〔教会〕の中から賛美歌の合唱がきこえ、それに牽きつけられて、講義所の中に入ろうと言い、女中は「坊(ボー)さん、ヤソだすからおよしなさい」といってとめたが、中に入った。〔それから、日曜のたび毎にその教会の日曜学校に通う。教会でピアノを初めて聞く。そののち、周囲に戦争に伴う愛国熱が高まるとともに何となく中止。〕〈「自分はどのくらい宗教的か?」・「ふりぼらす・りてらりあ」・小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」〉〕
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「全集年譜」の『日本外史』の疑問
「全集年譜」に滝沢馬琴の『椿説弓張月』・『日本外史』などを読む、とある。頼山陽の『日本外史』だろうが、根拠不明。辻潤は、「十二、三位な時『日本外史』を少しばかり食いかじった」〈「のっどる・ぬうどる」〔『生理』〕〉と書いている。中学校で習い読んだとする(後述)。
『椿説弓張月』
「小説」2:
「 僕だって昔、『里見八大伝』や『弓張月』などという小説を読んだこともあれば、近松や西鶴や涙香や丸亭素人を愛読したこともある。」
『里見八大伝』や『弓張月』などをいつ読んだのかは分からない。「全集年譜」の根拠は不明だが、取り敢えず入れておく。
「全集年譜」の銀笛や手風琴の誤り
「全集年譜」には、また、1893年「このころから父の見真似で尺八を吹き、銀笛や手風琴もこなした。」とある。尺八のことは既に記した。手風琴と銀笛についても、「楽器で一番初めに手にしたのは手風琴と銀笛だが、俺達が伊勢(「最初の自然」参照)から東京へ帰って来た時で神田の佐久間町に住んでいる頃、俺が十か十一の時だと記憶する。」〈「エイ・シャク・バイ」〉とあり、間違い。
教会・童貞を破られる
津でキリスト教会に行った年月は不明。小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」に、間もなく東京へ帰ったとあるので、この年に入れておく。
小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」:
「其時分貴方に何か変わつた事がなかったですか。
クリスト教に入つたよ、之に入る事に就いては大変な事があつたよ、之は内に雇つて居た女中に唆かされて、僕の童貞を破られると云ふ様な事件が持上がつたよ、僕が女中に誘惑されたのだね、それは女中が大変僕を可愛がつて呉れて、或日ね一緒に教会の前迄行つたら、中から讃美歌が聞へて来たから、妙な気分になつて、内へ這入り度くて仕方がないので這入らうと云ふと、女中はつまらないからよしませうと云つたがね、僕は這入たね、そして女中に教はつたと云ふものゝ自分にも気があつて其日に童貞を破られたのだよ、それから僕はキリスト教に這入つたよ、其教会に異人の婆が居て僕を可愛がつて、色々の物を貰つたよ、ピアノも其時初めて聞いたよ。
それから何うしましたか。
それから間もなく東京へ帰つたよ、僕がキリスト教に行つて居ると、其時分丁度日清戦争が起つたので、耶蘇教が迫害されるのでよしたよ、大分脅かされて怖かつたからね。」
童貞を破られたというが、性交したのだろうか。辻は女中におんぶされるような、10歳ほどの子供である。性器をいじられたというようなことなのか。
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1893.7.16 東北本線、全通。〈『明治・大正家庭史年表』p.223〉
1893.8 内村鑑三『求安録』警醒社。〈『日本近代文学年表』〉
1893.9 幸田露伴『枕頭山水』博文館。9.19。〈「幸田露伴著作年表」〉
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1894 明治27 | 10 11 |
戦争の気配から周囲に愛国熱が高まるとともにキリスト教会の日曜学校に通うことを何となく中止する。〈「自分はどのくらい宗教的か?」・「ふりぼらす・りてらりあ」・など〉
東京に戻る。神田区佐久間町3丁目15番地の叔父〔父の六次郎の弟、かつて質屋〕の借家を借りて住む。〈「昔見た芝居」・「エイ・シャク・バイ」・「生徒并保証人台帳」明治29年度台帳の乙帳〉
(東京に戻ったのは、翌年1895年かもしれない。)
浅草区猿屋町の育英小学校高等科1年に入る。〈「幻燈屋のふみちゃん」・「エイ・シャク・バイ」〉
家は神田の佐久間町だったが、元の学校に執着があったから、浅草猿屋町の育英小学校に通った。〈「幻燈屋のふみちゃん」〉
この頃、『幼年雑誌』・『小国民』という類の雑誌を読む。〈「ふりぼらす・りてらりや」・『日本近代文学年表』〉
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教会の日曜学校に通うことを中止
日清戦争の愛国熱が高まるということから、キリスト教会の日曜学校に通うことを中止したのは、この年。
愛国熱が高まり、それで、いじめられたり、排斥視されることもなかったようだが、何となく中止したという。
「自分はどのくらい宗教的か?」:
「 その後間もなく日清戦争が始まって愛国熱が盛んになったために、私の教会行きは中止されてしまった。たぶん子供心にもヤソだといって迫害されるのが恐ろしかったのでもあろうし、あるいは自ずから愛国的な精神が炎えて「非常時的」な心持ちになったのでもあったろう。しかしどうしても耶蘇教に反感を抱く気にはなれなかった。」
「ふりぼらす・りてらりや」:
「 やがて日清戦争というものが始まった。国民の排外熱は恐ろしく炎え立った。恐らく自分の中にも愛国的熱情が萌したものか、あるいはクラスメートの迫害が恐ろしくなったのか、いつの間にか私は講義所通いを中止した。一家が再び東京へかえったのは、たぶん明治二十七年、戦争中の間だと記憶する。」
辻一家の帰京がいつかははっきりしないが。それが1894年、時期は7月以前とするなら(後述)、日清戦争が始まる前に、教会行きは中止されている。愛国熱が高まったというのは、戦争が始まったのではなく、戦争になりそうな雰囲気によるものということになる。はたして、実際にそういう雰囲気があったものか、私にはよく分からない。戦争によって愛国熱が盛んになったこととキリスト教排斥が直接結びつくのかも分からない。「国民の排外熱は恐ろしく炎え立った。」というが、1895年4月の「三国干渉」後なら、さもありそうという気がするが、これもよく分からない。戦争が始まり、海戦・陸戦の勝利が伝えられると、国民は確かに熱狂したようであるが。
辻一家の帰京が1894年の年末近くであれば、愛国熱というのも、よく分かる。
『日清戦争』pp.108,109:
「 民衆の多くは、開戦動機のわかりにくいこともあって戦争そのものにたいして無関心であった。」「反戦論もまた民衆をとらえることはできなかった。」「 戦争に熱狂したのは士族だった。かれらは各地で義勇兵を志願し、また抜刀隊を編成した(『東京日日新聞』一八九四年六月二六日、二九日)。」「 戦争への熱狂はまた知識人をもとらえた。福沢諭吉は「日清戦争は文明と野蛮の戦争なり」と叫び、戦争に勝利するためには「内に如何なる不平不条理あるも、これを論ずるにいとまあらず」とまで述べたが(『時事新報』同年八月二九日)、この点は、キリスト教団も同様であった。」
辻一家の帰京と芝居
辻一家がいつ東京に戻ったかは、はっきりしない。
「全集年譜」1894年:
「 東京へ帰る。浅草区猿尾町の育英小学校高等科二年に転入。同年、神田区佐久間町へ転居。」
この年東京に戻ったとしても、高等科2年に転入はややおかしく、そうだとすれば、飛級ということになる。
辻潤の書いたものでは、1893〜1895年までの可能性がある。日清戦争の間、または日清戦争の済んだ時分とあるので、まず1894年か1895年。11歳で戻って来たという記述が多いが、それを採れば1894年となるが、確かではない。
「エイ・シャク・バイ」:
「 楽器で一番初めに手にしたのは手風琴と銀笛だが、俺達が伊勢(「最初の自然」参照)から東京へ帰って来た時で神田の佐久間町に住んでいる頃で、俺が十か十一の時だと記憶する。」
「幻燈屋のふみちゃん」:
「 僕は八歳で東京を離れて伊勢の津で暮らし、十一歳の時また東京へ帰って来た。」
「自分はどのくらい宗教的か?」:
「 伊勢の津で四年程くらして、私は十一歳の時に東京へかえってきた。」
「ふりぼらす・りてらりや」:
「一家が再び東京にかえったのは、たぶん明治二十七年、戦争中の間だと記憶する。」
「昔見た芝居」:
「 再び東京へ帰ってきたのは日清戦争のすんだ時分で、私は神田の佐久間町に住んでいた。」
日清戦争の済んだ1895年4月頃に東京にいたことは確かであろう。
私は、「昔見た芝居」から、しばらく1895年の方があり得るのではないかと思っていた。
辻潤の書いたものによると、六次郎は三重県で重要なポストについていたようではなく、三重県知事の成川尚義が知事をやめることが明らかとなり、成川尚義のコネを失うので三重県庁にいても仕方がないと思ったのではないかと想像し、成川尚義が知事を辞めたのは1896年8月で〈『三重県の百年』〉、この点でも1895年の方がありそうだと考えた。
しかし、1894年の方がありそうだと考えを改めたのは、記憶がまだ幾らか鮮明の筈の発表の早い文章を重視したことと、辻潤の芝居の記憶からである。
「昔見た芝居」:
「 再び東京へ帰ってきたのは日清戦争のすんだ時分で、私は神田の佐久間町に住んでいた。従って二長町の市村座へよく行った。山口定雄、伊井蓉峰の全盛時代である。都新聞所載の青々園か誰かの小説を脚色した「衣屋お熊」とか、「五寸釘の寅吉」とか、紅葉山人の「又意外」とかいったような芝居を見た。」
『歌舞伎年表』によると、このうち、「衣屋お熊」は「法衣屋(ころもや)お熊」が正しいらしく、1896年2月に、市村座で上演している。「又意外」の上演は、1894年であるから、辻潤は、1894年に帰京して、「又意外」を観たのであろうと考える。ただし、市村座ではなく浅草座で、辻潤の観たのは「又意外」ではなく、「又々意外」であったろう。その上演が、7月6日だから、これによれば、辻一家は、日清戦争が始まる前に帰京したことになる。
『歌舞伎年表』1894年:
「〇二月廿一日、浅草座、川上芝居、「又意外」。相馬事件を当込みたる狂言評よし。大入。」
「〇七月六日、浅草座、川上一座、「又々意外」。これも大入也。」
『歌舞伎年表』が、どれだけ確かか。洩れはないのかということも疑わねばならない。「又々意外」は、1894.7.6のほかに上演がなかったのだろうか。辻の文章からすれば、1894年の後半に帰京したらしくもある。
帰京年月については、再々考えを変えるが、決め手に欠ける。
雑誌
「ふりぼらす・りてらりや」:
「一家が再び東京へかえったのは、たぶん明治二十七年、戦争中の間だと記憶する。
私はその頃、「少国民」とか、「幼年雑誌」とかいう類の雑誌を読んでいた。露伴先生が「少国民」に翻案された「アラデン(?)のランプ」は、空中にアラデング天狗にさらわれている挿画によって強く印象されているし、鎮守の森で村童と村の金持ちの娘が雷に打たれて純情な恋愛を完成する物語などが、考えると甦ってくるのである。」
『少国民』や『幼年雑誌』という類の雑誌とあるが、『日本近代文学年表』からは、『少国民』という雑誌を確認できず、おそらく『小国民』のこと。
また、幸田露伴の「アラデンのランプ」とあるが、「幸田露伴初出目録」で確認できなかった。題名ではない可能性もあるし、辻潤の記憶違いの可能性もある。
1889.1 『日本之少年』創刊。博文館。〔〜1894.12〕
1889.7 『小国民』創刊。学齢館。〔〜1895.9〕
1895.1 『少年世界』創刊。児童誌。博文館。〔〜1934.1〕
1895.7 『少年文集』創刊。投書誌。博文館。〔〜1898.9〕
など。〈『日本近代文学年表』〉
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1894.4 北村門太郎〔=透谷〕『エマルソン』民友社。〈『日本近代文学年表』〉
1894.2.15 朝鮮=全羅道=古阜で、農民反乱が発生。〈「日清戦争略年表」『日清戦争』〉
1894.2〜 [甲午農民戦争、東学党の乱]
1894.7.12 小村〔公使〕、清国政府に第二次絶交書を手交。〈「日清戦争略年表」『日清戦争』〉
1894.7.19 日本政府、清国政府に最後通牒を送る。〈『知将秋山真之』〉※「日清戦争略年表」『日清戦争』にない。
1894.7.25 [豊島海沖海戦]日本・清国、戦闘状態にはいる。〈「日清戦争略年表」『日清戦争』〉
1894.7.25 [豊島海沖海戦]日本海軍が、兵員をのせた輸送船を護衛して豊島(ほうとう、ホンド)沖に接近した清国軍艦2隻にたいし先制攻撃。〈『日清・日露』〉
1894.8.1 日本・清国、宣戦布告。日清戦争、公式にはじまる。〈「日清戦争略年表」『日清戦争』〉
1894.11 『大捷軍歌第一篇』、発行。11.4。〈『新版日本流行歌史』〉
1894.12.10 《民衆の多くは戦勝に熱狂。》東京市第一回祝捷大会がひらかれる。「各戸に連隊旗や国旗をかかげ、銀座、日本橋、浅草、神田、下谷、山の手の町はことごとく紅を以て飾られ、婦女小児は神田祭典の如き思をなし」た〈『時事新報』〉。〈『日清戦争』p.149〉
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1895 明治28 | 11 12 |
4月頃 叔父〔辻六次郎の弟〕が留守をすると、いとこと、昔、叔父が質屋をしていた時の質流れの手風琴や銀笛を蔵から取り出し、そのほか石油の空罐などを叩いて、楽隊の真似をして遊ぶ。手風琴・銀笛が一番初めに手にした楽器。〈「エイ・シャク・バイ」〉
この頃、近松や西鶴を読むが、よくわからなかった。〈「少年時代の読書」〉
この頃から、世の中というものはあまり愉快なものじゃない。イヤなところだと感じ始める。〈「自分だけの世界」〉
この年頃 服部という女の先生が好きになる。〈小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」〉
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銀笛・手風琴
銀笛(ぎんてき):不詳。ハーモニカかと思ったが、『新版 日本流行歌史』に「大正末期から昭和初期にかけて、ハーモニカが流行して青少年に迎えられた。」「ハーモニカとともに銀笛などが少年の間に流行したのもそのころである。」〈『新版 日本流行歌史』pp.47-48〉とあり、ハーモニカではない。
手風琴(てふうきん):アコーディオン〈『広辞苑』〉。
「エイ・シャク・バイ」:
「 楽器で一番初めに手にしたのは手風琴と銀笛だが、俺達が伊勢(「最初の自然」参照)から東京へ帰って来た時で神田の佐久間町に住んでいる頃で、俺が十か十一の時だと記憶する。その頃俺達は叔父の借家をかりていた。従兄弟のところに手風琴があって、彼はおやじが留守になると、ひそかにその手風琴を蔵からとり出してひいたのだ。その手風琴は従兄弟の所有物ではなく、その家が昔質屋をしていた時分にとった質の流れなのだから滑稽だ。今考えてもいたずらに腹が立つが、そこのおやじ――つまり俺のおやじの弟――などは頑冥不霊の化物みたような唐変木のワガラズやの、小人の模範的人物で、いやしくも子供が楽器などをいじくることは不倶戴天の一大罪悪であるかの如く心得ていた。そのくせ自分だけは時々あまりうまくもない謡を唄って得意になっていた――つまり彼の理屈によると謡は胸襟をひらいて衛生のためになると号していたが、まったく彼は腹ごなしのためにやっていたに相違ない。しかしどういう了簡だか娘だけには琴を習うことを許していた。
俺達は叔父が留守になると手風琴や銀笛や石油の空罐などを叩いて、楽隊の真似をして遊んだ。日清戦争がすんだ間もなくの頃で、大捷軍歌というのが流行していた。あの中にはなかなかいいのが沢山あった。日本で出来た軍歌としてはまったく傑作の方だ。中でも「雪夜の斥候」などというのは歌も節も両方ともいい。「鶏の林に風立ちて」とか、「煙も見えず雲もなく」とか、今俺は書きながら頭の中でそれらのメロディを歌うとさすがに懐かしい感じがしてくる。」
世の中
「自分だけの世界」:
「 僕は少年の時分から早く世間の苦労をさせられたせいか、今考えても早熟なマセタ不愉快な少年だった。それに体質が元来丈夫ではなかったから、頗る陰気でもあった――十二三の頃から世の中というものはあまり愉快なものじゃない。イヤなところだということを泌々頭の中に注ぎ込まれた――だから、世間並の少年のように運動や遊戯をあまり好まなかった――黙って一人でなにか考えこんでばかりいた。学校へ行くことなども勿論、あまり好きではなかった。」
読書
「少年時代の読書」:
「 私の少年時代の読書の範囲を考えていても、必ずしも文学書類ばかりではなく、なんでも手あたり次第に読んでいたようで、冨山房から出ていた科学叢書の『動物学新書』とか、『植物学新書』とかいう本を全部揃えて持っていた。近松や西鶴を読んだのもやはり十二、三歳位な時だったが、もちろんよくわからなかった。」
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1895.1 『文芸倶楽部』創刊、博文館。〔〜1933.1〕〈『日本近代文学年表』〉
1895.3.20 下関で講和会談が始まる。下関講和第1回会談。全権大使:李鴻章〔北洋大臣・直隷総督〕。〈『日清・日露』〉
1895.3.30 休戦条約、調印。〈『日清・日露』〉
1895.4.17 講和条約〔下関条約〕、調印。〈『日清・日露』〉
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1896 明治29 | 12 13 |
2月 二長町の市村座で「法衣屋(ころもや)お熊」
を観る。〔若月新樹という役者を知っていたので、たびたび裏口から只で入れてもらい、藤井六輔・松島清などという役者の部屋で遊んだりする。左団次を時々明治座へ見に行く。〕〈「昔見た芝居」・『歌舞伎年表』〉
3.26 妹、恒(つね)、生まれる。〈谷沢永一・浦西和彦、編「辻潤年譜」〉
4月 神田区淡路町2丁目4番地の東京府開成尋常中学校に入学。〈「エイ・シャク・バイ」・斎藤茂吉「瘋癲と文學」・「斎藤茂吉年譜」・開成中学校入学案内『読売新聞』1900.3.28号5面・「開成学園」wikipedia・『開成学園九十年史』p.52〉 月謝、1円60銭ほど〈『開成学園九十年史』p.53〉(1900年では2円〈開成中学校入学案内『読売新聞』1900.3.28号5面〉。)
同学年生 or クラスメートに、村岡典嗣(つねつぐ)・小泉親彦〔のち近衛・東条内閣の厚生大臣となり、戦後、割腹自殺〕などがいる。〈「斎藤茂吉年譜」など〉〔斎藤茂吉は9月11日に入学しクラスメートとなる。斎藤茂吉「友を語る」には他の多くの同級生も挙げられているが、そこには辻潤の名は見えない。吹田順助(すいた じゅんすけ)は、翌1897年4月に2年級に編入して同級生となる〈「吹田順助先生年譜」・「吹田順助」『日本近代文学大事典』〉。〕
通学のかたわら小さな体のハンデを克服するために、神田お玉ケ池の磯又右衛門創始の天心真揚流の道場に通うが、長つづきしない。〈「全集年譜」・菅野青顔「萬有流転」1982.10.10〉
ここで沼田と出会う。柔術の先生から酒を飲まされる。〈小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」・「ものろぎや・そりてえる」〔『癡人の独語』〕・「少年時代の読書」〉
このころ、頼山陽の『日本外史』を読む。〈「のっどる・ぬうどる」〔『生理』〕・「少年時代の読書」〉〔『日本外史』を読んでいる間に歴史というものが面白くなり、日本歴史の書物では有賀〔博士〕の『帝国史略』という本を愛読。歴史趣味は、その後、東洋史を読むにいたってますますひどくなったが、17、8歳位で中絶。〈「少年時代の読書」〉〕
この頃、下谷あたりの古道具屋で見つけて2、30銭で尺八を買い、学校から帰ると包みもとかずに尺八を吹く。始めてから半年位ほとんど毎日吹いて唱歌位が曲りなりにも吹けるようになる。〈「エイ・シャク・バイ」〉
一時かなり刀剣に凝る。〈「らんどむ・くりちこすDADA」3〉
この頃まで、時々ひきつけを起す。〈「あやかしのことども」〉
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芝居
「昔見た芝居」:
「 再び東京へ帰ってきたのは日清戦争のすんだ時分で、私は神田の佐久間町に住んでいた。従って二長町の市村座へよく行った。山口定雄、伊井蓉峰の全盛時代である。都新聞所載の青々園か誰かの小説を脚色した「衣屋お熊」とか、「五寸釘の寅吉」とか、紅葉山人の「又意外」とかいったような芝居を見た。私はその一座にいた若月春樹という役者を知っていたので、たびたび裏口からロハで入れてもらった。そうして藤井六助とか、松島清などという役者の部屋で遊んだことがあった。それから、左団次を時々明治座へ見に行った。
私の芝居見物はその頃がまず最後だといってもいい、境遇の激変と同時に芝居どころか学校へも行けなくなってしまった。私は十三、四から十八、九まで、殆ど芝居小屋へ出入りした記憶はない。」
『歌舞伎年表』で確認できるのは、市村座の「法衣屋(ころもや)お熊」位である。「又意外」は、「又々意外」ではないかと思う。
若月春樹・藤井六助・松島清の名は、『新訂増補 歌舞伎人名事典』にない。『歌舞伎年表』1899.7.1 の記載に、「演伎座、「五寸釘の寅吉」。中幕「鐵石心」。青木千八郎、恩田五郎、若月新樹。」とあり、「若月春樹」は間違いで「若月新樹」が正しいのであろう。「藤井六助」についても、『歌舞伎年表』1897.8.31に、「藤井六輔」の名があり、これが正しいだろう。1895.7.6「藤井睦輔」という名もあり、同一人なのかは不明。おそらく彼らは端役で『歌舞伎年表』などから洩れていることもあるのだろう。
「五寸釘の寅吉」は、市村座でなく、ほかの小屋の芝居であろう(後述)。
『歌舞伎年表』1896年:
「〇二月十三日、市村座、「法衣屋(ころもや)お熊」。中幕「野中至」。伊井山口両派合併。
都新聞に掲載の「法衣屋お熊」、新聞社の応援もあり、伊井の人気出盛りの時といゝ、好景気。小島文衛の娼妓紫君上出来。」
辻恒
妹、恒が生まれた年月日は、谷沢永一・浦西和彦、編「辻潤年譜」による。「全集年譜」でもこの年になっているが、月日の明記はない。実際の誕生年月日と戸籍の誕生年月日の相違も考えられるので、この日付は、いくらかあやしい訳である。一般的に段々生まれた日の近くに入籍するようになったのは間違いなく、これは乳児死亡率の改善に関係している筈(公的と私的の使い分けが面倒ということもあるだろう)。
『辻潤全集』別巻に写真が掲載されている辻潤の診断書によると、のちにさらに一人妹が生まれたが、夭死している。
大人になってからの恒については、下町風ということで、どの人の書くものも一致している。下町風のきれいな女〈野上弥生子「野枝さんのこと」・武林無想庵「文明病患者」〉、「下町風の蒼い顔をした」娘〈平塚らいてう「伊藤野枝さんの歩かれた道」〉。
伊藤野枝「乞食の名誉」:
「妹は本当に勝気な無遠慮な女であつた。彼女に会つてはとし子はとても勝身はなかつた。理屈などはまるで通らなかつた。どうかすると、母親さへも彼女には極(き)めつけられて困る事があつた。」
(妹=恒、とし子=伊藤野枝)。
辻一家の経済状態が悪かったので、恒の教育は小学校だけだったと思われるが、少なくとも一時期はキリスト教徒だったらしく〈「消息」〉、夫が小学校教師や作家というのだから、知的なところもある人だったのではなかろうか。『ダダイスト辻潤』p.34もそのように書いている。
開成尋常中学校への入学
開成中学に入学したことは辻潤自身が書いている。
「エイ・シャク・バイ」:
「 僕はその頃高等二年(今の尋常六年)を出て、開成中学に通っていた。」
開成中学校の簡単な沿革。
1871年 佐野鼎ら、神田相生橋〔のち神田淡路町〕に共立学校(きょうりゅう がっこう)を創立。
佐野の急逝後に廃校同様となる。
1878年 大学予備門教授の傍ら高橋是清が校長、鈴木智雄らが講師に就任。共立学校を大学予備門への進学者のための受験予備校として改革。
1879年 共立学校からの大学予備門入学者が定員466人のところ、112人に達する。〔その後も1890年代初期まで70人台、40人台、50人台と推移した〕。
〈『東京開成中学校校史資料』東京開成中学校 1936年〉
1891年 尋常中学校令により、尋常中学共立学校と改称。
「1886年及び1891年の中学校令公布により、1府県1中学と定められたことにより東京に受験生が集まらなくなった私立各校とも軒並み経営が傾き、当時官公立校に対してだけ認められていた在学生に対する徴兵猶予や校地に対する免税などの特権を得る便法としての有利な条件も働き、数多ある私学のうち、共立中学(都立戸山高)と共立学校(開成)が東京府の管轄下に入り、1895年にはそれぞれ東京府城北尋常中学校、東京府開成尋常中学校と改称した。このとき、校名が「共立学校」から「開成」となったのは、東京府当局が「共立」と「府立」は相容れないとして難色を示したためだとされている。」
1899年 中学校令改正により東京府開成中学校と改称。
1901年 《各種特権が私学にも与えられるようになり、》府の管轄から私立へ復して私立東京開成中学校となる。
1919年 東京開成中学校と改称。
〈「開成学園」wikipedia〉
「全集年譜」には前年の1895年に開成尋常中学校に入学とあるが、これは以下の理由によって間違いである。
斎藤茂吉「瘋癲と文學」には、辻潤とは1896〔明治29〕、1897〔明治30〕年の交わりで、同級生だったとある。『斎藤茂吉全集』〔1954年および1976年刊〕の「斎藤茂吉年譜」や斎藤茂吉「私の困つた學科」によっても、斎藤茂吉は1896〔明治29〕年9月11日第5級に2学期から入学とあり、この頃は1年生を5級生といっていたとある(1898年まで、1年生が5級生、以下2年生が4級生と続き、5年生が1級生〈開成高校からの教示〉)。「斎藤茂吉書簡」によっても、斎藤茂吉の1896年という入学年は疑いようがなく、辻の入学もこの1896年であることになる。
「吹田順助先生年譜」にも、吹田順助は、1897〔明治30〕年4月、府立開成中学2年級に編入とあり、同級生として辻潤の名がある。
辻が前年入学して一年留年したなどということは、辻程の聡明な男に対しては考えられない。中学校の低学年では、現在と同様、留年は病気などによる長期欠席の場合などのほかは希であったようだし、また辻が留年したと書かれたものもない。
斎藤茂吉「瘋癲と文學」には辻潤が英語がよく出来たと述べているから、おそらく斎藤茂吉と辻潤は一緒の教室で学んでいる。『やまと新聞』1932〔昭和7〕年2月10日号の記事にも斎藤茂吉はクラスメートとある(2007.4頃のNHK TVによると、「同級生」はもともとクラスメートという意味だが、近頃は、同一学校の同じ学年の者、さらに同一年齢の者というふうに意味が拡大しつつあるとのこと。「若者」言葉をあまり知らなかったであろう寺島珠雄の『南天堂』p.358には「全国的同級生」という言葉が見えている)。
辻潤が英語がよく出来たということでは、斎藤茂吉は最初、英語に苦労したからそう見えたのだろうし、辻潤が英訳書を出していることを知ってのリップサービスということもあるかもしれない。山形の学校に通っていた斎藤茂吉はそうではなかったが、ほかの生徒の中には高等小学校で既に英語を学んでいた者もいたかもしれない。
「全集年譜」には、一級上または同級生として、田辺元が挙げられている。これは、『辻潤集』月報の「略歴」以来、そうなっているのだが、間違いである。『ダダイスト辻潤』p.54に「辻と同級の田辺元」とあり、この「同級」はクラスメート or 同じ学校の同学年の意味だろうから、やはり間違い。
田辺元は、のち京都大学哲学科教授。「斎藤茂吉年譜」や「吹田順助先生年譜」などには同級生として田辺元の名はない。田辺元(はじめ)は、『日本近現代人物履歴事典』によると東京府立四中を卒業、『日本近現代人名辞典』によると城北中学校を卒業で、中学校名が違うのは、のちに名前が変わったからである。城北尋常中学校は、もと私立で、東京府に寄付され、東京府城北中学校となり、1901年4月より、府立四中になっている〈『国民新聞』1902.9.24号・『官報』1901.3.5号〉。
斎藤茂吉「私の困つた學科」・「そのころの想ひ出」には、田辺元〔田邊元〕らの父である田辺新之助が新たに校長になって英語を教えたとある。一年時の途中からのようでもあるが、時期は明確ではない。『開成学園九十年史』p.49によれば、田辺新之助が校長になったのは、1897〔明治30〕年で、斎藤茂吉・辻潤が2年生の時である。おそらく、菅野青顔が辻潤から話を聞いた際、田辺新之助と田辺元を取り違えて、田辺元が同級生ということになったのではないか。
斎藤茂吉によると、開成中学は、5年生の時に私立になったが、それまでは府立で、ニコライの寺院が近かったとある。開成中学校は校舎もきたない、机などもお粗末、しかし東京中でも優秀な中学で、評判がよかった。もと共立といったらしく、その頃でも、共立共立と生徒らも自慢していた〈斎藤茂吉「そのころの想ひ出」〉という。
教師などのことは、斎藤茂吉が書いている。
同級生
同級生のことは、斎藤茂吉が書いている。
その中で吹田順助はマックス=スチルナーの記事を新聞に書いている〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.300・『東京朝日新聞』1910.4.1号・など〉ので、辻潤と関わりがあってもよさそうに思うが、吹田の本を読んだことは書いているが、退学後、直接会ってはいないかもしれない。そのほか、村岡典嗣が「ものろぎや・そりてえる」〔『癡人の独語』〕に出ている。
「自分だけの世界」:
「『唯一者とその所有』という書は、これまでの哲学史上からは殆ど無視されてきた。つい近頃、僕は吹田氏の訳したヴァンデルバンドの『十九世紀独逸思想史』という書を瞥見したが、その中でもヘエゲル左党の一人によって書かれた「奇異なる」一個の著作として辛うじてその存在を認められている位なものである。」
「ものろぎや・そりてえる」〔『癡人の独語』〕:
「今では「月光」として知られている梵天は、だが昔から僕の心を牽きつけていたのだ。僕はその仏の姿を初めて村岡典嗣の――彼がまだ学生で根津の牛舎の家にいた頃――書斎で見た。樗牛全集第一巻の中に発見したのだった。」
柔術
菅野青顔「萬有流転」1982.10.10:
「<辻潤>から『若いとき、磯又右衛門のはじめた天神眞揚流の柔術をケイコしたものだ」という話をきいたことがある◆後年平凡社刊の『日本人名大事典』第一巻を引くと、
▼イソマタエモン 磯又右衛門(一七八六〜一八六三)幕末の武術家、天神眞揚流柔術の祖。天明六年生る。近江の人。名は正足、柳関斎と号した。神田於玉ケ池に住す▼一柳織部に揚心流をまなび、また本間文右衛門に就いて術をみがく。のち天神眞揚流を開いて一家を成し、門人三千人と称せられ、声名江戸に鳴る。▼文久三年歿、年七十八。嘉納講道館主はこの流派を極む(神田文化史)」
辻潤の通った時期は不明で、「全集年譜」に従っておく。磯又右衛門は1863年に死んでいるので、「全集年譜」の「天心真揚流磯又右衛門の道場に通う。」は間違いor不正確である。
小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」によると、13歳の時、柔術を習った。柔道で一緒だった友から、のちに英語を習うことを勧められたとあり、この友は沼田と考えられるので(後述)、沼田とは、柔術の道場で出会ったことになる。
刀剣に凝る
「らんどむ・くりちこすDADA」3には、13、4の頃、一時かなり刀剣に凝ったとある。この年に入れてみた。
「ものろぎや」:
「 少年の時から、私は病弱で、恐ろしくシャイな人間だった。人ごみが大嫌いで孤独を愛する質の人間だった。
少年の癖に遊戯や運動がきらいで、陰気なことが好きで、玩具を持って遊ぶことにもさしてキョーミを感じなかった幼年の頃、私がややキョーミを持ったものは刀剣の類であった。」
『日本外史』
「のっどる・ぬうどる」〔『生理』〕:
「漢文も十二、三位な時『日本外史』を少しばかり食いかじったきり、『十八史略』や『文章軌範』さえロクロク読んだことはなかった。」
「少年時代の読書」に「その頃、私は『日本外史』を三、四巻よんでいた」とある。
斎藤茂吉「私の困つた學科」に、開成中学校に入ってからのこととして、「日本外史なんかは私は郷里で習つてゐるから、ちつともむずかしくないのに、東京の少年たちは日本外史がよく読めない。そこで私は、東京の生徒だつてちつとも恐く無いとおもふやうになつた。」とある。「寒村自伝 上」によると、荒畑寒村も高等小学校で『日本外史』の素読を受けている。『日本外史』は、日本史、同時に漢文のテキストかと思われたのだが、斎藤茂吉「三筋町界隈」によると、漢文のテキストである。一般的に、高等小学校や中学校の漢文の教科書あるいは教材として、『日本外史』が使われていたものらしい。『むさうあん物語』21 p.122 に、武林無想庵が「小学校の頃「日本外史」をあげた」とあるのも、高等小学校でだろう。「全集年譜」では、辻潤は、1893年に『日本外史』を読んでいるとなっているが、中学校で習って読み出したとみる。
『帝国史略』
国会図書館蔵書検索によると、有賀長雄(アリガナガオ)〔:1860-1921〕、編の『帝国史略』、出版者: 牧野善兵衛(マキノゼンベエ)、 出版年:1892-1893。
「全集年譜」の幸田露伴の『風流仏』などの疑問
「全集年譜」に、この1896年、「幸田露伴の『風流仏』『一刹那』『有福詩人』などや、『しがらみ草紙』を読む」とある。『日本近代文学年表』によると、『しからみ草紙』は、1889年10月に創刊、1894年8月で終刊である。この1896年に『しからみ草紙』を読んだというのなら、古い雑誌を読んだというのだろうか。幸田露伴の『風流仏』の刊行や「一刹那」の発表も1889年であり、疑わしいので採用しない。
なお、「幸田露伴著作年表」には『志がらみ草紙』とある(この「志」は、おそらく変体仮名)。
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この当時、義務教育は、小学校〔尋常科〕の4年まで。満6歳の子供が入学。小学校にはさらに高等科を置いている場合が多かったようである。当時〔1900年頃〕、小学校高等科は4年まであったが、中学校入学資格は2年修了で、多くは3年を終えて上級学校へ進んだ〈「萩原朔太郎年譜」注 1900年〉、というのだが、斎藤茂吉によると中学校の1年生を5級生と呼んでいたなど、すこし様子が分からないところがある。斎藤茂吉は、小学校高等科4年を卒業して数え15歳で中学校に入っている〈「斎藤茂吉年譜」〉。谷崎潤一郎も小学校高等科4年を卒業して中学校に入っている(奉公に出る筈だったが、中学校に進んだという)〈「谷崎潤一郎年譜」、など〉。
斎藤茂吉:1882.5.14-1953.2.25。〈「斎藤茂吉年譜」〉
吹田順助(すいたじゅんすけ):1883.12.24-1963.7.20。〈「吹田順助先生年譜」、「吹田順助」『日本近代文学大事典』〉
「唯一者とその所有」の題を「吹田蘆風(吹田順助)は「マクス、スチルネル」(『東京朝日新聞』明治四三・四・一)の中で「唯一人と其所有」としている。」〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.300・『東京朝日新聞』1910.4.1号 3面〉
村岡典嗣(むらおかつねつぐ):1884.9.18-1946.4.13。〈「村岡典嗣」『日本近代文学大事典』〉
「吹田順助先生年譜」には、吹田順助の親友とある。
田辺元(たなべ はじめ):1885.2.3-1962.4.29。〈「田辺元」『日本近代文学大事典』〉
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1897 明治30 | 13 14 |
父、辻六次郎が失職し、家庭の経済状態が悪くなる。〔14、5円家賃をため、辻六次郎は実弟に借家を追出される。〕〈小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」〉
家計の悪化は母美津の乱費にもよるか。〈『ダダイスト辻潤』p.45・伊藤野枝「惑ひ」〔『新日本』〕・など〉
6月分の開成中学校の学費を納めない。〈「明治三十年度授業料納入記録」〉(この月、授業に出ないか)。
10月 《尺八に夢中になり、》この月で、学業の怠惰と家庭の経済状態の悪化により開成中学校を退学(11月には開成中学校に行かない)。〈「エイ・シャク・バイ」・「生徒并保証人台帳」明治29年度台帳の乙帳・「明治三十年度授業料納入記録」〉
辻潤は毎日尺八を吹いて暮らす。父、六次郎は時々、小言を言うが、母の美津は黙認。〈「エイ・シャク・バイ」〉
この頃、『徒然草』を読む。〔以来、愛読書となり、ときどき取り出して読む。〕〈『浮浪漫語』の「序詞」・「自分だけの世界」・「ふもれすく」・「少年時代の読書」〉
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中学校2年で退学
「エイ・シャク・バイ」:
「 僕はその頃高等二年(今の尋常六年)を出て、開成中学に通っていた。しかし俺の怠惰と家庭の事情――つまり経済状態で――中学の二年を修業せずに退学してしまったのだ。」
「辻潤年譜」『ニヒリスト 辻潤の思想と生涯』では、1896年10月頃に退学で、これが開成中学校の退学を記した最初の辻潤の年譜だろう。谷沢永一・浦西和彦、編「辻潤年譜」では、1896年10月、退学とある。「全集年譜」では、1896年9月。おそらく、ここで始めて9月が使われた。9月というなら、夏休み中に学校に行きたくなくなって退学ということになるだろうか。
開成高等学校所蔵の「生徒并保証人台帳」明治29年度台帳の乙帳には、退学年月日が、1897〔明治31〕年11月とある(甲帳にはないという。甲帳・乙帳の違いは不明)。しかし、「明治三十年度授業料納入記録」では、6月分が「欠」、8月分は夏休みで授業料は納付する必要がなかったらしく空欄、そののち9月、10月分まで納付記録があり、そののちは空欄となっている。従って、明治29年度台帳の乙帳の退学年は間違いで、やはり、正しくは1896年であろう。月は、「生徒并保証人台帳」を採用するが、授業料が前納制であれば、10月に退学としても決して間違いとは言えないだろう。だが、「全集年譜」のように9月とするのは疑問だろう。
『ある英国人のみた明治後期の日本の教育』p.98によると、1900年頃の中学校は在籍者の内半数が退学するという状況であった。最も多い理由が一身上の理由で、これは経済上の問題だとあるが、安易に退学する風潮があったことは否めないだろう。
今日でも、中学校の勉強がどれだけ生きるのに役立っているだろうか。中学校で勉強するより、職人の弟子になり、商人の丁稚奉公でもやった方がよいと思うのは当然であろう。官僚制の進展と工業化が進まないと、なかなか高度な教育の必要性は認められないのではないか。
開成中学でも、ほぼ同じような状況であったらしいことは、『読売新聞』1900.3.28 5面の入学案内から窺うことができる。1年級の95人を募集しているとともに3年級の30人などを募集しているのは、それだけ退学者がいたからだろう。3年までに、ほぼ三分の一の退学者があったらしい。
退学者数〔or 率〕は、その後、時代が進むにつれて減少したに違いないが、1945年の敗戦までを通じて、高等小学校・中学校の退学者は比較的多かったらしい。勿論、地域差なども大きいだろうが。1934年頃、千葉県=東葛飾郡=木間ケ瀬村〔のち関宿町〕で、尋常小学校の卒業生60人のうち、中学校に進んだのは1人、高等科へ進学した者が25人だが、高等科2年になるとやめて徒弟奉公に行く者も出て20人ほどに減ったという〈『天皇の軍隊』〔本多・長沼〕pp.260,..〉。
辻潤は家の経済状態も退学の理由にしているが、あまりよくなかったのは間違いないらしく、6月分の授業料は納められていない〈「明治三十年度授業料納入記録」〉。おそらく、家庭の経済事情のためだろう。勉学意欲もない状態で、11月も同様の事態となって、嫌気がさして退学したということではなかろうか。
しかし、家の経済状態をそれ程、重く見る事ができるかは疑わしい。そのことは、退学後、辻潤が毎日、尺八を吹いて暮らすのに、父、六次郎が時々小言を言った〈「エイ・シャク・バイ」〉ということからも窺える。辻潤は、のちに国民英学会に入学しているが、開成中学校より学費が安かったが、その月謝などは六次郎が払っていた筈である(『ダダイスト辻潤』に辻潤が某会社の給仕をしていたという話があり、これは「三ちゃん」によるらしいが、「三ちゃん」は虚構のある小説である)。辻潤が、その気なら、中学校を続けることは出来た筈である。
小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」によると、経済状態は、かなり悪かったのかもしれない。
小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」:
「開成中学には何の位居たのですか。
十二三の時行つて、二年程行つたかな、僕は其時分不良少年だつたよ、それは僕の内の家庭が面白くなかつたからだね、随分貧乏でね親爺が失業しちまって叔父の家を借りて居たんだがね、此叔父は親爺の実の弟でしたが、それは高利貸位ひでい奴なんだ、唯十四五円家賃をためたからとて追出されたよ、僕の親爺は温順しくて実の弟に追出されたんだ、此の時は悔しくて僕の貧乏は何時もだが、此時程精神的に苦しい事はなかつた、金の無い時は平気だが精神的貧乏は尚苦しいよ。」
辻六次郎は、1903年には東京市に勤めていて、それから失職したらしい。「親爺が失業」というのが、そのことだとすると、年月の開きが大きすぎるようである。辻潤が開成中学に通っていた頃にも、辻六次郎の失職があったのだろう。「此時程精神的に苦しい事はなかつた」とあり、よく覚えている筈である。実弟の借家を追い出されたというが、もう少し先のことかもしない。学費を納めていない6月前、年度替りの4月に失職したのかもしれない。ここでは、6月頃、失職としておく。
辻が書いているように、辻自身の怠惰と家庭の経済状態から、中学校を辞めた、というのが、正解と思われる。
参考として、1900年の正則英語学校と開成中学校の入学案内を記す。月謝は、正則英語学校〔昼〕が1円、開成中学校が2円となっている。〈『読売新聞』1900.3.28号 5面〉
「 ○正則英語学校 神田麹町三丁目
新学期開始期 四月四日
申込及び試験日 四月四日、当分無〔試験〕
募集種類人員 官立学校入学受験〔予〕備科
入学及び在学費 束修一円、月謝一円(夜学科の束修ハ半額)」
「 ○東京府開成中学校 神田淡路町二丁目
新学期開始期 四月九日
入学申込期日 三月三十一日まて
同 試験期日 四月五日
同 試験科目 一年級読算〔 〕作、二年級以上前級全科
募集種類人員 一年級九十五人三年級三十人四年級七人
入学及び在学費 受験料五十銭月謝二円
在学中の特典 徴兵猶〔予〕一年志願兵等」
〔 〕は判読不確実の文字。
辻美津の乱費
家計の出費ということでは、妹の恒のあとに赤ん坊が生まれ夭死しているというから、その医療費も考えられるだろうか。
松尾季子は、のちの辻一家のことしか知らない訳だが、辻美津について次のように書いている。
松尾季子「思い出」(一):
「彼はその母を尊敬し愛しましたが、彼のお母さん位子供に苦しみを与えた人も稀でしょう。事情は違うけれど、彼の母子関係を追想する時画家ユトリロの母を連想したり致します。光女は懸命に子供を愛しつくして居るつもりだった様でございますが、現実にはそれが反対に働いていた様に思えます。」
市橋善之助「酒・女・英語」:
「「おれのおふくろと来ちゃあ味噌汁をたてることも知らず、朝からてんや(店屋)物を買っていたんだからね」といってこぼしていた」
市橋善之助「夢なきものの悲劇」:
「彼は十九の時から、母親が不了見だったので、英語の家庭教師になり、田端から日本橋へ歩いて通って報酬をもらって一家をささえた。」
のちに辻潤が母の美津に言った言葉を伊藤野枝が書いている。
伊藤野枝「惑ひ」〔『新日本』〕一:
「 『冗談いつちや困るよ。お母さんさへ馬鹿な真似をしなきやあ、何一つ不自由しないでも済むんじやないか。俺があたり前なら勉強ざかりを十年も棒にふつたんだつてお母さんが無茶をやつたせいじやないか! お母さんはもう若い時から散々勝手なまねをして来たんじやないか。(以下略)』」
美津がどんな「馬鹿な真似」や「無茶」をやったのかは不明。「勉強ざかりを十年も棒にふつた」というのが、会文学校で働かねばならなくなった以降のこととすれば、「無茶」というのは、六次郎が失職してから、骨董屋を開いたことに関係があるかもしれない。
愛読書『徒然草』
「十四、五時分の愛読書(今でも時々引っ張り出して読む)が『徒然草』であった」〈「自分だけの世界」〉。「十四、五歳位な時の愛読書が『徒然草』」〈『浮浪漫語』の「序詞」〉。「十三、四の頃『徒然草』を愛読して既に厭世を志した」〈「ふもれすく」〉。
「『徒然草』を最初に手にしたのは十四、五歳位の時だったが、その後ずっと自分の愛読書の一つになった。」〈「少年時代の読書」〉
「全集年譜」には、1898年に『徒然草』に親しむ、とある。
「水島流吉の覚書」2に、「 日本の古典――古典というのは実は単に昔の本という位な意味だと思ってもらえばいい――で繰り返してよんだのは『徒然草』位なもので、あとは殆ど知らないといってもいい。」とあるが、「癡人の手帖」1には「この手帖の作者を知るにおよそ便利なる若干の参考書」として、日本の古典としてはそのほかに「古事記」・「日本霊異記」なども挙げている。古典というより、怪奇趣味・幻想趣味の本ということかもしれない。
老子
「老子」について、ここで触れておく。
「水島流吉の覚書」2:
「 自分は少年の時から老子が好きだった。老子にどんなことが書いてあるか知らないうちから老子が好きだった。だれに教わったというわけでもない。」
「連環」:
「私が「老子」を読むようになったのは、恐らく巌本先生のお蔭だと思っている。先生は先生が当時経営されていた明治女学校が、キリスト教の主義に基づいた教育を授けているにもかかわらず、「老子」を倫理教科書とし、「女学雑誌」にもまた時に「老子」の講義を掲載され、また先生の書かれる文章中にもたびたび老子の文句を引用された。かなり長い間休刊していた「女学雑誌」の復活第一号の巻頭に、先生が書かれた「道の道とすべきは常の道に非ず、天時に従って寒暑春秋あり」という言葉を冒頭とした文章を、私は幾度か繙読したことを未だに忘れることが出来ない。」
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1897.1 大橋乙羽、編『一葉全集』博文館。〈『日本近代文学年表』〉
1897.4.27 上野に帝国図書館を開設。〈「宮沢賢治年譜」〉
1897.8 島崎藤村『若菜集』春陽堂。〈『日本近代文学年表』〉
1897.11.19 常磐線の日暮里−岩沼間が開通。〈『明治・大正家庭史年表』p.255〉
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1898 明治31 | 14 15 |
この年の頃 御徒町の私塾に通う。〔私塾をやめ、尺八吹きになろうとする。〕〈小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」〉
母の美津の奨めもあって、初代の荒木古童の門に入り尺八を習う。稽古日は三の日と八の日。半年位通っている間にいよいよ熱中し専門家になろうという気を起こし、経済上の都合もあり、内弟子に住み込む希望を荒木古童に話したが、荒木古童に反対される。〔2年半ほど習う。〕〈「エイ・シャク・バイ」・樋口十六「狂へるダダイストの精神鑑定」・「全集年譜」〉
この頃、講談本や江戸時代の稗史(はいし)小説類をかなり沢山、乱読。〈「自分はどのくらい宗教的か?」〉
この頃、宮崎虎之助と知り合う。〈「自分はどのくらい宗教的か?」〉
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荒木古童
荒木古童に入門した年は、「全集年譜」による。
「十四、五歳の時、初めて尺八を吹いて身を立てようという考えを起こした事がある」〈「『浮浪漫語』の序詞」・「エイ・シャク・バイ」〉
「エイ・シャク・バイ」:
「「じゅんちゃん、おまえがそんなに竹が好きなら、いっそどこかいいお師匠さんのところへ習いに行ったらどうだい」と、ある日のことおふくろがきり出したので、俺は〆太と心の中で思った。おふくろは自分でも暇さえあると三味線を出しては歌っていたが、内々俺の尺八の進歩を喜んでいたのだ。
俺は早速おふくろの忠告に従った。どこかにいい先生があるかと尋ねると、おふくろはしばらく考えていたが――
「そうだね、ここから遠くない処なら、まず代地にいるお師匠さん位なものだが、あすこはおまえのような子供の行くには少し上等過ぎるが、どうせ習うたらいいお師匠さんのところへ行かなくっては損だから、あすこへ行ってみるか? ――私が一緒に行ってあげてもいいが少しめんどうだから――」といった。」
何が面倒なのか。それで、辻潤は一人で代地の竹翁のところを訪れている。
樋口十六「狂へるダダイストの精神鑑定」によると、15歳の時で「二年半ほども習つたかなァ」とある。
いつまで習っていたのかは、はっきりしないが「エイ・シャク・バイ」のその下りには、よく分からないことが書いてある。
「エイ・シャク・バイ」:
「 師匠が今戸へ越してから、俺は間もなく通うことをやめた。俺の精神的状態に危機がやってきたのだ。俺は呑気に尺八などを吹いてはいられなくなった。もっとシリアスな問題が頭の中をカチャカチャに掻きまわし始めた。俺は自分の好きな文芸を一切放擲して勇敢に走った。――原因はそう簡単に片づけるわけにはいかない。その話はまた他日に譲る。」
15歳で尺八を習い17歳でやめたとすると、「シリアスな問題」とは国民英学会に入って、キリスト教にのめりこんだことなのだろう。
「永井荷風年譜」によると、竹翁=古童。
読書
「自分はどのくらい宗教的か?」に、内村鑑三の『求安録』を手にして、内村鑑三の著作は殆ど片端から読むまでは、講談本や江戸時代の牌史(?)小説類を乱読、とある。講談本・江戸時代の稗史小説を乱読したことはここに入れておく。
「牌史」は「稗史」の誤植 or 誤字。稗史(はいし)は、稗官(はいかん)が世間の噂やこまかなことを歴史風に書いたもの。転じて小説。世間の噂や小事件を記録した小説風の歴史〈『広辞苑』など〉。
「少年時代の読書」:
「明治文壇の巨匠の作品でも、露伴のものは少しばかり読んでいたが、紅葉はほとんど読んでいないといっていい。幾度も繰り返して読んだのは『一葉全集』と緑雨の作品である。」
「全集年譜」に、この年、『文章倶楽部』に載った泉鏡花の「髯題目」など2、3の作品を読む、とある。
辻潤は、泉鏡花について「鏡花礼讃」を書いているが、「髯題目(ひげだいもく)」に触れてはおらず、何故、ことさら、この年に「髯題目」を取り上げる必要があるのか分からない。
『文章倶楽部』とあるが、『文芸倶楽部』の間違い。『鏡花全集』別巻の「作品解題」によると、「髯題目」は、1897年12月『文藝倶樂部』第3巻第16編に発表とある。『日本近代文学年表』によると『文章倶楽部』の方は、1916年5月創刊、文芸、投書誌、加藤武雄ら編、新潮社〔〜1929.4〕。
宮崎虎之助
「自分はどのくらい宗教的か?」:
「死んだ予言者宮崎虎之助氏とは私が十五、六歳頃からの知り合いであった。」
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1898.6 『東京独立雑誌』創刊。評論誌。内村鑑三、主筆。〔〜1900.7〕〈『日本近代文学年表』〉
1898.6 内村鑑三、『東京独立雑誌』を創刊。6.10。〔〜1900.7〕〈「有島武郎年譜」〉
1898.10.1 東京市役所、開始。〈『時事新報』1898.8.19号、など〉
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1899 明治32 | 15 16 |
7.1 演伎座で「五寸釘の寅吉」を観る。〔芝居見物はこの頃が最後。〕〈「昔見た芝居」・『歌舞伎年表』〉(他日、別の小屋か)
辻潤より三つばかり年長で神田のある弁護士の書生をしながら国民英語学会(?)の夜学に通っていた沼田という友達がいたが、沼田と文学談を試み、王陽明の『伝習録』を愛読し、日本文学一点張りで、世界中で近松・西鶴に及ぶ文学者はひとりもいないように心得ていた辻は、なんにも知らない外国文学をやたらに攻撃した。沼田は『ハムレット」や『ジュリアス・シーザー』を見せて、これはイギリスの近松といわれる世界的な大文豪で、近松など遠く及ばないほどエライ人間だ。文学をやるなら是非外国文学を知ることが必要で、まず英語は必要だから勉強しろと熱心に勧め、辻潤も英語を勉強する気になる。〈「ものろぎや・そりてえる」〔『癡人の独語』〕・「少年時代の読書」〉
国民英学会の英文科に入る。磯辺弥一郎・豊橋善之助・高橋五郎・岡村愛蔵・ドクトル=ウッドらに学ぶ。同級に小倉清三郎(おぐらせいざぶろう〈国会図書館蔵書検索〉)〔福島県=須賀川出身〕・一条勇吾〔宮城県=白石出身。のち仙台市で写真館を開く〕、星嘉十郎〔宮城県=角田(かくだ)出身〕らがいた。〈「全集年譜」・「天狗だより」・『辻潤全集』別巻の国民英学会の卒業証書の写の写真・『角川地名大辞典 4 宮城県』〉
国民英学会でユニオンの『第四読本』を習っているうちに、キリスト教の思想に影響され始める。『東京独立雑誌』を読んでいた同級の小倉清三郎と親しくなり、その雑誌をかりて読んでいる間に内村鑑三に魅かれ、内村鑑三の『求安録』を手にしてキリスト教に帰依し始める。〔内村鑑三の著作は殆ど片端から読む。〕〈「自分はどのくらい宗教的か?」・「少年時代の読書」〉
〔クリスチャンになって、酒を飲むのを止める。〈小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」〉〕
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「五寸釘の寅吉」
辻潤は、「昔見た芝居」で、市村座で「五寸釘の寅吉」を観たように書いているが、『歌舞伎年表』にはない。
『歌舞伎年表』によると、「五寸釘の寅吉」は、この1899年、4.9 常盤座、7.1 演伎座、7.9 常盤座で上演されている。7.1 演伎座の芝居には、若月新樹が出ているようなので、この日の可能性が最も高い。
「昔見た芝居」では、「私は十三、四から十八、九まで、殆ど芝居小屋へ出入りした記憶はない。」とあるが、この年、「五寸釘の寅吉」を観て、それから、しばらく芝居を観に行くことはなくなったものとする。
これが正しいなら、久々に「五寸釘の寅吉」という芝居を観たものだろう。
国民英学会で学ぶ
「少年時代の読書」:
「 私が真面目に英語を勉強しようと志した動機は、その頃私に三つばかり年長のNという友達のところでしきりに文学談を試みていた時に、私は日本文学一点張りで、世界中で近松、西鶴に及ぶ文学者はひとりもいないように心得ていた時代だったから、なんにも知らない外国文学をやたらに攻撃したのであった。
その時、彼は当時神田のある弁護士の書生をしながら国民英語学会の夜学に通っていたが、すでにシェークスピアとかミルトンとかいう名前を知っていて、私にカッセル版の『ハムレット』や『ジュリアス・シーザー』を見せて、これは英国の近松といわれる世界的な大文豪で、近松など遠く及ばないほどエライ人間だ。君も文学をやるならこれからは是非外国文学に眼を曝さなければ到底偉大な文学を生むことは出来ないだろう。まずなにしろ、英語は必要だから勉強したまえと熱心に勧められたので、私もとうとう兜をぬいでエイゴを勉強する気になったのである。
Nはその頃、英語ばかりでなく『東菜博議』だとか、『伝習録』なども読んでいたので、漢文の素養からいっても到底私は彼の脚下にも及ばなかったから、彼の説に従ったのである。その頃私は知識欲に炎えていたから、出来るなら国民英学会ばかりでなく二松学舎や物理学校へも入学してみたかったのであった。」
「ものろぎや・そりてえる」〔『癡人の独語』〕:
「そのNという友達は二十年もまえから、幾度かビルマと東京の間を往復していながら、未だかつて京都へ下車したことのない変物なのだ。彼は僕の少年時代に、陽明の『伝習録』を愛読していたら、しきりに僕に英語の勉強をすることを勧めてくれた。僕が英語を習う気になったのはまったく彼の煽動の賜物であるのだ。」
Nが誰かだが、高橋新吉「ダガバジジンギヂ物語」九には、「辻潤の少年時代からの友人に、沼田という人物があった。沼田は、泰国で、成功した貿易商だった。」とある。沼田は、高橋新吉「ダダ」三にも出ていて、「 ビルマで貿易商を営んで居て、陽明主義の独身の丸い男である。」とある。沼田とする。
入学年は「全集年譜」による。学校名は、『辻潤全集』別巻の口絵写真に卒業証書の写しがあって確認できる。「全集年譜」では「正則国民英学会」となっているが、ここでは「国民英学会」とし、神田区錦町3丁目という住所は採らない(後述)。
「水島流吉の覚書」:
「 シェークスピアをよみたい一心で英語を習い始めたのだが、未だにシェークスピアを一冊も満足によんだことはない。」
『ダダイスト辻潤』p.51には「この国民英学会へは、多分昼間働いて夜間通っていたのではないかと思う」とあるが、このことを明確に示すものはない(あるとすれば、「三ちゃん」)。辻潤の書いたものでは、「十九から私塾の教師に雇われ」た〈「ふもれすく」〉のが、最初の仕事である(数え20が正しい)。後述するが、国民英学会卒業後、私塾で働くまでの間、どこかで働いていたらしい様子はなく、これらのことからすれば、昼間働いていた可能性は小さい。
小倉清三郎、一条勇吾、星嘉十郎
「全集年譜」によると、正則国民英学会の同級に福島県須賀川出身の小倉清三郎、宮城県白石出身の一条勇吾〔のち仙台市で写真館を開く〕、宮城県角田出身の星嘉十郎らがいた、とある。
同様のことは、菅野青顔・辻淳「辻潤略歴」にあり、それが初出だろう。
小倉清三郎については、『元始、女性は太陽であった』p.541に「辻潤さんの正則英語学校時代からの旧い学友だそうで」とある。
「天狗だより」に出てくるIは一条勇吾、Hは星嘉十郎と思われるが、「天狗だより」によると、「Hは国民英学会の同窓で特に自分の親しく交わった友達だった」が、「元来Iを知ったのはHを通じての話」とあり、Iも国民英学会の同級だったかは、ややはっきりしない。この二人は、「天狗だより」執筆時、故人という。そのほかSという人物が出てくるが、不明。このSは、「天狗だより」6に「石巻出身の有名な映画俳優Kの兄キのSという男とも私は深い因縁をつくっていた」とあるSと同じ人物だろうか。「消息」にも純正哲学科に入った角帽姿のSが出てくる。
正則国民英学会と正則英語学校
斎藤茂吉は、開成中学校を卒業し、英語とドイツ語という受験科目の規則の変更もあったりして、第一高等学校の受験に失敗し、それから午前中は開成中学校の補習科に通い、午後は正則英語学校に通った〈斎藤茂吉「そのころの想ひ出」〉という。
「平塚らいてう年譜」に、1909年に平塚らいてうは、
正則英語学校に入学と出ており、『元始、女性は太陽であった』p.541には、小倉清三郎は「辻潤さんの正則英語学校時代からの旧い学友だそうで」とある。
『むさうあん物語』2 p.193によると、武林無想庵は、おそらく中学生の頃〔1894.4 東京府尋常中学校に入学〈「武林無想庵年譜」〉〕、錦町の国民英学会の夜学に通って、高橋五郎などの講義を聴いている。
「英語学校」と「英学会」というのが出てくる。辻潤が入学した(正則)国民英学会という名前は『辻潤全集』別巻の口絵写真に卒業証書の写しが出ているから間違いないというものである(この写しは、小学校教員免許状の写と同じ筆跡で、一枚の紙に書かれているように見える。どういう写しなのだろうか)。正則英語学校というのは正則国民英学会のことなのか、別の学校なのか、正則国民英学会の正則英語学校なのかなどの疑問が起こる。結局、新聞記事によると別々の学校で、国民英学会が分裂して、(正則)国民英学会と正則英語学校ができたというのが大筋であるらしいが明確ではない。この両者は、まぎらわしいし、国民英学会の参考になると思うので以下説明する。
新聞記事によると、国民英学会の設立(開会)は、1888年2月16日、神田1丁目12番地で、イーストレーキが教頭であった〈『毎日新聞』1888.2.23号〉。イーストレーキと磯部弥一郎〔彌一郎〕が設立したもので、神田錦町にあった〈『読売新聞』1891.2.12号1面〉。『目で見る教育100年のあゆみ』p.47の、1889〔明治22〕年の「官公私立諸学校一覧」の写真によると、国民英学会の住所は錦町1丁目。以上の記事を総合すると神田区錦町1丁目12番地にあったということなのだろう。『読売新聞』1891.2.12号1面には、イーストレーキの帰国のことなどで国民英学会が分裂したことを報じているが、翌2.13号2面で、イーストレーキが帰国などということはないと訂正している。しかし、分裂は事実で、翌日の『東京日日新聞』1891.2.14号は、相談の上、国民英学会と分離してイーストレーキが日本英学院を起す、と報じている。この学校が、正則英語学校になったか、少なくとも正則英語学校と関係が深いらしいことは、イーストレーキの葬儀を報じた『読売新聞』1905.12.3号3面の記事から分かる。そこには、イーストレーキの長男・長女が正則英語学校で教えていると出ている。『日本』1900.10.17号に「正則英語学校落成式 本日正午十二時より神田錦町錦輝会館に於いて、同校舎第四周年紀念並びに新築落成式を挙行するよし」とあり、1896年に正則英語学校ができたか、旧校舎で教え始めたらしい。
はっきりしないが、国民英学会が分裂して、磯部弥一郎が国民英学会を引継ぎ、イーストレーキが関わって新たに正則英語学校が設立されたように思われる。ただし、正則英語学校の校長は斎藤秀三郎で、斎藤秀三郎は国民英学会で教えたことがあったようだが、イーストレーキとの関係なども不明で、イーストレーキと正則英語学校が、どのように関わっていたのかの詳細は不明である。
分裂ののちも国民英学会が残っていることは、『読売新聞』1908.1.6号3面の「女学界便り」に「▲女子正則英語学会 神田錦町三丁目の同校は来(きたる)八日より授業を開く▲国民英学会女子部 神田北神保町に創立されたる同部は是れも八日より授業を始める」とあることから分かる。「国民英学会女子部」があったのだから「国民英学会」もあった筈である。(記事中、「女子正則英語学会」とあるのは「女子正則英語学校」の間違いかもしれない。)
辻潤が書いているように、また新聞記事でも「国民英学会」と記され「正則」が冠されていない。辻潤生存中の履歴(『新興文学』第2巻第1号〔1923年〕の自歴、非凡閣の『日本人名辞典』)、そのほかでも同様であり、「全集年譜」の「正則国民英学会」という名前は見えない。あるいは、正則英語学校が有名になっていったので、「正則」を冠したのかもしれない。卒業証書の写しには「英語専門 正則 国民英学会」とあり、これが正式名称ということになりそうである。縦書きに書かれているが、「正則」のところだけ横書きの小さな字で書かれている。「正則国民英学会」は、正式名称としても通称としても問題があるだろう。この年譜では、「国民英学会」とする。
『読売新聞』1906.4.21号2面には、正則英語学校に入学志願者多数という記事がある。分裂後、正則英語学校については新聞記事が結構あるが、国民英学会については、まず、ない。正則英語学校は有名だが、国民英学会は無名になったようである。平塚らいてうが辻潤を正則英語学校で学んだと間違ったのは、それがためだろう。
『時事新報』1901.9.19号は、神田錦町3丁目2番地の正則英語学校の新築校舎が全焼したことを報じている。これで、当時の正則英語学校の住所が分かるが、「全集年譜」・『ダダイスト辻潤』p.50にあるように国民英学会の住所も同じ錦町3丁目というなら、同じような学校が同じ町内にあったわけで、考えにくいと思われる。ただし、『目で見る教育100年のあゆみ』p.47の、1889〔明治22〕年の「官公私立諸学校一覧」の写真にも、国民英学会のほか、錦町に「東京英語学校」という名前があるから、可能性が全くないわけでもないだろうが。「永井荷風年譜」によると、永井荷風は、1890年11月から、その東京英語学校に通っているが、1897年11月頃に、神田区一ツ橋の高等商業学校附属外国語学校清語科に臨時入学し、それが1899年4月に錦町3ノ14に移転という。錦町3丁目辺は、外国語の学校が多く集っているところだったらしい。
それでも、「全集年譜」などの錦町3丁目には明確な根拠がなく、採れない。私は、正則英語学校の住所を間違って国民英学会の住所とみなしたのではないか、と疑う。辻潤が学んだ国民英学会の住所は、神田区錦町1丁目12番地であるか、国民英学会女子部のあった神田北神保町がその候補になるだろう。
マイナーな道を歩む辻潤は、英語を学ぶ学校もマイナーな方の国民英学会を選んだというところだろうか(友人の沼田の影響のほか、学科などの理由もあるのかもしれない)。
国民英学会にも通じるものがあると思うので、参考として、1906年の正則英語学校の入学案内を記しておく。
「学校案内(一)」『読売新聞』1906.7.31号 1面:
「 ▲正則英語学校
神田区錦町三丁目に在り斎藤秀(ひで)三郎氏校主として自ら経営の任に当る且つ自ら熱心に教鞭を執り居れり同校設立の当時一年許りは生徒数僅かに三十名に足らざりしが今日に至つては本校と付属予備学校とを併せて六千名内外の生徒を収容するの盛況に達したり抑(そ)も同校は斎藤校長未だ工部大学在学中最も英語に趣味を有し日々二百ページの英書を読むを以て日課とし如何にも我邦の英語の教授方法の不完全なるを嘆じ英語教授の根本的改良研究に苦心したる結果一種の正則的教授法を案出し随つて其の校名をも正則と命じたるものゝ由
同校には予備A、B普通科一、二、三年(中学程度)高等科、受験科、文学科、外に毎年夏季講習会あり、文学科は最高程度の人物を養成する為めに設けてあつて之は目下二十名の生徒あり、他科は一年中何日(いつ)入学するも差支なく午前、午後、夜間と随意の級で勉強するを得る故生徒の系統も自から商店の小僧もあり官吏もあり中学高等学校大学等の学生もありこの点は非常に勉学者に都合宜しかるべし同校の特色とも見るべきは斎藤校長自身が毎日各級に一時間づゝ熱心に饒舌(しやべ)り続けて倦むことを知らざる精根と教師(??)中に病気事故等の欠席者ある時にも決して生徒に日課を欠かしめず凡(すべ)て時間を厳重に守るの点にあり
月謝は予科(午前夜学共)八十銭、普通科、同受験科一円二十銭、文学科一円五十銭一年を三学期に分ちて普通学校の一年を要するを同校にては三ケ月に会得せしめつゝあり此外は英文学に関する図書館英文万(よろづ)週報といへる校内新聞を発行し居れりと」
キリスト教
「自分はどのくらい宗教的か?」:
「私が自発的に再びキリスト教に帰依するようになったのは十六歳の頃で、ある機会から内村鑑三氏の『求安録』を手にしたのが始まりで、その頃出ていた氏の著述は殆ど片っ端から読んだ。勿論、それ以上に私は講談本や江戸時代の牌史(?)小説類をかなり沢山に乱読していたが、自分が耶蘇になってからはまったくそれらの書物を一時に放擲して、聖書や英語ばかりをひたすら勉強したのであった。その間境遇の激変などがあり、私の宗教心が猛烈に炎えた原因なども私のその頃の境遇を詳しく話さなければならないが、いずれそれを話す適当な機会がきたら書くつもりであるからここでは省略しておく。」
「その頃の境遇」を詳しく記したものはない。
この年にも講談本や江戸時代の稗史小説類を乱読していたと思われるが、前年のところに入れておいた。
『東京独立雑誌』を読んでいたOは、小倉清三郎とみなす。菅野青顔・辻淳「辻潤略伝」にもそのようにある。
「え゛りと・え゛りたす」:
「十五六の時分にはもう一人前のクリスチァンで、横文字の書物にばかり読み耽った。
内村鑑三先生の「警世雑著」を愛読している時分、ひどく先生の影響を受けて米国のカレッジ熱に浮され、金の問題はそッちのけにしてしきりに入学試験の研究に耽った。昔から、自分の家と深い関係のある或るブルジョアのところへ出かけて洋行費を出してくれと頼みこんだこともあったが、勿論ものにはならなかった。」
読書
「少年時代の読書」:
「 もちろん私は聖書を読んだが、聖書よりは内村先生の著書の方が遥かに私には面白かったのである。それから、少年時代に自分の接した英語の書物で『ユニオン第四読本』程、自分に情操教育を与えたものは他にないといってもいい。」
「日本に自然主義が勃興するまで、私は殆ど小説は手にしなかったものである。」
「「犬の死まで」その他」:
「僕は昔からシェークスピアとゲエテが大嫌いだ。虫が好かないのである。」
某会社の給仕
『ダダイスト辻潤』p.44に昼間は某会社の給仕をしていたらしい、とある。これは「三ちゃん」から推測しているようなのだが、「三ちゃん」の内容は、現実も盛り込まれているのだろうが、やはり小説で、父が死亡したというフィクションも入っていて、どこまで事実と信じてよいのか分からない。保留。
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1899.2.7 中学校令、改正。勅令。尋常中学校を中学校と改称し、男子の高等普通教育機関として実科教育を排する。修業年限は5年。〈『近代日本総合年表』〉
中学校令、改正。2.6付。勅令第28号。1899.4.1より施行。中学校入学資格は「年齢十二年以上ニシテ高等小学校第二学年の課程を卒リタル者又ハ之ト同等ノ学力ヲ有スル者」。1899.4.1より施行。〈『官報』1899.2.7号〉
実業学校令、改正。2.6付。勅令第29号。「第二条 実業学校ノ種類ハ、工業学校、農業学校、商業学校、商船学校及実業補習学校トス 蠶業学校、山林学校、獣医学校及水〔産〕学校ハ、農業学校ト看做ス。 徒弟学校ハ工業学校ノ種類トス」〈『官報』1899.2.7号〉〔産〕は判読不確か。
小倉清三郎(オグラ セイザブロウ) :1883-1941。〈国会図書館蔵書検索〉
高橋五郎:1856.3.20-1935.9.7。〈「高橋五郎」『日本近代文学大事典』〉
「永井荷風年譜」1899年:
永井荷風は、「 かねて人情噺をしたいと思っていたが、一月下旬頃から、三遊派の落語家六代目朝寝坊むらくの弟子となることを得、三遊亭夢之助と名のって、夜々市内の席亭をめぐり修業を始めた。」「 秋、九段下の富士本亭で楽屋から顔を出したところ、出入りの車夫の妻に発見されて落語家修業の件が家に知れて禁足となり、以後、落語家として立つことを諦めた。」
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1900 明治33 | 16 17 |
この頃から20歳位の間、ほとんど英語の本だけを読む。〈「のっどる・ぬうどる」〔『生理』〕〉〔日本に自然主義が勃興するまで、ほとんど小説は手にしない。〈「少年時代の読書」〉〕〔ほぼ国民英学会在学中ということになる。〕
この頃、内村鑑三や徳富蘆花の影響で、ワーズワースに心酔。〈「こんとら・ちくとら」4〉
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「全集年譜」と国民英学会の卒業
「全集年譜」に、この1900年、「英語の独習のかたわら江戸時代の稗史、小説を乱読。また内村鑑三のいくつかの著作を読む。」とある。「英語の独習」とあるから、「全集年譜」によれば、国民英学会で学んだのは1年もなく、前年1899年に卒業したことになる。
この年譜では、国民英学会の卒業は1902年12月とみるので、これは採らない(後述)。
読書
「のっどる・ぬうどる」〔『生理』〕:
「十七からはたち位な間、私は殆ど英語の書物以外には手にしたことがないといっていい位エイゴを勉強したが、さて今もって一向物にはなっておらん。」
「で、その時分、僕の頭の中ではエイゴのボカビュラリイの方が遥かに豊富な位だった。万事そんな調子であった。数学ときたらゼロさ。」
17歳から20歳位の間、ほとんど英語の本だけを読んだというのは、国民英学会に在学した期間にほぼ重なる。それだけ熱を入れて英語を学んだ訳で、辻潤が、のちにフランス語(など)を習得することを放棄したのは、このように集中して何年間かを過ごすことが難しいということもあったのだろうと思われる。
「こんとら・ちくとら」4:
「 それで思い出したのは十六、七の時、初めて読んだウォルズワースの「虹」の詩だ。私はその頃内村鑑三先生や蘆花の影響で、しきりにウォルズワースに心酔していた。そうして、いつになったら彼の大作『プレリュウド』を読みこなせるようになれるだろう――と、それをしきりと心配していたものだ。」
1900年8月に、徳富蘆花の『自然と人生』が出版されている〈『日本近代文学年表』〉から、この年とした。
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1900.1 徳富蘆花『不如帰』民友社。〈『日本近代文学年表』〉
1900.8 徳富健次郎〔=蘆花〕『自然と人生』民友社。〈『日本近代文学年表』〉
1900.8 斎藤緑雨『わすれ貝』博文館。〈『日本近代文学年表』〉
1900.9 内村鑑三、『聖書之研究』を創刊。〔9.30〕〈「有島武郎年譜」〉
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1901 明治34 | 17 18 |
この頃、脚気に罹る。〔のち4回再発したが、治癒。〕〈診断書写真『辻潤全集』別巻〉
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英語の独習
「全集年譜」には、この年、「もっぱら英語の独習をつづける。」とある。「独習」とあるのだから、辻潤は、国民英学会を卒業していることになる。この年譜では、国民英学会の卒業は1902年12月とみるので、これは採らない(後述)。
六次郎
辻潤の書いたものによれば、父の六次郎はこの1901年6月21日、星亨〔東京市会議長〕が伊庭想太郎に刺殺された時、東京市教育科に勤めている〈「あまちゃ放言」〉。〔「あまちゃ放言」に市長とあるが市会議長で、市長に相当か。参事会員。〕
松尾季子「思い出」(三)に、辻潤が、父六次郎は「「原敬の秘書をしていたことがあった、原敬を殺害した某の息子が伊庭孝のところに出入りしていて俺も親しくなった、変なものだなあ」と話しておられました。」とある。しかし、六次郎が原敬の秘書をしていたというのは、あてにならない。
原敬(たかし)〔66、首相〕は、1921年11月4日夜、東京駅の改札口付近で、中岡艮一(こんいち)〔18 or 19、国電大塚駅の転轍手〕に刺殺された。中岡艮一に子供がいたかなどは確認していないが、まず、いそうもなく、いたとしても、辻潤が松尾季子に話した時には幼すぎるというものである。星亨を刺殺した伊庭想太郎の養子が伊庭孝であり〈『東京日日新聞』1901.6.23号〉、原敬と星亨の暗殺がごっちゃになっているらしい。松尾季子が混乱して聞いたのだろう。辻六次郎は、東京市で星亨の下で事務を取っていたというに過ぎないというものである。
念のため、原敬関係の本を二、三読んだが、辻六次郎の名前が出てこないのは勿論、秘書であったような状況もない。原敬:1856.2.9-1921.11.4。谷沢永一・浦西和彦、編「辻潤年譜」によると、辻六次郎は、原敬より2歳半年上である。原敬の職歴をみると、郵便報知新聞社に入社したのが1879年4月、大東日報を経て、外務省御用掛になったのが1882年11月〔月給80円〕。1883年11月26日、天津領事〔年棒2800円〕。1885年5月9日、パリ公使館付書記官。そのあとを省略して、秘書が要りそうな地位は、1892年8月13日、外務省通商局長だと思うが、この時には秘書を果たしたであろう公の部下がいる。辻六次郎が政府の官吏だったとはないから、原敬の私設秘書だったことになるが、辻六次郎が天津やパリにいたという話もない。〈『原敬をめぐる人びと』・『原敬』〉
辻六次郎は、「無能で淘汰をされてからは、士族の商法のような骨董屋を始めたがそれも一向商売にはならず、息子の教育は碌に出来ず、始終生活に脅かされ、揚句の果てには気が狂って死んでしまった」〈「文学以外」〉とある。また父親は意気地のないために財産どころか借金を残したとある〈「文学以外」〉。辻は少年の頃から内心父を「小人」として軽蔑していたとも書いている〈「あまちゃ放言」〉。
「息子の教育は碌に出来ず」とあるが、私には、当時、小学校4年の義務教育を受けただけの者も多いのに対し、辻潤は、ともかく20歳頃まで教育を受けていると思ったのだが、当時、大学まで学んで卒業すれば、およそ23歳位になるようである。それを受けての言葉であろう。
「あまちゃ放言」:
六次郎は、「かなり政治には興味をもっていたらしく、なにも知らぬ幼年の僕に「総理大臣」たることを専ら強要したものである。「総理大臣」ならずんば、「陸軍大将」をである。さすがにおやじは「陸軍大将」の方はあまり口にしなかったようだ。」
この年、父六次郎は働いていたわけだが、18、9の頃から自活をしなければならない境遇に置かれた〈「にひるのあわ」〉とある(実際は数20歳)。六次郎が官吏を失職したことなどによると思われる。
六次郎の無能だけが失職の理由ではないだろう。何年のことかも不明だが、官吏の大量解雇の記事が新聞に出ていたと思う。が、今回、確認ができなかった。
1896年からの日本経済については『ダダイスト辻潤』pp.45-46に説明がある。
松尾季子「思い出」(三):
「辻さんは独りごとに「おふくろは親父と一生喧嘩ばかりしていたんだ、俺はそれが厭で厭でたまらなかった」と述懐しておられました。光女は六次郎氏のことが話題に上ることがあっても「わけのわからぬ人でした。誰が本を欲しいといってもそんなもの買わないでよいといい張ってね、私が買ってやったものです」等。」
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1901.6.19〜10.13 『二六新報』に宮崎滔天が不忍庵主の名で「狂人譚」を掲載。〈「宮崎滔天関係略年表」『三十三年の夢』p.329〉
宮崎滔天:1870.12.6-1922.12.6。〈「宮崎滔天関係略年表」〉
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1902 明治35 | 18 19 |
12.13 国民英学会英文学科を卒業。〈国民英学会の卒業証書の写の写真『辻潤全集』別巻〉
〔磯部弥一郎が師範科へ移り、辻潤も師範科に入り、
深崎鎌次郎に倫理を聞く。何時も酔払って居る様な先生に源氏物語を聞く。その学校が「駄目」になる。
〕〈小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」〉
『万朝報』に掲載された黒岩涙香の続きものを読む。〈「ふりぼらす・りてらりや」・『日本近代文学年表』〉
この年の頃 宮崎滔天の『狂人譚』と『三十三年の夢』を読む。〈「宮崎滔天を憶う」・「宮崎滔天関係略年表」・『日本近代文学年表』〉
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国民英学会の卒業証書の写
『辻潤全集』別巻に国民英学会の卒業証書の写の写真が掲載されている。
写真には、
「(卒業証書冩)
卒業證書
……」
とあり、日付は1902〔明治35〕年12月13日となっている。普通に考えれば、卒業年月日だが、「全集年譜」のように1902年に「会文学校」で教え始めたとすれば、不自然だが、この日付は卒業証書の写しを発行した日付ということになり、「全集年譜」は、12月に「正則国民英学会英文学科卒業の証明書を出してもらう。」という記載になっている。
この不自然さの説明としては、火事などで事務書類が失われ、正確な年月日が分からなくなっていたとか、単に卒業したことが証明されればよかったので、日付がいいかげんでよかったことが考えられるだろうか。「全集年譜」によると、翌1903年、日本橋千代田尋常高等小学校の代用教員〔助教員〕となっているから、そのために卒業証書の写が必要になったという理由が考えられるだろうか。「証書」と「證書」という二つの言葉が出てくるが、意味の違いがあるだろうか。
この年譜では、「全集年譜」とは異なり、1903年に私塾の「会文学校」で教え始めたとするので、卒業証書の写の日付は卒業日付とみるのが自然ということになる。1899年に国民英学会に入学しているから、ほぼ3年間、国民英学会で学んだことになる。同じような学校と考えられる正則英語学校には、3年間の課程の普通科があったようで、国民英学会にも3年の課程があってもおかしくない。12月13日という卒業日付は、変則に見えるが、正則英語学校では、「一年中何日(いつ)入学するも差支なく」〈「学校案内(一)」『読売新聞』1906.7.31号 1面〉というから、国民英学会についてもそういうことが関わっているのだろう(「永井荷風年譜」1897年に次の記述がある。何か関係があるだろうか。「 一一月末、母や弟と帰京し、神田区一ツ橋の高等商業学校附属外国語学校清語科(九月開講)に臨時入学した(外国語学校第一年の「成績試験表」の日附が、「明治二十年十二月十五日」と記載されているのは、清語科だけでなく、他学科も同じなので、清語科の「開講」日附を意味せず、「第一期」の成績を記入した日附と思われる)。」)。
『ダダイスト辻潤』p.50では、12月13日に国民英学会を卒業となっている。
「辻潤」『日本近現代人物履歴事典』p.334でも、卒業とあって同様。参考文献に『辻潤全集』があり、といって「全集年譜」に従っていない訳である。この本は、辻潤に関しては正確さは期待できず、必要のない限り省略。
師範科
「国民英学会では温順しくして居ましたか。
実によく勉強したよ、其時分はクリスト教徒だつたから、内村鑑三さんの影響を受けて仲々大したものだつたよ、高橋五郎さんもよく知つて居たよ。
私は高橋五郎さんの親戚をよく知って居ます。
君は何を職として居るかね、いやに根掘り聞くね、僕はもう疲れたから、此処等で一寸赤酒を持つて来給へ
(拍手し右手を突き出して)隻手の音声だ、あはは。
(類音連合)
では代りに御茶を上げませう、それから何うしました。
それからどうしましたかね、磯部氏が師範科へ行つたので、僕も其処へ行つて深崎鎌次郎氏に倫理を聞いた、其名は忘れたが面白い先生でね、何時も酔払つて居る様な先生に源氏物語を聞きましたよ、此人は面白い人でね。
其処で貴方は中学卒業の資格を得ましたか。
其学校が駄目になつちやつたから、資格も免状も何も貰はずですよ、唯学校へ歩いて通つたので脚気になりましたね、通学中九段で仆れた事があります、それでもう三日も放つて置けば衝心する処だつたそうです。
脚気は何うなりましたか。
医者にかゝりましたが、此の医者は好い人だつた。
今度は藪医者ぢやなかつたですか。
いや好い医者だつた、此人を通じて僕は大日方と云ふ人を知りました、此人を知つて又僕は教会へ行く様になりました。」
宮崎滔天の『狂人譚』・『三十三年の夢』
「全集年譜」に、「 宮崎滔天の不忍庵主の名で「二六新報」連載の「狂人譚」や、「三十三年の夢」を読む。また「万朝報」(明治二十五年創刊)の読者となる。」とあるが、多義的で不適切な表現である。
宮崎滔天は、確かに『二六新報』に「狂人譚」・「三十三年の夢」を掲載したが、辻潤の「宮崎滔天を憶う」には、それらを新聞で読んだとはない。新聞は『万朝報』をとっていて、『二六新報』と『万朝報』の二つの新聞をとるのは考えにくいと思うので、辻はそれらを本で読んだと思われる。
『万朝報』については、「ふりぼらす・りてらりや」には、「おやじはずっと万朝報をとっていたので、その後の涙香の万朝報紙上に掲載した続物を私は殆どよんでいる。」とあって、この年以前から辻の家では『万朝報』をとっていたのだが、特にこの年あたりの『万朝報』で黒岩涙香の読み物を読んだといっている。この年から『万朝報』をとって読み始めたという訳ではない。
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1902.4 煙山専太郎、編著『近世無政府主義』東京専門学校出版部。〔中に「マクス、スチルネル」の一項がある。〕〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.300〉
1902 煙山専太郎(けむやませんたろう)〔早稲田大学教授〕、処女作『近世無政府主義』。〈『岩手県の百年』p.137〉
1885.7 近藤賢三・巌本善治・星野天知、ら『女学雑誌』創刊。〔〜1904.2〕〈『日本近代文学年表』〉
1902.1.30〜6.14 『二六新報』に宮崎滔天が「三十三年の夢」を掲載。〈「宮崎滔天関係略年表」『三十三年の夢』p.329〉
1902.6 涙香〔=黒岩涙香〕「花あやめ」『万朝報』。〔〜1902.10〕〈『日本近代文学年表』〉
1902.8 宮崎滔天『三十三年の夢』国光書房 8.20。〈「宮崎滔天関係略年表」〉
1902.9 宮崎滔天『狂人譚』国光書房。〈「宮崎滔天関係略年表」・『日本近代文学年表』〉
1902.9 アンデルセン、森林太郎〔鴎外〕訳『即興詩人』上下 春陽堂。〈『日本近代文学年表』〉
1902.10 島崎藤村・星野天知ら編『透谷全集』文武堂。〈『日本近代文学年表』〉
1902.10 ユゴー、黒岩涙香「噫無情」『万朝報』。〔〜1903.8〕〈『日本近代文学年表』〉
1902 小杉天外・永井荷風らのゾライズムの作品が現われ、自然主義への胎動が始まる。〈吉田精一『自然主義の研究』〉〈『近代日本総合年表』〉
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1903 明治36 | 19 20 |
この頃、日暮里に住む。〈「幻燈屋のふみちゃん」・「ふもれすく」〉
1.10 9:30頃、辻潤を池田ふみが訪問。11時頃までひきとめて、かえる時は団子坂のとこまで一緒に行く。16:00頃から星嘉十郎のところに出かける筈であったが、星が初週連合祈祷会に出席するので今夜は都合がわるいとハガキをよこしたのでやめ、午後、小倉清三郎から借りたモーパッサンの短篇〔英訳〕を読む。16:30頃、ワーズワースを手にして散歩に田端の見はらしに行く。〈「幻燈屋のふみちゃん」・「寺田寅彦日記」〉
1.26 終日、雨で、透谷全集を読んで過ごす。〈「幻燈屋のふみちゃん」・「寺田寅彦日記」〉
1.27 一日、雨。近所の農民の葬式に寺へ行く。午後、読書。〈「幻燈屋のふみちゃん」・「寺田寅彦日記」〉
2.3 朝から雪。坂の上まで雪見をしようとして出て下駄を切らしてはだしで帰る。火鉢にあたって雑書をくくっていると池田ふみが来る。16:00頃共に家を出、無縁坂で別れ、本郷の叔母のところに行く。〈「幻燈屋のふみちゃん」・「寺田寅彦日記」〉
4月頃 日本橋区呉服町にあった私塾、会文学校で英語を教える。14:00頃から17:00頃まで働き、月給3円。〔後、夜学でも教えるようになり、14:00頃から21:30頃まで働き、月給9円。〕〈「幻燈屋のふみちゃん」・「天狗だより」1・「寺田寅彦日記」・など〉
この頃 《神田の青年会館で青柳有美の講演を聴く。青柳有美は多分押川方義のことかなにかを話す。その講演でショーペンハウエルを知り、その名を強く印象させられる。》上野の図書館でショーペンハウエルを読み始める。〈「連環」〉
この頃、巌本善治・青柳有美らは、神田一ツ橋の教育会館の講堂を教室に当てて「自由英学」を始める。辻潤は、国民英学会の英文科を出て、英語は習う必要がなかったが、巌本善治・青柳有美がやっていた『女学雑誌』の愛読者だった関係から、「自由英学」に早速馳せ参じる。夕方5時からの授業。青柳有美はゲーテの「若きヴェルテルの悩み」とシェークスピアの「ロミオとジュリエット」を教える。青柳有美は張り扇子で机をポンポン叩きながらズーズー弁で講義し、それを「ムショウに嬉しがって聴」く。〈「連環」・「天狗だより」1・「自由英学の新学期」『読売新聞』1904.1.7号〉
〔「講師としては桜井鴎村とか河合などという人がいた――その他、課外の講師として新渡戸稲造とかドクトル小此木などという毛色の変った人物がいた。」〈「天狗だより」1〉 新渡戸稲造からカーライルの「衣裳哲学」の話を改めてきく。〈「連環」・など〉
「自由英学」は、巌本善治・青柳有美が巣鴨の明治女学校とかけもちでやっていたので、毎日時間が一定していなかった。辻潤も呉服町の私塾に雇われていたので毎日は出席できなかった。明治女学校の特別に熱心な連中が「自由英学」にもやって来て、その中に、相馬黒光や野上弥生子がいた。黒光はいつも一番前の方の席にいて腕まくりなどして、奇抜な質問を先生に向かって発する。辻潤は後の方からジットおとなしく小さくなって、興味を持って彼女を眺める。〈「連環」〉
「自由英学」の運命はまことに短いものであった。〈「天狗だより」1〉〕
5月頃 本郷の叔母のところに厄介になる。会文学校に歩いて通っていたが、遠いので閉口して本郷の叔母のところに寄寓。〈「幻燈屋のふみちゃん」〉
5.27 池田ふみに手紙を書く。15:00頃学校に出かける。夜は上野図書館でショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』の英訳を読む。〈「幻燈屋のふみちゃん」・など〉〔ショーペンハウエルを尊敬しかつ同感する。〈「おもうまま」〉〕
この頃、島崎藤村の『若菜集』を愛唱。〈「天狗だより」1・「かばねやみ」〉
この年の夏、宮城県白石の山奥の一軒家である友人の一条勇吾をたずねる。うまれてはじめての一人旅。〈「天狗だより」・「全集年譜」〉
白石在から2里半あまり山奥の「烏峠」という山の半腹にある一条勇吾の家は郵便局でもあり、4、5家族が共棲する古びた大きな家であった。この家に一週間程くらし、一人で阿武隈川の岸辺に出て、地図なしの見当で角田まで歩き、星嘉十郎の家を訪ねる。一条勇吾をそこで待ち合わせ、一条勇吾と共に徒歩で塩釜に出、船で松島に行く。このひとり旅は、藤村操の死から受けた衝撃もその理由の一つで、家人や友達に自殺の危惧を懐かせたが、そんな意志はなかった。〈「全集年譜」・「天狗だより」1〜3〉
仙台や松島を見物。〈「かばねやみ」〉
10月頃 《しばらく泉鏡花の作品と遠ざかっていたが、》「風流線」が『国民新聞』に掲載された頃からまたしきりと読み始める。〈「鏡花礼讃」・『日本近代文学年表』〉
11.15 幸徳秋水・堺利彦、週刊『平民新聞』を創刊。読者となる。〔辻潤は全号を所蔵する。〕〈「全集年譜」・大杉栄「死灰の中から」・「週刊『平民新聞』」「寒村自伝 上」、など〉
この頃、キリスト教から社会主義の思想に影響され始める。〈「鏡花礼讃」〉
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「幻燈屋のふみちゃん」の記事
1.10の記事は、 「幻燈屋のふみちゃん」に1903年と明記がある。Hは星嘉十郎、Oは小倉清三郎とみなした。日暮里の辻潤のところに池田ふみが来たとある。
1.26・1.27・2.3について、この年であることは、「寺田寅彦日記」の天気と対照して確認できる。
2.3に「炬火」にあたって雑書をくくとあるが、「炬火(きょか)」は、たいまつ〈『広辞苑』〉であり、炬燵(こたつ)あるいは火鉢、おそらく火鉢のことだろう。
5.27の記事は、「幻燈屋のふみちゃん」に27日とのみある。月は『報知新聞』に藤村関連の記事が掲載とあるのによる。藤村操だろう。「報知新聞に藤村君の記事掲載しあり、君が正兄(せいけい)に宛てたる書面の最後に「人生これ悉く涙」の文字これありしとの事にて候。」とある。
『検証 藤村操』の「藤村操投瀑事件に関する文献・資料目録」などによると、藤村操の自殺の新聞報道は、1903.5.26に『万朝報』に「那珂博士の甥華厳の瀑に死す」という記事が載ったのが最初で、翌5.27には、幾つかの新聞で報道されたが、『報知新聞』には「華厳滝の悲事」という記事が載っている。
『検証 藤村操』p.22:
藤村操の母親への遺書について、『報知新聞』1903.5.27には、「文意簡なれども句々涙痕を帯び、己れの親に先立つ不幸を詫び、「浮世は是悉く涙なり」と文末を結びしありと」
池田ふみからの返事は、「幻燈屋のふみちゃん」にある。
その頃、日暮の里から日本橋の呉服町にある会文学校という私塾に雇われていた、とある。
「幻燈屋のふみちゃん」は、1903年と1907年のことがごっちゃになっていて、はっきりしないことが多い。
「寺田寅彦日記」による曜日と東京の天気。
1903.1.10 土 陰晴
1903.1.26 月 雨
1903.1.27 火 雨
1903.2.3 火 大雪
1903.5.27 水 晴
日暮里
日暮里に住んでいたことは、「幻燈屋のふみちゃん」にあるほか、
「ふもれすく」:
「日暮里も僕がいた十七、八の頃はなかなかよかったものだ。」
会文学校
「会文学校」という名前は「幻燈屋のふみちゃん」にある。
「連環」・「天狗だより」1によると、呉服町の私塾で教えつつ、「自由英学」に通っているので、「自由英学」に通った年は、私塾の「会文学校」に雇われた年と合わせる必要がある。
「会文学校」に雇われた年は、「全集年譜」では前1902年になっている。この年譜で1903年にしたのは以下の理由による。
「幻燈屋のふみちゃん」に1903年の1月26日、1月27日、2月3日の記録がある。「寺田寅彦日記」の天気と一致し、この年であることは確実である。これらの日はいずれも日曜日でも土曜日でもないが、辻潤は会文学校に行った形跡がない。そして、5月の記録では会文学校に行っている。これらの記録からすれば、1903年4月から辻潤は会文学校で教えるようになったと考えるのが自然だろう。
さらに、5月に会文学校が遠いので閉口して本郷の叔母のところに寄寓したというのが確かであるなら、尚更1902年から働いたというのが疑問になる。1年位通っていたのに、この時になって遠いので閉口というのは不自然であろう。
また、「天狗だより」1に、「 私はその頃国民英学会の英文科を出て、日本橋の呉服町にあった一私塾で英語を教えながら、傍ら「自由英学」に通っていた。」とある。国民英学会を卒業して、そんなに日数を経ずに、私塾で教え始めた感じである。
ただし、辻潤がどこに住んでいたのかなどなどが不明確で、幾らか不確かである。
「全集年譜」の根拠になったのは、おそらく、「ふもれすく」の「十九から私塾の教師に雇われて」である。
14:00頃から働いたというから、学校を終えてから通って来る高等小学校や中学校の生徒に英語の補習をさせたのだろう(当時、高等小学校・中学校の授業が何時頃に終わったのかは知らないが)。
のちに辻潤自身が述べているように月給3円 or 9円が如何にバカバカしく安いかは、例えば、時代はやや下がるが次の1910年の石川啄木の収入と比較しても明らかである。俸給 25円、選者手当 8円、夜勤手当 10円、計 43円。
ただし、よくは知らない。
自由英学
「天狗だより」1には、自由英学が「席(?)を置いた最後の学校」であると書かれている。
「自由英学」について書かれたものがないか、巌本善治の年譜とか新渡戸稲造の年譜といったもので、少しだけ探したが、見つけていない。あるいは、辻潤の記録は珍しいものなのかもしれない。
「全集年譜」では、日本橋区呉服町の会文学校で教鞭をとる「かたわら同区一ツ橋の自由英学舎に通」っている。この「自由英学舎」という名前は確認できない。「自由英学」は、会場を借りて講義を行っている。「舎」は、家・宿などのほか、宿りなどの義もあるが、どちらかといえば「舎」が付いているのは不適当に思われる。『読売新聞』1904.1.7号の記事「自由英学の新学期」でも、「自由英学」であり、「自由英学舎」ではない。「自由英学舎」は採用しない。
「自由英学」には、相馬黒光・野上弥生子など明治女学校の特別に熱心な連中もやって来た〈「連環」〉とあり、夕方からの講義だったと思われるが、『読売新聞』1904.1.7号の記事「自由英学の新学期」によると、夕方5時からの授業である。
「天狗だより」1に、「席を置いた最後の学校」とあるが、「席」というのは、当然「籍」だが、極めて短期な講義だったので、講義料を支払って参加した程度の意味ということになるのだろう。
その運命はまことに短いものであった〈「天狗だより」1〉というが、翌1904.1.7の『読売新聞』に記事が出ているから、翌年までは続いていたことになる。おそらく、一年で終わったのだろう。辻潤は、講師の話が面白いから自由英学の授業に出ていたので、1904年1月の新学期からは専ら和文英訳に全力を尽すというから、その辺りで出なくなった可能性もあろう。
新渡戸稲造・桜井鴎村・「衣裳哲学」
「連環」:
「私はその新渡戸先生から得意のカーライルの『サーター・リサータス』の話を改めてきいた。もちろんそれより先、すでに内村先生の崇拝者であり愛読者であった私は、いうまでもなくまたカーライルの崇拝者であり、『英雄崇拝論』の愛読者であったから、新渡戸先生の話をどんなに期待して聴いたことであろう。」
福田清人「解題」『明治少年文學集』〔漢字を「新字」に〕:
桜井鴎村は「明治三十七年九月、塾が社団法人組織になった時、社員に推され、津由塾長の片腕として、式日その他の行事には講話、挨拶などを行った。
また明治三十四年十一月創刊、月二回發行の英文新誌社の『英学新報』の編集主任をつとめた。この英語雑誌は英学塾の事業といっていいもので、初め事務所が神田神保町にあったが、三十六年春、塾へ移された。また三十六年六月から『英文新誌』と改題した。新渡戸稲造が顧問であったが、鴎村が筆記した新渡戸博士の "Sartor Resaitus(?)" の講義や、鴎村註解の博士の英文「武士道」は共に読者の興味をひいた。」
カーライルの"Sartor Resartus"は、「連環」では、「サーター・リサータス」、「書斎」では、「サルタル・リザルタス」。カーライルの自叙伝『衣裳哲学』Sartor Resartus(1833-1834), Thomas Carlyle(1795-1881)〈『イギリス文學史』p.187〉。
一人旅
「天狗だより」に初めての一人旅は19歳の時分だと記憶するとあり、「全集年譜」でも前年の1902年となっている。「かばねやみ」では18歳の青年の頃、とある。藤村操の自殺は、この年1903年5月であるから、この年とした。
「天狗だより」に角田まで歩き、Hの家を訪ねたとある。「全集年譜」に国民英学会の同級生として、宮城県角田出身の星嘉十郎がいるので、Hを星嘉十郎とみなした。
「烏峠」、白石〜角田
白石在から2里半あまり山奥の「烏峠」という山の半腹にあるI〔一条勇吾〕の家、というが、「烏峠」は、『宮城県の地名』・『角川地名大辞典 4 宮城県』で見つからない。『宮城県の地名』によると、「烏峠」は、「小坂(こさか)峠」のことかもしれない。小原(おばら)と福島県=伊達郡=国見(くにみ)町=小坂の県境の分水界。標高441m。古くは鳥取(ととり)越と呼ばれたとある〈「小坂峠」『宮城県の地名』〉。「鳥取越」が辻潤の記憶違いと誤植によって「烏峠」になったのではないかと思うが、はっきりしない。
「天狗だより」では、一人で阿武隈川の岸辺に出て、地図なしの見当で角田まで歩いた、とあるが、地図を見ると順序はややおかしい。角田市街は白石市街からおよそ東に12kmほど、そのすぐ東を阿武隈川が北流している。一条勇吾の家が鳥取越付近にあって、そこから、東に向い、阿武隈川の岸辺に出て北上し、それから西へ戻る感じになったのかもしれない。
『若菜集』
「かばねやみ」に「『若葉集』を愛読していた自分が広瀬川の川畔にぼんやりと彳立(たたず)んでいた」とある。『若葉集』は『若菜集』の誤植 or 誤記だろう。広瀬川は仙台を流れる川。
「天狗だより」1には、藤村の『若菜集』とあり、
一人旅は、「『若菜集』や、その他の文学書類の影響によるもの」とある。島崎藤村が仙台にいたことがあることも関係しているのだろうか。
キリスト教
19歳頃までキリスト教信者だった。〈「自分だけの世界」〉
アンデルセン
「全集年譜」に、「この年、アンデルセンらの作品をいくつか試訳する。」とある。ありそうだが、確認できない。1906年からアンデルセンの訳を『実験教育指針』に掲載している。それまでに間がありすぎるようである。採らない。
週刊『平民新聞』
大杉栄「死灰の中から」二によると、大杉栄が辻潤の家を訪れた時、辻潤が、かつて大杉栄の「同志」がやっていた週刊と日刊のH新聞、即ち『平民新聞』の全刊を持っていると聞いている。
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無縁坂(むえんざか):武辺坂とも。文京区湯島4丁目と台東区池之端1丁目の境を東にくだる坂。〈「無縁坂」『角川地名大辞典 13 東京』〉
団子坂(だんござか):文京区千駄木2・3丁目の境界をなす坂。〈「団子坂」『角川地名大辞典 13 東京』〉
1903.5.21夜〜5.22朝 藤村操〔18、第一高等学校生〕、巌頭の感を残し、日光華厳の滝に投身自殺。〈『新聞が語る明治史』〔二〕・『明治・大正家庭史年表』・『決定版 昭和史』〔第3巻〕〉
この自殺が当時の若者に衝撃を与えたことは多くの人が書いているようで、『検証 藤村操』に詳しい説明がある。
藤村操:1886.7.20-1903.5.22。〈『検証 藤村操』〉数え18歳、満17歳で死去。
藤村操は、札幌中学〔のち札幌南高等学校〕の一年を終え、1899〔明治32〕年9月から府立開成中学に通い、三年を終えると、1901年4月、京北中学5年に編入学し、1902年9月、第一高等学校に入学した。〈『検証 藤村操』pp.12-13〉 従って、同時期にいた訳ではないが、辻潤の開成中学での後輩でもあった。『無想庵物語』p.61には、「藤村は札幌で育って上京して京北中学から直ちに一高へ入学した」とあるが、やや不正確。
『無想庵物語』pp.60-61:
「 藤村操の自殺は藤村の同窓はもとよりひろく世間を驚倒させた。並の自殺はいくらでもあったが「哲学的死」は初めてだったからである。」「その「巌頭の感」は昭和戦前まで誰もそらんじていた。いわく。/ ――悠々たる哉天壌(てんじよう)、遼々(りようりよう)たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学竟(つい)に何等のオーソリチーを価するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉(つく)す。曰く「不可解」。(以下三行略)」「ホレーショは「ハムレット」のなかに出てくる人物」
1903.8 児玉花外、『社会主義詩集』社会主義図書部。〈『日本近代文学年表』〉
『無想庵物語』p.138:
「 花外は明治三十六年「社会主義詩集」を出してこれが発禁になって文学史上に名をとどめているが、社会主義の名を冠しただけで主義とは無縁の人である。花外は明治大学校歌「白雲なびく駿河台、眉秀(ひい)でたる若人が」の作者として最も知られている。」「 明治三十年代までは花外は若かった。四十年になると常に酒気を帯び常に一文なしで居酒屋からあらわれた。」
1903.10.24〜 泉鏡花「風流線」『国民新聞』。〔〜1904.3.12 正編、完了。1904.5.29〜10.5 続編『国民新聞』。〕〈『検証 藤村操』p.104〉
1903.11.15 平民社、結成。週刊『平民新聞』創刊。〈『近代日本総合年表』・「週刊『平民新聞』」「寒村自伝 上」〉〔〜1905.1.29、64号で終刊。〕
1903.12.31 新井奥邃〔数57〕、東京市郊外巣鴨村に謙和舎を落成し移り住す。〈「恩師・新井奥邃先生 略年譜」〉
青柳有美(あおやぎ ゆうび):1873.9.27-1945.7.10。〈「青柳有美」『日本近代文学大事典』〉
桜井鴎村(さくらい おうそん):1872.6.26-1929.2.27。〈「桜井鴎村」『日本近代文学大事典』〉
1872.6.25 桜井鴎村、愛媛県松山市小唐人町で生まれる。本名:彦一郎。〈福田清人「解題」『明治少年文學集』〉
新渡戸稲造:1862.9.1-1933.10.16。〈「新渡戸稲造」『日本近代文学大事典』〉
野上弥生子:1885.5.6-。〈「野上弥生子」『日本近代文学大事典』〉
賃金
かつての日本人の賃金というものがいかほどであったかは、別に調べた方がよいだろう。
ここでは、たまたま読んだものの中から例を示しておく。
菅野青顔「時田英太郎を憶ふ」(一)〔『大気新聞』1929.9.8〕:
「初めて鴇田英太郎に遇つたのは、去年の五月十七日の昼、石の巻の図書館でゞあつた。
その頃青顔は気仙沼で、有田組の配下の配下の配下になつて、土方を働いた事がある。
食料は向ふ持で一ケ月三十円の約束、仕事は御帳場さん。所謂帳面付けであるが、実際は鮮人土方等と一緒になつて、朝から晩まで働くのである。ただ晩飯の時に出される二本の熱燗の酒(コレハ骨折分ニ飲マセルモノト思ツテ井(?)タ)に誘惑され終日の労苦を忘れて働いたものだ。ところがである/月末の勘定になると、一ケ月三十円の約束が七円なにがしとは、何んたる化物現象であらう。
どうせ無駄なこつたろうと思つたが、ただして見ると、雨降りの日や二本の酒は完全に遠慮なく差引かれてゐたのである。
これに対して、マルクス資本論の理屈もプロレタリヤ云々の化物議論も全く用をなさなかつたのだ。
かういふ社会は、かういふ社会で/全く別個のものであるとあきらめ/苦笑しておさらばをした。」
1935年頃、小学校6年を卒業し、ふとん屋の小僧として奉公に出たある人の場合、得意先にふとんを届けたり、注文とりに歩いたり、店の片づけをし、19:00PMに閉店、そのあと店員たちにはふとんを手縫いする作業があり、6:30AMから23:00PMまで働いて、月給が5円という〈『天皇の軍隊』〔本多・長沼〕pp.122-123〉。
『辻潤への愛』pp.207-208:
「 昭和十八年一月十五日、戦争がはげしくなって、キヨたちは九州の福岡に移住した。銀座生まれで生粋の江戸っ子の玉生にとって、はじめての離京だった。十一月一日、玉生は日本タングステン株式会杜の社員になった。月給は百三十円だった。謙太郎は四十九才に、キヨは四十一才になっていた。」
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1904 明治37 | 20 21 |
この頃、神田=佐久間町の狭い横町のとある家の2階、6畳1間に間借り。〈「幻燈屋のふみちゃん」・「書斎」〉「廃残のオヤジは失業して気が変になり、おふくろは死ぬばかりの大病にかかり、妹は年頃をイジケかえって青いツラばかりして火鉢の傍に噛じりついていた。」〈「幻燈屋のふみちゃん」〉 この頃、父の六次郎は心臓を患う。〈「古風な涙」〉
4月(月は不確実、また前1903年であるかもしれない) 浅草橋の傍の千代田尋常高等小学校の代用教員〔助教員〕となる。高等小学校児童(or生徒)に英語を教える。月給15円。詰襟服を着て坊主頭。暗い感じだったという。〈「幻燈屋のふみちゃん」・「書斎」・「ふもれすく」・『ある英国人のみた明治後期の日本の教育』〉・〈山田徳兵衛「私の履歴書」〉〈菅野青顔「萬有流転」1982.3.11〉
この頃、カーライルの『衣裳哲学』を読む。〈「書斎」・『イギリス文學史』p.187〉
この頃 家庭教師として木村荘八〔木村荘太の弟〕に英語を教える。〈「連環」・「全集年譜」・「木村荘八」『日本近代文学大事典』〉
6.30 《検定試験を受け、》6月30日付で東京府管内における小学校専科正教員(英語)の免許状が出る。〈「全集年譜」・口絵写真『辻潤全集』別巻〉
10月 千代田尋常高等小学校の専科正教員となり、五級上俸給与を受ける。〈「全集年譜」・『辻潤全集』別巻の口絵写真〉 高等小学校児童(or生徒)に英語を教える。〈『ある英国人のみた明治後期の日本の教育』〉
この年頃、日曜日に佐久間町の2階に池田ふみが一人でまたは愛人とともに訪ねて来る。〈「幻燈屋のふみちゃん」〉
この頃(前年か)4、5年やめていた尺八をふたたび吹くようになり、竹翁門下の可童に習う。音楽会に呼ばれて行ったり、方々のおさらいなどによく出かける。〈「エイ・シャク・バイ」〉
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小学校の助教員
『ダダイスト辻潤』p.47に、会文学校で教える前に「神田佐久間町の小学校(母校?)の臨時訓導をしていたということらしい」とあるが、「全集年譜」にはない。「書斎」に「 昔、私が二十歳時分の頃、小学校の代用教員に雇われて月給十五円也を頂戴している頃」とあるのによるのだろうか。しかし、「二十歳時分の頃」であり、20歳とは限らないし、会文学校で教える前とも限らない。おそらく、玉川信明は『炎の女』p.71の記述に従ったのだろう。採らない。
『炎の女』p.71:
「 国民英学会を出た辻は神田の佐久間町の小学校の臨時訓導を経て、日本橋呉服町にある会文学校(私塾)の教師になつた。」
「全集年譜」1903年:
「 日本橋区の千代田尋常高等小学校の助教員となる。月給十五円であった。同校に五年間勤務する。」
「全集年譜」が根拠にしている一つは、「書斎」の「 昔、私が二十歳時分の頃、小学校の代用教員に雇われて月給十五円也を頂戴している頃」であろう。
「書斎」は発表誌が不明で、執筆時期も分からないが、1930年に出た『絶望の書』に収録されている。1923年に書かれた「ふもれすく」では、「十九から私塾の教師に雇われて、二十に小学校の専科教師になって」とあって、1年ズレており、「書斎」の小学校の代用教員になった歳も1年ズレている可能性が出てくる。小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」にも、「廿歳で日本橋の某小学校の先生になりました。」とあり、このズレは、いつからか辻の記憶に一貫しているものである。
1904年に代用教員になったのなら、新学期の4月がもっともありそう。しかし、確実ではなく、「全集年譜」の通り1903年であるかもしれない。
助教員となって勤務したのは、「幻燈屋のふみちゃん」では、浅草橋の傍にその頃あった日本橋のT小学校とあり、「全集年譜」にならい『辻潤全集』別巻の口絵写真にある千代田尋常高等小学校とみなす。
「幻燈屋のふみちゃん」:
「 その頃、私は神田の佐久間町の狭い横町のとある家の二階を借りていた。そして浅草橋の傍にその頃あった日本橋のT小学校に勤めて、金拾五円也を頂戴して暮らしていた……廃残のオヤジは失業して気が変になり、おふくろは死ぬばかりの大病にかかり、小さい妹は年頃をイジケかえって青いツラばかりして火鉢の傍に噛じりついていた。だから自分は夜学と家庭教師の内職をやって、黙りくさって奴隷のような生活をしていたのだ。
炎えるが如き二十歳の美青年はあッたら生活の車輪に打ちひしがれて、青白くみじめに自慰的生活の混濁したモノトオンをしみじみと味(な)めていた。
神様と、幻燈屋のふみちゃんと、芸術がなかったら僕は勿論自殺していたに相異ない。」
木村荘八に英語を教える
木村荘八に英語を教えたことは、「連環」にあるが、「僕が二十歳の時、日本橋の千代田小学校に代用教員で雇われていた時」とある。この1904年で、専科正教員になる前ということになる。
木村荘八が「六、七年前、アルスから出た「自由教育」に、小学校にいた時発音だか、アクセントだかを出鱈目に教えられたためずいぶん頭を悩ましたが、中学校へ行ってからやっとその疑問が解けた。どうも語学などは初めが肝腎だというようなことを書いた」とあり、おそらく木村荘八が高等小学校の時だが、学校で英語は学んでいなかったようである。木村荘八のいた高等小学校で何年生から英語を教えたのかは分からないが、およそ、高等小学校1 or 2年の時。
(高等)小学校の英語の授業について、『ある英国人のみた明治後期の日本の教育』p.76の内容は先に示した。
『むさうあん物語』2 p.194 によると、武林無想庵は、小学校高等科1年から英語を学んでいる。はじめ正課として、のち随意課として、とある。はじめ正課で必修だったが、のち随意課となって必修でなくなったということなのだろう。
斎藤茂吉「私の困つた學科」を読むと、斎藤は小学校高等科で英語を習ったようではない。斎藤が学んだ山形県では英語を教えていなかった訳である。
『ある英国人のみた明治後期の日本の教育』によるなら、木村荘八が英語を習いはじめたのは、満10歳なのか満12歳なのかはっきりしない。ただ、1907年3月21日、義務教育が尋常小学校での6年となり、尋常小学校の科目に英語は入っていないから、それからは学校で英語を習うのは満12歳以降ということで、この1906年でもそれが主流だったと思われる。
小学校の検定試験・専科正教員
6月 検定試験を受け、東京府管内における小学校専科正教員の免許をとる。〈「全集年譜」〉
『辻潤全集』別巻に、小学校専科正教員の免許状の写しの写真があり、それによると、6月30日付で免許状が出ている。第1357号。この写の筆跡は、国民英学会の卒業証書の写と同じであるようである。専科正教員というが、その免許状には、「英語」という記載がある。
『ある英国人のみた明治後期の日本の教育』p.81によると、専科正教員というのは、図画、唱歌、体操、裁縫、英語、等の特定の教科を一ないしは複数担当するものである。p.76には、(高等)小学校の英語の授業について、「全学年を通じて英語を教えている高等小学校もあれば、3、4年次に限定している学校もある。また、英語教育をまったくやっていない県もある。東京、横浜やその周辺地域で実施されているのは当然であるとして、遠隔の内陸地方の町では期待できない。」とある。
即ち、辻潤は高等小学校で英語を教えたのである。
専科教師であったことは、辻潤が「ふもれすく」に書いているのだが、辻潤関係の著者の誰もこの専科教師ということに注目していないのは極めて不思議なこと。
高等小学校で英語を教えながら、「青春は乾涸びかけ」「二十三や四でもう先の年功加俸だのなにかの計算をして暮らしているような馬鹿の仲間入りをしていたら、人間もたいていやりきれたものではない。」〈「ふもれすく」〉ことは理解できる。「年功加俸だのなにか」しか希望がない一つの原因は、限られた限界を持つ教員免許にある。
高等小学校で英語を教えることは、もし児童(or 生徒)が上級学校(中学校)に進まないのなら、その児童には将来何の役にも立たない可能性が高いだろうし、中学校に進むというのなら、中学校で再び初歩から教わることになる。教師の仕事としても、教え甲斐のない、つまらないものだったろうと想像できる。
時代は少し遡るが、高等小学校の英語の授業について、谷崎潤一郎は、次のように述べている(およそ70歳頃の回顧らしい)。
谷崎潤一郎「幼少時代」秋香塾とサンマー:
「当時阪本小学校でも、高等科の三年あたりから英語を教へてゐたのであるが、それは課外授業であつたか、必修課目であつたか覚えがない。」
「要するに小学校の英語はアルファベツトを知つたくらゐなもので、ナシヨナルリーダーの一を読む力も得られず、何の役にも立たないものであつた。」
したたかとまで言ってよいのかは分からないが、辻潤が、のちに『実験教育指針』に文章を載せたりして(その経緯は不明)、「馬鹿の仲間入り」からの脱却をさまざま試みるようになるのは、ある種、当然のことだろう。
のちに、辻潤は教師をいやになっていたこともあって上野高女を辞職し、それから再び教師になろうとはしなかった。それも、この教員免許と多少の関わりがあるだろう。この免許では、公立学校については、高等小学校(あるいは実業学校など)で初歩の英語を教えることに限られる(また、東京府限定の免許でもある)。さもなくば、おそらく免許に関係しない私立学校ということになる。収入の点で上野高女以上あるいはそれに近い学校ということになれば、私立学校しかあり得ないだろう(それなら、中学校の教員免許は、ということになる。のちに入院した慈雲堂病院のカルテによれば、それを取得した可能性もない訳ではない。結局、教師の仕事がいやになっていたことが大きかったのかもしれないが)。
授業師・訓導
1873.8.12 大学教員は教授、中学教員は教諭、小学教員は訓導とする〔太政官布告〕。〈『近代日本総合年表』〉
1891.6.29〔『官報』1891.6.30号〕に「市町村立小学校長及教員名称及待遇ノ件」という勅令第73号が出されている。小学校の教員について、次のような名称と、その対象を定め(左が名称、右が対象)、ほかに待遇を定めている。〈『官報』1891.6.30号・『法令全書』〉
小学校長
高等訓導:高等小学校の本科正教員
訓導:尋常小学校の本科正教員
准訓導:小学校の本科准教員
授業師:小学校の専科正教員
准授業師:小学校の専科准教員
辻潤は、専科正教員だったから、授業師ということになる。私は、「訓導」なら、しばしば目にしたが、「授業師」という言葉は初めて知った。
そののち、この名称は、同年11.17〔『官報』11.18号〕の勅令第218号で改正され、次のようになった〈『法令全書』〉。
小学校長
訓導:小学校の正教員
准訓導:小学校ノ准教員
小学校長・正教員は判任文官と同一の待遇だとも定めている。
この名称は公立小学校が対象、私立学校ではどうだったのだろうか。
辻潤は、専科正教員だから、訓導と呼ばれることになった訳である。『辻潤全集』別巻の写真の「四級下俸」などの申請書には、辻潤に対して専科正教員と訓導が使われている。
『教育法規大辞典』という本には、次のようにあった。
1873年、太政官布告により、小学校の教員を訓導とする。1881年の小学教員免許状授与方心得では、小学校の全教科に関する教員免許状を得た者を訓導、唱歌・体操等一部の教科に関する免許状を有する者を準訓導としている。〈「訓導」『教育法規大辞典』〉
これによれば、本科正教員が訓導、専科正教員が準訓導であったことになる。助教員は何だったのだろうか。
まだ、この頃では、法規上もさまざまな混乱があったことを窺わせる。
『衣裳哲学』
「書斎」では、『サルタル・リザルタス』。カーライルの自叙伝『衣裳哲学』Sartor Resartus(1833-1834), Thomas Carlyle(1795-1881)〈『イギリス文學史』p.187〉。
池田ふみ
日曜日に佐久間町の2階に池田ふみが一人でまたは愛人とともに訪ねて来たのは年月不明。佐久間町の2階とあるので、ここに入れておく。
尺八
「エイ・シャク・バイ」に4、5年やめていた尺八をふたたび吹くようになり、竹翁門下の可童に習う、とあるが、時期ははっきりしない。「全集年譜」では前年。専科正教員となり、少し余裕ができたであろう、この年とした。
「エイ・シャク・バイ」:
「 中絶した尺八を再び吹き始めたのは俺が二十一、二歳に達した頃だ。四、五年やめていたのだがやはり俺の本能は尺八を吹かずにはいられなかったと見える。その頃が恐らく一番うまく得意になって吹いていた時だったと思う。音楽会に呼ばれて行ったり、方々のおさらいなどによく出かけたものだ。二度目についた師匠は竹翁門下の高弟で可童といった人だったが、永井荷風氏もたしか昔その人の門下生であったことがあるように記憶する。その人も俺が知ってから二、三年して病死したが、その時まだ五十歳にはなっていなかったと思う。」
永井荷風は、竹翁に尺八を習っている。
「永井荷風年譜」1896年:
永井荷風〔17〕、「上野音楽学校で催された音楽会で荒木古童(竹翁)の 『残月の曲』を聴いて感銘、古童に弟子入りして尺八を習った。」
「全集年譜」の「意中の人」
「全集年譜」に、このころ意中の人がいた、とある。のちに辻潤が書いた「いぬかは」や「あるこおる」からの想像ではないか。のちの辻潤の文章のスタイルからいって、これらも現実をかなり反映していると思われるが、やはり小説である。年頃の男が、片思いをしたりアイドルに憧れるようなことは極めて普通のことで、もう少し具体的なことが分からないと問題にならない。
「全集年譜」には、ほかに次のようにある。「この年から二、三年、平穏な日がつづいた。小文や小説などの習作をする。」
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1904.2.6 栗野〔駐ロシア公使〕、ロシアに国交断絶を通告。〈『日清・日露』〉
1904.2.8 夜半、ひそかに旅順口に近づいた日本海軍の駆逐艦10隻は、旅順口外に停泊していたロシア太平洋艦隊に近道して、魚雷攻撃を加える。日本の駆逐艦は約1時間にわたって交互に肉迫して攻撃を加え、停泊していた7隻の戦艦および6隻の巡洋艦のうち、戦艦2隻と巡洋艦1隻が損傷〔巡洋艦はそのために座礁〕。沈没したものはなし。〈『連合艦隊興亡記』上 pp.82-83〉
1904.2.10 日本、ロシアに宣戦布告。
1904.10.25 福田英子『妾の半生涯』東京堂。〈「宮沢賢治年譜」〉
1904.2.11 福田英子、自叙伝『妾の半生涯』執筆にかかる。10月『妾の半生涯』を出版。〈「福田英子略年譜」〉
1906.10 福田英子『妾の半生涯』。〈「明治文学年表」〉
1904-1907 高山林次郎 斎藤信策・姉崎正治、編 『樗牛全集』 第1-5巻 博文館。〈国会図書館蔵書検索〉
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1905 明治38 | 21 22 |
9月頃 日露戦争の講和条約に関わる焼打事件が起こり、ほかの教師に頼まれて小学校の宿直をよくやる。宿直代、一晩、50銭。〈小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」〉
小学校で教鞭のかたわら、洋書を読む。〈「全集年譜」〉 日本の本も読む。
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読書
「全集年譜」に、「小学校で教鞭のかたわら、もっぱら洋書を漁り読む。」とあるが、不正確。この頃は日本の文芸書なども読んでいると思われる。辻潤自身、「のっどる・ぬうどる」〔『生理』〕で、17歳から20歳位の間、ほとんど英語の本だけを読むと述べており、この頃は英語の本だけを読んでいる訳ではない。それは、1903年には『透谷全集』や泉鏡花の作品を読み、1903年11月創刊の『平民新聞』を読んで社会主義に関心を寄せ、この年の翌年1906年に『芸苑』の文芸講演会に行っていることなどからも分かる。おそらく、この頃は小説よりも評論に関心があったかと思われる。
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1905.9.5 日露講和条約・追加約款に調印。〔10.16 公布。11.25 批准書、交換。〕〈『決定版20世紀年表』p.22〉
1905.10 上田敏、訳『海潮音』本郷書院。10.13。〈『海潮音』 〉
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1906 明治39 | 22 23 |
6月頃 九段中坂下のユニヴァーサリスト教会での『芸苑』の文芸講演会を聴きに行く。辻潤は『芸苑』の愛読者であった。講演者は、上田敏・平田禿木・島崎藤村・馬場孤蝶・生田長江、など。沢田柳吉のピアノ演奏。〈「生田長江氏のことなど」・「芸苑」『日本近代文学大事典』・「平田禿木年譜」〉
7月 四級下俸を受ける。〈「全集年譜」・口絵写真『辻潤全集』別巻〉
9.5 宮崎滔天が月刊新聞『革命評論』を創刊。〈「宮崎滔天を憶う」・「宮崎滔天関係略年表」『三十三年の夢』p.330〉
『革命評論』創刊の頃、少年時代から知合ったNという友人に連れられて宮崎滔天の評論社をたずねる。〈「宮崎滔天を憶う」〉
10月 佐藤政次郎が編集・発行の『実験教育指針』〔この月から月刊。それまでは半月刊〕に、翻訳や創作を発表し始める。〈「全集年譜」・「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉 『実験教育指針』に文章を載せることになった経緯は不明。
この頃、一時期、入学したのではないが、神田の私立音楽学校に夜間通う。そこで音楽を学ぶ。〈「De Trop」・『浮浪漫語』の「序詞」〉
この頃、小川町の古本屋の店頭で、Stanley V. Makowerの "The Mirror of Muslc" を買い、幾度となく読み耽る。〈「De Trop」〉
この頃から自然主義の小説を読み出す。〈「少年時代の読書」〉
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10月 静美「暮鐘」アンデルセン作『実験教育指針』第5巻第15号 1906.10.15〔目次に「小説 暮鐘」〕。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.276〉
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『芸苑』の文芸講演会
第一次『芸苑』は1902〔明治35〕年2月の一冊、第二次が1906〔明治39〕年1月から1907〔明治40〕年5月までの17冊。毎月、九段中坂下のユニヴァーサリスト教会で講演会を開いていた。〈「芸苑」『日本近代文学大事典』〉
『芸苑』の文芸講演会は、1906年か1907年のどちらかということになるが、平田禿木が洋行帰りだとあるから、この年と思われる。平田禿木は、1903年2月にイギリスに留学し、1906年6月に帰国した〈「平田禿木年譜」〉。
四級上俸給与
『辻潤全集』別巻に、辻潤そのほかに四級上俸給与などを与える申請書の写真が掲載されている。日付は、7月24日。小学校が申請し、東京市長からさらに東京府知事に回されたものらしい。
宮崎滔天と『革命評論』
1906〔明治39〕年9月5日、宮崎滔天、萱野良知・和田三郎・北一輝らと月刊新聞『革命評論』を創刊。翌1907年3月25日、第10号をもって廃刊。〈「宮崎滔天関係略年表」『三十三年の夢』p.330〉
1906.9.5 宮崎稻天、『革命評論』を創刊〔〜1907.3.25=10号〕。〈『近代日本総合年表』〉
1906.11 北一輝、宮崎滔天・平山周らの革命評論社同人となる。〔まもなく秘密結社中国革命同盟会に入会。〕〈田中惣五郎『北一輝』〉〈『近代日本総合年表』〉
Nは沼田かもしれない。
「宮崎滔天を憶う」に「 なんでも暑い時分だったと思う。滔天氏は白い寝巻のような寛闊な衣物を着ていた。」「 評論社を出た時は、私はかなり興奮していた。そうして懐中には出来たての「革命評論」の初号が二十部程入れられていた。」「私は道々その幾部かを読めそうな人々に与えた」とある。
「全集年譜」に『革命評論』の読者になったとある。そう思われるが、そうとは限らない。「 雑誌はなんでも初めから禁止を喰って、三号ぐらいで没落し、社も間もなく解散した。私はその後二、三度尋ねたが、滔天氏にはその後遂に遇う機会を逸し」た、とあり、せいぜい3号まで読んだ程度である。
佐藤政次郎
「おもうまま」には『天才論』の出版社を紹介した人物として「佐藤政治郎」が出てくる。
佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.281によると、佐藤政治郎は、任天・任天居士と称して『実験教育指針』「雑録」欄にしばしば筆を執った。辻潤がのちに勤めた上野女学校の教頭は佐藤正次郎といい、辻潤は彼と親交があったという。佐藤正次郎は新井奥邃の弟子であったという〈矢野文子「最初の転身まで」『本の手帖』1965.6〉。『実験教育指針』は『実験教授指針』の時代から、奥邃の口述筆記で毎号のように「雑録」欄の巻頭を飾っている。佐藤政治郎と佐藤正次郎は同一人物かとも思われる、とある。
「伊藤野枝年譜」・「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻によると、上野高等女学校の教頭は佐藤政次郎であり、『実験教育指針』の佐藤政次郎その人である。
鶯溪女学校〔のちの上野高等女学校〕の創立者の一人で教頭の佐藤政次郎(まさじろう)〔任天。のち、在寛と称す〕は、哲学館〔のち東洋大学〕を卒業し、1902年1月より雑誌『実験教授指針』〔1906年6月に『実験教育指針』と改題〕の編輯人。「温旧会」は上野高等女学校同窓会の名称だが、1915年に佐藤が辞職した後は、佐藤を中心とする会となった。佐藤の著書『門前語 戦後続篇』〔木曜会・凡人会、1956年3月〕には、女学校創立の経緯が記されている。1916年に北海道に渡った後の『函館毎日新聞』掲載の文章などを集めた『佐藤在寛新聞論談集』〔佐藤在寛先生顕彰会、1995年8月〕が編まれている。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻 p.459〉
矢野文子「最初の転身まで」・井手文子「解題」『伊藤野枝全集』下巻では「正治郎」(おそらく『ダダイスト辻潤』p.7は、これを採用)。「政次郎」と「政治郎」・「正次郎」・「正治郎」の違いに意味があるのかは不明だが、おそらくは、辻潤を含めた各著者の単なる混乱。
国会図書館蔵書検索によれば、佐藤政次郎(マサジロウ):1876-1956で、在寛(ザイカン)のほか鐡嶺(テツレイ)と名乗った。著作が数点ある。「佐藤在寛先生略年譜」などによれば、佐藤政次郎と名古屋・大阪の関係は希薄で、鐡嶺は別人の可能性がある。
佐藤政次郎、編『西洋手品』出版地:名古屋 出版者:佐藤政次郎 1887.8。(出版年からすれば、同名の別人だろう)
佐藤政次郎・相島勘次郎(アイジマカンジロウ)〔:1867-1935〕『渡米のしるべ』大阪の岡島書店(オカジマ ショテン)1902.10。
佐藤政次郎『韓国成業策 : 一名・渡韓のしるべ』大阪の岡島書店 1904.3。
佐藤政次郎『韓半島の新日本 : 一名・韓国起業案内』出版地:大阪 1904.7。
佐藤政次郎『門前語』1冊 函館の謙和社(ケンワシャ)1942。
佐藤政次郎『門前語』3冊 函館の謙和社 1942-1943。
『渡米のしるべ』は、復刻されているらしい。
奥泉栄三郎、監修『初期在北米日本人の記録』北米編 第43冊 Bunsei Shoin digital library 文生書院(ブンセイ ショイン)2006.10。
『渡米のしるべ』岡島書店 1903年の9版の電子復刻版とあるが、 佐藤鐡嶺と相島虚吼の共著とある。
「在寛」の読みは、宮城県立図書館の蔵書検索で「アリヒロ」、国会図書館・徳島県〔佐藤政次郎の出身県〕の県立図書館・函館市中央図書館の蔵書検索で「ザイカン」。号なのだから、まず「ザイカン」が正しいというもの。
「在寛・佐藤政次郎先生の人となり」によると、「在寛」の名は、佐藤が函館に行く際に佐藤が師事した新井奥邃が与えたものという。
「在寛・佐藤政次郎先生の人となり」『佐藤在寛新聞論談集』p.14:
「 大正五年十月、志を立て師父の許を離れるに際して「佐藤政次郎なる者死し、新たに嬰児に甦って新生活に入るの所存故、この新生児に命名を」と願ったところ、書経にある「契百姓親しまず、五品遜わず、汝司徒となり、敬んで五教を敷いて寛に在れ。」のことから「在寛」を名乗れと特別に自戒の書も頂いた。」
佐藤政次郎:1877.8.17-1956.10.9。〈「佐藤政次郎系図」〉 佐藤政次郎:1876-1956.10.9。〈「佐藤在寛先生略年譜」〉
『実験教育指針』
1902.1、『実験教授指針』創刊。1902年・1903年は月刊、1904.1から1906.5までは半月刊。1906.6、『実験教育指針』と名称を変え、月刊となる。1909.11〔第8巻第11号〕まで確認。編集者は一貫して佐藤政次郎。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻p.280〉
『教育関係雑誌目次集成 教育一般編』第17巻には、1906.4以後「実験教育指針」に改題とあるらしい。第8巻11号〔1909.11〕まで。
「佐藤在寛先生略年譜」によれば、1910年に廃刊。
「在寛・佐藤政次郎先生の人となり」『佐藤在寛新聞論談集』pp.13-14:
「●教育雑誌の発行
明治三十四年三月、哲学館を卒業、翌年一月小石川指ヶ谷町で教育雑誌「実験教育指針(?)」を毎月二回発行したところ、反響大きく第一号から三版四版の増刷という盛況で、数ある教育雑誌中で一等群を抜き毎号二万部近くに達したが、三十歳頃から思想信仰に一大変化を来し部数も七、八百部に減少、経済上経営不能となって四十三年二月到頭癈(?)刊した。」
佐藤政次郎「胸中往来」(10):
「◎苦学
中等学校卒業後暫(しば)らく小学校教師を勤めた上、運命の綱に引きずられて東京へ出た。新橋の停車場へ辿(たど)り着いた時は懐中僅かに三円、後先の考えもなく今の東洋大学、其の頃の哲学館へ入った。素より誰一人学資を貢(みつ)いで呉れる人はない、筆耕をしたり人の玄関番をしてあらん限りの苦学をした。四つ谷から小石川(こいしかわ)*の鶏声(けいせい)ケ窪(くぼ)まで二里足らずの途を他人の仕事を勤めながら通学した。
其の頃は睡眠の時間は二三時間位しかなかった。其の後或る書肆(しよし)*に雇われ編集の手伝いをしながらも通学した。
二十五歳の春、教授指針と題する教育雑誌を発行した。それが何ういうものか世の歓迎を受け第一号から三版四版の盛況で、一年も経たぬ中に数ある教育雑誌の中で嶄然(ざんぜん)*頭角を現すの発行部数となった。
此の雑誌を発行する事約十年に及んだが、三十歳の頃から自分の思想及び信仰に大変化を生ずると共に、当時の教育界の趨勢(すうせい)と段々縁遠くなり、後終に廃刊するに至った。
それより前記の同志と共に私立の女学校を起して見た。場所は上野公園の附近、先ず五六十人の生徒を集め随分思い切った教育をして見た。経営は難儀であったが面白い事は仲々面白かった。此の学校は割合に世間に知られなかったが自分の生涯に於て忘るべからざるものである。
其の後全く見当違いの会社の事務員になった事もある。苦学苦闘の結果は激烈なる神経衰弱になったり、恐ろしい肋膜炎を患(わずら)ったり、飢と欠亡と血と汗と涙と、交々(こもごも)至り、今松前くんだり迄流れて来て相変らずの窮措大(きゆうそだい)*累々然として安定を得ざる生活、イヤハヤ永い浮世であるわい。
*四つ谷→東京都新宿区の南東部を占めた旧四谷医。
*小石川の鶏ヶ窪→東京都文京区の西南部を占めた旧小石川区の谷窪地の名称の一つ。
*書肆→書店。
*嶄然→高くぬきんでていること。一際目立つさま。
*窮措大→貧乏な書生をいう。」
ここでは、雑誌廃刊後に女学校を設立したようにあるが、佐藤政次郎「胸中往来」(14)には、「其の頃僕は例の教育雑誌をやって居た時なので先ず顧問格という有様で、週に一回づつ修身科を教えに行ったのである。」とあり、雑誌の発行と女学校で教えた時期は重なっている。雑誌が廃刊したこともあるのか、「 やって見ると仕事が段々面白くなって来る。始め一週間に一回しか出なかった自分も、やがては二回となり、四回となり、終には全身全力を之に傾倒するに至った。/ と共に学校の教育は主として、自分が其の衝(しょう)に当る事となった。」〈佐藤政次郎「胸中往来」(16)〉とある。
それにしても、辻潤は、『実験教育指針』にさまざまな文章を載せている。アンデルセンをはじめとする翻訳、創作でも小説のほか詩や短歌もある。明治時代の雑誌とはそういうものかと思ったのだが、少しく奇異である。
翻訳なら、外国の作品を紹介するという点で多少意義があるだろう。アンデルセン童話は教育雑誌にはふさわしくもあるだろう。その頃の辻潤は、高等小学校教師で、アンデルセン童話の英文は高等小学校児童(or 生徒)には少し難しすぎるが、教育熱心の故かもしれず、当時それほど知られていなかったアンデルセンの紹介の意味もあるだろう。
しかし、辻の処女作という「いぬかは」をはじめ、辻の創作は、教育とは無関係で、他人が読んで面白いと思うとも思えず、「消息」に到っては、ほとんど手紙そのままのようなものである。辻潤が好き勝手に作品を載せているという印象がある。ページの埋め草なのだろうか。『実験教育指針』とは、そういう雑誌なのだろうか。まるで同人雑誌の類のようではないか。
佐藤政次郎が書いているところによると、辻潤が『実験教育指針』に書き出した頃、佐藤政次郎の思想及び信仰に大変化を生じ、『実験教育指針』の発行部数も落ちて行った。
佐藤政次郎の思想及び信仰に大変化を生じたことは、佐藤が新井奥邃の門下に入ったことの影響だろう。「佐藤在寛先生略年譜」によると、それは1903年(1905年の結婚の影響もあるだろうか)。辻潤が佐藤政次郎・『実験教育指針』に関わるようになったことは、新井奥邃の線も考えられるかもしれない。
「自分はどのくらい宗教的か?」:
「 それから新井奥邃先生(といっただけでは通じないかも知れないが)、このことなども話してみたいが長くなるからやめておくことにする。一々の因縁を詳しく話すことになると、それだけでもかなりひまがかかる。」
それにしても、辻潤とマイナーなものの縁はしばしば見られるが、『実験教育指針』についても、発行部数が落ちていってから作品を載せているわけで、ヤレヤレである。
神田の私立音楽学校
神田の私立音楽学校に夜間通った時期は、不明確。
「De Trop」には、1918年の12、3年前とあり、「やがて夜間をもパンのために働らかなければならないように余儀なくされた。」とあるので、ここに入れた。
「De Trop」:
「 かれこれ十二、三年も前の話である。僕は昼間の労働をすませて、夕方から神田のある私立音楽学校に通っていた。そこで僕は初めて音楽のアルハベットを習い始めたのである。別段音楽学校の入学試験を受けようというのでもなく、検定試験に合格しようというのでもなく、まったく単なる道楽からであった。貧乏に虐げられていた蒲柳の青年には女と酒とに親しむ程の元気もなく、僅かに読書と音楽によって果敢ない彼の生き甲斐を感じていたのであった。しかし、貧しい彼の境遇は彼をして永くその道楽に親しむ余裕をさえ許さなかった。彼はやがて夜間をもパンのために働らかなければならないように余儀なくされた。」
「音楽学校の入学試験」とあるが、上野の音楽学校のことだと思われる。
「De Trop」のこの文章からは、短期間だが音楽学校に入学して音楽を学んだようにみえる。佐々木靖章は次のように書いている。「彼が神田の私立音楽学校に夜間通って洋楽を学んでいたということは、どの年譜も見落していたことである。」〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.293〉
しかし、私立音楽学校に夜間通って洋楽を学んだのだとしても、音楽学校に入学して音楽を学んだ訳ではない。『浮浪漫語』の「序詞」には「入れたら音楽学校に入学したいと思ったことがあったが、それは当時の事情が許さなかったので、思いとどまった。」とある。ここでの音楽学校は、音楽学校一般のことだろうから、神田の私立音楽学校にも入学していない訳である。それは、「天狗だより」に、自由英学が席(?)を置いた最後の学校であると書かれていることにも合致する。実際に入ったのに、入らなかったとごまかす理由も見当たらない。だから、『浮浪漫語』以後、辻潤にとって、音楽学校に入学したという意識はなく、それが事実ということになる。
それなら、何のために何をしに音楽学校に通ったのか。音楽の「アルハベット」を習い始めたといっても、誰かから学んだと言っている訳でもなく、図書館を開放していたとか、市民のための講習会を開いていたとか、当時は多分レコードというものがなかったので、音楽を聴くためには実際の演奏を聴くしかなく、生徒が演奏会を開いていたなどということがあったのかもしれない。のちに神田の音楽学校の校長を知っていたと出てくるから、単に本を読むとか演奏を聴くだけだったとも思えないが。
「連環」に「 柳宗悦氏にはまだ一度もお目にかかってお話をしたことはないが、昔まだ帝大の学生でいられた頃、音楽学校の講堂でたびたびお見かけした。」とあり、一般人に音楽の講義を開放していてそれを聴講したのではないかとも思う(演奏会かもしれない)。ただし、柳宗悦が東京帝国大学を卒業したのは1913年7月〈「柳宗悦」『日本近代文学大事典』〉だから、のちの話である。
辻潤は上野高女でピアノを弾いていた〈投書記事『東京朝日新聞』1916.11.21号・花沢かつゑ「鶯谷の頃から」〉。ピアノは、この音楽学校で覚えたのかもしれない。あるいは、教会のオルガンで、あるいは、小学校・中学校などに置かれていたオルガンで覚えたのだろうか。
読書と自然主義
日本に自然主義が勃興するまで、ほとんど小説は手にしない〈「少年時代の読書」〉。岩野泡鳴の『神秘的半獣主義』でメーテルリンクを知る〈「生田長江氏のことなど」〉。この年か翌年あたりから、自然主義文学を読み出したことになる。
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1906.1 ワイニンゲル、片山孤村、訳『男女と天才』大日本図書。〈『日本近代文学年表』〉
1906.2 上田敏「鏡影録」『芸苑』。〔〜12月〕〈『日本近代文学年表』〉
1906.3.20 東京=上野公園に帝国図書館が新築落成。
1906.3.20 上野帝国図書館、開館式。〈『日本近代文学年表』・新聞記事〉
1906.3 島崎藤村『破戒』緑蔭叢書第壹編 私家版。〈『日本近代文学年表』〉
1906.3 生田長江「小栗風葉論」『芸苑』。〈『本近代文学年表』〉
1906.5 上田敏「象徴詩釈義」『芸苑』。〈『日本近代文学年表』〉
1906.6 岩野泡鳴『神秘的半獣主義』左久良書房。〈「岩野泡鳴年譜」〉
1906.6 上田敏「マアテルリンク」『明星』。〈『日本近代文学年表』〉
1906.7 メーテルリンク、山岸荷葉、訳『モンナ・ワ゛ンナ』春陽堂。〈『日本近代文学年表』〉
1906.9.1 煙草「ゴールデンバット」発売。〈『官報』〉〈『近代日本総合年表』〉
1906.11 久津見蕨村『無政府主義』。11.16。〈『近代日本総合年表』〉
1906.11 青柳有美『有美道』丸山舎書籍部。〈『日本近代文学年表』〉
生田長江:1882.4.21-1936.1.11。〈「生田長江」『日本近代文学大事典』〉
木村荘八:1893.8.21-1958.11.18。1923 春陽会、創立。〈「木村荘八」『日本近代文学大事典』〉
柳宗悦(やなぎ むねよし):1889.3.21-1961.5.3
。東京帝国大学哲学科で心理学を専攻。1913.7 卒業。1914.3 声楽家の中島兼子と結婚。千葉県=我孫子に住む。〈「柳宗悦」『日本近代文学大事典』〉
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1907 明治40 | 23 24 |
5月 日本橋区の市立第三実業補夜学校の訓導になる。月給7円20銭。〈「全集年譜」〉(おそらく、実業補習夜学校が正しい。英語を教えたと思われる。昼間の千代田尋常高等小学校と兼ねたか、あるいは、上野女学校で教えた可能性がある。)
5月 神田の佐久間町の狭い横町のとある家の二階の4畳半で暮らし、そこで始めて物を書き、「いぬかは」が処女作。〔のち『浮浪漫語』に収める。〕〈「幻燈屋のふみちゃん」・「いぬかは」〉(のち、巣鴨に移るか。〈「消息」〉)
8.1〜8.10 東京=九段坂下のユニバーサリスト教会での社会主義夏期講習会を聴講する。19:00〜22:00までの毎晩3時間、聴講者は7、80人くらい。会費80銭。4分の1か3分の1は地方の「同志」。8.6の東京=角筈(つのはず)十二社での園遊会にも参加。〈写真『辻潤集』第1巻・高橋新吉「辻潤追慕」・山川均「十二社の園遊会」・『日本社会運動史』p.123・『週刊社会新聞』・「全集年譜」〉
10月 日暮里の修性院(しょうしょういん)〔花見寺(はなみでら)〕に数町の茅葺きの家を借り、一人暮らしをする。家賃が3円。〈「消息」・「幻燈屋のふみちゃん」・「●今日の花見案内」「●躑躅」『読売新聞』1895.4.28 3面〉
11月頃 この頃から煙草を呑み始める。〈「消息」〉
11.8頃 日暮里に家を借りたことを巣鴨に知らせる。〈「消息」〉
11.9 妹の恒が訪ねて来る。兄さんの呑気にも呆れたものとさんざん小言し、「信仰」「信仰」と口癖のように言い、意見がましい事を言う。近頃、煙草を呑み始めたことなどを気にかける。〈「消息」〉
11.14 夜、純正哲学科に入った角帽姿のSが来て
話をする。〈「消息」〉
11.21 探していたエドガー=アラン=ポーの本を古本屋で見つけて買う。〈「消息」〉
11.30 休みを取り、南椽の日当りよい処に座ってポーを読む。〈「消息」・「幻燈屋のふみちゃん」〉
この頃から酒を飲み始める。〈弟、辻義郎による〉〈『ダダイスト辻潤』p.95〉
この当時、上田敏を愛読。〈「De Trop」〉
この頃、正宗白鳥の『紅塵』を貪り読む。〈「らんだむくりちこすDADA」3・『日本近代文学年表』〉
自然派の作家の中では国木田独歩と岩野泡鳴とを最も熟読。かれらが他に比して遥かにロマンチックであったからという。〈「らんだむくりちこすDADA」3〉〔「自然主義作家の中では特に岩野泡鳴の思想に影響された。自分はデカダンであることを誇りとした。」〈「自分はどのくらい宗教的か?」〉〕
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1月 静美「影」(上)アンデルセン作『実験教育指針』第6巻第1号 1907.1.15〔目次に「小説 影」〕。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.276〉
2月 静美「小説 影」(下)アンデルセン作 『実験教育指針』第6巻第2号 1907.2.15。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.276〉
4月 せいび訳「おはなし」『実験教育指針』第6巻第4号1907.4.15〔目次には「御伽話(数題)」〕。
一、成効者 二、一滴の水 三、高襟物語
※「一滴の水」は『浮浪漫語』に収載。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.276,278〉
※これら三作品について、「全集年譜」では作者不明とあるが、「成効者」・「高襟物語」については、『辻潤全集』第8巻はアンデルセンの作と明記している。「一滴の水」も含めて全てアンデルセンの作品である。
6月 静美「いぬかは」『実験教育指針』第6巻第6号 1907.6.15。
※『浮浪漫語』に収載。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.276,278〉
※1907.5
辻潤の処女作〈「幻燈屋のふみちゃん」〉。
「犬の川端歩き」:「いくら歩き回っても何の得る所もないこと、また金銭を所持しないで店頭をぶらつくことのたとえ」〈『広辞苑』〉
8月 静美「三ちやん」『実験教育指針』第6巻第8号 1907.8.15。
※『浮浪漫語』に収載。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.276,278〉
※1907.6
9月 静美狂生「はんもん一束」『実験教育指針』第6巻第9号 1907.9.15。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.276〉
11月 静美気訳「たんたらす」『実験教育指針』第6巻第11号 1907.11.15 〔末尾に「(エマルソン)」、目次の署名「静美生」〕。
※『浮浪漫語』に収載。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.276,278〉
12月 静美生「消息」『実験教育指針』第6巻第12号 1907.12.15〔目次に「小説 消息」〕。
※『浮浪漫語』に収載。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.276,278〉
※1907.11
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市立第三実業補夜学校
1907年5月に日本橋区の市立第三実業補夜学校の訓導になったという記事は、旧辻潤年譜では、「全集年譜」で初めて現われた。具体的に学校名と月給を記しているから、何らかの根拠があるのだろう。
インターネット検索、読売新聞データベースでの検索、そのほか、私の知るどの本にも、「実業補夜学校」という学校名は見当たらない。おそらくは、「実業補習夜学校」が正しいと思われる。
月給7円20銭というが、助教員時代の月給15円の約半分でしかないので、昼間もどこかで教えていたとしか考えられない。それなら、以前から勤めていた千代田尋常高等小学校か、あるいは上野女学校である(後述)。
実業補習学校について、
1890〔明治23〕小学校令改正。第3条第3項に「徒弟学校及実業補習学校モ亦小学校ノ種類トス」〔改正小学校令第9条〕。
1893〔明治26〕 実業補習学校規程、制定。文部省令第16号。実業補習学校制度が確立。
1899〔明治32〕.2.7 「実業学校令」が公布、制定。「勅令」第29号。実業学校の種類は、工業学校・農業学校・商業学校・商船学校・実業補習学校。公立実業補習字枝の職員の名称・待遇は公立小学校の例に拠る、など。
1902〔明治35〕実業補習学校規定改正を公布。文部省令第1号。明治26年公布の実業補習学校規定〔文部省令第16号〕を全面的に改正。
1902 この年の実業補習学校数は630校、教員数617人、生徒数31,013人〔男子23,897人、女子7,116人〕。
1920〔大正9〕.10.29 実業補習学校教員養成所令、公布。「勅令」第521号。1921.4.1より実施。
〈「勤労大衆青年教育制度略年表」『人間宰相・原敬と教育改革』〉
『人間宰相・原敬と教育改革』pp.197-198:
「 明治二十三年には実業補習学校制度がさだめられ、近代国家として発展していくための基盤として、教育の普及・充実による国民資質の向上を図るさいには、産業の発展充実による国力の増強を目指して、勤労青年の職業知識・技能を授ける教育機関として、国策にも掲げられていった。
このように極めて重要な教育機関ではあったが、その実情は必ずしも順調なものではなく、財政事情もあり、小学校併設が大部分であった。
やがて小学校教育が義務制となり、就学率も向上し、初等教育の面では飛躍的充実発展をみた。さらには、小学校を卒業して実務につく勤労大衆青少年の教育は国民教育の向上に欠くことのできない重要な教育施策であるとして、制度の法制化が進められていった。しかし制度が出来ても、実業補習学校の教育諸条件が整備されなかったのである。
その重要な課題の一つに、実業補習学校の専任教員の養成と充足の問題があった。市町村の財政事情が悪く、施設・設備を整え、専任教員を採用して開校することが出来ないという事情もあった。このような悪条件の下で、実業補習学校を設置しても、小学校教員の兼務で専任教員もなく、施設はほとんどが小学校の教室を利用し設備も兼用という劣悪な教育環境にあるのが実態であった。
このような実情を憂慮した原敬は、実業教育の振興に着目して、実業補習学校の専任教員養成の為に、実業補習学校教員養成所を設置したのである。」
「消息」と「幻燈屋のふみちゃん」
「消息」には、辻潤が出したと思われる手紙5通が収められている。手紙の下書きが残っていたということだろうか。「消息」末尾の日付は、1907年11月で、全てこの年の11月の手紙ということになる。そのうちの二つは「幻燈屋のふみちゃん」にも引用されている。その中の11月30日の日付の手紙によると、その日、ポーを読んでいるが、その日が天長節〔天皇の誕生日〕とあり、とすれば、11月3日の筈である。しかし、11月21日にポーの本を買っているから、やはり11月30日でないと、つじつまを欠く。何か(私を含めて)混乱がある。
なお、「消息」の載った『実験教育指針』の目次には「小説 消息」とあるという。形式は全く小説らしくないが、フィクションである可能性もある。
日暮里の花見寺に数町の茅葺きの家に移ったことは、「消息」と「幻燈屋のふみちゃん」両方にある友人への手紙に「此処にまえりて候てより、早くも二週を閲(け)みし候。又例の道楽よと御笑ひ被遊(あそばされ)候(そうら)はん、小生元より覚悟の前、これも孤り身の一徳よと自らほほえみ居り候。破行李一個(兼本箱)、机一脚、夜の物、これにて財産は尽き申し候」〈『辻潤著作集』〉とある。
当時は田圃があり、野川が流れる自然の多い処であった。
話題があちこち飛んでいるので、「幻燈屋のふみちゃん」からは時期等、やや不鮮明。神田佐久間町の2階を借り、日本橋のT小学校に在職中のこととも読めるが、日暮の里から日本橋の呉服町にある会文学校という私塾に通っていたともある。
「幻燈屋のふみちゃん」からは、日暮里の茅葺きの家に移ったのは、1903年のことかとも思ったが、「消息」に妹が出てきて年頃とあるから、1907年でなくてはおかしい。1903年だと、恒は8歳であるから。
「小生如き意気地なき兄持てる事、一生の不幸に候わんなれど、別段恨める様子もなく、リボン一つ買うも手帳に記し、遇う度に、うるさき程の説明、年頃なれば、流行の物など相応に眼にふれ申すべく、母在(おわ)さばと、小生そぞろに胸苦しく覚え候。」とある。
母の美津が死んだ訳ではないのに、「母在さば」とあるのは、おかしいと思ったのだが、美津が亡くなったと書かれている訳ではなく、美津が病気だったかとも思われる。
「幻燈屋のふみちゃん」は、1903年と1907年のことがごっちゃになっているようで分かりにくい。この頃は生活のため自分を殺して働いていた一続きの時期という意識があるのかもしれない。
日暮里の修性院〔花見寺〕に数町の家で一人暮らしをする前など、ほかの家族がどこにいるのかも不明確。神田のようでもあり、巣鴨のようでもある。
日暮里の花見寺
日暮里の花見寺(はなみでら)は、修性院(しょうしょういん)のこと。〈「●今日の花見案内」「●躑躅」『読売新聞』1895.4.28 3面〉
花見といっても、桜ではなく、躑躅(つつじ)が有名であり、『読売新聞』データベースで、明治期の「花見寺」を検索すると、1891.4.30から1905.4.15まで、8件の記事があり、「修性院」については、1886.9.19の1件。
修性院は『改訂版 寺院名鑑』になく、いつかは分からないが、廃寺となったと思われる。
社会主義夏期講習会
「全集年譜」1907年:
「 八月、「実験教育指針」第六巻第八号に「三ちゃん」を発表。同月の六日、新宿角筈十二社にての「社会主義夏期講習会」に参加する。大杉栄、堺利彦、幸徳秋水、山川均、片山潜らの顔ぶれであった。他に田添鉄二、福田英子、新村忠雄、筑比地仲助、西川光二郎、森近運平らが出席する。」
『ダダイスト辻潤』p.56:
「 戦後(昭和二十九年)に出た「近代社」版の『浮浪漫語』をみると、トビラに「明治四十年八月六日、東京角筈十二社、社会主義夏期講習会における写真」なる一葉がかかげられているが、その中には、田添鉄二、堺利彦、片山潜、福田英子、幸徳秋水、山川均、森近運平ら明治を彩る錚々たる社会運動家たちの間に混って細面の辻潤の顔がみえる。」
以上のほか、この写真と辻潤が講習会に出たことについては秋山清「思想家としての辻潤」などにもある。
『辻潤集』第1巻 写真説明:
「明治四十年八月六日、東京角筈十二社、社会主義夏期講習会における写眞。
後列左端田添鉄二、帖紙のある杉前柴田三郎、その右大杉栄、二列目右より三人目 吉川守国、一人おいて堺 利彦、その右より片山 潜、辻 潤、福田英子、山口孫右衞門、新村忠雄、一人おいて築比地仲助、森田永治、齊藤兼次郎、前列左端より竹内善朔、深尾 韶、村田四郎、幸徳秋水、堺 為子 堺 眞柄、一人おいて徳永保之助・小島しげ・山川 均、西川光二郎、三人おいて森近運平、その他。」
写真説明は、「寒村自伝 上」などの内容と合わないところがあった。「寒村自伝 上」では、この講習会の会場は九段下のユニヴァサリスト教会(「堺利彦年譜」では、九段ユニテリアン教会)で角筈(つのはず)十二社ではない。写真に辻潤らしき顔が写っているということだけが根拠だとすれば、はなはだ頼りないものだと私は思った。
しかし、高橋新吉「辻潤追慕」で、この写真の来歴の一端が示され、山川均「十二社の園遊会」は、写真は講習会場でのものではなく、角筈十二社での園遊会の記念写真であることを明らかにしていた。そこで、写真に示された講習会の記事をこの年譜にも採用することにした。写真に写っている顔は、『定本 伊藤野枝全集』に載っている辻潤の顔と確かに似てもいる。
ただ、山川均は辻潤が講習会に出たことを知らなかったし、そのほか、辻潤が講習会に出たと記したというものもない。その点で若干の疑問は残っている。
辻潤が講習会に出たというなら、少なくとも、辻潤は福田英子・大杉栄の顔くらいは見知ったのではないかということになる。しかし、それ以上のことは分からない。福田英子については、のちに、この時のこともあって親しくなったのかもしれない。
高橋新吉「辻潤追慕」:
「なお、「明治四十年八月六日、東京角筈十二社、社会主義夏期講習会における」写真に、大杉栄、堺利彦、片山潜、幸徳秋水、山川均、その他数十人が。うつっているが、この写真は八幡浜市の織物業者で、初代市長になった酒井宗太郎から、辻潤が、もらって持って帰ったものだと、私は記憶している。」
山川均「十二社の園遊会」:
「 この写真を見ると、(本書辻潤集第一巻浮浪漫語口絵―角筈十二社に於ける記念写真)私より年上の先輩たちにしても、じつに若かつたものだ。しかし存命の人はひとりもいない。この五十三人のうちで、私に指名のできるのは二十一人で、見覚えはあるがちよつと名前を思い出せない顔が数人ある。その二十一人のうち死亡の確実なのが十一人、私の知るかぎりでは健在なのはわずかに三人だけだ。十一人のなかには明治四十二年のあの大逆事件の犠牲者三人(幸徳、森近、新村)がふくまれている。
この写真のなかに辻潤氏のいられることを私はいままで知らなかつた。最後列の立つている人たちのなかに中里介山氏のあることも、ごく最近に聞いたのである。」
「この年の八月一日から十日まで、社会主義夏期講習会が開かれたが、講演者は『社会主義史』田添鉄二、『法律論道徳論』幸徳秋水、『社会の起源』堺利彦、『社会主義経済論』山川均、『労働組合論』片山潜、『ストライキ論』西川光二郎で、両派から講師を出しているが、この講習会がおそらく両派の協力した最後の機会であつたろう。
会場はもとの麹町区の飯田町、九段坂下のユニヴアザリスト教会堂で、毎晩三時間、聴講者は七、八十名くらいで、三分の一か四分の一は地方の同志であつた。八月六日は角筈の園遊会にあてられた。
(略)このときの記念撮影がこれである。」
「三 日刊『平民新聞』」「寒村自伝 上」:
「 日刊『平民新聞」の廃刊後、六月には東京で片山、田添、西川氏らが週刊『社会新聞」を、森近君が大阪に半月刊の『大阪平民新聞」(十一月、第十一号から『日本平民新聞』と改題)を発行し、前者は軟派、後者は硬派を代表した。ただ堺さんや『大阪平民」発行者の森近君は、ひとしく硬派といっても、直接行動論もしくは無政府主義に同調した訳ではない。むしろ社会主義の革命的伝統を守るために、直接行動論者と共同戦線をつくったという形である。これは社会主義運動の機関紙が東西に起ったというだけでなく、分派的対立の尖鋭化を予想させたものだが、それでも両派合同で八月一日から十日間、九段下のユニヴァサリスト教会で社会主義夏季講習会、二十二日には神田の錦輝館で英国独立労働党首ケヤ・ハーデー翁の歓迎会が開かれもした。」
「堺利彦年譜」1907年:
「七月、社会主義夏季講習会を九段ユニテリアン教会に開く。」
この記述は間違いである。
『日本社会運動史』p.123:
「 明治四十年の八月一日から十日まで、東京九段坂下のユニバーサリスト教会において、社会主義夏期講習会が開かれた。社会主義史(田添鐵二)、法律論道徳諭(幸徳秋水)、社会の起源(堺利彦)、社会主義経済論(山川均)、労働組合論(片山潜)、同盟罷工諭(西川光次郎)等の講演が行われ、盛会であった。」〈『社会新聞』〉
酒
『ダダイスト辻潤』p.95:
「義郎さんによると、二十四、五歳から飲み始めたものだそうだ。」
樋口十六「狂へるダダイストの精神鑑定」によると、15歳頃の時から飲み始めたとあるが、口にした程度のことだろう。これは『サンデー毎日』に載った文章だが、「辻潤書簡」159〔1944.2.4〕には、「いい加減なものだ。」とある。
小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」によると、クリスチャンであった間は酒を飲まなかったが、小学校の教師になって、たびたび宴会があり、飲まざるを得なくなった。
「ふもれすく」に、伊藤野枝との同棲中に「酒の味を次第に覚えた。」とあるのは、酒をうまいと思うようになったということだろうか。
読書
「らんだむくりちこすDADA」3:
「白鳥氏の最初の単行本? 『紅塵』が出た時、僕は如何にそれを貪り読んだことか」
アンデルセンの「一滴の水」
『実験教育指針』第6巻第4号に掲載されたおとぎ話について、佐々木靖章は次のように書いている。
佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.278:
「「一滴の水」は『浮浪漫語』に収録されているので創作に間違いはなく、他の二篇も創作であろう。「成効者」もイソップ寓話の体裁をまねたものであろう。「せいび訳」と翻訳の形をとったのは、寓話的作品をカモフラージュするためと思われる。」
「一滴の水」は『浮浪漫語』の巻頭近くに置かれ、原著者の明記がなく、確かに辻潤の創作のように見えるのだが、そうではない。「一滴の水」そのほかの二作品ともにアンデルセンの作品である。アンデルセンの作品を読めば一目瞭然のことである。
「成効者」と「高襟物語」については、『辻潤全集』第8巻にアンデルセンの作と出ている。一体、『辻潤全集』の編者は、どのようにして、「成効者」と「高襟物語」の作者がアンデルセンだと分かったのだろうか? それらが、アンデルセンの作だと分かるのなら、「一滴の水」もそうだと分かりそうなもの。それが分かっているのなら、『浮浪漫語』を収めた第1巻には、注釈か解説をつけてその明記をするべきであった。
辻潤訳の題名は、小学館の『アンデルセン童話全集』に収められている題名と異なっている。辻潤が訳したほかのアンデルセン作品とともに、その対応を示しておく。
「暮鐘」:「鐘」
「影」:「影法師」
「成効者」:「高とび選手」
「一滴の水」:「水のしずく」
「高襟物語」:「カラー」
岩波文庫の大畑末吉訳の全集では、「カラー」が「カラーの話」となっているほかは、小学館の全集と同じ。
話の筋はまず同じだが、辻潤訳には多少潤色が入っているほか、いくらか異なるところがある。英訳本がどうであったのかなどは分からない。『アンデルセン―生涯と作品』には、アンデルセンの英訳について次のようにある。
『アンデルセン―生涯と作品』p.462:
「 残念なことだが、十九世紀の英訳は、大部分がまことに満足のいかぬものである。これは、「ハンス・アンデルセン」が英米両国において聞きなれた言葉になった、一八四六年から四八年にかけてなされたものについて、特に言えることだ。」
そして、何人かの誤訳の例を挙げている。
辻潤の訳した原本は不明だが、辻潤が作品名を「一滴の水」としたのは、英語の原本では「A drop of water」の題だったからであろう。現在「水のしずく」の題になっているのは、デンマーク語ではそういう単語の並びだからである。
「一滴の水」は、おとぎ話にしては諷刺があり、少々残酷なところがある話だと思うが、近頃グリム童話が残酷という本も出されたことだし、ことさら特殊なことではないだろう。この作品は、アンデルセンが顕微鏡で水中の微生物を覗いたことから作られたもので、魔法の血とあるのは染色液のことらしい。この作品は、デンマーク生まれの物理学者エルステッドに捧げられている。科学といっても顕微鏡を覗いたというだけのことで、物理学ともあんまり関係がありそうにない。アンデルセンは科学をあんまり知らない人だったようである。
カレンダー
『暦日大鑑』による曜日。
10.27 日。
11.3 日、11.8 金、11.9 土、11.14 木、11.21 木、11.27 水、11.30 土。
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1907.1.15 日刊『平民新聞』創刊。日本社会党の機関紙。〔4.14 第75号で廃刊を宣言。〕〈「三 日刊『平民新聞』」「寒村自伝 上」〉
1907.1 福田英子、『世界婦人』を創刊。〈「平塚らいてう年譜」〉
1907.2.17 神田区=錦町の錦輝館で社会党大会。〈「三 日刊『平民新聞』」「寒村自伝 上」〉
1907.2.20 『日刊平民新聞』、発売停止。〈『日清・日露』〉
1907.2.22 内務大臣、治安警察法第8条第2項に依り、日本社会党の結社を禁止。〈『平民新聞』2.23号〉
1907.4 岩野泡鳴「自然主義表象詩論」『帝国文学』。〈『日本近代文学年表』〉
1907.5 夏目漱石『文学論』大倉書店。〈『日本近代文学年表』〉
1907.6 島村抱月「今の文壇と新自然主義」『早稲田文学』。〈『日本近代文学年表』〉
1907.6 東京で週刊『社会新聞』創刊。片山潜・田添鉄二・西川光二郎ら。〈「三 日刊『平民新聞』」「寒村自伝 上」〉
1907.7 生田長江「芸文私議―謂ふところの自然主義とは何ぞや」『読売新聞』。〈『日本近代文学年表』〉
1907.8.1〜8.10 九段下のユニヴァサリスト教会で社会主義夏季講習会。〈『日本社会運動史』p.123・「三 日刊『平民新聞』」「寒村自伝 上」・など〉
1907.8.31 片山潜・西川光二郎ら、社会主義同志会を結成。〈『日本近代文学年表』〉
1907.5.5〜6.10 ハウプトマン、登張竹風・泉鏡花、共訳「沈鐘(ちんしよう)」『やまと新聞』。
※全5齣中の第2齣まで。
〈「作品解題」『鏡花全集』別巻〉
1907.9.6 幸徳秋水・堺利彦ら、社会主義金曜講演会、開催。〈『日本近代文学年表』〉
1907.9 田山花袋「蒲団」『新小説』。〈『日本近代文学年表』〉
1907.9 正宗白鳥『紅塵』彩雲閣。〈『日本近代文学年表』〉
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1908 明治41 | 24 25 |
4月 浅草区の市立精華高等小学校の教師になる。〈診断書の写真『辻潤全集』別巻・「全集年譜」〉 英語を教える。月給24、5円〈「古風な涙」〉。
〔夜学と家庭教師の内職をやる〈「古風な涙」〉。1909年9月から1911年2月までの精華高等小学校での勤務表が残っているが、1911年2月に、父の一周忌で1日休んだ他は皆勤であった。〈『ダダイスト辻潤』p.6〉〕
小石川区大原町の亀井という華族の屋敷の近所で、植木屋の庭の中の隠居所に建てた4畳半と3畳の2間の家に住む。父母と妹の4人で暮らす。〈「古風な涙」〉 学校から帰ると角帯をしめて、毎日、尺八を吹く。〈隣り合せて親しく出入したという篠崎新〔石巻の警察医、博士〕の回想談〉〈『空々くろろん』pp.86-87〉
この頃、父の六次郎は4年越しに心臓を患い、完全な廃人でおかしくなっていた。〔六次郎が近所の風呂へ出かけるのも、美津がついて行く。「川崎銀行に預金が一万円預けてあるから引き出しに行くのだといいだすと、いくら人がとめてもなかなかいうことをきかず、仕方がないので母が近所まで一緒について行き、色々となだめすかしてその辺を歩いてつれて帰る」ということがあった。ある日、六次郎は、恒が学校に行き、美津が近所に買物に出ていた間に、家を出る。美津は近所を探したが見つからず、交番の警官に捜索を依頼。20:00 PM頃、辻潤は、家へ帰った。美津と恒が悄然として「おとうさんが今日どこかへ出て未だにかえって来ないが――」と言って二人で泣き出す。十分と経たないうちに警官が来て、お前のオヤジだろうと思うが、いま万世橋の警察から電話がかかってきたがこれからすぐひきとりに行くがいいと言われる。辻潤は万世橋の警察へ行き、保護室にいた六次郎を引き取る。警察の近くで通りすがりの人力車に六次郎を載せ、そのうしろをついて、22:00PM頃に小石川に帰る。〕〈「古風な涙」〉
この頃、辻潤はキリスト教の信者だった。〈「古風な涙」〉
この頃、「求婚」と題した小説めいたものを書く。〈「ふりぼらす・りてらりや」〉 原稿紙100枚の求婚状を書き、失敗。〈「「男やもめの心境を訊くJ」〉〈『ダダイスト辻潤』p.308〉
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1月 静美生「あるこおる」『実験教育指針』第7巻第1号 1908.1.15。
※『浮浪漫語』に収載。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.276,278〉
※1907.12
2月 静美気訳「独白」『実験教育指針』第7巻第2号 1908.2.15 〔末尾に「(ぽう)」目次の署名「静美訳」〕。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.276〉
※Edgar Allan Poe(1809-1849)
9月 静美復訳「頸飾(えりかざり)」モウパンサン作『実験教育指針』第7巻第9号 1908.9.15。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.277〉
※モーパッサン。
せいび 「即興」『実験教育指針』第7巻第9号 1908.9.15。
「たそがれ」(散文詩)〔末尾に「(ツエレー)」、「シエレー」の誤植であろう〕
「うたいながら」(散文詩)〔末尾に「(メー、タアナー)」〕
「狂えどもはた叫べども」(夢の歌)
※創作らしい。
「HIYAKASHI(YEDO-FU ICHI MEI KEIHAKUTAI)」 Seibi
※ローマ字詩、創作らしい。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.277,279〉
※「メー、タアナー」は不詳。
「狂えどもはた叫べども」は訳詩かもしれない。創作ならダダ詩・ナンセンス詩とローマ字詩の「HIYAKASHI」を除いて辻潤が作った唯一の詩ということになる。
10月 せいび復訳「らゝびやた」パウル、ハイゼ作『実験教育指針』第7巻第10号 1908.10.15。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.277〉
※パウル=ハイゼの『ララビアータ(片意地娘)』。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉
※「パウル、ハイゼ」、不詳。
11月 せいび復訳「らゝびやた(承前)」パウル、ハイゼ作 『実験教育指針』第7巻第11号 1908.11.15。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.277〉
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精華高等小学校
『辻潤全集』別巻に辻潤が精華高等小学校を退職する際の診断書の写真がある。そこに、1908〔明治41〕年4月に精華小学校に「奉職」とある。当然、始業は4月だが、ほかの資料には月は出ていない。東京市精華高等小学校とあり、市立である。
『ダダイスト辻潤』p.6に、1909年9月から1911年2月までの精華高等小学校での勤務表が残っていて、1911年2月に、父の一周忌で1日休んだ他は皆勤の精勤ぶりであった、という。が、1910年1月11日に父親の六次郎が死んだ時に、葬儀で休まなかったのだろうか。「寺田寅彦日記」によって数えると1910年1月11日は火曜日。
伊藤野枝「惑ひ」〔『新日本』〕によると、美津は親戚などの交際にやかましかったようだから、普通に慣習通りの葬儀を行ったのではなかろうか。おそらく、長男の辻潤が葬儀に出席しないなどということはあり得ないだろう。土曜か日曜に行ったのだろうか。
辻潤が、本科正教員になったことを示すものはないから、辻潤は精華高等小学校でも、専科正教員で、英語を教えたものと思われる。
大原町の家
菅野青顔『空々くろろん』pp.86-87:
「次わ、先生の上野高等女学校の英語教師時代即ち明治四十二年、小石川区大原町の居に隣り合せて親しく出入したと言う石巻の警察医篠崎新博士の回想談。『辻さんわ、学校から帰ると角帯をしめて、毎日尺八を吹いていましたが、英語の先生が角帯で尺八、ちよつと変な気がしましたよ、尺八わそんなにうまかつたんですかね、お母アさんと妹のツネさんと三人暮しでしたが、ツネさんわどうなつてるでしようネ、一度会つて見たいと思つてますよ、その後住居が変り、僕もアメリカなどえ行きましたから、その後の辻さんについてわ何も知りません。云々』」
上野高等女学校の英語教師時代というのは間違いだろう。何故、菅野青顔が辻潤が1909〔明治42〕年に上野高女の教師だと思ったのかは後述するが、辻潤が小学校で英語を教えたと記しているものはなく、英語教師というなら上野高女の教師と思ってしまったということもあるかもしれない。地方では(高等)小学校では英語を教えることがなかったことも影響している筈。
母と妹の三人暮しというが、父の六次郎がいたが、寝たきりだとすれば三人暮しに見えておかしくないだろう。ただし、親しく出入したというのが本当なら三人暮しとは言わないだろう。談話とはいえ、菅野青顔に誘導されたということもあるかもしれない。
大原町と辻潤のことは正しいとみなす。
亀井という華族
おそらく、亀井家は元津和野藩主で伯爵。当時の当主は亀井茲明(これあき)か。〈『明治・大正家庭史年表』・『明治天皇』下〉
キリスト教
「自分だけの世界」には19歳頃までキリスト教信者だったとある。おそらく、キリスト教を放棄したのは、いつからというはっきりした区切りはなく、社会主義などに影響されたりしながら、最後にはキリスト教信者らしいところが全くなくなったということだろう。この1908年頃が、普通にキリスト教信者らしいところがある最後、キリスト教に関係した本を読み、「聖書」をひもとき、教会に行くなどということのあった最後ということだろう。
「古風な涙」に「私はその頃キリストの信者でした。今でもまだそうなのかもわかりません」とあり、1934年に菅野青顔が記録したものの中に、「僕は今でもクリスチャンだよ。」がある〈菅野青顔「<辻潤>と気仙沼そして私のこと」、菅野青顔「陀々羅先生語録」〉。ぐずぐずと不徹底にキリスト教を放棄したようである。
六次郎・恒
辻六次郎が家をさまよい出て万世橋の警察に保護されたのは、この年と思われる。辻恒が学校に行っていたとある。恒の生年月日が1896.3.26なら、満6歳で入学として、義務教育が尋常小学校の4年間で、1906.3に卒業。経済状態が悪いので、恒は高い教育を受けたとは思えないが、この年は、高等小学校に行っていたのだろうか。あるいは手習いなどの学校だろうか。
「求婚」という小説めいたもの
「ふりぼらす・りてらりや」:
「私は二十五、六歳頃に「求婚」と題して小説めいたものを書いたことがある。」
「「男やもめの心境を訊くJ」(インタビュー)〈『ダダイスト辻潤』pp.299,308〉:
「人間は独りで生きるべきものだ。とはいうものの、僕だって二十五の時には、世間なみに求婚している。ところが原稿紙百枚の求婚状を書いたので失敗してしまった。フワッハッハ……」
小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」によると、相手は、村岡典嗣の妹で、精華高等小学校の辻潤の教え子で、第一高女を出て、辻潤が世話をして、教師になった。そのあとで、結婚しようとして、求婚状を書いたとなっている。精華高等小学校時代から5年位経ったあとということになる。
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大原町:江戸期〜1966年の町名。1911年までは小石川を冠称。1947年 文京区に所属。1967年 千石3〜4丁目。〈『角川地名大辞典 13 東京』〉
1908.1 『音楽界』、創刊。〈『明治・大正家庭史年表』〉
1908.9 ハウプトマン、登張竹風・泉鏡花、共訳『沈鐘』春陽堂。〈『日本近代文学年表』〉
※Die Versunkene Glocke。「原作の人物名鋳鐘師ハインリヒを埴生理非衛、その妻マグダを玉木、山姫ラウテンデラインを朗姫、森の精ワルドシュラアトを虞修羅、池の精ニッケルマンを肉蝦魔の名におきかえている。」〈「作品解題」『鏡花全集』別巻 p.864〉
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1909 明治42 | 25 26 |
小石川区大原町に住む。〈「全集年譜」〉
5月 巣鴨区上駒込840番地の染井の借家に移る。〈「全集年譜」〉
11.27 or 28 有楽座で小山内薫の自由劇場の第1回試演を観て、感激する。演目は、森鴎外訳、イプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」。〔のち、ほとんど欠かさず「自由劇場」を観る。〕〈「昔見た芝居」・「小山内薫」『日本近代文学大事典』〉
この頃、新吉原京町の酒店の娘のキン〔のち御簾納(みその)キン〕と互いに好意を持ち合い、文通をする。〈「全集年譜」・「解題」『定本 伊藤野枝全集』第1巻〉 また岩野泡鳴の著作を読む。〈「全集年譜」〉
《小川町の古本屋の店頭で、Stanley V. Makowerの"The Mirror of Music"を買い、幾度となく読み耽る。読むだけでは満足出来なくなり、訳し始める。当時、上田敏のものを愛読していたので、文体はその影響を受ける。訳してゆくにつれて、さらに同好の人々にも読ませて、その喜びを分ちたいという心持ちが強くなり、神田の音楽学校の校長の天谷秀を通じて、『音楽界』の編輯者の小松耕輔〔玉巌〕にそれを送る。原稿は早速、小松の承諾を得、『音楽界』に連載されることになる。》この年、『音楽界』主宰者の小松耕輔〔玉巌〕を知り、『音楽界』の2月号から7月号まで、9月号から12月号で「楽のかがみ」を連載。〈「De Trop」・「全集年譜」・山泉進「解題」『定本 伊藤野枝全集』第4巻〉〔小松耕輔との友誼はそれ以来続き、その後、音楽界の人々に多くの知人や友達を持つようになる。〈「De Trop」〉〕
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2月〜12月 静秋 or 都路静秋「楽のかがみ」スタンレイ=マコウア作 『音楽界』第2巻第2号〜第7号、第9号〜第12号。
※The Mirror of Music, Stanley V. Makower
12月号の最終回末尾にある 1909.9.42は、1909.9.24の誤植だろう。目次には一度、辻静秋と記されている。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.290,292,319〉
※Stanley Victor Makower(1872-1911)
最初の2回が「静秋」、4月号以降が「都路静秋」。創刊号から「小説 楽のかがみ」を連載。
〈山泉進「解題」『定本 伊藤野枝全集』第4巻〉
※山泉進「解題」に Makower についての説明がある。
5月 静美復訳「盲(めくら)」マアテルクンク作『実験教育指針』第8巻第5号 1909.5.15。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.277〉
※メーテルリンク or メーテルランク。
6月 静美訳「盲(承前)」『実験教育指針』第8巻第6号 1909.6.15。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.277〉
7月 静美訳「盲(承前)」『実験教育指針』第8巻第7号1909.7.15。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.277〉
9月 静美狂生「ひるねの歌」『実験教育指針』第8巻第9号 1909.9.15。
※目次には「ひるねの顔」。短歌29首。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.277,280〉
10月 静美訳「盲」〔第7号の続き〕『実験教育指針』第8巻第10号 1909.10.15。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.277〉
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巣鴨区上駒込840番地
1910年1月11日に父親の六次郎が死んだときの住所が上駒込840番地。〈西福寺の過去帳〉〈「辻さんと私」花園宥運〉
「ふもれすく」:
「 僕はその頃染井に住んでいた。僕は少年の時分から染井が好きだったので、一度住んでみたいとかねがね思っていたのだが、その時それを実行していたのであった。山の手線が出来始めた頃で、染井から僕は上野の桜木町まで通っていたのであった。僕のオヤジは染井で死んだのだ。だから今でもそこにオヤジの墓地がある。」
「山の手線が出来始めた頃」とあるが、山手線で電車運転を開始したのは、1909.12.16。上野の桜木町まで通っていたというのは、上野高等女学校に通ったことだろう。すると、この1909年に上野高女に通ったとも読める文章である。「山の手線が出来始めた頃」染井に移り、そこから、のち1911年に上野高女に通ったとも読めない訳でもないが、そうすると、翌1910年の父親の六次郎の死が続いて語られたりして、時間の脈絡に乏しい、やや不自然な文章ということになる。
5月に移ったことは確認できないが、「全集年譜」を採用する。
キン〔のち御簾納キン〕との交際
「全集年譜」1909年:
「 五月、巣鴨区駒込八四〇番地に転居。同月、「実験教育指針」第八巻第五号にマアテルクンク(?)の「盲」を静美の名で訳載。このころ吉原の酒屋の娘の御簾納(みその)キンとおたがいに好意を持ち合い、文通をする。また岩野泡鳴の著作を読む。」
「全集年譜」の、この1909年5月頃からキンと交際し始めたことの根拠は不明だが、伊藤野枝「惑ひ」〔『青鞜』〕では、伊藤自身と想定される主人公が、おそらく辻潤と同棲後、辻の本箱の引き出しから「かなり今と隔りがある」日付のキンの手紙を見つけている。取り敢えず「全集年譜」に従っておく。
新吉原京町の酒店の娘、御簾納(みその)キン。「キンは一八九五年生まれで、一九〇七年に上野高等女学校に入学し、野枝と同じ第五回(一九一二年)の卒業生である(『残照』温旧会、一九六七年一月)。」「『残照』によれば、御簾納は結婚後の姓である。」〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第1巻〉
矢野文子「最初の転身まで」では、御簾納(みすのお)キン。おそらく、『ダダイスト辻潤』p.9はこれを採用している。
花沢かつゑ「鶯谷の頃から」によると、上野高女は一級が大体30人位で、第1回生の上級生から5回生迄全部で150人程というから、同一学年ならクラスメートということになり、キンは上野高女で伊藤野枝のクラスメートだったことになる訳だが、伊藤野枝「惑ひ」〔『青鞜』〕では、やや意味不明瞭なことが書かれている。キンが普通のクラスメートだったようには書いていない。
伊藤野枝「惑ひ」〔『青鞜』〕:
「 おきんちやん――女の名――は吉原のある酒店の娘だ。町子のゐた学校の二年か三年までゐたのだ。調子のいい人なつこいやうな娘だつた。町子は四年からその学校に入つたのだからよくはしらなかつたけれど、後の二年の間におきんちやんはよく学校に来たので――それも町子の級にゐたとかで、調子よく話かけられたりして後にはかなりな処まで接近したのであつた。」(町子=伊藤野枝)
キンは1895年生まれで、1907年に上野女学校に入学というが、あやしいかもしれない。このことは、後述。
自由劇場
「昔見た芝居」:
「 私はそれまでに自分が舞台へ立って見ようなどと思ったことはなかったが、「自由劇場」を見た時には、こういう芝居なら自分もやってみてもいいと初めて思った。」
小松耕輔
小松耕輔〔小松玉巌〕を知った年は「全集年譜」に従う。当然、「楽のかがみ」が掲載されたこの年だろう。
小松耕輔を通じて沢田柳吉を知ったと思われる。あるいは、神田の私立音楽学校で知り合ったかもしれない。
メーテルリンク
「生田長江氏のことなど」:
「メーテルリンクという名前は岩野泡鳴氏の「半獣主義」で初めて知ったのだが、上田氏の訳で実物に接したわけだ。恐らくそれが日本における初めての紹介だったと思う。私もその後ある教育雑誌に「群盲」を訳載したが、作品の翻訳としては恐らくそれが二番目の紹介だったと思う。」
1906年7月に山岸荷葉、訳『モンナ・ワ゛ンナ』が出ているので二番目ではない〈『日本近代文学年表』〉。
『音楽界』
1908.1 《『音楽新報』と『音楽』を合併して、》『音楽界』、創刊。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.292〉
1909.2 楽界社を発行・発売所、小松耕輔を編輯者、山本正夫を発行者として、『音楽界』、創刊。創刊号から「小説 楽のかがみ」を連載。〈山泉進「解題」『定本 伊藤野枝全集』第4巻〉
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染井村(そめいむら):江戸期の村名。江戸中期頃から豊島郡上駒込村の小名。〈「染井村」『角川地名大辞典 13 東京』〉
1909.1 『スバル』、創刊。文芸誌。平野万里・石川啄木・吉井勇ら編。〔〜1913.12〕〈『日本近代文学年表』〉
1909.2 岩野泡鳴、『新小説』に「耽溺」を発表、自然主義の代表作と目され、小説家としての地位を確立。〈「岩野泡鳴年譜」〉
1909.4 バーナード=リーチ、来日。〈「有島武郎年譜」〉
1909.11.27、28 有楽座で自由劇場の第1回試演。演目は、森鴎外訳、イプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」。〈「小山内薫」『日本近代文学大事典』〉
1909.12.10 岩野泡鳴、婦人運動家の遠藤清子と西大久保に世帯を構えて同棲。〈「岩野泡鳴年譜」〉
1909.12.16 朝から、山手線で電車運転を開始。15分間隔。烏森〔新橋〕・品川・上野間、池袋・赤羽間。山の手線。〈『鉄道公報』〉〈『近代日本総合年表』〉・〈『東京日日新聞』1909.12.17号〉・〈『時事新報』1909.12.17号〉
山手線について、
1885.3.1、日本鉄道、品川−赤羽間の線路として開業、通称、品川線。日本鉄道海岸線〔のち常磐線〕の建設に伴い、池袋−田端間に豊島線を建設、品川−田端間の路線が開通。1906年、日本鉄道の国有後(山手線と命名)、1909年、烏森〔新橋〕−品川−新宿−田端−上野間に電車運転を開始。1914年、東京に延長。1919年、中央本線が東京に延長され、中野−東京間とこの区間を直通する電車運転を開始、「の」の字運転と呼ばれた。1925.11.1、東京−上野間の線路〔東北本線〕が開通し、完全な環状運転を実施。〈「山手線」『日本交通史辞典』〉
小山内薫(おさない かおる):1881.7.26-1928.12.25〈「小山内薫」『日本近代文学大事典』〉
小松耕輔(こまつこうすけ):1884.12.14秋田-1966.2.3東京。
作曲家・評論家。1906年、東京音楽学校本科器楽科、卒業。1920年より3年間、欧米留学。日本最初のオペラとみなされる「羽衣」を作曲。「大正幼年唱歌」などによって童謡運動の先駆となった新しい唱歌の運動を展開。
〈「小松耕輔」『音楽大事典』第2巻〉
ペンネーム:若松美鳥〈『浅草オペラ物語』p.127〉。
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1910 明治43 | 26 27 |
1.11 父親の六次郎、死す。〔染井の西福寺に葬られる。〕〈西福寺の過去帳〉〈花園宥運「辻さんと私」〉・〈「辻潤戸籍抄本」〉 〔井戸にて自殺したとも伝えられている〈松尾季子「辻潤の思い出」、「全集年譜」〉。〕
〔のち上駒込799番地に移る〈花園宥運「辻さんと私」〉(翌1911年か)。
東京の西北の郊外で丘の上に家があり、間数は3間で6畳と3畳と4畳半。植木家が家主で、家の造りが瀟洒で、庭が比較的広く、庭木も椿とか南天とか紫陽花とかさまざまな種類が植えられていた。4畳半が茶の間で、玄関のあがり口にあった。親しい訪問客は門を入ると左側の枝折(しおり)戸から、中の6畳に通すことにしていた。奥の3畳は中廊下に隔てられた茶室風な離れで、押入れも床の間も廻り緑もついた部屋で、そこを念願の書斎にした。ここで、母と妹と三人で暮らす。〈「書斎」〉 「書斎」の中で、この家に母と妹と三人で暮らした時代が最も平穏で幸福な時代であったと辻潤は回顧している。〕
4月 伊藤野枝が上野高等女学校4年に編入。〈「伊藤野枝年譜」など〉〔上野高等女学校は、以下「上野高女」とする。〕
《伊藤野枝は福岡今宿村に生まれ。伊藤は自分の望みのためには家族さえ省みなかったというが、勉強がしたくて、この頃、東京の叔父、代準介の家に寄宿していた。何日も徹夜して勉強し、いとこの代千代子と同じ学年に編入。〈井手文子「伊藤野枝小伝」など〉》
4.27 家督相続を届け出る。〈「辻潤戸籍抄本」〉
ロンブロオゾオの『天才論』の英訳〔1905年版の The Man of Genius〕を本郷の古本屋で入手する。〈「おもうまま」・「きづいたこと」〉〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.285〉
この頃、日曜はTという友人と二人で風呂に出かけ、半日は無駄話をして暮らす。〈「のんしゃらんす」〉
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辻潤の住所
花園宥運「辻さんと私」:
「辻さんの家と西福寺との関係は明治四十三年一月十一日に辻さんの父六次郎氏が死んでからであろう。菅野青顔先生の「空々くろろん」には四十一年に死んだとあるが西福寺の過去帳に四十三年と出ているし住居も上駒込八四〇番地と記してある。だから辻さん達は明治四十二年項から、この染井に住んでいたわけである。この点前記菅野さんの本とは少し異っている。然しこの父の死んだ当時と後に上野高女の教師をしていた時、伊藤野枝さん等の教え子が押しかけて来た家とは異る、晩年は七九九番地に住んでいた。」
晩年というのはおかしく、伊藤野枝等の教え子が押しかけて来た家が799番地だというのだろう。伊藤野枝等が辻潤の家に行ったことは伊藤野枝「惑ひ」〔『青鞜』〕にも描かれている。この年譜では、そうみなすが、かなり不確実。
花園宥運は1913年から西福寺の本寺である無量寺にいて常に西福寺に来ていて、1924年1月から西福寺に住職として住んだという。なお、花園宥運は1929年頃までに辻潤と会っていない。
辻潤の家
「書斎」によると、20歳時分の頃、小学校の代用教員として月給15円を貰っている頃、家族で6畳一間に間借りしていたが、職員室でひとりで落着いて物を考えることの出来る書斎でも欲しいというようなことを話したら、みんなから嗤われた、とあり、その後、5、6年辛抱して、自分の趣味を満足するに足る一軒の巣を見つけ出した、とある。
「ふもれすく」では、父六次郎の死んだ時の家と上駒込799番地の家との区別がなく描かれている。近所でもあり、同じ染井ということで、それほど区別する意識はなかったものだろう。
上駒込799番地に移った時期は不明だが、上野高女の教師となり月給が上がったので移ったと考えるのが自然だろう。
伊藤野枝の上野高女への編入
『東京朝日新聞』1916.11.21号の投書記事には、伊藤野枝は3年級に入学とある。この投書記事によれば、伊藤野枝は3年級に編入し、4年生を終えて卒業したことになるだろうか。
伊藤野枝「惑ひ」〔『青鞜』〕では、伊藤野枝が5年になったばかりの時に、辻潤が上野高女の英語教師になっているし、「ふもれすく」では、辻潤が教師になった時、伊藤野枝は18歳で女学校の5年生とあり、教師だった辻潤が間違えるとも思えない訳である。
4年制か5年制かということでは、かつての伊藤野枝の同級生だった花沢(はなざわ)かつゑ・竹下範子(たけしたのりこ)の回顧もあるので、5年制に間違いない。
花沢かつゑ「鶯谷の頃から」によると、1908年に、学校は5年制の女学校から高等女学校になった。一級が大体30人位で、第1回生の上級生から5回生迄全部で150人程。当時の校長は小林、教頭は佐藤、花沢かつゑの5年生の時の担任が西原。「西原先生も、たしか私が二年生になった頃おいでになられたように覚えております。」とある。伊藤野枝は、代千代子の従妹で、4年生の時に編入学した。
「全集年譜」には、伊藤野枝は翌1911年に上野高女に編入とある。1911年1月〜3月に編入学した可能性もあろうが、まず、間違いであろう。「伊藤野枝年譜」に従い、1910年4月に4年に編入学とする。
上野高等女学校
上野高等女学校は、のち上野学園。〈『ダダイスト辻潤』pp.3-5・「伊藤野枝年譜」〉
この年譜に関係する上野女学校の沿革を諸書により示すと以下のようになる。創立年月については、1903〜1905年という異なった年月が示されて来た。上野学園ホームページでは、「since 1904」となっている。
1903 私立上野女学校、創立。〈井手文子「解題」『伊藤野枝全集』下巻〉
1904 上野桜木町2番地に私立上野女学校、創立。〈上野学園の学校案内〉〈『ダダイスト辻潤』p.5〉
1904.11 下谷区上野桜木町2番地〔のち台東区根岸1丁目〕に、上野女学校〔鴬渓女学校とも呼ばれたという〕、創立。〈「伊藤野枝年譜」〉
1905 私立上野女学校、創立。〈矢野文子「最初の転身まで」〉
1908 上野女学校、高等女学校となる。〈「伊藤野枝年譜」〉
1910 上野女学校、上野高等女学校と改称。〈『ダダイスト辻潤』p.6〉
1912 のちの東上野4丁目に移転。〈『ダダイスト辻潤』pp.6-7〉
1912 浅草区神吉町〔のち台東区東上野4丁目〕に移転。〈「伊藤野枝年譜」〉
上野女学校は、もと鶯溪(うぐいすだに)女学校〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻・佐藤在寛「胸中往来」(13)〉。花沢かつゑ「鶯谷の頃から」に、花沢かつゑが5回生で1907年に入学とあり、竹下範子「おもいで」にも、第5回卒業生として1912年3月に鶯谷の校舎を出た、とある。それなら、1903年創立ということになる。あるいは、1904年創立だが、高等女学校になるなどで、ズレが生じたのだろうかなどとも考えられる訳である。
佐藤在寛「一日一言」(50)には、「 斯くして私は創立後満十箇年目にして此の学校を去りました。」とあり、佐藤在寛「胸中往来」(30)にも、「創立十周年の記念日を期し、我輩始め大部分の教師は袖を連ねて学校と因縁(いんねん)を断つに至ったのである。」とある。「佐藤在寛先生略年譜」・「伊藤野枝年譜」によると、佐藤らが上野高女を去ったのは1915年だから、上野高女の創立は1905年ということになる。この時、1〜3年級を募集したというから〈佐藤在寛「胸中往来」(14)〉、これらを1〜3回(卒業)生とすれば、1907年に5回生が入学ということになり、花沢かつゑらが述べていることに一致する。佐藤在寛「胸中往来」(20)によると、創立記念日は5月11日である。以上によって、上野高女は鶯溪(うぐいすだに)女学校の名で1905年5月11日に創立されたと推測できる。
ところが、『読売新聞』1905.4.15 3面 「女の世界」記事によれば、上野女学校は、上野新坂下に創設され、1905.4.12に始業式を行なったと出ている。第1期入学生が78人で、毎日8時に開校し、14時に閉高とある。同じ記事の日本女子大学の例から察すると、4月12日は始業式だけで、ほかに創立記念式も行いそれが5月11日で、それから授業が始まったということかもしれない。
「伊藤野枝年譜」などの1904年(11月)創立の根拠は不明だが、何をもって創立とするかでも多少の違いは生ずるだろう。いずれにしろ、1905年から通常の授業が開始されたというのが最もよく諸事項を説明するものである。
「鶯谷の頃から」の題名も示すように、1912年3月までは、鶯谷にあったのだろう。その住所が上野桜木町2番地なのだろう。
「新坂」『角川地名大辞典 13 東京』:
「 しんざか 新坂。〈台東区〉
国鉄鶯谷駅の公園口から,台東区の上野公園内,徳川霊廟に向かってのぼる坂。別称は鶯坂・根岸坂。明治維新後に当時の松林を切り開いてつくられた。この坂下一帯はウグイスの名所として鶯谷と呼ばれる。」
佐藤在寛「胸中往来」には、創立の経緯などが次のようにある。
佐藤在寛「胸中往来」(13):
「◎鶯溪(一)
日露戦争前後の事、友人の間に一つ面白い女学校を作って見ようじゃないかとの相談が端なくも持上り、始めは夢のような話であったが、いつの間にか希望が濃厚となり、段々と油が乗って来た。素より何れも貧乏仲間で学校創立に相当する丈の資本を出し手はない。只熱心と気概と丈は十二分に持って居た。
その相談に乗る仲間の中で書肆の主人と某華族の部屋住みとがあった。此の二人は仲間の中で稍資本主たる体面のあるのであった。其の書肆は一時は東京でも屈指の大店(おおだな)であったが当時は余程の下り坂の方であった。
又一方は華族といった所で、高が部屋住みの身分で素より幾万という大金の融通の利く方では無かった。でも無理な算段や借金工面をしてそれに勢力を取られるのは愚の骨頂だから、昔の寺小屋式でもよいから兎も角も独立でやろうという事に衆議一決した。
そこで件(くだん)の書肆所有の印刷工場が不用になって居たので、其の工場を学校に転用する事にした。主なる建物は七間に四間の二階建、其の外職工長と次長の店宅であった平家の住宅が二棟と、書店の隱居所であった平屋建の四棟、素より何れも狭い粗末なものではあったが、兎も角も造作を加えて一時の用に供した。
二階造りの方は真ん中で仕切りをして四つの普通教室とし、平屋の方は一つを音楽教室に他の一つを職員室とし、離れの隱居所は其のままで作法教室なり又は裁縫教室にした。そして机とかボールド*とか其の他校具一切は華族の若様が負担して呉れて、何うにか鶯溪(うぐいすだに)女学校という看板を出した。
場所は上野公園の東側、徳川家の廟のすぐ下で町名は桜木町といったが、普通鶯谷(うぐいすだに)といったので地名に因んだ鶯溪女学と名付けたのである。
*寺小屋式→江戸時代、庶民子弟のためにできた教育機関で読み・書き・そろばんを教え、武士・僧侶・医師・神官などが経営に当った。江戸期以前は寺院で行われたことからこの名がある。
*ボールド→黒板のこと。」
「学生界」『読売新聞』1910.1.26号 3面によれば、佐藤政次郎のいう書肆というのは、育英舎である。
佐藤政次郎は、「鶯溪(うぐいすだに)女学校」という看板を出したと書いているが、「女の世界」『読売新聞』1905.4.15号 3面には、上野女学校という名前が既に出ているので、「鶯溪女学校」という名前には、やや不明なところがある。「鶯溪女学校」という看板を一旦は出したものの、創立時には上野女学校という名前に変わっていたのだろうか。
佐藤在寛「胸中往来」(14):
「◎鶯溪(二)
開校と共に一年級より三年級までを募集した。そして近辺の小学校長連の尽力で、何うやら斯うやら五十名計りの少女が集まって来た。」
上野高女の生徒の授業料は月に2円〈佐藤在寛「胸中往来」(14)〉。
佐藤政次郎は、創立時は、1〜3年級合わせて生徒が50人ばかり〈佐藤在寛「胸中往来」(14)〉と書いているが、「女の世界」『読売新聞』1905.4.15によれば、入学生徒78人である。花沢かつゑ「鶯谷の頃から」によると、1908年に、学校は5年制の女学校から高等女学校になった。一級が大体30人位で、第1回生の上級生から5回生迄全部で150人程。佐藤在寛「一日一言」(49)には、「 生徒は段々増加する、やがては四百人計りにもなりました。そこで校舎の新築が要求せられ、出資者を得て一寸した校舎を建てました、と同時に学校経営の権利は出資者の手に移る様になりました。」とあるが、校舎新築前が約150人だから、400人というのは、おそらく、佐藤が学校を去る時の人数だろう。その時には、一学年に複数のクラスがあったのだろう。
女学校
佐藤在寛「胸中往来」によると、はじめ上野女学校〔or 鶯溪(うぐいすだに)女学校〕は、高等女学校令に則っていなかったが、のちに従った。そこで、上野高等女学校という名称になったという訳だろう。
佐藤在寛「胸中往来」(30):
「 一面に於いて上級の学校へ入学するの資格を造る爲に、文部省の高等女学校令に従わねばならぬ要求がアチコチから来た。我輩は飽くまでも自由の教育をなす必要上、断然として之を斥(しりぞ)けた。
保元の乱に爲朝が、我は鎮西八郎にて足る。藏人何かあらんと号呼(ごうこ)した筆法で飽くまでも独立と自由とを主張したが、大勢の赴く所終に遺憾乍ら之を譲歩することとした。」
当時の教育制度がどうであったのか、私はきちんと調べていない。女学校関連の事項を年表などから拾ってみた。地方(東京)と全国の法律の違いもあるかもしれない。
1929年4月、三重県四日市市立高等女学校では、四年制のいろはの3組と上級学校受験の五年制の1組があり、高等一、二年の人も沢山女学校の入学試験を受けたという〈『従軍看護婦の記録』pp.73,133〉。
1886.12 東京高等女学校の生徒教導方要領。文部省訓示。〈『官報』1888.7.13〉〈『東京日日新聞』1888.7.14号〉
『東京日日新聞』1888.7.14号:
東京高等女学校規則を改正
「 第一章 総則
第一条(略)●第二条(略)齢十二年以上ニシテ高等小学校二箇年ノ課程ヲ卒リタル以上若クハ之レニ相当セル学力ヲ有スル者タルヘシ●第三条 生徒ノ定員ハ大約二百名トス●第四条 修業年限ハ五箇年トス。
第二章 学年学期及休日
第一条 学年ハ九月十一日ニ始リ翌年七月十日ニ終ル之チ一学級ニ配シ三学期ニ分ツ第一学期ハ初メヨリ十二月二十日ニ至リ第二学期ハ一月十一日ヨリ三月三十一日ニ至リ第三学期ハ四月八日ヨリ学年ノ終リニ至ル●第二条 年中休業日ハ日曜日、秋季皇霊祭、神嘗祭、天長節、新嘗祭、冬期休業、(十二月二十一日ヨリ一月十日マテ)孝明天皇祭、紀元節、春季皇霊祭、第二学期後休業、(四月一日ヨリ同月七日マテ)及夏季休業(七月十一日ヨリ九月十日マテ)トス
第三章 学科課程
(略)
第四章 試験規則
(略)」
〈『官報』1888.7.13〉
1895.1.29 高等女学校規程、公布。文部省令。高等女学校に関する独立規程の初め。尋常小学校4年修了で入学し、修業年限6年。〈『近代日本総合年表』〉
1899.2.8 高等女学校令、公布。2.7付。「勅令」第31号。修業年限は4年を原則とし、3年・5年も認める。良妻賢母主義に基づく女子教育が制度的に確立。また各道府県に高等女学校を設置することが決まる。〈『官報』1899.2.8号・『近代日本総合年表』・『明治・大正家庭史年表』p.268〉
1901.3.22 文部省、高等女学校令施行規則を公布。省令。(従来の諸施行規則を統一)〈『近代日本総合年表』〉
1907.3.21 小学校令、改正。3.20付。「勅令」第52号。義務教育が2年延長され、尋常小学校の修業年限が6年となる。1908.4.1より逐年実施。「第十八条 尋常小学校ノ修業年限ハ六箇年トス 高等小学校ノ修業年限ハ二箇年トス。但シ延長シテ三箇年ト為スコトヲ得。 第十九条 尋常小学校ノ教科目ハ、修身、国語、算術、日本歴史、地理、理科、図画、唱歌、体操トシ、女児ノ為ニハ裁縫ヲ加フ。土地ノ情況ニヨリ手工ヲ加フルコトヲ得。」
〈『官報』1907.3.21号・『近代日本総合年表』・『学制百二十年史』〉
1920.7.6 高等女学校令、改正、公布。「勅令」。国民道徳と婦徳の養成を強調。また5年制高女と高等科・専攻科の設置を認める。〈『近代日本総合年表』〉
日曜日
1916年5月に書かれた「のんしゃらんす」に、日曜はTという友人と二人で風呂に出かけ、半日は無駄話をして暮らした。「福島にいるTまでも、わざわざ浅草からあの森の中へ引っ張りこんで」とある。6、7年の昔染井の森の奥の方にいる時分、とあるので、この年に記したが、はっきりしない。Tとは誰か不明。後、辻が染井を離れることになり、Tも東京を離れた、とある。それは、1912年と思われる。
岩野泡鳴について「全集年譜」の疑問
「全集年譜」に、この年、「岩野泡鳴と親しくなり、泡鳴宅にしばしば出入りする。」とあるのは、おそらく、間違い。
「ふもれすく」に「 キリスト教とソシアリズムを一応パスして当時ショウペンハウエルと仏蘭西のデカダン詩人とに影響せられていた僕は、自然派の人の中では泡鳴が一番好きでスバルの連中が一番自分に近いような気がしていた。しかしその連中の誰をもパアソナリティ(?)には知らなかった。」とあり、そのあと、大杉栄の『近代思想』や平塚らいてうの『青鞜』のことが出てくる。『近代思想』が創刊された1912年までに岩野泡鳴には会うことはなく、『青鞜』社員に、岩野泡鳴の妻清子がいたことなどから、岩野泡鳴に会ったと考えるのが自然だろう。
なお、1909年9月、『実験教育指針』第8巻第9号に掲載した「ひるねの歌」中の一首に「耽溺(たんでき)を売物にする自然派の若殿輩(ばら)に一矢酬いん」があり、「耽溺」は岩野泡鳴の作品名なので、最初は、岩野泡鳴を認めていなかったようである(不道徳ということで認めないのだろうが、教育者らしい常識的な判断である)。
『天才論』の翻訳について「全集年譜」の誤り
「全集年譜」には、1908年『天才論』の英訳を入手し、1909年訳しはじめ、1910年12月に訳了とあるが、間違い。「菅野年譜を初め各年譜が、明治四十二年訳し始め、四十三年訳了としているのは正確さを欠くと思われる。」〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」注二『辻潤全集』別巻 p.285〉。
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1910.2 正直正太夫〔=斎藤緑雨〕『緑雨集』春陽堂。〈『日本近代文学年表』〉
1910.5.25 宮下太吉、松本署に逮捕され、大逆事件の検挙始まる。
1910.5 自由劇場、第2回試演。〈「小山内薫」『日本近代文学大事典』〉
1910.5 岩野泡鳴、短編集『耽溺』易風社。〈「岩野泡鳴年譜」〉
1910.6.1 幸徳秋水、逮捕される。
1910.11 谷崎潤一郎「刺青」『新思潮』。〈「谷崎潤一郎著作年表」〉
1910.12.2 自由劇場の第3回試演。ゴーリキーの「夜の宿」〔「どん底」〕初演。〈『日本近代文学年表』〉
1910.12 石川啄木『一握の砂』東雲堂書店 12.1。〈「宮沢賢治年譜」〉
伊藤野枝:1895.1.21-1923.9.16。〈「伊藤野枝年譜」〉 戸籍名:ノヱ。
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1911 明治44 | 27 28 |
3.28 神経衰弱を理由に退職願を出し、精華高等小学校を退職。〈退職願の写の写真『辻潤全集』別巻〉
4月 下谷区桜木町の上野高等女学校の英語教師となる。月給、4、50円。〈「全集年譜」〉
《教頭の佐藤政次郎の世話による。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.281・「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻・小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」・など〉》
4月初め 上野高女の入学式。伊藤野枝が在校生の代表者として新入生たちに挨拶し、辻潤は、如何にもくだけた気どらない様子で新任の挨拶をする。〈伊藤野枝「惑ひ」〔『青鞜』〕〉
辻潤は、江戸ッ子らしい磊落さと、先生というような堅苦しさのない新鮮な感じで、たちまち女学生達の人気の的になる。新しい英語の教え方に、皆は英語の時間が好きになる。〈伊藤野枝「惑ひ」〔『青鞜』〕・花沢かつゑ「鶯谷の頃から」・竹下範子「おもいで」〉 放課後は、辻潤はよく音楽室〔割烹室を兼ねた〕へ来て、ピアノを弾いたり、英語の讃美歌などを生徒に教えたりする。生徒は時のたつのも忘れて日が暮れそうになってあわてて教員室の窓口へ行き、日下部〔書記〕に下校の証明書を書いて貰い名残惜しげに帰宅するという毎日であった。〈花沢かつゑ「鶯谷の頃から」・竹下範子「おもいで」〉
バーナード=リーチ夫人が週に一度、上野高女で
会話を教えていたが挨拶する程度であった。沢田柳吉がショパンを聴かせてくれるという葉書を寄越し、晩に日比谷のK館に出かけ、そこでリーチ夫人に出会い、話をし、その晩、バーナード=リーチを紹介される。その後、上野の音楽会で夫妻に会ったりし、バーナード=リーチが桜木町にいた時分、時々尋ねたり、演奏会に一緒に行ったりする。〔リーチから製作品三つをもらう。日本橋の並倉の模様のついた薄茶の茶碗とコップと小さい壷。茶碗とコップは、のちに人に進呈したが、壷は、長く机の上で筆立てに使う。〕〈「連環」・「ジプシイの話」・佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.294〉
教え子のキン〔のち御簾納(みすの)キン〕と交際するが、プラトニックなもので、真剣な恋愛というものではなかった。〈『ダダイスト辻潤』pp.9-10・「ふもれすく」・伊藤野枝「惑ひ」〔『青鞜』〕・「解題」『定本 伊藤野枝全集』第1巻〉
教え子の伊藤野枝と知りあう。伊藤野枝とは朝と帰りを共にする。辻潤の帰りの遅い時は伊藤も残って音楽室で二人で弾いては歌い歌っては弾いたりする。〈投書記事『東京朝日新聞』1916.11.21号〉。
辻潤と西原和治(にしはら かずじ)〔国語教師、哲学館出〕は、伊藤野枝の天才的方面を認めてひそかに感服する。〈「ふもれすく」・西原和治「閉ぢたる心――何故開けないでせう――」・国会図書館蔵書検索・矢野文子「最初の転身まで」・「全集年譜」〉
伊藤野枝やほかの生徒たちは、しばしば辻潤の家を訪問する。〈花園宥運「辻さんと私」・『ダダイスト辻潤』〉
7月末頃 《上野高女で、第一学期の試験が済み、夏休みが近づく。》伊藤野枝は、帰省に対して、「厭はしいやうな、憎むやうな、悲しむやうな」感情を示して、今度帰ったら、出て来られないかもしれないと、西原和治に語る。夏休みの2、3日前頃、伊藤野枝・西原和治の二人は用もなく上野の山を歩く。伊藤野枝は、「家庭の事情で、また出て来られないかもしれません。」「米国(べいこく)へ行く事になるかもしれません。」などと言うが、何を悩んでいるのか肝腎のことは話さずに別れる。〈西原和治「閉ぢたる心――何故開けないでせう――」〉
7月下旬 上野高女、夏休みに入る。〔50日間〕〈西原和治「閉ぢたる心――何故開けないでせう――」・佐藤在寛「胸中往来」(25)〉
伊藤野枝は、「幾度か簡単な葉書で堪へ難い悶えや、打ち放つた様な諦めの言葉や、荒(すさ)び行(ゆ)く心を大自然の景物(けいぶつ)によつて紛らさうとする文句を」西原和治に送るが、「事実は少しも述べて無」く、西原は、「殆んど返事にも困る」。〈西原和治「閉ぢたる心――何故開けないでせう――」〉
夏に『天才論』の初めの部分を訳す。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.300・「おもうまま」〉
8.22《伊藤野枝は夏休みに、代千代子・千代子の母の喜智とともに帰郷〈伊藤野枝「わがまま」・伊藤野枝の血縁図『伊藤野枝全集』上巻 p.455〉。伊藤野枝は、アメリカに連れて行くという条件で結婚を承諾。》 伊藤野枝は、末松福太郎と祝言をあげる。〈井手文子「伊藤野枝小伝」・「伊藤野枝年譜」〉〔翌8.23、上京〈「伊藤野枝年譜」〉。〕
9月以降の伊藤野枝の生活費・学費は末松家が出した。〈井手文子「伊藤野枝小伝」・「ふもれすく」〉
11.21 伊藤野枝、末松家に入籍。〈「伊藤野枝年譜」〉
12.31 朝、浅草観音の仲見世に行く。生徒の花沢嘉津恵に出会うが、素知らぬまま吉原の方へ行く。〈花沢嘉津恵の話〉〈矢野文子「最初の転身まで」〉
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上野高女の英語教師
『辻潤全集』別巻に、辻潤の退職願の写真が掲載されている。日付は、1911年3月28日のようである。病気を理由にし、診断書を付けている。その診断書の写真、退職を認める辞令の写真もある。従って、辻潤が精華高等小学校を辞職し、上野高女に勤務したのは1911年ということになる。
「ふもれすく」に「僕をU女学校に世話をしてくれたその時の五年を受け持っていたN君」とある。このNは、国語教師の西原和治と思われる。
上野高女の教頭は佐藤政次郎で、かつて辻潤が翻訳などを載せた『実験教育指針』の編集をしていた人物であり、そこで、佐々木靖章は、佐藤政次郎の世話もあるか、と書いている〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.281・「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉。佐々木靖章の指摘は、もっともだが、私は、さらに進めて、辻潤が上野高女の教頭になったのは佐藤政次郎の世話によるのであり、西原和治は、ほとんど関係なかったものと考える。
辻潤は、『実験教育指針』やそこに翻訳などを載せたこと、その編集をしていた佐藤政次郎などについて何も具体的に記していない。『実験教育指針』には、辻の処女作も載せたというのに、そのことは極めて不自然と思われ、辻が故意に隠していると考える。それに、西原和治の世話というが、西原和治といつどのように知り合ったかも不明であり、のちに『天才論』の出版してくれる出版社を探してもらい、西原和治らの雑誌『地上』に文章を載せたらしいが、それ以後、西原和治との関わりは見られなくなる。西原和治「若き日の過ぎ行く愁ひ――女学校の教師をして居た頃の感想――」では、田舎の中学校で3年余り教師をして、それから東京に出てきたと書いている。花沢かつゑ「鶯谷の頃から」によると、東京に出てきて、上野高女の教師になったのは1908年頃である。この点でも、辻との接点に乏しい(新井奥邃が、その接点だろうか)。西原和治は、辻の友人というより同僚といった方が適切のように見える。西原和治については、さらに後述する。
小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」によると、辻潤は、「千代田小学校に居た時の僕の先生が、或女学校の先生をして居て僕に来ないかと云はれて」上野高女に行ったとある。辻潤を誘ったのは、千代田小学校に居た時の辻潤の先生である。やや微妙な表現だが、辻の先生なら、西原和治より佐藤政次郎の方がふさわしいだろう。
花沢かつゑ「鶯谷の頃から」:
「その頃英語の先生に新任していらっしゃった辻潤先生が私達の前に現われました。いかにも江戸ッ子らしい磊落さと、先生というような堅苦しさのない新鮮な感じに受け取れましたので、たちまち子供っぽい女学生達の人気の的になってしまったのは当然でした。私達も大好きでした。新しい英語の教え方に、皆は酔ったように英語の時間が好きになりました。放課後になっても、生徒達は学校にいるのが楽しくて仕方がありませんでした。辻先生はよく音楽室へこられまして、ピアノを弾いて下さったり、英語の讃美歌などを教えて下さったり、いつか時のたつのも忘れて日が暮れそうになってあわてて教員室の窓口へ行き、日下部さんに下校の証明書を書いて頂いて名残惜しげに帰宅するという毎日でした。」
辻潤が上野高女の教師になったのは、菅野青顔・辻淳「辻潤略伝」では1909年、矢野文子「最初の転身まで」では1908.4。
『ダダイスト辻潤』p.7では、辻潤が上野高女に勤務したのが1912年4月と明記され、p.4などでは1911年のようでもあり、p.11には、1912年4月に4年にして上野高女を退職とあり、巻末の「辻潤・略年譜」では1909年とあって、極めて混乱している。さまざまな説を整理できていないままに書いたとしか思えない。この混乱の理由の一端は後述するが、不明確だというのなら、そのように書くべきである。
西原和治
西原和治(にしはら かずじ)。〈国会図書館蔵書検索〉
「全集年譜」に西原和治は哲学館出とある。これは、矢野文子「最初の転身まで」によるのだろう。国語教師で哲学館出身の「西原和明」とある。
1887.9.16 井上円了、東京に私立哲学館を開校。〔のちの東洋大学。〕〈『明治・大正家庭史年表』〉
「佐藤在寛先生略年譜」によると、佐藤政次郎は1899年に哲学館に入学し、1901年に卒業だから、2か年の課程である。
西原和治らは、1916年2月に雑誌『地上』を創刊した。『地上』は「新井奥邃の言葉や教訓に重きをおいているように、道徳や宗教色が強く、かつ宗教、哲学、文学、生活など雑多な分野にまたがっている。」〈『大正自由人物語』pp.50-51〉。後の『天才論』出版の際にも西原和治に出版社を探してもらったりしたようである〈「おもうこと」〉。
国会図書館蔵書検索によると、西原和治の著作は1冊ある。『新時代の女性』東京の郁文社(イクブンシャ)から1916.9.18の刊行。
その中の西原和治「若き日の過ぎ行く愁ひ――女学校の教師をして居た頃の感想――」によると、西原和治は学校を出てから、田舎(「春雨の悲哀」によれば、松山かもしれない)の4年程度の中等学校の教師となった。男子と女子と両方いたというから、中学校と女学校を兼ねた学校だった訳である。そういう例は初めて知ったが、地方によってはそういう学校もあったのだろう。そこに3年あまり居て、東京に出て来て女学校の教師となっている。花沢かつゑ「鶯谷の頃から」によると、花沢かつゑが上野高女2年の時に西原和治が来たと思うとあるから、およそ1908年頃、東京に戻って上野高女の教師になった訳である。すると、西原和治が学校を出たのは、1905年頃。中学(5年)→高校(3年)→哲学館(2年)と進学したとすれば、哲学館卒業時に22歳とすると、1883年頃生まれ。中学(5年)→哲学館(2年)と進学したとすれば、1886年頃生まれ。ほぼ、辻潤と同年齢である。
国会図書館への複写請求をした際のメモによると、1956.10、死去。
『新時代の女性』の中の伊藤野枝の手紙
西原和治の『新時代の女性』中の「私の学校時代」という文章は、伊藤野枝が西原和治にあてて書いた手紙であることが確実で、『定本 伊藤野枝全集』に未収録の手紙ということになる。
「伊藤野枝年譜」などと対照して、その根拠を示すと、「私の十年にあまる学校生活」とあるが、伊藤野枝の在学期間は10年であった。「小学校を卒業する僅かな年月の間にすら、幾つかの学校を経めぐり色々な先生の手に渡りました。」とあるが、伊藤野枝は小学校2校、高等小学校2校で学んでいる。自分の性格を「強情で我儘で無智で生意気な手のつけやうのない」と描いているが、この性格は、辻潤や平塚らいてうが描く伊藤野枝の性格と合致する。「学習上に於いてすら先生の時間丈けは出来る丈けの自由を特別に与」えてもらった、とあるが、花沢かつゑ「鶯谷の頃から」によると、伊藤野枝は西原和治に特別に扱われ、作文の時間に自分の好きな本を読んだりしていた、という。
さらに、この手紙の返事である西原和治「閉ぢたる心――何故開けないでせう――」には、卒業前の夏休み前の7月末に、手紙の主の女子生徒が塞ぎ込んでいて、学校を辞めてアメリカに行くかもしれないなどと話したことを記している。これも伊藤野枝に合致する。こうして、「私の学校時代」は伊藤野枝の手紙と断定できる。
西原和治『新時代の女性』とその思想
西原和治の『新時代の女性』は、女性の生き方について西原の考えを述べたものだが、女学校の教え子からの手紙などに対して、その返事の形で自身の考えを述べるという形式が多く、その読者対象は、ほぼ女学校生徒に限られているといえる。
当時の女性の結婚年齢は20歳前であったらしく、当時の女学校生徒は卒業とともに、すぐに結婚ということに直面しなければならなかった。『新時代の女性』は、当然、結婚に触れ、さらに職業のこと、夫婦愛のことなどに及んでいる。職業については、特に推奨するのは教師という。
『新時代の女性』に一貫している西原の思想は、個人主義であると言える。『大正自由人物語』は、1916年2月に西原和治らが創刊した雑誌『地上』について、道徳や宗教色が強いと記しているが、自身が正しいと思うところをあくまで貫くことを、西原は「心の珠玉」と呼び、また「善」と呼ぶなど、その個人主義も道徳的・宗教的色彩が濃い。「若き日の過ぎゆく愁ひ――女学校の教師をして居た頃の感想――」の最後には、若者に対して、「何故(なぜ)今のうちに「不老の泉」の在処(ありか)を探して置かないだらう。」とあり、個人の個性の発現は、西原には、「不老の泉」、永遠の若さというような地位を占めていた。
文章はやや冗長で、個人主義といっても、単なる反抗や我儘を戒める留保を付け加えることも目立つ。また、ものごとの正しい見方を知るために日々勉強して学ぶべきだと言っているのも、いかにも教師だった人の言葉だが、彼の性格を反映しているものでもあるらしい。伊藤野枝の「私の学校時代」には、「「何故(なぜ)先生はもつとハツキリして下さらないのだらう」/ と云ふ不平が何時でも私にありました。」とあり、西原は、行動的というより、思索的で慎重な人間であったようである。ただ、反抗や我儘との境界は曖昧であっても、結局、旧慣を打破して行動すべきだというのが『新時代の女性』の主な主張になっている。それには、伊藤野枝の影響もありそうである。
「若き日の過ぎゆく愁ひ――女学校の教師をして居た頃の感想――」によると、西原が田舎で三年ばかり教えていた時には、男子生徒の中には西原の下宿に来て議論するような者がいた。東京に戻り、上野高女で教えるようになると、西原の生活は「何時(いつ)の間にやら数年の歳月は空(くう)に消えて了(しま)」ったというものになった。そうして、ある年の2月、西原は生徒に書かせた作文の原稿を家で読もうと思って学校を出た。西原は心の空虚を感じていた。何軒か本屋を覗いたが、その空虚を埋めてくれそうなものはなかった。「さうだ、最も新しい文章は此(こ)の風呂敷の中にあるのだ」と思い、下宿に戻って、作文を読んだ。そして、「其(そ)の日の空虚(うつろ)は十分に充たされた」のだという。2月というが、それは1912年のことで、その作文の中に伊藤野枝の書いたものがあったとみなしてもよいと思われる。というのも、伊藤は西原にとって極めて特別な生徒であった筈だから。とするなら、伊藤は西原に大きな影響を与えたのである。そして、『新時代の女性』の中には、伊藤野枝の手紙は一通だけだと思われ、その返事で西原は「御返事を下さると否とは全く御心任せに願いたいものです。」と伊藤を突っ放しているけれども、西原和治の「色眼鏡――兎角(とかく)の浮評を立てられた人に――」や「愛と疑(うたがひ)――夫婦の愛を疑ふ人に――」なども、伊藤に向けて書かれたとみなしてもおかしくない。
西原が、どんな人のどんな思想から影響されたのかなどは分からないが、自身の思索を通して育まれたもののように見える。
個人の個性の発現が、善と呼ばれるべき理由も考えられている。「生ひ立ち行く悲劇」には、「 お互は陛下の赤子(せきし)であるといふ一語は吾々日本人をして相互親愛の念を起さしめる。お互はクリスチヤンだと云ふ一念は教会員をして兄弟(けいてい)姉妹の思ひをさせる。大(だい)なるものの一部分同志であると云ふ自覚は、実に、同情と尊敬との根柢(こんてい)となるのである。」「 世界中の人間を皆合せたものが『人(ひと)』であつて、吾々個人は其の大人(だいじん)の一部である一部が一部たるの任務を完全に尽す事は、即ち一部が全部に対する義務であつて、一部その者の最も満足な地位である。そこで全部の使命が個体に向つて湧き出(い)で、個体が自己の身体を抛(ながう)つてゞも達しようと努める痛切な要求となるのである。」とある。従って、個人が善であるのは、もっと大きな集団の一部だからということになるだろう。
個人の個性が善である根拠をさらに大きな集団に求めるのは、当時としては一般的であるらしく(西田幾多郎・宮沢賢治など)、その意味では特別なものではないと言えるのだろう。
師範学校の教育を女教師を型にはまったものにすると批判しているが、社会的なものへの関心は希薄で、女子が自分で結婚相手を探すということ、女子が職業を持つことも、それが時代なのだというような安易な感じがある。女子生徒に個性の発現を説いても、社会に男女差別が根強いものであってみれば、それでよいのだろうかという思いが湧く。西原の立場は、個性を貫こうとする人をその内面から支えようというので、それなりの一つの立場なのではあるが、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」や伊藤野枝の習俗打破の叫びの方が、やはり読む者に強く訴えるだろう。
道徳的・宗教的色彩のほか個人主義として特別なものは、まず、ない。「偽りなき生活――理智に勝(すぐ)れたる人に――」の精神力の強調・果断な行動に価値を置くことなどは、私には、のちの軍人たちのテロや特攻なども思い起こさせる。もし、個人の個性が善である根拠をさらに大きな集団に求めるとしたら、のちに日本全体が軍国主義・超国家主義に染まった時、その思想はどうなるのであろうか。今更のことだが、心配にならざるを得ない。
上野高女で、辻潤・西原和治・伊藤野枝が出会ったことは、それぞれの人生に大きな意味を持ち、大きな転機となるものだった。けれども、のちに西原和治は『地上』という雑誌を出すが、『地上』という名前は、そののちに長野県で出された雑誌の方が有名になるなどして、西原和治の名前は歴史の中に消えてしまったらしい。そのようなことから言うと、西原和治は伊藤野枝に振りまわされた一人というような印象も受ける。おそらく、これもまた余計なことだろうが。
上野高女の英語教師について辻潤の文章
「書斎」:
「 昔、私が二十歳時分の頃、小学校の代用教員に雇われて月給十五円也を頂戴している頃のこと」
「 その後、私が五、六年辛抱した結果、ようやく私の趣味を満足するに足る一軒の巣を見つけ出したのです。それは東京の西北の郊外にでした。そこに私は母と妹と三人暮らしていました。」
「ふもれすく」:
「いくらか気持ちののびのびした私立女学校へやってきたが、一年とは続かずとうとう野枝さんというはなはだ土臭い襟アカ娘のためにいわゆる生活を棒にふってしまったのだ。」
「僕は少年の時分から染井が好きだったので、一度住んでみたいとかねがね思っていたのだが、その時それを実行していたのであった。山の手線が出来始めた頃で、染井から僕は上野の桜木町まで通っていたのであった。僕のオヤジは染井で死んだのだ。」
上野高女の英語教師になるまでの謎
以上に示したほか、辻潤は「ふもれすく」に、上野高女の教師時代のことについて、次のような奇妙なことを書いている。
「ふもれすく」:
「 野枝さんは十八でU女学校の五年生だったが、僕は十ちがいの二十八でその前からそこで英語の先生に雇われていた。」
辻潤は、上野高女の教師になり、そこで5年生の伊藤野枝に出会った筈である。これによると、伊藤野枝が女学校の5年生になる前から、辻潤は上野高女の英語の先生だったということになる。変である。伊藤と同棲する時点のことが頭にあって、伊藤と同棲する前からというつもりで書いたのだろうか。つい筆がすべったものだろうか。「そこで」を除けば問題がなくなるが、文章としてはやや不自然なものになる。
伊藤野枝がキン〔のち御簾納キン〕のことで「惑ひ」〔『青鞜』〕に、少し不思議なことを書いていることは前述したが、ここで、もう一度示しておく。
伊藤野枝「惑ひ」〔『青鞜』〕:
「 おきんちやん――女の名――は吉原のある酒店の娘だ。町子のゐた学校の二年か三年までゐたのだ。調子のいい人なつこいやうな娘だつた。町子は四年からその学校に入つたのだからよくはしらなかつたけれど、後の二年の間におきんちやんはよく学校に来たので――それも町子の級にゐたとかで、調子よく話かけられたりして後にはかなりな処まで接近したのであつた。」(町子=伊藤野枝)
辻潤・伊藤野枝の二人が不思議なことを書いている訳で、二人が上野高女に来る前のことが関わっている。それなら、この謎を説明するような何かがあってもよいと思われる訳である。
そこで、辻潤が上野高女の教師になる以前に、アルバイトのような形で上野女学校で英語を教えることがあったのかもしれないと想像する。辻潤は、1906年10月から佐藤政次郎が編集していた『実験教育指針』に翻訳などを載せるようになるが、佐藤政次郎との関係は不明で、上野女学校の教頭だった佐藤からアルバイトを頼まれた可能性もあるだろう。公務員や教師がアルバイトを禁止されていたかなどは分からないが(助教員時代には辻潤は家庭教師をしている)、アルバイトが禁止されていたので、はっきり書かなかったのだろうか。
「全集年譜」によれば、辻潤は、1907年5月、日本橋区の市立第三実業補夜学校の訓導になっており、月給7円20銭という(根拠は不明)。かつて代用教員〔助教員〕であった時でさえ月給は15円であり、昼間の千代田尋常高等小学校と兼ねたものと思ったのだが、あるいは、昼間は上野女学校で教えたのかもしれない。辻潤が『実験教育指針』に文章を載せるようになった1906年10月頃、佐藤政次郎とそういう話がついて、それで、わざわざ給料の安い夜学校を希望したということだったのかもしれない。
また、それなら、辻潤がキンと交際し始めた経緯も想像できる。辻潤は(アルバイトとして)上野女学校で英語を教えた。全学年を教えた訳ではないのだろうが、教えた中にキンがいた。キンは何かの事情で休学した。辻も上野女学校で英語を教えることを止めたので(1908年4月に浅草区の精華高等小学校の教師になっているから、その前)、1911年、辻が上野高女の教師になった時、辻を知っている生徒はいなくなっていた。そして、キンは復学した。辻潤が『実験教育指針』に載せたアンデルセンの翻訳は、上野女学校で英語を教えた時のテキストだったのではないかとも想像される。辻潤は、それまでにショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』の英訳やカーライルの『衣裳哲学』を読んでおり、子供向きのアンデルセン童話を読むべき理由は、ほとんどないと思われるからである。
そうだとすれば、辻潤が『実験教育指針』で静美などのペンネームを用いたのは、上野女学校で教えていることを隠すためだったということになるのかもしれない。ペンネームとしては、「辻」という名字を入れる方がより一般的だろう。『音楽界』に連載した「楽のかがみ」では、静秋のほか都路静秋を使ったように。
もう一つ、アルバイトをしたかもしれないことを窺わせるのは、上野高等女学校〔or 上野女学校〕では、英語を校長の小林が教え(教頭の佐藤政次郎は国語・漢文・地理歴史・英語・数学・家事の一部を教えた。教師が揃ってからは、主に修身を教えた〈佐藤在寛「胸中往来」(24)〉)、ほかに英語教師がいなかったらしいことである。伊藤野枝「惑ひ」〔『青鞜』〕の、辻潤が上野高女にやって来た時の女生徒たちの会話によるなら、そうであるらしい。校長というものが、どれだけ忙しいのかなどは分からないが、それならアルバイトを雇う余地が出てくるだろう(バーナード=リーチ夫人が英会話を教えたことを考えると、辻潤が英語教師に雇われたのは、英語教育に力を入れることになったからだろうか。)
また、このようなことであれば、古い辻潤年譜などで、辻潤が1908年あるいは1909年から上野女学校で英語を教えたとなっていることの一端が説明できることになる。
伊藤野枝「惑ひ」〔『青鞜』〕:
「『何だか変に年よりくさいやうな顔してるわね。若いんだか年寄りだか分らないわね』
『あれで英語の教授が出来るのかしら、矢張り校長先生に教はりたいわね、あの先生何だかずいぶんバンカラねえ』
『だつてそれは教はつて見なくつちや分らないわ。そんなこと云つたつて校長先生よりうまいかもしれなくつてよ』
『アラだつて何だか私まづさうな気がするわ、校長先生のリーデイングはすてきね、私ほんとに気に入つてゐるの』
『Oさんはね、それや校長先生よりいゝ先生はないんですもの、でも風采やなんかで軽蔑するもんぢやなくつてよ、教はつて見なくちや、』
そうしたとりとめもないたわいのない会話が取りかはされてゐた。
併しはじめの一時間を教はると、Oさんはもうすつかり感心してしまつた。
『うまいわね、ずいぶんいゝわね、校長先生よりはずつといゝわ、』と叫び出した。皆もその重味をもつた気持のいゝアルトで歌ふやうにその唇からすべり出す外国語はその発音に於てもすべての点で校長先生のそれよりもずつと洗練されてゐて、そして豊富なことを認め得た。それにまたその軽いとりつくろはぬ態度とユーモアを帯びた調子がすつかり皆を引きつけてしまつた。新任の先生の評判はいたる処でよかつた。」
辻潤が上野高女の教師になった経緯は、「ふもれすく」に、N即ち西原和治の世話によるとさりげなく触れているだけだが、これが、そもそも、おかしい。「伊藤野枝年譜」などによると、西原和治・佐藤政次郎の二人はそろって1915年に上野高女を辞めたようで、同じ哲学館出ということもあるのか、深い関係にあったことが窺われる(新井奥邃についての関係もあったかもしれない。二人のほか大部分の教師が辞めたという〈佐藤在寛「胸中往来」(30)〉)。辻は、二人の代表として、西原だけに言及したのかもしれない。しかし、佐々木靖章が「辻潤の著作活動」で推測した通り、教頭の佐藤が『実験教育指針』を編集していたのだから、佐藤は辻のことをよく知っており、辻の就職には、佐藤も関わったに違いなく、少なくとも辻は佐藤についても触れるのが当然だと思われる。「ふもれすく」だけでなく、辻は、上野高女の教頭だった佐藤の雑誌『実験教育指針』に翻訳や創作を載せたことをどこにも書いていない(「ある教育雑誌」とは書いている〈「生田長江氏のことなど」〉)。妙なことである。
「ふもれすく」などでは、自分、また佐藤政次郎などに何らかの迷惑がかかることを考えて、言及を避けているのではないか。その事情までは分からないが。
佐藤在寛「胸中往来」(15)によると、上野高女の創立の頃の学校教師は掛持ちだったとあり、辻潤がアルバイト的に教えた可能性が出て来る。
佐藤在寛「胸中往来」(15):
「◎鶯溪(二)
開校と共に一年級より三年級までを募集した。そして近辺の小学校長連の尽力で、何うやら斯うやら五十名計りの少女が集まって来た。
之等は、お茶の水とか府立女学校とか評判のよい女学校へ一旦入学願書を出して、見ん事入学試験で落伍した連中で、再び小学校へ逆戻りも出来ず、といって何れの学校へ入るにしても面倒な試験を要するので、まあ差当り此の学校で下地を作り、翌年更に府立なり、お茶の水なりへ入学しよう、夫れ迄の臨時の腰掛けにしようと。いう、まあ至って頼母しくない落伍者の寄合(よりあい)であった。此の五十人計りで三学級を編成して見ると、一級何れも二十人足らず、至って寂(さび)しいものであった。
でも教師の方は小学校と違い、一通りは専門の人を求めねばならぬ。所が世の中は妙なもので其の妙な学校の教師をして見ようという妙な人もあって掛持ちではあるが、兎も角も十数名の教師が集まって来た。
尠(すくな)くも校長と幹事とは専任者を置かなければならぬというので、他に職業のない仲間の一人が校長となり、別に経験のある一寸小器用な男が幹事というので、此の二人が主腦者となって万事を切り廻し、其の頃僕は例の教育雑誌をやって居た時なので先ず顧問格という有様で、週に一回づつ修身科を教えに行ったのである。
生徒の授業料は月に二円で其の収入で月に百円、それだけで経営するのだから素より当たり前で行ける道理はない。兎も角も二人の専任者と小使いの給金とは不充分乍らも出さねばならず、其の他雑費にも聊かは掛るのだから教師の報酬などは考える余地がない。でも前記の書肆と若様とが多少宛は小遣い銭から支出したので何うにか斯うにかやって行ったのである。」
ただし、アルバイトなどは、かなり根拠の弱い想像であることは否めない。「解題」『定本 伊藤野枝全集』第1巻には、キンは1895生まれ、1907年に上野高等女学校に入学とあり、休学のことは出ていない。
辻潤が『実験教育指針』に翻訳などを載せるようになった経緯や、西原和治と友人になった経緯なども不明で、それらを調べれば何かが分かるかもしれない。
バーナード=リーチなど
「ジプシイの話」に、Sがショパンを聴かせてくれるという葉書を寄越したとある。「フダンは滅多に遇わないが遇えば、ソレでも十年の旧知がなんぞのように乱暴な口をきき合うS君」。「S(沢田柳吉であろう)」〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.294〉。
竹下範子「おもいで」によると、バーナード=リーチも英会話を教えている。「先生ご夫妻は上野公園桜木町に瀟洒たる居を構えて当時の美術学校でエッチングの研究をされながら私達に英会話を教えて下さったのだ。」とある。おそらく、最初は、バーナード=リーチ夫人が英会話を教えていて、バーナード=リーチ自身は英会話を教えることがあった程度ではないか。
伊藤野枝
辻潤と伊藤野枝が朝と帰りを共にしたといっても、辻潤は生徒に人気があったから、伊藤野枝は取り巻き連の一人というだけなのだろう。
伊藤野枝が辻潤の家をしばしば訪問したらしいことは、『ダダイスト辻潤』の座談テープの中の次の恒の話から分かる。
『ダダイスト辻潤』pp.21-22:
伊藤野枝は「来る時やなんかもすましちゃって、辻先生はいらっしゃいますかなんて入ってくるんです。そしてちょっと離れになっている兄の書斎の方へついといっちゃうんです。」
ちょっと離れになっている書斎とあるし、また、キンが出てくるので、上野高女時代の話である。また、ここから、辻潤が「書斎」で述べている書斎のある家というのが、上野高女時代の家だったことが分かる。
花園宥運「辻さんと私」によっても、辻潤の家には伊藤野枝等の教え子が押しかけて来たというから、伊藤野枝が特別という訳ではないようである。
伊藤野枝が教師の辻潤に恋愛感情を抱いても特別なことではない。辻潤は多くの女生徒に人気があったから伊藤も好きになったということもあるかもしれない。
教頭だった佐藤政次郎は、日曜日に佐藤政次郎の家に10人ほどの女生徒が来たと書いている。生徒数も少なく家族的な上野高女では、生徒が教師の家を訪問するのは、めずらしいことではなかったようである。
佐藤在寛「胸中往来」(27):
「 殊にサンマーコロニーの連中は、僕の家を伯母の家のように心得るようになる。日曜日には僕の家には必ず十人十五人に女学生が来る、昼飯を食い更に遊んで夕飯までも共にする。素より家庭並みの常食で家庭の子女と共に談じ共に食う。正月には泊まりがけで来る、祭礼の日にはこちらからも招かれて行く、丸で親族付合だ。先方の父母も来る、宅の妻女も行くという次第だ。」(サンマーコロニー=夏休み中の避暑地での共同生活)
花沢かつゑ「鶯谷の頃から」:
伊藤野枝は、「受持の西原先生は大いにその文才を認められ、何か特別に扱っていらっしゃったようでした。私共が、作文の時間に一生懸命貧弱な頭をしぼって考えたり書いたりしておりましても、いつも野枝さんは自分の好きな本を読んだりしていて、作文など提出した事がなくともいつも成績は優を頂いておられたとの事でした。」
「伊藤野枝が上野女学校在学中、編集に携っていたという同校の新聞「敬愛タイムス」が出現すれば、辻潤の著作が新たに発見される可能性はある。」〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.277-278〉 「敬愛タイムス」または「謙愛タイムス」とあるが、花沢かつゑ「鶯谷の頃から」・佐藤在寛「胸中往来」(18)によると、「謙愛タイムス」。
伊藤野枝の結婚
夏休みで伊藤野枝が帰郷して末松福太郎と挙げた祝言=結婚式は、『炎の女』p.77などには仮祝言と書かれ、『ダダイスト辻潤』などが、これを踏襲している。伊藤は、この時の祝言から3か月ほど経って入籍され、それから半年近く女学校の卒業を待って末松家に入ることになっていたなどという経緯から見れば、仮祝言というべきもののようにみえるが、この時の祝言のほかに祝言を行なうという話はない。当時の福岡県の結婚の慣習などを調べていないが、仮祝言とみなすべきものはなく、伊藤野枝は祝言を挙げたとみなす。
11月21日という伊藤野枝の入籍日は、「伊藤野枝年譜」にあるから、この年譜に入れてみた。しかし、その根拠が『炎の女』であるなら、やや問題ではないか。『炎の女』p.78によると、「明治四十四年十一月二十一日、野枝は末松家に入籍したことになっている。」とある。
「相手の名は末松福太郎。岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社、一九六三年)に、この結婚についての戸籍調査がある。一九一一年一一月二一日入籍、一九一三年二月一一日、協議離婚届出。」〈『青鞜の時代』p.105〉
戸籍調査のようなものは、今も昔もプライバシーに関わるものである。昔の伊藤野枝などについて調査しても、特に問題が生じるとも思われないが、身内の許可を得て、それを見せてもらい公表すべきものだろう。戸籍などについては、そういうことを記してくれないとまことに困る。岩崎呉夫の書くことはデタラメが多い、私は岩崎呉夫の戸籍調査なるものも信じていない。伊藤野枝研究者たるべき者は、伊藤野枝の戸籍について再調査すべきではないか。そうすれば、今となっては『炎の女』の内容全てが不必要なものになるだろう。
「ふもれすく」:
「 女の家が貧乏なために、叔父さんのサシガネで、ある金持ちの病身の息子と強制的に婚約をさせられ、その男の家から学費を出してもらって女学校に通って、卒業後の暁はその家に嫁ぐべき運命を持っていた女。」
浅草観音の仲見世
矢野文子「最初の転身まで」:
「 これも当時の生徒の一人花沢嘉津恵が語つてくれた話だが、ある大晦日の朝(たぶん明治42年)、彼女は母親と一緒に浅草観音の仲見世に買物にでて、むこうから飄然と歩いてくる辻潤にであつた。彼はそしらぬ顔でそのまま吉原の方へ人波にかくれたが、翌元旦の朝、また嘉津恵はおなじ場所で彼にバッタリとぶつかつてしまつた。すると今度の彼は帽子にちよつと手をあて、「やあ、さつきは失礼」と笑つてみせた。彼の背中をポンとたたいた彼女が「先生、幸福」とひやかすと、彼はすまして「ええ、幸福ですよ」と答えた。このころ吉原の酒屋の娘で生徒のひとりであった御簾納(みすのお)キンは辻潤の恋人であり、浅草、吉原、代地河岸などはいわば彼のホームグランドであつた。」
「ある大晦日の朝(たぶん明治42年)」とあるが、矢野文子「最初の転身まで」では、辻潤は上野女学校に1908年4月から勤務したとなっているからである。
以上の話は『ダダイスト辻潤』p.10に転載。『ダダイスト辻潤』では、辻潤がいつ上野高女に勤務したかが混乱しているから、同様に、ある大晦日となっている。しかし、辻潤が上野高女に勤務したのが、この1911年とすれば、この年しかないことになる。
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1911.1.24 大逆事件の幸徳秋水〔39、数41〕・宮下太吉ら11人の絞首刑、執行。1.25 菅野スガ〔須賀子〕の絞首刑、執行。
1911.1 ニーチェ、生田長江、訳『ツァラトゥストラ』新潮社。〈『日本近代文学年表』〉
1911.6 自由劇場、第4回試演。〈「小山内薫」『日本近代文学大事典』〉
1911.9 平塚らいてう〔明子〕ら、『青鞜』を創刊。9.1発行、発行部数1,000部。〈『青鞜の時代』p.74〉
「平塚らいてうを中心に創刊。創刊時の賛助員に長谷川時雨、岡田八千代、与謝野晶子、国木田治子、小金井喜美子、森しげ子らが名をつらね、社員は岩野清子、茅野雅子、尾島菊子、田村俊子、野上弥生子、水野仙子ら。巻頭詩は晶子の「山の動く日来る」にはじまる「そぞろごと」、らいてうの「元始女性は太陽であった。―青鞜発刊に際して」などを掲載、女性解放運動を展開した。表紙絵は高村光太郎の妻となる長沼智恵子。」〈『日本近代文学年表』p.87〉
『青鞜』創刊号には、社員として「野上八重子」の名があるが、『青鞜』の「見切り発車」のためだろう。
「後に「弥生子」の表記が定着した。『青鞜』創刊号の社員名簿には、「野上八重子」の名があり、次号の「編輯室より」に「一時退社」が報じられる。弥生子自身は入社の事実を否定している。」〈注『青鞜の時代』p.66〉
1911.10 自由劇場、第5回試演。〈「小山内薫」『日本近代文学大事典』〉
1911.11 『講談倶楽部』〈「思想史・ジャーナリズム年表」『日本史辞典』〔角川〕〉
1911 カフェ「ライオン」・カフェ「パウリスタ」、開店。3月、京橋でカフェ「プランタン」、開業。〈『日本近代文学年表』〉
1911.3 カフェ=プランタン、東京=京橋に開店。〔以後しだいにカフェーが増え始める。〕〈『決定版 昭和史』第3巻〉
平塚らいてう:1886.2.10-1971.5.24。〈「平塚らいてう年譜」〉
大杉栄:1885.1.17-1923.9.16。〈「大杉栄」『日本近代文学大事典』〉
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1912 明治45/大正1
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1.1 朝、浅草観音の仲見世に行く。前日に続いて、生徒の花沢嘉津恵に出会う。辻潤は帽子にちょっと手をあて、「やあ、さっきは失礼」と笑う。(辻はキン〔のち御簾納キン〕のところへ行くつもりらしく)辻の背中をポンとたたいた花沢が「先生、幸福」とひやかすと、「ええ、幸福ですよ」と答える。〈花沢嘉津恵〔上野高女生徒〕の話〉〈矢野文子「最初の転身まで」〉・〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第1巻〉
2月頃 Tのところで土岐善麿の『黄昏に』を読む。巻頭の「指をもて」という歌を好きになり、何遍も繰り返す。〔辻潤が染井を離れることになり、Tも東京を離れる。〕〈「のんしゃらんす」〉
3.26 上野高等女学校、卒業式。伊藤野枝、卒業〔第5回生〕。〈伊藤野枝「動揺」・「伊藤野枝年譜」〉
3.27 伊藤野枝と代千代子は帰国する事になり、7、8人の友達と教師の佐藤政次郎と西原和治が、新橋駅に二人を見送りに行く。代千代子は両親と一緒に駅で伊藤が来るのをを待っていた。伊藤野枝と辻潤は、二人で上野公園竹の台陳列館に故青木繁君遺作展覧会〔『美術新報』主催第3回展覧会の一部として開催〕を見に行く。その帰りに辻はいきなり伊藤を抱擁する。伊藤は新橋駅に向ったが、列車の時刻には間に合わなかった。その夜、23:00PM頃、伊藤野枝は代一家とともに故郷に向う。三人の教師が見送る。〈伊藤野枝「動揺」・「伊藤野枝年譜」・花沢かつゑ「鶯谷の頃から」〉〔このあと辻は伊藤に手紙を出す。〈伊藤野枝「出奔」〉〕
4.3頃 伊藤野枝から手紙が来る。「大分孤独をふりまはした」手紙を「可なり痛快な気持ちを抱いて読み終つた」。〈伊藤野枝「出奔」〉
4.8頃 九州に帰った伊藤野枝は、婚家に入ることが厭で、帰郷から9日目に、何の用意もせずに辻の手紙を持って家出する。伊藤野枝は、親戚の家などを訪ねるが、事情を話せず、家出を知られかねなかったので、10里ばかり離れた友達の家に行き、そこに匿ってもらう。《伊藤野枝は、家出の前に、事情を知らせず、西原和治に手紙を出す。》〈伊藤野枝「動揺」・伊藤野枝「出奔」〉
4.10 上野高女に末松から伊藤野枝が出奔したので保護してくれという電報が来る。辻潤は、多分東京へやって来るつもりなのでしょうと言う。校長の小林は即座に「東京へ来たら一切かまわないことに手筈をきめようじゃあありませんか」と言う。佐藤政次郎は「知らん顔をしていようじゃありませんか」と言い、西原は「兎に角出たら保護はしてやらねばなりますまい」と言う。辻潤は「僕は自由行動をとります。もし伊藤が僕の家へでもたよって来たとすれば僕は自分一個の判断で措置をするつもりです」と断言する。〈伊藤野枝「出奔」・「伊藤野枝年譜」・「ふもれすく」〉
4.11 辻潤に伊藤野枝からの手紙が届く。〈伊藤野枝「出奔」〉
4.12 辻潤は前日の伊藤野枝の手紙を持って学校へ行き、それを見せる。〈伊藤野枝「出奔」〉
4.12 辻潤に末松から、伊藤野枝が多分上京したらうから若し宿所が分つたら早速知らしてくれ、父と警官同道の上で引きとりに行くという葉書が来る。
自分の妻は姦通した形跡があるとか同志と固く約束したらしいとかいうことが書いてあった。〈伊藤野枝「出奔」〉
この頃、19:30PM頃に夕食を終え、しばらく休んで、毎晩の様に三味線を弄ぶか歌沢をうたうか尺八を吹く。それから読書。何か書くのは22:00PMから。なにか書く時には必ず明方近くまで起きる。〈伊藤野枝「出奔」〉
4.17頃 伊藤野枝のもとに、西原和治からの為替と手紙、辻潤からの手紙が届く。辻潤は、「汝と痛切な相愛の生活を送つてみたい」「上京したら早速俺の処にやってこい。」「上京したらあらいざらひ真実のことを告白しろ、其上で俺は汝に対する態度を一層明白にする積りだ。」などと書き送る。〈伊藤野枝「動揺」・伊藤野枝「出奔」〉
伊藤野枝は上京し、辻潤の家を訪ねる。伊藤野枝は、辻潤に身のふり方を相談する。辻潤は、西原和治や教頭の佐藤政次郎に相談して、ひとまず伊藤を佐藤のところへ預けることにきめる。小林〔校長〕初めみんなが伊藤と辻の間に既に関係が成立していたものと信じ、伊藤の出奔はあらかじめ辻との合意の上でやったことのように考えた。小林から、辻があくまで伊藤の味方になって尽す気なら、学校をやめてからやってもらいたいと切り出され、教師が嫌になっていたこともあって、4月末頃、上野高等女学校を辞職する。伊藤は辻の家に住む。〈「ふもれすく」・伊藤野枝「動揺」・伊藤野枝「惑ひ」〔『新日本』〕・伊藤野枝「乞食の名誉」・花沢かつゑ「鶯谷の頃から」・井手文子「伊藤野枝小伝」〉
5月頃、伊藤野枝は、辻潤に勧められて、平塚らいてうに、意に添わない結婚を強いられる苦悩を綴った長い手紙を出す。辻が本郷区曙町の平塚を訪ね、平塚は伊藤が家出し女学校時代の教師であった辻を頼って来たと知る。平塚は伊藤と会うことを約し、伊藤が平塚を訪問する。辻・伊藤は、伊藤の出奔で辻が教師を辞めたことを平塚に話さなかった。〈「ふもれすく」・「新しい同人を迎えて」『元始、女性は太陽であった』pp.403-405・平塚らいてう「「動揺」に現われた野枝さん」・平塚らいてう「伊藤野枝さんの歩かれた道」・平塚らいてう「青年辻潤氏」〉
〔その後、9月頃までの間に滝野川に引越す〈「新しい同人を迎えて」『元始、女性は太陽であった』p.406・平塚らいてう「伊藤野枝さんの歩かれた道」、など〉。〕
辻潤は生活のため翻訳仕事を始め、ロンブローゾ『天才論』は6月から3か月半余りで訳し終わり、秋頃出版予定の筈が、佐藤政次郎に紹介された出版業者(育成会か)の経営悪化で『天才論』の出版ができなくなり、その後、出版社がなかなか見つからない。〔富士川游に序を書くことを頼んだが、書いてくれない。〕〈「おもうまま」・「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻 p.459・佐藤在寛「胸中往来」・小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」・国会図書館蔵書検索〉
〔生活のために自動車の機械や飛行機などの本の翻訳や陸軍参謀本部の英語関係の書類を翻訳する〈小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」・「全集年譜」〉。「偶々(たまたま)どうかして手にはいつた翻訳の仕事さへ、興味のない内容のものだと、直ぐに苦痛を訴へる」〈伊藤野枝「惑ひ」二〔『新日本』〕〉〕
7月末 伊藤野枝は、辻潤にすすめられ、末松家との問題を解決するため郷里に戻る。〈伊藤野枝「動揺」・「新しい同人を迎えて」『元始、女性は太陽であった』p.405・平塚らいてう「伊藤野枝さんの歩かれた道」、など〉
9月初め頃 伊藤野枝が郷里に戻って一月ほど後、伊藤野枝から平塚らいてうに再度家出し上京するための旅費を送ってほしいという手紙がくる。平塚は、伊藤が世話になっていたという辻潤の意見をきくため、染井に出かける。染井とだけ聞いていたので、染井を尋ね回って家が見つかったが、既に滝野川へ引越していた。引越先を訪ねると辻潤は不在で、家人に用件を告げ、名刺を置いて帰る。その翌日か翌々日に辻潤が平塚の家を訪ねる。「何にせよよほど苦しんでいるらしい様子だし、まだ年も若いことであり、ああいう気象の女のことでもあり間違いでもあると困るからさっそく旅費を送ってやってはもらえまいか、上京後の彼女の一身上のことはむろん自分がすべて責任をもつ考えだからということなので、」平塚は承諾。〈平塚らいてう「伊藤野枝さんの歩かれた道」、など〉 平塚は、上京後は責任をもつとの辻潤の言葉に安心して、ポケットマネーから旅費を送る。〈『元始、女性は太陽であった』p.406〉
9月〜11月の間に巣鴨区上駒込329番地の平屋建ての借家、三軒並んだ中央の一軒に移る。〈伊藤野枝「書簡 木村荘太宛(一九一三年六月二四日)」・「伊藤野枝年譜」・「解題」『定本 伊藤野枝全集』第1巻・野上弥生子「彼女」・野上弥生子「野枝さんのこと」・「ふもれすく」〉 近くの上駒込388番地に野上豊一郎・野上八重子〔弥生子〕の家があった〈「野上弥生子書簡」1908.5.16消印〉。野上弥生子の家には低い茨の垣根で囲まれた前庭があり、その庭に沿って右に曲がった小路の奥が辻の家〈野上弥生子「野枝さんのこと」〉。〔のちに野上弥生子は、10間ほど北寄りの奥まった二階屋〈野上弥生子「野枝さんのこと」〉あるいは4、5軒先になった奥〈野上弥生子「家」〉に越す。辻潤の家の隣。〕
この頃 《本箱も蔵書も殆ど売り尽し、辞書1、2冊と翻訳中の『Man of Genius』を座右に置いて暮らす。》翻訳中の『Man of Genius』を本郷の郁文堂に預けて神田の立花亭の昼席に出かけて、馬楽・焉馬〔のち金原亭馬生〕・小せんの三人会に行って落語を聴く。「あくび」・「伊勢屋」・「まわし」(など)。〈「ふもれすく」〉
11月上旬頃 伊藤野枝、再上京。〈伊藤野枝「動揺」・伊藤野枝「雑音」・『元始、女性は太陽であった』pp.397-398・『わたくしの歩いた道』・『神近市子自伝』p.148・など〉 辻潤は伊藤野枝と同棲し、母の美津、妹の恒が同居。辻潤の最初の動機は伊藤の持っている才能を伸ばすこともあったが、二人は染井の家で、徹底して昼夜の別なく「情炎」の中に浸る〈「ふもれすく」〉(5月か)。
11月 伊藤野枝は『青鞜』の雑用を手伝うようになり、『青鞜』に文章も書き出す。〈『元始、女性は太陽であった』・伊藤野枝「雑音」・など〉〔『青鞜』10月号に伊藤野枝の入社の記事が、11月号に伊藤野枝の詩「東の渚」が載る。〈「伊藤野枝年譜」、など〉〕
〔辻潤は、時々、平塚らいてうを訪ねるようになり、青鞜社員と知り合う〈「ふもれすく」〉。平塚もまた辻の家を何度か訪れる。辻は、玄関横の3畳の部屋の真中に机を置き、神代杉の額縁に填められたスピノザの肖像を背にして翻訳をする。〈平塚らいてう「青年辻潤氏」・「書斎」・伊藤野枝「雑音」〉〕
この頃、辻潤の家は、いつも三味線・尺八の音がして、陽気な笑い声に満ち、楽しそうな様子であった。〈野上弥生子「野枝さんのこと」〉
この頃、スティルナーを読む。〈「Me'langes」〉
この頃(あるいは翌1913年)、染井で伊藤野枝と同棲中、池田ふみが朝鮮から東京へ休暇で帰り、辻潤を訪問。伊藤は留守で、二人は染井の墓地の方から王子の方へぬける静かな谷を追憶に耽りながら歩く。池田はかなりの金を辻の母に置いて行った様子である。伊藤は突然の異性の訪問客に接して、ヒステリーを起して泣くやらわめくやらした。伊藤と辻とで、池田を上野まで送る。2、3日して、辻と伊藤で朝鮮へかえる池田を新橋駅まで見送りに行く。〈「幻燈屋のふみちゃん」〉
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伊藤野枝の卒業
花沢かつゑ「鶯谷の頃から」によると、上野高女の卒業式は、3月25日で、伊藤野枝「動揺」と1日ズレている。この年譜では、伊藤野枝「動揺」を採用した。
花沢かつゑ「鶯谷の頃から」によると、翌3月26日に、伊藤野枝と代千代子は帰国する事になり、7、8人の友達と佐藤・西原が、新橋駅に見送りに行った。代千代子は両親と一緒に駅にいたが、所定の時間になっても伊藤野枝の姿が見えなかった。伊藤野枝はとうとうその時間には現われず、結局、代や伊藤は夜の汽車で改めてたつ事になった。
瀬戸内晴美「美は乱調にあり」では、1915年秋頃、代準介は、大阪に引越していて、伊藤野枝・代千代子の乗る汽車に大阪から代千代子の母のキチが乗り込んだとしている。瀬戸内晴美・花沢かつゑのどちらが正しいかは分からないが、「美は乱調にあり」の根拠は不明で、フィクションが多いので信用できない。
瀬戸内晴美「美は乱調にあり」では、卒業式の日に記念写真が撮られているが、辻潤は風邪気味で休み、式後に伊藤野枝が辻潤の家を訪れている。しかし、写真の現像と焼き付けにそれ程時間がかかるとは思えないものの、生徒30人分の写真を用意するとなると、卒業式の日のうちに撮影・焼き付けを行ない写真を生徒に渡したとは考えにくい。おそらく、卒業用の記念写真は前もって別の日に撮影し、卒業式の日にでも写真を配布したのだろう。卒業式後に伊藤が辻の家を訪れたことは、どこにも書かれてはおらず、瀬戸内のフィクションだろう。
瀬戸内晴美「美は乱調にあり」:
「 そのアルバムの中から、魔子さんは一葉の大きな女学校の卒業写真を探しだし、私に示した。
野枝の上野高等女学校の卒業写真である。黒紋付に袴(はかま)、ひさし髪という当時の女学生の卒業式スタイルで、野枝は一番上段の真中にいる。みんなが真直ぐレンズの方に正面きっている中で、ただ一人、躯を斜めにし、空に目を放った横顔を写している。赤い裏のついた黒い布をすっぽりとかけたあの箱型の旧式な写真機をかまえ、「はい、写します」の掛け声で、出張写真屋が、まるいゴム玉をきどった手付で押してシャッターをきる瞬間、こんなポーズを取り虚空(こくう)に目をあげた野枝のスタイルは、気取っているとも、すねているとも見える。数え十八歳の野枝は、顔も肩も胸もいかにもふっくらと肥っている。」
「この卒業写真には、一隅に丸いはめこみで辻潤の写真も入っている。辻潤は野枝の五年の春、同高女に英語教師として就任していた。
細面のやさ男型の美男に写っている辻潤は銀ぶちらしいきゃしゃな眼鏡をかけ、きゅっとつめた和服の胸元に黒っぽい衿をのぞかせ、女学校の英語教師というよりは、踊りの師匠か女形の若手役者のように見える。目鼻立だけでも神経質そうな感じである。」
なお、この年譜では、瀬戸内晴美〔寂聴〕の「美は乱調にあり」は、岩崎呉夫・井手文子などの影響を強く受け、そのほかにも疑問点が多く、真実に乏しいと考えるので、必要のない限り取り上げない。「諧調は偽りなり」も同様。瀬戸内の作品は、辻潤・伊藤野枝関係では最も一般に流布しているものだが、それだけに一層の注意を要する。
伊藤野枝に抱擁とキス
上野高女の卒業式の翌日に辻潤と伊藤野枝二人で上野の展覧会に行ったというのは本当だろう。しかし、その帰りに辻が伊藤を抱擁したというのは、問題があるように思われる。抱擁は伊藤野枝の「動揺」のほか、「わがまま」と「惑ひ」〔『青鞜』〕にもあるから(「惑ひ」では「帰るという間際になって不意に示した愛」)、一応それは事実と認めるにしても、どの程度の抱擁なのかは問題である。
キスについては、伊藤野枝「わがまま」に、「何時遇ふともしれない別れの最後の日に登志子に熱い、接吻と抱擁とを与へた」(登志子=伊藤野枝)とあるが、これがフィクションではないとどうして言えるのだろうか。ただ、伊藤野枝「出奔」の家出した伊藤に宛てた辻の手紙の感じからいうと、キスというのも本当だろうと思うが。
瀬戸内晴美〔寂聴〕の「美は乱調にあり」では、見てきたかのように詳細に熱い抱擁の様を描いているし、岩崎呉夫『炎の女』・井手文子『自由それは私自身』、そのほか玉川信明『ダダイスト辻潤』など、辻潤・伊藤野枝について書かれたほとんど全ての本で抱擁されキスされたとあるが、ややあやしい。この当時の伊藤野枝は恋愛経験の少ない(or ない)ウブな娘という感じで、単に軽く腕を背中や肩に回される程度の抱擁でも重大事に考えた可能性があると思われる。教師の教え子に対する、芸術を愛する者同士としての、今日「ハグ」と呼ばれる挨拶としての抱擁程度のことであるなら、それを単に「抱擁」と記すべきではない。それでは読者に誤解を与えるだけである(「抱く」ことがセックスの意味でも使われるから尚更である)。
辻潤の書いたものなどによると、辻にはキンという恋人がいて、伊藤野枝には明確な恋愛感情は抱いていない。辻が伊藤に全く恋愛感情がなかったという訳にもいかないが、あるいは、辻が衝動的に抱擁してしまったということなのか。伊藤野枝「惑ひ」〔『青鞜』〕では、伊藤はそのように疑っている。あとで、伊藤が、そのように疑えるような抱擁だったということである。辻は伊藤の書いたものに目を通している筈だが、「ふもれすく」には、この抱擁のことを書いていない。つい魔が差したようなことは、なかなか書けないだろう。衝動というより、あるいは、辻は伊藤の結婚のことを噂で知っていて、どうせ他人の妻になる女、最後にちょっと、ということだったのかもしれない。
伊藤野枝の在学中から辻潤と伊藤は親しくはしていたが、恋愛を窺わせるものはない。そのことは、辻潤と伊藤野枝の書いたものから明らかである。『東京朝日新聞』11.21号の同級生だった者の投書でも、「後になつて思へばあなたは卒業する前から辻先生を恋してゐたのでせう」「けれど二人が恋し合つてた事は夢にも気づきませんでした」とある。周囲の誰も辻潤と伊藤野枝が恋愛感情を持っているとは思っていなかった。『炎の女』のように在学中から恋愛関係があったとするのは根拠がない。
『炎の女』p.84:
「野枝は、上野高女時代の担任に手紙をだした。辻の親友であり、野枝に好意をもつていた担任は、ふたりの関係を気づいていたし、家出もいわばふたりの合意のことだろうと察してさつそく旅費をおくり、野枝はひそかに懐かしの東京に舞い戻つたのである。」
近年の森まゆみ「風の中で夢を見た人――伊藤野枝小伝」は、かなりまともな小伝だが、それでも、この悪い「伝統」を引きずっていて、「上野の美術展を見たあと森の中で抱き合い愛を確かめた」としている。伊藤野枝「動揺」には、「何の前置もなしに」抱擁されたとあり、「愛を確かめ」たというのは、やや不適切と思われる。
伊藤野枝の家出と上京
「伊藤野枝年譜」・玉川信明『ダダイスト辻潤』には、伊藤野枝は、婚家先の末松家を出たとある。これは、おそらく、『炎の女』を採ったもの。『炎の女』以来「伊藤野枝年譜」まで、九州に帰郷した伊藤野枝は婚家に入り、そこを飛び出したとあるが、伊藤は、そうとは書いていないので間違いだろう(伊藤は、恋愛・結婚にナイーブだから、事実を書かなかった可能性もあるが)。また、『ダダイスト辻潤』には、卒業して帰郷後、伊藤が挙式したあるが、そんな話はどこにもない。
「伊藤野枝年譜」:
「 四月、帰郷九日目に末松福太郎との結婚を嫌って婚家を出、叔母坂口モト(亀吉の次妹)や友人の家を訪ね歩く。一〇日、上野高女に末松から野枝が出奔したと電報がきた。一二日、末松福太郎から辻へ抗議の手紙がくる。野枝とのことが学校で問題になり辻は自ら上野高女を辞職する。九州の野枝は相談の手紙を送った西原和治からの為替で上京し、北豊島郡巣鴨町上駒込四一一番地の辻潤宅に入る。辻の家には辻の母ミツ(美津)、妹ツネ(恒)が同居していた。」
玉川信明『ダダイスト辻潤』p.14:
「 ところが野枝は、郷里へ帰って挙式するや、九日目にもう婚家先の末松家を出て、染井の辻先生の懐へ飛び込んできてしまったのである。」
『炎の女』p.84:
「亀吉や準介に追い立てられるように末松家にはいつた野枝は、八日間、福太郎とはろくに口もきかぬ状態のまま "嫁の座" にすわつたのだが、九日目の朝、家を出たまま大牟田にいる友人宅に姿を隠してしまつた。」
伊藤野枝「動揺」:
「私はすべて私の全体が東京に残つてゐる何物かに
絶えず引つぱられてゐるやうに思はれて苦しみました。そして直ちに父の家を逐(お)はれて知らない嫌やな家に行かねばならないと云ふ苦痛も伴つてとう/\私は丁度帰つて九日目に家を出てしまつたのです。」
伊藤野枝「動揺」によると、実家を飛び出した伊藤は、友人の下に匿って貰った。事情は知らせずに、西原和治と思われる教師に手紙を出し、西原は為替で上京費を送ったのである。
私には、この西原和治の行動がよく理解できなかった。伊藤野枝「出奔」によると、4月10日というから伊藤野枝の出奔から間もなく、上野高女に末松から伊藤が出奔したと電報が来たという。学校側は伊藤が辻潤とともに伊藤の担任であった西原とも親しかったことを知っていた筈で、西原にもすぐにそのことを知らせた筈である。それなら、伊藤の出奔を知った上で、西原は伊藤に上京費用を送ったのだろうか。そもそも、何を思って、西原は伊藤に上京費を送ったのだろうか。伊藤の才能を高く買って、家庭に閉じこもるような人ではないと思ったのかもしれないが、上京してからのことが何も決まらないままで、上京費だけを送るのは無責任というものではなかろうか。伊藤野枝「出奔」の西原と思われる男の手紙の一節に、「事情は猶ほ悉(くわ)しく聞かねばわからないが兎(と)に角(かく)自分の真の満足を得んが為めに自信を貫徹することが即ち当人の生命である。生命を失つてはそれこそ人形である。信じて進む所にその人の世界が開ける。」とある。若いからあとはどうにでもなるということなのだろうか。伊藤が一体どんなことを西原に書き送ったのかは分からないが、事情は知らせなかったけれども、騙したという訳でもないらしい。
このことでは、西原和治『新時代の女性』を読むと多少は理解できるものがある。そして、伊藤野枝「出奔」の手紙の言葉は、なるほど西原和治の言葉だと納得できる。西原和治「閉ぢたる心――何故開けないでせう――」によると、西原は伊藤に対して「珍らしいあなたの天才を十分に伸びさせるためには、少くとも茲(こゝ)数年の間は東京に居た方がよい。天賦の奇才をこのまゝで、刺戟(しげき)も少く、人物も少い田舎に埋(うず)めて仕舞ふのは惜しい事だ。それでは或は生長するだけ生長せずして終るかも知れない」(あなた=伊藤野枝)と思っていたのだという。そして、それによると、伊藤が西原に詳しい事情を知らせなかったというのも事実であるらしい。前年の夏休み前に伊藤に結婚の話が起こって、伊藤がふさぎこんでいたが、その事情をついに西原に話さなかった。それで、西原は、何故自分に心を開かないのかと嘆いている、というより伊藤を突っ放している。伊藤が好きだったのは辻潤の方だったし、また、伊藤には西原が何故自分を高く買っているのか理解できず警戒的になっていたのかもしれない。伊藤野枝「出奔」によると、西原に限らず、伊藤は事情を誰にも語らなかった。辻潤にも、また伊藤が家出して、匿ってもらった友達にも。親達の決めた結婚がいやだと言えばよさそうなものだと思うが、親類や家族に対する複雑な思いなどがあったのだろうが、少々その心理は分かりにくい。これは、のちの大杉栄との恋愛のことを野上弥生子にきちんと話さなかったなど、伊藤には一貫している性情であるらしい(辻と大杉との恋愛パターンも似ているところがある)。
家出した伊藤が、取り敢えずほしいのは金だった〈伊藤野枝「出奔」〉。その金を西原和治は伊藤に送ったが、辻潤は送ったようではない。西原と辻とで何か伊藤について了解があったようにも見え、『炎の女』はそのように書いているが、そのことを示すものはない(のちの再上京の費用を伊藤は平塚らいてうに頼み、辻は出していない。伊藤は辻の家の経済状態を考慮したのだろうが、金は出さない、ケチのケチで辻は一貫しているかもしれない)
伊藤野枝が卒業して末松家に入るというような事情を学校側は知らなかったようである。伊藤野枝「出奔」によると、結婚したという噂だけはあったが。辻潤・西原和治・佐藤政次郎の三人は、伊藤の出奔は、伊藤と末松の間の問題で、学校側が関わる問題ではないという態度であったらしい。しかし、校長などにしてみれば、それで済む話ではないだろう。学校教育とは直接関係ないとはいっても、親のいう通りに結婚するというのが当時の良識でもあろうし(上野高女は、教頭の佐藤を中心に、良妻賢母主義を排し、自治と友愛を教育方針としていた〈「伊藤野枝年譜」・佐藤在寛「胸中往来」〉というが)、上野高女は、その「良識」に反する教育をしているのかと文句を付けられかねないだろう。「ふもれすく」によると、校長の小林などが、伊藤と辻とで共謀していたと疑ったとあるが、伊藤野枝「動揺」によると、佐藤もまたそのように疑ったようである。結局、辻一人が責任を負うような形で辞職したことになる。伊藤野枝「動揺」によると、西原も辞職すると言っていたが、色々な事情があって辞職しなかったという(花沢かつゑ「鶯谷の頃から」には、西原も間もなく上野高女を去ったとあるが、「伊藤野枝年譜」によると、佐藤・西原が上野高女を去ったのは1915年以降、「佐藤在寛先生略年譜」によると1915年)。辻が西原をかばったようなことにもなり、そういうこともあって、のちに西原和治は、『天才論』の出版に尽力したのかもしれない(『天才論』の序文にあたる「おもうこと」にそれらしいことが書かれている)。
4月末、上野高等女学校を辞職というのは、井手文子「伊藤野枝小伝」にあり、これを『ダダイスト辻潤』が採用したと思われる。根拠不明だが、ありそうで、この年譜でも採用してみた。
伊藤野枝「動揺」は、その最後の方に「これは小説では御座いません。単なる事実の報告として見て預けばよろしいのです。」などとあり、私は、「動揺」はかなり事実のままを描いているが、「出奔」などの方は虚構が含まれているのではないかと考えていた。辻潤と伊藤の間には、3月27日まで恋愛というべきものはなかった。それなのに、伊藤野枝「出奔」の伊藤野枝の家出のあとの辻潤の手紙はいかにも親しい者に宛てたくだけた調子のようであった。それで、その手紙は伊藤野枝が7月末に再帰郷したあとに出した辻の手紙ではないかと考えた。
しかし、今回、その考えを改めた。伊藤野枝「動揺」・「出奔」によると、西原和治は家出した伊藤に上京費を送っている。西原は、伊藤の家出などの騒動に大きな責任がある。伊藤野枝「出奔」によると、西原が伊藤に出した手紙には次のように書かれていた。「 今家へあて出した私の手紙の最後の一通があなたの家出のあとに届いたであらうと思はれる、誰れか開封して検閲に及んだかもしれない、熱した情を吐露した文章であつたからもしそれを見た人があるとすればその人は幸福である。」 これが事実なら、伊藤は家出の前に西原に手紙を出したらしく思われる。西原は、その返事が家出のあとに伊藤の実家に届いたろうと言っている。伊藤の故郷の者がその手紙を開封したかどうかは分からないが、おそらく開封した。それで、末松は辻潤に、自分の妻は姦通した形跡があるとか同志と固く約束したらしいとか書いた訳だろう。こうして、末松などが西原を糾弾し、学校側が西原を批判してもよい状況がある。それなのに、学校側から辻潤だけが責められて、辞職することになったのは何故なのか。もし、伊藤野枝「出奔」にあるように、辻が伊藤野枝と「相愛の生活」をするというようなことを学校側に話したのであれば、学校側の目が西原ではなく辻潤に向いても不思議ではない。
伊藤野枝「出奔」の手紙が虚構ではないかと考えた別の理由が「ふもれすく」には、そういう事情が書かれていないからであった。しかし、おそらく、「ふもれすく」では、辻が故意にそんなことを書かなかったのだろう。伊藤が既に書いているから改めて書く必要はないということもあったろうが、むしろ、辻はほかの男に奪われた元妻との恋愛話をあまり書きたくはなかったのだろう。
以上のような訳で、今回は、伊藤野枝の書くことは一貫していて事実に近いと判断して、年譜記事を改めた訳である。それにしても、そうすると、上野高女の校長の小林などが、辻と伊藤があらかじめ示し合わせて、伊藤が家出したのではないかと疑ったことは、至極もっともということになりそうである。そうではないのに、そのように疑われたと怒る辻潤の方がどうかしているだろう。私には、卒業式の翌日以来の突然のような辻の伊藤への恋愛というものが随分解せないもののように思えるのだが、おそらく、それが辻という人間なのだろう。別れ離れになるので、感情が募るというものも、人の例であろう。
辻と伊藤の恋愛と個人の成長
「ふもれすく」:
「 一切が意識的であった。愚劣で単調なケチケチした環境に永らく圧迫されて圧結していた感情が、時を得て一時に爆発したに過ぎなかったのだ。自分はその時思う存分に自分の感情の満足を貪り味わおうとしたのであった。それには洗練された都会育ちの下町娘よりも熊襲の血脈をひいている九州の野性的な女の方が遙かに好適であった。」
「染井の森で僕は野枝さんと生まれて初めての恋愛生活をやったのだ。遺憾なきまでに徹底させた。昼夜の別なく情炎の中に浸った。」
「 全体僕の最初の動機は野枝さんと恋愛をやめる(?)ためではなく、彼女の持っている才能を充分にエジュケートするためなのであった。」
「ふもれすく」では時間の前後が明瞭ではないが、明確な意識を持って伊藤野枝と同棲し妻にした訳でもなさそうである。
伊藤野枝「惑ひ」三〔『新日本』〕:
「 谷は、はじめは、彼女が未来に対して持つてゐる夢想に興味を持つた、少数の人々の中の一人であつた。彼女がひたすらに、自己の道に進んで行かうとする切な気持の理解者の一人であつた。そして、彼女の第一の闘争に力添へをしたのであつた。逸子は本当に他意なく彼に近づいて行つた。殊に彼女が、両親の家から逃れ出て来てからは、彼の知る限りの、彼女の周囲の誰彼が、彼女を出来る丈け困惑させて両親の許に戻さうとしてゐる事が激しく彼の反感をそゝつた。とう/\彼は、逸子を彼に近づけまいとする彼の雇ひ主と衝突した。彼はそれを機会にして長い間縛られてゐた仕事から自由になつた。彼はその当座本当に晴々とした顔でゐた。」
(谷=辻潤、逸子=伊藤野枝)
伊藤野枝「出奔」の辻潤の手紙に私がやや困惑するのは、それが単なるラブレターとは言いにくいからである。現代的なラブレターなら、お前が好きだから一緒に暮らそうといえばそれで済んでしまいそうなものだが、辻潤の手紙にはいろいろと長ったらしい理屈がついている。そこに、「個人の成長願望」といったものが見え隠れしている。個人の「成長」ということについては、「ふもれすく」に辻潤が次のように書いている。
「ふもれすく」:
「 その頃みんな人は成長したがっていた。「あの人はかなり成長した」とか、「私は成長するために沈潜する」とか妙な言葉が流行していた。」
ここの「その頃」は、伊藤野枝が『青鞜』に書き出してからのことだが、「出奔」の時点でも、「成長」に対する思いは濃厚である。辻潤の手紙には次のようにある。
伊藤野枝「出奔」:
「俺は汝を憎む程に愛したいと思つてゐる。甘つたるい関係などは全然造りたくないと思つてゐる。俺は汝と痛切な相愛の生活を送つてみたいと思つてゐる。勿論悉(あら)ゆる習俗から切り離された――否習俗をふみにじつた上に建てられた生活を送つてみたいと思つてゐる。汝に其処までの覚悟があるかどうか。そうしてお互ひの「自己」を発揮するために思ひ切つて努力してみたい。もし不幸にして俺が弱く汝の発展を障(さまた)げるならお前は何時でも俺を棄てゝどこへでも行くがいゝ。」
「成長」に対する思いは、西原和治『新時代の女性』にも顕著である。その頃の個人主義者一般に見られるものなのだろう。一体、彼らはどんな意味を込めて「成長」を見ていたのだろうか。
「成長」とは少し違うが、野上弥生子「彼女」には、家が隣同士になった野上弥生子と伊藤野枝が互いにえらくなろうと話し合ったと書かれている。
野上弥生子「彼女」:
「 「うんと勉強してお互ひにえらくなりませうねえ。えゝきつとなりませう。」
二人はその頃話の末にはいつも誓言のやうに云ひ交はすこの、言葉を、今日も熱心に繰り返しました。(傍点)えらく(傍点終)なり度いと云ふ事は、考へて見れば伸子の少女時代からの夢でありました。が、その内容は年と共に変化しました。何が(傍点)えらい(傍点終)のだか分らなくなつた時期もありました。世間的虚栄がその要素の大部分であつた時もありました。けれども最近に於て本統に(傍点)えらいもの(傍点終)、(傍点)えらい(傍点終)事が分りかけた気がしました。伸子は自分の心の滓(をり)がだん/\と澄んで行くのを見て、悦びと感謝を感じました。此境地を乱されまい、濁すまいとする努力が彼女の不断の精進でありました。此儘たゞ一心に進んで行けばいゝのだ、最後の目標――真理――それより外に(傍点)えらい(傍点終)ものはない――を目ざして絶えず考へ、勉強し、実行して行けはいゝのだと決心してゐました。」(伸子=野上弥生子)
おそらく、「えらく」なろうとすることは、当時の青年に一般的な「時代精神」であろう。一般の青年は、大臣や大将になることを「えらく」なると呼んだのだろうか。野上弥生子などの文学青年は、そうではなさそうだが。しかし、といって、その意味が明瞭だったとは言えない。
これもやや想像に属することだが、日露戦争に勝利した日本人は、そののち、やや弛緩した精神状態に陥ったらしい。西洋列強に伍するという明治維新以来の目的が達成されたからである。そのことは、1908.10.23に出された「戊申詔書」、また、自然主義文学の隆盛、そして石川啄木の「時代閉塞の状況」などに現われている。しかし、明治末年から大正にかけては、その弛緩した状態を脱して、何か新しい時代の空気というようなものが生まれていたらしい。それが、「成長」や「えらく」なる志向へと精神を導いたのだろう。正体の見えない雰囲気的なものでしかなかったにしても。
宮嶋資夫は次のように語っている。
宮嶋資夫「遍歴」:
「明治末期から大正へかけての時代の空気は、これとは全く違つてゐた。それを感ずるこちらの年齢や環境の故もあるかも知れないが、時代も全く暗くて重かつた。働くものはただ働いて、漸く息を吐いてゐただけである。光もなければ、目的もなかつた。周囲の状勢は何の変化もなく、よどんだままに移つて行く。人々はその重苦しい空気の中に、わづかに生きて死んで行くように私には思はれた。みんな変革を欲してゐたのである。然しどこにその端緒を見出すべきかを知らなかつた。澄んだ空気の中から出て来る嘆声が、オール・オア・ナッシングだつたのである。
私などもその時代の重圧にうめいてゐた一人だつたに違ひない。そして人夫や土方をして、重苦しい空気の中をうめき廻つてゐたのであるが、大杉等に接してから、にはかに光を浴びた気がしたのである。」
少なくとも、のち野上弥生子は、その「えらく」なることを捨てたらしい。おそらく、ほかの者もそうだろう。野上弥生子の長男、野上素一は次のように書いている。「私はしばしば母にいいきかされた。『偉い人にならなくてもよいから、正直なよい人になりなさい』と。」〈野上素一「書き直された読もの――私の育った家庭――」〉
辻潤と伊藤野枝がいつ肉体関係を持ったか、「ふもれすく」に描かれる徹底して昼夜の別なく情炎の中に浸ったのはいつかということははっきりしない。伊藤とのち夫婦になり、伊藤との恋愛から辻が女学校を辞めたなどというと、すぐにでも肉体関係が生じたように思ってしまいがちで、私もそう思っていたのだが(岩崎呉夫『炎の女』・瀬戸内寂聴〔晴美〕「美は乱調にあり」などもそのように描き、以降の本は全てそれを踏襲している)、はっきりしている訳ではない。
私は、前年譜(2007.5.31)では、伊藤野枝「出奔」の郷里に帰った伊藤に宛てた辻潤のラブレターは、再度郷里に帰った伊藤に宛てたものと考えて、昼夜の別なく情炎の中に浸ったのは11月の伊藤の再上京のあとだろうと考えたのだが、その考えを改めても、
情炎の中に浸った時期がはっきりしないことは同様である。
平塚らいてう「伊藤野枝さんの歩かれた道」によると、伊藤野枝から家出するための旅費を送ってほしいと頼まれ、辻潤の意見を聞き、辻は「何にせよよほど苦しんでいるらしい様子だし、まだ年も若いことであり、ああいう気象の女のことでもあり間違いでもあると困るからさっそく旅費を送ってやってはもらえまいか、上京後の彼女の一身上のことはむろん自分がすべて責任をもつ考えだから」と話したという。この辻潤の話しぶりは、恋人同士という感じではない。辻は、恋愛と「エジュケート」することの間で伊藤野枝との関係が揺れていたのではなかろうか。
辻潤の家
この1912年、辻潤がどこに住んだかに関しては、各年譜などに大きな混乱がある。主な推定資料を並べてみる。
- 「全集年譜」:6月に巣鴨区上駒込411番地にて、伊藤野枝と同棲。
- 「伊藤野枝年譜」:辻潤は、以前から巣鴨区上駒込411番地に住み、そこで伊藤野枝と同棲。
これは、伊藤野枝の旧全集『伊藤野枝全集』の「伊藤野枝小伝」や「年譜」を引き継いでいるもの。
- 「ふもれすく」
- 野上弥生子「彼女」
- 花園宥運「辻さんと私」
- 『青鞜』第4巻第7号の平塚らいてうの転居広告
- 平塚らいてう「伊藤野枝さんの歩かれた道」および『元始、女性は太陽であった』
『ダダイスト辻潤』p.15・『評伝 辻潤』p.72には、学校を辞めてから上駒込42番地に転居とある。これは、「四一一」を「四二」に誤読/誤記したものと判断する。上駒込42番地は、玉川信明の著作のほかには見出されないもので、ここでは無視する。
「全集年譜」では、それまでの辻潤の住所が巣鴨区上駒込840番地だから、6月に駒込411番地に引っ越したことになる。この根拠は不明だが、引っ越し自体はありそうなことである。上野高女の教師の職を失い、家賃の安い家に越すのは自然であるだろう。
しかし、この住所、巣鴨区上駒込411番地は間違いである可能性が高く、「全集年譜」・「伊藤野枝年譜」ともに間違っていると思われる。『青鞜の時代』pp.203-204 および「平塚らいてう年譜」によると、のち1914年6月、平塚らいてう・奥村博史が辻潤の家の近くに越して来るが、その住所が、同じく巣鴨区上駒込411番地である。『青鞜』第4巻第7号p.118に転居広告が載っていて、そこに、「府下巣鴨上駒込四一一/妙義神社前/平塚明/青鞜社」とある(奥付などにもある)。辻がかつて住んでいた家と平塚らいてうの家が同じ番地というのは、おそらく、おかしい。もし、平塚らいてうらが、かつて辻潤の住んでいた家、あるいはそのすぐ近くに越したというのなら、どこかにそのことが書かれていてもいいのではないか。1912年に辻潤の住んでいた家について妙義神社前という記述があってもいいのではないか。しかし、辻潤・伊藤野枝・平塚らいてうの誰もそういうことを記してはいない。従って、辻潤は上駒込411番地に住んだことはないと思われる。
「全集年譜」によると、上野高女教師時代の辻潤の住所は巣鴨区上駒込840である(花園宥運「辻さんと私」によれば、さらに上駒込799番地に移っていて、これが正しいと思われる)。これと「伊藤野枝年譜」を突き合わせるなら、1912年4月までの間に、辻潤は上駒込411番地に移ったことになる。しかし、上野高女教師時代の家は、辻潤のお気に入りの家であり〈「書斎」〉、そこから引っ越す理由はなく、上野高女の教師を辞職するまでずっと住み続けていたと考える方が自然であるだろう。
平塚らいてうは、この1912年に辻潤が染井から滝野川へ引越したことを書き残している。平塚だけが書いていることで、その点が不安だが(ただし、幾つかの文章に書いている)、辻潤・伊藤野枝ともに、この引越しについて特に書き残すべき理由もないようで、平塚だけが記録したことは納得できるものがある。平塚が染井の辻の家を尋ね歩いたというのだから、平塚の記憶にしっかりと残っただろうし、この年譜ではこれを採用する。
平塚らいてう「伊藤野枝さんの歩かれた道」:
平塚らいてうが、郷里に戻った伊藤野枝から家出したいので、旅費を送ってほしいという手紙を受け取って、
「何はともあれ、彼女が世話になっていたというその先生にまでこの事を知らせ、先生の彼女に対する、また彼女の今度の企てに対する意見を訊ねてみよう、そのうえでどうともしようと思いました。私はさっそくただ染井とだけ小耳にはさんでいたのをたよりに先生の家を訪ねに出かけました。染井じゅうたずねてやっと家は見当りましたけれど、肝心のその人はもう滝野川へ引越したというあとなのでした。すぐその足で引越先をたずねますと今度は不在とのことでやはり逢うことができません。私はやむをえず家人に用件を告げ、名刺を置いてその日は帰りました。その翌日でしたか、翌々日でしたかTというその人は私の家に訪ねて来ました。何にせよよほど苦しんでいるらしい様子だし、まだ年も若いことであり、ああいう気象の女のことでもあり間違いでもあると困るからさっそく旅費を送ってやってはもらえまいか、上京後の彼女の一身上のことはむろん自分がすべて責任をもつ考えだからということなので、こういう保護者があるのならばと私もある点安心してはじめてそのことを承諾しました。」
『わたくしの歩いた道』・『元始、女性は太陽であった』にも同様の記載がある。
伊藤野枝が平塚に最初に手紙を出したのが5月頃、平塚らいてう「青年辻潤氏」によると、その頃、辻潤が平塚らいてう宅を訪れて、それから伊藤が訪問している。その時、辻か伊藤が染井に住んでいると平塚に話したのだろう。それから平塚が訪ねたおそらく9月頃までの間に、辻は滝野川へ引越した訳である。
そして、そのあと、翌1913年6月までの間に、辻潤は再び染井に戻っている。『定本 伊藤野枝全集』第1巻 p.399「解題」によると、木村荘太の「牽引」に、伊藤野枝の住所が「市外上駒込染井三二九 辻方」とあるという。雑誌に発表する小説に実際の番地を書くものだろうかという気もするが、この番地は、当時の野上弥生子の住所、上駒込329番地〈「野上弥生子書簡」1914.8.22〉と一致し、これが1913年6月の辻一家の住所であると思われる。当時の住所は、同じ番地に数軒の家があることがあったということになるが、同じ囲いの中に数軒の家があったので例外的なのかもしれない(当時の新聞に「同番地」という記載が見られるので、ほかにもない訳ではない〈『時事新報』1901.9.19号〉。おそらく、そうしたことは普通のことだろう)。
辻潤が滝野川から染井に戻って来た時期は、平塚らいてうが訪ねた9月頃以後という以上のことは、はっきりしない。おそらく、伊藤が再上京することに関係していて、伊藤が再上京した11月頃までに、上駒込329番地に移ったのだろう。
これに傍証を与えるものに野上弥生子「彼女」がある。それによると、野上弥生子が伊藤野枝に初めて会ったのは、伊藤が野上の家に『青鞜』の用事で訪ねたからである。伊藤は近所に住んでいると言ったが、野上はそれがどこなのかは知らなかった。近所に「よくオルガンを弾いたり、尺八を吹いたり、歌ったり、男女の賑やかな笑い声を立てたりする一家族」の家があり、当時の上駒込388番地の野上弥生子の家とは、5、6軒ほど離れており、小路一つだけも隔たっていた。そこが伊藤の家であることを見つけたのは野上家の女中であった。
野上弥生子「彼女」によると、近所であるにもかかわらず野上弥生子が伊藤野枝の家がどこかを知るのに時間がかかったらしいことが分かる。そして、「 彼女が一人のお客様として初めて伸子の書斎に通ったのは、それからどの位い後であったか、伸子の記憶にはその間の時日の連絡が絶えています。」(伸子=野上弥生子)とあって、しばらく、伊藤に会わなかった期間があったことを示唆している。翌年1914年初め頃から4月初旬までの間に、伊藤野枝・辻潤の二人は、染井を離れ芝片門前町に暮らしていて、その間、染井とは疎遠になっていたからであろう(同時に野上の『青鞜』への寄稿がなかったからだろう)。書斎で会ってから、さらに3、4か月後に至って伊藤の妊娠を知ったようで、野上の書斎で初めて会ったというのは5、6月頃ということになる。その時の伊藤の家は、最初に会った時と同じであるらしい。こうして、野上弥生子「彼女」によれば、伊藤野枝が最初に野上弥生子の家を初めて訪れた頃は、染井に住んでいたと思われ、伊藤はしばらく芝片門前町に暮らしてから、染井の同じ家に戻って来たということは、かなり確実と思われる。
「ふもれすく」によると、翻訳中の『Man of Genius』を本郷の郁文堂に預けて落語を聴きに行ったことがあったが、染井の森から神田の立花亭のヒル席に出かけた、とある。『天才論』の翻訳は、ほぼ6月から9月の間だが、この頃、本箱も蔵書も殆ど売り尽していたというから9月頃だろう。この頃に染井にまた戻ったものだろう(「ふもれすく」には「なぜ落語などを聴きに行きたがったのか?」とあるが、何か伊藤野枝のことが関わっているかもしれない)。
住所に関して、もっとも確かなことは、1914年6月に平塚らいてう・奥村博史が引っ越した住所が巣鴨区上駒込411番地であること、それから1913年6月の辻一家の住所が上駒込329番地であること、その次に確かなのが、上野高女教師時代の辻潤の住所が上駒込799番地ということだろう。
この年譜では、上駒込799番地に住んでいたが、(5月頃から9月頃にかけて)滝野川に移り、9月から11月の間に上駒込329番地に移ったとする。転居は、家賃の滞納が原因とも考えられるが、滝野川に移ったのは、伊藤野枝が郷里に戻ったことに関係があり、再び染井に戻ったのは、伊藤野枝が再上京し一緒に住むことになったことが関係していると思われる。
野上弥生子「彼女」によると、巣鴨区上駒込329番地の辻潤の借家は平屋であったようである。1914年初夏、野上弥生子が辻の家のすぐうしろに越した家は二階家で、「廊下に立てば、彼女の家の中まで見下ろされ」る、とある(彼女=伊藤野枝)。平屋であったことは、木村艸太「魔の宴」からも窺える。
当時〔1912年以前〕の野上弥生子の家について、
湯浅芳子「野上彌生子礼讃」:
「駒込駅を見下ろす橋のたもとにあった足袋屋の二階六帖三帖を賄付きで借りて住んでいたときである。当時野上さん一家の住居はそこから十分とはかからぬ地点にあった。染井墓地に近い植木屋の離屋(はなれ)みたいな借家で、いきなり格子戸をあけてはいる家だったが、この家へ上りこんだ記憶はない。」
上駒込388番地の家であろう。
辻潤が上駒込411番地に住んだと記されることになった原因は『炎の女』であるだろう。
『炎の女』p.90には、「 そのころ辻潤は、前述したように母と妹のふたりを養いながら、巣鴨区上駒込四一一番地の、いわゆる "染井" の家に住まつていた。」と、この住所が示され、続けてp.91には、その家で「染井の森で僕は野枝さんと生まれて始めての熱烈な恋愛生活をやつたのだ」という辻の言葉を引いている。
さらに、『炎の女』pp.135-136には、平塚らいてうは、「野枝の家と道路ひとつ隔てた上駒込の妙義神社前の貸屋に引っ越した」「妙義神社前の野枝の家」とあり、「野枝の家の裏は、「疎らな生籬を一重隔てて」野上豊一郎、弥生子夫妻の住む家だった。」とある。
妙義神社前のらいてうの家が伊藤野枝の家と道路ひとつ隔たっていることは『元始、女性は太陽であった』にも確かにある。しかし、『炎の女』では伊藤の家もまた妙義神社前となっている。それなら、野上弥生子の家もまた妙義神社前であろう。だが、私は、野上弥生子と辻潤の家について妙義神社前であると記された文章を全く知らない。
平塚らいてうを訪問
伊藤野枝が平塚らいてうに宛てて最初の長い手紙を出した時期は、『元始、女性は太陽であった』p.403には晩春のころと思います、とあり、平塚らいてう「伊藤野枝さんの歩かれた道」でも晩春、最も発表の早い平塚らいてう「「動揺」に現われた野枝さん」では初夏、となっている。晩春とも初夏とも取れる時期ということで5月頃とする。
辻潤が平塚らいてうを訪問したことは、平塚らいてう「青年辻潤氏」にある。それ以前に伊藤野枝が一度ならず郷里から長い手紙で訴えていたとあるが、郷里からというのは平塚の無理もない早とちりで、伊藤の手紙に郷里の住所が書かれていたため、そこから投函された手紙だと思ってしまったものらしい。「青年辻潤氏」によれば、伊藤が何回か平塚に手紙を出し、それから辻潤が訪ねたことになる。
腑に落ちないのは、伊藤が最初の手紙で郷里の住所を記したのは、自分の素性を知らせる意味だったとしても、あとの手紙には自分が住んでいた辻家の住所を記さなかったのだろうかということである。平塚からの返事を期待しなかったのだろうか。平塚の記憶の混乱もあるかもしれないし、あるいは、辻・伊藤は、あとで直接訪ねるつもりだったからだろうか。どこか別の借家に越す話があって、辻の家の住所を書かなかったのだろうか。
平塚らいてう「青年辻潤氏」:
「 辻さんの最初の訪問をうけたのは明治四十五年だったと思う。もちろん教え子であり、愛人である野枝さんの身の上を案じてこられたので、野枝さん自身からもうそれ以前に、意に添わない結婚を強いられる苦悩を一度ならず郷里から長い長い手紙で訴えられていた。私は、辻さんの話で、あの野枝さんが、とうとう家出をして、女学校時代の先生であったこの人をたよってきたのだとすぐ察することができた。
「それは突然であなたもお困りでしょうね、しかしとにかく当分お宅に置いてあげて下さるでしょうね。」
辻さんと野枝さんとが女学校におけるいわゆる教員と女生徒間の恋愛の初歩的段階にあったこと、そのため辻さんは教職までなげ捨てて現に失業状態になっていられることなどその時ぜんぜん知らなかった私は(青年辻さんは初対面ではさすがにそれらのことには一言も触れなかった)未知の娘さんのことではあるが、私も悩ましい手紙を受け取っていた関係から野枝さんの家出事件に多少の責任を感じながらもこんなことを言って、辻さんの心配そうな蒼白な顔を見守ったものだった。
ともかくさっそく、一度野枝さんに逢うことを約してその時は別れた。」
スピノザについて
「辻潤書簡」167〔1944.3.5〕:
「スピノザの『エチカ』(倫理学)というのは僕の愛読書である筈だが、まだ一度も通読はしない。オレは幾何がよくわからんから、幾何学的に書いた哲学はムツカシイ。しかしなにがかいてあるかは分っている。オレの好きな哲学者の中でも一番オレに近い人物(本質的に)、外形はまったく反対。スピノザは生涯独身で、四十何歳かで死に(暗殺されたともいう)「神に酔った」といわれた「唯神論者」スピノザ――」
wikipediaには、ベンジャミン=デ=カッサースと
スピノザの関係について次のようにある。カッサースは、Samuel De Casseres の末裔で、その男はスピノザの末の妹ミリアムを妻にした。
辻潤がカッサースをいつ知ったのかは不明で、現時点では多少面白い偶然といったところ。
『天才論』の出版と佐藤政次郎
「おもうまま」には、佐藤政治郎に紹介され『天才論』の出版を予定していた本屋がつぶれたとあるが、「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻 p.459によると、「佐藤政治郎」は、上野高女の教頭の佐藤政次郎である。
佐藤政次郎は哲学館に在学中に、育成会に雇われ、『倫理学書解説』・『心理学書解説』・『教育学書解説』・『日本倫理彙編』の編集を手伝った〈「在寛・佐藤政次郎先生の人となり」・佐藤在寛「胸中往来」(12)〉。これらの本は国会図書館蔵書検索によって確認できる。のち、佐藤政次郎は『実験教授指針』を発行するが、佐藤政次郎と出版業者との関わりは広くはないと思われ、佐藤政次郎が紹介した出版社は、おそらく育成会と思われる。国会図書館蔵書検索によると、育成会は教育関係の本を中心にした出版業者で明治期には多くの本を出している。しかし、業績は悪化していったようで、大正期には、出版内容はやや教育関係から離れ、1913年に3冊、1914年に9冊出し、1915年に1冊出版して、これが最後になっている。
『天才論』が植竹書院から出版されたのが、1914年12月、出版されることになったのは、おそらく、その半年程前で、その時、育成会は倒産してはいなかった。だから、佐藤政治郎に紹介された本屋がつぶれて、『天才論』の出版ができなくなったのではなく、
『天才論』の翻訳がほぼ出来た1912年には、育成会の経営が悪化していて、育成会が『天才論』の出版に消極的になり、さらに断ったというのが事実ではないかと思われる。やや根拠薄弱だが、この年譜では、そのようにみなしておく。
『天才論』の翻訳と出版できないこと
『天才論』の訳は、およそ9月に終わったわけだが、固有名詞などはすべて原語のままにしていて、実際の出版では、それをカナ書きにすることにしたので、のちに原語の発音などを調べるなどの作業が必要となったようである。そんなには日時を要するものではなかったかもしれないが。
「きづいたこと(一般読者のために)」:
「○僕がこの書物を初めて訳した時は、横書きにして固有名詞などはすべて原語のままにしておいた。当時自分は出版してさえくれるところがあったならローマ字で書いてもいいと考えていた位である。しかしそれは空想だった。一体外国の固有名詞を日本の仮名で書くということはかなり無理な話だ。勿論両方書いておくにこしたことはないが、この書のように沢山の固有名詞が出てくる書物の場合ではあまり煩雑である。で、自分は主なる人名の原語は索引の方に譲って、本文中のはすべて仮名ばかりを用いることにした。
○人名の発音についてはかなり閉口した。しかし僕としては辞書に頼る個別に方法はない。けれど辞書を探してもないのがある。僕はこの場合仕方がないから独断的に読んでおいた。辞書はリピンコットの人名辞典、ウェブスター大辞典、チェンバー人名辞典等を参照した。また地名の発音はネルソン百科辞典第二十五巻の地名索引で間に合わせておいたことを念のためお断りしておく。」
そのほか、何人かの協力を得たことは、「おもうことに」書いてある。「初めて訳した時」とあるのは、この年の秋のことだろう。前年の可能性もいくらかあるが。
「おもうまま」:
出版社がつぶれて、「それからというものはこの僕の原稿も出来るだけの侮辱と虐待とを受けて訳者と一緒に浮浪生活を送った。そのうち僕はこのいじらしいパンの種にいつまでもこびりついてはいられず、日々の生活に追われて色々なジョッブに従事した。」「機を見ては色々の人の手を煩わして色々のところに周旋してもらったが、いつも僕が無名なのと原著者があまり本屋さんの耳に入っていないのとで拒絶された。」本屋はきまって大家の序文をつけることを条件に持ち出した。ようやく然るべき大家に伝を求めて、序文を書いてもらうことにした。その大家も早速心よく引き受けたが、簡単には書かず、どこか出版でもするという書店があればすぐにも書くという。「けれどそれでは実のところなんにもならないので、僕の方では序文でもあれば本屋に対して幾分か「虎の威を借る狐」という格で相談もしやすいものをというような、卑劣な了簡まで起こしてみたが、結局それも駄目になった。そしてこの虐げられた原稿はとうとう抵当にまで入った。僕はまったく絶望した。しかしこれは畢竟イソップ物語にもある通り、人手ばかりに依頼して自分自身努力しない結果だと信じたので、友人や先輩の紹介をもらって自分で出かけてみたが、やはり結果はいつも同様だった。」
伊藤野枝の再帰郷
いつ伊藤野枝が自身の結婚問題を解決するため帰郷したかについては、平塚らいてうの書くところでは、伊藤が平塚に会った時に、帰郷すると話したようでもある。それから間もなく、帰郷したとすれば、5、6月ということになる。
しかし、伊藤野枝の入社の記事が載ったのが『青鞜』10月号だから、郷里の伊藤野枝から家出するための旅費を送ってほしいという手紙が平塚のもとへ来たのは9月頃。それから逆算すれば、8月頃、伊藤は帰郷したことになる。
伊藤野枝「動揺」には、七月の末に帰郷とある。
この年、7月29日(発表では7月30日)に睦仁〔明治天皇〕が死去した。帰郷のことは、このことと一緒に記憶に残った筈で、従って、かなり確かなものと思われる。
『炎の女』pp.86-87では、平塚が伊藤からの最初の手紙を受け取ったのが7月で、7月末に伊藤が帰郷、「伊藤野枝年譜」では7月下旬に伊藤が帰郷。
伊藤野枝「動揺」:
「その苦しいなかにゐて私はたゞその事件の解決を待つたのです。けれども六月になつても七月になっても駄目なのです。七月の末になつて私は仕方がありませんから自身かへつて解決して来やうと思つてまた帰つたのです。」
伊藤野枝の再上京
伊藤野枝がいつ再上京したかは、はっきりしない点がある。『青鞜の時代』p.126によると、11月に伊藤野枝は、再度、家出し、上京。「伊藤野枝年譜」では、9月末に伊藤野枝、再上京となっている。
これは、伊藤野枝・平塚らいてうの書いたものの中に9月と11月という2つの月が出ているからである。
『元始、女性は太陽であった』p.407:
「 野枝さんが再度上京したのは九月ごろであったかと思います。十月ころには編集室に、生きいきした、いつも生命力にあふれるような姿を見せるようになり、紅吉、哥津、野枝の三人は、三羽烏といった格好で、社内を賑わすようになりました。なにがおもしろいのか、三人寄ればキャッキャッと笑い声が上がり、哥津ちゃんも野枝さんも、紅吉のふっくらした大きな手で背中をよくぶたれていたものです。
野枝さんの生活について、青鞜社がなんらかの助力をしなければならないとは考えましたが、編集の手伝いをしてもらって、十円ほどのお小遣を上げるのが、当時の青鞜社ではやっとのことでした。発刊以来経営の責任をもっていた保持さんに、野枝さんに上げる額をもう少し殖やしてほしいと頼んで、怒られたことがありました。」
紅吉について、
『元始、女性は太陽であった』p.411:
「紅吉は一応十月かぎりで編集室から姿を消すことになりました。むろんそのまま引込むはずはなく、それから後も相変わらず、編集室やわたくしの部屋にも姿を見せ、みんなの邪魔をしたり、また少しは手伝ったりしたのでした。」
伊藤が平塚らいてうに上京費を送るよう手紙を出し、平塚は割とすぐに上京費を送ったのだろうし、『青鞜』10月号に入社の記事があるから、「伊藤野枝年譜」の9月末の上京はいかにもありそうである。9月末の上京は『炎の女』p.89にもある。「伊藤野枝年譜」は、あるいはこれを採ったのだろうか。
しかし、『青鞜』11月号に掲載された伊藤野枝の詩「東の渚」の末尾に「東の磯の渚にて、一〇、三」とあり、10月3日に今宿の浜で書かれたようにみえる。が、絶対確実とはいう訳ではない。
伊藤野枝「動揺」に、再上京について「私は到底たゞでは打ち勝てないと思ひましたのでとう/\周囲を欺いて安神させて油断を見て再び上京しました。去年の十一月なのです。」とある。当事者の比較的早い発表であり、「動揺」は(比較的)事実そのままを描いていると思われるから、この月を疑う必要はないと思われる。伊藤野枝「雑音」にも「私が青鞜社に入社するやうになり内部で平塚氏の手伝ひをするやうになつたのは大正元年の十一月からでした。
」とあり、伊藤の書く内容は一貫している。
11月という日付は伊藤野枝が書いたものにしかないので、その点が不安だが、9月ではなかったことを窺わせるものはほかにもある。それは、『元始、女性は太陽であった』p.397に、10月17日に鶯谷の「伊香保」で『青鞜』一周年の記念の集りがあったと記され、p.398には「 この日集まった賛助員、社員の顔ぶれについては記憶が薄れています」とあるものの、伊藤野枝が、その会に出たという記載はないのである。伊藤が9月に上京し、青鞜社員になったというなら、平塚がその会でほかの社員などに伊藤を紹介するのが自然であろう。また、記憶が薄れているとは言うが、「ここで神近市子さん、瀬沼夏葉さん、生田花世さんらに、はじめてお会いしたように思います。」とある。『神近市子自伝』p.148によると、伊藤野枝は平塚から旅費をもらって上京し、その挨拶に平塚を訪れ、平塚の部屋で初めて神近市子に会っている。伊藤が再上京したのが11月というなら、これらのことが、よく整合してくる。
『元始、女性は太陽であった』の平塚らいてうの記述は、随分日がたってからの記憶、というより、『炎の女』などを読んだ上での記述だろう。その影響のない「伊藤野枝さんの歩かれた道」では、
平塚らいてう「伊藤野枝さんの歩かれた道」:
「 こうして野枝さんが再度上京してT氏との相愛生活を始められたのはもう秋の中ごろであったかと憶えております。」
11月上旬なら秋の中ごろと言ってよいであろうから、伊藤野枝が上京したのは11月上旬ということになろうかと思われる。
平塚らいてうが上京費を送る
『元始、女性は太陽であった』p.406:
「 わたくしは俄にこの手紙に圧迫を感じ、捨ててはおけないという思いにかられました。しかしまず先に彼女が世話になっていたという辻さんの意見をたずねてみなければと思い、さっそく染井とだけ小耳にはさんでいた辻潤さんのお住居をたずねました。染井じゅうたずねてやっと家は見当りましたが、辻さんはもう滝野川へ引越したということでした。すぐその足で引越先へ廻ってみると、こんどは不在で会えません。やむなくその日は家人に用件を告げ名刺を置いて帰ったところ、その翌日あたりに、辻さんの来訪を受けました。辻さんは、野枝さんの上京後のことは自分が責任をもっということでしたから、こういう保護者があればとわたくしも安心して、自分のポケットマネーから旅費を送ることにしました。」
伊藤野枝が、平塚らいてうに上京費を送るよう手紙を出したことはちょっとした疑問点を含んでいる。
辻と伊藤が恋愛関係にあったというのなら、丁度、伊藤の最初の「出奔」で学校側が辻と伊藤が示し合わせていたのではないかと疑ったように、辻と伊藤が示し合わせて平塚から旅費をまきあげたという印象さえ与えるだろう。伊藤が辻の恋人だというのなら、辻が旅費を出すのが当然だし、いくら辻が貧しくても旅費ぐらい捻出できない訳でもないだろうに、と。教師を辞めた辻は経済的に苦しく旅費をたやすく出せないと知って、伊藤が平塚に頼んだと考えるのが適切かもしれない。
伊藤野枝の文才は誰もが認めている。伊藤の手紙を読み伊藤に会って平塚らいてうもまた伊藤にある種の才能があることを認めただろう。といって、青鞜社は駈込寺ではない。自分の気に入らない結婚を強いられる娘は当時いくらでもいた。平塚は、おいそれと、それに応じる訳にはいかないというものである〈平塚らいてう「伊藤野枝さんの歩かれた道」〉。辻潤に会って、東京の身元保証人を確かめ、伊藤とも文通して、青鞜社員になってもらい、編集などを手伝ってもらうことにしたのだろう。伊藤が青鞜社員であれば、平塚が伊藤を助ける「名分」が立つことになるだろう。このようなことが決まって、『青鞜』10月号に伊藤の入社の記事があるのだから、およそ9月下旬には平塚は伊藤に上京費を送ったものと思われる。伊藤の上京が11月とそれから約1月後になったのは、伊藤の体調が悪く、あるいは問題がどうなるか様子を見ていたから、または家出のチャンスがなかったからなのだろうか。
『神近市子自伝』p.148によると、伊藤野枝は平塚から5円の旅費をもらって上京したという。伊藤はその挨拶に平塚を訪れ、平塚の部屋で初めて神近市子に会っている。
辻潤と伊藤野枝の恋愛生活
伊藤野枝「雑音」二四に「 私の親戚という親戚は、皆私の身辺を監視していた。私の卒業――帰郷――出奔、同時に婚約破棄――そうした混雑の後に、再び、狭い定見しかない田舎の口うるさいところに、習俗に生きていかねばならぬ父――叔父――叔母達――と争わなければならなかった。」とある。これを読むと、伊藤野枝の最初の出奔で、婚約破棄は簡単に決まったものらしい。末松家では、早く嫁を伴ってアメリカに帰りたいのだろうが、嫁候補はいくらでもいるだろうし、結婚がいやという娘を無理にも嫁に迎える理由はない。末松家側にすればそれが当然というものだろう。末松との結婚そのものについては、最初の出奔で決着したようなものだったと思われる。あとは、末松家が払っていた伊藤の学費の問題などが残ったのだろう。伊藤家の側では、末松家が別の嫁候補を探し出す前に、何とか伊藤野枝を翻意させ、あわよくば嫁として送りこみたいと思い、と同時に伊藤が勝手なことをしないよう監視していた、という訳だろう。しかし、伊藤にしてみれば、このままでは親達が勝手に定めた別の男との結婚を強いられるだけだということであったのだろう。おそらく、高等女学校卒業という学歴も嫁という「商品」のオマケのように扱われていたのだったろう。
平塚は、伊藤が辻潤との恋愛関係を打ち明けなかったのは、「彼女の羞恥心が、否彼女の自尊心が(T氏に対する愛のためばかりにああしたことをすると他人から思われることの不本意さから)愛を口外しなかったのでしょう」〈平塚らいてう「伊藤野枝さんの歩かれた道」〉と好意的に解釈しているが(恋愛のことを他人に話さないのは伊藤の習性らしい)、伊藤の書いたものだけを読めば、辻と伊藤の行動に釈然としないものが残ることになり、平塚もこの点はややぐずぐずと書くことになったようである。
しかし、実際は辻潤が平塚らいてうに初めて会った時などには、伊藤を「成長」させることなどに重きが置かれていたので、恋愛関係のことなどを話さなかったのかもしれない。平塚らいてうが「青年辻潤氏」で、初めて辻潤に会った時、辻と伊藤野枝は恋愛の初期段階にあったと述べているのは、慎重な平塚らしく、まず正しいと思われる。
伊藤野枝「惑ひ」三〔『新日本』〕:
辻潤が教師を辞職し、
「けれど、彼一家の窮乏は目前に迫つてゐた。彼には母親や弟妹があつた。しかし、彼の処置に対して不平を云ふ者はなかつた。それは一緒にゐる逸子への遠慮も多少は手伝つてゐたに相違なかつた。
それを思ふと逸子は辛らかつた。彼女はせめて、この一家の為めに出来る限りの助けにならうと思つた。彼の家族との本当に近い交渉に這入(はい)る、それが動機になつたのだ。そして、その頃から谷との間の交渉も、明瞭に彼女の意識にのぼつてきたのだ。
両親と、彼女の折り合ひは容易につかなかつた。遂々(とうとう)、また彼女は再び、自身で直接に事の結末をつける為めに帰郷した。長い苦しみの後にも、その解決はつかなかつた。彼女は幾度も、絶望の果てに死なうとも思ひ、また両親の意に従はうかとも思つた。此の間の彼女と両親の争ひは、彼女の肉を一切づゝ、そいで行くやうな苦しみを彼女に与へたのであつた。しかし、彼女が其処から切りぬける事が出来たのは、すでにはつきり目覚めてゐた谷に対する恋愛の熱情に救ひ出されたのであつた。同時にまた、彼女の何にも知らない頭に、無条件で滲み込んだ、極端な個人主義的思想が、彼女の行為に力強い承認を与へたのであつた。
彼女が再び両親の家から逃れ出て、谷の許に駆け込んだ時から、二人は本当に離れがたい関係の中にゐた。そうして逸子には、その苦しい闘争の中から自分を救ひ出した恋愛が、どんなに偉大なものに見えたであらう?」
(谷=辻潤、逸子=伊藤野枝)
『元始、女性は太陽であった』p.407:
「野枝さんもまた辻さんのことをいうのに、「先生がああいった、こういった」としかいわず、お子さんが出来てからやっと、「辻」という呼び方をするようになったのでした。」
オルガン
野上弥生子「彼女」によると、辻潤の家では辻美津の三味線・辻潤の尺八のほかオルガンが鳴っていたという。小説的潤色だろうか、それとも、実際にオルガンがあったのだろうか。辻が比較的高価な筈のオルガンを持っていたとは考えにくい。『ダダイスト辻潤』によると、辻恒の夫が小学校教師というから、恒の夫の関係で持っていたのだろうか。ただし、野上弥生子の「彼女」・「野枝さんのこと」や伊藤野枝「雑音」によると、野上は辻の家に行って、家の中まで見ることはなかったようで、実際に鳴っていたのがアコーディオンであったとしても、オルガンの音となかなか区別はできないだろう。
辻一家と伊藤野枝
伊藤野枝「雑音」二四:
「私の肉親はことごとく私を捨てた日に、良人の肉親の人々は快よく私を容れてくれたのだ。」「ともすれば私は、小さく肩をすぼめて片隅に涙を拭かねばならぬ日があった。私達二人の恋愛が成立った日から良人は失職した。それにつれての窮迫は言外であった。しかし、飽くまで息子を信じた母は黙って堪えた。けれどもいよいよひしひし迫ってくる時、ともすると引締めた心も弛みが出て来るようになった。重しがゆるむと、日頃の不平が総ての支えをおし退けて洪水のように押し寄せてくるのであった。」「私と彼の家族の間の悲しいこだわりに黙して理不尽な人々のいい募りにも、敢えてどうと一口さしはさむ事をしない彼が、物足りなく味気なく思える事が度々であった。彼は家族の前に私をかばうという態度を決して見せなかった。」
スティルナー『唯一者とその所有』
『浮浪漫語』中の「Me'langes」中に、10年前にスティルナーを読んだとあるが、約10年を10年と書いた可能性もある。
辻潤は、この年または翌年に『唯一者とその所有』を読み始めるようになった〈「自分だけの世界」・『世界大思想全集』29〔春秋社、1928.6〕収録の「唯一者とその所有」の「はしがき」〉。
『ダダイスト辻潤』pp.91-92は、木村荘太と伊藤野枝の恋愛事件の時の辻潤の言葉がスティナーの言葉と同じ発想だといっている。そうかもしれないが、辻の言葉は、個人主義者であれば、言いそうなものでもある。それは、既に辻が『唯一者とその所有』を読んでいたことを示すものではない。
佐々木靖章は、辻潤が『唯一者とその所有』を読むようになったのは『近代思想』の大杉栄の記事が契機か、と書いている〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.300〉。そうかもしれない。翌1913年7月、木村荘太のところに行った時、『唯一者とその所有』を熱心に読んでいたという〈木村艸太「魔の宴」〉。大杉の記事で興味を抱き、木村の家で初めて目を通したことも考えられる。『ダダイスト辻潤』p.91によれば、スティナーを1910年の久津見蕨村『無政府主義』で知ったとあるが、これはあとから知った可能性もあるだろう。
辻潤は、『唯一者とその所有』を読むに至った経緯を記していないが、これは辻にしてはやや異例のことに属する。大杉栄にしろ木村荘太にしろ、辻は触れたくはないだろう。それで記さなかったのかもしれない。
辻潤は大杉栄らの『近代思想』をその創刊号から読んでいた可能性が高い。伊藤野枝「転機」五に、「山岡が二三年前に創めた「K」雑誌」「そのうすっぺらな創刊号を手にした」(山岡=大杉栄)とある。辻潤が買って読み、それが家に置いてあって、それを伊藤が手にしたと思われる。
『ダダイスト辻潤』p.90:
「「当時の文壇思想界は個人主義全盛の時代であった。自己完成、何によりも先ず自己の生命が充実、周囲との没交渉、殊に自己を煩わし、若しくは害さんとする周囲からの逃避、静かな内省と観照。これが当時の個人主義者の理論であり又実際であった。」(『死灰の中から』)」
「 辻潤がシュティルナーにとりつかれた背景はこれであった。しかも、大正四年秋から岩波書店が「哲学叢書」十二巻をもって「哲学書」ブームをつくりだしたので、辻潤もその刺激を受けていた(この哲学ブームは実際大変なもので、速水滉(はやみひろし)の『論理学』などは大正末までに七万五千部を売り切り、十二巻分の用紙が第二、三巻でなくなるという勢いを示した。戦前の哲学上の名著といわれるものはたいていこの時期に出ている)。」
私はこの時代のことをよく知らないので、そうですか、というしかないが、殊に「文学者」が思想・哲学に関心を持つのは一貫しているのではないか。1915年秋からの「哲学書」ブームで、どれだけ辻潤がその刺激を受けたのか。辻は、そんなことは書いていない。生活のために自分を殺して教師の仕事を続けてきて、その仕事をなげすてた辻は、新たな生き方というものを模索していた筈、そのことをいうだけで十分ではないか、とも思えた。
しかし、辻潤が如何に自分というものを貫いているかのように見えて、実はその環境の影響を強く受けている。環境と辻個人というものの様相・関係を知るために、あるいは玉川新明の指摘は大切であるのかもしれない。
「ヘーゲル左派日本語文献目録」に、大杉栄の「マクス・スティルナー論」は、『近代思想』の第1巻第12号に発表とあるのは、12月号だろう。
池田ふみ
池田ふみの訪問時期は不明。まことはまだ生まれていなかったようである。この年か翌年。ここに入れておく。
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滝野川(たきのがわ)村:1889〜1913年の村名。1889年、西ヶ原・上中里・中里・田端・下十条・滝野川の6ヶ村を合併して北豊島郡=滝野川村とする。1913年、滝野川町。〈「滝野川」『角川地名大辞典 13 東京』〉
1912.2 土岐善麿『黄昏に』東雲堂書店。〈『日本近代文学年表』〉
1912.3.15〜3.31 高村光太郎、上野竹の台陳列館で催された美術新報社主催第3回美術展覧会に、洋画家の日本画として半折「無題」2点を出品。〈「高村光太郎年譜」〉
1912.4 自由劇場、第6回試演。〈「小山内薫」『日本近代文学大事典』〉
1912.4.18 『青鞜』第2巻第4号〔小説特集号〕、発禁。「青鞜四月号(小説号)は去る十八日の夜、出版法第十九条違反により発売を禁止されました」〈「編輯室より」『青鞜』第2巻第5号〉。「押収」は同号の売れた後だったから、経済的な損失はなかった。〈『元始、女性は太陽であった』pp.357,..、『青鞜の時代』p.104〉
1912.6 石川啄木『悲しき玩具』東雲堂書店。〈『日本近代文学年表』〉
1912.夏 《『青鞜』の発行を東雲堂にまかせ》『青鞜』の発行部数2,000部ほど。〈『元始、女性は太陽であった』p.505・『青鞜の時代』p.188〉
1912.9.13 睦仁〔明治天皇〕の「大葬」。
1912.9.13〜9.15 公立学校で授業停止。〈「宮沢賢治年譜」『校本 宮澤賢治全集』第14巻 pp.453,406〉
1912.9 岩野泡鳴、友人の高橋久四郎に依頼してあった、別居中の妻、幸との協議離婚が成立。〈「岩野泡鳴年譜」〉
1912.9 『奇蹟』、創刊。文芸誌、舟木重雄・広津和郎、ら。〔〜1913.2〕。早稲田大学在学中の舟木重雄、相馬泰三らの同人雑誌『稲風』を母胎に、広津和郎・葛西善蔵らと創刊。編輯兼発行人:舟木重雄。〈『日本近代文学年表』pp.91,..〉
1912.9 広津和郎、舟木重雄・光用穆(みつもちきよし)・相馬泰三・葛西善蔵・峯岸幸作らと同人雑誌『奇蹟』を創刊。〔のち、途中から谷崎精二が同人に加わる。1913.5 『奇蹟』、廃刊。〕〈「広津和郎年譜」〉
※新早稲田派の同人誌。〈『座談会 大正文学史』の広告〉〈『本の手帖』第5巻第4号 No.44〉
※辻潤の「生田長江氏のことなど」によると、『奇蹟』は、広津・相馬・鈴木〔悦〕・秋葉などという人達の同人雑誌、植竹書院から発行というが、『奇蹟』は植竹書院とは直接の関係はないかもしれない。
広津和郎「「神経病時代」を書くまで」:
「『奇蹟』は舟木重雄を中心とし、葛西善蔵、相馬泰三、谷崎精二、光用穆、峯岸幸作、私などが同人であった。」「 その頃植竹という本屋があり、そこに「戦争と平和」を飜訳する編輯所があった。鈴木悦、相馬泰三、秋庭俊彦、萩原庫吉等が分担して、英語訳から重訳するのである。その前に学校生活を了えると毎夕新聞社に半年程いて、急にそこを辞職した私は、その飜訳のメンバーに入れて貰った。」
1912.9 野上弥生子「京之助の居睡」『青鞜』第2巻第9号(紀念号)。9.1発行。〈「後記」『野上彌生子全集』第2巻〉
1912.10 大杉栄・荒畑寒村ら、『近代思想』を創刊。〔〜1914.9〕〈『日本近代文学年表』〉
1912.10 野上弥生子、訳「近代人の告白 ――ミユッセェ――」『青鞜』第2巻第10号。10.1発行。〈「後記」『野上彌生子全集』第U期 第18巻〉
1912.10.17 鶯谷の「伊香保」〔会席料理で名の通っていた〕で『青鞜』一周年の記念の集り。〈『元始、女性は太陽であった』p.397〉
1912.11 『ヒユウザン』、創刊。美術・文芸誌。高村光太郎、岸田劉生ら。〔〜1913.6〕〈『日本近代文学年表』〉
1912.11 野上弥生子、訳「近代人の告白(つゞき)―アルフレッド・ド・ミユッセエ―」『青鞜』第2巻第11号。11.1発行。〈「後記」『野上彌生子全集』第U期 第18巻〉
1912.12 牧野静「日記より」『青鞜』第2巻第12号。〔目次に「野枝」〕〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第1巻〉
1912.12 野上弥生子、訳「近代人の告白(つづき)―アルフレッド・ド・ミユッセヱ―」『青鞜』第2巻第12号。12.1発行。〈「後記」『野上彌生子全集』第U期 第18巻〉
1912.12 大杉栄「マクス・スティルナー論」『近代思想』第1巻第3号。〈「全集年譜」〉
1912 渡辺政太郎、石川三四郎・福田英子を通じて足尾鉱毒問題に関心を深め、田中正造の熱心な支援者となる。〈「渡辺政太郎年譜」〉
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1913 大正2
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2.11 伊藤野枝と末松福太郎との協議離婚が成立。〈「伊藤野枝年譜」〉
2.15 青鞜の第1回公開講演会が神田区美土代(みとしろ)町の基督教青年会館で開かれ、伊藤野枝も壇上に立つ。伊藤野枝の演題は「最近の感想」。〈『東京日日新聞』1913.2.16号・「伊藤野枝年譜」〉「 プログラムは保持研の「本社の精神とその事業及び将来の目的」、伊藤野枝の「最近の感想」、生田長江の「新しい女を論ず」、岩野泡鳴の「男のする要求」、馬場孤蝶の「婦人のために」、岩野清の「思想上の独立と経済上の独立」、沢田柳吉の音楽、らいてうの閉会の辞。」〈『青鞜の時代』p.158〉
この頃、辻潤・伊藤野枝の二人は芝区片門前のある家の二階を借りて住む。〈伊藤野枝「雑音」二五〉 芝区片門前(かたもんぜん):のち港区大門2丁目と芝公園2丁目の一部のあたり。〈「伊藤野枝年譜」〉
4.初旬 辻潤・伊藤野枝の二人は染井に帰る。〈伊藤野枝「雑音」三五〉
6.8 『青鞜』紙上の伊藤野枝の文章を読み興味を抱いた木村荘太〔本名:しょうた〕が野枝に面会を求める手紙を書く。〈木村艸太「魔の宴」・伊藤野枝「動揺」〉
木村荘太は、伊藤野枝が辻潤と同棲し、妊娠していることを知らなかった。伊藤は辻と相談し、同棲のことも木村に知らせたのだが、伊藤野枝の気持ちが木村の方に揺れ、辻は「苦しくてたまらないのだ。」と話すようになる。最終的に伊藤が辻を選び、そのことを木村に告げたのが7月1日。へんな噂になるのを避けるために、木村・伊藤は、この件を小説にして発表することにする。〈木村艸太「魔の宴」・伊藤野枝「動揺」〉
伊藤野枝が『青鞜』第3巻8号に「動揺」を、木村荘太が『生活』に「牽引」を発表。
〔木村艸太「魔の宴」などによると、この事件が辻潤が公にその存在を示した最初であった。伊藤野枝の名が有名になるにつれて、辻の方は無能の役立たずというような評判が広がって行った。伊藤野枝「偶感二三」には「 私が私の良人よりも多く名を知られてゐると云ふことの為めに私達の関係について屡々(しばしば)侮辱が加へられる。」「良人には何時も軽い侮辱の影が投げられてある。」とある。「ふもれすく」には、「 野枝さんのような天才が僕のような男と同棲して、その天分を充分に延ばすことの出来ないのははなはだケシカランというような世論がいつの間にか僕らの周囲に出来あがっていた。」とある。〕
9.20 21:00PM〈「編輯室より」『青鞜』第3巻第10号〉、伊藤野枝、上駒込329番地の自宅で男子を産む。辻潤の長男、一(まこと)。〈『青鞜の時代』p.188・「伊藤野枝年譜」・野上弥生子「彼女」・伊藤野枝「乞食の名誉」・伊藤野枝「動揺」〉〔辻一は、以下「辻まこと」と記す。〕
この頃、一家は、母の美津・辻潤夫婦とまこと・妹の恒夫婦。〈野上弥生子「野枝さんのこと」〉
この頃から、伊藤野枝は、野上弥生子と親しくなり、低い茨の垣根を挟んで、野上はその頃翻訳していたソーニャ=コヴァレフスカヤの自叙伝などのことを話したり、伊藤は青鞜社・女学校などの話をする。〈野上弥生子「野枝さんのこと」〉
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5月 「恋愛と道徳」エレン=ケイ作『青鞜』第3巻第5号。
※伊藤野枝の名で発表
〈『元始、女性は太陽であった』p.493〉
つじじゆん、訳「ルバイヤツト」『朱欒(ザンボア)』第3巻5号。1913.5。
※「(つづく)」とあるが、「『朱欒』は本号が最終号であり、「ルバイヤツト」の続編は活字にならなかったのではないかと思われる。」
〈『虚無思想研究』第6号 辻潤全集未収録作品(三)〉
1913.5〜 「響の影」マッコア作『青鞜』第3巻第5号〜第7号、第9号〜第10号。
※伊藤野枝の名で発表
「楽のかがみ」全体にわたって字句を直し、表現を変えている。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.292-293・『元始、女性は太陽であった』pp.493-494〉
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伊藤野枝の離婚
「伊藤野枝年譜」の伊藤野枝と末松福太郎との協議離婚の日付は、『炎の女』p.90によると思われる。戸籍謄本によればとして、協議離婚の届出日を記している。伊藤家の戸籍謄本の筈だが明記はない。
芝区片門前のある家
伊藤野枝「雑音」二五:
「 その頃私達二人はいろいろな事から芝のさる家の二階を借りて住んでいた。その頃はさらに私の上にはいろいろな圧迫がますます重味を加えた。私達は毎日のように辛うじて生きてゆくというばかりの困り方であった。そうしてちょうど私は悪疽のために不快な日ばかりが続いた。私は暗い惨めな生活の中にも、私を理解してくれる平塚さん、岩野さん、哥津ちゃん、それから保持さんといったような人達に取りまかれているのが、唯一つの私の慰めであった。そうして私達はさらに、窮迫に陥る程、いよいよ良人との結合を固くすることも一つの喜びであった。
ちょうどその頃、講演会以後受ける不当な圧迫に、私達の心は憤りに満ちていた。」
「 桜の咲く頃になると私の体はよほど気持がよくなった。ある日、私は目黒に岩野さんをお訪ねしようと思って片門前の家を出た。」
伊藤野枝「雑音」三五:
「 私達の芝での生活は四月の初旬に終わりました。
」
芝区片門前に暮らした理由は分からないが、この頃、妹の恒が結婚したようで、それと関係があるかもしれない。染井の家は2間のようで新婚夫婦2組を含めた5人が暮らすには不都合で手狭ということだったのではないか。
伊藤野枝と木村荘太
伊藤野枝と木村荘太のやりとりなどのもう少し詳しい様子を示しておく。誰かが出した手紙を相手がいつ受け取ったのかなどが分かりにくい。1911年また1919年頃は、郵便は朝出せばその日の午後着いた〈『無想庵物語』pp.103,162〉という。無論、市内に限ってのことだろうが。ここでは、それらしくないところもある。
1883年、東京市内では1日19回の配達をおこなうようにする。郵便量の増加とともに回数が減るが、明治時代には最高12回の配達を保つ。〈『郵政百年のあゆみ』pp.53-55〉
6.8 日『青鞜』紙上の伊藤野枝の文章を読み興味を抱いた木村荘太が伊藤に面会を求める手紙を書く。
6.13 金 伊藤は木村の手紙を受け取る。伊藤は手紙を辻に見せる。辻は返事を書かなきゃいけないとすすめる。
6.14 土 伊藤は返事を書き、辻に見せて投函。
6.17 火 夜、木村は、伊藤からの返事を受けて、6月26日、印刷所文祥堂を訪ねると書き、木村の拠る雑誌『フェーザン(?)』と共に送る。
6.23 月 朝、伊藤は今月は校正を早く切り上げるから26日まで掛からないかもしれないという木村宛ての葉書を辻に頼んで、文祥堂に行く。昼過ぎ、木村から電話があり、これから行くと告げられる。15:00頃、木村が印刷所で校正作業中の伊藤を訪れる。伊藤が巣鴨小学校教師の後藤清一郎と同棲していると『中央新聞』に書かれたが、伊藤はこの時それを否定。木村は、その後、伊藤に手紙をだし、さらにもう1通の手紙を書く。25日まで5通の手紙を送る。
6.24 火 朝、伊藤は辻が出かけた後、木村からの手紙を受け取り、辻と同棲していること、それにいたった事情を書いた手紙を書く。木村からの手紙が来る。家を出て帰ると、辻が伊藤の手紙を読んでいて、何ともいえない険しい、苦しそうな表情を見せる。紙と鉛筆をもって、「怒ってるんですか」と伊藤が訊くと「僕はなにも別に怒ってはいない。木村氏の手紙は皆気持がいい。ただおまえの昨日の態度の明瞭でなかったのが遺憾だ」と書かれていた。
6.25 水 朝、伊藤に木村からの手紙が来る。帰宅してさらに手紙を受け取る。伊藤は、先に書いた文章とは別にとり乱した心情を表わす手紙を書く。
6.26 木 伊藤は二つの手紙を投函。校正から帰ってさらに木村からの手紙を受ける。木村は、伊藤からの返事を受けてこの恋愛からしりぞくという返事を送り、その夜さらに伊藤と辻宛に自分の気持を述べた手紙を書いて投函。
6.27 金 朝、伊藤、木村からの返事を受け取る。その後、もう一度お目にかかることができれば、気持ちがしずまるかもしれないという手紙を書いて出す。
6.28 土 朝、辻は夕方から南盟倶楽部にある音楽会に来るようにと切符をおいて出かける。伊藤、木村からの手紙を受け取る。
木村は伊藤からの手紙を受け取り、29日か30日に来てくれるよう返事を書き送るが、この手紙は伊藤には届かなかった。
辻は、木村の手紙を読んだ後、自分に見せない手紙を木村に出したかと問うが、伊藤は返事をごまかす。
6.29 日 辻と伊藤で書いた手紙を入れた袋を伊藤が持ち出すと、いやがって片附けろ片附けろといった辻が、今度の事件が起こると持ち出してきては拾い読みしたりしているのを、伊藤は勝ちほこったような気持でながめる。
午前に、人が来て、それとなく母がその人のうちに行っている事をほのめかしながら、伊藤たちが追い出しでもしたような、すべて、老人の旧いコンヴェンショナルな頭で判断したことをそのまま並べたてて帰っていったのに(「動揺」の表現による)、辻潤の妹恒と今夜迎えに行くことを約束。
木村は、昼まで待って伊藤が来ないので、来てくれるよう電報を打ち、伊藤が来た場合の留守を宿の女中に頼んで、辻の家に赴く。窓越しに辻に会うが、辻はギクッとして苦痛と嫌悪の表情を示す。伊藤がいないので、宿に戻った木村は待っていた伊藤に対して、自分に来るほうがよいのではないか、といった風に話す。帰って考えると言って22:00頃、伊藤は去る。
辻潤と恒が母を迎えに行く。
辻潤は、伊藤が戻ると、紙に書いたものを見せて伊藤を責める。黙ったまま横になっている伊藤に辻は、お前の心が動いているなら静かに別れようと囁くが、伊藤はそれを拒否。
6.30 月 その日帰った辻は伊藤に「昨夜から苦しくてたまらないのだ。」と話し、自分の心境を書いたものを伊藤に見せる。さらに二人で紙に書いて会話し、木村をハッキリ拒絶する勇気があるかとの問いに、ありますと伊藤は答える。翌日午前に来てくれと木村が言っていたので、二人で行くことを決める。
7.1 火 勝ち誇ったような顔の辻を伴い、伊藤は木村を訪問。辻は、昨夜の様子を書いたものを木村に見せる。伊藤も辻と離れることはできないと告げる。木村は自分の知らない2通の手紙を知りたがった辻に手紙を見せ、「その手紙に書いたのがほんとうの気持でいながら、こんな行動をとっているあなたなら、僕は軽蔑して捨てます!」と伊藤にいい放つ。木村はこのことで文章を書いていたが、へんな噂になるのを避けるために、小説にして発表すると告げる。伊藤もまた書くと話す。
〈以上、木村艸太「魔の宴」・伊藤野枝「動揺」・など〉
「 また「中央新聞の記事」とは「屏息せる新しい女」(『中央新聞』一九一三年六月一二、一三日で、G氏とは巣鴨小学校教師後藤清一郎である。」〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第1巻〉
後藤清一郎と伊藤野枝との関係が分からない。あるいは、後藤は辻恒の夫(あるいは婚約者)で、『中央新聞』記者が二人が辻の家を出入りしているのを見たものだろうか。伊藤野枝が2、3日前に安産したなどとある、いいかげんな記事である。
伊藤野枝の1913.6.24の日付の木村荘太宛の手紙が『定本 伊藤野枝全集』第2巻に載っている。その「解題」に次のようにある。
「 辻潤が死の直前まで持っており、形見に伊藤野枝の従妹伊東キミ(野枝の父亀吉の次妹である叔母坂口モトの娘で、伊東三代三と結婚)に手渡したものである。小説「動揺」(本全集第一巻に収録)のなかで公開されているが、作中のものとは若干の異同がある。
木村荘太「牽引」(『生活』八月号)によれば、六月一四日付の野枝書簡の住所は「市外上駒込染井三二九辻方」となっているので、本書簡も同様と考えられる。なお、荘太は当時、「麹町平河町」に住んでいた(『魔の宴』朝日新聞社、一九五〇年五月)。」
この手紙は、木村荘太から見せられ、それを辻潤がずっと持っていたものということになる。辻がいつ伊東キミに渡したのかなどは不明だが、中西悟堂「辻潤との最後の日」には、1943年10月はじめに中西悟堂が辻潤に会った時、風呂敷の中を見せられ、そこに伊藤野枝が辻に宛てた手紙とハガキの束があったというから、1943年10月以降だろう。
木村荘太〔艸太〕
木村荘太は伊藤野枝の妊娠に気づかなかったようである。野上弥生子「彼女」によると、野上もまた気付いていない。その理由の一つは、伊藤が既婚者のような格好をしていなかったからであるらしい。伊藤は年若い少女のように見られていた。
木村荘太は随分と長くこの事件の後遺症を引きずっている様子が「魔の宴」には垣間見えるが、無論、特別なことではないだろう。
木村荘太の「牽引」を読むことはむずかしいだろう。木村荘太が「魔の宴」でこの下りを書いたときに参照したのは伊藤野枝の「動揺」で、自ら書いた「牽引」の方は見ていない。『生活』に掲載されただけで、その後、本として出版されてはいないと思われる。
「魔の宴」は木村荘太の自伝で、それを書いたあと、1950.4.15 木村荘太は自殺した。
『南天堂』p.270:
「昭和大戦終結十一日目に復員した私の挨拶に対して、木村は辻潤の死を一番に知らせてくれた。」
(木村=木村荘太、私=寺島珠雄)
木村荘太が辻潤の死をどのように知ったのかは一つの謎である。
伊藤野枝の辻まことの出産
「全集年譜」では、9月に伊藤野枝は郷里の福岡県糸島郡今宿村で産んだ、とあるが、「伊藤野枝年譜」では、伊藤は東京の辻潤の家でまことを産んだとなっている。そう言われてみれば、私〔年譜作成者〕は伊藤がまことをどこで産んだのかということに触れた決定的なものを知らなかった。
野上弥生子「彼女」に「九月の初旬、伸子は二番目の子供を生む為めに駒込の或る病院へ入院しました。二週間目に新らたな小さい男の子を抱いて家に帰って来た時、裏の家にも同じく出産のあった事を耳にしました。」(伸子=野上弥生子)とある。また「彼女が普通の身体でないらしいのに気付いたのは、ほんの最近のこと」とあり、出産間近の伊藤も見ている訳である。
素直に読めば確かに伊藤野枝は辻潤の家でまことを産んだのである。しかし、最初、私は、この「裏の家にも同じく出産のあった」を、その家で出産したというのではなく、その家族に出産があった、赤ん坊が増えたと読んだ。野上弥生子は当時はそんなに伊藤のことをよく知っている訳でもなく、野上弥生子の「彼女」だけでは、根拠としてやや弱いように思われた。
伊藤野枝「乞食の名誉」にまことを背負い勉強会に通う場面で「三百里も西の方にいる親達とは、もう永い間音沙汰なしに過ごしてきた。」「再度の家出をして後は、お互いに一片の書信も交わさなかった。」とあり、伊藤は、まことを産むために郷里に帰った筈はないことになるのだが、「乞食の名誉」には、おそらく小説的な誇張がある。伊藤野枝「動揺」中の木村荘太あての手紙には、前年11月に再上京してから「今度はしばらく国の方へはたよりをせずにゐました。然し事件は私が再度の家出後直ぐに解決したそうです。此の間父から知せてよこしました。それでよう/\国ともたよりし合ふやうになつたので御座います。」とあり、6月頃には郷里と手紙の交換をしていたのが事実だろう。しかし、それも消息を交換する程度であったことは想像できる。
『元始、女性は太陽であった』の中で、平塚らいてうは、のちの1915年の伊藤野枝の帰郷について、伊藤野枝が再度家出して以来、一度も帰ったことはないのに、と述べている。
『元始、女性は太陽であった』p.603:
「 しかし、なぜ郷里へ家族づれで帰ったのか、その郷里の家は、彼女が無法な結婚から一方的にのがれたことによって、そしてそれきり一度も帰ったこともなく、少なくとも彼女にとっては、敷居が高かったはずですのに、なぜわざわざ帰ってお産をしなければならなかったのか、また、からだが丈夫でお産も軽いはずの彼女がなぜ四ヵ月も滞在したのか、それらのわたくしの疑問に答えてくれるようなことは、どこにもひとことも書かれていません。」
伊藤野枝「惑ひ」〔『新日本』〕に「本当に何の用意もなしに、子供を産んだ。」とあることも考慮に入れてよい。伊藤が東京で出産したということは間違いなさそうである。そして、逆に、郷里で産んだことを窺わせるようなものは何もないようである。
野上弥生子の次男と平塚らいてうの長女は病院での出産だったが、おそらく当時は自宅で産む方が普通で、経済的なこともあって、伊藤野枝は病院で産んだのではないだろう。それなら、「伊藤野枝年譜」の通り、伊藤は辻の自宅で産んだということになる。この年譜では、その通りに採用する。
「辻まこと年譜」には、東京で生まれる、とあるが、
『辻まこと全集』の「辻まこと略年譜」では、福岡の生まれとなっている。間違った方に直されたことになる。
「編輯室より」『青鞜』第3巻第10号(漢字を「新字」にした):
「□野枝さんにはこの廿日午後九時に可愛い坊ツちやんが出来ました。ふたりとも大変丈夫です。野枝さんの手紙にはこんなことが書いてありました。「母として子を育てて行くことが自分に出来るかどうか不安です。さう思ひますと、何だか悲しくもなつて来ますこの子のためにこれから私がどの位までに左右されるかと思ふと情なくもなります。何だか恐ろしい気がします。けれど私は今迄のコンヴンシヨナルな情実から世のつねの平凡な、子の犠牲になつてしまふ母にはなりたくないと思ひます。なつては大変だと思ひます。」」
『元始、女性は太陽であった』p.496:
「 九月に、長男の一(まこと)ちゃんを出産したあと、ほどなく野枝さんは、赤ちゃんをつれて、編集室へ出てくるようになりました。」
伊藤野枝がまことをいつどこで産んだのかの「本当」のことを勿論私は知り得ない。1913年9月20日という日付は、「伊藤野枝年譜」・「辻まこと年譜」・「辻まこと略年譜」などに記載があり、最近の各年譜が一致しているから、正しいのだろうと思うだけである。
ところで、『伊藤野枝全集』上巻には、少し異なった日付がある。その中の「年譜」及び井手文子「伊藤野枝小伝」には、1914年1月20日に、伊藤野枝が一(まこと)を産んだと記載されている。二か所に記載があるから誤植ではないだろう。別の箇所の伊藤野枝の血縁図〔p.455〕には、まことは9月生まれとあり、かならずしも十分整理されていないが、何故、井手文子は1914年1月20日という日付を記すことになったのか。
井手文子『青鞜 元始女性は太陽であった』p.129には、(1913年)9月に伊藤野枝は一児の母になった、とある。井手文子においては、この日付が1914年1月20日に変わった訳である。
『炎の女』p.97に、1914年1月20日21:00PMに、伊藤野枝がまことを産んだと記されている(p.139にも1914年1月と記しているから誤植の類ではないだろう)。つまり、井手文子は『炎の女』を無批判に受け入れたのである。
何故『炎の女』に1914年1月20日と記されたのかは分からない。当時の辻潤と伊藤野枝は婚姻届を出していなかった。まことは、伊藤の私生児として役所に届けられ、その日付が1914年1月20日だったのだろうかと思うが、確証はない。
樋口十六「狂へるダダイストの精神鑑定」の辻潤と小南又一郎〔京都大学=法医学教授、博士〕との会話の中に次のような辻潤の言葉がある。
樋口十六「狂へるダダイストの精神鑑定」:
「いや、それよりもね、僕は、あんな入籍手続とかなんとかに無関心でもあるし、また面倒なんで、放任して置いたら野枝が、自分の母方の方へ入籍した。これは野枝が、大杉栄の女房になつたとき、連れ子して行つた、長男はいま、東京のどこかの図案屋にゐるらしいんだ。」
伊藤野枝が若松流二を伊藤の母方の籍に入れたということになるが、これは辻潤の記憶違いなのか、速記者が間違ったのか。ともかく、辻まことは母方の伊藤の籍に入れられ、それが1914年1月20日だったということなのだろう。
井手文子『青鞜 元始女性は太陽であった』において、伊藤野枝について書かれたものは、間違い or 不正確なものが目立つ。卒業間近のある日、伊藤は人気のない教室で辻潤に抱擁された。卒業して郷里に戻った伊藤は、平塚らいてうの援助で上京し、辻と同棲。伊藤の身の上を心配した平塚が滝野川の辻の家を訪れ、伊藤に初めて会った、とある。〈『青鞜 元始女性は太陽であった』p.130〉 この本は比較的古い本とはいえ、伊藤野枝などの書いたものからはこのようなことは言えない。井手文子は、事実の片々を極めていい加減に繋ぎ合わせている。
野上弥生子と辻の家族構成
野上弥生子は、伊藤野枝がまことを産んでから、辻の家族構成などを知ったので、以前から辻潤夫婦・恒夫婦と美津で暮らしていたようだが、いつ妹の恒が結婚したのかなどは分からない。
野上弥生子の次男の名は、茂吉郎。〈「野上弥生子」『日本近代文学大事典』〉
サンディカリズム研究会
「全集年譜」に、この年、「サンジカリスム研究会に顔を出す。」とあるのは適当ではないと思われる。
大杉栄・荒畑寒村らがサンディカリズム研究会を結成したのは、1913年7月〈『日本近代文学年表』〉であり、辻潤がサンディカリズム研究会に顔を出していれば、この年、辻潤と大杉栄とは知り合っていていい筈である。しかし、実際に知り合ったのは、1914年秋に大杉が渡辺政太郎の案内によって辻の家を訪問したときである(それ以前に会って顔位は見知っていた可能性もあるが)。辻潤がサンディカリズム研究会に顔を出しているのなら、このような大杉の訪問はないだろう。
「ふもれすく」に渡辺政太郎について「 渡辺君はその時分、思想の上では急進的なつまりアナキストであるらしかった。僕は渡辺君が何主義者であるかそんなことは問題ではなかった。僕は渡辺君が好きで、渡辺君を尊敬していた。」とあり、辻潤はアナーキズムとかサンディカリズムに多少理解と関心があった程度というべきである。伊藤野枝の「転機」などからもそれは明らかである。辻潤の略歴などで、辻潤をアナーキストと呼んでいるものが見られるが、やや問題で、アナーキストと呼ばれる人間とは一線を画していた(この誤解は、辻潤生前から一部の者にあったようである)。
私の知る限り、辻潤がサンディカリズム研究会に出席したのは1回だけである。「日本アナーキズム運動年譜」によると、サンジカリズム研究会は「平民講演」と改称されていたというが、翌1915年3月1日、奥村博史を伴って、その平民講演会に行っている。それも会が済んでから、展覧会で奥村博史の絵を見るよう呼びかけるのが目的であったようである(後述)。
伊藤野枝の人気
1914年秋頃、「そのころ、野枝の名声と人気はめざましい上昇をみせ、応援団代表は大杉と中村孤月、という恰好だった。」〈『青鞜の時代』p.215〉
野上弥生子「彼女」
この頃の辻潤をすぐ近所に住んでいた野上弥生子は小説の中で次のように描写している。
野上弥生子「彼女」:
「たゞ一つ彼は決して悪型の人間ではなさそうだと云ふことだけは思はれました、けれども江戸文明の頽壊した血を受けて、その多くの特徴を備へてゐる上に、彼の私淑してゐると云ふスチルネルあたりの自由主義が悪く影響して、自堕落な、安易な、一種のデカダンであるらしく見えました。彼女との恋愛事件に関して職を失つてからの生活難が、彼のその傾向を著しくさせたのでありませう。且つ精神病者であつたと云ふ父方の遺伝は、彼の容貌にも幾らか現はれてさへゐました。若いのだか年寄りだか分らないやうな、不思議な表情の昏迷、暗い額、長い青い顔をした小柄な身体は、一と目見て彼が陰性の弱い人間であり、激しい生存競争に飛び込む勇気のない、懼れた厭世家であるやうに思はれました。同時にその厭世的傾向は、都会人本来の素質たる反対の色々な傾向に裏付けられてゐるために、それは真摯な強い執着となる代りに、極めて不徹底な、卑怯な、胡魔化しに変ずる事を免かれなかつたのであります。彼の吹く尺八はいつも悠々と響いてゐました。家賃が滞つて家を立ち退かなければならなくなつた時でも。明日のパンを心配しなければならない夕方でも。」
野上弥生子はよく観察し、その書くことは正確またある部分不正確と思われるが、辻潤という人間に対しては否定的である。
平塚らいてう「青年辻潤氏」
平塚らいてうは、もっと好意的に見ている。
平塚らいてう「青年辻潤氏」:
「 青年辻さんの顔はかなり特徴のあるいい顔だった。ことに若くてすでにはっきりと現われていた口辺を取り囲むあの「法令」はその特徴中の特徴だと言えよう。そのために辻さんの年齢はちょっと見当がつきかねた。二十七、八のころに三十五、六かとも思われたりした。向い合って話してる時はそうも感じないが、辻さんの後姿には不思議な淋しさがいつもつきまとっていた。とくに腰から下のほうがそうだった。
大正二、三年ごろ、私たちもしばらく染井に住むことになってからはいっそう朝夕に顔を合せた。辻さんと野枝さん、それから私たちふたりの四人達れはよく夕食後染井の墓地を散歩し、それから巣鴨の岩野泡鳴氏夫妻を訪問し、夜遅くまで飲んだり、食べたりして話した。後年ダダイストの看板をかかげてからの辻さんは、お酒とは切っても切れないもののように人から思われていたようだが、また実際そうなのかもしれないけれど、私の知ってる辻さんは酒好きでも、酒飲みでもなかった。もし辻さんが好んで酒に親しまれたとすれば、もちろん野枝さんを失ってからのことだ。後年の辻さんは辻さん本来のすなおな姿とは、むしろ正反対のものでないだろうか。
何といっても野枝さんとの四、五年間の生活は、辻さんにとって最も幸福なものだったろう。しかしその家庭にはお母さんも妹さんも一緒だった。そこへ赤ちゃんが生まれる、また生まれる、辻さんの失業状態は同じく継続している。貧乏は加重するばかりだ。こんな土壌の中でどんな恋愛だってよき生育を遂げえないのは当然だった。けれど辻さんにとって野枝さんが大杉氏のもとに走ったことは、実はどれほど大きな打撃だったか知れないと思う。
江戸っ子の一面をもっていた辻さんは、ものにこだわることはたんに趣味としても好まぬらしかったし、個人の自由をどこまでも尊重し、干渉することも、されることもひどく嫌いなたちだったから、そのうえ万事に非常に物わかりのいい辻さんのことだから、あの場合も野枝さんに対しまた大杉氏に対し、人も知るごとき態度をとるよりほかなかったろうけれど、辻さん自身の心の底にはいつまでもいつまでも清算しても、してもしきれないものが残っていたのかもしれない。母を奪われたふたりの幼い子たちへの父らしい愛にも悩まされていたことだろう。野枝さんが勝手に里子に出し、そして里流れにしてしまったお子さんのことを案じ、折々汽車に乗っては千葉県下の海岸まで逢いに行かれたりしていた。」
法令(ほうれい)は鼻の両端から発して口を取り囲んでいる筋〈『元始、女性は太陽であった』p.517〉。
「恋愛と道徳」・「響の影」
『元始、女性は太陽であった』によれば、『青鞜』第3巻5号の伊藤野枝訳の「恋愛と道徳」は、辻潤の訳である。伊藤野枝が訳したものを辻潤が添削した文章であった可能性もある。
『元始、女性は太陽であった』pp.493-494:
「 「青鞜」三巻五号に、ケイの「恋愛と道徳」が出ていますが、あれはわたくしの発熱がつづき、連載中の「恋愛と結婚」が書けなかったので、野枝さんの勉強のためにと、辻潤さんが前に訳したものを代りとしてのせたのです。同じ号から連載しはじめた「響の影」(マツコア)という小説の訳も、辻さんが訳してあったものでした。
いま思うと、なぜああいう場ちがいのものを「青鞜」に掲載したのかよく分からないのですが、たぶん音楽好きの辻さんがお道楽に訳したものを、野枝さんが持ちこんできたのかもしれません。野枝さんの名前を使ったのは、辻さんの名前では工合がわるいと思ったからでしょうか。」
「婦人解放の悲劇」
この1913年9月に『青鞜』に伊藤野枝、訳で載った「婦人解放の悲劇」について、『定本 伊藤野枝全集』第4巻「解題」によると、「 エマ・ゴールドマンの三論文「婦人解放の悲劇」「結婚と恋愛」「少数と多数」は、Emma Goldman, Anarchism and Other Essays, New York (Mother Earth Publishing Association), 1910(本巻口絵参照)に収録されているものである。原題は、それぞれ、 "The Tragedy of Woman's Emancipation", "Marriage and Love", "Minorities versus Majorities"である。」とある。
伊藤野枝「転機」によると、伊藤野枝がこのゴールドマンの本を読んだのは、この年の真夏であるが、「解題」によると、どのようにして彼女がこの本を手にしたのかは一つの謎であるらしい。というのも、エマ=ゴールドマンのマザー=アース=グループの人たちは、ニューヨークを拠点として、幸徳秋水らの連座する「大逆事件」にたいする抗議運動を世界に呼びかけ、日本政府は、雑誌 Mother Earthの輸入と販売を長く禁じ、「大逆事件」を契機に洋書に対する輸入規制も厳しくされた、という(この規制はそう厳密でもなく、学校図書館にあったりしたというが)。そこで、「この原書自体を入手することが困難であったという事情を考えると、辻潤を通してか、あるいは直接的に、大杉栄や荒畑寒村から本を借用したのではないか、と私は推測している。」と「解題」にある。
それなら、辻潤の関わりはどのようなものであったか、ということになるが、正規のルートでの本の入手が困難だとすれば、まず渡辺政太郎との関係しか考えられないように思われる。大杉らの『近代思想』でも、ゴールドマンの「婦人解放の悲劇」を訳載する意図があったが、『近代思想』9月号の大杉栄の「大久保より」に「寒村が六号に訳す筈であった『婦人解放の悲劇』は、青鞜社でも九月号に出すさうだからお譲りする事にした」と書かれているという。大杉らが、『青鞜』に訳が載ることを知ったのも、辻というより渡辺を通してだろうと思われる。
ところが、「渡辺政太郎年譜」によると、辻潤が渡辺政太郎を知ったのは、翌1914年4月である。そして、「渡辺政太郎年譜」では、その1914年4月頃、渡辺政太郎が大杉らのサンディカリズム研究会に参加、アナルコ=サンディカリズムに共鳴、となっている(『大正アナキストの夢』には明記はないようだが、数年前に渡辺政太郎は大杉栄に会ってはいる)。それが正しいとすれば、辻潤とエマ=ゴールドマン「婦人解放の悲劇」との関係は、渡辺の線はなくなり不明というしかない。
『元始、女性は太陽であった』によると、『青鞜』に載った「婦人解放の悲劇」は辻潤の訳である。しかし、伊藤野枝が『Anarchism and Other Essays』を読んだというから、伊藤野枝が訳したものを辻潤が添削したのだろう。二人の共訳、というより辻潤訳の方が正確かもしれない。この年譜では、伊藤野枝訳として、辻潤の書誌から除いておく。
『元始、女性は太陽であった』p.497:
「 この年後半の「青鞜」には、エレン・ケイの他に、エンマ・ゴールドマンの「婦人解放の悲劇」(三巻九号)、「少数と多数」(三巻十一号)、オリーブ・シュライネルの「三つの夢」(三巻十一号)、「生の神の賜」(三巻十二号)など西欧の婦人論が、つぎつぎに紹介されてゆきました。十九世紀後半のロシアに生まれて、のちアメリカに移住し、無政府主義者として勇敢な生涯を送った、エンマ・ゴールドマンとの出会いは、野枝さんにとって、わたくしとエレン・ケイとの出会いと同じような、深い意味をもつものであったようでした。この訳は、いずれも野枝さんの名前になっていますが、婦人間題にも興味をもっていた辻さんが、野枝さんを教育しようという一心で、ゴールドマンの著作や伝記などを訳したのでした。」
小倉清三郎
『元始、女性は太陽であった』pp.541-542:
「 小倉さんは、辻潤さんの正則英語学校時代からの旧い学友だそうで、新しく性問題の科学的研究のため「相対」という個人雑誌を出すについて、それを「青鞜」に紹介してほしいといってこられたのが、はじめでした。「青鞜」の三巻二号に、野枝さん、がこんなふうに「相対」を紹介しています。
「今度かう云ふ雑誌を紹介致します。小さい雑誌ですが極めて真面目なものです。かう云ふ種類の雑誌は他にないさうです。本誌は小倉清三郎氏が単独でおやりになって居ります。材料も非常に沢山集めてあるさうです。私共はかう云ふ真面目な小雑誌の一つ生れる方が下らない文芸雑誌の十も生れるよりはたのもしく思ひます。」内容として「主たる問題、性的経験と対人信仰、春的経験、春的気分、春的性感、焦慮に伴ふ醒覚時の遺精の一例……」などが創刊号の目次としてあげられています。
はじめてお目にかかったころは、帝大の大学院学生だったように思いますが、黒木綿の汚れた紋付の羽織を着て、見るからに鈍重な、まことに気の利かない、陰性のタイプでした。話をするにも、目をつぶってゆっくり考え、考え話すというふうで、じれったいほどでした。
「相対」が縁となって、小倉さんはときたまわたくしの家へ遊びにみえるようになりました。あるとき「青鞜」にそのころ出た野枝さんの私小説「動揺」を、性問題研究の立場から、批評したことがありました。わたくしもこの「小説」のなかの野枝さんについて「青鞜」に書いたばかりのときでもあり、たいへん小倉さんの批評を面白いと思ったので、それを「青鞜」にもらったのが「野枝子の動揺に現はれた女性的特徴」という長文の研究論文(青鞜四巻一号)ですが、その後「性的生活と婦人問題」(青鞜四巻十一号)「知識の樹の果」(五巻一号)などなん度か、寄稿を受けました。」
『元始、女性は太陽であった』によると、小倉清三郎は、かつて国民英学会で辻潤と同級生であったことから、『青鞜』と関係を持つことになったらしい。
小倉が『相対』を出すことになって、小倉が頼んだのか、辻・伊藤野枝が申し出たかして、伊藤が平塚らいてうに話し、それで伊藤が『青鞜』に『相対』の紹介文を書いた訳である。
『炎の女』には、小倉清三郎について平塚が述べたこととは少し違ったことが書いてある。
『炎の女』p.227:
「たまたま当時「相対会」という性科学研究会を主催していた小倉清太郎(?)はこの問題に興味をもち「野枝子の『動揺」に現われた女性的特徴」と題して小石川富坂普及福音教会の例会で研究発表をおこなつた。これが『相対』に興味をもつていたらいてうの耳に入り、その講演の梗概を大正三年『青鞜』第四巻第一号に掲載したが、これはエリス研究家の小倉らしい解釈が横溢して興味のある分析になつている。
小倉は東大の文学部哲学科を卒業後、大正二年三十一才のとき沢田五猫庵や橋本春陵の援助で『相対会』をつくり、二百人ぐらいの会員組織で機関誌『相対』を発行、昭和十六年五十九才で急逝するまでの三十年間を真面目な性科学研究に捧げた篤学者であつた。大杉栄などもその熱心なフアンであつたことは、内田魯庵がつたえている。」
小倉清三郎について、平塚の書いたこと、岩崎呉夫の書いたことについて、確認できていない。
岩崎呉夫が次のように書くのは、相変わらず根拠の乏しい想像が含まれている。
『炎の女』p.228:
「この一文をきつかけとして野枝が小倉と親しくなつたことは、のちに野枝が編集全権を握つた第四巻第十一号に「性的生活と婦人間題」第五巻第一号に「知識の樹の果」の寄稿をあおいでいることによつても察せられる。しかしその後は野枝自身の興味の変化と、小倉の性的偏執趣味への耽溺によつて、いつか無縁の間柄になつていつたようだ。」
(この一文=小倉清三郎「「野枝子の動揺に現はれた女性的特徴」)
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片門前(かたもんぜん):江戸期〜1972年の町名。芝を冠称。1972年、芝大門(しばだいもん)2丁目1・8〜9番・芝公園2丁目の一部。〈「片門前」『角川地名大辞典 13 東京』〉
『青鞜の時代』pp.157-158:
「 当日、会場のキリスト教青年会館は、満員の盛況だった。聴衆の男女比は、書き手によって異なる。野次馬を警戒し、「男子の方は必ず婦人を同伴せらるる事」とことわったのに、約千名の「三分の二は、やはり男」と、『元始』は無念さを洩らし、「男四分の女六分で立錐の余地もない」(『都新聞』二月一六日)、「半は女性、殊に洗髪が主で、あとは丸髭が二つ、島田が二つ、桃割れが一つ」、「特に目立ったのは銀髪のお婆さんと子を背負ったお神さんの二人」(『読売新聞』同日)等々。」
(『元始』=『元始、女性は太陽であった』)
1913.3.12 渡辺政太郎が上京中、病いで倒れた田中正造を、福田英子の頼みで家に預かり、6泊させる。〈「渡辺政太郎年譜」〉
「一」を「まこと」と読ませた例はほかには知らない。どうして、そう名づけ、読ませたのだろうか。漢和辞典には、「おさむ」・「すすむ」などのさまざまな読みとともに載っているから、異例という訳でもないらしい。人名漢字の読みは色々と不思議なことが多い。
1913.1 野上弥生子、訳「近代人の告白 ――アルフレッド・ド・ミュッセヱ」『青鞜』第3巻第1号。1.1発行。〈「後記」『野上彌生子全集』第U期 第18巻〉
1913.2 『青鞜小説集』東雲堂出版 2.25。
※野上彌生「京之助の居睡」など小説18篇。
〈「後記」『野上彌生子全集』第2巻〉
1913.2 福田英子「婦人問題の解決」『青鞜』第3巻第2号。〈『元始、女性は太陽であった』p.434〉
1913.2.8 『青鞜』第3巻第2号、発禁。〈『元始、女性は太陽であった』p.434〉
「雑誌『青鞜』の二月号は八日午前八時安寧秩序を害するものと認定されて大浦新内相から発売を禁止された内務省書記官の石原嘉三氏に何処が「安寧秩序を害す」に相当するかを訊ねたが従来牴触する点に就いては発表しないことになって居るとばかりで更に要領を得ない」〈『読売新聞』2.9〉。〈『青鞜の時代』p.154〉
1913.3 岩野泡鳴、遠藤清子を正式に入籍。〈「岩野泡鳴年譜」〉
1913.4.20 文部省、婦人雑誌関係の反良妻賢母主義的婦人論の取締り方針を決める。〈『元始、女性は太陽であった』pp.459,..〉
1913.4 岩野泡鳴、北豊島郡巣鴨村字宮仲2517番地に転居。〈「岩野泡鳴年譜」〉
1913.5 平塚らいてう『円窓より』東雲堂〔処女評論集〕 5.1。〔ただちに、家族制度破壊と風俗壊乱(ふうぞくかいらん)で発禁。「世の婦人達に」を削除、改版し、書名・装幀を変え、『戸+向(とざし)ある窓にて』の名で、すぐに出版。〕〈『元始、女性は太陽であった』pp.458-459〉
1913.5 『女学世界』・『女子文壇』、「風俗壊乱」または「安寧秩序紊乱(あんねいちつじよびんらん)」で発禁。〈『元始、女性は太陽であった』pp.459,..〉
1913.5.25 日本橋人形亭でフュウザン会同人会が開かれ、同人間の価値観の違いから解散。〈「高村光太郎年譜」〉
1913.5 青鞜社、巣鴨町巣鴨1163番地に移転。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第1巻〉 1913.4〈『元始、女性は太陽であった』p.457〉
木村荘太「顫動」『フユウザン』6月号。〔木村荘太が「野枝にあてる気持ちでみずからの恋愛観を語った」〕〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第1巻〉
1913.6 『白樺』・『新小説』・『サンデー』・『うきよ』、「風俗壊乱」または「安寧秩序紊乱(あんねいちつじよびんらん)」で発禁。〈『元始、女性は太陽であった』pp.459,..〉
1913.6 岩野泡鳴、短篇集『ぼんち』植竹書院。〈「岩野泡鳴年譜」〉
1913.7 雑誌『フュウザン』同人の一部と千家元麿らの『テラコッタ』が合同して『生活』が誕生。高村光太郎は、それに加わった岸田劉生・木村荘八・岡本帰一と生活社展を企てる。〈「高村光太郎年譜」〉
1913.7 「ヒュウザン」を改題、『生活』創刊。同人誌。千家元麿、編集。〔〜1918.8〕〈『日本近代文学年表』〉
※「ヒュウザン」を、のち「フュウザン」を改めた〈「木村荘八」『日本近代文学大事典』〉というから、厳密に言えば「フュウザン」を改題なのかもしれない。
1913.7 大杉栄・荒畑寒村ら、サンディカリズム研究会を結成。〈『日本近代文学年表』〉
1913.7 『秀才文壇』・『サンデー』・『大国民』、「風俗壊乱」または「安寧秩序紊乱(あんねいちつじよびんらん)」で発禁。〈『元始、女性は太陽であった』pp.459,..〉
木村荘太「牽引」『生活』8月号。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第1巻〉
1913.9.4 田中正造、死去。〈「渡辺政太郎年譜」〉
1913.9 エマ=ゴールドマン、伊藤野枝、訳「婦人解放の悲劇」『青鞜』第3巻9号附録。〈「伊藤野枝年譜」〉
1913.9 岩野泡鳴、「プルターク英雄伝」の翻訳を新潮社から依頼される。〈「岩野泡鳴年譜」〉
1913.9 土岐哀果〔善麿〕編集『生活と芸術』創刊。東雲堂書店。〔〜1916.6〕〈『日本近代文学年表』〉
1913.9.1 中里介山、『都新聞』紙上で「大菩薩峠」の連載を開始。〈『日本近代文学年表』・「武林無想庵年譜」〉
1913.10 アサ=シモンズ、岩野泡鳴、訳『表象派の文学運動』新潮社 10.28。〈「岩野泡鳴書誌」〉
1913.10 《東雲堂から出る編集費を上げさせようという保持白雨〔保持研〕の交渉は決裂。》『青鞜』第3巻第10号を限りに発行が東雲堂から尚文堂に移る。『青鞜』第3巻第10号のあたりの発行部数3,000部。〔尚文堂の発行となって、部数が減り、残本が増え、地方への配本が不充分という始末になる。〕〈『青鞜の時代』pp.187-188〉
1913.8 伊藤野枝「動揺」『青鞜』第3巻8号〔8月号。8.1〕。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第1巻〉
※1913.7.27
1913.11 平塚らいてう「「動揺」に現われた野枝さん」『青鞜』第3巻第11号。〈「解題」『平塚らいてう著作集』第1巻〉
1913.12 伊藤野枝「わがまま」『青鞜』第3巻12号〔12月号。12.1〕。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第1巻〉
※2.11.15
1913.12 ハヴェロック=エリス 小倉清三郎、訳『性的特徴』丁未出版社 12.20。〈奥付『性的特徴』〉※国会図書館蔵書検索では1914年。
木村艸太:1889.2.3-1950.4.15。〈「木村艸太略年譜」〉
野上豊一郎:1883.9.14-1950.2.23。〈「野上豊一郎」『日本近代文学大事典』〉
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1914 大正3
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1月頃 有楽座で芸術座第2回公演「海の夫人」を観る。松井須磨子が出演し、川路歌子((遠藤幸(ゆき)子)がヒルダ役。〈「勉めよや春夫!」・「佐藤春夫年譜・著作年表」〉
3月 《伊藤野枝は無政府主義者のエマ=ゴールドマンの著作に親しみ、ゴールドマンやエレン=ケイの論文を辻潤に手伝ってもらって訳す。平塚らいてうには、貧乏のどん底で赤ん坊の生まれた辻一家の生活をほんの少しでも潤すことが出来ればとの願いもあり〈『元始、女性は太陽であった』p.518〉、》伊藤野枝、東雲堂から『婦人解放の悲劇』を出版 3.25。〈伊藤野枝「動揺」など・「伊藤野枝年譜」〉
2〜4月頃 福田英子(ひでこ)に会う。〈「福田英子略年表」・「ふもれすく」〉
4月 滝野川の福田英子宅で渡辺政太郎(まさたろう)と出会う。〔渡辺政太郎は、辻潤・伊藤野枝と親しくなる。〕〈「渡辺政太郎年譜」・「ふもれすく」〉
4月頃 伊藤野枝、辻潤が福田英子の家で知り合った渡辺政太郎と親しくなる。〔渡辺政太郎・若林八代(やよ)夫妻はよくまことの子守りも引き受けてくれたという。〕〈「伊藤野枝年譜」〉
5月 大杉栄が『近代思想』5月号〔第2巻第8号〕で、伊藤野枝の『婦人解放の悲劇』を取り上げ、賞賛。〈「伊藤野枝年譜」・『青鞜の時代』p.215〉
6月中旬頃〈野上弥生子「家」〉野上弥生子一家が、辻潤一家のすぐ隣の二階屋の借家に引っ越す。〈野上弥生子「彼女」・伊藤野枝「私信――野上彌生様へ」・野上弥生子「家」〉上駒込329番地〈「野上弥生子書簡」1914.8.22など〉。前庭の一隅にあった3軒の借家の中央が辻の家。〈野上弥生子「彼女」〉
6.上中旬頃 《伊藤野枝が、実費程度のものを出して貰い、平塚らいてう・奥村博史の食事を引き受けることを申し出て、「たしか月十円であったか出すことにして、」平塚・奥村が伊藤の家へ昼と夜の食事をしに行くことになる。〈『元始、女性は太陽であった』pp.516-517〉》平塚らいてう・奥村博史が、辻潤の家の近くの妙義神社前の巣鴨上駒込411番地の家に引き移る。〈『青鞜』第4巻第7号・「●平塚明子女史の此頃」『読売新聞』6.17号・『青鞜の時代』pp.203-204・「平塚らいてう年譜」〉 辻潤の家とは道路ひとつ隔っていた〈『元始、女性は太陽であった』p.517〉。〔奥村博史は当時、「博」。「博史」に統一する。〕
《以前は、母と妹夫婦が一緒に暮らしていたが、》この頃は、辻夫婦と息子だけで暮らす。〈『元始、女性は太陽であった』p.517〉
辻潤の家には炊事道具などほとんどなく、伊藤野枝は、茶碗などもないので、一枚の大皿に、お菜とご飯を盛りつける。伊藤は、仕事は手早い代りに、汚いことも、まずいことも平気。夕食後など、平塚・奥村は辻と話しこんだりする。巣鴨の原田潤が遊びに来て、話の仲間に加わることがあった。伊藤の共同炊事は、一か月と続かなかったようである。〈『元始、女性は太陽であった』pp.518-520〉 朝夕、平塚らいてう・奥村博史と顔を合わせるようになり、辻潤・伊藤野枝・平塚らいてう・奥村博史は、夕食後、染井の墓地を散歩し、巣鴨の岩野泡鳴の家に行き、夜遅くまで飲み食べ話したりする。〈平塚らいてう「青年辻潤氏」〉
7月〜8月頃 (辻恒夫妻・美津の住む)小石川区竹早町82番地の家に移る。〈「伊藤野枝年譜」・「編輯室より」『青鞜』第4巻第9号・野上弥生子「小さい兄弟」・『元始、女性は太陽であった』〉
8月頃 Uから『阿片溺愛者の告白』の翻訳を頼まれる。Uは植竹書店主の植竹喜四郎を指すと思われる。〈「蛇足」・佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.288-289〉
9.9〈「編輯室より」『青鞜』第4巻第9号〉 妙義神社のお祭りの日、伊藤野枝と二人で平塚らいてう宅を訪れる。野上豊一郎・野上弥生子・小倉清三郎・生田花世・上野葉子夫妻・林千歳・原田潤、らが同席。夜、遅くまで雑談。〈『元始、女性は太陽であった』p.544〉
9月末頃〜10.13頃 伊藤野枝は、まことを連れて、一家が郷里の大分に帰っていた野上弥生子の留守宅を預かって住む。(辻潤がどうしたかは不明。野上弥生子の夫の野上豊一郎が帰京し、伊藤野枝は竹早町に戻ったと思われる。)〈「伊藤野枝年譜」・「編輯室より」『青鞜』第4巻第9号・『元始、女性は太陽であった』・野上弥生子「父の死」・野上弥生子「噂」・『災害』・「よみうり抄」『読売新聞』10.14号〉
10.12 《平塚らいてう、『青鞜』「三週年紀念号」〔第4巻第9号、10月〕をまとめ、伊藤野枝に後を委ね、》静養のため、奥村博史とともに上総(かずさ)の御宿(おんじゆく)海岸に行く。〈『元始、女性は太陽であった』p.546・平塚らいてう「『青鞜』と私」〉
秋 伊藤野枝に興味を抱いた大杉栄が渡辺政太郎に伴われて、小石川区竹早町の辻潤の家を訪問する。〈大杉栄「死灰の中から」〉
11.7 御宿の平塚らいてうに『青鞜』11号と伊藤野枝の手紙が届く。そこには「十二月号の編輯をお断りしたい」とあり、「無期限で編輯と経営の事務」を引き受けてもよい、との意志表明もなされていた。〔「十二月号だけは(略)やってのけて下さい」と返事をする。〕〈『元始、女性は太陽であった』pp.549-550・平塚らいてう「『青鞜』と私」〉
11.15 《11.13 夜、平塚らいてう、上京。》朝、伊藤野枝を訪ねる。平塚らいてうは、辻潤の協力があるにしても、伊藤に『青鞜』をやり抜けるか危惧していたが、伊藤は決心を固めていた。平塚は再考を促し、17日の再会を約する。〈『元始、女性は太陽であった』pp.551-553・平塚らいてう「『青鞜』と私」〉 辻潤は平塚に夢の話をする。「辻さんの私に関するあの夢の話――それは私がある湖水に身を投げて死んだ、その湖の崖の上には私が乗り捨てたという馬が前脚を高くあげて躍っている。犬がしきりに吠えるので、見ると、私の死骸が水の中によく見える。辻さんはその死骸を引き上げて、いろいろ手あてをしていると、間もなく蘇生したというのです」〈平塚らいてう「『青鞜』と私」〉
11.16 夜、平塚らいてう、伊藤野枝にあてて書き送る。「もしその日あなたはその決心をもっておいで下さるのなら、すぐ社の所有物も一緒に受け取るだけの用意をしてきて下さい」。〈平塚らいてう「『青鞜』と私」〉
11.17 昼近く、伊藤野枝は「自信と勇気と決心の色」を眼に輝かせて現われる。「社の責任と仕事と、所有物のすべて」を伊藤に渡し、その事を「新年号で発表する」約束をする。午後、荷物を伊藤の家に運ぶ。21:00 PM、平塚は、上駒込の家をたたむ。〔11.20 夜、平塚、御宿に帰る。〕〈『元始、女性は太陽であった』p.553・平塚らいてう「『青鞜』と私」〉 「青鞜社の所有品全部――寄贈の図書、雑誌類、英語や日本語の辞典や書類、名簿「青鞜」の合本、本箱、机、文房具など一切合財、野枝さんの引越し先、小石川竹早町の家へ運」ぶ。〈『元始、女性は太陽であった』p.553〉〕
11.22頃〈「伊藤野枝年譜」〉 伊藤野枝、発禁となり押収されそうになった『平民新聞』第2号を渡辺政太郎の手をへて官憲から隠匿する。〈大杉栄「死灰の中から」〉
『青鞜』第4巻11号〔12月1日〕の伊藤野枝の住所は小石川区竹早町82。〈伊藤野枝「編輯室より(一九一四年一二月号)」〉
11月頃 伊藤野枝、辻潤の家を出ようと思い始める。〈伊藤野枝「惑ひ」〔『新日本』〕〉
12月 《佐藤政次郎・岩野泡鳴・小倉清三郎ら、から紹介された出版社に当たったあと、生田長江に植竹書院を紹介してもらい、》植竹書院からロンブロオゾオの『天才論』が出版され、反響を呼ぶ。〈「おもうこと」・「生田長江氏のことなど」・「全集年譜」・「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻 p.459〉
〔『天才論』、十数回、版を重ねる。〈『無想庵物語』p.210〉〕
この年あたり、岩野泡鳴の妻、清子の世話で岩野泡鳴の「プルターク英雄伝」の英訳の下訳をする。〈「ふもれすく」・『元始、女性は太陽であった』p.523・「岩野泡鳴年譜」〉
〔渡辺政太郎に江渡狄嶺〔幸三郎〕を紹介される〈「ふもれすく」・「全集年譜」〉。のちに、江渡狄嶺とはしばらく音信消息を断絶〈「ふもれすく」〉。〕
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12月 『天才論』チェザレ=ロンブローゾ 植竹文庫第2篇 植竹書院 1914.12.14付。
※植竹書院:神田区佐久間町4丁目23番地。
〈「全集年譜」〉
※Genio e follia(1864), Cesare Lombroso(1836-1909)
ロンブローゾ:イタリアの精神病学者
英訳 The Man of Genius
定価95銭。
「おもうまま」〔序に相当〕・「きづいたこと(一般読者の為めに)」
序文の「おもうまま」は、最後の段落〔「僕の欲望から云えば云々」〕を削り、一部を直して、後に『浮浪漫語』に収載。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.281,284〉
※"L'homo di Genio"の英訳 "The Man of Genius"〔1905年版〕の訳。英訳者の名前は出ていない。「レクラム叢書中にある "Genie und Irrsinn" という書物を見たことがある。僕は独逸語を知らないからよくは解らないが、その書物の内容はこれと略々同一であるらしい。」〈「きづいたこと(一般読者のために)」〉
「おもうまま」の日付:1914.11.25。
『天才論』再版 植竹書院 1914.12.16。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.282〉
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「海の夫人」
「勉めよや春夫!」:
「 薄暗い平家に春夫は犬を相手にして燻っていた――彼はまったく文字通りおそろしくくすぶりかえっていた。女優のS子さんは浅草へ出勤中で留守だった。実はそのS子さんに対して多少のインテレストがないではなかったのだ。なぜなら、有楽座で須磨子が「海の夫人」をやった時に見た、彼女の如何にも無邪気な溌剌とした茶目ぶりのデビュウが、僕にも強く印象されていたからである。あの茶目がどんな春夫のおかみさんぶりを発揮していることかとそんな風な期待が恐らく無意識ながら私の心の中に働いていたに相違ない。」
「佐藤春夫年譜・著作年表」1914年:
1月「川路歌子は、芸術座第二回公演「海の夫人」にヒルダ役で、一五日から有楽座に出演。」
12月「二五日、川路歌子(遠藤幸(ゆき)子・明治二九・九生)と同棲し、本郷区追分町九に新居をかまえた。」
辻潤は、幸子を「さちこ」と訓んでいる訳である。おそらく、「幸子」を活字上で知ったからだろう。
伊藤野枝の翻訳
伊藤野枝が『青鞜』などで発表した翻訳については、朝日新聞1916.11.21号の伊藤野枝の元同級生と思われる人の投書に「種々の翻訳ものを出版したのは皆辻と云ふ後盾があつたからでせうあなたをよく知つてる人々は皆あなたが書いたものとしてよんでる人はありませんよ其位英語に長けてるあなたなら学校に一緒に居つた頃今少し英文の才があり英語に趣味をもつて居たらうと思ひます」とある。これは、正しく、伊藤野枝自身が「動揺」で木村荘太の手紙に「それからエレン、ケイの翻訳のこと、勿論私の極くまずしい語学の力で完成する筈はありません。たしかに男の力によるのです。」と書いている。辻潤が入れた朱だらけの伊藤野枝の原稿のことは、辻まことが「親孝行の弁――おやじとおふくろの本」に書いているほか、若松流二も見たという〈安諸靖子「若松流二さんのこと」〉。
福田英子
福田英子は、1913年2月『青鞜』第3巻第2号に「婦人問題の解決」を発表している(福田英子の文章が原因かどうかは不明だが、この『青鞜』は発禁)。『元始、女性は太陽であった』によると、この時に福田英子の文章が『青鞜』に載ったのは、辻潤・伊藤野枝との関係はないらしい。
「ふもれすく」によると、辻潤は、福田英子を知り、それから渡辺政太郎を知ったという順序になる。平塚らいてうの書くものではこの順序が逆になっているが、平塚の間違いなのだろう。
『元始、女性は太陽であった』p.438:
「 福田さんがわたくしたちの前にあらわれたのは、青鞜社の事務所が巣鳴へ移ってからで、辻さん夫妻の紹介であったように思います。辻さんの家へ、平民社関係の渡辺政太郎という人が折々遊びに来ていましたが、その人がある日福田さんを辻家へ連れてきたのだという話でした。」
平塚らいてう「福田英子さんのおもいで」:
「 わたくしが福田さんに直接会って話したのは、大正三年になってからのようにおもう。そのころ福田さんは愛人の石川三四郎氏を海外に送り出し、石川氏と同棲していた横浜の家をたたんで上京、駒込橋近くに養鶏などし、生みたて玉子の行商をやっていた。ある日、福田さんは、青鞜社員の伊藤野枝さんの夫君辻潤さんと親交のあった社会主義者の渡辺政太郎氏に案内されて、辻夫妻の染井の家にはじめて見えた。それは『福田英子』に詳しく書かれているように、田中正造翁が身命を堵(?)して救援運動に奔走した足尾銅山の鉱毒被害地――谷中村復活の運動に協力を求めるためであったが、それがきっかけとなって、福田さん一家は辻さんの家庭に出入りするようになっていた。近所だったこともあろうけれど、同じ貧乏世帯であり、また平民新聞時代のことで、ことに辻さんとは思想的にも話が合ったのかもしれない。」
福田英子・渡辺政太郎は、谷中村復活の運動と関係なく、辻潤に会っていると思われる。
「福田英子略年表」によると、1914年2月に福田英子は、東京府下=滝野川村に転居している。およそ、2〜4月に、辻潤は福田英子に会ったことになる。
渡辺政太郎
「ふもれすく」によると、近所に住んでいた福田英子によってアナーキストの渡辺政太郎と知り合っている。
「ふもれすく」:
「 染井からあまり遠くない滝の川の中里というところに、福田英子というおばさんが住んでいた。昔大井憲太郎と云々のあった人で、自分も昔の「新しい女」だというところから「青鞜」に好意を持っていたらしかった。ちょうどその時分、仏蘭西で勉強して日本の社会問題を研究にきたとか称する支那人が、英子さんを通じて日本の新しい婦人運動者に遇いたいというので会見を申し込んできたので、一日その中里の福田英子さんのところで遇うことにした。日本語がよく解らないので英語のわかる人を連れてきてくれる方が都合がよいというので、僕が一緒に行くことになった。
僕はその時、初めて渡辺政太郎氏に会ったのである。」
「渡辺政太郎年譜」によると、4月に渡辺政太郎、滝野川の福田英子宅で辻潤と出会い、辻潤・伊藤野枝と親しくなる、とある。「全集年譜」では前年1913年「渡辺政太郎、福田英子らを知る。」とある。
「渡辺政太郎年譜」・「全集年譜」ともに、根拠が不明。ここでは、「渡辺政太郎年譜」を採用しておく。
ただし、私は若干の疑いも持っている。『大正アナキストの夢』は渡辺政太郎についてはかなり正確だと思うが、なんといっても、参考文献をみると辻潤関係は貧弱で、過去の間違いの多い本が挙げられているからである。
大杉栄が『婦人解放の悲劇』を称賛
『青鞜の時代』p.215:
『婦人解放の悲劇』を「大杉栄は『近代思想』五月号に誉めちぎった。「あの若さでしかも女と云う永い間無知に育てられたものの間に生れて、あれ程の明晰な文章と思想とを持ち得た事は、実に敬服に堪えない。(略)僕はらいてう氏の将来よりも、寧ろ野枝氏の将来の上に余程嘱目すべきものがあるように思う」。」
野上弥生子一家の上駒込329番地の二階屋
野上弥生子「彼女」によると、初夏、野上弥生子一家が、辻潤一家のうしろの二階屋に引っ越している。野上弥生子「小さい兄弟」では、春に引っ越している。「小さい兄弟」では、3年前の春に越してきて、1年前の夏に辻一家が越したとなっていて、少し虚構が加えられていると見られる。
野上弥生子「家」に、この引越しが描かれていて、およそ6月中旬に越している。ここでは、これを採る。
「家」には、辻潤一家のことは触れられていない。上駒込329番地という住所は、「野上弥生子書簡」による。
野上素一「書き直された読みもの――私の育った家庭――」:
辻潤の家は、野上弥生子の家と門を共通にした大きな屋敷の中にあり、野上弥生子の家は門を入って更に板塀をめぐらした二階家。
「野枝さんの家はその板塀の外の大きな掃溜のそばの小さな二軒長屋の一つであった。掃溜とはいっても汚いものは棄てず、ただ大きな土の穴で、落葉などをかき集めてその中に棄てるのに使用していたようである。野枝さんの家には、いつもおびただしい糸巻があった。当時『青鞜』の若い同人として活躍していた野枝さんは、その家に辻さんという詩人風な人と一しょに住んでいて、まだ赤ん坊のマコちゃんを背中にくくりつけて歩いたり、家にいて裁縫をしたりしていた。私の印象はそのおびただしい美しい糸巻にあるので、野枝さんの顔はよく覚えていないが、糸巻の色は今でもはっきり覚えている。」
野上弥生子によると、辻の家は3軒の中央。
野上素一:1910.1.29-。〈「野上素一」『日本近代文学大事典』〉
平塚らいてうの巣鴨上駒込411番地への引越しと辻一家
『青鞜の時代』pp.203-204・「平塚らいてう年譜」ともに、平塚らいてう・奥村博史が、巣鴨上駒込411の家に引き移ったのは、6月とのみある。『読売新聞』6.17号に記事が出ているから、ここでは、6月上中旬頃とした。妙義神社前である。
6月頃、辻夫婦と息子だけで暮らしたことは、平塚らいてうが『元始、女性は太陽であった』p.517などに書いている。
井手文子『平塚らいてう』p.128
『平塚らいてう』p.128:
6月頃、「 このころ青鞜社にいて、唯一といっていいらいてうの片腕として働いていたのが、若い伊藤野枝であった。(略)このころ巣鴨に近い染井の野上彌生子の借家に、夫辻潤、姑、小姑、幼い子ども一(はじめ)とともに住んでいた。彼女だけが気落ちした社の空気をその強い性格で支えていた。」
この短い記述は不正確である。辻潤の家は、野上弥生子の家と門を共通にした大きな屋敷の中にあったが〈野上素一「書き直された読みもの――私の育った家庭――」〉、野上の家もまた借家であり、野上が大家であったのではない。それを野上弥生子の借家と書くのは極めて不適切。子供の「一」の読みも間違い。辻の家で伊藤野枝が姑・小姑と一緒だったと言えるのか。
著者の井手文子は、「青鞜」などの研究者だが、かなり不注意なところがある。私は、彼女の書いたものによってどれだけ混乱がもたらされたかと疑わざるを得ない。
1961年に出版された井手文子『青鞜 元始女性は太陽であった』p.157にも、まことの名は「一(はじめ)」と記されている。1979年の『自由それは私自身』p.134には「まこと」とルビを振っているが、1987年の『平塚らいてう』では、また「はじめ」に戻っている。井手文子は、まことの名を最後まできちんと把握していなかったことになる。(井手文子は、事実というものに関心がないのかもしれないが、私に言わせれば、研究者に値しない。)
この年の辻潤の住所について「全集年譜」の間違い
「全集年譜」によれば、9月ころに小石川区指ヶ谷町91番地に転居となっている。
しかし、この住所は、『青鞜』に記された11月頃の伊藤野枝の住所、小石川区竹早町82番地〈伊藤野枝「編輯室より(一九一四年一二月号)」『青鞜』第4巻11号〔12月1日〕〉と食い違い、「全集年譜」は間違っているとみなすほかはない。
「全集年譜」が誤ったのは、10月に出た『青鞜』第4巻第9号の「消息」欄に伊藤野枝の転居の記事があること、小石川区指ヶ谷町91番地という住所が『炎の女』・「伊藤野枝小伝」にあることから生じた混乱のためだろう。
この年譜では、この年の辻潤の住所は、基本的に「伊藤野枝年譜」を採用し、それに若干の修正を加え、「伊藤野枝年譜」が典拠にしたと思われる資料などについて注釈を加えたものである。
7月〜8月頃の竹早町への転居
「伊藤野枝年譜」によると、この年1914年7月前後に小石川区竹早(たけはや)町82番地に移転、となっている。
この転居を示す直接的な資料は、『青鞜』第4巻第9号〔10.1、三週年紀念号〕の「消息」欄で、「□伊藤野枝氏は小石川竹早町から又染井へ帰って来た。今野上さんの御留守宅にいられる。」とある。つまり、この時までに、伊藤は上駒込(染井)から小石川竹早町に移っていて、そこからまた染井に戻って来たという。
おそらく、竹早町の家は、妹の恒夫婦と母の美津が住んでいた家で、上駒込に住んでいた辻潤夫婦は家賃を払いきれなくて、妹夫婦の竹早町の家に移ったものだろう。「家賃が滞って家を立ち退かなければならなくなった時でも」辻潤は、尺八を悠々と響かしていたとは、野上弥生子が「彼女」に描いているところである。
竹早町で恒夫婦と美津と一緒に住んだことは、平塚らいてうが記している。
『元始、女性は太陽であった』pp.599-600:
「 こうして、過度の精力乱費が重なったせいか、やがて野枝さんの上には、生活の疲労の翳(かげ)が、なにか絶望の色をふくんで、しのびよってきました。あの生きいきした、まるで野に咲く花のように血色のいい顔は、いつしか青ざめ、その狭い額には、幾筋かの深い横皺があらわれ、眉間(みけん)には、苦痛と圧迫とに対する、空しい反抗が、暗い影をいつもつくるようになりました。ことに、長く住み別れた染井の地に居られなくなり、小石川竹早町のある家に、姑や小姑夫婦らといっしょに住むようになった大正三年の夏の野枝さんは、いたましいまでにやつれが出て、どこかイライラとヒステリカルな状態にさえなっていました。」
この頃について平塚らいてうの描くことにはやや混乱があると思われる(後述)。伊藤野枝「惑ひ」〔『新日本』〕には、姑の美津は出てくるが、具体的に小姑夫婦は出てこないが、小姑夫婦も同居していたのは確かだろう(そのほか弟も出てくる)。
転居先の住所について、82番地という番地を具体的に記したものはないようだが、『青鞜』第4巻11号〔12月1日〕に記された伊藤野枝の住所、小石川区竹早町82番地〈伊藤野枝「編輯室より(一九一四年一二月号)」〉と同じであるとして特に問題はないようである。
引越し時期については、『青鞜』第4巻第9号の発行が10月1日だから(この発行日は、おそらく『青鞜』に印刷された日付で、実際の発行日はもっと遅かった可能性もあるだろう)、9月以前に引っ越した訳である。
6月に平塚らいてう・奥村博史は伊藤の近くに越し、伊藤が平塚たちの食事を作った。それは1か月も続かなかったようだが、もし、6月に伊藤が小石川竹早町に移ったというのなら、平塚の記憶にはそれらが一緒に連合されて刻まれるであろう。伊藤が引越したので伊藤との共同炊事が終わったと書かれてもおかしくはない。つまり、伊藤が小石川竹早町に移ったのは、早くとも7月中旬というものだろう。ここでは、7〜8月頃、としておく。
『定本 伊藤野枝全集』第2巻の「解題」に、1914年夏の竹早町82番地への引越しが、野上弥生子「二人の小さいヴアカボンド」の中でも触れられている、とある。「二人の小さいヴアカボンド」は、のち、かなり修訂が施され「小さい兄弟」と改題されたもの。
私は「小さい兄弟」を読んだが、この小説は、野上弥生子の二人の男の子を主題にしているが、去年の夏に、隣家のN子とその夫のTが小石川の方へ引っ越したと書かれている。明らかに野枝と辻潤である。
「小さい兄弟」によると、Tの家では犬を飼っていて、野上弥生子の長男になついていた。引越しでこの犬も連れていかれたが、やがて逃げ返って来た。Tから手紙が来て、白山下まで行った時に到頭綱を噛みきって逃げてしまった、途中は無事に帰り着いた事と信ずるから、お宅の方へ帰りましたなら、当分お世話を頼みたいというような意味のことが書かれていた。犬は、野上家で世話することになったが、空家になった元の家を守っていたとある。犬の名前は「ヂョン」である。
この犬のことは、伊藤野枝「雑音」五にもある。「染井橋を渡り終ると、向うから飼犬のジョンが勢よく馳けて来て飛びつきまつわった。」とあり、「小さい兄弟」の犬の名前と一致している。伊藤によくなついていたことが分かるし、放し飼いにされていたことも分かる。それから、この犬のことは、どこにも書かれていないようである。
こうして、夏に辻潤一家が竹早町82番地に移ったことは確かであるようなのだが、野上弥生子「小さい兄弟」・「彼女」は小説であり、どれだけ事実に忠実であるかには注意する必要があるし、この時期の平塚らいてうは、疲労がたまっており、その書くことにもやや混乱があることには注意が必要である。
平塚らいてうは、この夏に小石川竹早町に移った伊藤野枝は、いたましいまでにやつれが出ていたと述べているのだが、そののち11月、『青鞜』を譲り受けようとして、平塚の前に現れた伊藤を、「相変わらず元気いっぱいで、ピチピチしていました」〈『元始、女性は太陽であった』p.552〉と描いている。夏には、いたましいまでにやつれていたが、11月には元気いっぱいに戻ったというのだろうか。それでは、「相変わらず」では、あるまい(以前のなじみだった通りに、という程の意味なのかもしれないが)。
妙義神社のお祭りの日
「編輯室より」『青鞜』第4巻第9号:
「□この間九月九日は妙義様の御祭だつたので皆集つて一晩賑やかに話しました。林千歳さん、生田花世さん、上野葉子さん御夫婦、野上八重子さん御夫婦や岩野さんや小倉(清三郎)さんや音楽家の原田さんなども見えました。」
伊藤野枝が野上弥生子の留守宅に住む
「伊藤野枝年譜」には、この年1914年9月頃、竹早町から巣鴨町に戻り、その時九州に帰っていた野上弥生子の留守宅〔上駒込329番地〕に住む、10月中旬、再び竹早町に戻る、という記載がある。
伊藤野枝が、野上弥生子の留守宅に住んだことは、『青鞜』第4巻第9号〔10.1、三週年紀念号〕の「消息」欄に出ている。「□伊藤野枝氏は小石川竹早町から又染井へ帰つて来た。今野上さんの御留守宅にゐられる。」
伊藤野枝が野上弥生子の留守宅を預っていたことは、『元始、女性は太陽であった』にも出てくる。
『元始、女性は太陽であった』p.519:
「 野枝さんの家と垣一つへだてて野上弥生子さんのお宅があって、野枝さんはいつも野上さんのところへ出入りして、いろいろ教えられていたようですが、ちょうどそのころ野上さんご夫妻は、大分の郷里へ帰国中でした。その留守番を、野枝さんが頼まれていたので、広い野上さんのお家の方へ行って、食事をすることもまれにはありました。
野枝さんが野上さんの家を、自分の家のようにして遠慮なしに道具を使い、きれいなふとんを出して、赤ちゃんを寝かせたりするのを見て、こちらは気が咎めたものです。」
この箇所は、伊藤野枝が平塚らの食事を一緒に作ったというあとの文章で、「野上さんのお家の方へ行って、食事をすることもまれには」あったというのは、伊藤の家で食事をするほかに、ということである。しかし、伊藤が平塚らの食事を作ったのは、およそ6月頃、野上弥生子が郷里に帰ったのが9月頃で、平塚の記憶に混乱がある。同様な混乱は『わたくしの歩いた道』にもある。
『わたくしの歩いた道』pp.152-153:
「ちょうど私たちが食事に通った頃は、野上さんご夫妻は、その頃まだ小さかった二人の男のお子さんを連れ、長いこと大分の郷里へ帰ってお留守中でした。その留守番を野枝さんがたのまれていましたので、広い野上さんのお家の方で食事することもありました。何事にも徹底した野枝さんは、金盥を鍋の代りに使ってすき焼をしたり、鏡を裏返して俎板にする位のことはやりかねない調子でしたし、それに奥村が食べものに好き嫌いがはげしく、生まれつき大の肉ぎらいの菜食主義者なのに、コマ切れのカレーライスやシチュウまがいのものがつづくのではやりきれません。それやこれやでこの共同炊事は長続きしませんでした。」
『わたくしの歩いた道』では、伊藤野枝は、「金盥を鍋の代りに使ってすき焼をしたり、鏡を裏返して俎板にする位のことはやりかねない調子でした」とあり、実際にはそういうことはなかったことになっている。しかし、例にしてはいかにも具体的だから。そういうことはあったのかもしれない。
野上弥生子「父の死」によれば、野上弥生子は、郷里の父親が重病だというので9月に子供を連れて、九州大分に戻った。この時、夫の野上豊一郎は東京に残って、「独棲生活に興味をかけていた」。野上豊一郎が家を離れて暮らしていたとはないから、上駒込の家に住んでいたのだろう。食事などは、比較的近くに女中が住んでいたので、食事の時だけ野上の家に来て世話したのだろうと思われる。
野上弥生子の父は、野上弥生子が郷里に戻って、そんなに日数を数えずに死んだようである。野上弥生子「噂」によれば、当然ながら、野上豊一郎は葬式にやって来たが、間もなく東京に戻り、野上弥生子と二人の子は九州に留まっている。そして「亡父の四十九日が忌日がすむと、茂子はおい/\東京に帰る事を考えるようになりました」(茂子=野上弥生子)とあり、12月半ば〈伊藤野枝「編輯室より(一九一五年一月号)」〉に東京に戻っている。
野上弥生子「父の死」によれば、野上弥生子が別府に着いた前日、「その地方は非常な暴風雨(あらし)」だったとある。『災害』によると、9月24日に、台風のため豊後水道〔大分県と四国の間〕で漁船127隻が行方不明という。野上弥生子のいう「暴風雨」がこの24日の台風であると確実に言える訳ではないが、この日とすれば、九州の野上弥生子の郷里から東京に行くのに、2、3日がかりの旅行〈野上弥生子「噂」〉というから、野上弥生子が東京を出発したのは、9月22日頃、父が亡くなったのが10月上中旬頃、これで四十九日などを含めて大体つじつまが合っている。この年譜では、そのようにみなす。
伊藤野枝が留守を預っていたのは、野上豊一郎が葬式のために大分に出かけて、野上の家に誰もいない間だけだと思われる。せいぜい2週間程度ではないか。この間、辻潤も伊藤と一緒だったのかなどは分からない。
「よみうり抄」『読売新聞』10.14号に、伊藤野枝が小石川区武島(たけじま)町に移転という記事がある。小石川区武島町という住所は確認できず、読売新聞記者の間違いだろうが、およそ、その頃、野上の家を出たものだろう。
大杉栄の訪問
『炎の女』p.155によると、大杉栄は9月に辻潤の家を訪問。これを井手文子「伊藤野枝小伝」・『ダダイスト辻潤』p.19 が採用したと思われる。
「渡辺政太郎年譜」では、10月に、大杉を伊藤野枝に紹介、となっている。
この年譜では、大杉栄「死灰の中から」の通り、秋としておく。
『青鞜』の編集・発行
『青鞜』の編集さらに翌年より伊藤野枝の要求を入れて発行が、平塚らいてうから伊藤野枝に委ねられる。〈『元始、女性は太陽であった』など〉 『青鞜』の第4巻10号〔11月1日発行〕の「編輯室より」の目次の署名が、前月の平塚らいてうから伊藤野枝に変わっている。
『天才論』の出版
『天才論』の「扉の次に「父の霊にささぐ 潤」という献辞がある。」〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.282〉
『天才論』〔or 『天才論』植竹版〕が「従来二十数版を重ねたと伝えられて来たのは誤り」。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.282〉
「今でもあの本が数十版を重ねて愛読されていることを考えると僕もいささか心が慰められる。」〈「ふもれすく」〉と、辻潤が記しているのは、間違い or 不正確ということになる。
「おもうまま」『天才論』:
「一番初めにこの原稿で世話を焼かしたのは佐藤政治郎(?)さんだ。しかし折角骨を折って下すった甲斐もなく、本屋がパ(?)ンクラプトしてオジャンになった。次は西原和治君と平塚明さんとだが、この両氏には特に色々御迷惑をかけたように感じている。それから生田長江氏にも始めは間接的に、後には直接に御厄介をかけた。また岩野泡鳴さんと小倉清三郎君には書店を紹介してもらった。それから書中難解な英語以外の他国語(特にラテン語)を御多忙の中から懇切に教えて下すったのは旧師高橋五郎先生だ。また仏蘭西語については木村幹君に、伊太利語については山田安献君にそれぞれお手数をかけた。それから書中に挿入してある写真については、フランシスとドストイエフスキィとフロオベルとを野上臼川氏から、ホイットマンを岩野氏から、マルクスとルソオとカアライルを渡辺政太郎君から拝借した。」
生田長江が植竹書院を紹介
佐々木靖章は「植竹書院を紹介したのは岩野泡鳴と小倉清三郎である(生田長江も関っているか?)。」〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.285〉と書いているが、正しくない。辻潤は、「生田長江氏のことなど」の中で植竹書院を紹介してくれたのは生田長江だとはっきり書いている。
西原和治・平塚明〔らいてう〕には特に色々御迷惑をかけたように感じている、とあるのは、西原和治・平塚らいてうの方が心配して辻潤一家の世話を焼いたことに対するシャイな、あるいは忸怩たるものを含む複雑な表現ではないかと思う。その世話の中には、出版社を探すことも含まれていた筈である。岩野泡鳴・小倉清三郎には出版社を紹介してもらったとあるが、植竹書院であったとは限らないし、二人がそろって植竹書院を紹介したというなら、やや不自然というものだろう。
「生田長江氏のことなど」によると、
「 私が初めて生田長江氏を尋ねたのは、その原稿の出版をどこかに世話してもらうための用件だった。それより先に平塚らいちょう氏の世話で、原稿は生田氏のところへまわっていた。」
というから、最初に辻潤が平塚らいてうに頼んだか、あるいは平塚が自ら買って出て、生田長江に出版社を紹介してくれるよう頼んだということになる。「平塚らいてう年譜」に、『青鞜』発刊前に生田長江が平塚らいてうに女流文芸誌の発行を勧めたとあり、平塚が生田に頼むのは自然である。
そして、生田長江は植竹書院を紹介したのである。
「 ところで、まだ出版がきまらないうちに生田氏から相談を持ちかけられた。それは氏の友人の某氏がやはりロンブロオゾオをやっているが、まだ三分の一程しか出来ていないので出版屋からしきりに催足されて困っている。もし君さえよかったらこちらへ譲り受けたいのだがというような話だった。私はなにしろひどく窮していたから、一刻も早く金になりさえすればいいと思っていたので、都合でお任せしますからよろしくおとり計らい下さい、というようなことをいった。しかし長江氏も、せっかく苦心してやったホンヤクだから、君の名で出さないのも惜しい気もするがというようなことをいわれたようにも記憶する。
生田氏がその相談を植竹書院主人に持ちこんだ。すると今まで躊躇していた植竹がその原稿を手放すことが急に惜しくなったとみえて、私のところへきてこちらで出版したいから断わってくれということだった。勿論私も自分が苦心してやったのだから、自分の名前で出したいのは山々であった。で、植竹からの意志を伝えて断わった。生田氏も別段イヤな顔もされず、それはよかった、といって喜んでくれた。」
私は、「生田長江氏のことなど」に気が付かなかったので、伊藤野枝の関係で、植竹書店から『阿片溺愛者の告白』の翻訳を依頼され、それから、『天才論』の出版を持ちかけて植竹側も乗気になったということだったろうかと考えたりした。佐々木靖章が別のところで1914年3月に、辻潤は植竹書院から『阿片溺愛者の告白』の翻訳を依頼されたらしいと述べていたからである。
佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.288-289によると、『阿片溺愛者の告白』の「序」と「蛇足」によれば、『阿片溺愛者の告白』の翻訳はU〔植竹喜四郎を指すと思われる〕の依頼で1915年3月に始められたことになるが、植竹書院の1914〔大正3〕年9月から11月にかけて刊行された「文明叢書」の「広告の年月を信ずれば、辻潤が依頼されたのは大正3年ということになり、「蛇足」の記述より一年早いことになる。「訳者名まで明記して宣伝をしておいてから当人に依頼するということは普通ありえないであろうから、大正四年というのは辻潤の記憶違いで一年早く三年三月頃頼まれたとするのが正しいかもしれない。」
「生田長江氏のことなど」を加えて、改めて推測するなら、こうして、植竹書店から『天才論』が出版されることになったが、辻潤は「初め固有名詞を全部原語のまま入れて横書きにしていた。「人名など発音のわからないのが沢山あったから、原語(むしろ字というべきであろう)のままにしておいた方が読者に対して親切だと考え」ていた。それではまずいということになって、固有名詞をカタカナにする作業が必要となった。それで、『天才論』の出版がいくらか遅くなったのである。その作業中に、植竹書店から『阿片溺愛者の告白』の翻訳を依頼されたが、その翻訳に取りかかったのは、『天才論』の方の作業が終了してからであったということになる。この依頼が、いつだったのかははっきりしない。1914年9月に植竹書院から出された「文明叢書」第1編に広告が載っていたというから、それ以前ということになる。この年譜では8月頃としておいた。
辻潤は、『阿片溺愛者の告白』の翻訳を依頼されて、すぐにそれに取りかかったと書いている訳ではなく、その翻訳を始めたのは、辻が翻訳を依頼されたと書いている1915年3月とみなしても問題はないようである。あるいは1915年3月に改めて翻訳の依頼があったのかもしれない。
『天才論』が出版されてから『阿片溺愛者の告白』の翻訳を始めるまでに3か月あるのがやや気になる。『天才論』が版を重ねていて、あまり気が乗らなかったのだろうか。
「全集年譜」に1912年5月に「オーピアムイーター」を訳する、とあるのは間違いである。
生田長江の家に行った際、玄関番をしていた生田春月に会っているかもしれない。「春月氏に初めて会ったのもそこの家だったと思う。」〈「生田長江氏のことなど」〉とある。
「生田春月年表」によると、玄関番をしていたなどははっきりしない。生田春月は、1908.11.5 本郷千駄木町の生田長江の家に寄宿(佐藤春夫、同宿)、1909.6 帰郷、1909.11 再上京、麹町に下宿、1911 王子滝の川、のち牛込横寺町、1914.3.5 牛込鶴巻町に移っている。
岩野泡鳴の「プルターク英雄伝」の英訳の下訳
「全集年譜」の1912年に、「岩野泡鳴に頼まれて、アーサー・シモンズの『表象派の文学運動』や、プルタークの『英雄伝』の訳を手伝う。」とあるが、この通りであるかはあやしい。
「ふもれすく」に「泡鳴の仕事の手伝いなどもやった。」とあり、手伝いをしたことは確かである。『元始、女性は太陽であった』p.523によれば、清子の世話で岩野泡鳴のプルタークの『英雄伝』の下訳をしている。
「岩野泡鳴年譜」によると、岩野泡鳴は中学校の英語教師だったこともあり、幾つかの英文の翻訳を雑誌に発表しているが、翻訳書として出版されたのは、『表象派の文学運動』だけで、プルタークの『英雄伝』は翻訳は終わったが出版されずじまいとなった。辻潤は、このいずれか、または両方の下訳をしたことになるが、「全集年譜」以外で1912年に岩野泡鳴の英訳の下訳したこと、および『表象派の文学運動』の下訳をしたことは確認できない。
「岩野泡鳴年譜」によると、岩野泡鳴に新潮社から「プルターク英雄伝」の翻訳依頼があったのが1913年9月。1915年8月5日に岩野泡鳴・清子は別居しているから、1913年9月から1915年8月までの間に、辻潤は「プルターク英雄伝」の下訳を世話されたことになる。岩野泡鳴が「プルターク英雄伝」を訳す時、蒲原英枝という協力者がいた。逐語訳に近い下訳を辻にさせ、岩野泡鳴がそれを自分の言葉に置き換えて口述し、それを蒲原英枝に書き取らせるという大量生産方式を取ったものと思われる。何しろ「プルターク英雄伝」の翻訳原稿は、4,744枚〈「岩野泡鳴年譜」〉もあったのだから。蒲原英枝にこの仕事の世話をしたのも清子だったが、それは、1915年4月、その頃までに、ある程度の下訳が出来ていたということだろう。おおよそ、1914年に辻潤は「プルターク英雄伝」の下訳を世話されて、それを行なったものであろう。
辻潤がシモンズの『表象派の文学運動』の下訳をしたことは確実性に乏しい。辻潤が『表象派の文学運動』を原書で読んだらしいことは、『天才論』の「きづいたこと(一般読者のために)」の中に、「種類は違うがアーサア・シモンズの"Symbolist movement in Literature"などは変質的心理を全く別方面から観察した書として最も価値がある。これは岩野泡鳴氏によって「表象派の文学運動」と題して訳されている。」とあることから窺える。だが、辻は象徴主義などに関心があっただろうから、岩野泡鳴と関係なくシモンズを読んでいても不思議ではないだろう。
『元始、女性は太陽であった』p.523:
「泡鳴氏がやっている「プルターク英雄伝」の訳を、辻さんに下訳をさせるようにしたのも、清子さんのはからいでした。泡鳴氏が辻さんを相手に飲みながら、すぐ酔いの出る赤い顔で、辻さんの気力のないというか、覇(は)気のないことを、しきりに叱りつけている場面にも、行き合わせたことがあります。」
江渡狄嶺
「全集年譜」に、この1914年、江渡狄嶺〔幸三郎〕を知る、とある。
辻家の生活
『元始、女性は太陽であった』pp.519-520:
「 わたくしたちも、辻さん一家も、いずれ劣らぬ貧乏暮らしでしたが、辻さんのところの貧乏は、さらに徹底していました。辻さんのお母さんは、札差の娘さんとか、芸事に堪能な人でしたが、三味線がうまかったので、ランプの石油が買えなくて真暗な家のなかででも、三味線をひいているということを、野枝さんから前に聞いたことがあります。野枝さんのところの借金取りが、青鞜社の事務所の方へやってくることがありますが、おそらく野枝さんが苦しまぎれに「青鞜社から手当を貰ったら支払う」と、一時のがれをいったのでしょう。しまいに借金取りは、わたくしのところへもやってきました。こちらも同じ身の上ですから、どう仕様もありません。」
この年の秋頃と思われる辻一家の生活は、伊藤野枝「惑ひ」〔『新日本』〕に描かれている。
辻潤が職を失って2年になるとあり、流二は産まれていないので、この1914年の、およそ晩秋頃の記述である。
伊藤野枝「惑ひ」〔『新日本』〕三、九:
「庭の隅の小さな銀杏も、何時の間にか美しく色づいた。」「逸子はつい二三ケ月前までゐた郊外の、殊更に澄み切つた秋の空気が、忘れられないのであつた。」「一日々々と近づいてくる冬支度」(逸子=伊藤野枝)
伊藤野枝「惑ひ」〔『新日本』〕には、美津が交際のために何がしかの金を用意してくれと辻潤にせがむ様子が描かれている。伊藤野枝は、その僅かな金を得るために、「龍一」のところを訪れている。「龍一から、困るたびに可なりな補助を受けてゐた。」とあり、「龍一の親切な心遣りも逸子の、逝つた旧師の恩恵が手伝つてゐる」とある。「龍一」は、伊藤野枝の叔父、代準介なのだろうか。
辻潤は、「ふもれすく」に、伊藤野枝との生活について「どうして暮らしてきたか今でも不思議な位なのである。」と書き、また、伊藤について「経済観念が欠乏」と書いているが、『元始、女性は太陽であった』によれば、伊藤野枝は借金取りに追われるようなこともあり、伊藤野枝は「 谷が失職してからもう二年になる。その間だん/\に苦しくなつてくる家の中の重荷は皆んな、自然に逸子にかゝつてきたのだつた。」(谷=辻潤)と書いているが、その通りだったと思われる。
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竹早町(たけはやちょう):1869〜1964年の町名。小石川竹早町ともいう。1964〜1966年、小石川4〜5丁目。〈「竹早町」『角川地名大辞典 13 東京』〉
版型の種類あるいは寿命の関係なのか、当時の「版」は、今日の「刷」に相当するらしい。「刷」が出てくるのは、写真製版が登場してからだろうか。
『無想庵物語』p.210によると、当時〔『天才論』出版の頃〕の一版は200部か300部とある。また、伊藤信吉「解説」『辻潤著作集』第4巻によると、「私のおぼろげな記憶では、大正年代の出版社は五〇〇部くらいを一版ということにし、最初三千部製作すると、「たちまち六版」などと広告したりするようだった。」とある。これらの一版あたりの部数は、『辻潤全集』の「解題」に書かれている部数とは必ずしも一致していない。
1914.1.13 平塚らいてう、家を出、独立に踏み切り、奥村博史と同棲。青鞜社の事務所に近い、巣鴨のとげぬき地蔵前の裏通り、廃兵院の近くの小さな二階家。植木屋の広い庭のなかに、ぽつんと建った離れ家。上6畳、下8畳。6、7円の家賃。〈『元始、女性は太陽であった』pp.509-510,513,515〉
1914.1 小倉清三郎「「野枝子の動揺に現はれた女性的特徴」『青鞜』第4巻1号。〈『元始、女性は太陽であった』p.542〉
1914.2 伊藤野枝「出奔」『青鞜』第4巻2号〔2月号。2.1〕。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第1巻〉
1914.2 平塚らいてう「独立するに就いて両親に」『青鞜』第4巻2号。〈『元始、女性は太陽であった』pp.512,..〉
1914.2 福田英子、東京府下=滝野川村に転居、呉服物を行商。〈「福田英子略年表」〉
1914.3 伊藤野枝「従妹に」『青鞜』第4巻3号〔3月号。3.1〕。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉
1914.3.8 武林無想庵「最近の感想」『読売新聞』3.8号 日曜付録。〈『読売新聞』〉
1914.3.22 武林無想庵「煩悩時代」『読売新聞』3.22号 日曜付録。〈『読売新聞』〉
1914.3.末 渡辺政太郎、横浜から小石川区=指ヶ谷町3番地に転居。〈「渡辺政太郎年譜」〉
1914.4 伊藤野枝「惑ひ」『青鞜』第4巻4号〔4月号。4.1〕。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第1巻〉
1914.4 《『青鞜』の売上が落ち》発売が東京堂に戻る。〈『青鞜の時代』p.202〉
1914.6 伊藤野枝「S先生に」『青鞜』第4巻6号〔6月号。6.1〕。※T.3.5.15〈『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉
1914.6 野上弥生子「染井より」『婦人画報』第96号。6.1発行。〈「後記」『野上彌生子全集』第2巻〉
1914.5.4 武林無想庵「喰人種の高札」『読売新聞』5.4号 月曜付録。〈『読売新聞』〉
1914.7.6 武林無想庵「痺れかかった生活の断片」『読売新聞』7.6号 月曜付録。〈『読売新聞』〉
1914.7.10 武林無想庵「大阪にて」『読売新聞』7.10号。〈『読売新聞』〉
1914.7.27 武林無想庵「予が生い立ちの記」『読売新聞』7.27号。〈『読売新聞』〉
1914.8 武林無想庵「米と塩との生活」『読売新聞』8.12、8.13号。〈『読売新聞』〉
1914.8.28 伊藤野枝子、編『ウォーレン夫人の職業』エッセンスシリーズ30 青年学芸社。〈「伊藤野枝年譜」〉
1914.8 野上弥生子「染井より」『婦人画報』第99号。8.1発行。〈「後記」『野上彌生子全集』第2巻〉
1914.9.20〜9.25 日比谷美術館で奥村博史が初めての個展を開く。〈『青鞜の時代』p.221〉
1914.9.21〜10.4〔9.30欠〕 野上弥生子「或夜の話」『東京朝日新聞』。
※のち、「死」と改題して『新しき命』初版に収録、1914.9の日付を付す。
〈「後記」『野上彌生子全集』第2巻〉
1914.9.24 豊後水道において、台風のため漁船127隻、行方不明。〈『災害』〉
1914.9 『青鞜』、はじめての欠号。〈『青鞜の時代』p.221〉
1914.9 大杉栄「『オイケン哲学の非難』(古谷栄一著)」『近代思想』第2巻第12号。〈大沢正道「解説」『大杉栄全集』第2巻〉
1914.9 野上弥生子、九州にいる父親の病を聞いて一家をあげて帰省。〈野上弥生子「彼女」〉夫の野上豊一郎を残し、子供と帰省。〈野上弥生子「父の死」〉
1914.10 伊藤野枝「遺書の一部より」『青鞜』第4巻9号〔10月号。10.1〕。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第1巻〉
1914.10 アルツイバーシェフ、武林無想庵、訳『サニン』三星社。〈『日本近代文学年表』〉
1914 アルチバーシェフ、武林無想庵、訳『サニン』(上)植竹書院。〈「武林無想庵盲目書誌」〉
植竹文庫第1編の『サニン』〔アルツィバーシェフ作、武林無想庵、訳〕は、三陽堂版・三星社版と版を重ね、三陽堂版によると1918年9月18日で13版、三星社版によれば1920年11月30日で22版を数えており、この版数を信用する限り、『天才論』よりは部数がはるかに多く出た。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.282,284〉
『サニン』は「ごうごうたる評判になった。大胆不敵な sex の描写と近親相姦とみなぎる虚無思想で文学青年の間にセンセーションをおこし、武林の名とニヒリズムはこれで結びついたといっていい。」〈『無想庵物語』p.13〉
1914.10 自由劇場、第8回公演。〈「小山内薫」『日本近代文学大事典』〉
1919.9 自由劇場、第9回の試演で幕を閉じる。〈『歌舞伎の歴史』p.190〉
1914.10.15 大杉栄・荒畑寒村ら月刊『平民新聞』創刊。〔〜6号、〜1915.3.15、4号を除き発禁、安寧秩序に有害という理由〕〈『日本近代文学年表』・「五 社会主義運動の復活」「寒村自伝 上」〉
1914.11 月刊『平民新聞』創刊。〈「高村光太郎年譜」〉
1914.10 高村光太郎、詩集『道程』抒情詩社。10.25。〔200部程刷ったこの詩集は心ある人々に迎えられたがあまり売れず、残本はその後何度か改装されて、世に出た。〕〈「高村光太郎年譜」〉
1914.11 伊藤野枝「編輯室より」『青鞜』第4巻第10号。『平民新聞』の発禁について書く。〈「伊藤野枝年譜」〉
1914.11 辻潤訳の『天才論』に先立って、森孫一訳『天才と狂人』という題で文成社から出版。〈「全集年譜」〉
1914.12 小倉清三郎「性的生活と婦人問題」『青鞜』。〈『日本近代文学年表』〉
小倉清三郎「性的生活と婦人問題(研究と評論)」『青鞜』第11号。〈『青鞜の時代』p.207〉
1914.12 伊藤野枝「雑感」『青鞜』第4巻第11号。大杉らの活動を擁護。〈「伊藤野枝年譜」〉
1914.12.半ば 野上弥生子、帰京。〈伊藤野枝「編輯室より(一九一五年一月号)」〉
福田英子(ふくだひでこ):1865.10.5-1927.5.2。〈「福田英子」『日本近代文学大事典』〉
渡辺政太郎(わたなべまさたろう):1873.7.17-1918.5.17。〈「渡辺政太郎」『日本社会運動人名辞典』・「渡辺政太郎年譜」〉
『南天堂』によると、渡辺政太郎は、1917〔大正6〕年後半〈近藤憲二『一無政府主義者の回想』〉、指ヶ谷町92に移り、翌年亡くなっている。〈『南天堂』pp.29,70〉かつて辻一家がいた家かその近くということになる。
『大正アナキストの夢』p.190によると、渡辺政太郎が住んでいたのは、指ヶ谷町93番地である。同書の「渡辺政太郎年譜」によると、1917年9月中旬に移っている。
渡辺政太郎が亡くなって2年後、渡辺政太郎の号からとった「北風会」という小集会が指ヶ谷町の家でひらかれていて、岡本潤が参加している。その家は、小石川指ヶ谷町の狭い路地裏にあった4畳半と3畳の小さな平屋という。〈「路地裏の学校――北風会から社会主義同盟へ――」『罰当りは生きている』〉
奥村博史(おくむらひろし):1889.10.4-1964.2.18。〈「奥村博史」『日本近代文学大事典』〉
「博はのちに南湖院へ入院の時期(一九一五−一六年)姓名判断に興味をもち、博史と改名した。」〈『青鞜の時代』p.116〉
生田春月:1892.3.12-1930.5.19。〈「生田春月年表」〉
江渡狄嶺:1880.11.13-1944.12.15。〈「江渡狄嶺」『日本近代文学大事典』〉
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1915 大正4
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1月 《伊藤野枝は『青鞜』の編集・発行人となり、》『青鞜』第5巻第1号に「『青鞜』を引継ぐに就いて」を発表。〈「伊藤野枝年譜」〉
1.24頃〈大杉栄「死灰の中から」・など〉《この頃、渡辺政太郎夫妻が大抵毎日、辻潤の家に来て、まことの面倒をみ、洗濯や掃除もした。〈伊藤野枝「乞食の名誉」〉》ある寒い日に、渡辺政太郎夫妻が訪れ、伊藤野枝に谷中村についての話をする。伊藤は谷中村に残り、今また水没の危機にある人達の話に興味を抱き興奮するが、辻潤は、子供の世話もろくにできない伊藤の興奮ぶりを冷ややかに見る。伊藤野枝が質問し、渡辺政太郎夫妻は、日が暮れてからも長く話して帰る。夜、そのことで辻潤・伊藤野枝はかなり長く論じる。〈「ふもれすく」・伊藤野枝「転機」・大杉栄「死灰の中から」・「伊藤野枝年譜」・など〉 〔伊藤野枝は、渡辺政太郎から谷中村関係の本など借りて読んだりするが、このことが、伊藤が辻との思想の違いを認め、やがて大杉栄に走る契機となる。〈伊藤野枝「転機」・大杉栄「死灰の中から」〉〕
1.26頃 谷中村の話を聞いた翌々日、伊藤野枝は谷中村のことについて意見を述べた大杉栄宛ての手紙を書く。〈大杉栄「死灰の中から」一〉〔後、大杉は月に一回位辻潤の家を訪れ、辻潤とマックス=スティルナーの「唯一者と其の所有」の話などをする。辻は、この本を自分のバイブルだと言って尊崇し愛読していた。〕〈大杉栄「死灰の中から」七〉
1〜2月頃 伊藤野枝は、まことを連れて、四谷区=南伊賀町の山田嘉吉宅の勉強会に2、3回、参加。〈「伊藤野枝年譜」・『元始、女性は太陽であった』pp.570,..・伊藤野枝「乞食の名誉」一〉
2.5頃 大杉栄、辻潤の家を訪れる。〈大杉栄「死灰の中から」三〉
2.中旬 小石川区指ヶ谷町92番地の借家に移る。〈「よみうり抄」『読売新聞』1915.2.19号・『青鞜の時代』p.224・「ふもれすく」・大杉栄「死灰の中から」三〉 渡辺政太郎の家の近く。〈『大正アナキストの夢』p.141〉
2.中旬 大杉栄、辻潤の家を訪れる。〈大杉栄「死灰の中から」三〉
3.1 堺金次郎方における平民講演会に奥村博史を伴い現われる。31人が出席し、大杉栄・荒畑寒村・山鹿・宮嶋資夫・渡辺政太郎の演題があったという。18:00PMに始まり、22:00PM頃、散会。会終了後、辻潤は奥村博史の絵の出品されている障子社という展覧会を見るように呼びかける。〈『評伝 宮嶋資夫』pp.84-86・宮嶋資夫「遍歴」・宮嶋資夫「人間随筆」辻潤・伊藤野枝「編輯室より(一九一五年三月号)」〉
3月 『阿片溺愛者の告白』の翻訳を始める。〔ある日、丸屋の二階で「万人叢書(エヴリイマンスライブラリイ)」の訂正増補を見つけて買い、それを翻訳。6月一杯というような計画で始めたがテキストが難解で三分の一程で中断、別の仕事にかかる。植竹の方の都合で延期ということになる。間もなく翻訳可能なテキストを得て、少なくとも翌1916年半ばには訳了していたと推測される。〕〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.288・「序」『阿片溺愛者の告白』・「蛇足」〉
4月頃 伊藤野枝、佐藤政次郎・西原和治の退職問題にからんだ上野高等女学校の同窓会に初めて出席。
〈「伊藤野枝年譜」〉
5月頃 伊藤野枝、辻潤が伊藤の従妹の坂口キミ〔のち伊東キミ〕と関係を持ったことを知る。《伊藤がいつも外出して多忙で、坂口は伊藤が辻に対して冷淡だという理由から、同情して辻の身のまわりの世話をした〈「ふもれすく」〉。》〈「伊藤野枝年譜」・伊藤野枝「従妹に」・伊藤野枝「偶感二三」・「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻・「ふもれすく」〉 〔伊藤野枝は別居を申し入れるがこれは実現しなかった。〈伊藤野枝「申し訳丈けに」〉〕
7月頃 伊藤野枝の郷里、福岡県=糸島郡=今宿村に行くことになり、かねて一度行かなければならないと思っていたYの処を暇乞いかたがた訪ねる。翻訳のことを訊ねられ、『阿片溺愛者の告白』を中断したことを話す。テキストを訊ねられ、Yは訂正増補はやめた方がよいと言い、代わりにマクミランのポケット=クラシックスを見せて、これでやったらどうかと言うので、拝借する。〔それを翻訳する。〕〈「蛇足」〉
7.20 伊藤野枝との婚姻届が出される。〈「辻潤戸籍抄本」〉
7.24 朝、伊藤野枝・辻潤、辻まことを連れて、伊藤野枝の実家のある福岡県=糸島郡=今宿村へ出発。〈「よみうり抄」『読売新聞』1915.7.25号・「伊藤野枝年譜」〉
辻潤も伊藤野枝とともに今宿に留まる。〈「陀々羅行脚」・野上弥生子「彼女」〉 伊藤野枝の帰郷および長く留まった理由は不明。
ドイツ語をやる積りで独逸の辞書を持つて居たが、スパイと間違えられる。伊藤野枝の父などが辻潤に羽織を作らせて着せたが、それを一日で質に入れて酒を飲む。それから伊藤野枝の父と気まずくなる。〈小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」〉
11.4 伊藤野枝、男子を産む。辻潤の次男、流二。〈「伊藤野枝年譜」・伊藤野枝「らいてう氏に」・など〉
12.5頃 伊藤野枝、帰京。〈伊藤野枝「編輯室より(一九一六年一月号)」〉
この頃、伊藤野枝は、辻美津に一時だけ子供をつれて田舎に一人で行かして貰いたい、辻潤に別居したいと話し、双方から承諾を受け、その準備を始める。〈伊藤野枝「成長が生んだ私の恋愛破綻」〉
この年頃から「仏教の実在観に降伏」。〈「錯覚自我説」〉
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2月 『天才論』3版 1915.2.10。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.282〉
3月 『天才論』4版 1915.3.5。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.282〉
9月〜 「ジプシイの話――Zincali」『科学と文芸』創刊号〜第3号。
※『科学と文芸』:加藤一夫の編集。
〈「全集年譜」〉
11月「浮浪」デ=クインシィ『科学と文芸』1915.11号。
※「阿片溺愛者の告白」の冒頭部分であったと思われる。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.288〉
12月 「萬物は俺にとつて無だ ――マツクス・スチルネル――」『生活と芸術』第3巻第4号〔12月号〕。12.1発行。
※『生活と芸術』:土岐善麿〔哀果〕の編集。
〈『生活と芸術』第3巻第4号〉
※「唯一者とその所有」の英訳本の序詞に当たる部分を「万物は俺にとって無だ――マックス・スチルネル――」と題して『生活と芸術』〔1915.12〕に発表。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.301〉
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渡辺政太郎と谷中村の話
この1915年1月に伊藤野枝に谷中村の話をしたのは、宮嶋資夫夫妻だとずっと私は思っていた。渡辺政太郎ではなく宮嶋資夫と書いてあるのを見た最初の本が何であるかは忘れてしまったが(おそらく『ダダイスト辻潤』)、その時は「ふもれすく」には渡辺政太郎とあるのに、どうして宮嶋資夫なのかと不思議に思った。のちに伊藤野枝の「転機」を読んで、そこには「一月の寒い日」に「M夫婦」が訪れて、2、3日谷中村へ行くかもしれないと言い、それから伊藤野枝にはまったく未知の、谷中村の状況を語ったとあり、私は「政太郎」を「せいたろう」と読むものと思っていたので、渡辺政太郎がMの筈はなく、やはり宮嶋資夫が正しいのかと思った。それで、その本が、辻潤が「ふもれすく」に明記していることをきっぱり否定して宮嶋資夫だというからには、それなりの十分な根拠があってのことなのだろうと思い、その根拠の内容までは分からなかったものの、それからずっと宮嶋資夫が正しいものとばかり思っていたのだった。
そして、その本には、「ふもれすく」に宮嶋資夫でなく渡辺政太郎とあるのは、「ふもれすく」執筆時、渡辺は故人で、官憲の目を宮嶋資夫から逸らすためだったのではないかというふうにも書かれていたと思う(『ダダイスト辻潤』ではない。この本が何だったかは思い出せないし、分からない)。けれでも、谷中村のことが一般の耳目をひきつけたのは10数年前のことであり、1915年頃にはほとんど忘れられている。そんな話が宮嶋資夫を官憲から危険視させ、彼の立場を危うくさせるものなのだろうかと思い、「ふもれすく」を読む限り考えにくいようだが、辻潤が単に名前を間違ったのかもしれない、などと考えたりした。
けれども、『定本 伊藤野枝全集』の「伊藤野枝年譜」に、宮嶋資夫ではなく、渡辺政太郎となっているのを見て、改めて反省を強いられることになった。この年譜は、伊藤野枝研究の最新の成果を盛り込んだものの筈で、そこに渡辺政太郎とあるからには、やはり十分な根拠があっての筈なのだから。
そこで、まず、宮嶋資夫の自伝「遍歴」をみたが、そこには足尾鉱毒事件・谷中村の話は出てこない。1916年4月の辻潤と伊藤野枝が別れる場面に宮嶋資夫は居合わせているが、「それまでに一度、中村孤月に連れられて行つた事があつたが、その日は一人で行つた。」とあり、その日が辻潤の家に行く二回目に過ぎず、最初の時も夫婦そろって行ったようではない。つまり、宮嶋資夫「遍歴」によるなら、どうも、宮嶋資夫のようではない(ただし、宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」によれば、1916年2月に宮嶋資夫は大杉栄と一緒に辻の家に行っているので、二回目というのは正しくないだろう。「予の観たる大杉事件の真相」は発表が早いので、より正確の筈である)。
さらに、『評伝 宮嶋資夫』を読んだが、そこにも、足尾鉱毒事件・谷中村は出てこず、宮嶋資夫が伊藤野枝に谷中村の話をしたなどとは記されていない。
谷中村の問題はアナーキスト達の関心を引いたが、決して中心的な問題ではなかった。田中正造が問題解決に力を注ぎ、荒畑寒村が、さらに福田英子などが関心を寄せたが、個人としての尽力したというべきである。この頃、谷中村に残って、あくまで立ち退きを拒んでいるのは十数人といったところらしく、大きな問題と受け取られなかったのは当然である。その中で、渡辺政太郎も福田英子を通じて谷中村の問題に関心を寄せていたのである。〈「寒村自伝 上」・『大正アナキストの夢』・『福田英子』・『雀百まで悪女に候』〉
伊藤野枝「転機」にM夫婦はその頃辻の家によく出入りしていたとあり、「渡辺政太郎年譜」によると、その頃の渡辺政太郎は、指ヶ谷町3番地という比較的近所に住んでいたので、この点でもつじつまが合っている。
伊藤野枝に谷中村の話をしたのが、渡辺政太郎であることは、「渡辺政太郎年譜」が掲載されている『大正アナキストの夢』の本文でもはっきりと述べられていることである。
こうして、辻潤が「ふもれすく」で明記した渡辺政太郎という名前を否定すべきものは何もないと言わなければならないのである。
よく調べて十分な根拠があってそう述べているのだろうなどと勝手に想像して、他人の言葉をやすやすと信じることが如何に危険であることか。私は改めて教えられた。十分な根拠がないのに、一旦正しいと信じると、その方向に突き進んでしまう。ある程度は当然だが、この経験は、少しショックであった。
『定本 伊藤野枝全集』の「解題」は、伊藤野枝が小説で用いたイニシャルによる仮名について、対応する実在の人物を示してくれている。それによると、伊藤野枝が用いたイニシャルは、当然ながら、その人の名字から取るのがより一般的で、「転機」の中のMが名の政太郎(まさたろう)のMであることは、伊藤野枝が渡辺政太郎に寄せた親愛を示していることになる。
大杉栄「死灰の中から」:
「
一
四年ばかり前の一月の末に、ドイツ社会党非戦派の一首領ローザ・ルクセンブルグの写真を送った返事として、N子から思い懸ない長文の手紙を受取った。
「このあいだは失礼致しました。それから絵はがきをありがとう御座いました。大変いい写真で御座いますね。おとなしい顔をしていますのね。すっかり気に入ってしまいました。二十四日の会のこと、Wさんに伺いましたから出たいと思いましたけれど、夜は当分少し困りますので失礼しました。
「Mさんのところでこの前の土曜日からお講義がはじまりました。ウォドのピュア、ソシオロジイです。緒論だけでしたけれど、いろいろなおもしろい疑問を引っぱり出すことができました。おもしろいと言うよりは後から後から興味が湧き上って来ます。
「Aさんの『夜の自動車』痛快に拝見しました。
「今までもそれから今もあなた方の主張には十分の興味を持って見ていますけれど、それがだんだん興味だけではなくなって行くのを覚えます。
「一昨夜悲惨なY村の現状や何かについて話を聞きまして、私は興奮しないではいられませんでした。今も続いてそのことに思い耽っています。Tは私のそうした態度をひそかに笑っているらしく思われます。一昨夜はそのことで二人でかなり長く論じました。私はやはり本当に冷静に自分ひとりのことだけをじっとして守っていられないのを感じます。私はやはり私の同感した周囲の中に動く自分を見出して行く性だと思います。その点からTは私とはずっと違っています。この方向に二人が勝手に歩いて行ったらきっと相容れなくなるだろうと思います。私は私のそうした性をじっと見つめながら、どういうふうにそれが発展してゆくかと思っています。あなた方の方へ歩いてゆこうと努力してはいませんけど、ひとりでにゆかねばならなくなるときを期待しています。無遠慮なことを書きました。お許し下さい。」
Wは渡辺政太郎だろう。「Mさん」が分からない。「伊藤野枝年譜」などによると、伊藤野枝は、1〜2月頃、四谷区南伊賀町の山田嘉吉宅での勉強会に参加している。伊藤野枝の手紙には、実名が記されていて(当然そうだろう)、この「Mさん」は山田嘉吉の妻の「わかさん」で、それをイニシャルにしようとすると、Wが二つになってしまうので、大杉栄がWを逆さまにしたMにしたのではなかろうか。
大杉栄「死灰の中から」は、伊藤野枝に谷中村の話をしたのはWだと書いている。のちの伊藤野枝の手紙にそうある。
大杉栄「死灰の中から」五:
「私はこの頃すてきな計画を立てて一人で夢を見て楽しんでいます。二年かかっても三年かかってもいいつもりで、自分の期待にそむかないものに仕上げたいと願っています。いまにあなた方を驚かしてあげますわ。まあ、ちょっと話して見ましょうか。私は今そのためにいろんなものを読んでいます。第一にAさんの『Y村滅亡史』、それからKさんの『労働』、その他いろんなものを。それは、私がいつかWさんからY村の話を聞いたときの、私の心的経験と昂奮とに自分ながら深い興味を持っていて忘れることができませんのでそれをすっかり書いて見たいんですの。」
渡辺政太郎が伊藤野枝に谷中村のことを話した1月24日頃という日付は、大杉栄「死灰の中から」からによって推定した。「死灰の中から」の伊藤が大杉に出した手紙に「二十四日の会のこと、Wさんに伺いましたから出たいと思いましたけれど、夜は当分少し困りますので失礼しました。」とあるのは、24日を過ぎた感じで、24日に渡辺政太郎が来て、谷中村の話をし、その晩の大杉らの会に来ないかという大杉の誘いを伝えたものであろう。日付はある巾があるだろうが、2月中旬の辻潤一家の引越しなどともほぼ合致する(後述)。
私が知る限り、伊藤野枝に谷中村の話をしたのが宮嶋資夫であるという誤った情報の最も古いものは1961年に出た井手文子の『青鞜 元始女性は太陽であった』である。p.177に、1915年1月末日に、宮嶋資夫夫妻が不意に訪れて、谷中村の話を語った、とある。
『青鞜 元始女性は太陽であった』p.177:
「 それはたぶん一五年の一月の末日のことであったと思われる。野枝の家に『近代思想』同人で社会主義者であった宮嶋資夫、麗子夫妻が不意に訪れてきて、これから応援にいく谷中村の土地の取上反対闘争の経緯を、暗い調子で語った。」
伊藤野枝「転機」によれば、「M夫妻」はよく家に出入りしていたとあり、不意である筈がないし、大杉栄「死灰の中から」によれば、伊藤の手紙が大杉に届いたのが「末日」である(この「末日」をはっきり31日とみなしてよいかは問題だろう)。井手文子の文章理解は低劣であるというしかない。
井手文子が何によって宮嶋資夫夫妻と記すことになったのかは分からない。そして、これは岩崎呉夫の『炎の女』に引き継がれたが、岩崎呉夫はその理由を記している。
『炎の女』p.239:
「辻の記憶では渡辺政太郎夫妻ということになっている((『ふもれすく』))が、これは野枝および大杉の記憶からみて誤りのようだ。」
岩崎呉夫が「野枝および大杉の記憶」といっているのは、「M」とか「W」といったイニシャルだけのことであったようである。そして、岩崎呉夫は言訳けのようにわずかに付け加えた「誤りのようだ」を超えて、宮嶋は『坑夫』を脱稿していた、「谷中村行も、ひとつには『坑夫』を推こうするヒントを得るためであったかもしれない。」などと如何にも宮嶋資夫であることが確実であるかのように書き連ねているのである(『坑夫』が出版されたのは、翌1916年1月。「宮嶋資夫履歴」・宮嶋資夫「遍歴」によると、宮嶋資夫は1914年夏に「坑夫」の未定稿を書き、それを窪田空穂に読んでもらい長編小説にすることを勧められたという。執筆時期だけはそう間違いでもなさそうである。岩崎呉夫を非難はしたが、私も同じようなところがあることは認める)。
『ダダイスト辻潤』は『青鞜 元始女性は太陽であった』・『炎の女』を採用したと思われる。
『日本文壇史』23 p.268も、宮嶋資夫と記している。「 大正四年一月の末日、『近代思想』の宮島資夫、麗子の夫妻が訪ねてきて、鉱毒問題の現地視察と応援に谷中村に行くという話をきいた。」 参考文献に、井手文子『青鞜 元始女性は太陽であった』と岩崎呉夫『炎の女』があるから、このように記された原因は明らかである。
瀬戸内晴美〔寂聴〕の「美は乱調にあり」では、渡辺政太郎とあり、必ずしも宮嶋資夫というのが定着した訳でもないようである。
ほかに宮嶋資夫だと書いてある文章を見たように思うが、思い出せない。おそらく、最初にそれを言い出した人も、岩崎呉夫と同様に「M」とか「W」というイニシャルのことから言い出したのであろう。
渡辺政太郎
参考までに書き添える。
近藤憲二「思い出すまま」によると、1915年暮れに渡辺政太郎が足尾に行こうとしたとある。渡辺政太郎が足尾に行こうとすることはそんなになかったろうから、おそらく、これは近藤憲二の思い違いで、1915年1月末のことではないだろうか。
『南天堂』p.19以下に、和田久太郎が、1924年11月3日に東京刑務所において書いたという自身の略歴のことが書かれている。その略歴によると、和田は栃木県=足尾銅山の人夫大部屋に入り坑内労働者となっていたが、1916年1月5日に「病院に通ふ(落盤にて負傷)時、隙を狙つて逃げ出し、線路へ駆け入つて発車しつつある汽車に飛び乗り、種々出来事あつて後、翌日、ともかくも帰京」「 直ちに渡辺君を訪ひ、喜び迎へらる。同じ南天堂二階の一室に居りし久板卯之助と同居し、彼が単独発行しつつありし『労働運動』を手伝ひ、専ら体の養生をなす」とあるという。近藤憲二『一無政府主義者の回想』には、近藤憲二は、和田久太郎と初めて会ったのは、1916年1月のまだ松飾りが取れない頃、本郷白山上の渡辺の「三角二階」で開かれていた研究会の席上とあるという。しかし、松下竜一の和田久太郎評伝『久さん伝』〔講談社 1983年〕は、和田久太郎の「略歴」の年次は一年早まっていると断定しているという。年次が一年早いというのは、1916年となっているのが実は1915年ということだろうか。すると、和田久太郎が足尾銅山から逃げて来たのは、実際は1915年1月ということになる。和田久太郎の「略歴」と近藤憲二『一無政府主義者の回想』が合致していることについて、『南天堂』の著者、寺島珠雄は、近藤憲二が和田久太郎の「略歴」に合わせたのではないかと推測している〈『南天堂』pp.19-24〉。渡辺政太郎がどこに住んでいたなども関わって来ることだが、これ以上深入りする余裕はない。
『大正アナキストの夢』に、渡辺政太郎が谷中村に行こうとした理由が記してあるので、それを示しておく。
『大正アナキストの夢』p.139:
「 野技が耳にした谷中村の惨状というのは、その数日前、谷中村から一青年が上京して来て、木下尚江、福田英子、堺利彦、渡辺政太郎、逸見斧吉たち支援者の間を回って、家屋を壊されてもなお堀立小屋を建てて抵抗を続ける残留民の始末に困った県当局が、堤防を切って谷中を水浸しにする計画を立てており、その危機が追っていると訴えたことだった。」
1915年1月の曜日と天気
「森鴎外日記」による曜日と東京の天気。
1.1 金 晴。1.2 土 晴。
1.3 日 晴。1.4 月 晴。1.5 火 晴。1.6 水 晴。寒。風なし。1.7 木 陰。寒。雪ちらつく。1.8 金 陰。放衙。雪消えず。1.9 土 朝になりて晴る。雪未だ消えず。
1.10 日 陰。1.11 月 雨。1.12 火 晴。1.13 水 晴。雪未だ消えず。1.14 木 晴。寒甚し。1.15 金 晴。1.16 土 晴。
1.17 日 晴。1.18 月 晴。1.19 火 晴。1.20 水 晴。雪未だ消えず。1.21 木 晴。1.22 金 陰。1.23 土 薄曇。夜雪。
1.24 日 陰。1.25 月 晴。1.26 火 陰。霜どけ。1.27 水 晴。1.28 木 雨。1.29 金 半陰。1.30 土 晴。白雲。
1.31 日 陰。
おそらく、伊藤野枝「乞食の名誉」一にある伊藤が山田嘉吉の講義に出たというのは、1月23日であろう。講義が終わって「 外は何時か雪になつてゐた。」とある。
小石川指ヶ谷町92番地
「全集年譜」には、指ヶ谷町91番地という番地が出てくる(ただし、1914年9月に移転)。この番地は『炎の女』p.101・「伊藤野枝小伝」にも出ている。おそらく『炎の女』が発生源で、『炎の女』→「伊藤野枝小伝」→「全集年譜」と伝播されたものだろう。
『ダダイスト辻潤』では、2月に小石川指ヶ谷町92番地の借家に移ったと推測される、とある。「伊藤野枝年譜」でも、指ヶ谷町92番地。
91番地と92番地、どちらの番地が正しいかといえば『青鞜』奥付および「辻潤戸籍抄本」などに記載のある92番地である。『青鞜』第5巻第2号〔2月号、2月1日発行〕の奥付には、青鞜社の住所が、小石川区竹早町82番地で、翌3月号から、青鞜事務所の住所が小石川区指ヶ谷町92番地になっている。
「ふもれすく」に伊藤野枝が「青鞜」を一人で編輯することになって、小石川の指ヶ谷町に住んでいたとあることをそのまま採用すれば、「青鞜」を一人で編輯することになったあとに移ったことになるが、はっきりしない。『ダダイスト辻潤』によれば2月、「伊藤野枝年譜」によれば2月中旬に、指ヶ谷町に移っている。『読売新聞』1915.2.19号の「よみうり抄」に転居のことが出ているから、まず2月中旬だろう。
大杉栄「死灰の中から」によると、谷中村の話のことを書いた伊藤野枝の手紙を受け取ってから、10日あまりのちに大杉は辻潤の家を訪れ、それから10日ばかり経ってから、ちょうど移転のしらせを貰ったばかりの辻潤の家を訪れている。時期は、渡辺政太郎夫妻が伊藤に谷中村のことを話したと推定される1月24日という日付におおよそ合致する。
数か月で引越しをしなければならなかったのは、
家賃を全く払わなかったからだろう(それが正しいとすれば、この時には辻恒夫妻は同居していなかった可能性が高くなるだろう。恒の夫は小学校教師といい、定収入があって家賃位は払える筈であるから)。『ダダイスト辻潤』p.77では、『天才論』が出版されて、竹早町よりいくらかマシな借家に移ったのだろうとある。本の出版なら伊藤野枝に既にあり、どれだけ収入があったものだろうかとも思うが、それから1年以上、指ヶ谷町92番地で暮らし、その間、家賃をきちんと払っていると思われるので、その可能性も大きいのだろう。竹早町では家賃を払わずに、指ヶ谷町に移り、そこでは家賃を払ったものと考える。そのほか、『青鞜』の編集・発行が伊藤野枝に委譲されたことにも関係があるかと思われる。
伊藤野枝の苦悩と辻潤のエゴイズム
『青鞜の時代』p.224:
『青鞜』の「補助団だけは存続させ、編輯兼発行人の名義は、有名無実だった中野初から、野枝に移る。(らいてうは名義人になる事を固辞した)。青鞜社は東京市小石川区竹早町八二番地の、野枝の家に置かれ、第三号からは彼女の転居によって、小石川区指ヶ谷町九二番地に移り、そこが最後の事務所となる。」
「野枝は、姑や小姑と同居して、「勉強」を白眼視される環境に苦しんでいた。「この仕事を利用して、自分の勉強時間を、仕事の時間から出そうと云う魂胆もひそんでいた」と、後に自身で「乞食の名誉」(大杉栄・伊藤野枝『乞食の名誉』聚英閣、一九二〇年、不二出版復刻)に記してもいる。」
『青鞜の時代』が、この時期、伊藤野枝が姑や小姑と同居して、「勉強」を白眼視される環境に苦しんでいた、と書くのはやや正確さに欠けると思われる。
辻一家の状況は今一つ明らかではなく、姑や小姑と同居していたとはっきり言える訳でもない。伊藤野枝が苦しんでいたのは、伊藤自身がそう書いているから事実だろうが、「客観的」にみてどうだろうか。「ふもれすく」によると、伊藤野枝は子供の世話さえ碌に出来ないのである。まことも祖母の美津に育てられ、野上弥生子「彼女」では、「お婆さんの子供見たいになつて」いると伊藤野枝自身が話している。妹夫婦が別に家を持って、美津もそこへ移ったが、まことの世話をさせるために美津を辻潤の家に呼び戻したなどということも考えられる。辻一家の雰囲気はむしろ伊藤野枝が「勉強」することに寛大であったといえるのではないか。伊藤野枝は「動揺」でも、美津などをコンヴェンショナルなどと呼んでいるが、美津自身があまり家事をしなかった人のようで、そんなに厳しく伊藤を縛ったとも思われない。辻潤や辻美津が伊藤に求めたのは、子供の世話と食事・洗濯などの家事をするということだけだったのではないか。しかし、それすら伊藤には重荷だったというのが当たっているだろう。小姑の恒にしてみれば、義姉の伊藤を差し置いて、家事のあれこれに手を出すのはどうかということもあっただろう。私は、姑や小姑という他人の中で暮らすことの難しさというものをあまりに軽くみているのかもしれないが(姑や小姑の問題というより、より基本的には辻潤に収入のないこと、貧乏の問題であろう)、何の見通しも立てずに突っ走った伊藤野枝の方にも問題が多いと思われる。のちに大杉栄と一緒になってからだが、お産した翌日から腹這いになって原稿用紙に向い、赤ん坊が泣こうが、おむつが濡れようが、夢中になって何か書いていたという〈菅沼幸子「伊藤野枝 はるかなる存在のひと」〉。驚き入ったバイタイリティだが、「コンヴェンショナルな」辻美津でなくても、こんなことを認めることはできそうもない。今日の目からみても、子供の世話や家事をすることをコンヴェンショナルと呼ぶ訳にはいくまい(伊藤は、養子にやったエマ〔幸子〕や流二にもできるだけ送れるものを送っているようで、決して子供への愛情がないというのでもないのだが)。
辻潤は、子供の世話や家事にほとんど無関心であったことは間違いない。姑や小姑との関係にしても、辻潤がパイプ役を果たすべきだったのだろうが、そういう役回りを果たすつもりはなかった。伊藤と大杉栄の仲がうまくいった理由の一つには、大杉栄が子供好きだったこともあるだろうと思われる。
『青鞜の時代』p.228:
「潤はけっして彼女を庇わなかった。彼が終生彼女を愛したことは、疑いがない。彼女の教育に情熱を傾け、彼女を『青鞜』へと導いたのも彼だった。だが日常の面倒については、自分だけが避けるエゴイストでもあった。「彼女はたった一度だけ、その不平を彼の前に出した事があった。そのとき、彼は一言のもとにはねつけた。「自分の事は自分で何とでも始末するがいい」」(「乞食の名誉」)。」
エゴイスト、確かにそうなのだが、それが辻潤である場合には多少の注釈が要りそうである。何故なら、普通にいうエゴイストとは、自分の目的(快楽など)を実現するために、他人にどんな被害・不幸がもたらされようと他人のことは一切考えないで行動する人ということである筈である。しかし、辻潤の場合、『天才論』の翻訳が出版されないのも、収入がほとんどなく貧しいことも、彼の望んだことではない。それは彼にとっても不満足なことであった。しかし、その不満足な状態を脱するために、自分の気に入らないことをしてまでも齷齪しようとはしない。そういう「覚悟」で、彼はその不満足な状態も受け入れる。そこに見られるエゴは、普通にいう(能動的な)エゴからみれば、やや特殊な、屈折した消極的なエゴである。「伊藤野枝小伝」は、それを「孤立した貴族的自我への信仰があり、衰亡におちていく自己に、ひらきなおったエゴイズムがあった。」と表現している。それは、他人を蹴落としてまでも自分の目的を実現しようというようなものでは決してない。辻潤のエゴイズムは、エゴイズムとしてはやや不思議なことに、他人のエゴの尊重も含まれている。おそらく、それはその消極性とバランスしているのである。
しかし、辻潤のエゴは、伊藤野枝に「自分の事は自分で何とでも始末するがいい」という程、しっかりしたものではなかった、というべきである。しっかりしたものであったのなら、伊藤を大杉栄に奪われてから、おそらくはその打撃の影響をたやすく受けて、飲酒・遊蕩に耽り、自らメチャな生活と呼ぶ生活に陥る筈はないだろう。スティルナーなどに触発されたであろう辻潤のエゴは、幻想に近いものであった。
辻潤自らが、また平塚らいてうも述べているように、彼の「本性」は静的で、静かな生活を愛するものであるのかもしれない。しかし、そういう彼がその環境の中でそのエゴを貫こうとする時、収入がなく飢餓などに迫られ、友人などの誘いにたやすくのるなどによって、それはメチャな生活に陥りかねず、自分も見失いかねないものなのだった。
そして、このメチャな生活を含めて彼というものを「定式化」するのが(そのように見えたのが)、のちのダダというものだったと言えるように思われる。
サンディカリズム研究会
奥村博を伴い、サンディカリズム研究会に現われ、会終了後、奥村博史の絵の出品されている障子社という展覧会を見るように呼びかけたとは宮嶋資夫の「人間随筆」辻潤にある。伊藤野枝「編輯室より(一九一五年三月号)」には、3日から7日まで、京橋区柳町東中通りの画博堂で障子社の展覧会が開かれ、真田久吉・埴原桑喜代・清水太助・奥村博が出品、とある。これによって、辻潤がサンディカリズム研究会に現われたのは、1915年3月初め頃と推定したが、2月であるかもしれない。なお、奥村博史らの障子社同人の展覧会のことは『青鞜』2月号の「編輯室より」にも近いうちに催されると出ている。
宮嶋資夫「人間随筆」には、呼びかけたあと、「 ――彼奴は誰だ――辻潤だ――辻潤つて何だ――伊藤野枝の亭主だ――何だ馬鹿にしてやがら、こんなとこへ展覧会の広告なんかに来やがつて――」そんな囁きが起こった、とあるので、辻潤は、その時、初めてサンディカリズム研究会に現われたのである。
『評伝 宮嶋資夫』pp.84-86によると、この会合は、3月1日の堺金次郎方における平民講演会である。「日本アナーキズム運動年譜」によると、サンジカリズム研究会を平民講演と改称というから、この頃までに改称されていたのだろう。
『評伝 宮嶋資夫』によると、31人が出席し、大杉・荒畑・山鹿・宮嶋・渡辺政太郎の演題があったという。18:00PMに始まり22:00PM頃、散会。
伊藤野枝の従妹との浮気
伊藤野枝の従妹と浮気した時期は不明確。辻潤の浮気を記した伊藤野枝の「偶感二三」が『青鞜』7月号に出ているから、6月以前ということになる。「伊藤野枝年譜」により、5月頃に伊藤野枝が、辻潤と従妹との浮気を知ったとしておく。
瀬戸内寂聴「青鞜」『瀬戸内寂聴全集』第13巻 pp.444-445:
「 よく家に来る従姉と辻が野枝の目を盗み、通じたのだった。
その従姉をこれまでの書物で千代子としているのは誤りであることを教えられた。千代子は野枝が身を寄せた代(だい)家の娘で姉妹のように育ったが、辻と通じたのは別の従姉で、すでに恋人があり、その後も恋愛沙汰の多い女だった。」
従妹は、年下の女のいとこ〈『広辞苑』〉。「ふもれすく」によると、辻潤と浮気した伊藤のいとこは伊藤の「従妹」で、伊藤野枝「偶感二三」でも、このいとこは、伊藤の「肉親の中の唯一の者として愛した従姉の愛」を裏切ったとあり、伊藤の「従妹」である。このいとこが、「従妹」なのか「従姉」なのかといえば、辻・伊藤(さらに大杉)の書いたもので一致している「従妹」が正しいとしたものである。
伊藤野枝「偶感二三」によれば、この従妹には「他に愛の対象たる男」があった。大杉栄「死灰の中から」には、「TがN子の従妹の、ちょっと郷里から出て来ているのと関係した」とあるが、大杉はこの従妹のことをどれだけ知っているのだろうか。一月に一度位辻の家に行ったというから、会っているかもしれない。
平塚らいてうの『元始、女性は太陽であった』p.602では、相手は従姉の千代子だが、『わたくしの歩いた道』では、辻潤の浮気に触れてはおらず、この名前は平塚らいてうがあとになって本などから知ったものだろう。『ダダイスト辻潤』でも、相手は代千代子となっているが、pp.18-19の「ふもれすく」の引用では、「従妹」が「従姉」に置き換わっている。これは、不思議であり、おそらく辻潤の間違いだと思い勝手に変えたのだろうが、ややケシカラヌことである。
伊藤野枝は「従妹に」を書いているが、その中で「きみちやん」と呼びかけている従妹は、叔母の坂口モトの娘キミという〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉。辻潤の浮気相手は伊藤が「肉親の中の唯一の者として愛した」従妹で、坂口キミは伊藤が愛したことが分かる従妹なのだから、辻潤の浮気相手は坂口キミ〔のち伊東キミ〕ということになる。
婚姻届
「全集年譜」によると、伊藤野枝と辻潤の婚姻届は1915年7月とある。『炎の女』には婚姻届が、1915〔大正4〕年7月〔日欠〕とある。岩崎呉夫がどのようにして、婚姻届の年月を知ったのか、何故「日欠」なのかも分からない。伊藤野枝の方の戸籍では日の記載がなかったということなのだろうか。
「辻潤戸籍抄本」によれば1915年7月20日である。
この年、婚姻届けを出したということは、辻まことは私生児ということになっていたということだろう(前述)。
今宿
「よみうり抄」『読売新聞』1915.7.25号 6面 日曜付録:
「▲伊藤野枝氏 は昨朝夫君と共に帰郷したるが上京は十月頃なりと」
「陀々羅行脚」に、今宿の海岸で半年近く暮らした、とあるのは、この1915年のことと思われる。野上弥生子「彼女」にも、伊藤野枝は辻潤とともに長い間郷里に帰っていたとある。
『阿片溺愛者の告白』
「蛇足」に「自分はしばらく田舎に行かなければならないことになった。それで行く前にかねて一度行かなければならないと思っていたY氏の処を暇乞いかたがたお訪ねした。」とある。田舎は、今宿であろう。Yは不明。
伊藤野枝の若松流二の出産
伊藤野枝が若松流二を産んだのは、「全集年譜」では8月。『炎の女』p.174では、8月10日。『伊藤野枝全集』上巻では、「年譜」および井手文子「伊藤野枝小伝」で8月10日、伊藤野枝の血縁図〔p.455〕では11月生まれとなっている。かつては、8月10日が優勢だったようである。
「伊藤野枝年譜」では、11月4日になっている。何が根拠なのか分からず、最初、私がこの日付を見た時、11月4日の出産では伊藤野枝の7月の今宿への出発が少し早すぎるのではないかと思った(これが私だけの考えでないことは後述)。しかし、この日付の傍証となる文章を伊藤野枝が書いていた。
伊藤野枝「らいてう氏に」:
「らいてうさま、
お体の具合はどんなですか、私は一週間目から産褥をはなれております、この辺は御大典奉祝の「ドンタク」で大変です、東京もさぞ大変でしょう。」
伊藤野枝「らいてう氏に」は『青鞜』1915年11号〔12月号〕に載った。御大典とあるのは、嘉仁〔大正天皇〕の即位式のことで、この年、ほかに「御大典」に相当するものはない。それは11月10日であり、11月4日に産み、一週間目から産褥をはなれているということに合致している。
それで、この年譜も「伊藤野枝年譜」の日付11月4日を採用する。
ただし、やや不自然だが、「一週間目から産褥をはなれております」を、平塚らいてうの妊娠を受けて自分の出産の場合のことを述べただけと解釈できない訳でもない。
谷沢永一・浦西和彦、編「辻潤年譜」では、8月10日に生まれたが、戸籍上11月4日生まれとある。そう書いているのだからそうなのだろうが、どこの戸籍を調べたのか。辻潤のか、それとも若松家のだろうか。
『元始、女性は太陽であった』p.604には、流二が生まれたのは8月10日と明記され、p.606には、平塚らいてうの長女、曙生より4ヶ月ほど前に生まれた(曙生は、1915年12月9日生まれ)とある。
あるいは、平塚らいてうの自伝『わたくしの歩いた道』〔1955.4 新評論社、刊〈「平塚らいてう著作目録」〉〕にも、このことが書かれていて、それが
『炎の女』・井手文子「伊藤野枝小伝」などの元になったのだろうかと私は思った。
しかし、『わたくしの歩いた道』を読んでみると、そうであるとは言えなかった。『わたくしの歩いた道』は、伊藤野枝に関する記述も少なく、伊藤野枝の出産についてはごく短く次のように語られているだけである。伊藤野枝が辻の家を出て、大杉栄と訪ねて来たという下りである。
『わたくしの歩いた道』p.164:
「 まだ子供をもったことのない大杉さんは、小さな顎(アゴ)ひげのある顔をほころばせながら、しきりと曙生を抱き上げ、自分の膝の間に入れて「子供は好いなあ、可愛いものだなあ」とひとりで愛撫しつづけています。私はそれを見ながら、つい何気なく、野枝さんが連れて家を出たときいている、曙生より半年前に生まれた赤ちゃんのことを尋ねましたが、「ええ」と無表情でひとこと言ったきりでした。」
当時から平塚らいてうは、流二が生まれた日について思い違いをしていたらしい。1914年には奥村博史との結婚生活・『青鞜』の編集などで、平塚らいてうは手一杯で、この時期の記憶には混乱が見られる。その年末には『青鞜』を伊藤野枝に譲り渡して、1915年には、自身の健康状態も良好ではなく、奥村博史の病気と自身の出産と続いた。『青鞜』に注意を向ける余裕はほとんどなかったものと思われる。当時の平塚は伊藤野枝の「らいてう氏に」などを、まともに読みはしなかったのだろう。おそらくは、7月頃に伊藤野枝が郷里に帰ったことを知って、それから間もなく伊藤が出産したものと思いこんでしまったのだろう。『青鞜』の編集を放っておいて、実際の出産の3、4か月も前に東京を離れることはない筈だと思ったのだろう。
あるいは、平塚らいてうは『読売新聞』1915.12.22号、よみうり婦人付録の「老い行く 新しい女 母になつた人々」という記事を読んだのかもしれない。そこには、9月に伊藤野枝が男子を産んだと記されている。読売新聞記者も、また、伊藤野枝が郷里に戻って、そんなにたたずに出産した筈だと思ったのだろう(『読売新聞』1915.7.25号の「よみうり抄」に
伊藤野枝は、10月頃帰京の予定とあり、そんなことも9月出産と思わせたのだろう)。
平塚らいてうは『わたくしの歩いた道』を書いてから、新たな自伝を書くために資料を収集している〈小林登美枝「らいてう先生と私」〉。『元始、女性は太陽であった』に明記された8月10日という流二の誕生日は、平塚の記憶にあったものではなく、岩崎呉夫や井手文子の書いたものによって知ったものと考えられる。
『元始、女性は太陽であった』は、自分の記憶にある過去を思い起こして綴った自伝というより、自分の記憶と過去の資料によって、過去を振り返った類の自伝である。『元始、女性は太陽であった』は、平塚らいてうの自伝の決定版であるが、その真実性において、『わたくしの歩いた道』に劣るものも含まれていることになる。このことは、どれだけ当然であり、どれだけ不自然なのか。それにしても、「青鞜」関係の事柄について、その中心人物であった平塚の言葉はほかの誰の言葉よりも重い言葉である筈である。それが、実はあやしげな人間たちによって影響された言葉であったとは!
過去の新聞の膨大なページから関係する記事を見つけ出すのは困難だろうから、岩崎呉夫らが『読売新聞』1915.12.22号、よみうり婦人付録の「老い行く 新しい女 母になつた人々」の記事を読んだことは考えにくいと思う。彼らは『わたくしの歩いた道』の「曙生より半年前に生まれた」という記述と、7月に伊藤野枝が郷里に向ったということから8月という月を導いたのではないか。そのほか(平塚らいてうも含めて)影響を与えたのは、『青鞜』10月号の「日月社より」という文章であるかもしれない。
「日月社より」『青鞜』第5巻第9号〔10月号〕p.106:
「 日月社より ▲伊藤さんから「九月下旬どうしても帰京するつもりで、種々帰京後の計画もたてゝ準備を急いで居りましたけれども、みんな駄目になつてしまひましたので、まぎわになつて原稿をかくことも手紙をかくことも出来ず、雑誌のことも気にはなりながらどうもすることも出来ませんでした」といふ手紙が参りました。それも五日の晩はじめて本号の校正が出た時でした(以下略)(F 生)」
伊藤の手紙が来たのは10月5日だろう。伊藤野枝が9月下旬に帰京しようとしていたというのだから、その時、既に出産していたと考えるのは自然だろう。しかし、確実という訳ではないのである。この文章も8月10日という日付を明示するものではなく、岩崎呉夫がどうやって8月10日という日付を記すことになったのかは全くの謎である。
なお、平塚らいてうは『元始、女性は太陽であった』の中で、伊藤野枝が何故郷里に戻ったのか、何故半年近くも留まったのかと、疑問を投げかけている。私もその理由は分からない。
ただ、『読売新聞』や『青鞜』の記事から、伊藤野枝が9月下旬から10月上旬頃に帰京する計画を持っていたことが分かるから、あるいは、もともと出産のために帰郷したのではないのかもしれない。今宿への出発の数日前、7月20日に辻潤との婚姻届を出したのは、生まれてくる子供を私生児にしないためのようにも思えるので、それなら、出産してから帰京することを想定していたことになる。出産前に東京に戻って来ることと、戻って来ないことの両方を考えていたのだろう。それが、今宿で伊藤野枝が何をしていたのかは分からないが、出産時期が迫って来たので、帰京はやめて郷里で出産することにしたのだろう。
今日なら妊娠した女性は病院に行って調べてもらい、現在、妊娠どれ位で、出産予定日はいつかなどを教えてもらえるのだろうが、当時はどうだったのだろうか。伊藤野枝は出産予定日をどの程度把握していたのだろうか。そんなことも分からない。
この年譜では、伊藤野枝が若松流二を産んだのは、11月4日とするが、8月〜9月と記した文章も多い訳で、もう少し証拠がほしいところである。福岡の新聞には何か資料があるだろうか。
若松流二:1915.11.4-1998.10.23。〈「伊藤野枝年譜」〉
伊藤野枝の帰京
伊藤野枝「編輯室より(一九一六年一月号)」:
「私が帰京しましたのが十二月五日か六日だつた」
まず一家そろって帰京したというものだが、辻潤(・まこと)が伊藤野枝・流二とは別行動だった可能性もあるだろう。辻潤は、12月1日発行の『生活と芸術』第3巻第4号に「萬物は俺にとつて無だ ――マツクス・スチルネル――」を載せているから。ただし、この原稿は、郵送したとか、さまざまな可能性があり、何とも言えない。
一家は、12月に入るまで帰京しなかった。〈『青鞜の時代』p.235〉
『元始、女性は太陽であった』p.604では、家族揃って11月下旬に東京に帰った、となっている。
伊藤野枝の別居の計画
時期は不明確だが、流二が生まれた話があるので、おそらく帰京後、伊藤野枝は母に一時だけ子供をつれて田舎にひとりで行かして貰いたい、辻には自分の生活をもっと正しくするために少し考えたいからしばらく別れてみたい、と話し、双方から承諾を受け、その準備のため働いていたという。〈伊藤野枝「成長が生んだ私の恋愛破綻」〉
この年に記してみた。
「科学と文芸」
「ジプシイの話」:
「 お友達のN君からこんど「科学と文芸」という雑誌が出るからなにか書いてくれないかという御注文を受けた。」
土岐善麿
1916年5月21日に書かれた土岐善麿書簡「のんしゃらんす」によると、近頃、土岐善麿に会ったとあり、
「昨年の暮れに、あの短い「ホンヤク」をタッタ一度載せて頂いた」とあるので、この年、土岐善麿に会っているかもしれない。
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指ヶ谷町(さすがやちょう):江戸期〜1966年の町名。1911年までは小石川を冠称。1947年、文京区に所属。1963〜1966年、白山1〜2・4〜5丁目。〈「指ヶ谷町」『角川地名大辞典 13 東京』〉
1915.1 伊藤野枝「『青鞜』を引継ぐに就いて」『青鞜』第5巻第1号。〈「伊藤野枝年譜」〉
1915.1 平塚らいてう「『青鞜』と私――『青鞜』を野枝さんにお譲りするについて」『青鞜』第5巻第1号。〈「解題」『平塚らいてう著作集』第2巻〉
1915.1.10 武林無想庵「新しい男女」『読売新聞』1.10号 日曜付録。〈『読売新聞』〉
1915.1.20 伊藤野枝「二人の子供の対話」『微光』第4号、1915年1月20日。
※『微光』は1914年10月、渡辺政太郎・臼倉甲子造・臼倉静造によって創刊された月刊のタブロイド判小冊子で、1915年6月まで続いた。発行は微光社、発行兼編輯人は臼倉甲子造。
〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉
1915.2 伊藤野枝「貞操に就いての雑感」『青鞜』第5巻第2号〔2月号。2.1〕〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉
※1915.1.18
1915.2 野上弥生子「父の死」『三田文学』第6巻第2号。2.1発行。〈「後記」『野上彌生子全集』第2巻〉
1915.2 野上弥生子「噂」『文章世界』第10巻第2号。2.1発行。〈「後記」『野上彌生子全集』第2巻〉
1915.2.21 武林無想庵「深山聚楽」『読売新聞』2.21号 日曜付録。〈『読売新聞』〉
1915.2 平塚らいてう、御宿海岸より帰京。小石川区西原町1ノ4に住む。〈「平塚らいてう年譜」〉
1915.3 伊藤野枝「編輯室より(一九一五年三月号)」『青鞜』第5巻第3号〔3月号。3.1〕。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉
1915.3.初 渡辺政太郎、小石川区白山前町の古本屋「南天堂」の2階に移る。隣室に久坂卯之助が住みつく。〈「渡辺政太郎年譜」〉
1915.3.21 武林夢(?)想庵「都会が恋しくて」『読売新聞』3.21号 日曜付録。〈『読売新聞』〉
1915.4 相馬御風「凡人浄土」『早稲田文学』。〈『日本近代文学年表』〉
1915.5 『女の世界』創刊。女性雑誌。実業之世界社。主筆は青柳有美、編輯兼発行者は野依秀一。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉
1915.6 伊藤野枝「私信――野上彌生様へ」『青鞜』第5巻第6号〔6.1〕。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉
1915.6 『青鞜』第5巻第6号、原田皐月の「獄中の女より男へ」によって発売禁止〔風俗壊乱〕。〈「伊藤野枝年譜」〉
1915.6頃 渡辺政太郎、自宅で「家庭会」を始める。やがて、「研究会」と名を変え、印刷工、時計工などの若い労働者が参加するようになる。〈「渡辺政太郎年譜」〉
1915.7 伊藤野枝「偶感二三」『青鞜』第5巻第7号〔7月号。7.1〕。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉
1915.7 野上弥生子「家」『婦人雑誌』第4巻第1号。7.1発行。〈「後記」『野上彌生子全集』第2巻〉
1915.7.25 岩野泡鳴、4月以来プルターク英雄伝翻訳の筆記者として雇っていた蒲原英枝との関係を清子に告白、清子の許しを得る。〈「岩野泡鳴年譜」〉
1915.7.25 夜、泡鳴は「房枝氏」との関係を、清に「自白」。「六月の末から彼女と肉交が出来たこと、然し此関係は決して現在の私との家庭を破壊する心ではない事。など極めて軽い調子で告白した。(略)私はこの自白を聞いた一刹那は、千仞の谷底につき落されたように頭がガンと云った。(略)私達が同棲して以来七年間、品行に就ては一点の汚れもなかった夫が、あの越後の田舎者と潮笑していた女のために、一朝にして清い生活を破壊して惜しまないとは、何と云う変化であろう。私の力で夫の多年の放縦生活を改めたと云うことを、夫も自ら誇りとし、私も私の家庭の美事とし光明としていたのにと思うと、私は私の夫を呪い憎む苦しい気分にみたされた。それに一ヶ月間私を欺き私の愛の生活を裏切り、私の霊も肉も汚されていたのだと思うと、私は涙も出ない程いきどおろしくなった」〈〔岩野清子〕「巣鴨日記」『愛の争闘』〉。〈『青鞜の時代』p.238〉
1915.8 『青鞜』8月号は欠号。〈『青鞜の時代』p.234〉
1915.8.5 岩野泡鳴、巣鴨町1072番地に移り、清子と別居して蒲原英枝と同棲。〈「岩野泡鳴年譜」〉
「 清は八月五日に別居の結論を出す。「私は、反省する必要はない。罪とも思っていないと云う夫に、もう譲歩の余地のないことを認めたので、断然別居を実行すること、及び、薫〔泡鳴の先妻の子=筆者注〕をも教育すること、及び収入の三分の二を私に渡すこと、及び妻としての権利をにぎっていることの条件を提出した。夫はすべて同意して自署捺印した私製証書を二通書いて、私に一通を渡した」(「巣鴨日記」)。九日の次の記述をもって「巣鴨日記」は終る。「お玄関を荷車と共に出ようとした時、私は「左様なら。」と只一言云ったら、夫も同じく「左様なら。」の挨拶をして行った」。」〈『青鞜の時代』pp.238-239〉
1915.9 加藤一夫、西村伊作の援助で『科学と生活』、創刊。〈「加藤一夫」『日本近代文学大事典』第1巻〉
1915.9 『青鞜』9月号から「発売所が日月社に変って、同社の安藤枯山が「雑務」を引き受け、花世が手伝った。同号の「編輯だより」に、「私は青鞜の手伝がしたかった。金があれば金を、手足でよければ手足を、そうして今、長い間の心持が、遂げられたのを感謝しております」と花世は記す。一二月号まで欠号もなく出たのは、枯山の働きであろう。」〈『青鞜の時代』pp.234-235〉
1915.9.5 武林無想庵「N点」『読売新聞』9.5号 日曜付録。〈『読売新聞』〉
1915.10 『近代思想』、復活。吉川守圀が経営に加わり、宮嶋資夫が発行人。〔〜4号、〜1916.1。1号を除き発禁〕〈「五 社会主義運動の復活」「寒村自伝 上」〉
1915.12 伊藤野枝「らいてう氏に」『青鞜』第5巻第11号〔12月号。12.1〕。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉
1915 サンジカリズム研究会を平民講演と改称。この頃、渡辺政太郎・久坂卯之助ら「研究会」を開く。〈「日本アナーキズム運動年譜」〉
1915.11.10 京都御所=紫宸殿で嘉仁〔大正天皇〕、即位式。特赦、等。〈『日本史年表』〉
1915 武林無想庵「遮断生活」『読売新聞』。〈「武林無想庵盲目書誌」〉
※記憶違いか。
1915 佐藤惣之助、川崎に帰る。〈「佐藤惣之助年譜」〉
宮嶋資夫:1886.8.1-1951.2.19。〈「宮嶋資夫履歴」〉
加藤一夫:1887.2.28-1951.1.25。
「加藤一夫」『日本近代文学大事典』第1巻:
「『宗教新体制草案』(昭和一五・一一甲子社書房)では天皇中心の宗教体制の樹立を説いた。アナーキズム−農本主義−天皇中心主義という、歴史の必然性を無視したところから起こる展開の一つのケースを示すものといえよう。昭和二六年、川崎市丸子で死去した。」
「歴史の必然性」とは一体、何のことなのか。農本主義も天皇中心主義も当時は普通に見られた精神の傾向であった。加藤一夫は「歴史の必然性」に従ったのだとは言えないのだろうか。
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1916 大正5
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1月中頃 『青鞜』で青山菊栄と伊藤野枝が論争をして、伊藤野枝が散々にやられた時、大杉栄はその間を調停すると言って、青山を伊藤野枝のとこへ連れて行く。〈宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」・「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉 1月のある日、伊藤野枝は大杉栄と青山菊栄の訪問を受ける。〈「伊藤野枝年譜」〉
2月 『青鞜』第6巻第2号、2月1日発行。『青鞜』は、この号で廃刊。〔続けて発行する意志があったが、発行できずに終わった。〕〈『元始、女性は太陽であった』など〉
2月 大杉栄・伊藤野枝、夜遅くまで日比谷公園等をぶらつく。この頃、大杉栄は神近市子とも関係していたが、伊藤野枝と会って火が点き、日比谷公園でキスを交わす。〈宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」〉
2月 伊藤野枝、大杉栄と恋愛関係に入る。〔大杉に訪問された〕数日後、麹町区3番町64番地の第一福四萬館(ふくしまんかん)に大杉を訪ねる。神近市子がいて三人で話す。〈「伊藤野枝年譜」〉
2月 フランス文学の講義が終ってから、神近市子・青山・宮嶋資夫夫婦と皆して神楽坂下まで歩いて行った時、大杉栄は、宮嶋資夫に「指ケ谷町へ行くから一緒に行かないか」と言う。二人で辻潤の家に行く。伊藤野枝が出て来て、家に辻潤がいた。何の事もなく話をして帰りがけに、その夜は平民講演会があるので、大杉は宮嶋の家に来て飯を食って行こうと言って歩きながらの話に、その前後、大杉は伊藤と一緒に、夜遅くまで日比谷公園等をぶらついた、と話す。最後に、「あすこの家庭は、僕の家庭よりも先きに破壊するかもしれない」と語る。〈宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」〉
2月 伊藤野枝、大阪の叔父、代準介を金策のため訪れる。〈「伊藤野枝年譜」〉
3.9〈「伊藤野枝年譜」〉 夜、野上弥生子の家で謡会(うたいかい)があった日、流二をおんぶした伊藤野枝が訪れ、辻潤・大杉栄とのことについて相談する。伊藤野枝は、辻潤と伊藤の従妹の間のことなどを話し、辻潤は伊藤との隔たりの埋め難いことを見て、既にすべての自由を許したと話す。野上は、伊藤が辻との生活を築き直そうとして努力したことを知っているつもりだから、辻との生活を終わらせることに異議はないが、大杉には神近市子もいるし、その儘大杉のところへ行くことは考えなければならない、一、二年勉強し、それから判断したらどうか、慎重な態度を取って欲しい、及ばずながらその間の生活費位はどうにでもしようと語る。伊藤もそれが一番よい方法だと思うと答え、抱いている流二の上に涙を落とす。〈野上弥生子「野枝さんのこと」・野上弥生子「彼女」・「伊藤野枝年譜」〉 野上弥生子が伊藤野枝に会った最後。〈野上弥生子「野枝さんのこと」〉
3月 大杉栄、福四万館に下宿する。〈宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」〉
4.上旬頃 風邪を引く。〈「よみうり抄」『読売新聞』1916.4.11号〉
4.24頃(or 4.17頃)〈「新婦人問題(三)」『万朝報』夕刊 5.5〉〈『青鞜の時代』p.248〉・〈「伊藤野枝年譜」〉・〈「ふもれすく」〉 《伊藤野枝は、この日までの三晩四晩は毎晩12時頃に帰る。〈宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」〉》伊藤野枝は、辻潤に大杉栄と暮らす決心を話す〈伊藤野枝「申し訳丈けに」〉。伊藤野枝が大杉栄とキスしたことを知り、辻潤は伊藤をなぐり、別れることを決める。伊藤野枝は、「何うしても二人で一人の人を有つのは嫌だ、私一人のものにする気で行くのだ」と言う。〈宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」・宮嶋資夫「遍歴」・「ふもれすく」〉
4.25頃 午後、伊藤野枝、次男流二を連れ、辻潤の家を去る。〈「新婦人問題(三)」『万朝報』夕刊 5.5号〉〈『青鞜の時代』p.248〉・〈「伊藤野枝年譜」〉 「別れる当日はお互いに静かにして幸福を祈りながら別れた。野枝さんはさすが女で、眼に一杯涙をうかべていた。」〈「ふもれすく」〉 伊藤野枝は神田区三崎町の青鞜社員の荒木郁の旅館、玉名館に滞在。〈「伊藤野枝年譜」〉
4.29 伊藤野枝は千葉県御宿村の上野屋旅館に移る。〈伊藤野枝および大杉栄の書簡・「伊藤野枝年譜」〉〔6月中旬、流二を千葉県夷隅郡大原町根方(ねかた)の網屋の若松家に里子にやる。〈「伊藤野枝年譜」〉 そのまま「里流れ」となり、流二はおそらく若松家の養子となる。以下、若松流二とする。〕
辻潤は、上野のある寺の一室、大西克礼がギョイヨーの翻訳をしていたあとの部屋を借りて移ったが、当分誰も来てくれるなと語る〈宮嶋資夫「遍歴」〉。
お寺の一室に立て籠り、出来るだけ世間との交渉を断絶し、新聞雑誌の類さえ一切見ず、友人達からも自分の行方をくらます〈「ふもれすく」〉。辻潤は、この一室で「唯一者とその所有」の翻訳をする。
5.21 《5.16頃、土岐善麿からの『生活と芸術』の廃刊と最後の寄稿を求める手紙が来て〈『生活と芸術』第3巻第10号〉、》土岐善麿に手紙を出す。「例の一件コノカタというもの、一通りや二通りや三通りのショゲ方ではなく一日に二度食べる御飯ですら、辛うじてノドヘ通るか、通らないかという有様で、型の如くエンセイヒカン、――その意気地のなさ加減ときたら、実にもってお話のホカです。」と書く。〈「のんしゃらんす」〉
(この頃、しばしば、宮嶋資夫の家を訪れているらしい。〈宮嶋資夫「遍歴」〉)
9月頃 宮嶋資夫・伊藤野枝が辻潤を訪れる。〈宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」・「伊藤野枝年譜」〉
9.15頃 上野の寺の一室に住むことを止める。〈「よみうり抄」『読売新聞』1916.9.19号〉
10月上旬頃 下谷区北稲荷町34番地の長屋に移る。〈「辻潤戸籍抄本」・「よみうり抄」『読売新聞』1916.10.13号・「エイ・シャク・バイ」〉
10.15 東京市小石川区指ヶ谷町92番地より東京市下谷区北稲荷町34番地に転籍の届出が出される。〈「辻潤戸籍抄本」〉
11月上旬頃 下谷区北稲荷町34番地の長屋に「英語、尺八、ヴァイオリン教授」の看板を掛け、いわゆる浅草時代が始まる。〈「よみうり抄」『読売新聞』1916.11.13号・「エイ・シャク・バイ」・「全集年譜」〉〔ここを根城にして、「パンタライ社」と称する。〕〈「全集年譜」〉 ヴァイオリンは佐藤謙三の教授。ヴァイオリンは、以前からの弟子のインド人が一人きただけで、尺八も商売にならない。〈「エイ・シャク・バイ」〉
「生徒に五十里、田戸、茂木などが英語を習ひに行った位のものだった。」彼らはサンディカリズム研究会の仲間〈宮嶋資夫「遍歴」〉。英語の方は、辻潤を知っている若い連中が道楽半分、遊び半分に集まる〈「エイ・シャク・バイ」〉。生徒の中に、尾崎士郎・矢部周・荒木久平・木蘇穀・宮崎丈二らがいた。〔彼らは前後して高畠素之の門下となる。〈「連環」〉〕
〔辻潤は、伊藤野枝が家を出たことについて、宮嶋資夫に「忘却が何より強い復讐だ」と話す。また、宮嶋資夫と一緒に岩野泡鳴を訪れ、岩野泡鳴が訴訟を起こせというのにも、宮嶋の決闘しろというのにも、ただにやにや笑っていた。〈宮嶋資夫「人間随筆」辻潤〉〕
〔伊藤野枝と別れてから、段々、遊蕩を覚えはじめる。〈宮嶋資夫「人間随筆」辻潤〉〕
11.9 大杉栄をめぐる、伊藤野枝・内縁の妻の堀保子・神近市子の四角関係から、大杉栄が神近市子に刺される。〔相州「葉山の日蔭の茶屋事件」として各新聞、雑誌紙上をにぎわす。〕〈『東京朝日新聞』、「全集年譜」など〉(四角関係というが、伊藤野枝・神近市子にとっては、堀保子はほとんど眼中になかったらしい。)
年末 『阿片溺愛者の告白』の「蛇足」を書く。〈「序」『阿片溺愛者の告白』〉
この年の頃 浅草で「淫売」を買い、淋病にかかる。〈小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」・『ダダイスト辻潤』p.266〉
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1月 「自分だけのこと」『科学と文芸』。
※後に、半分以上削って一部を直し「書物と鮭」として『浮浪漫語』に収める。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.310〉
「書物と鮭」日付:1915.11
2月 「自由と所有」訳載。『科学と文芸』2月号。
※原稿用紙40余枚。雑誌の本文は未確認で、広告による。「唯一者とその所有」の「自我編」の冒頭の「所有」の項の訳であるらしい。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.302〉
「フランシスコ・フェラアと近代学校」『世界人』2月、4月。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.312〉
※エンマ=ゴールドマン作。Francisco Ferrer and Modern-School, Emma Goldman。〈『螺旋道』〉
※『世界人』は編集人が五十里幸太郎。1916年1月第1号の『平明』を2月、第2号から『世界人』と改題。第4号〔1916年5月号〕で廃刊。〈掘高利高「雑誌」『世界人』」『大正労働文学研究』第5号 1981.3〉〈『大正自由人物語』pp.73,75〉
6月 「のんしやらんす」『生活と芸術』第3巻第10号。6月号=廃刊号。6.1発行。〈『生活と芸術』〉
※「全集年譜」では5月。
※Nonchalance:英語・フランス語・ドイツ語、無頓着、放逸、など。
1916.5.21
7月 「唯一者とその所有」『科学と文芸』第2巻第7〜10号。〈「全集年譜」〉
※「唯一者とその所有」『科学と文芸』1916.7号〜10号。
英訳本のウオーカーの「序文」から始まり、「人間編」の「頭脳の錯誤」の二分の一強迄。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.301-302〉
11月 『天才論』を訂正出版 三陽堂書店。
※三陽堂書店:本郷区駒込林町237番地。
〈「全集年譜」〉
※奥付:1916.11.28訂正5版発行。
定価1円20銭。三陽堂書店は植竹書院の出版物を引き継いだ。 植竹版の初版から数えて5版目。『訂正 天才論』。
「第五版を出すに就いて」
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.282-283〉
※「父の霊にささぐ――『天才論』第五版を出すに就いて」1916.11 下谷にて〈『辻潤全集』第4巻〉
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伊藤野枝と大杉栄の恋愛
大杉栄と伊藤野枝がキスして恋愛関係に入ったのは2月で、ほとんどの資料で一致している〈宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」・『神近市子自伝』p.145・「伊藤野枝年譜」〉。
『青鞜』の終刊は経済的なことが大きいのだろうが、
大杉との恋愛も関係あるのだろう。
2月のカレンダー・天気
宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」に雪の日が出てくる。「寺田寅彦日記」によると、1916年2月は、晴れの日が多いが、そのほかの天気の日を抜き出してみる。"--"は日記の記載なし、"-"は天気記載なし。
2.5 土 曇。2.6 日 雨。2.7 月 雪のち雨。2.10 --。2.21 月 曇。夜、雪降り出す。2.22 火 曇小雪 夜来の雪5寸位積もる。2.23 水 曇小雨。2.24 木 -。2.26 土 -。2.29 火 暴風雨。
伊藤野枝が野上弥生子に相談
伊藤野枝が野上弥生子に相談したのは、野上弥生子「野枝さんのこと」では3月、野上弥生子「彼女」では4月下旬。3月9日は、「伊藤野枝年譜」による。記事の内容は、ほとんど野上弥生子「彼女」から採った。
辻潤は伊藤との隔たりの埋め難いことを見て、既にすべての自由を許したと伊藤が話したというが、信じることはできない。二人の結婚生活ははなはだ弛緩していた〈「ふもれすく」〉し、辻潤・伊藤野枝は、当時の「進んだ」青年として、伝統的・因習的な厳格な男女関係を容認しなかったかもしれないが、辻潤は伊藤野枝がある程度まで自由にやることを黙認していた程度で、「すべての自由を許した」は言葉上のことだったろうと思われる。野上弥生子の「彼女」には、伊藤が大杉の下に走ってから、伊藤は野上弥生子の前ではいい子になっていると辻潤が言ったということを人伝てに聞いた、とある。伊藤野枝は基本的に生来のエゴイストで、何でも自分に都合のよい方に事実を歪める傾向がいくらかあると思われる。
野上弥生子の「野枝さんのこと」と「彼女」では、若干ニュアンスが異なっている。「野枝さんのこと」は、伊藤野枝が殺されてからの回顧で、大体正確だろうが、紙数も少ないし、詳しい内容は、「彼女」に描かれている通りであるかもしれないが、虚構もあるのだろう。「彼女」によると、中一日おいて朝、再び伊藤が訪ねたが、その前日に家を出たとあり、哀れげな様子はなく血色のいい元気そうな顔をして、下谷の友達が経営している下宿屋にいて、近いうちに何処か静かな海岸へでも行って頭を落ちつける積りだと言っていたとあり、その一日二日の後に、都下の新聞紙が伊藤が辻とまことを捨てて大杉の許へ走ったと報じた、となっている。
『炎の女』pp.275-276は、伊藤野枝が野上弥生子に相談した日を、伊藤野枝が辻の家を出た日と間違えているが、野上弥生子「彼女」を採用したからだろう。
伊藤野枝が辻潤の家を出る
宮嶋資夫「遍歴」:
「駕籠町からは近くの、白山下の辻潤の家を訪ねた。それまでに一度、中村孤月に連れられて行つた事があつたが、その日は一人で行つた。辻と野枝が対座して、辻の母親も傍にゐた。何だか変な空気だつた。辻は私の顔を見ると、もう駄目だよ、と言つた。野枝の左の目のふちが黒くはれていた。一体どうしたんだい、と訊くと、どうもこうもないさ、もう別れることにきめたんだ。キッスしただけだと言ふけどどうだか判るもんか、と言つた。野枝は二児の母だつた。そして下の子は乳呑子だつた。母親は困つたことになりましてね、と言つた。野枝は、私は決して辻が嫌いぢやありません。けれども仕方がありませんわ、と言つた。
私は何も言へなかつた。ただ、それで君は今後どうするのか、と訊ねたら、辻は一人で当分どこかに行くさ、と言つた。」
「 翌日私は辻の家はどうなつたか、まだゐるなら、上の子を連れて一緒に植物園でも行つて遊ばせてやらうと思つて、子供を乳母車にのせて再び辻の家を訪れた。然しだれもいなかつた。台所の障子のすき間からのぞいてみると、部屋の中は昨日のままの乱雑で、喰い散らしたネーブルの皮がそのまま散らかつていた。寂しい気持で家に帰つた。」
しかし、宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」では少しちがったふうに書かれている。宮嶋資夫「遍歴」では、宮嶋資夫が何のために辻の家に行ったか分からないが、「予の観たる大杉事件の真相」によると、家庭崩壊を予見して訪ねたらしい。
宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」:
「 四月の末であつた。仏蘭西文学研究会のあつた日であつた。講義が終つた頃野枝がやつて来た。すると大杉君の神近君に対する態度は急に変つて、野枝がプカ/\煙草を吹かして澄し込んでゐる前で、神近君が腰を掛けて机の下に足を出してゐる為めに裾がこぼれてゐるのを指して、
「此う云ふのは実に醜悪だね」等と云つてゐたが、僕は少し癪にさわつてゐたので黙つてゐた。
すると皆が帰る頃になつて、大杉君は僕に「今日は野枝さんと少し話があるから、済まないが、神近を君の家へでも連れて行つて呉れないか」と云ふので、
「神近君さへ承知なら僕は構はないが」と云つて、丁度来会してゐた五十里君と二人で別の方に向つて歩いて行くと、やがて神近君が後から来て、
「今日はあなた方と一緒に行きませう」と云ふので、夫れから五十里君の家へ行つて三人で酒を飲んだ。少し酔ふと神近君は昂奮して涙を流してゐた。
その晩十時頃僕が神近君を大杉の下宿に送つて行くと、新見附のとこで大杉君と野枝とが来るのに逢つた。その時大杉君は、
「一寸送つて来るから待つてゐて呉れ給へ」と云つたが、一時間半位も帰つて来なかつた。その間に僕は神近君に早く止した方が好いと云つたが、其の時は神近君もその気でゐたらしかつた。やがて大杉君が帰つて来てから、
「僕は自由恋愛なんて云つたつて、何うしても本当の事と思へない。仮令へば今夜僕が神近君と一緒に寝て、明朝君に神近君を渡して行くと云ふやうな事をしたら何んな気がする」と云つたら、
「平気さ、やつて見たら好いだらう」と大杉君は云つてゐた。然し僕には、仮に神近君が応じたとしても、自分の家庭を破壊してまでやつて見る程の興味もないのでその儘に帰つて了つた。
その晩辻君の家庭は破壊されて了つた。その翌日僕が辻君の家に行つた時、野枝は、
「何うしても二人で一人の人を有つのは嫌だ、私一人のものにする気で行くのだ」と云つてゐた。」
伊藤野枝「申し訳だけに」:
「そうして私は、その私の決心を話すつもりで大杉さんに会いました。
第一に会いましたときには、私はその決心はどうしても通るものとして、通さねばならぬものとして、それ以上の用意をせずに行きました。しかし前にも申しましたように、この、私の大杉さんに対する態度は私の本来のものでない、非常に種々なものによつて、いじめられて出来た態度でしたので、大杉さんに会うと同時にその決心はすっかりくずれてしまいました。それでも、私のまだいろいろな功利的な不純な心の働きが力を失うまでには間がありました。今度は、私は、自分の持っている愛を否定しようとはしませんでしたけれども、保子さんと神近さんがある間は進むことが出来ない、ということをいい出しました。
私がそういい出した本当の心持は、やはりそれについて世間から受けるべきはずの非難が恐ろしかったのです。ですから大杉さんに、「その理由がない」と断られたとき、私は「そんなら、私たちはもうこれっきりです」ときれいにいい切つてしまいましたが、お互いに思いきって口でいったほど強くはなれませんでした。で私は、ぶつかる処まで行って見る気になりましたのです。その時の私の気持は、私がもう少し力強く進んで行けば、その力で二人の人を退け得るという自惚が充分にありました。そうしてそう自分で決心がつきますと、非常に自由な気持になりました。今まで大変な苦しみの中におさえていた情熱が、ようやく頭をもたげてまいりました。私の苦悶はそれで終わりました。私はその夜かえるとすぐに私の決心を辻に話しました。そうして辻の同意を得て、その翌日家を出てしまいました。」
宮嶋資夫・伊藤野枝によるなら、まず、伊藤野枝は、辻潤に家を出ることを話した翌日に家を出たことになる。「ふもれすく」によると、辻潤が伊藤野枝をなぐったのは、家を出る一週間程前である。まず、二人が書いているので、翌日ということなのだろう。ただし、宮嶋資夫の書いていることもはっきりしないし、伊藤野枝は辻になぐられたことを記していなかったりしているから、そう確実とも言えないだろう。
翌日の方が野上弥生子の「彼女」にも合うが、野上弥生子「彼女」の辻潤と伊藤野枝が別れる下りは信用しにくい。それによると、伊藤が野上弥生子に相談した2、3日後に、新聞に伊藤が大杉に走った記事が出たとある。この新聞が何新聞なのか分からないが、『青鞜の時代』によると、4月27日に『万朝報』の記者が辻潤の家を訪問し、記事が出たのが5月4日の夕刊(5.5という日付は、夕刊に記されていた日付だろう。当時の慣習では夕刊には翌日の日付が付けられていた。「新聞各紙の夕刊は、前日に印刷発行される慣行が続く(主要全国紙で一九五一年九月まで)」〈「井伏鱒二著作目録」凡例〉)なので、伊藤が野上に相談して、2、3日後の新聞に記事が出たとは考えにくい。しかも、野上弥生子「野枝さんのこと」によると、3月に伊藤野枝が野上弥生子の家に相談しに訪れた時が、野上が伊藤に会った最後となっている。従って、野上弥生子「彼女」で伊藤が家を出る2、3日前に野上に会ったというのは、小説的潤色ということになりそうである。井手文子『青鞜 元始女性は太陽であった』・岩崎呉夫『炎の女』は、野上弥生子が「彼女」に書いたことを事実とみなしているらしい。
伊藤野枝年譜:
「 四月二五日、流二を連れて辻の家を出て(二四日、二八日という証言もある)、神田区三崎町の青鞜社員荒木郁の旅館玉名館に滞在する。二九日、大杉に見送られ、千葉県夷隅郡御宿町に行き、上野屋旅館に滞在する。大杉と手紙の交換始まる。辻と別れたことが『萬朝報』『都新聞』などいくつかの新聞で報道される。」
『青鞜の時代』p.248:
「二歳七か月の一を潤のもとに残し、生後八か月の流二のみつれて、野枝が辻の家を出たのは、「二十四日の午後」と、潤が『万朝報』の記者に語っている。「無論、私共ハよく話し合った上で別れたのです」とも。記者はその三日後、「「青鞜社」の木札も剥ぎ取られ」、「荒涼として淋し」い家で、潤と相対したのだった(同紙、五月五日夕刊「新婦人問題(三)」)。」
流二は生後8か月ではなく5か月 or 約6か月。
宮嶋資夫が書いたものなどによると、伊藤野枝が辻潤と別れて大杉栄の下へ行くと辻に話し、辻が大杉栄との関係を訊き、キスしたと聞いて、辻が伊藤を殴り、別れることを決めたと想像できる。通常、辻潤・伊藤野枝が別れたことは、伊藤野枝が大杉栄のもとに走った、と書かれる。しかし、辻潤が伊藤野枝を追い出したと書かれてもおかしくはない。当時は、女にだけ姦通罪があったことを考えれば尚更である(こういうことは古い道徳として二人の採らないところだったろうが)。しかし、その後の二人を見ると、辻潤はやはり妻に捨てられた男で、ほかの男に妻を奪われた男ということになる。それは、当時の一般的見解であるといってよいようである。〈「ふもれすく」など〉
辻が別れることを決めたと言う時、仕方なくそう言ったようでもある。辻潤の態度は、前に伊藤野枝が木村荘太に揺れた時とは随分異なっている。
岩野泡鳴
宮嶋資夫と一緒に岩野泡鳴を訪れたことなどは、年月の明記がなく、時間が不明。ふさわしいと思うところに入れてみた。
上野の寺
辻潤が上野寛永寺の一室に籠ったというのは、宮嶋資夫だけが「遍歴」にだけ記している。ほかの文章では、上野の寺とのみあって、寺院名はない。従って、その寺が寛永寺であったかは確かではない。宮嶋資夫「遍歴」は、大分のちの回想で、上野といえば寛永寺ということで寛永寺と記した可能性もあるだろう。この年譜では上野の寺とのみ記す。宮嶋資夫「遍歴」によると、大西克礼がギョイヨーの翻訳をしていたあとの部屋という。
大西克礼(オオニシ ヨシノリ):1888-1959。
1914 ギユヨー『社会学より見たる芸術』大西克礼、訳 内田老鶴圃(ウチダ ロウカクホ)。
Jean Marie Guyau,(1854-1888)
〈国会図書館蔵書検索〉
「唯一者とその所有」の翻訳
辻潤が上野の寺の一室で「唯一者とその所有」の翻訳をしていたというのは、『科学と文芸』に、翻訳が掲載されたことで分かる。
『科学と文芸』6月号「編輯室より」には、「辻君のスティネルは百枚許り送って下さったのですが、時が少し遅かったのとこの月は馬鹿に沢山の原稿を四方の友人から頂いたのとでこれも来月号まで延ばすことにしました。」とあるそうで、佐々木靖章は、「百枚では四回連載分としては不足なので十月号分位が後に追加されたと思われる。」と書いている〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.302〉。
「ふもれすく」に次のようにある。
「 僕はそもそも事件の当初からいち早く逃げ出して、あるお寺の一室に立て籠り、沈黙三昧に耽って出来るだけ世間との交渉を断絶した。勿論新聞雑誌の類さえ一切見ず、友人達からも自分の行方をくらましていた。だからその後、大杉君らの生活の上にどんな事が起こって、どんな風な経過をとっていたかというようなことについては僕は一切知りもせず、また知りたいとも思わなかった。僕はひたすら自分のことにのみ没頭していた。」
ここでいう事件というのは、文章の流れからいえば、葉山事件のことだが、大杉栄をめぐる恋愛事件ということで、伊藤野枝が辻潤と別れたことをいっている。
おそらく、辻潤は寺の一室に籠もり、集中して一挙に翻訳を完成させたかったのではないか。翻訳が中途になったのは、雑誌の都合だろうか。生活費が尽きそうで、ヴァイオリン・尺八・英語の塾を開くことにしたからだろうか。まことと母を放ってはおけないと思ったからだろうか。佐々木靖章は、「この訳載が中途半端のまま終わったのはなぜであろうか。辻潤にはなお続稿の気持ちがあったのではないかと推測されるが、それを中絶させたのは野枝を大杉に奪われたことでなかったろうか。」〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.302〉と書くが、伊藤野枝を大杉に奪われてからも翻訳を続けているのであり、それを中断の理由にはしにくい。
辻潤が「唯一者とその所有」の翻訳を思い立ったのは、マックス=スティルナーと自分を重ね合わせたからだと考えることも出来る。のちの出版の際に書いた「読者のために」によると、スティルナーは学校教師だったが、「唯一者とその所有」と思われる著作を完成すると教師を辞めている。当時の「新しい女」と共同生活をしていたが、彼の貧乏と失敗のため、3年ばかりで破れ、彼女の財産を全部消費したといって彼女は彼を棄てて逃げた、とある。伊藤野枝に逃げられて、スティルナーと自分を重ね合わせることに救いを求めたが、やがて平静さを取り戻し、翻訳を中止したということであるのかもしれない。
翻訳にてこずり断念したことも考えられる。そうだとすれば、辻潤が遊蕩を覚えはじめたのは、伊藤野枝を奪われたこととともに、この翻訳を完成できなかったからということにもなるのかもしれない。
『生活と芸術』と「のんしゃらんす」
『生活と芸術』第3巻第10号〔6月号=廃刊号〕によると、土岐善麿は5月16日付けで廃刊の挨拶の手紙を寄稿者などに送ったらしい。
哀果生「廃刊について」『生活と芸術』第3巻第10号 p.56(漢字を「新字」にした):
「 さて愈よ廃刊した、それならば、その上で何をする――その点については僕も私かに期するところはある。しかし、一小雑誌の興廃と、それに伴ふ僕一個の問題など、今、さしあたつて、ことさららしく語る必要もない。トルストイは「誓ふ勿れ」といつた。僕はしばらく僕自身に期待しようと思ふ。
廃刊について、発行者たる西村陽吉君との協定が、相互の快い理解の中にまとまつたことも喜びたい。それで、五月の中旬第四頁にかゝげたやうな手紙を活字にして、先輩友人に発送し、こゝにこの廃刊号を発行する運びとなつたのである。諸家それ/゛\他の用事のすくなくない中において、特に「最後の記念」を与へられたことは、僕の何とも感謝にたへぬところである。編輯上、長短交錯して順序もなく掲載し、一意、内容の充実を努めた。この点、諒とせられむことを請ふ。」
『生活と芸術』第3巻第10号 p.4(漢字を「新字」にした):
「
生活と芸術を廃刊
するにつきて
新緑の快いころとなりました。さて大正二年九月このかた、小生が編輯して東雲堂から発行してまゐりました雑誌「生活と芸術」今回小生の生活の一変転のため、廃刊のことに決意いたし、愈よ発行者とも協定の上、来る六月号を最終とすることにいたしました 就きましては、この際、従来の御厚意御援助に感謝の意を表し、また将来の御交誼御指導の渝ることなきを願ふと共に、創刊このかた特に誌上に御執筆くだすつた先輩友人の御寄稿を請ひ、最後の記念といたしたいと存じます。何卒、長短にかゝはらず、来る二十二日迄に御恵送にあづかりえますやう、切に期望いたします。御多用のことゝは存じますが、枉げて御容きいれを願ひたく、先づは右失礼ながら手紙にて御挨拶旁御無心迄。敬具。
大正五年五月十六日
生活と芸術社にて
土 岐 哀 果
尚は「生活と芸術叢書」は既に第六号迄を発行いたしましたが、六月中に第十編迄を出版いたし、一先づこれを叢書の第一期とすることにいたしました。
(廃刊号寄稿要請の手紙の写)」
辻潤の「のんしゃらんす」の日付5月21日は、最後の寄稿の締切の22日に合致するから、以上のような次第で土岐善麿に送った手紙あるいは寄稿ということになる。
下谷の寺にいた辻潤を訪問
宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」:
「 福四万館に彼女がゐた頃、一日その頃下谷の寺にゐた辻君を尋ねて、
「あなたと私とだつて何も他人でなくたつて好いぢやありませんか」と云つた。其の時辻君は、
「貴様と○○位なら淫売を買ひに行か」と云つてから、
「お前は大杉君の方へ行く時分には一人でなければいやだと云つてゐたぢやないか。それなのに今になつてそんな事を云ふのは大杉君に負けたんだろ」と云つたら、
「いえ私は初めから斯うなんです」と強情を張つてゐた。」
(彼女=伊藤野枝)
伊藤野枝が福四万館にいたというのを信じれば、「伊藤野枝年譜」によると、9月8日から10月15日の間ということになる。もしかすると、宮嶋資夫は伊藤野枝・大杉栄がずっと福四万館にいたと思っていたのではないかとも思うが、この会話の感じでは、伊藤野枝が辻潤の家を出て1か月程度は経っているようで、伊藤野枝・大杉栄・神近市子の間で経済的に独立することなどの恋愛のルールがつくられたのち(これは相当早く、伊藤が辻の家を出る前につくられていたようであるが〈『神近市子自伝』pp.149-150〉)、「日蔭茶屋事件」の前、ということで、おおよそ、9月8日から10月15日の間で妥当と思われる。ここでは、9月頃としておく。
その頃、辻は寺にいた訳だが、上野の寺ではなく、下谷の寺内にあった借家のことかとも思った。しかし、下谷の寺の中の借家というのは、どちらかといえば、この年移った北稲荷町34番地の借家ではなく、のちの北稲荷町6番地の家のようである。宮嶋資夫が上野の寺とすべきところを下谷の寺と書き誤ったものとみなす。
もし、それが正しいなら、辻潤は伊藤野枝が訪ねてから間もなく上野の寺を出ている訳で、誰にも特に伊藤野枝に会わずに、スティルナーの訳を続けるつもりだったのだが、伊藤野枝がやって来たので、上野の寺を出たということになるのかもしれない。
「ふもれすく」などによると、辻潤と伊藤野枝は静かに別れたというのに、この会話での辻潤の伊藤野枝に対する言葉には刺があるが、伊藤野枝は、この時、「乳児の流二君を上総の海岸にオイテキボリをくわし」〈「ふもれすく」〉て、里子にしていたと思われ、辻潤の言葉がトゲトゲしくなるのも無理はないと思われる。そういう辻潤もまた流二を取り戻すようなことはしない(できない)のであるが。
宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」:
伊藤野枝は、
「 今年の夏も自分が責任を負つて千葉に預けて来た子供が、百日咳から肺炎になつて殆んど危篤になつて、預り人からは毎日毎日手紙が来ても、終に逢ひにも行かなかつた」
下谷の稲荷町
「よみうり抄」『読売新聞』1916.9.19号によれば、辻潤は、9月15日頃に上野の寺を出ている。
「よみうり抄」『読売新聞』1916.9.19号 7面。〈『読売新聞』〉:
「▲辻潤氏 は二ケ月程上野の某寺に在りしが数日前僧房生活を止めたりと」
「上野(かうづけ)」とルビが振ってあるが、「うへの」が正しいのだろう。
上野の寺を出て下谷の稲荷町の裏長屋に入ったとするのが普通だと思うが、「よみうり抄」『読売新聞』10.13号によれば、北稲荷町に移ったのは10月らしい。上野の寺を出た時には、指ヶ谷町の家が残っていて、それから下谷の稲荷町の家に移ったのかもしれない。あるいは、指ヶ谷町の家は既に引き払ってあり、上野の寺を出て、まことと美津もいた妹の恒の家に住んだということかもしれない。
「よみうり抄」『読売新聞』1916.10.13号 7面。〈『読売新聞』〉:
「▲辻潤氏 は此程下谷区北稲荷町三十四に在りと」
「よみうり抄」『読売新聞』9.19号には「二ケ月程上野の某寺に」いたとあるが、「のんしやらんす」を書いた頃には、上野の寺にいたようである。
「エイ・シャク・バイ」によると、下谷の稲荷町の裏長屋に移ったのだが、住所は、『ダダイスト辻潤』では下谷区北稲荷町34番地、「全集年譜」では、下谷区北稲荷町6番地。「辻潤戸籍抄本」などによれば、『ダダイスト辻潤』が正しく、「全集年譜」は間違い。
下谷坂本2丁目
三島寛『辻潤 芸術と病理』には、稲荷町の辻の家で英語を習った河合勇〔元朝日新聞印刷局長、日刊スポーツ印刷社副社長〕が三島寛に寄せた手紙が載っている。
「わたし(明治三十二年生)が、早大英文科在学中、友人渡平民氏(早死)の紹介で、下谷坂本二丁目の電車通りの裏横町の二階屋へ、英語を教わりに半年ほど夜分に通いました。当時上根岸にあった上野高女の教師をやめた後と思います。ワイルドの〈ドリアングレーの画像〉を教えてもらいました。辻氏の訳読は明快で英語の出来る人だと思いました。当時階下に老母がいて、伊藤野枝のおいて行った赤児の子守をしておりました。…」
「上野高女の教師をやめた後」は少しおかしい。辞めてから数年は経っている。「赤児」は、まことということになるが、満3歳以上だから「赤児」というのも少しおかしい。
河合勇が早大英文科在学中とあるが、早稲田大学は1920年に大学令による大学になっており、河合勇が在学中の時は専門学校令による大学であろう〈〉。中学校卒業後に入学したとして、およそ河合勇が満17歳以降、1916年以降ということになるが、いつの年なのかははっきりしない。
あるいは、下谷坂本2丁目は、辻潤が何度か引越しをしたうちの一つの住所かもしれない。また、電車通りが下谷坂本2丁目というのかもしれない。
坂本町(さかもとちょう):江戸期の町名。浅草を冠称。1969年、隣地の浅留(あさどめ)町と合併して松葉町となる。のち松が谷1丁目・松葉公園の一部。〈「坂本町」『角川地名大辞典 13 東京』〉
孤独を養うことのできる二階屋
辻潤は「いつも孤独を養うことのできる二階のある家をえらんでいた」〈辻まこと「おやじについて」〉が、河合勇によると、下谷の家も二階家だったことになる。また、辻自身また他の者が書いたものによると、辻潤は夜間にしか書けず、また人前では絶対に書かなかった。「原稿を書く姿は見せたがらず家人が寝しずまってからでした」〈松尾季子「思い出」(四)〉。
特に辻潤が特別というほどのことではないかもしれない。ほとんどの文筆家について、(その環境が整っていて)その書く姿を誰かに見られることはあるまいし、また、見られたくないと思う方が多いだろう(流行作家なら、そばに編集者が付くことがあるかもしれないが)。辻潤の場合には、特にそうだったという程度のことだろうし、(環境が整っていないので)周囲の者には、他人をそばに寄せ付けずに書くという姿が特に目に付いたということだろう。原稿を書く姿を見せたがらないというこの傾向は晩年まで見られるようで、伊藤野枝「出奔」の辻潤の手紙によると上野高女を辞めたあたりから、この傾向は現われているらしい。
のちの辻潤の手紙などに、落ち着いて仕事ができるところ、何かを書く場所がないなどとあるが、それは、時と場所がないという以上に、孤独を養い誰にも見られずに書く時と場所がないという意味だったことが濃厚である。
「辻潤書簡」49〔1935.9.17〕:
「 さて、本が出たら孤立した部屋のある家へこすつもりだったが、そうそうこせはしない。しかし私は別段それをどうとも思わん。まだ時節が到来しないのだとアキラメル。久しぶりで机をスエ、本を並べて原稿紙に向かいたいと思っていたが、ダメだ。しかしいずれ時節到来すると思っている。」
荒川畔村「震災後と戦災後」:
「辻潤は、人のいる前ではどんな僅かな原稿も書けなかった。編輯のとき不足原稿を書いてくれといっても決してアトでなければ書かなかった。だから辻潤に原稿を書かせるためには、彼に平穏な時間を与える必要が特に重要だった。処が辻潤の家は、この要求には余りに反対なうるさい煩雑な家であった。だから原稿を書ける時間が尠いのが辻潤にとって満足したものでないことは勿論であった。何処か宿屋へでも行って書いてくるという芸も出来なかった。一人でいるのが、さびしいらしいのである。」
尾崎士郎
尾崎士郎「明るい楽天家」によると、尾崎士郎がはじめて辻潤に会ったのは30余年前で、悪友の茂木久平と2人ではじめて吉原に行き、帰りの電車賃がなくなり上野まで歩き、茂木が辻潤の家を思い出して訪ねた、とある。
しかし、「『パリ紀行』の中に、ときどき蔵前の寓居の窓からガス燈のともる夕方の街を思い出す、ということが書いてあつたが、たぶんその家であつたろう。」と、まるで、その時、辻潤が蔵前に住んでいたかのように書いている。そのあとには、次のようにある。
尾崎士郎「明るい楽天家」:
「 当時の夫人は伊藤野枝女子であり、家庭は至極円満だつた。
『辻さん』(私たちはそう呼んでいた)は上野女学校の先生をやめたばかりのときで、私の眼には人のいいおじさんというかんじだつた。」
「そのとき、彼は、『そばでも食つてゆけよ』といつて二十銭私たちにくれた。茂木と私は帰りの電車の中で、この幸福な家庭人を讃美しあつた。」
尾崎士郎・茂木久平は、1912年頃にでも辻潤の家を訪ねたのかもしれない。茂木久平と辻潤の関係も分からないので、保留。
『天才論』の「第五版を出すに就いて」
『天才論』の「第五版を出すに就いて」:
「今年の春以来、僕はかなりヒドイ目にあわされて来た。「持たざるものは、その持てるものをも取られる」と云う名言の如く、「黙っていれば何処までもいい気になってツケあがる」有象無象を至る処で見せつけられた。しかし、全くの経験はみんな僕自身にとってありがたい教訓である。自分は謹んで一々受納して置いた。」
「黙っていれば何処までもいい気になってツケあがる」有象無象、よく分からない。
「全集年譜」などの誤り
「全集年譜」には、この年1916年5月頃、武林無想庵・大泉黒石・谷崎潤一郎・佐藤春夫・宮嶋資夫らを知る。また、佐藤惣之助を通して萩原朔太郎を知る、とあるが、全て疑わしい。
『ダダイスト辻潤』p.110に、1916年、武林無想庵・大泉黒石・谷崎潤一郎・佐藤春夫らを知る、とあるのも同様。「佐藤春夫年譜・著作年表」に、1916年3月頃、武林無想庵の紹介で辻潤を知る、とあるのも同様、旧い辻潤年譜などに勝手な想像を加えたものと思われる。
「全集年譜」に6月、パンタライ社をたたみ本郷追分の今岡信一郎経営の栄林館に下宿、とあるが、『ダダイスト辻潤』などを採り、栄林館に下宿したのは、1919年とする。
「全集年譜」では、この年11月、比叡山に上っていることになっているので、この頃の混乱が多くなっているようである。
佐藤惣之助といつ知り合ったかもはっきりしないが、「連環」〔『大調和』1927.8〕には、「惣之助とも知り合ってから約一昔程になる。」とある。
高橋誠一の父
この年または翌年、高橋誠一の父と殆ど毎晩のように酒を飲む時期があったが、まことを連れて来たという〈高橋誠一「「辻おじさん」とおやじ」〉。まことを連れてさまよっていたのだろうか。
「唯一者とその所有」の連載
『科学と文芸』7〜10月号の「唯一者とその所有」の連載は、「ヘーゲル左派日本語文献目録」〔http://www2.toyo.ac.jp/~stein/linke.html〕には、1918年とあるが、佐々木靖章によると、これは間違い。
「各年譜がこの連載を大正七年のこととしているのは誤り。」〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」注一一『辻潤全集』別巻 p.320〉
「全集年譜」では訂正されている。
宮嶋資夫について
「「犬の死まで」その他」2:
「宮嶋とは酒を飲み食物や女の話をするが、必ず最後には激論をすることになる。僕を興奮させて思わず高い声を出させるのは宮嶋である。僕はそんな時、また彼奴の手に乗ったなといつでも後でくやしがるのである。」
淋病
小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」に、浅草で「淫売」を買い、淋病にかかった、とあるが、それは、今宿から帰京してからのこととなっている。この年に記しておく。伊藤野枝を別れてからのことだろうか。
『ダダイスト辻潤』p.266には、辻義郎の話として、「兄貴が二階から降りてきては机の抽出しを開けてゴソゴソやっているので、抽出しを調べてみたところ淋病の治療薬が入っていた」とある。
カレンダー・天気
「寺田寅彦日記」による曜日と東京の天気。
1916.3.9 木 晴
1916.4.17 月 曇
1916.4.24 月 晴
1916.4.25 火 曇少雨
1916.4.29 土 -
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稲荷町(いなりちょう):1869〜1872年の町名。下谷(したや)を冠称。1872年、新寺通(浅草通り)で南北に2分され、南稲荷町・北稲荷町となる。のち東上野2〜5丁目のうち。〈「稲荷町」『角川地名大辞典 13 東京』〉
北稲荷町は、のちの東上野4〜5丁目らしい。
1916.1.1〜3.17〔野上弥生子〕「二人の小さいヴアガボンド」『読売新聞』。
※「大正五年一月一日から三月十七日まで(毎日曜休載のほか四日休載)六十二回にわたって『読売新聞』に「二人の小さいヴアガボンド」の表題で連載。総振仮名。のち『新しき命』に「二人の小さいヴァガボンド」と「ア」を小字にして収録。ついでかなり修訂が施されて大正十四年三月二十五日、岩波書店発行の(新版)『新しき命』に「小さい兄弟」と改題して収録された。」〈瀬沼茂樹「後記」『野上彌生子全集』第3巻〉
1916.1 青山菊栄「日本婦人の社会事業に就て伊藤野枝氏に与ふ」『青鞜』第6巻第1号。1月号、1.1。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉
1916.1 伊藤野枝「青山菊栄様へ」『青鞜』第6巻第1号。1月号、1.1。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉
1916.1.3 伊藤野枝、「雑音――「青鞜」の周囲の人々「新しい女」の内部生活」を『大阪毎日新聞』に連載開始〔〜4.17〕。〈「伊藤野枝年譜」〉
※1916.4
1916.1 宮嶋資夫『坑夫』近代思想社。〔1.5。ただちに発禁。相当数、流布。〕〈「宮嶋資夫著作目録」・『日本近代文学年表』pp.107,..〉
1916.2 青山菊栄「更に論旨を明かにす」『青鞜』第6巻第2号。2月号、2.1。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉
1916.2 伊藤野枝「再び青山氏へ」『青鞜』第6巻第2号。2月号、2.1。〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉
1916.3.9 大杉栄、堀保子と別居し、第一福田萬館に下宿する。〈「伊藤野枝年譜」〉
1916.4 生田春月『虚無思想の研究』天弦堂。〈「生田春月年表」〉
1916.4〜(毎号) 武林無想庵「混沌」『鐘が鳴る』。〈「武林無想庵盲目書誌」〉
1916.4.9 武林無想庵「豆腐の殻」『読売新聞』4.9号 月曜付録。〈『読売新聞』1916.4.9号〉
1916.6 伊藤野枝「申し訳丈けに」『女の世界』第2巻第7号〔6月号。6.1〕。
※のち一部削除し、「「別居」に就いて」と改題し、『大杉栄全集』第10巻〔世界文庫復刻 1963〕 に収める。
〈「解題」『定本 伊藤野枝全集』第2巻〉
1916.7 岩野泡鳴、3ケ年を資してプルターク英雄伝の翻訳を完成、総計4,744枚。《それまでに印税1,463円20銭を受け取る。》〔出版されずに終わる。〕〈「岩野泡鳴年譜」〉
1916.9.2 武林無想庵「神経痛のスーバニイル」『読売新聞』。〈『読売新聞』1916.9.2号〉
1916.9.3 武林無想庵「神経痛のスーヴニイル」(続)『読売新聞』日曜付録。〈『読売新聞』1916.9.3号〉
1916.9.28 武林無想庵「阿房峠を越えて」『読売新聞』。〈『読売新聞』1916.9.28号〉
1916.9 西原和治『新時代の女性』郁文社。9.18。〈『新時代の女性』〉
1916.11.5 武林無想庵「シューヌヤターイブ・ルーパン」『読売新聞』日曜付録 。〈『読売新聞』1916.11.5号〉
1916.11.10 『東京朝日新聞』朝刊、5面の過半を資して、日蔭茶屋事件を報じる。「●大杉栄情婦に刺さる/被害者は知名の社会主義者/兇行者は婦人記者神近市子/◇相州葉山日蔭の茶屋の惨劇」。〈『東京朝日新聞』1916.11.10号〉
1916 アルチバーシェフ、武林無想庵、訳『サニン』(完訳)植竹叢書。〈「武林無想庵盲目書誌」〉
パンタライは「万物は流転する」の意味。
『広辞苑』には、panta rhei、「パンタレイ」と出ている。インターネットには panta rei の綴りがある。英語読みだと「パンタレイ」かもしれないが、ドイツ語読みなら「パンタライ」。「パンタレイ」or「パンタ・レイ」などと表記されるのが普通で、「パンタライ」を使うのは、辻潤と瀬戸内寂聴〔晴美〕くらいである。もともとはギリシャ語で、ヘラクレイトス〔古代ギリシャの哲学者、Herakleitos or Heraclitus〕の説。
神近市子:1888.6.6-1981.8.1。〈『日本社会運動人名辞典』〔「訂正および補遺」含む〕〉
高畠素之:1886.1.4-1928.12.23。〈「高畠素之」『日本近代文学大事典』〉
尾崎士郎:1898.2.5-1964.2.19。〈「尾崎士郎」『日本近代文学大事典』〉
木蘇穀(きそ こく):1893.8.26-?。『潮』・『英語文学』・『局外』などの編集者。『万潮報』記者。〈「木蘇穀」『日本近代文学大事典』〉
木蘇穀(きそ みのる)。〈『谷崎潤一郎伝』p.110〉
五十里幸太郎:1896.4.23-1959.5.25。〈「五十里幸太郎」『日本近代文学大事典』〉
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1917 大正6
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下谷の稲荷町にいて、毎晩のように浅草に出かける。〈「あさくさ・ふらぐめんたる」〉 下谷の稲荷町に家があったが、大方友達の下宿などをとまり歩いて酒にうつつを抜かす。〈「勉めよや春夫!」〉
2月頃 ジョージ=ムーアの「一青年の告白」を訳し始める。〈『一青年の告白』「自序」・佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.316〉
早春の頃 砂埃の立つ日。木村幹と二人で神田あたりをぶらつき、木村が気まぐれに幽霊坂の佐藤春夫の家に連れて行き、佐藤春夫に初めて会う。佐藤春夫は、東方叢書の「アポクリフハ」などを出して見せる。辻潤が虎の子のように大切にしていたが困った揚句売ったポーの全集をそこで見つける。しばらく色々と書物のことについて話す。しばらくして、佐藤春夫は犬を散歩させるために一緒に出て、三人で牛込見付のところまで歩いて、そこで二人が佐藤春夫と別れる。〈「勉めよや春夫!」・佐藤春夫「吾が回想する大杉栄」・「佐藤春夫年譜・著作年表」〉
夏の昼下がり、五十里幸太郎が谷中の善光寺坂で望月桂のやっていた一膳飯屋「へちま」に辻潤を連れて行く。2階6畳間で酔い醒めの番茶をすすりながら、娑婆の不合理・不満を話し込む。よれよれになった浴衣を、股の辺までたくし上げ、表通りへ尻を突き出して窓の敷居に腰をかけ、組んだ足で貧乏ゆすりをし、口笛を吹く。〔それから辻潤は、ちょいちょい「へちま」に遊びに行く。〕〈望月桂「忘れがたい人」・『大正自由人物語』〉
8月上旬頃 大原に行く。〈「よみうり抄」『読売新聞』1917.8.9号〉
9.18 伊藤野枝との協議離婚の届出が出される。〈「辻潤戸籍抄本」〉
よく、宮嶋資夫の家を訪れる。〈『神近市子自伝』p.149〉
オスカア=ワイルドの「ドリアングレイ」、アマジュウス=ホフマンの「セラピョン兄弟」を訳したが出版にいたらなかった。〈「全集年譜」〉〔「ドリアングレイ」・「セラピヨン兄弟」の原稿は、関東大震災で原稿消失。〈「辻潤書簡」2〉〕
この年の頃、大泉黒石を知る。〈「陀々羅行脚」・『俺の自叙伝』〉
〔 辻潤と大泉黒石と二人で早稲田辺を門付をして歩いたりする。辻は尺八で追分などをやり、大泉黒石は辻の後へくっついて歩く。早稲田の学生連に見つかり、カフェーに引っぱり込まれシコタマおごられたりする。〈菅野青顔「春哀し 辻潤の発狂」〉〕
この年の頃、竹森一則〔のち経済雑誌Tの記者〕の家でよく集まって飲む。竹森一則・安成貞雄・宮嶋資夫と辻潤の4人で徹宵して飲み続け、談たまたま泉鏡花に及び、四人とも負けず劣らず、われこそ鏡花通だといわぬばかりに饒舌りたてた揚句、寄せ書きをして泉鏡花にハガキを出す。〔安成貞雄の発起で、近日この連中で番町を襲うことにしようと一決したが、その実行は有耶無耶に終わった。〕〈「鏡花礼讃」〉
辻潤の放浪中、まことは叔母に養われる。〈「辻まこと略年譜」〉
この年の頃(1918年か) アテネ=フランセでフランス語を教えていた山田吉彦〔ペンネーム:きだみのる〕が、文筆業者十人ばかりを無料学修生として迎える。宮島資夫・辻潤・新居格・竹森一則など。長続きしたのは辻潤だけ。〔山田吉彦は、小遣いにいくらか余裕ができると、ときどき辻潤の下谷の家を訪ね、浅草方面に誘い出し、小料理屋の梯子酒をやる。〕〈『人生逃亡者の記録』pp.157-158・小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」、など〉
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4月 『天才論』訂正6版 三星社出版部 1917.4.1。〈訂正9版の奥付による〉
※三陽堂と三星社の発行者はいずれも簗瀬富次郎。三星社出版部は三陽堂の出版物をそのまま引き継いだ。
『阿片溺愛者の告白』の再版〔1918.5.20〕巻末の『天才論』の広告には「訂正五版」とある。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.283〉
「新悪、不真面目」カッサース作『秀才文芸』第17巻第4号。〈「全集年譜」・『螺旋道』〉
※「全集年譜」によると、スタンレ=マコウア作だが、『螺旋道』目次によると、カッサースの作品。『秀才文芸』は調べていない。
※カッサース作〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.290・『辻潤全集』第8巻〉。
※New Vice; Insincerity〈『螺旋道』〉
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この年の行動はあまり明らかでない。作品発表もほとんどなく、「全集年譜」などの旧年譜がこの年頭は比叡山に上っていることになっているので、記事が抜け落ち、空白の一年であった。
「一青年の告白」を訳し始める
1924年11月に出た『一青年の告白』「自序」に「 この本は僕の十数年来の愛読書です。/ これを訳し始めたのはたしか七、八年前にもなることと思います」とあり、訳し始めたのは1916、1917年頃ということになる。
「未見ではあるが、(略)訳し始めたものが『地上』(大正六・三?)に発表されているらしい。」〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.316〉
とあり、1917年2月頃、訳し始めたとする。
そのあとは、「よみうり抄」『読売新聞』1918.10.8号にジョージ=ムウアの「一青年の告白」を訳していることが出ている。「自序」によれば、1923年9月の関東大震災までに翻訳は終わっていたが、原稿紛失のため、翌1924年に再び訳している。「『浮浪漫語』の巻末には「自分の訳した本」の中に「未刊」として本書が掲げられているので、この時点では訳了していたと思われる。」〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.316〉 1918年から中断して、1921年10月に『英語文学』に訳が載ったあたりから、再び翻訳が再開されたものだろう。
浅草漂泊時代
『浮浪漫語』に「浅草漂泊時代(March,1917)」と説明を附けて、まことと一緒に撮った写真が掲載されている〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.307〉。また「ふもれすく」に「千束町流浪時代」という別の言葉が出て来る。「シェフトフについて」には、1917、8年頃は友人の下宿を転々として歩いていた、とある。「あさくさ・ふらぐめんたる」〔1925年作〕には、「六七年前下谷の稲荷町にいた時分は毎晩のように浅草へ出かけた」「経年、千束町辺にゴロゴロしていたときには二十銭あると、私は幸福になれたものだ。なぜなら山二バアに行けば酒二合に肴二品にありつけたから。」とある。「浅草漂泊時代」と区別できる「千束町流浪時代」があったのかなども曖昧だが、まず同じ時代だろう。
「ふもれすく」:
「僕が千束町流浪時代に僕に酒を呑ましてくれたり、飯を食わしてくれたり、小遣い銭をくれたりしたのは、やはり私娼やバク徒やその他異(?)体の知れぬ人達であったのだ。」
『浮浪漫語』の「序詞」:
「 僕はこの十年ばかりというものは、大抵翻訳ばかりして暮らしてきた。ホンヤクをして辛うじて飯を食ってきた――時々、食えないこともあった。それで時には浅草公園で役者の真似をしたり、放浪して金がない時には門付の真似などしたりした。酔狂のようであるが友達に金を借りて歩くよりは手っ取り早い。わがままで無能な僕には他に適当な名案が浮かばなかったのだ。」
「どりんく・ごうらうんど」:
「 なか屋以外に自分がよく出かけたところは馬道の大黒屋、電気ブランで有名な例の吾妻橋ぎわの神谷バー――あすこには僕がその昔小学校で教えたY――というバアテンダアがいて、今では立派な一人前の男になって切って廻わしている――僕が浅草漂泊時代には金がなくなるとよく最後にはアスコヘでかけてY――からウイスキィやブランをロハで飲ませてもらったものだ。」
1925〔大正14〕年10月発表の「あさくさ・ふらぐめんたる」には、「六七年前下谷の稲荷町にいた時分は毎晩のように浅草へ出かけた」とあり、1918 or 1919年ということになるが、『浮浪漫語』の写真の「浅草漂泊時代(March,1917)」と一致するので、ここに入れてみた。
佐藤春夫
佐藤春夫に会ったことについては、木村幹と二人で神田あたりをぶらついた揚句、木村が気まぐれに引っ張って行った。辻潤に稲荷町に家らしきものがあり、佐藤春夫が麹町の幽霊坂に遠藤幸子と暮らしていた頃で、早春の頃だったろうか〈「勉めよや春夫!」〉とある。
神奈川県中里村に住んでいた佐藤春夫は、(1916年12月に上京して)1917年2月頃、麹町富士見町の通称幽霊坂〔のち千代田区富士見2-13-3、角川書店所在〕に住み、1917年6月に遠藤幸子〔川路歌子〕と別れている。〈「佐藤春夫年譜・著作年表」〉
佐藤春夫「吾が回想する大杉栄」:
「大杉と神近市子との噂を荒川が珍らしげに伝へたのはその頃であつた。私たちも間もなくもつと不便な田園の方へ引込まなければならなくなつてゐた。私たちがそれから一年ほどの後に再び東京へ来た時に、或る友人が私の家へ辻潤を引つぱつて遊びに来た。私は辻の名は兼ねて聞いてゐたが、彼に逢つたことはなかつたのだ。その頃、辻は伊藤野枝と別れてしまつた後であつたと見える。即ち野枝は辻から去つて大杉のところへ行つたその少し後らしかつた。辻を私に紹介した友人が、
「これが有名な辻潤だよ」と紹介すると、
辻は、よつぱらひの陰気な奴のやうな口調で――
「これが天下の振られ男さ」と自分で洒脱に紹介し直したのを覚えてゐる。大杉や野枝や辻の名が新聞でやかましかつた当時だつたのである。」(傍点省略)
佐藤春夫について、
「「犬の死まで」その他」:
「佐藤とはホフマンやプレンタノ(?)を論じ、パラドックスの出来損ねたようなことを饒舌る。しまいには、お互いになにをいっているかわからなくなる。そして、面白がっている。」
望月桂の「へちま」
「へちま」については、東京お茶の水下、猿楽町で氷水屋をはじめてから4カ月たった1916年9月、望月桂夫妻はその店をたたんで、谷中の善光寺坂に同じ店名で今度は一膳飯屋、つまり簡易食堂を開業した。この店は1917年7月頃閉店という。〈『大正自由人物語』pp.34,61〉
五十里幸太郎が望月桂のやっていた一膳飯屋「へちま」に辻潤を連れて来たのは、1916年9月から1917年7月頃の間だが、望月桂「忘れがたい人」に伊藤野枝と別れて2年位たった頃とある。2年位はややおかしいが、まず1917年であろう。
善光寺坂(ぜんこうじざか):文京区小石川2・3丁目の境をなす坂。〈「善光寺坂」『角川地名大辞典 13 東京』〉
大原
「よみうり抄」『読売新聞』1917.8.9号:
「▲辻潤氏 は目下大原に在りと」
流二が里子に出された大原町根方(ねかた)の若松家を訪ねたということになる。
宮嶋資夫と神近市子
『神近市子自伝』p.149:
「 この事件で、辻潤氏は上野高女をクビになり、それいらい翻訳のようなことをしておられたが、私にはそれが出版されたという記憶はない。ただ、宮島資夫氏とは昵懇(じつこん)だったようで、よく宮島家でお見かけした。後日、私が家庭をつくってからは、夫の鈴木厚と旧知の間柄であったので、時折り私たちの家に来られた。」
神近市子「私の知っている辻潤氏」:
「私が始めて辻潤氏に紹介されたのは、まだ若い新聞記者だった頃で、小石川駕篭町にあった宮嶋資夫氏のところであった。宮嶋氏が新しいプロレタリヤ作家として宮地嘉六氏と並んで売出しの頃で、ここの二階部屋には安成貞雄、二郎の兄弟、山川均、宮地嘉六、それに辻潤氏も顔をみせられた。
私は辻氏のスティルナーは読んでいなかったが、女学校の教師を勤めていられた頃からまだ余り年数が経っていなかった頃で、学究的な温厚な人のように見ていた。安成貞雄氏あたりの談論風発の人柄とは対照的であった。
次にお逢いするのは、私が大杉栄氏に一人の独立した女の怒りをぶちまけ、二年の就役をすませて出て来てからであった。
私は辻氏に会う度に、変な気がした。二人の子供を放置され、怒りや非難の一端もみせず、ユーモラスな放言をして人を笑わせることの上手な東京生まれのこの人には、他人への憎しみや批判はないものだろうかと考えた。」
「神近市子年譜」によると、神近市子は、1914年に東京日日新聞社に入社、1916年1月に退社している。神近市子が述べていることからすれば、この間に神近市子は辻潤に会ったようなのだが、読める筈もない辻のスティルナーの翻訳本のことを述べていたりしているようで、記憶は曖昧である。
神近市子が、辻潤が上野高女を辞めたあたりから、
宮嶋資夫と知り合いだったように書くのは、二人の様子からそのように思ったというだけであろう。よく宮嶋家で見かけたというが、その時期は、この1917年、10月に神近市子が八王子刑務所に入るまでの間としか考えられないと思う。
辻潤が初めて神近市子に会ったのは、この1917年、宮嶋資夫の家でであろう。神近市子は、おそらく「日蔭茶屋」の裁判や服役することで頭が一杯だろうし、辻潤は気安い人間で、伊藤野枝の関係で噂は聞いていたろうから、神近市子が初めて辻潤に会っても、そんなに強い印象というものはなかったかもしれない。
大泉黒石
大泉黒石については、「陀々羅行脚」に「昔からの相棒で――彼がまだ浅草の山平社時代に公園でバットの屑を拾い歩いたり、草担ぎをやったり、一山百文のドラマを書いて五九郎に売りつけたりしていた時代からの知己で――」とある。
「山平社」は、おそらく「水平社」のジョーク。私が読んだ大泉黒石の『俺の自叙伝』は、部落問題文芸作品選集の1冊で、『俺の自叙伝』に出てくる「牛殺し」などが当時は「部落」に関わる職業と思われていたらしい。
大泉黒石の『俺の自叙伝』「労働時代」に、ゴールデンバットや敷島の吸殻を拾って吸っていたことや豚の皮で草履の裏を作っていた話があり、大泉黒石が浅草今戸に引っ越してきた時期は明らかではないが、何年もいたようではなく、1918年1月1日に本郷に移っている。およそ、この1917年に辻潤は大泉黒石に会っていると思われる。
『日本ルネッサンスの群像』は大泉黒石の『俺の自叙伝』について、次のように述べられてあり、久米正雄が『俺の自叙伝』のでたらめをどのように指摘しているのかも調べねばならないが、調べていない。
「混血の戯作者――大泉黒石」『日本ルネッサンスの群像』:
「黒石が読み物からさらに小説まで手を延ばし始めると、既成小説家も加わり、連合して黒石の進出を阻んだ。久米正雄(くめまさお)もそのうちの一人で、彼は「俺の自叙伝」のでたらめを指摘し、特別号に黒石の小説が入ることを知ってしかめ面をしていた。」
菅野青顔「春哀し 辻潤の発狂」5〔『大気新聞』1932.4.26〕:
「 5
私が大いなる夢に引づられて、東京雑司ケ谷は大泉黒石の門をたゝき、つぶさに青雲の志を披歴(?)してペケを食へ(?)其の非を懇々訓戒されて空しく故山に逆もどりを演じたのは十年前である。
その際、談たま/\辻潤のことに及んだとき黒石先生の曰く
――随分困つて煙草さへ買へない時がありました。何時だつたか判然しませんが辻と二人して早稲田辺を門付をして歩いたことがあります。辻は尺八が上手なので追分などをやり、僕は無芸だからたゞ辻の後へくつゝいて歩きましたよ、すると早稲田の学生連に見つかつて、カフエーに引ぱり込まれシコタマおごられた事がありますアハハ――」
年月など不明だが、この年に記しておく。
泉鏡花の話
竹森一則の家で竹森一則・安成貞雄・宮嶋資夫と辻潤の4人で徹宵して飲み続け、泉鏡花のことを話したのは、「鏡花礼讃」に「今から七、八年昔の話」とある。この年か翌年。ここに入れてみた。
「ドリアングレイ」など
『浮浪漫語』〔1922.6〕の巻末に「(未刊)」として「ドリヤングレイの画像」オスカァ=ワイルド・「一青年の告白」ジョウジ=ムウア・「セラピヨン兄弟」アマジュウス=ホフマンを掲げている。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.316-317〉
「ドリアングレイ」については、河合勇も辻潤から習ったといっている。
アテネ=フランセ
学校については、他に、岩崎呉夫の『炎の女』p.70および『炎の女』を採用したと思われる『辻潤 芸術と病理』・『ダダイスト辻潤』p.51・瀬戸内晴美〔寂聴〕「美は乱調にあり」に、アテネ=フランセでフランス語を学んだとある。
アテネ=フランセ創立は、1913年〈アテネ=フランセホームページ〉。いつ、辻潤がアテネ=フランセで学んだというのだろうか。
佐藤惣之助「さくさ・ださくさ」に、「 ダダ開宗まえの辻潤が、(略)あてね・ふらんせ直伝のおぺれっともどき。騎西屋のかけ醤油に、ダダのぐりんぷすを説いたのも、一昔。」という言葉があり、あるいは、岩崎呉夫はこれに由ったのかもしれない。
しかし、アテネ=フランセに学んだという具体的証拠は見つからず、それは自由英学が「席」を置いた最後の学校であるという辻潤の言葉とも矛盾するので、佐藤惣之助・岩崎呉夫の勝手な想像ということになる。
以上は、辻潤は、アテネ=フランセに学んでいないとして、前に書いた文章。
辻潤がアテネ=フランセでフランス語を学んだことは、きだみのる『人生逃亡者の記録』にあった。
きだみのる『人生逃亡者の記録』pp.157-158:
「 このころだ。アテネ・フランセでは文筆業者十人ばかりを無料学修生として迎えたことがある。宮島資夫、辻潤、新居格、東洋経済研究所の竹森一則その他。この中で長続きしたのは辻潤だけだった。
小遣いにいくらか余裕ができると、おまいはときどき辻潤の下谷の家を訪ねていた。そしていつも浅草方面に誘い出し、小料理屋の梯子酒をやった。母親の野枝のいない一を抱えた彼の生活におまいは同情していた。
そのうちにこのダダイストの英語教師は幼童の一を連れてパリに行くという噂が立った。それを聞いて、おまいは別に驚きもしなかった。彼は一を愛していたし、それに母親を失った子をどこに預けてよいかわからなかったのであろう。
で、おまいはある夕方、下谷の彼の家に行ってみた。ひまならば酒飲みに誘い出すつもりだった。彼は尺八を吹いていた。
おまいは彼が尺八を吹くことは聞いていた。しかし聞いたことはなかった。
ダダイストはおまいを見ると、「今日は虚無僧寺の長老に尺八を合わせてもらいに行って帰ったところだよ」と言い、続いて彼の洋行のプランを語った。
「おれは尺八と深編笠など虚無僧の装束一式を持ってパリに行くつもりだ。一を連れて」
この発想にハイカラ野郎であるおまいは驚嘆した。いやこれだと思った。
おまいは辻潤の顔を眺めながら、彼が虚無僧姿でモンパルナスの一角で尺八を吹き、最後に一が帽子をとって喜捨を集める姿を想像する。そしてノエルや七月十四日のバスチーユ占拠の祭日に、もしもこの子連れの虚無僧のまわりに輪を作る閑人が少なかったら、寄席に急ぐタレントの誰かが腕時計を見て時間を確かめ、一曲歌って通行人の足を止のさせて立ち去るという芸術のこの首都でよく見かける光景を、辻のためにもやってくれようと思ったものだ。友達はこの都ではこんな風にしてでき、都の索漠をうるおしてくれる。」
きだみのるが「このころ」と書いているのは、1923年の関東大震災後のことである。そして、その時そして辻潤がパリに出発する前、辻潤の自宅が下谷にあったと書いているが、そうではない。
きだみのるは、辻潤といかにも親しかったように書いているのだが、菅野青顔は、それなら辻潤は何故きだみのるのことを書いていないのか、何故話さなかったのかと疑問を呈している〈菅野青顔「萬有流転」1982.1.28・1983.11.20〉。もっともな疑問である。きだは、辻潤のほかにも宮嶋資夫とも親しかったように書いているのだが、宮嶋資夫についても同様の疑問がある。
宮嶋資夫「遍歴」に、きだみのるの名前が出て来る箇所がある。それで、きだみのる=山田吉彦が、アナのシンパで宮嶋資夫などとも交際があったというのは事実と認められるが、宮嶋資夫ときだみのるが親しかったとは認められないのである。
宮嶋資夫「遍歴」:
「 神近との噂はだんだん拡まつて来たので、私達は困つた立場に立つたが、どうする事も出来ず、傍観するより道がなかつた。
然し、研究会や、フランス語の講習は続けられた。生徒には、西村陽吉や、近頃きだ・みのるのペンネームで、『気違い部落周游紀行』を著した山田吉彦などが来た。山田は近頃はどうか知らないが、その頃はアナのシンパだつた。」
きだみのる自身も『人生敗北者の手記』 には、間違いがあることを認めている。
きだみのる『人生敗北者の手記』 「はじめに」:
「 本書の記述のなかに若干の誤りがある。しかし、私はしかく信じてこれまで暮らして来たし、間違いは修正せずにおこう。真実はブンヤさんたちに委せよう。そしてここにこれから記されるのはファンテジーの混った話である。」
おそらく、アテネ=フランセで、きだが辻潤にフランス語を教えたというのは事実なのだろう。しかし、それがいつかなのかは明確ではない。おそらく、きだは、アナのシンパとして中心メンバーの周りをうろちょろしていた一人に過ぎなかったのであり、彼自身の思い込みは別にしても、ほかの者にはほとんど記憶にも残らない存在でしかなかったのだろう。辻は「ふもれすく」の中で「僕が千束町流浪時代に僕に酒を呑ましてくれたり、飯を食わしてくれたり、小遣い銭をくれたりしたのは、やはり私娼やバク徒やその他異(?)体の知れぬ人達であったのだ。」と書いているが、きだは、その「異体の知れぬ人達」の一人に過ぎなかった。
きだと辻潤が比較的親しくしていたのは、辻が下谷に住んでいた、およそ1917年〜1918年頃なのだろうと思う。それは、一が幼い子供であることとも合致する。そして、辻がパリに行く前に、きだが辻の家を訪ねたなどというのは、記憶の混乱が生んだきだのファンタジーに過ぎないものかもしれない。
アテネ=フランセで、きだが辻潤にフランス語を教えたというのは事実としても、辻潤はアテネ=フランセに入学した訳ではないので、何の説明もなく、アテネ=フランセでフランス語を学んだと言うべきではない。
アテネ=フランセで文筆業者十人ばかりを無料学修生として迎えたとあるが、きだがアテネ=フランセで教えていて、その講義をただで聴いてもよいと話したというようなことに過ぎないのだろう。
きだ=みのる:1895.1.11〜1975.7.25
本名:山田吉彦。
1917 慶大理財科、中退。
1933〜1939 パリ大学で古代社会学を学ぶ。
〈「きだ・みのる」『日本近代文学大事典』〉
小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」の中で、辻潤は、アテネ=フランセでフランス語を学び、35、6歳だったろうと語っている。
「全集年譜」
「全集年譜」に、「気なぐさめに酒を呑み、つれづれなるままに尺八を吹く日がつづいた。」とあるが、容易に想像でき、のちの辻潤の生涯全てについて言えるようなこと。不要。
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千束町(せんぞくちょう):1891〜1966年の町名。1911年まで浅草を冠称。1〜3丁目があった。はじめ浅草区。1965〜1966年、千束1〜2丁目、浅草2〜5・7丁目の各一部。2丁目は凌雲閣(十二階)をはじめ、料理屋・貸席・芸妓家・待合・銘酒屋(通称十二階下の私娼街)・楊弓場・新聞縦覧所・宮戸座〔1896年開場〕などでにぎわい、3丁目には浅草のお宮さんと親しまれた浅間神社があった。〈「千束町」『角川地名大辞典 13 東京』〉
幽霊坂:千代田区富士見1〜2丁目にある2つの坂。議員宿舎前から富士見小学校と日本医科大学の間を北へくだる短い急坂。もう1つはその西側に並行している坂で大和銀行寮前から富士見1・2丁目の境を北にくだる短い急坂、勇励坂とも。文京区目白台3丁目にもある。〈『角川地名大辞典 13 東京』〉
宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」『新社会』第3巻第5号 1917年1月号。
※目次には、「大杉事件の真相」。
〈「解題」『宮嶋資夫著作集』第6巻〉
1917.1.1 武林無想庵「混沌として」『読売新聞』。〈『読売新聞』1917.1.1号〉
1917.1.22、伊庭孝、浅草六区の常盤座〔根岸興行部が演技座とともに経営〕への出演を依頼され「女軍出征」という、伊庭孝の作演出のミュージカル〔伊庭孝は歌舞劇と呼んだ〕を上演。〔大成功となる。〕〈『浅草オペラ物語』pp.83-84〉
1917.4.1 武林無想庵「植物のように」『読売新聞』日曜付録。〈『読売新聞』1917.4.1号〉
1917.2〔発行日付〕 萩原朔太郎の詩集『月に吠える』感情詩社・白日社 2.15。〈「萩原朔太郎年譜」〉
1917.2 野上弥生子「彼女」『中央公論』第32年第2号〔2.1発行〕〈「後記」『野上彌生子全集』第3巻〉
1917.3.7 葉山事件の神近市子、保釈となり、横浜監獄を出る。〈「有島武郎年譜」〉
1917.10.3 神近市子、再び収監。〈「有島武郎年譜」〉
1917.10 神近市子、八王子刑務所に服役。〈「神近市子年譜」〉
1917.5.27 武林無想庵「混沌のカケラ」『読売新聞』日曜付録。〈『読売新聞』1917.5.27号〉
1917.6 佐藤春夫「病める薔薇」『黒潮』。〔「田園の憂鬱」第1稿〕〈『日本近代文学年表』〉
1917.7.15 武林無想庵「手前勝手の原則」『読売新聞』日曜付録。〈『読売新聞』1917.7.15号〉
1917.7 佐藤春夫、本郷区駒込動坂町92に転居。〈「佐藤春夫年譜・著作年表」〉
1917 平塚らいてう「伊藤野枝さんの歩かれた道」『新日本』7月号、8月号。〈「解題」『平塚らいてう著作集』第2巻〉
1917.8.3 武林無想庵「夏の旅の追憶」「独行」(1)『読売新聞』。〈『読売新聞』1917.8.3号〉
武林無想庵「独行」(2)〜(10)『読売新聞』8.4、8.7〜8.11、8.14〜8.16号。〈『読売新聞』〉
1917.夏 平塚らいてう、ら、茅ケ崎を引きあげて東京府下滝野川上中里に一戸をかまえる。〈「平塚らいてう年譜」〉
1917.9 佐々紅華・石井漠ら、「東京歌劇団」を結成。〈『日本近代文学年表』〉
1917.11.11 武林無想庵「平等一如の世界」『読売新聞』日曜付録。〈『読売新聞』1917.11.11号〉
1917.12 生田春月の第1詩集『霊魂の秋』新潮社。〈「生田春月年表」〉
1917.12 広津和郎「性格破産者の為に」『新潮』。〈「広津和郎著作年表」〉
佐藤春夫:1892.4.9-1964.5.6。〈「佐藤春夫年譜・著作年表」〉
木村幹(きむら もとき):1889.1.10-?。佐藤春夫の『星座』同人となり、1917.1、『星座』創刊号に「銀座の帰り」を掲載。〈「木村幹」『日本近代文学大事典』〉
伊庭孝:1887.12.1-1937.2.25。伊庭想太郎の養子。〈「伊庭孝」『日本近代文学大事典』〉
大泉黒石:1894.7.27-1957.10.26。〈「大泉黒石」『日本近代文学大事典』〉
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1918 大正7
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3.19 下谷区北稲荷町6番地に転籍の届出が出される。〔のち台東区〕〈「辻潤戸籍抄本」〉(下谷の稲荷町の寺の中の一軒家〈「仲介役として」〉と思われる。)
4.8 塩原へ行く。〈「よみうり抄」『読売新聞』1918.4.10号〉
5月 『阿片溺愛者の告白』を三陽堂書店から刊行。
7月頃 加藤一夫に『阿片溺愛者の告白』を送る。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.288〉
8.25頃 大原より帰京。〈「よみうり抄」『読売新聞』1918.8.31号〉
9.13 出発。「大阪より関西旅行の途に上れり」という。〈「よみうり抄」『読売新聞』1918.9.14号〉
9月頃 何か仕事の用で佐藤春夫を訪ね、佐藤春夫に二度目に会う。佐藤春夫「田園の憂鬱」の載った『中外』を貰う。佐藤春夫は「もしそんなに不出来なようでなかったら、葉書か何かでそう云ってくれ。君がそう云ってくれるようなら、その時もう一度読み返してみる」と言う。谷崎潤一郎が訪ねて来て、谷崎潤一郎を紹介される。〈「勉めよや春夫!」・佐藤春夫「アントニオのやうなセンチメンタリズムから生れた「田園の憂鬱」」・「佐藤春夫年譜・著作年表」〉
10月前後頃 若い女と4か月程、同棲。〔女の里の方で連れ戻し、そのままとなる。〕〈「里親」・武林無想庵「羨ましい辻潤」・「よみうり抄」『読売新聞』1918.10.2号〉
10月 ジョージ=ムウアの「一青年の告白」を翻訳。〈「よみうり抄」『読売新聞』1918.10.8号〉(翻訳は中断したと思われる。)
10月頃 《それ以前、武林無想庵は、大学前のカフェで辻潤を紹介される。》武林無想庵が友人とともに稲荷町の辻潤の家を初めて訪問し語らう。薄暗い電燈の陰気くさい2階の6畳に、若い女が一人現れ、茶道具を置くと、すぐ引込む。壁側にはバルザックの英訳全集が並んでいた。辻潤は、武林が『読売新聞』の日曜附録に書いた文章の切抜を見せて、武林を嬉しがらせる。〈「里親」・武林無想庵「羨ましい辻潤」・「よみうり抄」『読売新聞』1918.10.2号〉
11月 『響影――狂楽人日記』を三陽堂書店から刊行。
この年、早稲田大学裏の片岡厚〔のちの神近市子の夫〕の下宿に、しばらく居候する。毎晩のように片岡厚をつれ出しては、あちこちとカフェやバーを歩き回る。片岡厚から、はじめてシェストフを知る。片岡厚は気前よく『虚無からの創造』の英訳本を辻潤に与えた。〈「シェフトフについて」・「全集年譜」〉
この頃、辻まことを連れて、石井漠の家を訪れ、母美津が病気で寝込んだため、しばらくまことを預かってもらう。まことは、幾日もしないうちに「おばちゃん、おばちゃん」と石井漠の妻八重子に懐くようになり、十二階や花屋敷へ連れていって遊ばせる。一ヵ月余りして、健康を回復した美津がまことを引き取る。〈『舞踏詩人 石井漠』pp.167-171〉
この頃、音楽会がありさえすれば、聴きに行く。
〈「De Trop」〉
この年の頃、《奥むめおは、木蘇穀を通して辻潤のことをきいて、平塚らいてうに紹介してもらいたく、一度遇いたいというので》木蘇穀に連れられて、千駄木の奥むめおの家に行き、初めて奥むめおに会う。〔二度目に訪問した時に、奥むめおを連れてその頃、田端にいた平塚らいてうに会いに行く。〕〈「仲介役として」・「平塚らいてう年譜」〉
この年の頃 佐藤惣之助などと一緒にオペラをやろうとする。辻潤は翻訳をして脚本を書く筈で金を貰い、その方の本を買わずに好きな本を買って読む。
〈『人生逃亡者の記録』pp.157-158・小南又一郎「漂泊のダダイストと医師との対話」、など〉
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5月 『阿片溺愛者の告白』ド=クインシイ作 三陽堂出版部 1918.5.10。
※Confession of an English Opium-Eater(1882), Thomas De Quincey(1785-1859)
定価90銭。辻潤の「序」・附録の形で「後の阿片溺愛者の手記より」の中の一編 Walking Stewart を併載し、巻尾に「著者の小伝」「註」、跋文に相当する「蛇足」。
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.286-287〉
※三陽堂書店。〈「全集年譜」・国会図書館蔵書検索〉
※トーマス=デクウインシー。〈国会図書館蔵書検索〉。
※この初本は売れなかったようである。〈「解題」『辻潤全集』別巻〉
『阿片溺愛者の告白』再版 1918.5.20。〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.287〉
6月 『天才論』訂正7版 三星社出版部 1917.6.20。〈訂正9版の奥付による〉〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 p.283〉
8月「流吉の日記から」『潮』第1巻第2号。〈「全集年譜」〉
11月 『響影 狂楽人日記』スタンレイ=マコウア作 三陽堂出版部 1918.11.13付。
※The Mirror of Music, Stanley V. Makower
定価80銭。本文冒頭の題名は「響影(又は「狂楽人日記」)」。構成は扉の次に「故上田敏先生にささぐ」という献辞があり、次に序に相当する小松玉巌〔小松耕輔〕の「手紙」と「内容」〔目次〕を載せ、巻尾に辻潤の「De Trop」〔跋文〕。
本文は『青鞜』掲載の「響の影」をほぼそのまま使用。
「響影」の後に「刹那」という総題のもとに「刹那」・「芸術上のアイロニイ」・「新悪、不真面目」・「近代性とデカダンス」・「嘲笑者(モツカア)」の5編。ベンジャミン=デ=カッサース Benjamin De Casseresの作品の訳。「これら五篇は『浮浪漫語』には辻潤の自作とも受け取れる形で収録され、『螺旋道』(昭和四・一二)には、原著者を明示して載せられた。」
〈佐々木靖章「辻潤の著作活動」『辻潤全集』別巻 pp.289-290,293,296-297〉
※三陽堂書店。〈「全集年譜」〉
※1929.9.29までに絶版。〈「辻潤書簡」2〉
※de trop:フランス語、余分の、余計な、余分に。
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北稲荷町6番地
『ダダイスト辻潤』p.125によると、1918年3月、下谷区北稲荷町6番地に移っている。「辻潤戸籍抄本」によると、3月19日に下谷区北稲荷町6番地に転籍の届出が出されているから、まず間違いない。
「辻潤戸籍抄本」によると、のち本籍はずっとこの住所である。『辻潤への愛』p.213の1945年7月に戦死した辻秋生の「死亡公知書」でも、本籍は同所という。
この時までは、転居する度にきちんと役所に届出を出していたが、これ以降は出していないということだろうか。
「全集年譜」では、1916年に北稲荷町6番地に移っている。間違い。
塩原
何のために塩原に行ったのかは全く不明。
塩原というから栃木県であろう。のち1935年、塩原で松尾季子をつれて妙雲寺へ出かけている〈「孑孑以前」〉。何か関係があるだろうか。そこにはかねて辻潤の本を愛読していると称する坊主がいるということをきいていた、とある。
年代が不明の湯ノ網鉱泉で一夏を過ごした〈「かばねやみ」・「天狗だより」〉ということと関連付けたくもなるが、根拠に乏しい。
佐藤春夫
「勉めよや春夫!」によると、佐藤春夫に二度目に会ったのは、佐藤春夫が『中外』に「田園の憂鬱」を発表した前後である。
「勉めよや春夫!」:
「 二度目に遇ったのはそれからだいぶ後のことである――かれこれ二年間位は遇わなかったような気がした。
その頃、彼は麻布――だと思うが、どうもハッキリしない。あすこは麻布と赤坂と芝とが交錯したようなところだ――のたしか仲町?――だったと思うが――なんでもそんなところにブラザアと一緒に住んでいた。一軒の家に二組の若夫婦? がすんでいたのだ。
春夫はその時、既に彼の第一夫人――僕らのある仲間で春夫の噂をする時、便宜上その言葉のオリジナルとはちがった意味でそんな言葉を使っていた――とは別れて彼の第二夫人のK子さんと一緒になっていた、私はそこで初めてK子さんに遇ったのだった。
春夫は当時「指紋」を書き、出世作「田園の憂欝(?)」を「中外」に発表した前後の頃のことである。私はなにか仕事の用で彼を訪ねたのだと記憶する。谷崎君を紹介されたのもそこの家でであった。」
「佐藤春夫年譜・著作年表」1917年:
6月「武林無想庵の紹介で〈谷崎潤一郎と相知る。彼の鼓舞を得て困憊せる文学生活に一脈の生気を与へらる。〉 遠藤幸子と別れる。」
7月「本郷区駒込動坂町九二に転居。」
9月「無名の女優小笹文子(米谷(まいや)香代子。当時二〇歳)と同棲。」
12月「郷里に帰る。」
「佐藤春夫年譜・著作年表」1918年:
3月「〈上京す。〉」
7月 「指紋」『中央公論』第33巻第8号。
9月 「田園の憂鬱」〔第2稿〕『中外』第2巻第10号。
10月「二日、本郷区駒込動坂町一二三に転居。」
「佐藤春夫年譜・著作年表」は、1918年3月に佐藤春夫が上京して、どこに住んだかを記していない。辻潤の記す「麻布――だと思うが、どうもハッキリしない。あすこは麻布と赤坂と芝とが交錯したようなところだ――のたしか仲町?」に住んでいたことになる。
辻潤が佐藤春夫を訪問したことは、佐藤春夫「アントニオのやうなセンチメンタリズムから生れた「田園の憂鬱」」にある。その内容は「佐藤春夫年譜・著作年表」と幾らか合わないところがあるが、発表が1919年1月だから、かなり確かな記憶によって書かれた筈である。辻潤が『中外』を持って行ったとあり、借りたのかもしれないが、「田園の憂鬱」が不出来でなかったら葉書か何かでいってくれというから、まず貰ったのだろう。辻が訪ね帰ったあとに、谷崎潤一郎が訪ねて来たようでもあるが、辻と谷崎がこの時分の佐藤の家で会うことは稀であろうから、この年譜では、そこで落ち合って、谷崎を紹介されたものとみなした。
佐藤春夫「アントニオのやうなセンチメンタリズムから生れた「田園の憂鬱」」:
「私はそのうち「田園の憂鬱」を書き直さうと、独りで考へ乍ら、その儘になつてゐた。すると、谷崎君は、それを見もしないで、「中外」へ推奨したものと見える。「中外」からその原稿を載せようと云つてくれた。」「しかし、例の癖で〆切間際まで遊んでしまつて、五六ケ所書き直した丈けで、殆ど国で書いた時の通りで発表した。」「すると、丁度遊びに来た辻潤君が、見度いといふので、その雑誌を持つて行つた。私は、「若しそんなに不出来なやうでなかつたら、葉書か何かでさう云つて呉れ。君がさう云つてくれるやうなら、その時最う一度読み返して見る。」と、そんな事を云つた。その後へ谷崎君が来たので、私は矢張りそんな事をいふと、「よし、よし、俺が読んで見てやる。」と、濶達な例の調子でさう云つてくれた。」
谷崎潤一郎と辻潤の「ぐうたら」
辻潤と谷崎潤一郎の交際の様子は曖昧である。
辻潤は「ふもれすく」に、自分がモデルとなった(人物が出てくる)小説として、谷崎潤一郎の「鮫人(こうじん)」も挙げているが、ある方から谷崎潤一郎研究者の間では、モデルは上山草人ということになっていると教えられた。谷崎の「鮫人」については松尾季子が次のように書いている。
松尾季子「思い出」(四):
「 谷崎潤一郎氏の小説に『鮫人』という長篇小説がございますが鮫人とは男性の人魚のことだそうで、谷崎氏は彼の中に異様なもの、妖気というようなもの、そして美しくその笛の音を聞けば思わず深淵に引きこまれるようなもの、この世ならぬものを感じて彼を鮫人と呼ばれたらしいと思います。もっとも辻さんは「あの小説は谷崎が自分の悪い癖を俺にくっつけて一人の人間像を作ったもの」といっておられました。そんな点もあるようでございますけれどやはり谷崎氏の観察は鋭いと思います。」
私には「鮫人」を読んでも、モデルが辻潤とは断定出来なかったので、まずモデルは上山草人で、辻潤の早とちりだろうと思う。ただし、上山草人がモデルという明確な根拠があるのだろうか。辻潤には、自分がモデルに使われたと思わせるようなものがあった訳で、谷崎潤一郎は、辻潤の住まいを訪れ、その生活を垣間見ることがあったのだろうと思われる。
辻潤の名前が出てくる谷崎潤一郎の手紙がある。
「谷崎潤一郎書簡」105 佐藤春夫宛 1930年:
「拝復
朔太郎大人を義弟に持つこと小生に於てハ賛成なり、唯好人物の点ハ信用するが辻潤式にぐうたらで子供か(ママ)二人あつてハ生活の方か(ママ)心配故目下前橋方面へ頼み財産状態を調べさせてゐる、
尚写真は早速うつさせる積りのところ生憎顔にイボが出来て治療中につき暫く御待ちを乞ふ
右取あへず御返事まで
六月三日
谷崎潤一郎
佐藤春夫様
侍史
ドチラにしても写真よりハ実物の方がいいから萩原氏都合つき次第来阪してもらひたしそれまでおすゑも家においておく。婿引出物にギタアーをやつてもよし」
谷崎潤一郎は、佐藤春夫宛ての前便〔「谷崎潤一郎書簡」104 1930.5.28〕で、妹の須恵〔:1902-?〕〈『谷崎潤一郎伝』p.15〉の縁談のことを書いている。それに対する佐藤春夫の返事は未確認だが、その中で、須恵の相手として萩原朔太郎はどうかと書いたものとみえる。あるいは、その中で辻潤の名前を出したのかもしれない。
この縁談のことは、「萩原朔太郎年譜」に見えず、そのほか調べていないが、萩原の実家はともかく、萩原朔太郎の経済能力の点で不適格とされ、それっきりとなったものだろうか。
辻潤の名が出てくるが、この頃は、萩原朔太郎と辻は親密だからだろう。室生犀星も、辻と交際しての「悪影響」を心配していたようである。あるいは、単に「ぐうたら」の例として挙げたのだろうか。
谷崎潤一郎が辻潤をぐうたらと書いているから、谷崎は辻の生活をよく知っているのだろうと思われるが、そうであるとは限らない。辻がぐうたらということは、噂話としても、一般に広まっていたと思われる。辻がぐうたらというが、真実があると同時に誤解もあるだろう。
宮嶋資夫は、「仮想者の恋」で、辻潤をモデルにした男が比叡山の宿院で昼夜転倒の念願のぐうたら生活を始めたと描くが、辻自身は、のちに、酒を飲まずに静かに暮らすと昼夜転倒の生活になる、神経衰弱〔ノイラステニヤ〕かと心配しているようであり、他人からはぐうたらと見えることが、辻自身にもどうにもならないという一面もあったと思われる。
谷崎潤一郎のことでは、そのほか、日時・場所も不明だが、谷崎が辻潤の母、美津と三味線の合奏をしたという話があったように思う。出典は思い出せない。
まことを石井漠に預ける
石井歡『舞踏詩人 石井漠』pp.169-171:
「 八重子は一(まこと)を預かることにして、銭湯に連れていった。一(まこと)は痩せ細り、体にたくさんのオデキができていた。おとなしい素直な子だったが、体に天花粉をつけて寝かせても、オデキが痛むのか夜中によくぐずった。
しかし、幾日もしないうちに「おばちゃん、おばちゃん」と八重子に懐(なつ)くようになったので、十二階や花屋敷へ連れていって遊ばせた。
辻は一(まこと)を八重子に預けて、伝法院のそばのカフェー・パウリスタに入りびたっていた。パウリスタには六区の舞台に出ている役者、音楽家、ペラゴロ、社会主義者、その社会主義者を見張っている象潟(さきがた)署の刑事などがたむろし、一杯五銭のコーヒーで半日ねばる連中もいた。五銭のコーヒー代が払えなければ、伝票をテーブルの脇の釘にさして帰る。後から来た売れっ子の役者がその分を払ってくれるから、店でも咎(とが)めなかった。
辻は時どき一(まこと)のようすを見に来たが、昼間から酒を呑んでいるようで、いつも酒の臭いがした。辻に金はなくても、凡俗な生活に反逆して世捨人のように生きている彼には、何人も信奉者がいて、行けば呑ませてくれるのである。
漠も辻があらわれると、十二階の裏手にある「グリル茶目」に連れて行って一緒に酒を呑む、グリル茶目は、評論家であり歌人でもある黒瀬春吉が経営していた店で、入口のわきに「労働同盟会」という看板をかけたおかしな飲み屋だった。伊庭孝、佐々紅華、ピアノの沢田柳吉、杉寛や漠などのたまり場になっていた。」
「 一ヵ月余りして、健康を回復した辻の母ミツが一を引き取りに来た。」
また、辻は石井漠の部屋で酔っ払って、押し入れで泊まることもあった、とある。1918〔大正7〕年頃は、日本館の楽屋や石井漠の自宅まで押しかけるペラゴロだった、という。
石井歡は石井漠の子息だから、父母から直接聞いた話と思われる。時期は不明。まことは5歳とあるが、数えなのか満なのか。この年齢を信じれば、この年か前年。1918年頃は辻潤はペラゴロとあるから、ここに入れてみた。
参考文献として挙げられているもののうち、特に辻潤に関係するものは『炎の女』だけである。『舞踏詩人 石井漠』が辻潤についてどれだけ正確なのか、私は疑問に思っている。
片岡厚の下宿に居候
「シェフトフについて」:
「 その後、一九一七、八年頃だったと思う。僕はその頃、友人の下宿を転々として歩いていたが、ある時、早稲田大学の裏の下宿にその頃いた片岡厚君(現今、神近市子女史の夫君)のところにしばらく厄介になっていたことがあった。毎晩のように片岡君をつれ出しては、あちこちとカフェやバアを歩きまわっていた。」
1918年という年は「全集年譜」から採った。
「勉めよや春夫!」に「私は下谷の稲荷町に家のようなものがあったが、大方友達の下宿などをとまり歩いて酒にうつつを抜かしていた。」とあるので、この時もそうであったかもしれない。
武林無想庵
辻潤の家に初めて行った時のことを武林無想庵は「羨ましい辻潤」に書いている。
武林無想庵「羨ましい辻潤」:
「 その頃彼は下谷稲荷町に住んでいた。野枝と別れて間もない時の事だ、
何でも僕はデカダン生活の浅草がえりだったと慰う。ハッキリ覚えぬが、たしか沢田卓爾だったろう。その時の連れが、
――辻潤を襲ってやろう。と云い出した。
よほど前に大学前のカフェで、下で誰かと卓へ向っていた僕の前を、あとから二三人ではいって来た連中が通りすぎざま、僕の相手に挨拶し、同時にそのうちの一人を僕の相手が僕に『辻潤』だと紹介する間もなく、その連中は二階へ上って了った事があった。で、一番最後に階段を上りながら、その『辻潤』が僕等の方を見返ってニッコリした。
『天才論』の訳者として大いに敬意を払っていたが、顔を見たのはそれがはじめてだ。そうしてそれッきりだった。
――辻潤?……面白い。よし、襲ってやろう……と僕はホロ酔機嫌で連れに答えた。
いやに薄ッ暗い電燈の陰気くさい二階の六畳だった。若い女が一人現れた |