辻潤をダダイストと呼んではいけない わけではない2009.3.13 |
辻潤をダダイストと呼んではいけない。また、いけない訳でもない。ということを述べる。
何故、辻潤をダダイストと呼んではいけないのか? それは、辻潤自身がダダというものを放棄したからである。それからの辻潤は、自分がダダイストと呼ばれることを、好ましいことだとは決して思ってはいなかった。だから、のちの人、特に、辻潤を好きだという人たちが、しつこく辻潤をダダイストと呼んでいるのは、どうだろうか、と私は思うのである。
玉川信明・菅野青顔(あるいは、高木護やそのほかの人を加えてもよい)といった人たちは、「辻潤研究」についての私の先生である。先生の「悪口」を言うとあとが恐いというものである。だが、これらの人たちは、先生ではないともいえる。とにかく、これらの人たちが、辻潤がダダを放棄したことに注目せず、一生を通じて辻潤をダダイストと呼んで平然としているのは、実に奇怪なことのように思われる。
私は、「全集年譜」や玉川信明『ダダイスト辻潤』について、辻潤の生活誌について、感覚的に言って、その 25% が間違っていると書いた。「感覚的に」というのは、こういうことである。
例えば、「全集年譜」の1931年8月には次のような記述がある。「このころ銀座尾張町の東側角の「ライオン」に通いつめる。(略)店に居合わせた永井荷風にいやがらせをしたりした」。これは、1927年のことと考えられるので、年は4年違っている。「永井荷風にいやがらせをした」というが、辻潤自身は永井荷風を面罵したと書いている。その店が「ライオン」であるかのようになっているが、辻潤の書いたものでも「タイガー」が正しいのである。そして、辻潤が何故、永井荷風を面罵したのか、その理由が書かれていない。
「全集年譜」には、こうした間違いがある。それで、この項目全体を間違いだとみなして、同様にして、「全集年譜」の間違いを数え上げれば、間違い率は、25% どころか、もっとはるかに高くなる。しかし、年は4年違っていても、辻の生涯においては、さしたる影響はないといえば、そうでもあろう。店が「ライオン」だろうと「タイガー」だろうと、銀座の店には違いない。「全集年譜」の記事が、「完全に」間違いだとも言えないだろう。実際、間違いや間違い率というものは、どのようなものを間違いに数えるのかで、大いに違って来る。どんなものを基準にすべきかは難しい。だから、あえて、明確な基準を設けることはしないで、何となく感じとして 25% 位の間違い率だなと思うので、私は、そのように書く訳である。
「全集年譜」の前には『辻潤著作集』に菅野青顔・高木護(・品川力)による年譜があった。この年譜を、瀬戸内晴美〔寂聴〕は「諧調は偽りなり」の中で讃めている。私も、その箇所は覚えている。山本夏彦や寺島珠雄も、そのことを書き留めている。そして、私は、今度、菅野青顔の「萬有流転」を読んで、菅野がその箇所を読んで、年譜作成には20年かかったといって、涙を流した、というのを読んだのである。そして、別の日の「萬有流転」で、品川力の協力によって出来あがったこの年譜は完璧に近いものだと誇っていたのだった。25% の間違いがある、その年譜に対して。それを読んだ時の私の複雑な気持。一体、瀬戸内晴美〔寂聴〕は何を知っているというのか。
私が『辻潤著作集』の年譜を見た時、熱心な辻潤ファンが一つひとつ辻潤の足跡を辿って、そうして、この年譜は作られたのだろうか、と思ったものである。しかし、そうではない。菅野青顔は、気仙沼から一歩も出ることなく年譜を作ったと言っている。取材に出かけるようなことはなかったのである。それなら、菅野青顔は、辻潤が立寄った、例えば芳徳寺などに、手紙で問い合わせたりしたのだろうか。そういうことは分からない。ただ、今や、私には、菅野青顔が辻潤年譜を作ったその作業というものを幾らか想像出来る。その主なネタは、辻潤が書き残した文章と菅野が辻潤から受け取った書簡なのである。そして、菅野は、書簡の送り先住所などによって、そこに辻潤が流寓したと年譜に書き付けたのであった。
私は、菅野青顔と高木護などは、あまりに辻潤を放浪人とみなし過ぎているように思う。放浪性の人間という者は確かにいるらしい。しかし、辻が、そういう本来の放浪者なら、どうして静かに落ちついて仕事が出来る場所がほしいなどと手紙に書くのだろうか。
私は、そうした年譜作者たちが、辻潤をダダイストと呼ぶのは軽率だと言いたいだけである。辻潤は、ダダに関して「あびばッち」(不退転という意味)という文章を書き、自分は自分のダダをやるのだと言っている。それなら、辻潤には、ダダを放棄するという理由などなさそうなものである。しかし、放棄した。ほかの人よりは少し遅れたかもしれないが。辻潤にダダを教えた高橋新吉は、1924年にダダを放棄したと書いている。しかし、これはあやしいものだと私は思う。もし、それが本当なら、高橋は、1928年の辻潤の渡欧歓送会の時に、ダダを盗られたといって乗り込む必要はないのではないか(あるのかもしれないが)。もし、1925年以降も日本でダダというものが流行していたら、高橋新吉は尚もダダイストと名乗ったであろう。
日本では、およそ1924年にダダの運動というものは終わった。しかし、それからも、しばしば、ダダやダダイズムといった言葉は散見するようである。それは、辻潤・高橋新吉などが、明確にダダ放棄の宣言をしなかったからでもあるだろう。
辻潤にはダダを放棄する理由がなかったといっても、放棄したのが事実なのだから仕方がない。だから、辻潤をダダイストと呼ぶべきではない、と言うのである。
次に、辻潤をダダイストと呼んでもいい、ということを述べる訳だが、まあ勝手にやるさということになるのかもしれない。
人には看板が必要だとは、辻潤も言っている。「私を名付けないで」という詩を読んだことがあるように思うが(茨木のり子?)、私も同感だ。私は私で、勝手に名付けられたり、看板を貼られては堪らない。しかし、私たちには、やはり、看板というようものが必要なのである。分類・レッテル・肩書き・職業、そういったもの。何しろ、あまりに沢山の人がいるので、個人個人を識別して、覚えておく訳にはいかないからである。
それで、辻潤に最もふさわしい看板は何かというと、ニヒリストとかダダイストとか呼ばれているけれでも、ニヒリストというと範囲が広すぎて、『大菩薩峠』の机龍之介みたいなものニヒリストということになっては、なかなか辻潤にはぴったりしないようである。辻潤自身はいやがるかもしれないが、その独特の、破天荒な、人間そして生涯を見る時、やはり、ダダイストの方がぴったりくるようである。
そこで、辻潤をダダイストと呼んでもよいと主張する訳である。
そもそも、玉川信明・菅野青顔といった人たちが、何故、辻潤をダダイストと呼ぶかというと、戦前、辻潤が生きていた時も、そして、戦後も、世間は、辻潤をダダイストと呼んで来たからである。
それで、辻潤も諦めて、晩年には、自らを「ダダの大先生」〈寺島珠雄「辻潤、晩年の一断面」〉と呼んだりした。しかし、私の知る限り、晩年に自らをダダイストと呼んだことはない筈である。
結論は、こうである。辻潤をダダイストと呼んでも構わない。しかし、辻潤がダダを放棄し、ダダイストと呼ばれたくはなかったことは知っておくべきである。