パリの辻潤――辻潤の絶望をめぐって2007.5.27 |
辻潤について誰が何を語ろうと私にはあんまり興味がない。私には私の考えがあるし、人はそれぞれに勝手に考えればよいだけのことだ。この「辻潤のひびき」もできるだけ余計なおしゃべりは避けて、幾らか資料になるものを示すに留めるつもりだった。けれども、他人の書いたものを読んでいくと、私の考えというものも溜まって行き、もの言わぬは腹ふくるる業という感じになったので、ここで、自分の考えというものを述べておきたくなった。
辻潤について書かれたもので感心したというものはほとんどない。私には辻まことの言葉が最もぴったりいった。辻潤について書かれたものは、辻潤の書いたものに及ばない、辻潤を論じることなど無意味だなどという言葉である。辻潤を論じたものにしっくりいくものがない以上、辻潤については、辻潤の書いたものを読むほか、辻まことの言葉(そのほかのものを含めて)だけで十分だ。私は、そう思っていた(「おやじについて」などは、最も優れた「辻潤論」だと思う)。けれども、これから、辻潤について何かを語ろうとするなら、この辻まことの言葉にも逆らわなければならない。何故なら、辻潤について語ることは、辻潤を超えることであり、私たちは、対象が何であれ、それを知り、理解しようとするなら、どんな手を使っても、あらゆる手段を尽くして、それを知り、それを理解しようとしなければならないのだから。
かつて、柴田翔という作家が、作家にとって「作品」がイノチであり、その作家を理解するためには、「作品」のみによってすべきである、というようなことを書いているのを読んだことがある。おろかな話である。私には、そもそも「作品」というものが、そんなに立派な大事なものなのかという疑いがあるが、それはともかくとしても、その立派な「作品」だけを取り上げ、数々のツマラナイものを無視しなければならないという必要性など一体どこにあるというのだろうか。私たちがある作家を理解しようとするなら、あらゆる手段を尽くし、その顔の皺の一本一本、そのDNAの塩基配列までも調べて理解しようとしなければならぬ。ただ現在のところ、そういうことを調べて何が得られるか分からないからそうしないまでのことである。
そういう訳で、これから、私は私が知り得る限りの辻潤というものを書いてみようと思う。そうして、私が私にできることを尽くしたあと、もうこれ以上は分からないという地点に到ることだろう。そこで、私は再び辻まことの言葉に戻って、辻潤とはそういう人だったのだと呟いて、それ以上の考察を諦めねばならないだろう。それでよい。自分に何が分かり何が分からないかを見定めたなら、必要なら再びその境界、可知と不可知の壁を攻撃し、その壁を不可知の彼方におしやろうとすればよいだけなのだから。
私が辻潤の名前を知ったのは、高校生時分の頃、本屋の棚にあった『辻まことの世界』でだった。その本の最初のあたりに、辻まことは、女性運動家の伊藤野枝と翻訳家・評論家の辻潤の間に生まれた、というようなことが書かれてあった。それなら、辻まことというのは、そういう有名人を両親に持つボンボンという訳なのだろうと思い、その中身までは読まなかったのだったが、それが間違いであることを知ったのは随分経ってからということになる。それから、図書館の片隅に辻潤著作集が置いてあるのを見た。辻潤著作集は真っ黒いカバーの薄気味悪い本で、そこに「絶望の書」とか「ですぺら」などという表題が並んでいるのだから、なおさらに薄気味悪かった訳である。ともかくも、『絶望の書』を手に取って、序文とそれから「ものろぎや・そりてえる」の最初のページを覗いてみた。それは、「虫が鳴いている」などといういたってノンキな文章で、一体この著者は何を絶望し、どんなふうに絶望しているのかは知らないが、その絶望とやらに辿りつくのに手間がかかりそうだと思い、それでその先を読むのはよしたのだった。記憶が定かではないが、その中身をまともに読んだのは、それから20年位経ってからなのだろうか。ところで、その中身をちゃんと読んでも、辻潤の絶望が何であるかはよく分からなかった。それは、さらに手間がかかるものだった訳である。
『絶望の書』は、前半が「巴里の下駄」と総題がつけられたパリ旅行に関連したエッセイ、後半が「絶望の書」と総題がつけられた種々のエッセイが纏められている(『辻潤著作集』・『辻潤全集』では、前半と後半が逆になっている)。全体的にノンキな文章ばかりで、その序文には、「この書を読んで読者はしばらく自己の優越をかんじたまえ」とあるが、一体どんな優越を感じたらよいのか、人をおちょくってるのか、と言いたいようなものだった。辻潤の「絶望」や「ですぺら」は、青年によくある「気取り」、こけおどしの類かとも思えないでもなかった。
しかし、そうではないと私は考えるようになった。辻潤がそれを『絶望の書』と呼んだからには、それはやはり『絶望の書』でなければならない。いや、なければならないという訳ではないが、そうみるのが、自然であり素直なことである。
辻潤はパリから帰ってから『絶望の書』の前に『どうすればいいのか?』というエッセイ集を出しているが、これも人をとまどわせる本である。本の写真などを見ても分かるが、きわめて薄っぺらい本で、何を「どうすればいいのか?」といっているのかと、同じ題の文章を読もうとすると、それは、『世紀』という雑誌の「職業婦人の性的生活に就いて」という特集に寄せた文章に過ぎないのである。しかし、ここでも、辻潤が「どうすればいいのか?」と題を付けているのだから、やはり、辻潤はその本で「どうすればいいのか?」と言っているものと思わなければならないのである。
『絶望の書』の前半はパリ旅行に関連した文章が収められているが、辻潤のパリ旅行には不思議なことが多い。多額の費用を費やして、憧れの「花のパリ」に行ったというのに、ろくすっぽパリを見ようともせず、場末の宿で寝てばかりいたなどというと、常識では測られない、いかにも人を食った話で、ある人は、辻潤はパリをありがたがる俗物とは違うのだ、ダダイスト辻潤の面目躍如だなどと言うのかもしれないが、そう簡単なものでもない。パリ旅行は、もともと、それ以前の国内旅行と同じようにアッサリした気持で出かけたいと言っていた。のちにパリ旅行は意味ないようなものだったと辻潤自身が書くことになるが、それなら、意味がなかった、パリに行ってはみたが別にどうってこともなかったよとアッサリ済ませればよさそうなものだが、決してそうアッサリと片付けてもいない。実際のところ、アッサリした気持で出かけたかったが、そうもいかなかったというのである。何故なのかは分からない。
辻潤について何かを書く人は、辻潤がパリでどんな風に過ごしたかをよく分かっているつもりになっているのかもしれない。しかし、これもそう簡単ではない。辻潤は、読売新聞の第1回文芸特置員として、パリから度々読売新聞に通信文を送ったが、それもほぼ6月で停止した。それは読売新聞の都合でそうなったのではなく、辻潤が送らなかったのであるらしい。武林無想庵と手紙を交換した「巴里コンニャク問答」の内容もほぼ6月と推定される。つまり、7月以降になると辻潤は何の文章も残していないのである。どうしてなのだろうか。ほかの人がわずかに残した文章があって、それによると、それ以降も辻潤には何も特別なことはなかったらしいのだが、やはり不思議なことではあるだろう。
そして、金も尽きてきたというのでシベリア鉄道で1929年1月に帰国したのだが、非常な疲れを感じてその年の前半は寝てばかりいて、やっと11月になって100枚ばかり書いたという。非常な疲れを訴えることは辻潤にはしばしばあることであり、パリに向う際にも「榛名丸」の中で最初の一週間はいくらでも眠れたと書いている。帰りはシベリア鉄道の3等で2週間位も揺られて来たので疲れるのも無理はないが、しかし半年も寝てばかりいたというのは異常であろう。
それからがまた異常である。辻潤がこの停滞を脱したのは、武林無想庵と萩原朔太郎との交際があったからだと分かるが、特に萩原朔太郎に雑誌を出さないかと言われて、それから半年、1日16時間働いたというのである。
そうして出したのが、翌1930年2月の『ニヒル』というさえない雑誌である。実物は見ていないが、萩原朔太郎に雑誌なら気楽な漫文が書けると言われて出した雑誌である。さえないに決まっている。この雑誌は5月に3号でつぶれた。
そして、この5月には、友人の宮嶋資夫が出家し、生田春月の自殺があり、辻潤は毎日寝ころがって暮らす生活に戻る。そして、この年11月に出した本が『絶望の書』だった訳である。大体、雑誌などに発表した文章が溜まったらそれを纏めて本にするというのは、辻潤のみならず売文家の常套手段で、この本もそういうものと見なしてよいが、しかし、そこにパリ関連の文章が収められたのは、帰国以来の総決算的な意味があったことは窺うことができる。
以上の謎を踏まえて、パリに出発する前のことに戻ることにしよう。
1928年1月、渡欧歓送会というものが開かれたそうだが、そこに、「ダダ」を盗られた、辻潤を刺してやるといって高橋新吉が押しかけたのだそうである。辻潤も書いているが、ダダの本家争いなど滑稽な話で、「総本家」はヨーロッパにいる訳である。しかも、この時、高橋新吉はダダを放棄していたというのに、一体何を考えていたのかといえば、どうやら、高橋新吉は「名声」というようなものに極めて敏感に反応する性質の人間であったらしい。辻潤は、その場で高橋新吉が主唱者であるとスピーチしたというが、しかし、その一方で、私は高橋新吉の言い分にももっともなところがあるように思う。辻潤は、何も自分がダダの本家だなどと言いはしなかったが、ダダのリーダー、少なくともオピニオン=リーダーのごとく振舞ったのは確かなことである。
1923年2月、『中央美術』の「ダダイズムの研究と作品」特集で、辻潤は「あびばッち」を掲載した。この題は、仏教用語の阿ビ跋致から取ったことは間違いないだろう。仏教用語を題に使うのは極めて異例である。不転または不退転と訳され、菩薩の位あるいは悟りの境地から退かないという意味である。「ダダイズムの研究と作品」特集で、そういう題の文章を載せたということは、オレはこれからダダで行くぞ、ダダから離れることはないぞ、という強い意志表明をしたものと思わなければならない。内容もそれに相応するものといってよい(あるいは、芸術至上主義を表明したとしてもよい)。
辻潤がダダイストと名乗り出したのはその前年の1922年だが、その頃、小島清と同棲したあたりでは、雑誌の原稿依頼もあり貧しいといってもそれほどのものではなかったとは小島清が語っている。およそ、その頃から1924年12月に『読売新聞』の文芸月評を担当して、「らんどむ・くりちこすDADA」を連載したあたりが、生涯を通じて辻潤の絶頂といえるようである。
その「らんどむ・くりちこすDADA」そして、それ以降の文章などをみると、辻潤は、前衛芸術一般をダダあるいはダダの亜流・傍流とみなしているのらしい。シュルレアリストたちについても後期ダダ派と呼んでいる。宮沢賢治が世に出始めた頃、彼をダダの詩人と思っていたという人がいるそうだが、その原因の一つは辻潤にある。「らんどむ・くりちこすDADA(四)」で稲垣足穂の「緑色の円筒」を好意的に取り上げ、稲垣足穂によると、銀座の「ライオン」で飲み会か何かがあった時、辻潤は「なんだ、足穂の奴、俺がこれくらい持ち上げているのに顔を出さんっていう話があるか!」そう言って、テーブルを叩いて、ビール壜をすっ飛ばしたという。辻潤は「緑色はただひとり円筒にのみ限ったことではない。"Pen, Pencil & Poison" の主人公ウェーンライト以来すべて我々同族によって愛せられる色彩なのだ。」と書き、稲垣足穂をカムレード〔comrade、同志〕と呼んでいるのだが、稲垣足穂は未来派展に出品していたりして、彼が親近感を持っていたのは未来派であり、辻潤に同族・同志扱いされたのは心外であったのかもしれない。一体、辻潤は何をもって同族・同志とみなしていたのだろうか。稲垣足穂のいう「唯美主義」というものだったような気がするが、よく分からない("Pen, Pencil & Poison"はオスカー=ワイルドの作品。また、芸術至上主義か。「あらゆる意味において功利的な現代にあって、新しき芸術至上主義者たることより偉大な「叛逆」はあり得ない。」〈「ふらぐめんたる」〉)。
その頃、前衛芸術などで極めて多くの同人雑誌がつくられたことは高見順が『昭和文学衰盛史』に書いている。百花繚乱――といっても、ほとんど雑草の花という感じで、そのほとんどがたちまち冬枯れしてしまったようであるが。これらの人々の中には、辻潤に親しい感じを持つ人も多かったとは思うが(例えば壷井繁治)、高橋新吉・吉行エイスケなども含めて、辻潤を指導者・オピニオン=リーダーとみなすような人はまずいなかったのではないか。辻潤の書くものによって、そこから「芸術」というものの方向性を見出すことなどできるとは思えないから。神谷忠孝によると、日本のダダイズム運動は、ほぼ1924年をもって終りをつげたと見られるといい、その中にあって、辻潤ひとりは孤塁を守ったというが、それもただ守ったというだけであろう。
結局、日本のダダなんてものは、西洋の新しい芸術だというので、西洋のものに弱い日本人が飛びついてみたちょっとした流行という面が大きいのではなかろうか(それが全てとは言わないが)。
辻潤は、それから、卜部哲次郎・荒川畔村らと『虚無思想研究』という雑誌を出したということだが、ダダというものがもてはやされなくなって、別の看板が必要になったのだろうが(「文芸が(略)各自の看板と商標とを必要とすることは明らかな話」〈「錯覚したダダ」〉)、それが何故『虚無思想研究』だったのか。スティルナーの思想は虚無的アナーキズムなどと呼ばれたというから、ある程度の必然性はあった訳だが、具体的なことはあまり分からない。荒川畔村によると、卜部哲次郎が計画し、関東大震災で出版業が打撃を受けた荒川畔村が賛成したということらしいが。経過はともあれ、創作というものを作れない辻潤には思想方面しか残されていなかったということだろう。
ダダの「思想」は時にダダイズムと呼ばれるが、「イズム」に見合う内容があるのか大いに疑問だと思う。ただし、辻潤・高橋新吉にしろ、またほかの人も、ダダを単なる表現の問題というよりは、生き方の問題として受け取ったことは間違いないことである(ある程度まで錯覚だろうが)。ダダ以前、1921年に書いたとみられる「「性格破産者」の手帳より」には、「 イズムにも色々ある、(略)たった一ツはなはだふるわない、商売にもなんにもなりそうもない奴がある……それはなにか? ニヒリズム。」とあるし、1923年4月に辻潤が小島清に出したとみられる手紙には「私は今、たいへん素直な幸福な気持でゐる。」「君が来てくれてから、かなりな落着きの出来たことを今ハッキリ感じることができた。」と小島清に感謝しつつ、「僕は四十にして、始めて、実際生活に於ける理想主義を生活しようとしてゐる。――根抵(?)は勿論、今迄より更に悲痛なニヒリズムだ。」とあり、以前から幾らか意識的にニヒリズムに向おうという計画もあったようである。
ダダがはやらなくなって、そうしている間にも、雑誌の原稿の注文も少なくなって、生活はだんだん切迫して行った。1926年に1年以上家賃を滞納して蒲田の借家を追い出され、大岡山に移ったが、そこでも家賃を払うことはなかったようで、何度も引越しを繰り返している。徹底した貧乏生活は、伊藤野枝との同棲以来何度も出てくるのでめずらしくないが、それでもユーモアを忘れないのが辻潤のよいところで、「まッたく言語に絶した窮迫ぶりで、到底他人の窺い知ることの出来ぬ程に徹していたのだが、私はそれを耐え忍ぶことに興味? を覚えた。」〈「え゛りと・え゛りたす」〉と書いている。「タンカ」という詩には、「その辺の野原から雑草をひきぬいて/ナマでムシャムシャ食っているのだが/――別段クタバリもしない」「ゴミのような雑誌に/ロハで原稿を書かせやがって」などとあり、ユーモアもあるが、苛立ちも現れているように思われる。
こうした中にあって、辻潤が何をどのように考えていたのかは、『虚無思想研究』に連載された「こんとら・ちくとら」などから幾らか窺うことができる。といって、そうはっきりもしていないのだが。
辻潤は、『虚無思想研究』に乗り気でなかったように書いているが、常のことで、それほど信じる必要もないが、「虚無思想」というのは「なんでもない」思想ということだなどとふやけたことを書き、積極的なものはあまり感じられない〈「こんとら・ちくとら」3〉。そして、最初のうちは、「 ニヒリストという奴はあながち陰気臭くジメジメしているばかりじゃないのだ。たまにはハシャイでカッポレ位は踊る元気は充分持ち合わしているのだ。」〈「こんとら・ちくとら」2〉などと、いくらか元気が出ているが、だんだんと人生に否定的・懐疑的になり、のちの日本主義への傾倒の萌芽も現れているようである。
こうしたことが、「名声」の喪失や生活の窮迫からもたらされたと言ってしまう訳にはいかない。けれども、かなりの部分、そうしたものによって導かれたとみなすことができる。芸術家について創造の苦悩などということが言われるが、どんなに自分の作品が未熟で不十分なものだと思っていても、世間がそれを高く評価し、喜んで受け入れてくれるのなら、大抵の人はまず満足を覚えることだろう。逆に生活が貧しいからといって人生に否定的になると決まったものではないが、苦しい生活によってさまざまな苦悩が深くなる傾向があることは極めて当然のことだろう。萩原朔太郎の虚無的傾向なども私生活における結婚の破綻などのさまざまな生活上の不如意の影響が大きいものだろう。ただ、思考、殊に言語による「硬い」思考は、なかなかそういう傾向を認めようとはしない。そうして、自らの「苦悩」を説明するような「思想」を探ろうとするものであるらしい。
そうした生活のさなかにあって、辻潤には、降って湧いたような『世界大思想全集』の印税だった訳である。それで何故洋行しようと思ったのだろうか。何故それがカッサースのいるニューヨークではなくパリだったのか。やはり「花のパリ」だからだろうか。アメリカよりも歴史と伝統のあるヨーロッパの、芸術文化の中心都市。大好きな武林無想庵もいるし、という訳だったのか。出発する前に書いた「え゛りと・え゛りたす」は相変わらず言い訳がましいことが書き連ねてあるが、何度か洋行しようとして果たせなかったこともあり、ついにそれが現実になったという喜びも表われているようである。それから発表した紀行文には、喜びのような感情はあまり見られなくなるのだが。
そうして、パリで辻潤は何を得たのだろうか。辻潤は、のちにパリに行ったのは意味ないようなものだった、日本がいいと語るのだが、何もなかったのではない。丁度、普通は空虚なものに等しい空気が水中では泡という何ものかであるように、何もないと語られながら、何ものかではあったのだ。辻潤の得たもの、それは絶望である。これが私の結論の一部である。
ここで、再び『絶望の書』を見てみよう。
『絶望の書』の前半は、通信文を主としたパリ旅行に関連した文章だが、「絶望の書」と題された後半にも、パリ旅行に関連した文章が収められている。初めに置かれた二篇「ものろぎや・そりてえる」と「ふらぐまん・でざすとれ」である。それは帰国後にパリ旅行を回顧して書かれた文章である。つまり、「絶望の書」は、前半を受けてパリ旅行に関連した文章で始まる。そして、後半のほかの文章の配列は、発表年月や内容もまちまちで、どういう配置意図があったのかはよく分からない。前半、それから後半の二篇がパリ旅行に関連している、その点だけが『絶望の書』には明らかなのである。
だから、『絶望の書』においては、辻潤のいう「絶望」は、後半の二篇にある。おおよそパリに向う頃の回顧である「ものろぎや・そりてえる」よりも、
主にパリ滞在を扱った「ふらぐまん・でざすとれ」にそれはあると思わなければならない。
私には松尾邦之助の述べることは承知しがたいものが多いのだが、彼は「ふらぐまん・でざすとれ」について、その題は「妙ちくりんな彼のきまぐれによる「見出し」である。「とんでもない断片」という意味だろうが。まあ、この題にこだわらなくてもいい。」と述べている〈松尾邦之助「解説」『辻潤著作集』第1巻〉。これも、承知しがたい。「ふらぐまん」は当然、断片だが、「でざすとれ」はフランス語のde'sastreから取ったのは、ほぼ間違いないだろう。それは、災害、災厄、蹉跌、破綻、破産、といった意味である。シェストフを引用したエピグラフに、「災厄は無遠慮に彼を戸外に、また家庭外に放逐する。」とあり、「災害」の意味にとってもよい理由もいくらかあるが、「ふらぐまん・でざすとれ」の内容は「災害」とは関係ありそうにない。とすれば、それは、破綻といった意味だとみなすほかはない。「ふらぐまん・でざすとれ」は、「破綻についての断片」といった意味なのである。辻潤は、パリ旅行は、何ものかについての破綻だったと言っているのである。それが絶望の内容なのだった。
絶望は、キルケゴールのいうところの「死に到る病」である。そして、帰国後の辻潤の行動は、人が自らの死を受け入れる有様によく似通っているのである。人は自分が余命いくばくもないと告げられた時、落胆し暗い気持ちに沈む。辻潤は、帰国後半年ほど寝て暮らしている。それから、人は怒り出す、何ものかに向って。何故、自分が、自分だけが、このような目に会わなければならないのか、と。辻潤は、猛烈に活動を始め、一日16時間働く。それから、人は、諦める、静かに自分の死を受け入れるのである。『ニヒル』がつぶれて、辻潤も諦めている。「頭を酷使して身体や精神を痛めることにあきあきし、どう考えても分からない問題などをひねくりまわすこともつくづく厭に」なっている〈「Mの出家とIの死」〉。
それでは、辻潤は、どのように破綻し、どのように絶望したのだろうか。このことは、「ふらぐまん・でざすとれ」を読んでも実際そう明らかではない。私の結論を述べてしまうと、パリで辻潤は、ニヒリズムの最終段階に到達したのである。
ニヒリズムといっても大したものではない。それは、全てのものに対して、それは意味がない、それは価値がない、それは目的とはならない、と語ることである。その核心は、ただ、これだけであり、深いとか浅いとか、暗いとか明るいとか、そんなものとは関係はない。ほとんど内容のないようなものなのである。どうやら、近頃『虚無思想研究』が復刊されているようで(以前、高木護から葉書をいただき、辻潤の年譜のことは辻潤研究会にまかせてあるから、ということだったが、辻潤研究会というのは虚無思想研究会のことなのだろう)、一体何をしゃべっているのやらと思うが、私たちは内容のないものに対してもいくらでもおしゃべりができる。ニヒリズムは行為についての一つの極端な形式だが、そこに到る道筋、そして、そこからもたらされるであろう道筋は無数に考えることができるのである。それは丁度、戦前、超国家主義という内容のないものに対して、いくらでもおしゃべりができたのと同じことである。
ニヒリズムはある意味、無敵である。何故なら、ニヒリストに対して誰かが反駁しようとしても、彼はただ一言、私はあなたの言うことに何の意味も認めないと答えるだけなのだから。しかし、それに根拠があるのではない。この世界のあるゆるものは「絶対的」な根拠というものを持っていない。それを逆手にとって、根拠がなく意味がないことを絶対化したものがニヒリズムというものなのである(「Nihilist がInverted Idealistであることは、今さら説明の要もない位明らかなこと」〈ひぐりでいや・ぴぐりでいや〉。次いでに言うと、私に言わせれば、ブッダはこの世界に絶対的なものがないことに絶対を見出した人である)。
従ってニヒリズムというものはある種錯覚のようなものだが、人がこの世界が全く意味がないという考えに近づき、そういう世界を垣間見た時、戦慄を感じるのは当然であろう。辻潤は、パリから小島清にあてて、しばしばパリはよい、パリに生まれなかったのは残念だと書き送ったというが、その一節には、その戦慄を窺わせるものがある。「 なにしても、人生は迷妄だから――迷妄が消えた刹那は人間が存在の正体と顔をつき合す時だ」〈小島清「辻潤の思い出」〉 辻潤がどんな存在の正体を見たのかは分からないが。
辻潤は、『ニヒル』がつぶれて『絶望の書』を出す頃までの間に、何ごとかを考えていたようだが、存在の意味といったものだったのだろう。辻潤のほか、ニーチェとか萩原朔太郎といった論理的思考のできない人がニヒリズムに憑りつかれたというのは、何らかの理由があるのに違いない。辻潤は、ニーチェのように、積極的ニヒリズムとか消極的ニヒリズムとか、超人とか永劫回帰とか運命愛などといったたわごとを量産しはしなかった。その分だけまだマシであったとは言えるのだろう(世人はたわごとが大好きなようだが)。
人は、結局、行為者で、未来を、目的を持って生きることしかできない。その意味で「本当の」ニヒリストなど存在しない。ニヒリズムからはどんな行為も導くことはできないのである。それで、「ニヒリスト」は容易く感情の影響を受けてしまうのである。
辻潤の思考がどのようにしてニヒリズムに近づいたかといえば、もともと科学的知識への関心のなかった辻潤が科学的知識への関心を寄せたこともあるようである。このことは、萩原朔太郎やニーチェの場合にも感じられる。自然法則というものが主体性を脅かし、反省を強いるということだろう。
辻潤に特別な思考の筋道はといえば、物事の相対化、むしろ並列化を通してだったようである。
一切の存在は相対的だ。私がいるから、君がいる、君がいるから、あの人がいる。あの人がいるから、雀がいる、雀がいるから、猫が啼く、猫がいるから、芸者が啼く、……以下省略。
虚無主義者といい、ニヒリストといい、ダダイステンといい、ボルシェビストといい、なにといい、かにというもその例外ではない。
そこでー切の存在は合理的だとくる。しかし合理的だといえれば、又非合理的だともいえるのだ。凡そ議論にして水掛けならざるものは一つだってあるまい。
〈「こんとら・ちくとら」5〉
およそ、私たちがAというものを考える時、Aでないものも同時に考えている。そうでなければならない。そうしなければ、Aという概念の意味は定まらないのだから。辻潤の言っていることの根底にあるものはそういうことである。そのほか、因果関係の連鎖ということも含まれているのだろう。1923年頃、辻潤の家には石原純〔博士〕が解説した「相対性原理」の本があった〈辻まこと「わが濫読史」〉。相対性原理から導かれもしたのだろう(「ダダの顔」に「四次元の洗礼を受けて、相対の鼻眼鏡をブラ下げている、といってアインシュタイン先生からの借りものではない」とあるが、信用できない。相対性理論の内容には直接関係はないが、その言葉に影響され導かれた筈である)。しかし、辻潤が述べているようなやり方、ほとんど無秩序にものを並べるのでは、相対化とさえ言えない。そこには相対化する座標軸というものが失われている。そのようなやり方では、それらの間にある差異というものを失わせ、それぞれの意味というものを見失わせるだけであろう。
ここで、私は辻潤という人間、あるいはその精神を、根本気質、感情、思考というものから説明しておきたいと思う。このようにすることは、辻潤という人間くさい存在の、その人間くささを損なわせるきらいがあるが、このような区別は、おそらく人間の大脳の構造に由来するので、大体どの人を理解するのにも役立つものだろう。
そこで、私の考える辻潤の根本気質というものは、静的受容的なものというのが基本で、その上に自分の気に入ったものだけは無条件に認めるというものである。受容的な彼の精神は、外部から与えられたものを受け入れるだけだから、外部のものは何の差異もなく存在している。しかし、自分が気に入ったものが見つかると、そのものだけはほとんど絶対的な地位を与えるのである。
感情と思考は(最初のうちは)この根本気質に支配されている。彼はシュティルナーを読んで、自分のポーズが初めて定まったのだというが、その根本気質を正当化することのできる「思想」に出会ったということであった。勿論、時代の風潮やらの影響があってのことで、ただそれだけのことと言う訳にはいかないけれども。
しかし、シュティルナーを読んでも、そこから明確な行為が導かれることはない。思考はさらに人生の意味を求めて活動しなければならない。しかし、その活動は彼の根本気質にふさわしい相対化、並列化を通じて、ニヒリズムへ近づくことだったということになる。
辻潤の場合、あるいは、古谷栄一の「錯覚自我説」が一つの転機をもたらしたのかもしれない。古谷栄一の著書『循環論証の新世界観と錯覚自我説』などは、読むことはできないし、また私は読みたいとも思わない。その内容は、そういうこともいえるというようなものに過ぎなかろうと思う。しかし、辻潤にとって、スティルナーの「思想」は「万物は俺にとって無だ」だというが、その自分なるものが錯覚だということになれば、全ての根底が崩れることになり、ある反省を強いられることになるだろう。辻潤が形而上学云々と言い出すのは、(マルクシズムに対抗する意識の中で)古谷栄一が契機であるように思える。
ニヒリズムはほとんど気分の問題である。広津和郎は、少年時代からニヒリスティックな傾向があったが、「五十歳を越えたころから、どうやらその暗い虚無感が次第に私の心から消えて来た。」〈広津和郎「虚無から楽天へ」〉、「戦争が済んで見たら、そのニヒリスティックなものがいつか胸から薄らいでいた。」〈広津和郎「戦争は私を変えた」〉という。個人の気質と共に、年齢や時代背景というものの影響も大きいことが窺える。
ニヒリズムへの接近は、辻潤の書いたものによって明確に確認できるというようなものではない。それは、むしろ、思考が無意識のうちに辿ったであろう論理の枠組みという方がふさわしく、明確に意識に上らなかったことは、書こうとはしたが、ついにきちんとした文章が残されなかったことから窺うことができる。そこに、さまざまな混乱が入り込む可能性が生まれ、実際はもっと、謎に満ちた複雑な様相を示している。
辻潤はパリから戻って「日本主義者」になった。外国に暮らした人が日本を見直すことはよくあることで、それ自身はむしろ普通のことである(年齢とともに日本的・東洋的なものに向うのもよくあることで、そういうこともあるのだろう)。ただし、帰国して最初に書いた「西洋から帰って」によると、辻潤は日本を見直すに留まらず西洋否定にまで踏み込んでいる。「 日本が日本として堕落したのは、西洋と交際して異人にかぶれすぎた結果である。」「 文学だって、昔の支那の文学は西洋の文学に比べて遥かに高級だと思う。」などなど。松尾邦之助が書き残している、パリ祭で「月は無情」を歌って、フランス人にはこの歌の意味が分からないじゃないか、と言ったという話などを合わせて、日本肯定、西洋否定で一貫しているように見える。
ところが、そう簡単でもない。パリから小島清に送った手紙に、「パリ人に生まれなかったことはいかにも残念だ。今更ダメだ。」と書き、帰国してからも萩原朔太郎に、フランスに生れていたら、辻潤もヴェルレーヌ位の詩人になった、と書き送って、フランスを羨んでいる。こうした言葉があるから、単なる日本肯定、西洋否定という訳にはいかない。辻潤は公に発表した文章には、日本肯定、西洋否定を書き、私的には、その逆を書いたようである。これらの一見矛盾した言葉の底にある論理は何なのだろうか(ここでいう論理は思考(知識)の形式ということ)。
帰国して1年ほどのちに書いた「ひぐりでいや・ぴぐりでいや」には、外国から戻って急に日本主義者になったと思っている人があるらしいが、自分は昔から日本主義者だ、「自分が日本人として日本に生まれたからなので、これが第一の根本理由なのだ。」と書いている。そうすると、日本主義者であるのは、
日本人として日本に生まれたからである。フランスに生まれていたらフランス主義者になっていた。西洋がキライなのも日本に生まれたからである、ということになる。それが、フランスを羨む時には、日本に生まれたという前提を飛び越えて、フランスに生まれたかったと語る訳である。日本やフランスという国などについての知的な判断、それから好悪といった感情が混ざり合っているが、不思議に思うのは、好悪といった感情が論理的な前提の切り替えといったものを通して現われるものなのだろうか、ということである。しかし、辻潤の述べることからすればそういうことになる。
公表された、他人に向っている辻潤は日本主義者になって日本を肯定したが、パリ滞在から帰国後にかけての、公にされなかった辻潤には、日本に生まれてしまったという思いが顕著である。辻潤は、スティルナーなどを通して自分が全てという考えの持ち主だった訳だが、その自分というものが生まれ生きてきた日本という前提が崩壊しかけている。日本主義をめぐる論理そのものからは、簡単に日本肯定も否定も結論されないのだから、何か別の方面から絶望がやって来て、自分が生まれ育ってきた、その前提としての日本もまた否定されて行ったような感じも受けるのである。辻潤が日本がいいと語る時の日本は昔の日本であり、自分が生まれ育ってきた「西洋に毒された」日本は否定される。そういう日本よりはフランスのほうがマシという論理なのかとも思われる。
なお、私は、昔から自分は日本主義者だったという辻潤の言葉を信用しない。そのことはのちに書く。
パリの辻潤に戻ろう。
私は、辻潤のダダとパリ旅行が不思議な感じがしたので、辻潤はパリに行って、そこでダダというものを諦めたのではないだろうかと思い調べてみたことがある。およそ、1924年に日本のダダは終わったというのに辻潤は「孤塁」を保った。ダダで行こうと決心し、創作者でもなかった辻潤は、ただあきらめが悪く、「本家」のパリでダダが過去のもとなったことを目にして、そこでダダをあきらめたのではないか、そのように想像したのである。しかし、そうとは言えなかった。
辻潤が前衛芸術一般をどのように理解していたのかは問題があるところで、シュルレアリストたちも後期ダダ派と呼んでいたが、シュルレアリストを認めないのではなかった。「ふらぐまん・でざすとれ」は、最初に当時刊行されたばかりのアンドレ=ブルトンの『ナジャ』を読んだことを記している。そして、しち面倒な言い方をするのがブルトンだと嘆いてはいるが、認めていないのではない。それから、ポール=エリュアールの詩を引用している。そして、ポール=エリュアールは「実際、近代的エレミヤのひとりには相違ないのだ。われわれの同属でエレミヤでない者がどこにいるか? いたらばお目にかかりたい。」と書く。辻潤にとって、「同属」というのが何であるのかは問題だとはこれも既に書いた。とにかく、辻潤はポール=エリュアールを自分と同属だと言っている。エレミヤは旧約聖書に出てくる預言者で、預言者は神の言葉を伝えるのだが、預言は同時に予言でなければならない。そうでなければ、それに意味はない。ダダの終焉以降、日本においては前衛芸術一般が世に受け入れられ活発であったとは言えなかったが、辻潤はそのことを受け入れてはいた。ただ、それは、今は世間に認められなくても、未来の芸術だとは思っていたのだった。そして、ポール=エリュアールはその未来の芸術を示す一人だというのである。
それから、バンジャマン=ペレの書いたものを、たまたま知り合った一人のボヘエムに読み聞かせている。そのボヘエムは、、咽喉が渇いてきたと言って、朗読をさえぎり、辻潤は「おれも少しくたびれてきた。」と言って止めている。
「ふらぐまん・でざすとれ」は、倦怠の白いキャンバスの上に残像のような淡いさまざまの色彩の花が咲いているような文章で、ほかの文章とはやや感じが異なるが、辻潤の書いた文章の中で最もすぐれたものの一つだろうと思う。さまざまの色彩の花、といっても、外国の風物が描かれているからに過ぎず、長い引用があって、少しだらけている。書きようによっては、散文詩といってよいものになっただろうに。その最後は、次のようである。
埃及(えじぷと)の砂漠には、如何にも一輪の真赤な花が咲いていた。アデンの鉛の山には、ペスト菌が巣を食っていた。ひとりの若きアラブの男は白き歯をむき出し、贋物の指環を僕の指にはめ、デンマルクの商船の客室から盗みとってきたダイヤの指環と称して、僕にそれを買うことを強いた。またいかがわしき媚薬の小瓶をとり出して、怪し気なる形を拳に表わしながら、薄気味悪き笑いを浮かべるトルコの老爺もいた。
すべて欺かれることは愉快なる人生の快楽である。新聞を見よ――そこには幾多の広告と称するものが掲載せられているではないか? これらはことごとく赤き舌を出して愚かなる驢馬を釣らんとしているのだ。広告を失った人生の如何に寂しく惨めなることぞ……。
何故ここに広告が出てきたものだろうか? (バンジャマン=ペレの書いたものに出てくる看板に導かれたのだろうか。) 「広告」を失った人生を、辻潤は嘆いている。欺かれても「広告」があった方がよいと言っている。辻潤は、シュルレアリトたちを認めている。しかし、彼らは、最早、広告ではないのだろう。そして、辻潤もまた誰かを欺く広告にはなれない。「ダダ」のリーダーにはもうなれない。そういうことだろうか。
辻潤は、帰国してからも自らをダダイストと名乗り続けている。それは晩年まで変わらない(辻自身はダダイストというより「ダダの先生」などと言っている)。時には、時代遅れの看板だと不平を言いながらも(「ダダイズムという名称は今では既に黴が生えて場末の古道具屋の片隅に転がっている化物だが」〈「錯覚した小宇宙」〉 「相変わらず僕が「ダダ」という古典的? レッテルから脱却出来ないのもまことに困ったものです。」〈「ダダ文学雑感」〉)。世間がそう呼んだし、誰にも看板が必要なのだから、それが好都合だったのだろう。
帰国してほど近い4月に出された『どうすればいいのか?』は、薄っぺらな、いいかげんな本だが、その巻頭に辻潤は、人生に対する呪いといってよい言葉を置いている。
私は生まれつきDAイなしの人間だ
私は生まれたお陰で世の中から
DAイなしにされてしまった
だからDAイなしのままで生きてやる
なんとでもご勝手になさい
自分は恐らく都会のバイ菌や塵埃の同族で
万有引力のKAIRAIなのであろう
かつて、辻潤は、ダダについて、「 ダダの精神を体得する者のみは永久に新しく、いつも生々としています。/ なぜならばダダはいつでも Life それ自らの姿で、矛盾の織物を平気で着て歩けるからです。」〈「ぐりんぷす・DADA」〉と言っていた。しかし、『どうすればいいのか?』では、「DADA」の「DA」は、生に対する呪詛の言葉の一部になっている。かつては、「徒に社会を呪ったり、他人を恨んでみたりするのはあまり感心は出来ない。」〈「こんとら・ちくとら」1〉と語っていた辻潤であったが。
『どうすればいいのか?』、そして、それ以降のダダなどに触れた文章は、出版時には、どちらかといえば、過去の意見というだけの、否定的なものとして提示されているものと思わなければならない。例えば、のちの『癡人の独語』。『癡人の独語』は「装幀その他。殆ど本屋任せ」〈「辻潤書簡」47〉というが、文章の配列などは、辻潤の意向が反映されているだろう。そこでは、ダダに関係した文章が「錯覚した小宇宙」の総題のもとに、ダダ詩が「あぶさるど」の総題のもとに纏められている。『癡人の独語』出版時には、ダダは錯覚で愚かしいものになっている訳である(「錯覚した小宇宙」の中に古谷栄一の「哲学」を扱ったエッセイが収められているのも注目に値する)。
ダダ時代の言葉にこういうものもある。「クヨクヨ考えることをお互いにやめにしたらいいのだ。日本人の無邪気さのたりなさ加減はまったくなさけなくなってくる。」〈「らんどむ・くりちこすDADA」4〉 それが、「人間は形而上的思索をなし得る生物。なかんずくニヒリストはその最たるもの。」〈「こんとら・ちくとら」4〉などと語るようになり、辻潤は、無邪気さとは対極にある、その「形而上的思索」に踏み込んだようで、そのあげくの絶望なのだった。
矛盾の塊のように言われるゆえんがここにもあるが、思慮が足りないとも言える。結局、辻潤にとって、その生涯を通じて、行為を導く「思想」としては、個人主義しかなかったといえるのかもしれない。それ以上の、行為を、未来を導く「思想」を求めたが、何も得られなかった。それは何も辻潤に限ったことではない。日本の近代史は、その失敗の歴史でもあるだろう。しかし、辻潤のように絶望を示した人も稀であるといえるのかもしれない。
パリ旅行に関係した疑問に、辻潤はシュルレアリスムのオピニオン=リーダー、そこまで行かなくとも、その評論家になってもよかったのではないか、というものがある。どうして、辻潤はそうなろうとしなかったのだろうか? この答えは、ほとんど想像に属する。ダダの場合は、辻潤は日本で最初のダダイストといってよかったが、それから、ニヒリズムに向ったので、シュルレアリスムについては出遅れたことになった。周囲の人間のこともあるだろう。創作というもののできない辻潤には、創作者という人間が必要だったが、ダダの場合は、高橋新吉という第一人者がいたのに、シュルレアリスムについては誰もいなかった。辻がフランス語に堪能でなかったこともあるだろう。シュルレアリスムに関心を持つような人間はインテリといってよいだろうが、インテリは辻のような人間には近付かない。辻は、シュルレアリスムの作品を読んで、それを斥けることはしなかったが、辻の気質には合わなかったということもあるだろう。辻はアンドレ=ブルトンの『ナジャ』を読んで、しち面倒な言い方をするのがブルトンだと言っている。私は、日本及び海外のシュルレアリスムについて十分よく知ってはいないけれども、しち面倒な言い方をすること、そこにシュルレアリスムの秘密の核があるだろうと思う。ダダが訳の分からないものを、訳の分からないものとして、そのまま提示するのに対して、シュルレアリスムは、それを、その向こうに何かがあるかのように提示するものだと言ってよいだろう。それは、無意識の世界とか、超現実とか、至高点などと呼ばれ、それに伴って、さまざまな理屈が語られたようである(この秘密は、宗教一般の秘密と同じようなものである)。辻は、そのような見せかけにアキアキしていたということかもしれない。
破綻を抱いてパリから帰国した辻潤は、萩原朔太郎という「同志」を得て(人は結局、仲間というものを必要とするものか)、少しくもがいてはみたものの結局諦めた。それが『絶望の書』だったのである。
パリ旅行の無意味さに辻潤は自ら傷付いた。のちの『癡人の独語』に収められた「ものろぎや・そりてえる」には、「僕は巴里に出かけてやはりいいことをしたと思った。」という言葉が出てくる。いつ書かれたのかは分からないが、そこでやっとパリ旅行の意義を認めたという感じである。
破綻と絶望に終わったのだとしても、パリで「ひたすら思想の奈落に転落」していた辻潤、それは私が感動するものの一つである。
私は、昔から自分は日本主義者だったという辻潤の言葉を信用しない。おそらく、辻潤が書いたものの中から、そういうことを示す言葉の片々を拾うことができ、それによって辻潤が昔から日本主義者だったことを例証するのは容易だろうと思う。しかし、日本に生まれ育ったのだから、そんなことは当り前のことだと私は思う。
私たちは、心の中で息づいているものといった、表面には現われないようなものを直接問題にすべきではない。検証不可能なものを何のかんの言っても仕方がないことである。だから、私たちは、表面に現われたものをまず取り上げ、表面には現われないものはそれを説明するためだけに取り上げるべきである。だから、辻潤の日本主義に関しても、辻潤がどんなことを言って来たかという表面的なことから、まず判断されるべきである。そのようにすれば、辻潤は、かつては語らなかった(少なかった)、西洋否定・日本肯定の日本主義を語るように変わったことはまぎれもない事実というしかないのである。
1924年の「夏の連想」では、「私は近頃のメリケンかぶれの文化生活程片腹痛いものはないと考えているのです。」と、アメリカ文化を否定しているが、そのあと「素晴らしいワグネル、オペラなにかを徹夜で見物がしてみたいね。」とヨーロッパは肯定的に扱われている。
それが、1930年の「ひぐりでいや・ぴぐりでいや」Vでは、「時代が新しくなったの、日本が進歩したの、テンポが早くなったの、やれ尖端をゆくの、機械が導入したのなんのかのというのは、つまり日本の社会状態が次第に西洋に征服されていくというだけの話じゃないか?」「緊縮々々もごもっともだが、一層やるなら異人の品物を全部ボイコットする位な意気がほしいものだ。」などと書いている。つい筆が走った感もあるが、あからさまな西洋否定に変わったのである。
「あさくさ・ふらぐまんとる」では、「日本人だから「日本」が好きだというに過ぎない。なぜ「日本」が好きなのか?――などと、むずかしい理屈は御免
蒙りたい。」「僕は本能的に自分の生まれた国が好きなのだ。」「 僕は単に僕自身の実感を述べるだけである。」などというが、辻潤の語ることは、大体理屈っぽいのである。それなのに、何故、日本が好きだという理屈を言うのを避けるのか(続く文章は、それは年齢のせいだというような書き方になっているが)。理屈抜きに好きだというのでは説明にならない。日本が好きだという理由を語ることを避ける態度があるというだけである。
辻潤は、その最晩年の松尾季子にあてた手紙でも、自分は昔から日本主義者で、近頃のインチキ日本主義者とは違うのだというようなことを書いている〈「辻潤書簡」159 1944.2.4〉。辻潤の書くものは言い訳がましいものが多いのだが、日本主義についても言い訳がましい。「オレの「日本精神」はいずれまとめて書くつもりだ。」とあるが、結局、書いていない。自分でも、どうインチキ日本主義者と違うのか把握できなかったのではないか。
自分という存在は自分にとっては特別な「絶対的」な存在だが、他人から見れば、よくいる他者の一人に過ぎない。私は、辻潤の日本主義も、当時一般に見られた日本主義とそう違いがあるものではなく、辻潤には渡欧という特別なことがあったけれども、基本的には、当時の日本主義に向う風潮の影響を多分に(幾分先んじて)受けただけであろうと考える。
『絶望の書』の出たのが、1930年11月。関東軍が満州事変を起こす前年である。日本全体が日本主義に向い、美濃部達吉の「天皇機関説」が葬り去られたのが1935年。辻潤の日本主義への回帰もそのような風潮の中の一例なのである。そのように見れば、辻潤の「絶望」あるいは「破綻」は、日本・日本人における「精神」の破綻、「精神」の袋小路への転落の、辻潤という個人における表現であったことが窺えるだろう。
それからの辻潤は、飲酒にふけって発狂して、ルンペン生活をすることになるが、晩年、私をもう一つ感動させる話がある。
その前に発狂後の辻潤について一言。発狂してからの辻潤がどれだけ正気であったのかは、やはり問題があるところである。しかし、しばしば発作を起したのは事実だろうが、書いたものを見る限り、狂人のようではない。それなのに、しばしば非常識と思われる言動で周囲の人を困らせている。だが、それでも「論理的」には一貫したものがあるように思う。辻には、もう特に読みたいと思う本もなく、何かを書きたいとは思ってもこれといったテーマを失くしている。絶対の真理といったものはないと思い、考えることも放棄している。一旦、精神病院に入って社会から放り出されたのでもあり、常識にとらわれる必要もない。ただ、非常識を貫けば何かと不利益を生じるから、ある程度まで常識的に振舞うというだけである。残ったのは、少年時代に魅かれた西遊記の孫悟空の活躍のような面白さとか、そんなものである。周囲に煽る人がいれば一層そういった悪フザケに精出すことになる。それで、時には女・子供にさえ暴力を加える。それ自身が目的なのではないが、ちょいと手足が出たりするのである。どれだけ決心のようなものがあったのかは分らないが、「低人」として、常識にとらわれず、人から愚かと思われることもしようという意識もあるようである。あんまり簡単すぎると思うが戦争前の辻潤はそういうものだったと思う。
それから、戦争が深まり、1941年12月8日がやって来る。私を感動させる話というのは、その日、気仙沼の菅野青顔の家にいて、勤務先から戻った菅野青顔に「困ったことになったネ、青顔、真珠湾の奇襲ぐらいでこの戦争が勝てるなら、こんな都合のいいことはないんだが、これが大変なことなんだ、僕の観る目では日本は必ず負けるよ」〈菅野青顔「我が人生の教師よ」〉と語ったという話である。
太平洋戦争については、今日、無謀な戦争だったと常に語られている。確かにどう見てもそう言うしかないのだが、しかし、それは当時の一般の日本人の考えではなかった(と言って、当時の一般の日本人が何を考えていたのか私に明確になっている訳ではないが。大方、政府・軍部に従っていただけということだろう)。だから、私は、辻潤がどのようにして、日本が負けると判断したのか、その理由を知りたいと思う。けれども、おそらく、その機会は永久に失われているのだろう。
それにしても、私は不思議に思う。辻潤といえば、しばしば「個」を貫いた人などと言われ、晩年でも彼個人の美意識を追い求めてさまよっていた人のように描かれもするのだが、その実、彼の目は世の中の有様を冷静に観察し、その頭脳はチクチクと状況を計算して、そして明晰な判断を下したのだった。(辻潤によるとスティルナーは「汝は汝の汝を生きよ」と語ったというし、辻潤は「自分だけの世界」を語っている。しかし、どのような事柄も彼個人の内に閉じているなら、それは私たちに何の関わりもないことである。「汝は汝の汝を生きよ」も行為の規則としての一般性を有する限り私たちにとっての意味を持つ。どの領域まで、どの程度に適用されるかが「意味」というものの大きな内容をなすのである。辻潤という個性が、その社会性において評価されるべきなのは当然のことである。)
菅野青顔は、先の辻潤の言葉を記したあとに、「そして暗然とした恰好が今でも眼前に彷彿する。」と続けている。私は、そこから、辻潤の日本人一般に対する同情というものも感じるのである。
当時の軍国主義に迎合しなかったという人は幾らかいる。例えば、永井荷風。その「断腸亭日乗」をみると、そこには軍部への批判もあるが、太平洋戦争の開戦と終戦の日をみれば分かるように、その態度は基本的に「我関せず」なのである(それなりに驚くべきというものではあるが)。しかし、辻潤は違う。幼い頃、家作の長屋の子供たちと違う綺麗な着物を着ることを拒んだ辻潤、青年時代に社会主義に関心を寄せた辻潤、乞食の母子を見てわずかなお金を与えたという辻潤。そういう辻潤は、その晩年に到るまで生きているのだった。
だが、何にしても遅すぎたのである。辻潤は、彼の考えの中にどれだけ健全なものが息づいているのか、自ら知ることはなかったのだ。辻潤がどのように「降参党バンザイ」を叫んだのか、そういうことは私には分からないが、既に手遅れであった。世の中が、「文学者」が、おかしくなっていると辻潤が気付いた時には、既に遅かったのである。彼は、生前の大部分を、メディアのゴシップ種、真面目な道化と受け取られたように思える(辻潤だからというより、当時は「文士」が今日における芸能人の役割を担い、ゴシップ種の対象になっていた。辻潤の場合、今日のTVの「お笑い芸人」のような役割を果たしていた。そういう話題がないと、当時の新聞の「文芸欄」などは、いかにも肩苦しく、殺伐とした感じになるようである)。晩年の戦争反対も、ほとんどの人にとって、それは、狂人の、あるいはルンペンのたわごとでしかなく、彼は抵抗者とも認められなかったのである。
辻潤の文章は決して難解ではない。それでも、江戸や古今東西のよく知らない人物や事物の名が出てきて、とまどわせられる。しばしば韜晦趣味と言われる所以だが、その多くは、おそらく、調べようと思えば簡単に調べがつくものだろう。また、しばしば、辻潤は、人が滅多に書かないことも自分は書くのだと言っている。大体が率直に書いているように見える。こうしたことから、辻潤について何かを書く人は、辻潤について分かったような気になっているらしい。しかし、それはかなり誤解であり、よく分からないことの方が多いだろう。この点では辻まことも誤解している点があるように私は思う。
辻潤は、確かにある点までは率直なのだが、基本的に何のために生きているのか分からないということを語る人なので、ある点からは不明瞭にならざるを得ない人物である。殊にパリ旅行に関しては、パリ滞在中そして帰国してからも、何かを書こうとして、みんな反古にしたといっている。書こうとして書けなかったことが多いらしいのである。意識的にか無意識のうちにか、自身を表現していないことが多いことになる。ただ、こうした困難は、誰であれ、その人を理解しようと思う時にはつきものの話で、どれだけ辻潤が特別であるのかはよく分からないことだが。
あまりに辻潤を真面目な人物として描き過ぎただろうか。私はそうは思わない。辻潤を真面目な真摯な人間だと述べる人もいるし、ふざけたおかしな人物だと述べる人もいる。それは、(当然ながら)辻潤が他人に見せる、また、人が辻潤から受け取るものによって異なってくるということであるらしい。基本的には、ふざける場合でも、今日の、おそらく大多数の若手お笑い芸人が真面目に人を笑わそうとしているように、真面目にふざけていたように思う。酔態までそういうつもりはない。酒を飲まずにはいられないという地点までにおいて。
辻潤の不幸はどこにあったのか。荒川畔村などが書いているところによると、辻潤は、人のいる前ではどんな僅かな原稿も書けなかったし、一人でいるのが寂しいらしく、何処か宿屋へでも行って書いてくるということも出来なかった、という。比較的寂しい所で翻訳をしている場合があり、一人でいるのが寂しいというのが、どれ程のことだったかは幾らか問題があるだろうが、まず、彼はそういう人間であるらしい。周りの人は勿論のこと、本人にとっても厄介な性格であるのに違いない。周りに人がいる中で、静かな環境と時間を作って、気に入った大作の翻訳でもさせるのが、一番よかったのかもしれないが、その気に入るというのが、また問題で、気に入らないものだと、たちまち苦痛を訴えるのだという。運よく彼の好みと世間の好みが一致しなければ、何ともならない。つくづく厄介な人物である。
私は、しばしば「マイナー」という言葉を使って来た。世の中で一般的でないことだが、辻潤はマイナーの代表選手みたいなもの。私自身も「世の中」というものには首をかしげることが多いので、その点では辻潤に同感ということもなくはない。けれども、辻潤は広い道と狭い枝道があった場合、常に狭い道を選んでいるような感じで、あきれる感じもする。
金子ふみ子『何が私をこうさせたか』の「解説」で鶴見俊輔は次のように書いている。「 金子ふみ子は明治以後の日本思想史から説明しにくい。そのあらすじから、はずれてしまう。このことは、反対に見れば、私たちひとりひとりの内部に、この国の思想史のあらすじに還元できないものがひそんでいるということへの手がかりになる。」すなわち、「マイナー」とはいうものの、それは一般的、普遍的なものでもある。
たまたま、原敬の本を幾つか読んだが、原敬は政治の、つまり一般的な歴史のメインストリートにいたと言ってよいが、内務大臣などの職にあって、思想弾圧に従事した人物でもあった。彼が残し、また彼について書かれた文章と、彼によって弾圧される側のアナーキストなどが残した文章を読むと、その風景の違いというものに、私は印象づけられた。一体、どちらの側の歴史、どちらから見た歴史が、私たちが学ぶべき歴史なのだろうかと考えさせられた。
あまりよく知らないが、辻潤年譜の作成を通して、さまざまな人間を眺める時、おおよそ辻潤ほど正直で誠実だった者もいないように思われてもくる(その一方で分かりにくさがあるが。明確に人を欺くというのではないが、何かを隠しているという意味のウソは辻潤にもある)。
こういったことなどから辻潤の生涯を描くこともできそうだが、これ以上は止める。
一体これで私は辻潤の何を語ったのだろうか。何ヲイッテヤンデエと言われても仕方がない。何にしても仕方がない。そうでなければ、私には、「辻潤とはただそういう人だったのだ」と呟いて、軽くため息をつくしかないのだから。(終)