辻潤書簡について

『辻潤選集』には、「辻潤書簡集」として、辻潤の書簡173通が収められている。辻潤の書簡は、辻潤年譜の基礎としても使用しているが、実際のところ、この「辻潤書簡集」は、年月日、その内容共に問題が多く、そのまま採用することはできないものである。問題点は「辻潤年譜 Tada of Alangri-Gloriban」の中で指摘していたのだったが、それを纏めて示した方が何かと便利であろうと考えた。合わせて、「辻潤書簡集」に洩れている辻潤の書簡も纏めておくことにした。

『辻潤選集』の書簡集の凡例を示してみる。まとも、というより普通だが、この凡例が示す通り適切に処理されたかは疑わしい。

   凡例
一、書簡の173通は宛先別に分類し(菅野青顔・辻秋生・山本正一・広野重雄・山本画乱洞・浦川治子・松尾季子)、同一宛先内は年代願に配列した。
一、日付は書簡内の著者自身の記載を第一とし、つぎには封書の日付、郵便スタンプの順で決定した。年代不明のものについては編者の責任により推定年月に配列した。
一、本文は新字体・現代かなづかいを採用し、著者の持ち味を生かすことに努めて明らかな誤字等にも傍点を振って生かすなど最小限の訂正にとどめた。
一、読解不明のものについては○○でその箇所を明らかにし、意味不明のものにはママを付した。

『辻潤選集』の「辻潤書簡集」には、年月日が、本文の前に付されている場合と、本文の後に付されている場合がある。手紙の形式が保存されていないので、本文の後に付されたものも、実際に本文の後に書かれていたのか、封書の裏などに書かれていたのかなどもはっきりしない。

 戦前の封書や葉書の写真を見ると、消印には年(年号)月日とおおよその時間が記されていた。つまり現在と同じ。『定本 宮澤賢治全集』第13巻の写真を見ると、消印スタンプが2つ捺されている封書がある。受付局と配達局のスタンプだろうか。消印スランプが判読できれば、おおよその正しい年月日が分かる筈である。

 郵便葉書の値段、封書の切手の値段および種類なども年を推定する手掛りになる筈だが、そういう考慮はなされたのだろうか。こういうものと消印スタンプから年月日が推定でき、(特にハガキについて)何年も年がズレることはないと思われるのだが、「辻潤書簡集」には、そういうものがあるのだから不思議である。

 1899.4.1 郵便葉書1銭5厘、封書3銭。
 1937.4.1 葉書2銭、封書4銭。
 1942.4 葉書は据え置き、封書5銭。
 1944.4 葉書3銭、封書7銭。
 1945.4 葉書5銭、封書10銭。
〈『郵政百年のあゆみ』pp.150,160,248〉

 以下に示すものによって、『辻潤選集』の「辻潤書簡集」は、かなについては、かな遣いに関連して間違いがある可能性があるし、漢字の判読は、さらに間違いが多く、特に固有名詞に問題が多いらしいと予想できる。そんなにひどくないかもしれないが、今は、その実態を確認する術がない。
 文字の間違いについては、辻潤の書き間違い、玉川信明の読み間違い、玉川信明の誤記、それから誤植など、さまざまな可能性がある訳だが、まず、玉川信明の読み間違いが多いのだろう。

 手書き文字の判読は何かと問題となるのだが、その確定には、その内容などによって推測する必要が出てくる。それには、年譜記事などを用いる。逆に、年譜記事は書簡を根拠としても用いる訳で、年譜と書簡は、不即不離の関係にあり、微妙なところがある。

 菅野青顔「春哀し 辻潤の発狂」8〔『大気新聞』1932.4.26〕に「 私が駄々羅先生と文通を開始したのが近年のことだが、それでも封書を二通、ハガキを十二枚下されてゐる。」とある。「辻潤書簡集」の1932.4.26前の菅野青顔宛書簡は11通(「辻潤書簡」18を含めれれば12通)だから、3通失われたということになるだろうか。
 菅野青顔「厄介な魂 高橋新吉のこと」〔『大気新聞』1931.4.29〕には、高橋新吉の未発表の詩『まくはうり』を、辻潤の許しを得て明日から連載するとある。高橋新吉の『まくはうり詩集』であろう。ガリ版刷りで少部数しかないこの詩集を菅野青顔は辻潤から借り受けでもした筈で、そして、それを発表する許可を得た訳だが、そういうことを記した辻潤の書簡が欠けていると思われる。
 安波道人(かんのせいがん)「空華帖」〔『三陸新報』1954.12.5〕によると、「書簡が昭和十九年の二月十日に書かれ、水島流〔 〕の署名で、福岡のK女に送られている。理由あつてそのK女から先生からの書簡百余通を貰いうけてから一年余、暇のありしにたん読している」とある。手紙の内容も示されているから明白だが、K女というのは松尾季子であり、松尾季子は辻潤の書簡を100通以上持っていて、それを1953年に菅野青顔に譲ったということになる。そして「辻潤書簡集」の松尾季子宛て書簡はかなり数が少ないことになる。

 以下、「/」は行末 or 改行。

『辻潤選集』「辻潤書簡集」の問題点

書簡番号宛先名年月日差出住所形態問題点
1高橋新吉1922神奈川県川崎市砂子187封書 「辻潤書簡」1は、高橋新吉「ダガバジジンギヂ物語」九にあり、おそらく、そこから採ったものだろう。
 辻潤は、前に少なくとも二通ハガキを出しているが、高橋新吉が辻潤から初めてもらった手紙という。1月25日の日付というが、消印日付だろう。手紙の文章の終わりに1月24日と記している。
『辻潤選集』では日付が大正11〔1922〕年とのみ記されているのは、奇異。辻潤の住所が川崎市となっているのは間違い or 不正確で、当時はまだ川崎町で、「ダガバジジンギヂ物語」でも、川崎町である。
 高橋新吉の住所は、「京橋区築地二丁目三十一番地(おしるこや)中川様方」。
5菅野青顔1929.12.16東京府荏原郡中延1089ハガキ 「「あい(ママ)んちゃ」も心がけているが、まだ見あたらん。めっけたらおくります。」とある。「あい(ママ)んちゃ」は、富ノ沢麟太郎の「あめんちあ」〔『改造』1925.5号〕〈『日本近代文学年表』〉であることが、ほぼ間違いなく、誤読の類だろう。
 菅野青顔「断片奇語」によると、菅野青顔は広野重雄と知り合い、広野重雄から富ノ沢麟太郎の「あめんちあ」という作品のことを知った。『改造』に載った「あめんちあ」を探すまでに半年かかった。広野が東京で探し出した、とある。
『菅野青顔著作集』第1巻の西田耕三「解説」によると、菅野青顔『交遊録・廣野重雄の巻』の記載では、菅野が広野に会ったのは、1927年10月9日だが、西田は「一九二七年の交流を書き、そして「新聞記者云々」とあるが、大気入社が一九二九年だから記憶ちがいであろう。廣野が《ボロジン》同人に参加していないところをみると、一九二七年の青顔と廣野の出会いはあるいは一九二九年以降のことであったのかもしれない。」と書いている。このハガキからすれば、菅野が広野に会ったのは1929年と推測できる。『菅野青顔全集』第1巻の伊藤文隆「あとがき」の今泉節子作成の菅野の年譜でも、そうなっている。
 菅野青顔『交遊録・廣野重雄の巻』では「あめんちあ」は「あめんちぁ」になっている。
「あめんちあ」は、amentia〔白痴〕だろう(英語の発音では、アメンシア)。
6菅野青顔1930.1.25 ハガキ 「ザッシ当三日に出来上がるだろう。」とあるが、「当」はおかしくないか。
10菅野青顔1930.7.8 ハガキ  このハガキは、菅野青顔「春哀し 辻潤の発狂」に引用されているが、小異がある。

 菅野青顔「春哀し 辻潤の発狂」7:
「 過年、田島豊造編輯の「云々」を贈つた時、先生は私のところに次のやうなハガキを呉れてゐる。
 ――「云々」〔落〕手、みんな困つた連中ですね、もつとウスツペラの八頁位な雑誌にしたら如何?/雑誌と本を送るのだがもう少し待つて下さい,都合で一度出かけるかも知れん、黒石にはまだその後会はず―石の巻の松巌寺の住職も雑誌を一冊出したきりでどうしているのか?、 キセヌマ(?)に僕の静かにねてゐられるやうな山寺かなにかありませんかな?――サケを呑むことも近頃はひどくアキ/\したから――東北の方はこれまであまり縁がないのでつい行くのがおつくうになつてゐる―昔、仙台まで一度行つたきり、その先は知らないのですよ、しかし、今月は駄目だが来月になつたら行けるかも知れんと思つてゐます、しかし、勿論その時になつてみなければわからん―いづれまた同人諸君によろしく―――」

 辻潤書簡10では、句読点などが改められているほか、「もつとウスツペラの八頁位な雑誌」→「もっとウスッペラか、百頁位な雑誌」になっている。100ページの雑誌は薄くないと思われるので、辻潤書簡10が間違っているのだろう。
『菅野青顔著作集』第1巻の「辻潤の発狂」(「春哀し 辻潤の発狂」と同じ文章)では、『云々』は『云云』となっていて、雑誌名は、これが正しいかもしれない。

17菅野青顔1933.3.3東京市目黒区洗足1285ハガキ

 全文:
「 てがみありがとう、おかわりなくてなによりです。私方も一同かわりありません。亀さんはたしか仙台にかえっている筈です。小松三郎にも時々あいます。そのうちおくります。どこでもビンボーだから、日はうらうらとはれわたり。」

 菅野青顔「時田英太郎を憶ふ」に、小杉三郎の名前が出ている。「彼は青顔を、小杉三郎といふ男に紹介した。/小杉は辻潤と三年も一緒に暮らしたことのある男だ。」(彼=鴇田英太郎)とある。
 おそらく「小松三郎」は「小杉三郎」が正しいのだろう。誤読なのか、辻潤の記憶違いなのか。
「亀さん」は、おそらく尾形亀之助のこと。

18菅野青顔1931.5.13東京市荏原中延ハガキ  1933年の書簡の間にある。年は1933年が正しいのだろうが、そうだとしても収録位置はおかしい。
21菅野青顔1933.7.31東京ハガキ 「さがしたらまたハガく。」とあるが、「ハガく」というのは、ハガキかく、ということか。
22菅野青顔1934.2.3石巻ハガキ  日付はおかしい。「石巻にて」とあるが、1934.2.3には、石巻にはいない。
25菅野青顔1933.10.15東京市板橋区石神井関町 慈雲堂病院内   1934年のところにあり、位置がおかしい。
41菅野青顔10.10神奈川県小田原在 中島   1935年のところにあるが、「 弔電をありがとう。とにかく野辺送りだけはすませた。」とあり、母、美津の死亡した1934年だろう。また、「 これから先変な女にひっかかったりしない限り、だんだん私は「自由」になれると思っているのだ。」とあるが、1935年ならば、辻潤は松尾季子と一緒にいるので、この点でもおかしい。
49菅野青顔9.17東京市大森馬込  「話はちがうがム想庵は電車賃もないから、会えば出席できんという返事だ。」とあるが、「会(あ)えば」は「会(かい)へは」だろう。
50菅野青顔1935.9.4東京市大森馬込ハガキ 「玄旨軒眼目」のことが出てくるが、「辻潤書簡」49 9.17 にもある。日付によれば、50、49の順序で菅野青顔に出したことになり、順序が正しくない。しかし、50で、「「玄旨軒眼目」は君の持っている「東坡禅喜集」の後についている「正眼国師眼目」だよ。」と念を押している。順序は、49、50が正しいようで、日付が間違っているようである。
 まず、どちらかの日付が間違っているとしたものだが、「辻潤書簡」49に「来る二十一日の夕方から浅草観音劇場(かつて昔僕が役者のマネしたコヤ色)のワキの三州屋という繩ノレンにて、「痴人」の会がある。」とあり、「辻潤書簡」49の日付9.17は、正しいのではないか。おそらく、「辻潤書簡」50の正しい日付は9.24で、消印日付の読み誤りか、『辻潤選集』の誤植。
52菅野青顔10.12 ハガキ  全文:
「 きちがいというにあらねどわれもまた病んでいるなり、甘湯温泉
 諸君によろしく」

「辻潤書簡」52は、1935年の位置に置かれているから、1935.10.12に辻潤は、塩原にいたことになる。「全集年譜」・『ダダイスト辻潤』によれば、塩原に行ったのは11月。『辻潤著作集』別巻の写真を見ると、塩原から1935.11.13の消印のハガキを山内直孝〔画乱堂〕に出しているようである。10.12という日付は11.12が正しい可能性が出て来て、そのように判断する。詳細は、「辻潤年譜 Tada of Alangri-Gloriban」で述べている。

55菅野青顔1936.2.26 ハガキ  内容に問題はない。
 ヒロシゲ=広野重雄。石森=石森正家。ミンコ=小野寺稔。カカシ居士=菅野次郎。

「 ヒロシゲ君に――君のエは毎日眺めているがあきない。コドモの画が二枚と都合三枚の油絵が部屋にかかっている。
 石森君――月給とりになってよかったね。近頃カフェーはどうだね。新しいシャンは来ないかね。いつかの娘たちはどうしたかね?
 ミンコ君――は古本屋でいくらか儲かるかね。
 カカシ居士――肺病で重態の由。どんな具合い? 寒いのでさぞ困るだろう。僕もどうも肺がわるいらしい。」

59菅野青顔8.21三重県津市極楽町今井氏方   特に問題はない。
「 「最後のマッチ」は東京においてある。かえったら送ってあげる。」とある。『最後のマッチ』は岡田播陽(オカダバンヨウ)の本のことだろう。1922年、大阪の好尚会出版部(コウショウカイ シュッパンブ)から刊行〈国会図書館蔵書検索〉。
61菅野青顔2.10鳥取県東伯郡西郷村 極楽寺内  「辻潤書簡」62の日付が、1937.2.12だが、どうも、61と62の順序が逆のようである。「辻潤書簡」62が、久し振りで菅野青顔に出したハガキで、菅野青顔からの返事を受けて「辻潤書簡」61を出したようである。「辻潤書簡」62の日付が間違っている可能性もあるが、2.6頃、極楽寺に来たことは、「辻潤書簡」62・「辻潤書簡」113で、まず一致しているから、「辻潤書簡」61の日付がおかしいのではないか。
75菅野青顔6.30東京市大森区新井宿2丁目1647   気仙沼へ「行って、なにか仕事でも落ちついて出来るようだといいと思っているのだが。ブラブラしているのも時節柄感心しないからね。都合のつき次第とにかく出かけてみるつもりでいる。」とあり、「辻潤書簡」76〔7.3〕に、気仙沼行きが中止になったことが出て来て、つながっているようにも思えるのだが、「辻潤書簡」75と76の日の間隔がやや短すぎる。6.30の書簡を菅野青顔が手にするのは早くとも翌日の7.1だろう。その菅野青顔からの返事を辻潤が手にするのは、7.2 or 7.3といったところ。「辻潤書簡」76の日付が7.3だから、一旦気仙沼行きが決まるという期間がない。「辻潤書簡」76に気仙沼で「今年の夏こそ久しぶりで本格的なうまいウナギにありつけることと、そればかりをこないだから幾度か夢に見る程楽しみにしていた」とあるが、「こないだから」というその期間がない。「辻潤書簡」75の東京市大森区新井宿2丁目1647という住所も1940年にしてはおかしいようで、年が間違っているらしい。
76菅野青顔1940.7.3東京上荻窪  「みんな一切のフィリスチンとスチュピティとヒポクリシイとエトセトラをゼン滅してやろうと思っている。」とある。「ゼン滅」は、まず「セン滅」だろう。スチュピティは stupidityか。
「ジフィリスに罹ってグズグズねているとはなんとだらしがない。まったく腑甲斐ない状態だ。」とある。「ジフィリス」は、「シフィリス」syphilis、梅毒のこと〈『広辞苑』〉。これによれば、辻潤は梅毒に罹っていたことになる。淋病に罹っていたことは確からしく、おそらく、性病一般に対して「ジフィリス」と呼んだのだろう。
77菅野青顔1940.8.4神楽坂ハガキ 「七月の出ばには津という予定のところ」とある。「出ば」は「半ば」だろう。
79菅野青顔1940.9.21 ハガキ

「辻潤書簡」78と79で、内容に矛盾がある。

「辻潤書簡」78 1940.9.6〔全文〕:
「 (ハガキ)   昭和十五年九月六日    78
         三重県津市極楽町 今井方
 からだの具合はどうかね。先月初めから京都でくらし四、五日前からこちらに来ている。あしたあたり東京へかえろうと思っている。今日「茉莉花」という雑誌を送った。まだ僕の書いた号があるが、いずれそのうち送らせるつもり也。てがみは西山君苑にしてくれたまえ。」

「辻潤書簡」79 1940.9.21:
「            79
 君の病気はその後どんな具合かね。多分もう全快したろうと思うかどうか? 津から送った雑誌は届いたことだと思う。僕は先月末に東京へかえって来て目下五月堂の食客をしている。近頃はどこでもひるま呑まさないから、尺八を吹いて歩く気もなくなり、至極落ちついている。これから少しは作文をすることが出来るように考えている。津にいる時ヘルマン・ヘッセの『荒野の狼』という本を三分の二ばかりよんだが、大変面白かった。
(略)
     昭和十五年九月二十一日
   東京市豊島区駒込三ノ三六二 五月堂内」

「辻潤書簡」115 山内直孝あて 1940.9.19 のハガキも五月堂の住所で、山内直孝と東京で飲む約束をして山内直孝が来なかったらしいことを述べている。9.7頃、津を出て、小田原の山内直孝の家に泊まり、それから東京に戻ったものだろう。「辻潤書簡」79のように「先月末に東京へかえっ」たのなら、8月末に帰京となって、おかしい。「先週末に東京へかえって」が正しく、「先月末」と誤読されたのだろう。

81菅野青顔1942.4.25神楽坂ハガキ 「江東定住を得ずよく生きていると思う」とある。東京の江東に定住したいということか。何か故事があるのか、到頭(たうとう)のシャレなのか、あるいは「東京定住を得ず」などとあったのを誤読したのか。
83菅野青顔 奈良県添上郡柳生村芳徳寺内   本文中に「(六月二十七日)」という日付がある。
 特に大きな問題はないが、『本の手帖』第5巻第4号 No.44の「辻潤の手紙四通」の1通目で、それを示しておく。

「辻潤の手紙四通」の1通目〔全文〕:
「 昭和十八年六月二十七日

奈良県添上郡柳生村 芳徳寺より  

かはりないか此処へ来てから一度テガミを出したつもりだがついたかしら、時局も愈々本格的になつて来たやうだ――
久しぶりで落ちついてゐる、やつとこの春京都で自分の興味を唆(?)るに足る本を見つけたのでホンヤクしてみる気になりやつと最近片づけたところだ、どうせ僕がキョーミを持つやうなものだから時局向きではないがまづ純粋に哲学的なものだから多分パスするだらうと思ふ、題は「美への意志」と云ふのだ、「ショウペンバウエルとニイチェ哲学の継続」と云ふ但し書がついてゐる、大に啓発されたところがある、たいして大きな本ではない原稿紙で四〇〇枚、それに例の調子の僕の序文が三十五枚程、来月十日頃に上京してなんとかモノにしたいと考へてゐる、ウマクゆけば久しぶりで「美禄」にありつけるわけだ、他に「水島流吉の覚書」(或は来去白雲抄)と云ふのを百枚程書いたがこれはノセルところは何処にもあるまい、一部を書物展望へ送つて置いたが凡そ時局認識不足な代物だからダメだらう、なにしろオベンチャラ日本精神にはアテラレてゐる、米英に対する敵愾心を大にフンキさせたいと思つてゐるが一向起つて来ない、始めから米英など一度もソンケイしたこともないが、永年英語でメシやサケにありついてきたのだからあまり悪口を云つたギリではない。
広重氏は仙台に行つてゐるのかね或は依然として画塾をやつてゐるのかね、若し仙台に行つてゐるなら一度テガミでも出したいからアドレスを知らせてもらひたい、長男は去年の十一月天津の新聞社へ就職したがまだ一度も消息はない。尤もコチラからも一度もテガミはやらないが、次男は相変らず御用船だから一番危険率が多いわけだ、千葉大尽はケイキはいいかね、その他の諸君によろしく
   六月二十七日          辻 潤
  青顔様
 追放令が出ないかぎりこの寺で出きるだけなにか書き散らして置くつもりだし死んだらなんとか金にはなるだらう、文学もオモシロクないが御経もツクヅク怠(?)屈だ、ホカによむ本がないので仕方ないからだいぶ御経をよんだ。」

「辻潤書簡集」83では次のようになっている。
「啓発」→「啓蒙」。「悪口を云つた」→「悪口をいえた」。「アドレスを」→「アドレス」。「置くつもりだし死んだら」→「置くつもりだ。死んだら」
「怠屈」は当時の用法であるかもしれない。
「千葉大尽」は、千葉正治のこと、辻潤は「マーヤ先生」とも愛称した。〈菅野青顔「萬有流転」『三陸新報』1975.1.26〉

98山本正一11.2奈良県添上郡柳生村 芳徳寺内   年月日順の筈だが、順序がデタラメ。1942年と推定される。
「マコトも許可の下り次等、天津の新聞社とかに就職するとのことなれど」とあるが、「次等」は「次第」。
99山本正一10.13板橋区石神井関町 慈雲堂内ハガキ  1933年と推定される。
102山本正一1.19板橋区石神井関町 慈雲堂内ハガキ  1934.9.17の書簡の次に置かれているが、1934年と推定され、順序がおかしい。
103山本正一1943.6.15目黒区洗足1285ハガキ  目黒区洗足1285という住所から推して、1943年ではなく、1933年だろう。
105山本正一1943.11.15京都紫野大徳寺 聚光院ハガキ 「月末までいるつもりなり。」とある。しかし、3日後の「辻潤書簡」148 1943.11.18では、広島にいる。1943年ならば、若松流二の安否を気遣い、広島に行こうとしていたので、月末までいるつもりというのは、やや変で、1943年はあやしい。1942年だろうか。
106山本正一1943.7.16横浜市鶴見区北寺尾509ハガキ 「辻潤書簡」86では、北寺尾1509。辻潤自身が書き間違った可能性もあるだろう。
107広野重雄1943.7.24   「辻潤書簡」107は、『本の手帖』第5巻第4号 No.44の「辻潤の手紙四通」にもあるが、「辻潤書簡」の方は例によって、新字・新かな・句読点・行換えなどを直しているが、そのほかに字句の相異がある。よく分からないが、「辻潤の手紙四通」の方が正しそうである。

「辻潤の手紙四通」の2通目〔全文〕:
「 昭和十八年七月二十四日

神奈川県横浜市鶴見区北寺尾一五〇九 津田方より  

今絵をかき一服してゐるところへ君のてがみが来たあまりオダテないでくれ、芳徳寺の和尚が仏画を描いてゐたが目下錬成の方が急がしいのでヤメてゐる、つまり芸術を怠つてゐるのだ、スミでも硯でも筆でもみんなアクビをしてゐる、もつたいないから僕が拝借して自己流に少しばかりやつてみたところ案外おもしろくなつたのでやつてゐる、第一スミだけだからめんどうくさくなくつていい、紙とスミと筆さへあればいつでも描けるからだ。
ドシ/\描いて成金にでもなつてみたいものだ、第一作文なんかよりずつとおもしろく肩のコラないだけでもいい、この画はイタコ案内の表紙を写生したのでまつたく「水郷」のいたりだ、大いに活(ママ)目したまへ、石濤ハダシと云ふところまで行きたいもんだ、そのうちデコボコ仙人でもかいて禅月をアツト云はせてやるつもりだ、とにかくコノ画ハ描きたてのホヤ/\だ
   七月二十四日            辻 潤
  広野重雄様」

「辻潤書簡」107では次のようになっている。
「北寺尾一五〇九」→「北寺尾五一〇九」、「津田方」→「北田方」、「仏画」→「俳画」、「めんどうくさくなくつていい」→「めんどうくさくなくていい」、「活(ママ)目」→「注目」、「禅月」→「緑月」。

「水郷」は、すいごう(スイガウ) or すいきょう(スイキヤウ)。「「水郷」のいたり」は「酔狂(スイキヤウ)のいたり」のシャレだろう。〈『広辞苑』〉
「石濤」・「デコボコ仙人」・「禅月」:不詳。

109広野重雄1944.7.20   「寺にいてたいくつなので僕も画のマネ事を始めた。」とある。1943年と推定される。
「尾形が死んだそうだとのこと」とあるが、尾形は尾形亀之助だろう。1942.12.2に死去〈「尾形亀之助」『日本近代文学大辞典』〉だから、この点でも1943年らしい。
110広野重雄1944.12.26東京市大森区馬込東3ノ585 東館内  「東京市大森区馬込東三ノ五八五 東館内」という住所だから、1935年ということになる。
115山内直孝1940.9.19豊島区駒込3の362 五月堂内   全文:
「  (ハガキ)   昭和十五年九月十九日   115
      豊島区駒込三の三六二 五月堂内
 こないだ○○の飯場で稲垣足穂なる人物と貴公を待っていたのだが、御出現なくはなはだ(傍点)いかん(傍点終)なりき。さて坂口安吾君の○○のアドレスわかっていたら御しらせ願いたい。急に秋冷を覚えてはなはだ心細いこともない。
  秋雨やわれには明日のあてもなし」

『ダダイスト辻潤』p.313にも紹介されている。内容は同じだが、不明文字数などが違っている。

『ダダイスト辻潤』p.313:
「こないだ○○○((不明))飯場で稲垣足穂なる人物と貴公を待っていたのだが、御出現なくはなはだ(傍点)いかん(傍点終)なりき。さて坂口安吾の○〇〇((不明))アドレスわかっていたら御しらせ願いたい。急に秋冷を覚えてはなはだ心細いこともない(ママ)。
 秋雨やわれには明日のあてもなし」

 このハガキは『辻潤著作集』別巻の写真にその一部が写っている(あとでそれを示す)。それを見ると、私は判読に自信がないが、最後のところは、「結句 九月〔十〕のよや われには〔明日〕の あてがなし」、「九月〔十〕のよ 秋雨や われには〔明日〕の あてがなし」、「九月〔十九〕よ 秋雨や われには〔明日〕の あてがなし」あるいは「九月〔十九日〕 秋雨や われには〔明日〕の あてがなし」などとも読める(〔 〕は不明瞭)。玉川信明は、「九月十九日」と読んだということだろうか。スタンプ日付はどうだったのだろう。

122松尾季子1932.3.9東京市  「「ことだま」とその雑誌を送らした筈ですが」とある。どうでもいいかもしれないが、「ことだま」は「ことたま」か。
126松尾季子1933.9.5東京市ハガキ 「二、三日前伊豆の大島からかえったところです。」とある。1933年とあるが、実際は1932年のもので、大島から帰るというのは、大島以後の旅行からという意味ではないかと思う。おそらく、松尾季子には、大島に行くと連絡していて、それから連絡が絶えていたので、「大島からかえった」と書いたのではなかろうか。
 また、「御手紙は拝見しました。いずれ御返事を差し上げるつもりです。」とあるが、1933年にしては、丁寧すぎる言葉遣いのようである。
148松尾季子1944.11.18広島市下柳町七六 高木しるこ店内   大きな問題はないが、『本の手帖』第5巻第4号 No.44の「辻潤の手紙四通」の3通目で、それを示しておく。

「辻潤の手紙四通」の3通目〔全文〕:
「 昭和十八年十一月十八日

広島市下柳町七六高木しるこ店内より 佐賀県武雄町川原へ  

「消息は伊勢の御雪さんがきいてゐると云ふも同然だと思ふ、辻潤は非凡閣の人名辞典にもあるやうに死んでしまつたが「水島流吉」は生きてゐる、尺八を吹いて相変らず乞食生活を続けてゐる、乞食になつても生きてくれと云つたのはだれだつたか、時に牛肉を少しばかり送つてもらひたいもんだ、広島に来ても肉が食へんとはウソのやうな話だ、都合で下ノ関までフグを食ひにゆくかもしれんから都合がよかつたら下ノ関まで出て来ないか、君の友達の質屋の嫁さんはどうしたかね、アニキは健在かね、御雪さんの姉さんの旦那さんが死んださうだね、都合がよかつたら佐賀へ行くかもしれん、御雪さんの家へとまれるから君の家に心配をかける必用(?)はなかろう、ケイサツも僕を安全人物と認めてゐるらしいから万事安心だ、いつかのやうな目に会つてはやりきれん。
京都ではたいてい紫野大徳寺の聚光院か金閣寺に滞在してゐる、こんだも昨日京都からこちらへやつて来たのだ、どこかから金が来るまでゐるつもりだ、君にも久しぶりで少し無心をしたい、呑み代を少し送つてくれ、水島流吉だからそのつもりでゐてもらひたい、いづれ御目にかかつて万々御両親によろしく、伯父さんはどうしたかね
   十一月十八日          水島生
   松尾季子様」

「辻潤書簡」148では次のようになっている。
「消息は伊勢の御雪さんがきいてゐると云ふも同然だと思ふ」→「消息は伊勢の御雪さんがきいてゐる。そちらも同然だと思う」。「非凡閣の人名辞典」→「非凡閣人名辞典」。「時に牛肉を」→「時々牛肉を」。「質屋の嫁さん」→「質屋の娘さん」。「ケイサツも僕を安全人物と認めてゐるらしいから万事安心だ」→「ケイサツも僕を安全人物と認めているらしいから。/ 家の方安心だ」。「無心」→「無心(○傍点)」。

153松尾季子1944.1.26 ハガキ 「昨秋大森でハガキを一枚かいた。」とある。昨秋ならば、1943年秋。「辻潤書簡」152 1944.1.25 が大森からのハガキ。「昨秋」は「昨夜」の間違いだろう。
「去年の正月から二、三ケ月で完成した『美への意思』というホンヤク物もそのままになっている。」とあるが、「正月」は「五月」の誤読と判断する。理由は、「辻潤年譜 Tada of Alangri-Gloriban」で述べている。
159松尾季子1944.2.10 封書 「辻潤書簡」159は、「辻潤の手紙四通」の4通目である。小異があるが、そんなに問題になるものではない。
 この手紙は、大学ノートの純5枚の裏表に鉛筆の細字でギッシリ詰めたものという〈安波道人(かんのせいがん)「空華帖」『三陸新報』1954.12.5〉。

「辻潤の手紙四通」の4通目 1944年2月10日、松尾季子宛て〔全文〕:
「 昭和十九年二月十日

東京都淀橋区上落合一ノ三〇八静怡寮より  
久留米市旭町旭寮あて           

 松尾とし子様
今日ハガキを出してかへつて来たら四日付の君のテガミが来てゐた。それでこの返事を書く。「なによりも最後まで俺を信じてくれ」(??)盲信してくれ、今に君に俺の「全貌」をしらせる日が来るから。己がキチガイやアホオにミエルのはアタリまへだ。キミがアホオでなかつたら決してオレのやうな人間に執着することは出来ない。ボオドレヱルは「陰気人で、むずかしやで、ダンディ(シャレ者)で、狂人で、緑色に染め、冒涜を吐き散らし、意地ワルで、絶望的で、悪魔で、自由人で、聖者で、酔払ひ!」だと云はれた。己も「自己愚弄の天才」だ。しかし、常識も多分にあると自惚れてい(?)る。
フトンがないから毛布一枚かぶつて、毎晩ゴロネをして夜中に四度位ゐ小便にオキルからネルヒマがナイ。コンヤは徹夜して書くつもりだ。机もないからかりたトランクの上でコレを書いてゐる。
君が今迄オレの書いたモノをもつとよくよんでくれてゐればツマラヌグチは云へない筈だ。「癡人の独語」でももう一度よくよみかへしてみてもらひたい。一昨年の秋の末から去年の六月まで奈良の笠置山から月ケ瀬に向つた方へ一里あまり入つた芳徳寺と云ふ寺にゐた。そこで「大般若経」と「華厳」と「楞伽経」とその他の経典をタイクツマギレによんだがたいして啓発されはしなかつた。法然が最後に経典にアイソをつかしてナムアミダブツにすがつたのは如何にももつともだと思ふ。智識の追求は人間の尤も(?)ヒドイ迷妄だが、やはり一度突(つき)つめて自分でやつてみた上でなければわからぬ。
盤桂禅師の「不生」の説教でも楞伽経の「諸法は唯心の所現」だと云ふのも、般若経の「色即是空空即是色」でも、理窟はわかつてもそれを自分の自常の行為として実践することは中々容易に出来るものではない。己は四年ばかり前に大徳寺で一週間大摂心の座禅をやつてみたがたいして得るところがなかつた。禅の本では鈴木大拙氏の「無心と云ふこと」と云ふ本をヨメば、大いによくわかる。これだけで禅宗のリクツだけは沢山だ。中国の禅書では黄檗の「伝心法要」と云ふのがよくわかる。私は永嘉大師(??)の「証道歌」の「妄想を除かず真を求めず」と云ふ言葉に昔からカンシンしてゐる。ツマリ妄想を除かうとしたり、真理を求めたりすることがダメなのだ。しかし、始めから求めた事のない人間は勿論、問題外だ。去年芳徳寺で書いたものからの抜粹――
「自分は真実だけを書かうとは思はない。書かうと思つたところで書けるわけはないからである。寧ろ自分の心に浮む(?)馬鹿/\しい Whisn(?) (キマグレ)をなるべく書きたいと思ふ。なぜなら、たいていの人間がやらないからである。自分のやうな阿呆な人間でもなければこんなことはやらないからだ。聖賢の口マネや、高尚な詩人の空想のマネなどはモハヤ沢山だと云ふ気がする。
「無限とか永遠とか云ふ観念を直線的に考へるとわけがわからなくなる。しかし、それを円形的に考へると少しはわかるやうな気がする。現在がいつでも始まりで終りである。自分は生まれたばかりの幼児とたいしてかはりはないと思へば気楽になる。夢(?)我夢中でわけのわからぬことでもシャベレルと思ふからだ。
      ×
「愈々 "Decline and Fall of the Human-Empire"――人類帝国の衰亡と凋落」が近づいてきたやうだ。「デイヱス・イレヱネ」(神の怒りの日)(「最後の審判の日」)だらうと、なんだらうとコッチの知つたことではない。俺は相変わらず "Falln(?) Empire" のキングでメシがクヱ(?)ンだけだ。雲や霞は食ひアキたから血の滴たるビフテキでも、タアキイ(七面鳥)の丸やきでも、ナマコの天プラでもなんでも思ひきつてドギツイ悪食がしてみたい。毎晩クイ(?)物の夢ばかりみてゐる。「文学」も「哲学」も、と云ふより、一切の「文明」とか「文化」とか、シヤラクサイものを根こそぎテンプクして、人間をミイラの干物みたいにして、泥沼の中を這づりまはらしてやりたいと思つてゐる。さうしたら少しは眼が醒めるだらう。デグウ!だ。(虫づが走ると云ふやうな意味、フランス語)/ゆうべは久しぶりで唐のカンコロリンに会つて飴玉を御馳走になつたら、不思議に心が蕩けてきて、鼻の下がイヤにながくなつたり、耳の端ヘゴンベイが生えたりして、自分がいつのまにかチャンチャンコを着た与太郎みたいになつた。口からやたらに涎れが出て来て、ロレツがまはらなくなつてきた。それからいつの間にかカンコロりンと二人で、上海四馬路の茶館で蘭茶を呑んでゐたら、(傍点)変桃源(傍点)(コレハ「ヴヱトウベン」の語呂)だと云ふ音楽家に会つた。なんでもカンコロリンの友人だとか云ふのだが、まるで「花子」さん(乞食のことだ)さんみたいで胡弓のやうな楽器を持つてゐた。ソイツを鳴らしながら、変な声をしてなにか歌ひ出した。まるでオケラの鳴くやうな声だ。なにしろ、始めが「シュウシュウシュウトクトウケンケン」と云ふのだが、それを何遍もくりかえして唱へたから「シュウ/\/\トクトウケン/\」だけは覚えたが、あとはサッパリわからない。全体、なんの歌だねときくとカンコロリンは、そばで、「アッハッハ/\」と大口をあいて笑つてゐる。変桃源も唯だニヤ/\してゐるばかりだ。後でわかつたが、それは例の(傍点)呂純陽(傍点)と云ふ仙人の歌で、変桃源が作曲したのだと云ふのだ。それから、その歌の文句をかへる時に紙に書いて置いて行つた。みると一向平凡な歌で、仙人の親分ならもう少し気のきいたものを書きさうなものだと思つた。しかし、まづ折角だから一寸紹介して置く。題は
    得大還丹
修修修得到乾乾 方是人間一酔仙 世上光陰惟短景 洞中花木佳長年 形飛山+昌壁非凡骨 神在玄宮別在天…それからなんとかして「玄外問玄々」と云つたやうなものだ。
      ×
サンデイ毎日の記事と云ふのはどんなこと書いてあつたか忘れたが多分僕が京都の岩倉病院にゐた時に小南博士と問答した筆記なので、いい加減なものだ。しかしあれによつて、専門の博士から僕がキチガイではないと云ふことを証明してもらつたので大いに安心してゐる。
今井のお雪さんはなにを考へてゐるのだか、どうも女は自分に関係のないことにもヤキモチをやくから困る。実は君のてがみもそのまま入れてやつて、かう云ふてがみが来たから、たのむと云つてやつただけだ。今井のアニキの方は僕を信用してくれてゐるやうだが、弟の方はマルデダメだ。僕を一度「乞食!」と云つて罵つたことさへあつた。乞食と云はれても別段僕は怒りもしないが、アイツのバカには夙に呆れてゐるのだ。バカで恐ろしくケチン棒(?)だ。
      ×
わるいにもいいにもサケなんか呑めはしないあつたところでカネがない。毎日本を売つたりして友達のトコロヘ出かけて少しづつ小づかい銭にありついてゐるだけだ。ここのアパートの管理人はかつて僕がフランスにゐる間、それからかへつてからもコドモをつれて二年ばかり僕のトコロで食客をしてゐたことがあるから、僕にはアタマがあがらないのだらう、とにかく一月や二月位僕を食はせてくれても別に不思議はないと思ふ。しかし、今では前のコドモが死にあたらしいサイクンをもらひ、もうコドモが二人ゐる。サイクンは女中あがりの無智な女で、僕を邪魔物扱ひにして頗るギヤクタイする。コチラは馬耳東風でやつてゐる。なにしろ、野宿もしないで当分ゐられるので気持ちが稍や落ちつき、この十日ばかりやつとメシをマンゾクに食つてゐるのでからだの具合は順調にフクしたがなにしろ長いあいだ、食つたり食はなかつたり、スイミン不足の乞食生活をしたのでその疲労が仲々(?)カイフクしない。近頃毎日ニンニクを五つ六つ食つてゐる。やつと少しカラダが元気になつてきた。
      ×
十日午後二時半、今しがた小包が届いたありがたう。早速ひらいて今ニヌキ(?)を二つたべたところだ。管理人に海苔を半分やつた。御砂糖が来たから紅茶でも買はうと思つてゐる。なにしろサトウは実に欠乏してゐる。モチがきたらどこかでシルコをこしらへてもらつて食はうと思つてゐる。上総の大原(流二の実家)へ行くとササギがあるが、往復十円程持たなければ出かけられない。
このテガミと一緒に「書物展望」の九月号だけを送る。八月号はまた後からサガシテ来ておくる。
君は僕の本をなにとなにを持つてゐるか? 知らせてくれ。僕は自分の本を一冊も手許にもつてゐないのだ。
僕を認めて敬意を払つてくれたのは萩原朔太郎だけだ。白秋も佐藤惣之助も三上於菟吉もみんな死んだ。無想庵は殆ど盲目に近い、オレだけがまづピン/\してゐるだけだ。みんな年をとるとダメになるのでなつてゐない。こないだ佐藤春夫の悪口を書いて谷崎潤一郎に文学論をフッカケてやつたが返事をヨコサない。森三千代と同棲してゐる金子光晴と云ふ詩人は僕を尊敬してくれて、ゆくと小遣をだまつてゐてもくれる。三千代が景気がいいからだ。高村光太郎もなんとかいう海軍大将が死んだ時に、胸がせまつて、途中で詩が書けなくなつたと云ふやうな詩を書いてゐるがドウカと思ふ。そんな感激があればほんとうに素晴らしいが怪しいものだ。便乗連はみないい加減な心にもないヨタを書いてオベッカをつかはなければ生きてゆけないのはまことに意久地なしで気の毒で、ザマはない。
オレも「文学報国会員」のひとりになつてゐるさうだがまだ一度も会合に出席したこともなければ原稿の注文を受けたこともない。木村毅の名前で出てゐる非凡閣の人名辞典にはオレが放浪中に死んだことになつてゐる。オレは亡者だ。バカにしてゐやがる。こんど一度木村に会つて油を絞つてやらうと思つてゐる。みんな野ダイコみたいな野郎ばかりでイヤになつてくる。
      ×
なる程、こないだのハガキは少し乱暴だと思つた。以後慎しむことにする。オレの「日本精神」はいづれまとめて書くつもりだ。オレはまだメリケン主義や英国の俗物文学にカンシンしたことなど一度だつてありはしない。オレの本をよめば昔からオレが立派な日本主義だと云ふことがワカル筈だ。「インチキ日本精神」とは凡そ比較にはならない。
こんどはこれだけにする。」

「辻潤書簡」159では、次のようになっている。「辻潤書簡」159が正しいこともありそうである。
「智識の追求は人間の尤もヒドイ迷妄だが、やはり一度突(つき)つめて自分でやつてみた上でなければわからぬ。」→「智識の追求は人間のもっともヒドイ迷妄だが、やはり一度突きつめて自分でやってみた上でなければ到底アキラメはつかない。「桃水や良寛」などの気持ちはその当人の気持ちになってみなけれぱわからぬ。」、「Whisn」→「Whim」、「世上光陰惟短景」→「世上光陰惟短景(ママ)」。「形飛山+昌壁非凡骨」→「形飛嶋壁非凡骨」。

「"Falln(?) Empire" のキングでメシがクヱ(?)ンだけだ。」とある。「クヱン」は「クヘン」が正しいカナ遣いだが、「king」と「queen」のシャレ。

「辻潤の手紙四通」の4通目・「辻潤書簡」159、どちらにも「今ニヌキ」とあるが、「今ニヤキ」ではないか。今川焼を伊万里焼の類推で「今ニヤキ」にしたか、なったのではないか。伊万里は、松尾季子のいる佐賀県だから。筆がすべって「ヤ」が「ヌ」のようになったのだろう。

「カンコロリン」に関する内容はよく分からない。

 菅野青顔「空華帖」1956.5.6・13・20でも、この手紙が紹介されている。日付はない。一部、新聞の漢字制限によるのか、一部の漢字がカナ書きに変えられているらしい。かな遣いは保存されている。小異があり、これも、誤植・誤記の問題が多い。全文を、そのまま示す。

 辻潤の手紙〔全文〕〈菅野青顔「空華帖」1956.5.6・13・20〉:
「今日ハガキを出してかへつて来たら四日附のテガミが来てゐた。それでこの返事を書く。「なによりも最後まで俺を信じてくれ、盲信してくれ/今に君に俺の全貌をしらせる日が来るから、己がキチガイヤアホオにミエルのはアタリまえだ。キミがアホオでなかつたら決してオレのやうな人間に執着することは出来ない。ボオドレエルは"陰気人で、むずかしやでダンデイ(シヤレ者)で、狂人で、髪を緑色に染め、冒とくを吐き散らし/意地ワルで、絶望的で、悪魔で、自由人で、聖者で、酔払ひ"だと云はれた。己も「自己愚弄の天才」だ。しかし、常識も多分にあると自惚れてゐる。
 フトンがないから毛布一枚かぶつて毎晩ゴロネをして、夜中に四度位ゐ小便にオキルからヒマガナイ、コンヤは徹夜して書くつもりだ。机もないからかりたトランクの上でコレを書いてゐる。
君が今迄オイ(?)の書いたモノをもつとよくよんでくれてゐればツマラヌグチは云へない筈だ。「痴人の独語」でももう一度よくよみかへしてみてもらひたい。一昨年の秋の末から去年の六月まで奈良の笠置山から月ケ瀬に向つた方へ一里あまり入つた芳徳寺と云ふ寺にゐた。
そこで「大般若経」と「華厳」と「りよう伽経」とその他の経典をタイクツマギレによんだがたいして啓発されはしなかつた法然が最後に経典にアイソをつかしてナムアミダブツにすがつたのは如何にも尤もだと思ふ。知識の追求は人間のもつともヒドイ迷妄だが、やはり一度突つめて自分でやつてみた上でなければ到底アキラメはつかない。「桃水や良寛」などの気持はその当人の気持ちになつてみなけれぱわからぬ。
盤桂ぜん師の「不生」の説教でもりよう伽経の"諸法は唯心の所現"だと云ふのも、般若経の「色即是空空即是色"でも、理くつはわかつてもそれを自分の自常の行為として実践することは中々容易に出来るものではない。己は四年ばかり前に大徳寺で一週間大摂心の座ぜんをやつてみたがたいして得るところがなかつた/ぜんの本では鈴木大拙氏の「無心と云ふこと"と云ふ本をヨメば大たいよくわかる。これだけでぜん宗のリクツだけは沢山だ。中国のぜん書では黄ばくかの「伝心法要"と云ふのが一番よくわかる。私は永嘉大師の「証道歌」の「妄想を除かず真を求めず"と云ふ言葉に昔からカンシンしてゐる/ツマリ妄想を除かうとしたり/真理を求めたりすることがダメなのだ。しかし始めから求めた事のない人間は勿論問題外だ。去年芳徳寺で書いたものからの抜すい―
「自分は真実だけを書かうとは思はない。書かうと思つたところで書けるわけではないからである。寧ろ自分の心に浮む(?)馬鹿々々しい WHIM(?) (キマグレ)をなるべく書きたいと思ふ。なぜならたいていの人間がやらないからである。自分のやうな阿呆な人間ででもなければこんなことはやらないからだ。聖賢の口マネや、高尚な詩人の空想のマネなどはモハヤ沢山だと云ふ気がする。
 無限とか永遠とか云ふ観念を直線的に考へるとわけがわからなくなる。しかしそれを図形的に考へると少しはわかるやうな気がする。現在がいつでも始まりで終りである。自分は生れたばかりの幼児とたいしてかはりはないと思へば気楽になれる。夢(?)我夢中でわけのわからぬことでもシヤベレルと思ふからだ。

愈々 DecIine(?) and Tall(?)-ot(?) the Human-Empire(人類帝国の衰亡と凋落)が近づいてきたやうだ。「デイヱス・イレヱネ」(神の怒りの日。最後の審判の日)だらうとなんだらうとコツチの知つたことではない。俺は相変らず凋落帝国のキングでメシがクヱ(?)ンだけだ。雲や霞は食ひアキたらから(?)血の滴たるビステキ(?)でも、タアキイの丸やきでも、ナマコの天ぷらでもなんでも思ひきつてドギツイ悪食がしてみたい。毎晩クイ(?)物の夢ばかりみる。「文学」も「哲学」も、と云ふより/一切の「文明」とか「文化」とかシヤラクサイものを根こそぎテンプクして人間をミイラの干物みたいにして、泥沼の中を這づりまわらせて(?)やりたいと思つてゐる。さうしたら少しは眼が醒めるだらう。デグウ!だ。(虫づが直(?)ると云ふやうな土百姓(?)、ウ(?)ランス語)
ゆうべは久しぶりで唐のカンコロリンに会つて飴玉を御馳走になつたら、不思議に心が蕩けてきて、鼻の下がイヤにながくなつたり、耳の端ヘゴンベイが生えたりして、自分がいつのまにかチヤンチヤンコを着た与太郎みたいになつた。口からやたらによだれが出て来て、ロレツがまわ(?)らなくなつてきた。それからいつの間にかカンコロりンと二人で、上海四馬路の茶館で蘭茶を呑んでゐたら変桃源(コレハ「ヴヱトウベン」の語呂だ)と云ふ音楽家に会つた。なんでもカンコロリンの友人だとか云ふのだが、まるで「花子」さん(乞食の事だ)さんみたいでこ弓のやうな楽器を持つてゐた。ソイツを鳴らしながら、変な声をしてなにか歌ひ出した。まるでオケラの鳴くやうな声だ。なにしろ/始めが「シユウシユウシユウトクトクケンケン」と云ふのだが/それを何辺もくりかえして唱へたから「シユウシユウシユウトクトウケンケン」だけは覚えたが、あとはサツパリわからない/全体、なんの歌だねときくと、カンコロリンはそばで、「アツハツハアツハツハ」と大口をあいて笑つてゐる。変桃源も唯だニヤニヤしてゐるばかりだ。後でわかつたが、それは例の呂純陽と云ふ仙人の歌で変桃源が作曲したのだと云ふのだ。それからその歌の文句をかへる時に紙に書いて置いて行つた。みると一向平凡な歌で、仙人の親分ならもう少し気のきいたものを書きさうなものだと思つた。しかし、まづ折角だから一寸紹介して置く。題は
    得大還丹
修修修得到乾乾。方是人間一酔仙。世上光陰い短景。洞中花木住長年。形飛せう壁こう凡骨。神在玄宮別在天。…それからなんとかして「玄外問玄々」と云つたやうなものだ。
サンデイ毎日の記事と云ふのはどんなこと書いてあつたか忘れたが多分僕が京都の岩倉病院にゐた時に小南博士と問答した筆記なのでいい加減なものだ。しかし、あれによつて、専門の博士から僕がキチガイではないと云ふことを証明してもらつたので大いに安心してゐる。
○○の××さんはなにを考へてゐるのだかどうも女は自分に関係のないことにもヤキモチをやくから困る。実は君のてがみをそのまゝ入れてやつて、かう云ふてがみが来たから、たのむと云つてやつただけだ。○○のアニキの方は僕を信用してくれてゐるやうだが、弟の方はマルでダメだ。僕を一度「乞食」と云つてののしつたことさへあつた。乞食と云はれても別段僕は怒りもしないがアイツのバカには夙に呆れてゐるのだ。バカで恐ろしくケチン棒(?)だ。
 わるいもいゝにもサケなんか呑めはしない。あつたところでカネがない/毎日本を売つたり、友達のトコロヘ出かけて少しづつ小づかい銭にありついてゐるだけだ。此処のアパートの管理人はかつて僕がフランスにゐる間、それからかへつてからもコドモをつれて二年ばかり僕のトコロで食客をしてゐたことがあるから、僕にはアタマがあがらないのだらう、とにかく一月や二月位僕を食はせてくれてても別に不思議はないと思ふ。しかし/今では前のコドモが死にあたらしいサイクンをもらひ、もうコドモが二人もゐる。サイクンは女中あがりの無智な女で、僕を邪魔物扱ひにして頗るギヤクタイするが、コチラは馬耳東風でやつてゐる。なにしろ野宿もしないで、当分ゐられるので気持が稍や落ちつき、この十日ばかりやつとメシをマンゾクに食つてゐるので、からだの具合も順調にフクしたが、なにしろ長いあいだ、食つたり食はなかつたり、スイミン不足の乞食生活をしたのでその疲労が中々カイフクしない。近頃毎日ニンニクを五ツ六ツ食つてゐる。やつと少しカラダが元気になつてきた。
十日午後二時半、今しがた小包が届いたありがたう。早速ひらいて今ニヌキ(?)を二ツたべたところだ。管理人に海苔を半分やつた。御砂糖が来たから紅茶でも買はうと思つてゐる。なにしろサトウは実に缺乏してゐる、モチがきたらどこかでシルコをこしらへてもらつて食はうと思つてゐる。上総の大原へ(流二の実家)へ行くとササギがあるが、往復十円程持たなければ出かけられない。このテガミと一緒に「書物展望」の九月号だけを送る。八月号はまた後からサガシテ来ておくる。君は僕の本をなにとなにを持つてゐるのか?知らせてくれ。僕は自分の本を一冊も手許にもつてゐないのだ。僕を認めて敬意を払つてくれたのは萩原朔太郎だけだ。
白秋も佐藤惣之助も三上於と吉もみんな死んだ。無想庵は殆んど盲目に近い、オレだけがまづピンピンしてゐるだけだ。みんな年をとるとダメになるのでなつてゐない。こないだ佐藤春夫の悪口を書いて谷崎潤一郎に文学論をフツカケてやつたが返事をヨコサない。森三千代と同棲してゐる金子光晴と云ふ詩人は僕を尊敬してくれて、ゆくと小遣をだまつてゐてもくれる。三千代が景気がいゝからだ。
高村光太郎もなんとかいう海軍大慰(?)が死んだ時に胸がせまつて、途中で詩が書けなくなつたと云ふやうな詩を書いてゐるが、ドウカと思ふ。そんな感激があればほんとうに素晴らしいが怪しいものだ。便乗連はみないい加減な心にもないヨタを書いてオベツカをつかはなければ生きてゆけないのはまことに意久地なしで、気の毒で、ザマはない。オレも「文学報国会員」のひとりになつてゐるさうだがまだ一度も会合に出席したこともなければ原稿の注文を受けたこともない。木村毅の名前で出てゐる非凡閣の人名辞典にはオレが泡(?)浪中に死んだことになつてゐる。オレは亡者だ。バカにしてゐやがる。こんだ一度木村に合(?)つて油絞つてやらうと思つてゐる。みんな野ダイコみたいな野郎ばかりでイヤになつてくる。
なる程、こないだのハガキは少し乱暴だと思つた。以後慎しむことにする。オレの"日本精神"はいづれまとめて書くつもりだ。オレはまだメリケン主義や英国の俗物文学にカンシンしたことなど一度だつてありはしない。オレの本をよめば昔からオレが立派な日本主義だと云ふことがワカル筈だ。インチキ日本精神とは凡そ比較にはならない。こんどはこれだけにする。」

『辻潤選集』「辻潤書簡集」未収録

「消息」〔『実験教育指針』〕・「巴里コンニャク問答」など、作品として発表されているものなどを除いて、『辻潤選集』「辻潤書簡集」に収録されていない書簡。

宛先名年月日(推定を含む)宛先住所差出住所(差出人)形態書簡の出典

内容・説明
 
武林無想庵 1920.2       武林無想庵「放浪第二信」
『辻潤全集』第4巻の「無想庵への手紙」。「金がこないので未だ僕は山の上にグツグツしている。」とあるが、「グツグツ」は「グヅグヅ」or「グズグズ」。
中西悟堂 1922.12頃       『愛鳥自伝』下 pp.77-78
「『東京市』を手にして僕は荘然自失した。なんという君は馬鹿馬鹿しくも驚嘆に価する都会のエンサイクロペディヤを書き飛ばしたものか。恐るべき盛り沢山のボカブュレール――君は生れながらのダダイストだ。あまりに目まぐるしい万華鏡の南京玉の行列にはさすがの小生もめんくらった。――だが、これをみんな詰め込まれた日には胃袋が即座に破裂して脳天が亀裂(ひびわ)れる。――助けてくれ」
古賀光二 1923.1       「陀々羅行脚」2
「陀々羅行脚」2:
「 雑誌を受け取った時に僕は――
「ダダ落手。テイサイその他僕は一切干渉しないから、君の好きなようにやったがよかろう。新吉の原稿送る。彼ダイブよくなったようだ。Kという人のとOという人の詩面白かった。君のはイカンながら感服出来ぬ。無法庵にもキカイがあったらいっておこう。雑誌送るのはよいが売れるかどうかわからない――アテにしないでくれ。金がいくらあるのか知れないが、あんまり損をしないようにやりたまえ」
「君の病気はどうなのか僕は今まであんまりゴエンがありすぎるので、少しも気にはしないが、君の元気なら大丈夫だろう。だがあんまりムチャをしない方がいい。ムチャなことをするばかりがダダの能じゃないよ。君にはマザアはないのか? もう少し詳しく境遇を知らせたまえ――」というような返事を出した。
 それからまた度々手紙をよこした――九州の方にもかなりダダの共鳴者がいるから、一度遊びながら福岡へこないかというのだ――それに対して機会があったら行きたいと曖昧な返事を出しておいた」
小島清 1923.4.7       『辻潤への愛』
 小島清「酒の匂ふ人生図絵」『辻潤への愛』pp.53-55:
「 当時彼は川崎の路地の奥の古ぼけた二階家に住んでゐました。お母さんと野枝の置いて行ったまこと君と、洋服仕立業をしてみる弟義郎と住んでゐました。その頃はたまには「改造」などから原稿の注文がきたりして、そうおどろく程の貧乏生活でもありませんでした。たまたま彼が九州の佐賀にゐる彼のファンの古賀と云ふ青年(この青年はズートのち自殺して消えました)のとこへ旅行した時に、私宛にくれた、まことに神妙至極な手紙を次に書いて見ます。

「私は今、たいへん素直な幸福な気持でゐる。で、一寸書きたくなった。自分は今、飛んでもないことを空想してゐる。――それは飛んでもない事ではない――なんだかスグ実現出来そうだ。
 僕は、君をスッカリ信頼して、君に僕の、霊魂と肉体をあづけて、一生懸命に仕事をして、ほんとうに、もう充実しきった、――生活をしたくなった。こんどかえったら、僕はもう、酒をほんとうに、少なく呑んで、自分の力一杯に仕事をしてみたい。君を助手にして、ウゾウムゾウと絶縁して、僕の全部を叩き込んで勉強する。キットやってみせる。僕は、とにかく、君が来てくれてから、かなりな落着きの出来たことを今ハッキリ感じることができた。どうか、僕のこのおかしくも不思議な計画を笑はないでくれ。僕は、自分の周囲を必ず幸福にしてみせる。――僕はもう、なんと云っても、自分のたましいの土台石を発見したやうに感じてゐる。どうか、君もそのつもりで、努力してくれ給え。お願いする。少し武者小路染みてゐるが。――これは一時の昂奮ではなく、この十日間あまり、一人で静かに考へた結果だ。――もし、こんど、それが出来なければ、もう僕は駄目だ。君に、その気が起らなければ僕は君と絶縁するより仕方がない。これが僕のダダイズムだ。古賀も、こんど、新しく得た友達によって永く続けてゆける雑誌を出す。――これがうまくゆけばたいへん古賀の為にもいい。そして、君にも毎月、書かせると云ふのだ。――僕は四十にして、始めて、実際生活に於ける理想主義を生活しようとしてゐる。――根抵(?)は勿論、今迄より更に悲痛なニヒリズムだ。僕は免に角、今幸福だ。――恐ろしく安心してゐる。――まるで神様でも信じてゐるやうに。

 辻潤が書いたと思えないようなアイデァーの充満した手紙です。私に彼はこうした長い手紙を書いたのです。大体、若い頃、彼は稀に見る真摯な青年だったと思はれます。そして四十才の頃、私と一緒に生活を始めた頃でもこうした生一本な眞摯な精神をしん底では持ってゐたのですが――」

『辻潤への愛』pp.56-57:
「 ここで少々大事なことにふれねばなるまい。と云うのは、オリオン社から出ている松尾邦之助編の『ニヒリスト・辻潤の思想と生活(?)』によれば、いまキヨの文中に出てきた、キヨあての辻潤の手紙が、昭和三年四月七日の日付で、パリから出されたことになっていたからである。さらに論創社の玉川信明氏の『ダダイスト辻潤』では、日付のあとに追伸がついている。
「この手紙を読む人は、恐らく十七、八の少年が恋人に宛てた決心の程が窺えるだろう。『僕は、もう、なんと云っても、自分のたましいの土台石を発見したように感じている。どうか、君もそのつもりで、努力してくれ給え……』」
 私の手元には、いまキヨの草稿はあるが手紙はない。しかし、句読点や行がえにちがいがある程度で、文脈にはいささかのずれもない。おそらくのち、生活に困窮して、松尾邦之助あたりに頼んでだれかに売り渡したのだろう。だが、六十三才のこの作品を書いているときには、まちがいなく手許にあったはずであった。
 日付の点をのぞけば、他にこの手紙がパリから来たという根拠はまったくない。文中、「僕は四十にして」とあり、これをたどっても大正十二年である。古賀光二という青年も、まちがいなくダダイズムの雑誌を出そうとして、九州で健在だった。」
「 玉川信明氏の本には、もうひとつのまちがいがある。氏は、このときの辻の四国、九州陀々羅行脚を、関東大震後の旅行に混同しているが、これは、大正十二年三月、キヨの実家へはじめて旅行した折おこなわれたものだった。広島駅に辻潤を出迎えたキヨも、むろん大きなお腹をかかえるはずもなかった。大震災後であれば九月以後であるが、提の柳が新芽を吹いているはずもなかった。辻のキヨあての手紙は、このとき実家あてにとどけられたものだった。四月七日の日付だけは正確であろう。ついでにいまひとつ、キヨは女学生時代に、古本屋で『人間篇』をみつけて読んだらしいとあるが、『人間篇』はまだ出ていない。これはキヨ自身にも記憶ちがいがあるが、なおしておきたい。」

『ダダイスト辻潤』中の手紙は、pp.219-220。「昭和三年四月七日」という日付が追伸の前に明記されていたことになっている。追伸部分は、ほぼ『辻潤への愛』で示された通り。カギカッコ部分は何かからの引用なのだろうか。

『ダダイスト辻潤』p.220:
「 この手紙を読む人は、恐らく十七、八の少年が恋人に宛てた決心の程が窺えるだろう。「僕は、もう、なんと云っても、自分のたましいの土台石を発見したように感じている。どうか、君もそのつもりで、努力してくれ給え……」」

『ニヒリスト 辻潤の思想と生涯』中の手紙は、pp.294-295。おそらく編者による「昭和三年四月七日」という日付が付けられ、追伸はない。

 この手紙の写真が『辻潤著作集』別巻にある。用紙2枚だが、それが便箋2枚なのか、台紙の上に便箋があるのかは、はっきりしない。小島清「酒の匂ふ人生図絵」が示しているのは、写真に写っている全文であることが分かる。最後に月日が書かれているが、線を引いて書き直しているのだろうか。「四月七日」と読んでよいのかははっきりしない。「四月二七日」のようでもある。

小島清 1928       玉生清「辻潤の思い出」
 玉生清「辻潤の思い出」:
「こっちの生活は仕事のできるようにできている。実にウルサクなくていい。毎日酒を呑んで、グラグラしているのは全くバカみたいなものだ。パリ人に生まれなかったことはいかにも残念だ。今更ダメだ。
 なにしても、人生は迷妄だから――迷妄が消えた刹那は人間が存在の正体と顔をつき合す時だ」
また、
「 お相互に縁があって知り合った同志なのだからせめて生きている間だけはお相互に慰さめ合って生きて行くより仕方がない――それ以外にはなんにもないと云うよりどうすることもできない。お可笑な話だ――全くあまり馬鹿馬鹿しくって笑はずにはいられないよ。最後は笑いだ。苦しんだり悲しんだりしたところで誰もどうしてくれるわけはない。
 ナムアミダブツ――なんにもわからぬ。秋生はさぞ可愛くなったことだろう――ベットの上にころがってひとりで静かにしている。この時が僕の極楽だ。なんにもほしくない。
 毎日の瑣末の事をせめてその時々に楽しんで行くほかになんとすることもできない。――せめて健康位のことだ――それ以上のものを望むのは愚かなことだ。
――全くつまらない生活を続けてゆくのはやり切れないが、僕のような人間でも人の為にいた方がいくらかいいのかと思うと不思議な気がする――ずいぷんわがままなつまらぬ人間なのだがね。
――しかし、日本はダンダンウルサクなるばかりだと思うとイヤになってしまう。パリ人に生まれなかったから、どうも仕方がない。」

 この手紙の写真と思われるものが『ニヒリスト  辻潤の思想と生涯』にある。便箋2枚なのか、1枚は台紙なのか。封筒には、小島キヨ様という宛名などがかろうじて読める。横文字が書かれているからパリからの手紙のようであるが、この手紙であるかどうかは分からない。もし、この手紙だとすれば。玉生清「辻潤の思い出」に示されている文章の段落数などから推して、便箋2枚であるかもしれない。

小島清 1929.11.25       『辻潤全集 月報9』
『辻潤全集 月報9』〔『辻潤全集』別巻〕:
「   小島キヨヘ
           辻  潤

 手紙拝見。
 自分はこんな風に思っているといってみたところで、それを他人が信じなければそれまでの話だ。またハッキリとそれを他人に押しっけることも出来はしまい。だから――僕はいつでも自己弁解という奴のつくづく無意味なのに呆れているのだ。
 君が「ふくむところ」があると思うなら思うがよろしい。そんなことはないといったところで始まらんよ。僕に詫びるところがあると思うなら、他人に一々相談などせずにひとりでかってにやったらどうかね――夫の救いの一言でそれをする必要もないとかんじる程なら、別段改めて僕に詫びる理由もないのじゃあるまいか? 僕は君からわびられるなんにもかんじてもいないし、わびろといったこともないはずだ。
 人間の気持ちというものは天気のようなものだから――そういつも同じようにモン切り型に、今日は雨だから明日は必ず晴れるというわけにもゆかんよ。そうして複雑な人間程そいつがよけいめんどうにこんがらかって、かんたんにはゆかぬものだ。
 己れのところにやってくる人間共はみんな各自かってに、自分で「辻潤」のイリュージョンをこしらえておいて、それにアテはまらぬと色々不平をいったり、ケチをつけたり、幻滅したりするにはまったく僕も降参する。買い被られることはまったく迷惑千万だ。
 君の忠告はありがたく頂戴するが御心配はム用だ――酒クセは益々よくなるばかり、酔えば近頃は「事々物々」――ユカイになり、まったく馬鹿くさい程おかしくなる――もっともこれもいつまで続くかわからんよ。たえず移り変わるのが人間でもあれど、世の中でもある。
 君はまだ若いから中々のアイディヤリストらしいが、「文学」で飯を食うことをあきらめたのはなによりも結構だ。後もとっくにあきらめているのだが、他に能がないので仕方なしにくっついているばかりだ。
 僕は自分一人さえも「文学」で生活できるという自信はない。ジャアナリストになりたいがなれんのだよ――なれるなら、とうの昔になっている。
 だから、これまでだって僕のは「生活」ではなく、なんといっていいかわからぬ「生き方」をしてきた。  人間は「定収入」のない場合に「生活」は不可能だよ。したがって「女」と生活する資格などさらにない。おれがたとえだ――たとえば君としばらく一緒にいたような、あんなのは「生活」とはいわれない。だから、いつでもたまたま木賃宿で落ち合った男女が便宜上しばらく一緒に暮らしたというまでの話だ。
 だが、君にしても普通の家庭生活をする資格を備えているとはまさか思ってもいまいし、そんなことは充分にわかっているはずだ。しかし、今のような世の中で一体何処にそんな立派な、理想的「生活」があるだろうか、考えてみたまえ。
 僕は自分達の「くらし」方を勿論上等だとは思わんが、世間の連中のやっているのと較べると遥かにコッチの方が賢明だと考えるよ。他人の不幸はかんじるが、僕は自分ではあまり不幸とかんじてはいない。――しかし、僕は決して自分の生活をしているとは思っていない。「おふくろ」の生きているうちは彼女の生活をも生きたければならないのだから――これは少なからず僕にとってメイワクな話だ。
 君がまだ母や秋生のために助手にきてくれることはありがたいことだ――少なくとも僕のおふくろは喜んで君を迎えるに相違ない。気心の知れん「小女」をおくよりは勿論よかろう。しかし、二度と絶対にかえらんなどと豪語した君の「おろかさ」を取り消してもらいたいと思う。
 ユキ子はかなりわるいらしいが――近々死ぬようなこともなかろと思う――ハシモトはそれ程わるいとも思えない。
 しかし、当人達はひそかに「死」を覚悟しているらしいが――。
 人の世話をすることは金でもあればやるという程度、その上にどうすることも出来はしない。况んや他人の「生命」を左右することなどは論外だ。
 つまらぬセンチメンタリズムや馬鹿気たアイディアリズムのなくならんかぎり、人間はこのままではとうてい救われんよ。
   仕事上の弁明
   親友、朔太郎の最近の著書より
    反芻獣
 青草の上にねて、静かに楽しげに、牛はその食物を反芻している。かく我々孤独者等がいつも暝(?)想の芝生の上で、長閑かな食欲を楽しんでいる。食うことの悦びではなく、既に胃袋の中にあるところの物をふたたび反芻して舌に味わい、日向の暖かい牧場の隅で、長く懶惰に味わうのである。
    浅間山に登りて
 或る芸術家等の生活は間歇な(?)山にもたとえられる。彼らは長い時日の間死んだように眠っており、何事にもキヨミ(?)がなく、退屈の欠伸を噛み続けている。しかしながら或る朝不意にまた情熱が炎えるのであろう。それから一時に爆発して、なお暫時の間だけ溶岩の美しい火花を噴き続ける。
    偉大なる(?)要素
 ……あらゆる他の場合に於て、天才の一般的範疇は、単純なる道徳的潔癖性を決して持たないということである。より偉大な精神にとってみれば、それが融通の利かない小規範で、一つの「狭量なもの」にすぎないから、宗教に於てさえも、聖者はケッペキにすぎる徳行を悦ばない。かれ等は漠然としており、どこかに不徳を包括する雅量を持っている。
   太々しさの本源
 物臭さからも、人はしばしば傲慢と誤まられる。たとえば義理や、挨拶や、返礼などを欠くことから、しかしながら誤解ではなく、真に太々しく尊大な精神が物臭さの気質に性根づいているのである。

 辻潤によってこの返事を書かれる小島キヨは彼によって軽蔑されていないということを、証拠立てられているのだ。だからといってすぐさま自惚れるようなことがあってはならない。
 小遣いに困ったら一冊の「女人芸術」を携えて、アチコチの酒場の「リャク」にゆきたまえ。返事としての忠告。

               十一月二十五日」

 この手紙について、高木護は、1929年頃に別れているので、その頃の手紙と思われると書いている。手紙の中の「親友、萩原朔太郎の最近の著書より」として示されているのは、『虚妄の正義』からの引用であり、1929年の手紙とほぼ断定できる。
 引用は、『虚妄の正義』の文章と少々違うが、それが、辻潤自身が違えて書いたのか、手紙の判読ミスなのかは分からない(なお、相違の全てに(?)を記していない)。

小島清         『ニヒリスト 辻潤の思想と生涯』
『ニヒリスト 辻潤の思想と生涯』p.295には、「辻潤書簡集」にない小島清あてのもう一つの手紙がある。フランスから小島清にあてた手紙だというが、疑わしい。小島清のところに「今月中に一度ゆくつもりだ」とあるが、フランスにいて、そんなことを書く訳がない。

『ニヒリスト 辻潤の思想と生涯』p.295:

    その2           フランスより小島清宛 

君は僕より若いからセンチメンタルな分子が多いからムリもないが僕はそれがたまらなくいやなことがあるのだ―センチメンタルでは生きてゆけない―死ぬよりほかしやうがあるまい。
秋生はその後どんな風か?―私はヘイゼイいつでも別になる時の覚悟をしてゐるから―父はあれどもなきが如くにしてゐる―行く時にいやだなどと云はれたりしたらどんなおもひがするか考へてもみるがいい――
なるべくスパルタ的に育てる方がコドモの将来のためにいい―あまやかしてはダメだ―君も秋生によって生きてゆければそれにこしたことはない 君の出発したアクル朝叔父の死んだシラセが来た。二日ばかり義理をたした(?)―精神的になんのカンケイもない仕事だ。自分は小心か〜半病人なのかも知れない
秋生が可愛いかったらなるべく自身を慎しみ給へ。
子としても父としても資格のない自分は(傍点)ひとり(傍点終)で生きるより仕方がない 今月中には一度ゆくつもりだ
荷物はもうついた時分だと思ふが
昭和三年十月一日
 」
宮嶋資夫 1926.6.15 牛込区若松町138 大岡山127 封書 『宮嶋資夫著作集月報5』

 辻潤「『金』を読んで」(書翰)〔原文のまま〕:
「 一昨日と昨日二日で『金』読了。近頃の僕としては一気呵成なり。小説家宮嶋資夫万歳を三唱す。君、意を強ふして可なり。
 実際、小説らしきものをかほどに熱心に読んだことは近来稀れなり。結構の上から見てまったく渾然たり、場面の変化と取り合せ、少しもダレたところにムダがなく引締つてゐる。登場人物はいづれも躍如たり。磯部と鈴子が描くとすれば僕などには一番むづかしいと思はれる。杉中は作者のアイデイアルなればしばらく置く。保阪と云ふ人物が出て来ると私はかならず一種の愉快を感じた。又、一枚屋の老人を読んでゐる中、私が染井にみた時よく電車に一緒に乗り合せた株の話ばかりしてゐるゼイ六のジヤンコツラの赤ら顔の爺さんを聯想した。小説と云へど全体が甚だドラマチツクなればこれは是非とも芝居にしてみたし。勿論、沢正ものなり。的(あた)ることまちがひなし。
 しかし、この小説の価値は人物の描写とか技巧とか云ふやうな(勿論、それがダメなら問題にならず)点ではなく、この作品を一貫して流れてゐる作者の熱情にある。つまり、作者の人道的熱情が一番、貴いと思はれる。この見地から云へばこれば単なる小説、所謂娯楽的読物ではない。作者の強い道義的感情に打たれない人間はこの小説の読者ではない。私は読了して、偶々ギヨウの芸術論を思ひ出した。私はこれを一般的な、所謂、民衆や大衆になるべく多く読ましたいと思ふ。若しかくの如きが大衆文芸と呼ばれるなら、私は大衆文芸に叩頭するであらう。さうしてかう云ふ作品こそ真の意味で大衆文芸にならなければならないと思ふ。
 トルストイとユウゴオを並べて君を考へる時、君はどうもトルストイにより近い気がする。
 もう御相互に迷はずにまつすぐに生きて行きたいものだと思ふ。君は自身をもつて君の道に進むことを希望する。
 私は文学と云ふものがどう云ふものだか、まだ実はサツパリわけがわからない。しかし菊池寛や、中村ブラ夫が一流の文学者であると云ふなら、私は文学者となることをこの上もなく恥辱としたい。
 私は近頃、だから至極簡単に考へてゐる。私は唯だ文字を駆使して、自分を正直に表現してゆくまでだ。それより他に能もなく、他になにもやりたくもない。その結果の如きはどうでもかまわない。好むところを好み、イヤなものをイヤだとしてやはり今迄通り生きてゆくのみだ。アセつたところでなにもならない。自分の欲するところ、唯だ其処にのみ、自分の価値がある。私の書くことが他にどんなに無用で、無意味に思はれても、私はモハヤそれを意としない。   十五日
 いづれまた近い中御目にかかった時、色々と弁じたい。」
「註 この手紙は、大正十五年四月に発行された『金』を、多分著者から筆者に郵送したのに対し、読後感を書き送ったものと思われる。封筒の表は「牛込区若松町一三八 宮嶋資夫様」、裏は「六月十五日 大岡山一二七 辻潤」となっている。なお、表題は編集者が仮に付したものである。」
〈『宮嶋資夫著作集月報5』〉

中野頃保 1931.12.23     手紙 中野頃保「辻潤よ! もう一度会ひたい!!」

あれから風が中々なほらずやつと一昨日始めて外出したやうな訳です、あなたの御親切なるプレゼント感謝の他ありません、楽しみに毎日アチコチ頁をまくつてゐます、Queen's English とでもいふのですかなにしろ一流の人をenjoy 出来ることは自分ながら幸福だと思ひます、小生も「文学」だけはどうしてもやめられませんから書くだけのことは書いて死ぬつもりです。来年は少し仕事が出来さうです。「である」といふ漫読雑誌に「もう・てんとあかん」といふバカな文章四枚書きました、もう(Mots)です、日本語の悪口です、ヨミウリに書いたApologia御読みになりましたか? 「古東多万」の正月号に Cabell の "The Cream of Jest"の中"Epper si mourve" と云ふChapterを訳しました、今年は珍らしく家で年をとるつもりです、たいてい正月中は(松の内)ゐるつもりですから御立寄り下さい。ではいづれ

中野頃保 1931.12.26     ハガキ 中野頃保「辻潤よ! もう一度会ひたい!!」

御忙しいでせう/御挨拶がおくれて申訳ありません、ありがたうございます、〔御〕宅へ手紙を託してあります故〔帰郷〕の節御覧ん下さい

画乱堂先生〔山内直孝〕 1935.11.13 相模小田原緑新道 塩原町 万人風呂気付 ハガキ 『辻潤著作集』別巻 写真

 写真の一番上のハガキ。はっきり判読できないが、消印日付は「10.11.13」のようで、山内直孝の住所は『定本 坂口安吾全集』にあるものなどを踏まえて以上のように、差出人住所は、「塩原町 万人風呂気付」だけ、かろうじて読めるようである。
 当時の新聞などを見ると、「万」ではなく「萬」を使うのが一般的だったようだが、『帝国大学新聞』1932.4.18号の中野頃保「辻潤よ! もう一度会ひたい!!」では「古東多万」と「万」という活字が使われ、『サンデー毎日』1937.7.18発行の樋口十六「狂へるダダイストの精神鑑定」でも、「万」が使われているから、「万」を使うこともあった事が分かる。

 2番目のハガキは「辻潤書簡」114、3番目のハガキは「辻潤書簡」112であるらしい。問題があるようだが、判読は難しい。

山内直孝〔画乱堂〕 1936.12.8頃 小田原町 京都市左京区松ケ崎高等工芸前ワキヤ書房   「てんぼうだい」『読売新聞』1936.12.12号 5面 文芸。

「てんぼうだい」『読売新聞』1936.12.12号:
「大森に寓居をかまへてゐた例の辻潤老はこの六月以来行方不明を伝へられてゐたが九日友人の小田原町画乱堂主人山田(?)直孝君の許へ左のやうな消息を寄せた
◆住所不定のため何も書けなかつた、当分京都にゐることに決めた。六月の初め東京を出て伊勢の津に九月までゐた、それから一ケ月あまり比叡山に。とにかく正月はこちらで祝ふことにした…京都市左京区松ケ崎高等工芸前ワキカ(?)書房気付辻生(小田原発)」

菅野青顔 1937.3       菅野青顔「萬有流転」1974.12.29・1981.1.31・1981.12.12・1987.1.1

「僕の愛読書の 中の一冊を さしあげる 昭和十二年三月 辻潤  青顔君」
 和田垣謙三『兎糞録』を贈る。

風間光作 1944.2.18   千葉県大原町根方若松方水島流吉 封書 寺島珠雄「辻潤、晩年の一断面」

(全文):
「  ――二三日前からこちらに来ている、雪のあとの風が寒いが梅は咲いている、いずこも同じだ
  泪橋の木賃生活よりはまず比較にならぬ清潔さだ またかえりによりたいと思うがこんど君の休日いつなのかしらせてもらいたい、こないだ一寸高村さんに会った……」

 2月10日の手紙では高村光太郎を呼び捨てで批判していたのに、8日後の手紙には敬愛感の継続がある、と寺島珠雄は書き、それで寺島は「矛盾撞着的」と呼ぶ訳だが、私はそんなに矛盾というものを感じない。呼び捨てのことは、松尾季子が身内だからと解釈して構わないだろう。萩原朔太郎の書簡でも、親しい室生犀星に宛てたものでは、北原白秋を北原と書いているものがある(「萩原朔太郎書簡」354)。


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