辻潤の言葉


 まあ適当に……。


 世の中が不景気で大多数の人達が困っているのに、自分がなんにもせずに毎日酒を飲んでアフラアフラしているように思われることはあまり愉快なことではない。しかし、私はそう思われても別段たいして苦にはならない。自分は夙に人生に対して「白旗」を掲げて生きている人間だからである。

 なぜ私が今こんなところに彷徨しているかということはまったく不可解きわまる事実であって、それは恰度、われわれが何故に「地球」というようなへンテコな遊星に生れ合わせたかというと同様にわからないのである。

 私は五十年おふくろとつき合ってみたがまったく女というものはバカでこまるよ。そのバカなおふくろのおなかから生まれた私がどうしてバカでない道理があるものか? ザマア見ろ! てんだ。

 なんしろ字なんか書くって奴はいとも面倒くさいもんであるよ、みんなよくもまあながながとことや細かくつまんねえ屁理屈やつまらん男と女がどうしたとかこうしたとか、すべったとかひっくりかえったとか凡そベラボーでちんぷでなさけなくはては臍茶なもんやないかないか――だがみんな生きとしいけるものはおまんまというものをいただかなければならないのが、実に厄介センバンだよ。これにはシャッポだ。だから私は凡そおかねのない人達がどんなことをしようとやろうとたいていがまんしてむりもないなと考えながら傍かんしているんだ。

 おれはまじめといじめと唐変木とわからずやとおせっかいとインチキとコンチキとモンツキとシルコハットとケーザルヒゲがあまりすかんぴんばれおんとろぢいのあべろくろのろぢいのスカンポみたいな野郎はだいきらいでも向こうが好きなら仕方がないがまんして置くことにきめてるムッシュウ!
 心にもなきことはいいたくなきものかなホトトギス おまえさんちょいとバカにおしでないよと投島田 汐見橋あさもやに生のどよみかな 観音は自在におわす鰻かな かなかなが鳴けば肌えに岩清水の次郎長の大股小股なり平によく似たといわれやにさがり松の葉越の日の出かな ざっとエトセトラ。

 一切の存在は相対的だ。私がいるから、君がいる、君がいるから、あの人がいる。あの人がいるから、雀がいる、雀がいるから、猫が啼く、猫がいるから、芸者が啼く、……以下省略。
 虚無主義者といい、ニヒリストといい、ダダイステンといい、ボルシェビストといい、なにといい、かにというもその例外ではない。
 そこでー切の存在は合理的だとくる。しかし合理的だといえれば、又非合理的だともいえるのだ。凡そ議論にして水掛けならざるものは一つだってあるまい。
 コレラ菌、ペスト、ジフィリス、レプロシイ、メクラ、ケッカク、高利カシ、ヤリテ婆さん、オカッピキ、ゲジゲジ、ヤモリ、蝸虫、ヒル、ヒゼン……みんな合理的存在だ。
 人間は物を考えると忽ち灰色の壁に突き当ってしまう。生きたいと思えば又元へ逆戻らなければならない。
 人生は牢獄のようなものだ。暗中模索だ。あっちヘヨロケ、こっちへヨロケてなんとはなしに動めいているうちにクタバってしまうのだ。

 私は今の世の中にはほとほとアイソがつきているのだ。癪にさわったり、怒ったり、悲しんだりすることは、とうの昔に通りこして唯だ唯だ呆れ返っているばかりだ。顔を歪めて笑っているだけだ。私は絶望の亡者のように白っぱくれて生きている。感情はひと滴らしもないように、ヒモノのように、ミイラのように……

 生まれて生きている「自分」というものは、誰か見知らぬ人間によって投げられた毬のようなものだ。運動の法則によってある定められた時間の間動き続けているに過ぎない。つまり惰性によって動いているのである。
 このような比喩は別段珍しくも、新しくもなく今まで恐らく無数の人間によって考えられ、いわれて来たことに相違ない。そうして自分も亦そんな風に考えてみるのである。
 「自分」をこの地上に転々させている「誰か」が神であっても悪魔であっても孰れにしてもかまわない。どっちにしても「自分」には別案はなく、またどっちにも考えられるのである。それに「神」や「悪魔」の内容に至っては始んど無限に豊富で、人間の数と同じ位それは色々に考えられるのである。

 U"ber mensch (超人)という言葉の反対に Unter mensch (低人)という言葉がある。僕などは自分では一種の「低人」だと思っている。つまり、人間になれない人間なのだ。しかし、一人前に生まれて来なかったのは僕自身のセイではない。生まれたからには半人前だろうと四半人前だろうと生存すべき権利がある。僕はウンタアメンツュの権利を主張しようと思う。老幼や弱者がいつでも虐げられなければならないというようなそんな不法な社会は是認する必要はない。勲章などを欲しがる阿呆共よりは、いくら低人でも、僕等の方が遥に優秀だと信じている。

 人間が地上に現われてから凡そどの位の時間が経過しているものやら知らぬが、勿論かなり長い年月を経ているということだけはたしかだ。そうして現在では人間がかなり進歩したとか、文明だとか文化したとかいわれているが、大多数の人間が現にその日のパンを獲るために馬鹿気た努力をしているのを見ただけでも自分は呆然たらざるを得ない。努力はいいとして、なおかつ飢餓に脅かされている人間が頻々と到る所に群生しているのを見ても、自分は人間の生活を文明だなどといって謳歌することは出来ない。寧ろ他の生物の生活を羨望こそすれ、自分が人間として生まれたことに特別の誇りを感じることは出来ない。人間の生活をこのよま素直に肯定することは出来ない。電車などに乗って多くの人達の顔を見ただけでも、自分は生きているのが耐まらなく不快になることがある。そうして、自分のからだにもかれ等と同じような血が流れているのかと考えると自分が恐ろしく厭しくなる。尤もそんな時はたいてい自分がシラフでいる時なのである。
 この世に生きていることに価値を見出している人間、なにか夢中になっていられる人間――そういう人達の数が大半を占めているというなら、人間もそうまで不幸ではないかも知れぬ。しかしそうでないとすれば全体、人間はいつまでかくの如き愚かしい生活を続けてゆくつもりなのであろう!

 実際、自分はこれまでも文筆によって自分ひとりをさえ支えてゆく自信の待ち合わせはなかった。いや文章に限らず、凡そこの世の中の仕事の如何なる種類を問わず自分が満足に出来るようなことは見渡す限り一ツだってありそうにも思われなかった。しかし、とにかくなんとかして生きてゆかなくてはならない。しかもそれが自分だけじゃないのだから愈々もってやりきれなかった。最初からムリなのだ。だから普通の社会人から見たら凡そ変態的な生活態度を持続して今日までなんとかかんとかゴマ化して来たわけだが、結局、気が狂って病院へ入るような結果に到達した。僕の気の狂ったのは不思議でもないというのが多くの諸友の観察らしい、中には、「辻潤」は初めから「気狂い」だという人もいる。ただ度合の問題で、今更らしく僕を気狂いにするのも可笑しなものだと考えているような人もいるらしい。


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